私的防衛生産

〔訳注:誤訳と悪文をいくつか除いたものがアマゾンで電子出版されております。キンドルやアイフォン、Windows PCなどの電子端末で閲覧できますので、よろしければご利用ください。〕

Hans-Hermann Hoppe, The Private Production of Defense, http://mises.org/document/1221/The-Private-Production-of-Defense

原題:私的防衛生産

原著:ハンス=ハーマン・ホップ

『私的防衛生産』はルートヴィヒ・フォン・ミーゼス研究所に出版された『政治経済についてのエッセー』シリーズ“the Essays in Political Economy”で1998年にはじめて発表された。

目次

  1. 防衛の私的生産
  2. 経験的証拠
  3. 国家主義者の反応についての考え方
  4. 私的安全の弁護
  5. 侵害保険についてさらに
  6. 政治的国境と保険
  7. 民主主義国家と総力戦
  8. 保険とインセンティブ
  9. 国家の侵害に保険をかける
  10. 自衛権を取り戻す
  11. 参照

私的防衛生産

我々の時代でもっとも人気のある重大な信念は集団的安全保障の信念である。近代国家の正統性が頼る信念にこれより卓越したものはない。私は、集団的安全保障の観念が近代国家を正当化しない神話であり、そしてすべての安全が私的でありかつ私的であるべきだと論証するつもりである。

しかし結論に達する前にまずあの問題から始めよう。初めに集団的安全保障神話についてのツー・ステップの再構成を提示し、そして各ステップでいくつかの理論的関心事を提起する。

集団的安全はホッブズ的神話と呼ぶこともできる。トマス・ホッブズおよび彼の後の無数の政治哲学者と経済学者は自然状態では人々が互いの喉元に食らいつくと論じた。人は人に対して狼である。現代的な用語で述べると、自然状態では安全の永久的な過少生産が優勢になる。各個人には自分自身の道具と食料が残り、彼らは自分の防衛にはほとんど支払わず、それゆえ永久的な個人間戦争状態が引き起こされる。この耐え難いように思われる状態の解決策は、ホッブズとその追従者によれば、国家の制度だ。二人の個人AとBは自分たちの間に平和的協調を制定するために、第三の独立的な当事者Sを究極的な裁判官・調停者として要求する。しかし、この第三者Sはただの他の個人ではないし、Sが提供する財の安全はただの他の「私的」財ではない。むしろ、Sは主権者“a sovereign”であり、そのような者としての二つの独特な権力をもっている。一方では、Sは彼の服従者“subjects”のAとBに対してS以外に保護を求めないよう強く要求できる。つまり、Sは保護の強制的領土的独占者である。他方では、SはAとBがいくら支払わなければならないかを究極的に決定できる。つまり、Sは「集団的に」安全を提供するために課税する権力をもつ。

この議論に加わる際に、ホッブズのテーゼはいわずもがな人がもっぱら攻撃本能のみに突き動かされているということを意味できはしないと注意するのを除けば、人がホッブズの仮定のように悪い狼であるか否かで口論するのはほとんど無駄である。もしもそうだったら人類は遠い昔に滅んでいただろう。人が絶滅しなかったという事実は人が理性をもち自然な衝動を押さえ込めると証明する。口論の種はホッブズの解決案だけだ。合理的な動物としての人間の本性を所与としたら、不安全“insecurity”の問題に対して提案されたこの解決案は改善になるのか? 国家制度は侵害的な行動を減らし、平和的な強調を促し、かくてもっと良い私的安全と保護を提供するのか? ホッブズの議論の難点は明らかだ。一つには、人々がいかに悪いかに関わらず、Sも――王、独裁者、選挙で勝った大統領も――また一人の人である。人の本性は人がSになることで変わったりしない。なのに、SがAとBに保護を提供するためAとBに課税しなければならないならば、もっと良い保護がどうしてありえるんだ? 財産没収をする財産保護者というまさにこのSの構造のうちに矛盾がないか? 実際、これはまさに――しかももっと適切に――ミカジメ“a protection racket”とも呼ばれるものではないのか? たしかにSはAとBを仲裁するだろうが、それで今度は彼自身が両者からもっと有利に奪えるようになるだけだ。たしかにSはもっと良く保護されるが、しかし彼がもっと保護されるほどAとBはSによる攻撃からいよいよ保護されなくなる。集団的安全は私的安全より良くないと思われるだろう。むしろそれは、没収をとおして、つまり服従者の経済的無防備をとおして達成された国家Sの私的安全である。さらには、トマス・ホッブズからジェイムズ・ブキャナンまでの国家主義者は保護国家Sがある種の「立憲的」契約の結果として起こると論じた。[1]そのうえ、庇護者が保護に支払わなければならない金額を保護者が一方的に――そして取消不可能に――決定する許可の契約に、正気の者なら同意するだろう、と。事実は、決して誰も同意していない![2]

