国家の起源と安定性についての所見

Hans-Hermann Hoppe, Reflections on the Origin and the Stability of the State, http://archive.lewrockwell.com/hoppe/hoppe18.html

[この論文は財産と自由協会“Property and Freedom Society”でトルコのボドルムで2008年5月22日に開かれた第二十二回年次会合ではじめに提出された。]

国家の定義から始めさせてほしい。エージェントが国家としての資格を得るためには何ができなければならないか? このエージェントは所与の領土の居住者間のあらゆる紛争が究極的意思決定のため彼の元に持ち込まれるよう主張できるか、彼の最終審理の支配下にあるよう主張できるに違いない。わけても、このエージェントは彼自身が関わるすべての紛争が彼や彼の代理人に裁定されるものと主張できるに違いない。そして、究極的な裁判者として行為することから他人全員を排除する権力に含意されるものとして、国家の第二の定義的特徴はそのエージェントの課税する権力であり、つまり正義を求めるものが彼のサービスに支払うべき価格を究極的に決定する権力である。

この国家の定義に基づくと、なぜ国家を支配する欲求が存在するのかを理解するのは容易い。所与の領土内での最終仲裁の独占者は誰であれ法を作れるからだ。そして立法できる彼はまた課税もできるからだ。たしかにこれは妬ましい立場である。

理解するのがもっと難しいのは、人が国家をいかに支配しおおせるのかである。なぜ他の人々はそんな制度に我慢するんだ?

私はこの質問への直接的な回答に取り組みたい。あなたとあなたの友達がそのような突飛な制度を支配することになったとしよう。(あなたにはどんな道徳的な良心の咎めもなかったとして、)何があなたの立場を維持するのだろうか? あなたは確実に、幾人かの暴漢を雇うためにあなたの税所得を使うだろう。まずは、あなたの服従者が生産的であり続けることで、将来課税するものが存在するように、彼らの間に平和を作るためにこれらの暴漢を使うだろう。しかしもっと重要なことには、人々が教条的なまどろみから覚めてあなたに抗議するはずなので、あなた自身の保護のためにこれらの暴漢が必要かもしれないからだ。

とりわけ、あなたとあなたの友達が服従者の数に比べて小さな少数派であるときにそうするだろう。少数派は多数派を単なる粗暴な暴力だけでは永いこと支配することができないからだ。意見で支配しなければならない。人口の多数派があなたの支配を自発的に受け入れなければならない。これはしかし、多数派があなたの法令のすべてに同意しなければならない、ということではない。実際、あなたの政策の多くは間違っていると適切にも信じられてしまうかもしれない。しかし、特定の政策が間違っているかもしれないとしても、そのような国家の制度の合法性を信じることで、そのような失敗は人が寛容にならなければならない事故なのだと信じるに違いない。

しかし、人はいかにして人口の多数派にこれを信じるよう説得するのか? 答えは、知識人の助けによってのみである。

どうやってあなたのために働く知識人を手に入れるのか? これに答えるのは簡単だ。知的サービスへの市場需要は正確に高くも安定的でもない。知識人は大衆の浮ついた価値観のなすがままであり、そして大衆は知的・哲学的な関心事に興味がない。他方で、国家は知識人の典型的に膨らみすぎたエゴを用立ててやり、その装置内のぬるくて安全な永遠の就職口を彼らに申し込む。

しかしあなたが幾人かの知識人を雇うだけでは十分ではない。彼らの全員を雇うことが欠かせない。あなたが最初に考慮した、哲学、社会科学、人文科学から遠く離れた領域で働く人々さえもだ。たとえば数学や自然科学で働く知識人さえも、明らかに彼ら自身で考えることができ、そして潜在的な危険になりうるからだ。したがってあなたも彼らの国家への忠誠を保障することが重要である。別の言い方をすれば、あなたは独占者になるべきだ。そしてこれは、教育的制度が幼稚園から大学まで国家の支配下に持ち込まれ、人々へのあらゆる授業と研究が国家に保証されるときにもっともよく達成される。

しかし人々が教育を受けたがっていなかったら? このため、教育は強制的になり、そして人々をできるかぎり国家に統制された教育の支配下に置くために、誰もが平等に教養的であると宣言されなければならない。知識人はそのような平等主義が間違っているともちろん知っている。しかし、十分な教育的配慮が大衆を満足させさえすれば、それで、知的サービスへのほとんど無制限な需要に提供しさせすれば誰もが潜在的なアインシュタインである、というようなナンセンスを宣告しなければならない。

これらの保証のどれも、もちろん、国家主義者の考えを矯正しない。しかしもしも国家がなかったら、疎外、公正、詐欺、ジェンダーと性役割の、あるいはエスキモーやホピやズールーの文化の脱構築という執拗な問題に関与する代わりに、ガスポンプ操作の機械学に筆を染めることを余儀なくされるのではないかと人が気づくならば、それは正しい結論に達するのを確実に助ける。