ここで私の議論を中断し、ホッブズ的な神話を再構成させてほしい。ひとたびAとBの平和的な協調を設立するために国家Sが必要であると仮定したら、二重の結論が導かれる。もしも二つ以上の国家S1、S2、S3が存在したら、ちょうどSがいなければAとBが平和でいられなかったように、S1とS2とS3が互いの間に自然状態(すなわち無政府の状態)を残すかぎり平和はありえない。したがって、普遍的な平和を達成するために、政治的な集中、統一、そして究極的には単一世界政府の設立が必要になる。

この議論にコメントしておくことで、議論の必要のないことが何であるかを示すのはまず役に立つだろう。初めに、ある程度はこの議論も正しい。前提が正しいならば、繰り出される帰結がついてくる。おまけに、ホッブズ的な説明に関わる経験的な仮定は一見したところ事実に支持されているように思われる。国家が絶えず互いに戦争しているのは真であり、政治的な集中とグローバルな支配へ向かう歴史的な傾向は実際に起こっているように見える。口論は、この事実と傾向を説明することと、および単一統一世界政府を私的安全と保護の提供の改善に分類することだけに起こる。第一に、ホッブズ的な議論では説明できない経験的な例外があるように見える。ホッブズによれば、S1とS2とS3の間の交戦の理由は彼らが互いに無政府の状態にあることだ。しかし、単一世界政府に至る前は、互いに無政府状態のS1とS2とS3だけでなく、或る国家のすべての服従者があらゆる他の国家のすべての服従者に対して無政府状態である。したがって、いろいろな国家の間に存在するのとちょうど同じぐらい多くの戦争と侵害が、異なる国家の民間人の間にも存在しなければならない。しかし経験的にはそうではない。外国人との私的な交際は国家間の交際よりも著しく非好戦的である。これは驚くべきことだとは思われない。結局のところ国家エージェントSはその服従者とは対照的に外交問題の処理のため国内課税に頼ることができるのだ。初めに表明されたことだけれども、人間の本性的な攻撃性を所与とすると、もしもSが外国人への攻撃的な行いの費用を他人に外部化できるならば、Sが外国人へのそのような行いに際して図太く攻撃的であろうことは明らかではないか? もしも他人に支払わせることができるならば、たしかに私はもっと大きなリスクを冒して挑発と侵害に従事するのが本意である。そしてたしかに或る国家――或るミカジメ――は、その領土的保護独占を他の国家と暴漢の支払いで拡大しようとし、それゆえ国際的競争の究極的結果として世界政府をもたらす傾向がある。[3]だが私的安全と保護の提供がどう改善したのか? 実情は正反対であるようだ。世界国家はすべてのミカジメ戦争に勝ち残った最終勝者である。これは一段と危うくないか? どんな単一世界政府の物理的権力も、個人的服従者と比較すると、圧倒的にならないか?

[1] ジェイムズ・M・ブキャナンとゴードン・タロック『合意の計算』と;ジェイムズ・M・ブキャナン『自由の限界』を;批判のために、マレー・N・ロスバード『ブキャナンとタロックの合意の計算』と;『行為の論理』“The Logic of Action”第二巻「適用とオーストリア学派からの批判」と;『中立課税の神話』と;ハンス=ハーマン・ホップ『私有財産の経済学と倫理学』第一章を見よ。

[2] 特にこの点については、ライサンダー・スプーナー『反逆にあらず:権威なき憲法』“No treason: The Constitution of No Authority”を見よ。

[3] ハンス=ハーマン・ホップ『古典的リベラリズムの困難』“The Trouble With Classical Liberalism”を見よ。

経験的証拠

手元の問題に関係する経験的な証拠を手短に観察するために抽象的な理論的考察をここで休ませてほしい。初めに注意したように、集団的安全はそれが重大であるのと同じぐらい普及している。私はこの問題についてのどんな調査も知らないが、あえてホッブズ的神話が多かれ少なかれ成人人口の90%以上に疑いなく受け入れられていると言い切ろう。しかし、何かを信じることはそれを真にしない。むしろ、人の信じていることが偽であるならば、彼の行為は失敗する。証拠はどうだ? 証拠はホッブズとその追従者を支持するのか、それとも反対側の無政府主義者の物怖じと物言いを間違いのないものと確証するのか。

アメリカ合衆国はホッブズ流の保護国家として明示的に設立された。この結果についてジェファーソンの独立宣言から引用をしよう。

我らは以下の諸事実を自明なものと見なす.すべての人間は平等につくられている.創造主によって,生存,自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている.これらの権利を確実なものとするために,人は政府という機関をもつ.その正当な権力は被統治者の同意に基づいている.[i]

ここにそれがある。アメリカ政府は一つのかつただ一つだけの仕事を遂行するために設立された:生命と財産の保護を、だ。かくてアメリカ政府は保護者としての国家の状態についてのホッブズ的な主張の妥当性を判断するための完全な実例を提供する。二世紀以上の保護国家主義の後で、我々の保護と平和的協調の状態はどうだ? アメリカの保護国家主義の実験は成功だったか?

国家の支配者とその(かつてよりはるかに多くいる)知的ボディガードいわく、我々はかつてよりもっと良く保護され、もっと安全である。想像の上では、我々は地球の温暖化と寒冷化から保護され、動植物の絶滅から保護され、夫の、妻の、親の、雇用主の虐待から保護され、貧困、病気、災害、無知、偏見、人種差別、性差別、同性愛嫌悪、そして無数の他の公共の敵と危険“danger”から保護されている。しかしながら、実際の事情は著しく異なる。これらのすべての保護を提供するために国家管理人は私的生産者から年年歳歳40%の所得を没収する。政府債務と負債は絶えまなく増大してきて、かくて将来の没収の必要が増大してゆく。金を政府紙幣に置換したせいで財政不安定が激しく増加し、平価切下げをとおして恒常的に強奪されている。私的な生存、財産、取引、契約のすべての詳細はかつてないほど大量の法律(立法)の山により規制されており、それにより永久の法的不安定と道徳的ハザードが生み出されている。とりわけ私有財産権の概念でまさに含意される権利であるところの排除の権利を徐々に剥ぎ取られてきた。我々は売り手として誰であれ望む相手に売ることができず、買い手として誰であれ望む相手から買うことができない。そして我々は結社のメンバーとして、何であれお互いに有益だと思われるどんな土地使用制限約款に加わることも許されない。我々はアメリカ人として、隣人に欲しくない移民を受け入れなければならない。我々は教師として、怠惰で無作法な生徒を除くことが許されない。我々は雇用者として、無能や有害な従業員に困らせられる。我々は主人として、悪い入居者をうまくあしらいもてなすよう強いられている。銀行家や保険業者として、悪いリスクを避けることが許されない。レストランやバーのオーナーとして、歓迎されない客を収容しなければならない。我々は私的結社のメンバーとして、我々自身の規則や規制に違反するような個人や行為を受け入れるよう強要される。要するに、国家が社会保障と公共安全への支出を増やすほど、ますます我々の私有財産の権利は侵食され、収奪され、徴発され、破壊され、減価され、あらゆる保護のほかならぬ基盤が、つまり経済的独立と財務力および個人的な富がますます奪われてきた。[4]すべての大統領とほぼすべての議員が、個人の経済的破滅を、財政的破綻を、貧困化、絶望、困難と欲求不満の、数百万もとは言わないが、数十万もの名もなき犠牲者を散らしてきた。

外務を考えるとき事態は余計に寒々している。北アメリカ大陸の合衆国はその全歴史の間中決してどんな外国軍にも領土的に攻撃されはしなかった。(真珠湾はアメリカ合衆国の先行的な挑発の結果だった。)さらに、合衆国には、それ自体の住民の大部分に戦争を宣言し、それ自体の市民への数百や数千の理不尽な殺人に従事する政府があったという違いがある。そのうえ、アメリカ市民と外国人の間の関係は異常に論争的であるようにこそ思われはしないものの、合衆国政府はまさしくその始まりからほとんど容赦ない侵略的な拡張主義を追及した。合衆国政府は、スペイン=アメリカ戦争から始め、第一次世界大戦と第二次世界大戦で最高潮に達し、そして現在まで続けることで、数百の外国の紛争に巻き込まれてきたし、世界の支配的な帝国主義的権力の身分にのし上がってきた。かくて今世紀の変わり目からほぼすべての大統領は全世界中の無数の無実の外国人の殺害と殺害と飢餓にも責任がある。要するに、我々はますます無力で、貧困化し、脅迫され、不安全になってくる一方で、アメリカ政府はかつてないほど図太く攻撃的になってきた。国家安全保障の名の下に、侵害の兵器と大量破壊の膨大な備蓄を装備し、とにかく合衆国の領土の外側の至るところ・あらゆるところで新たな「ヒトラー」や大物・小物のヒトラーのシンパなる容疑者を虐め倒すことで、我々を防衛する。[5]

かくて経験的な証拠は明白なようだ。保護国家の信念は明らかな考え違いであり、アメリカの保護国家主義の実験は完全な失敗であるように見える。アメリカ政府は我々を保護しない。逆に、我々の生命、財産、繁栄にとってアメリカ政府よりも大きい危険は存在せず、そして特にアメリカ大統領は世界最大の脅威であり、かつ武装した危険であって、反対者を破滅させ、全世界を破壊する能力をもつ。