どんな場合でも、たとえあなたに、すなわち特定の国家管理者にその知識人が過小評価されたように感じるとしても、他の国家管理者からしか援助が来ず、そのような国家の制度を知的強襲しても援助が来ないことを彼らは知っている。したがって、実際のところ、保守主義的またはいわゆる自由市場知識人も含めた当代知識人の圧倒的多数派が根本的かつ哲学的に国家主義者であるのはほとんど驚くようなことではない。

知識人の仕事は国家に買収されてきたのか? 私はそう思う。もしも国家の制度が必要かを尋ねたら、99パーセントの人々がためらいなく「はい」と言うだろう、ということは誇張にはならないと思う。しかしこの成功はぐらついた基礎に乗っており、国家主義的大建造の全体は知識人が知的反知識人(と私が呼ぶ人々)の仕事で反撃されるだけで打ち倒されることができる。

国家支持者の圧倒的な多数派は哲学的国家主義者ではない。すなわち、彼らは問題を考えてはこなかった。ほとんどの人々は何事も哲学的に十分には考えない。彼らは日々の生活にせっせと取り組んでおり、それで終わりだ。それで、国家は存在するし、覚えているかぎり常に存在してきた、(そしてそれは典型的には彼自身の生涯からかけ離れていない、)という単なる事実から、国家への支持のほとんどが生じている。すなわち、国家主義的知識人の偉大な達成は、彼らが大衆の自然な知的怠惰(または無能)を培養してきて、決して服従者が真剣な討論に近づくことを許さなかったことである。国家は社会的虚構の疑いなき部分としてみなされる。

知的反知識人の最初かつ主要の仕事は、私がはじめにやったように、国家の正確な定義を提供することで大衆の教条的なまどろみに反撃することであり、それから、まことに異常で奇妙で不便で滑稽な実際ばかばかしいこの制度のような何かがもしも存在しなかったらを尋ねることである。そのような単純な定義的仕事が、かつては当然のこととみなされていた制度にいくつかの深刻な疑惑を生み出すと私は確信している。

さらには、わりと洗練されていない(しかるにもっと大衆的な)国家賛成の議論からもっと洗練されたものに進むと、知識人が国家に賛成する議論にとにかく必要だと思ってきたものの中でもっとも通俗的な議論は、すでに幼稚園時代に出くわしていたが、このように流れる:国家のいくつかの活動が指摘される。国家は道路、幼稚園、学校を建設し、郵便を配達し、警察を道路に配置する。想像してみろ、国家がないところを。そのとき我々はこれらの財を得られないだろう。ゆえに国家は必要である、と。

大学レベルでは同じ議論のもうちょっとだけ洗練されたバージョンが提示される。それはこのように進む:たしかに、市場は多くのあるいはほとんどの物を提供するにあたって最善である。しかし市場が提供できないか、または不十分な量や質でしか提供できない財が存在する。これらのいわゆる公共財とは、生産されたものに実際に支払う人々を超えたところの、支払わない人々に利益を授ける財である。そのような財の間で第一位に格付けされるものは教育と研究である。教育と研究はたとえば極端に価値ある財であると論じられる。それらはしかしただ乗りのせいで過少生産されるだろう、すなわち、いわゆる近隣効果で教育や研究に支払うことなく利益を得るずるいやつのせいで。したがって、国家はさもなくば不生産か過少生産をされる教育や研究のような(公共)財を提供するために必要である、と。

これらの国家主義的議論は三つの根本的な洞察の組み合わせで反論されうる。第一に幼稚園レベルの議論として、国家が道路や学校を提供しているという事実から、ただ国家だけがそのような財を提供できるということにはならない。これが誤謬であると人々が認識することはほとんど難しくない。猿がバイクに乗れるという事実からは、ただ猿だけがバイクに乗れるということにはならない。第二にただちに続いてくることとして、国家は立法でき課税できる制度であると思い出すべきであり、ゆえに国家エージェントは効率的に生産するインセンティブをほとんどもたない。国家の道路と学校はもっと高費用になり、その質は低くなるにすぎないだろう。なぜならば、彼らがすることは何であれ実際にはできるかぎり働かないことであり、多くの資源をできるかぎり使い尽くす傾向性が国家エージェントにはつねに存在するからだ。

第三にもっと洗練された国家主義的議論として、幼稚園レベルですでに出くわしたものと同じ誤謬に関わる。たとえ議論の残りの部分を認めたとしても、国家が公共財を提供するという事実から国家だけがそれをできる結論することはなおも誤謬であるからだ。