[4] ハンス=ハーマン・ホップ『右派はどこがうまくいっていないのか』“Where The Right Goes Wrong”を見よ。

[5] ジョン・デンソン編『戦争の費用』“The Costs of War”を見よ。

[i] http://www.h4.dion.ne.jp/~room4me/america/declar.htmから引用。

国家主義者の反応についての考え方

国家主義者が反応するさまはおよそ社会主義者がソビエト連邦とその衛星国の陰鬱な経済的パフォーマンスに直面するときのようだ。彼らにはその失望的な事実を否定する必要性はないのだが、彼らはこれらの事実が「現実」の国家主義と「理想」や「真」の国家主義の間の、そして「現実」のと「理想」や「真」の社会主義の間のシステマチックな食い違い(逸脱)であると主張することで言いくるめようとする。社会主義者が今日まで主張してきていることは、「真」の社会主義はいまだ経験的な証拠で反論されておらず、かりにスターリンの社会主義ではなくむしろトロツキーやバクーニンの、もしくはもっとよい彼らの独自ブランドの社会主義が実行されていさえすれば、すべては良いように覆っていただろうし、比類なき繁栄がもたらされていただろう、ということだ。同様に、国家主義者はすべての見たところ矛盾した証拠をただの偶然として解釈する。かりに歴史のあの場面やこの場面で誰か他の大統領が政権を握っていさえすれば、あるいはあれやこれやの憲法上の変化や修正が適用されていさえすれば、すべては美しく覆っていただろうし、そして比類なき安全と平和がもたらされていただろう、と。実際、もし彼ら自身の政策が用いられれば、これは依然として将来起こりうるのだ、と。

我々は社会主義者の逃げ口上(免責)戦略にどう応答すべきかをルートヴィヒ・フォン・ミーゼスに学んでいる。[6]社会主義を定義する特徴――本質――が、すなわち生産手段の私有財産権の欠如が依然として機能しているかぎり、改革はなんの役にも立たない。社会主義経済の見解は形容矛盾であり、社会主義を社会的生産のもっと高水準で効率的な方式だとする主張は不条理である。分業に基づく交換経済の枠組みで無駄なく効率的に自分の目的を達するためには人が貨幣計算(費用会計)に従事する必要がある。原始的で自足的な単一の家計経済の外ではどこであれ貨幣計算が合理的で効率的な行為の唯一の道具である。人は共通の交換媒体(貨幣)で所得と支出を比較できるだけで彼の行為が成功であるか否かを決定できる。はっきりと対照的に、社会主義は少しも経済がなく節約がないことを意味する。なぜならこれらの条件の下では貨幣計算と費用会計は定義ゆえ不可能だからだ。もしも生産要素の私有財産権が存在しなければ生産要素のどんな価格も存在しないから、ゆえに生産要素が経済的に利用されているかどうかを決定することは不可能である。したがって、社会主義はもっと高い生産方式ではなく、むしろ経済的なカオスと原始主義への後退である。

国家主義者の逃げ口上戦略にどう応答すべきかはマレー・N・ロスバードに説明されている。[7] しかしロスバードの教訓はその同等に単純かつ明快でありながらなお重大でさえある含意にもかかわらず今日まであまりにも過少にしか知られずに評価されるにとどまっている。彼が説明するには、国家の定義的特徴――本質――が依然として機能しているかぎり個人のレベルであれ政体のレベルであれ改革はなんの役にも立たない。政府の原理――司法の独占と課税の権力――を所与とすると、その権力を制限し個人の生命と財産を保護するというどんな概念も幻覚である。独占保護の下では正義と保護の価格が上昇し、品質が下降するに相違ない。税資金の保護エージェンシーとは言葉の矛盾であり、ますます多い税と少ない保護を引き起こすだろう。(すべての保護国家がそうすると仮定されるように)政府がその活動をもっぱらすでに存在する財産権の保護のみに制限してさえ、どれだけ安全を提供すべきかについてのさらなる質問が上がる。政府の答えは、(他の皆と同じように)利己心と労働の不効用に動機付けられ、しかし税への無比の権力をもって、一定不変に同じである。保護支出を最大化べし――考えられるかぎりでは国富のほぼすべてを消費できる――、そして同時に保護生産を最小化するべし、と。さらに、司法独占は正義と保護の品質の劣化を引き起こすに違いない。もしも人が正義と保護をただ政府にしか訴えられないならば、正義と保護はやはり政府や政体や最高裁の利益にもとづいて捻じ曲げられるだろう。結局のところ政体や最高裁判所は国家の政体や国家の最高裁判所なのであり、政府行為の制限はなんであれ考慮中のちょうどその制度のエージェントに決定される。したがって、財産権の定義と保護は継続的に変更されるだろうし、管轄の範囲は政府に有利に拡大する。

ゆえに、ロスバードが指摘するには、ちょうど社会主義は改革できず、むしろ繁栄を達成するためには廃止すべきだと帰結するように、国家の制度は改革できないし、むしろ正義と保護を達成するために廃止すべきである。ロスバードが結論するには、「(警察の保護と司法の評決としての個人と財産への防衛サービスのようなものを含む)自由な社会における防衛は、したがって(a)強圧的“coercion”にではなく自発的に収入を稼ぎ、かつ(b)警察や司法の保護の強制的独占を――国家がするようには――不当要求しない人々や企業が提供するべきである……保護会社は自由に競争するべきだろうし、自由市場における財やサービスの他の全供給者と同じぐらいに非侵略者に対しては非強圧的であるべきだろう。保護サービスは他のすべてのサービスのように市場的であり、しかも市場的でしかない。」[8]すなわち、すべての私有財産所有者は分業の優位に加わることができ、他の所有者たちおよび彼らの財産と協調することで自衛を貫くもより良い保護を求められるだろう。誰であれ保護的かつ司法的なサービスに関しても、他のあらゆる人から買えるし、あらゆる人に売れるし、さもなくばあらゆる人と契約できるだろう。そして同時に、人は究極的にはどんなそのような協調も停止できるし、自己信頼的な防衛に頼むことも、保護的提携を変えることもできるだろう。

[6] ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの『社会主義』“Socialism”と;ハンス=ハーマン・ホップの『社会主義と資本主義の理論』“A Theory of Socialism and Capitalism”第六章。

[7] マレー・N・ロスバード『自由の倫理学』特に第二十二章と二十三章。

[8] マレー・N・ロスバード『権力と市場』“Power and Market”、p. 2。

私的安全の弁護

集団的安全保障の神話――国家の神話――を再構成し、その理論的かつ経験的な基礎を批判したので、私はいまや私的安全と保護の積極的弁護を構成する仕事に取り掛からなくてはならない。集団的安全の神話を一掃するためには保護国家のアイディアに関わる誤信を把握するだけでは十分ではない。いかに非国家主義的な安全代替案が効率的に機能するかについてのはっきりした理解を得ることが、それ以上にではないものの、ちょうど重要である。フランス・ベルギーの経済学者グスターヴ・ド・モリナーリ[9]の先駆的な分析に基づいた上で、ロスバードは保護と防衛の自由市場システムの働きについてのスケッチを与えた。[10]くわえて、我々はこの点でモリスとリンダ・タネヒルに素晴らしい洞察と分析を負う。[11]彼らの導きに従い、私はもっと深い分析に進もう。そして、個人にも暴力団にもよらず、わけても国家にもよらない安全生産について、および攻撃に対処するその能力の代替的な非国家的システムについて、もっと包括的な見解を与えよう。

防衛は保険の一形態であり、そして防衛支出は保険金(価格)に相当する、という広い同意が――この問題への他のほとんどの注釈者と同じようにモリナーリとロスバードとタネヒルのようなリベラル‐リバタリアンの間に――存在する。したがって、とりわけロスバードとタネヒルが強調してきたように、世界規模の分業に基づく複雑な現代経済のなかで保護と防衛のサービスを提供しようと申し込むもっともありそうな立候補者は保険代理店である。被保険物の保護が上手いほど損害請求は低くなり、ゆえに保険業者の費用も低くなる。かくて、効率的な保護を提供することはすべての保険業者自身の財務上の関心である思われるし、そして実際今日でさえ国家による制限と妨害にもかかわらず保険代理店は広範な保護サービスを、および侵害を受けた私的当事者への補償(賠償)を提供する。保険企業は第二の本質的な要求を履行する。明らかに、保護サービスを提供する誰もが、顧客を発見するためには約束を果たすことができなければならないように思われる。すなわち、現実世界の、実際のまたは想像上の危険を処理する仕事を完遂するために必要な経済的手段を――物理的資源と同様に人的労働力を――所持しなければならない。この争点でも、保険業者はまた完全な立候補者であるように思われる。彼らは全国規模でも、また国際規模でさえも操業し、広い領域にわたり単一の国境をこえて分散する大量保有財産を所有する。したがって、彼らは効率的な保護に明白な自己利益を見出し、そして巨大でありかつ経済的に強力である。さらにすべての保険企業は国際的再保険代理店のシステムと同様に相互の援助と仲裁の契約的同意のネットワークを通して繋がっており、このシステムはすべてではないにしてもほとんどの既存政府を縮小させるほどの合同経済力に相当する。