しかしもっと重要なこととして、国家主義的議論の全体が人間生活のもっとも根本的な事実についての完全な無知を示しているということを指摘されなければならない。その事実は稀少性だ。まことに、市場はすべての望ましい財を提供しはしないだろう。我々がエデンの園に住まないかぎり、つねに満足されない欲求があるだろう。しかし、そのような生産されない財を存在させるためには稀少資源が支出されなければならず、その結果、もはや他の同様に望ましいものを生産することはできない。公共財が私的財の隣に存在するか否かはこれに関する問題ではなく、問題は稀少性が変わらないまま残ることであり、もっと多くの公共財はもっと少ない私的財の代価でしかもたらされない。しかし論証される必要があるのは、或る財が他の価値ある財よりもっと重要なのかである。これが節約(経済化)で意味されるものである。しかし国家は稀少資源を節約できるのか? これこそ答えてもらわなければならない問題だ。事実として、国家は節約しないし節約できないという決定的な証明が存在する。国家は何を生産するにも課税(または立法)に頼らなければならないが、それこそその服従者は国家が生産するものを欲せずむしろ代わりに他のもっと重要なものを選好する、ということを反論の余地なく論証するからだ。国家は節約するのではなくむしろ再分配しかできない。国家は、国家が望むものをもっと多く生産できるけれど、人々が望むものはもっと少なくしか生産できず、何であれ国家が生産するものは非効率的に生産される。

最後に、国家に賛成するもっとも洗練された議論が手短に調査されなければならない。ホッブズ以降、この議論が終わりなく繰り返されてきた。それはこのようなものだ。国家設立以前の自然状態には永続的な紛争が行き渡る。万人が万物に権利を請求でき、これは果てしない戦争に帰着するだろう。この窮地を同意で抜け出すことはできない。誰が同意を強制するんだ? 有利な状況が現れれば一方または両方の当事者はいつでも同意を破るだろう。したがって、人々は望ましい平和のために一つの解決法があることを認識する。同意による国家の設立、すなわち、究極的な裁判者と強制者としての独立的な第三者だ、と。

しかし、このテーゼが正しく、同意が彼らを拘束するために外的な強制者を必要とするとしても、同意による国家は決して存在することができない。ちょうどその同意を強制するためには、他の外的強制者が、先の国家がすでに存在していなければならないだろう。そしてこの国家が存在するためにはまた他のもっと前の国家が仮定されなければならず、そしてそうやって無限に後退する。

他方では、もしも我々が国家の存在(およびもちろん国家のすること)を受け入れるとしても、そのときまさにこの事実がホッブズ的ストーリーに矛盾する。国家そのものはどんな外的強制者もなしで存在するようになる。思うに、断言された同意の時点で、先立つ国家は存在しなかった。さらに、同意での国家がいったん存在してからも、結果として生じる社会秩序は依然として自己強制的なもののままである。たしかに、AとBがいま何かに同意したとしても、彼らの同意は外的当事者によって拘束される。しかし国家自体がどんな外部の強制者にもそのように拘束されてはいない。国家エージェントと国家服従者の間の紛争に関するかぎり、そこには外的第三者は存在しない。そして同様に、異なる国家エージェントやエージェンシーの間の紛争にも外的第三者は存在しない。国家対市民か一方の国家対他方の国家によって結ばれる同意に関するかぎり、そのような同意はただの国家の自己拘束でありうるにすぎない。国家はそれ自体が自己受容し強制する規則、つまり、自分に課する制約のほかには何事にも拘束されない。国家を拘束するもっと高位の国家は存在しないから、いわば、国家は自分に対して依然として自治と強制に特徴付けられる自然な無政府状態にある。

さらに、もしも相互に同意された支配の強制が幾人かの独立した第三者を要求するというホッブズ的観念を受け入れたとして、これは実際のところ国家の設立を除外してしまう。事実、それは国家の制度に反対する結論的議論を構成する。すなわち、究極的な意思決定と仲裁の独占者は、すなわち国家は、反対されるのだ。私(私的市民)と国家エージェントの間の紛争のあらゆる訴訟に判決を下す独立した第三者がまた存在しなければならないし、同様に独立した第三者も国家間紛争のすべての訴訟のために存在しなければならない。(そして多様な第三者間の紛争のために他の独立した第三者が存在しなければならない。)しかしこれが意味するのはもちろん、そのような国家は(またはどんな独立した第三者も)私がはじめに定義した国家ではなくて、たくさんいる自由に競争する紛争仲裁第三者のうちの単なる一人にすぎないということだ。

結論させてほしい。国家への知的反対は簡単で単純であるように思われる。とはいえ、これはそれが実践的に容易いことを意味しない。実際、国家は私が示した理由のために必要な制度であると、ほとんど誰もが納得している。それで、純粋に理論的、知的なレベルで思われるほど容易く国家主義に反対する戦いが勝利できるかは非常に疑わしい。しかし、それが不可能であることが分かったとしても、少なくとも国家主義的な敵の出費で楽しむことにしよう。そして私は、あなたが常に持続的に次の謎を彼らにぶつけるよう提案する:紛争の可能性に気づいた人々の集団を想像せよ。そして誰かが、この永遠の人間的問題の解決策として彼(誰か)がどんな紛争の訴訟でも、彼自身が関わる紛争も含めてどんな訴訟でも究極的な仲裁者になる、と提案したとしよう。彼は冗談を言っているか心的に不安定なのだろうとみなされようが、しかしこれこそ正確にあらゆる国家主義者が提案していることである、と私は確信している。

(出典: archive.lewrockwell.com)

ハンス=ハーマン・ホップ