更なる分析をして、次の提案を体系的に明白化したい:保護と防衛は保険であり、保険代理店に提供されることができる。この目標に達するために二つの論点に取り組まなければならない。第一に、人生のすべてのリスクに対して自分自身に保険をかけることは可能ではない。たとえば自殺したり、自宅に放火したり、失業したり、朝ベッドから起きたくなかったり、または企業家的損失を被らなかったりすることに対しては保険をかけることができない。なぜならば各場合で私がそれぞれの結果の見込みについて完全または部分的な制御をもつからだ。これらのようなリスクは個人的に引き受けられなければならない。これらを処理することは私自身以外の者にはとてもできない。ゆえに第一の質問は、何が保護や防衛を保険不可能なリスクにでなくむしろ保険可能なリスクにするか、となるだろう。結局、我々がちょうど見てきたように、これは自明ではない。実際、誰しも身体や財産への攻撃や侵略の見込みにかなりの支配をもっていないか? 私は他の人に、たとえば襲撃したり挑発したりして、故意に攻撃をしやしないか? そのとき、保護とは自殺や失業のように各人が単独の責任を想定しなければならない保険不可能なリスクでありはしないか?

答えは条件付きでイエスでもノーでもある。おそらく条件保護を提供することは、すなわち何であれすべての侵略に対する保険を提供することは誰にもできないというかぎりでは、答えは「イエス」だ。すなわち無条件保護は、もしやるなら、各個人によって彼自身について彼自身のために提供することしかできない。しかし条件的保護に関するかぎりでは答えは「ノー」だ。ただ被害者に挑発されて起きただけの攻撃や侵略では保険はかけられない。しかし、非挑発的でありゆえに偶発的である攻撃には保険をかけられる。[12]すなわち保護はすべてのありそうな挑発を排除するように保険代理業者が被保険者の行為を契約的に制限する場合にかぎって保険可能な財になる。多様な保険企業は挑発の定義に関して異なっているかもしれないが、しかしそれぞれが自身の顧客のすべての挑発的で侵害的な行為をシステマチックに排除(禁止)しなければならないという原理に関しては異なっていることはありえない。

保護‐保険の本質的に自衛的な――非侵害的かつ非挑発的な――本性へのこの最初の洞察と同じぐらい初等的であるように思われるかもしれない、基本的で重要なことがある。それは、一つには、侵害者や挑発者だと知られたどんな人も保険業者を見つけられないことを含意し、ゆえに経済的に孤立し、弱く、傷つきやすいだろうことを含意する。もう一つは、自己依存と自己防衛により提供される更なる保護を求めるどんな人も、非侵害的で文明的な行いの特定の規範を受け入れる場合にのみ、そうできるだろうことを含意する。そのうえ、被保険者の数が多いほど――現代交換経済ではほとんどの人々がまさに保護のために更なる自己防衛を求める――、同じ行いか似たような非侵害的な社会的行いのスタンダードを採用する残りの被保険者への経済的圧力は大きいだろう。もっといえば、自発的に支払う顧客のために保険業者間で競争する結果として、被保険物の価値あたりの価格が下落に向かう傾向が起こる。同時に、財産権と契約法の標準化と統一に向かう傾向が起こる。標準化された財産と生産物の記述による保護契約が生まれるだろう。そして相互仲裁手続きにおける異なる保険業者間の安定的な協調からは手続きルールと証拠と紛争解決の標準化への傾向が、そして着実に増加する法的安定性が結果として生じるだろう。保護保険を買うことによって、誰もが侵害を最小化しようとする世界的な競争的企業に結ばれるだろう(かくて防衛的保護が最大化する)。そしてすべての単一の紛争や損賠請求は、どこであれ誰にであれ、ちょうど一つかそれ以上の可算かつ特定の保険業者と彼らの相互に定義された仲裁手続きの管轄に属するだろう。

[9] グスターヴ・ド・モリナーリ『安全保障生産』“The Production of Security”。

[10] マレー・N・ロスバード『権力と市場』“Power and Market”第一章と;『新しい自由のために』“For A New Liberty”第十二章と第十四章。

[11] モリスとリンダ・タネヒル『自由の市場』“The Market for Liberty”特に第二部。

[12] 保険の「論理」については、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス『ヒューマン・アクション』第六章;マレー・N・ロスバード『人間、経済及び国家――オーストリア学派自由市場経済学原理――』下巻429頁以降と;ハンス=ハーマン・ホップ『確実性と不確実性について、または:我々の期待はいかに合理的でありうるか?』“On Certainty and Uncertainty, Or: How Rational Can Our Expectations Be?”;またリヒャルト・フォン・ミーゼス『確率、統計、および真理』“Probability, Statistics, and Truth”と;フランク・H・ナイトの『危険・不確実性および利潤』“Risk, Uncertainty, and Profit”を見よ。

侵害保険についてさらに

いまや第二の質問に取り組まなければならない。保険可能な財としての保護防衛の状態が保障されたとしても、明白に異なる保険形態が存在する。ちょうど二つの特徴的な例を考察しよう:地震、洪水、台風のような自然災害に対する保険と、機能不全や爆発、欠陥製品のような産業的な事故や災害に対する保険だ。前者は集団保険や相互保険の例に適う。いくらかの領土は他よりもっと自然災害への傾向があり、その結果保険の需要と価格は他の地域より高くなるだろう。しかし、一定の領土的境界のすべての立地は保険業者によって当該のリスクについて同質であるとみなされる。保険業者はおそらく問題の領域全体としての出来事の頻度や範囲を知っているが、しかし彼は領域の特定の場所の特定のリスクについては何も知らない。この場合、すべての被保険者は被保険物価値あたり同一の保険金を支払うだろうし、或る期間で集められた保険金はおそらくすべての同じ期間の間の損害請求をカバーするのに十分だろう(さもなくば保険産業が損失をこうむるだろう)。かくて、特殊な個人的危機は共同出資され相互に保険される。

対照的に、産業保険は個人保険の例に適う。自然災害と異なり、被保険リスクは人間行為の結果であり、すなわち生産努力の結果である。すべての生産過程は個人生産者の支配の下にある。失敗や災害を意図する生産者はおらず、そして我々が見てきたように、ただ偶然的な――非意図的な――災害だけが保険可能である。けれども、すべての生産者や生産技術は、たとえ広範に支配的でありかつ一般的に上出来であったとしても、彼の支配を超えた偶然的な不幸や事故――失敗の限界――の支配下にある。しかしこの産業事故のリスクが結果として非意図的な個人的生産努力と生産技術だったとしても、或る生産者およびその生産過程は他の生産者およびその過程とは本質的に異なる。したがって、異なる生産者と生産技術のリスクは共同出資できず、すべての生産者は個人的に保険すべきである。この場合、保険業者はおそらく時間中の疑わしい出来事の頻度を知るべきであろうが、しかし彼は、いつも同じ生産者と生産技術が操業中であることを除けば、特定の時点での出来事の見込みについては何も知らない。所与の期間中に集まる保険金が期間中に生じるすべての損賠請求を相殺するに十分であろうという推定は存在しない。むしろ利益を上げる推定とは、多くの期間中に集まる保険金が、同じ多期間の時間帯中のすべての請求を相殺するために十分であろうというものだ。したがってこの場合、保険業者は契約的責務を履行するために資本準備金を保有するに違いなく、そして彼の保険料を計算するときこれらの準備金の現在価値を計算に入れるに違いない。

そのとき第二の質問は、どんな種類の保険が他の行為者による侵害や侵略から保護をすることができるかだ。自然災害のためのように集団保険として提供できるか、あるいは産業事故の場合のように個人保険の形で提供すべきだろうか?

手始めに、保険の両方の形態がもっぱら連続体の二つの可能な両極端を代表していることと、この連続体でのどんな特殊なリスクの位置づけもはっきりと固定されないことを注記しよう。たとえば気象学か地質学または工学の科学的または技術的な発展のおかげで、以前は同質である(相互保険が認められる)と見なされていたリスクがますます非同質化されてゆくことがある。この傾向が顕著なのは医療と健康の保険の分野である。遺伝学や遺伝子工学――遺伝子指紋法――の発展により、多くの人々にとって以前は同質(非特定的)であると見なされていた医療と健康のリスクはますます特定的かつ異質的になってきている。

以上を踏まえて、特定的な何かがとりわけ保護保険に関して言われることはできるか? 私はできると思う。結局のところ、すべての保険は保険業者と被保険者の観点からリスクが偶然的であることを必要とするけれど、侵害的な侵入の出来事は自然や産業の災害のものとははっきり異なっている。自然災害と産業事故が自然な力と自然法則の作用の結果である一方で、かたや侵害は人間行為の結果である。そして自然が盲目的でありかつ個人間で差別をしない一方で、時間内や時間外の同じ点で、かたや侵害者は差別をすることができ、故意に特定の被害者を標的化でき、攻撃のタイミングを選択できる。

政治的国境と保険

最初に自然災害に対する保険と保護‐防衛保険を対照しよう。この二つの間の類推が頻繁に引き出されるが、それは類推がどんな場合にどんな範囲で保たれるかを調査するために役立つ。その類推とは、ちょうど一定の地理的地域内のあらゆる個人が地震か洪水か台風の同じリスクに脅かされるように、たとえばアメリカ合衆国かドイツの領土内のあらゆる居住者が外国の攻撃に犠牲者化される同じリスクに直面するというものだ。いくつかの表面的な類似性――まもなく私が至るところ――にもかかわらず、やはり類推における二つの根本的な欠点を認識するのは容易である。一つには、地震や洪水や台風の地域の境界は、客観的で物理的な基準に従って引かれて確立されるから、自然として言及できる。はっきりと対照的に、政治的国境は人工的境界である。アメリカの国境は十九世紀全体を通して変わり、そしてドイツは1871まではそのようには存在せず、およそ50の別々の国から成り立っていた。まさか、さっきの正反対の信念とは対照的に、この国境引き直しはもっと大きなアメリカ内のすべてのアメリカ人やドイツ内のすべてのドイツ人の安全リスクが同質(同一)であると発見した結果なのだと主張したがる人は誰もいるまい。

二つめの明白な欠点が存在する。自然――地震、洪水、台風――はその破壊において盲目的である。それは立地と物体の価値がもっと高いか低いかで差別をせず、無差別的に攻撃する。はっきりと対照的ながら侵害者・侵略者は差別できるし差別する。彼はサハラ砂漠のような価値なき立地や物には攻撃や侵略をせず、価値ある立地や物を標的化する。他の物事が等しければ、立地と物体がもっと価値あるほど、もっと侵略の標的になる見込みがあるだろう。

これは次の決定的な質問をもたげる。政治的境界が恣意的であり、攻撃はどの場合でも決して無差別ではなく、価値ある場所と物へと特定的に向けられるのだったら、はたして異なる安全リスク(攻撃)の区域を分離する非恣意的境界は存在するのか? 答えはイエスだ。そのような非恣意的境界は私有財産のものである。私有財産は、特定の個人が特定の立地で特殊な物理的な対象か効果にしかけた収用や生産の結果である。あらゆる収用者‐生産者(所有者)は、収用され生産された物を彼が価値ある(財である)と評価していることを彼の行為で証明する。さもなくば彼は収用したり生産したりしなかっただろう。誰の財産の境界も客観的であり間主観的に確かめられる。それらは誰か一人の特殊な個人に収用や生産をされた物の延長と次元で単純に決定される。そしてすべての価値ある場所と物の境界はすべての財産境界と共存する。どんな所与の時点でも、すべての価値ある場所や物は誰かに所有されて、ただ価値なき場所や物だけが誰にも所有されずにおかれる。

他人に囲まれた境遇で、あらゆる収用者と生産者はまた攻撃や侵略の目標にもなりえる。あらゆる財産は――物(物質)とは対照的に――必然的に価値がある。ゆえに、あらゆる財産所有者は他人の侵害的欲望の可能な標的になる。したがって、財産の立地と形態に関する所有者のすべての選択は無数の他の考慮の間でまた安全の関心事にも影響される。他の物事が等しければ、誰もがもっと安全な立地と形態の財産を選好する。けれども、所有者と彼の財産がどこに位置するか、財産の物理的形態が何であるかにかかわらず、すべての所有者は潜在的侵害の見通しをもってさえ彼の財産を放棄しないという理由で、彼の占有物の保護と防衛をする個人的本意を証明する。

しかしながら、私有財産の境界が侵害リスクとのシステマチックな関係にある最適な非恣意的境界であるならば、存在する多くの異安全区域と同数だけ別々に所有される保有財産が存在するということになり、そしてこれらの区域は広くともせいぜいこれらの保有の範囲であるということになる。つまり、侵害に対する財産保険は産業事故の場合よりもなおのこと集団的(相互)保護よりもむしろ個人的なものの例であるように思われるだろう。

個人的生産過程の事故リスクが典型的には――同じ生産者が別の立地で過程を再現しても彼の失敗の限界は同じままであるだろうように――その立地から独立的であるのに反して、かたや私有財産に対する侵害リスク――生産プラント――は或る立地と他の立地で異なる。財産はちょうどその本性からして、私的に収用されかつ生産された財として常に別個でありかつ明確である。あらゆる財産は異なる場所に位置し、異なる個人の支配下にあり、そして各立地は独特の安全リスクに直面する。たとえば私の居住地が田舎か都市か、丘か盆地か、川か海か港か鉄道か街路に近いか遠いかで私の安全に違いが生じうる。実際、隣接的な立地でさえ同じリスクには直面しない。たとえば私の居住地が近隣の人よりも山の高みか低みか、海に遠いか近いか、あるいは単純に彼の北か南か西か東かで違いが生じうる。さらには、あらゆる財産はその立地がどこにせよその安全性“safety”を増やして侵害の見込みを減らすようその所有者に成形され変形されることができる。たとえば私は銃や貸金庫を取得するかもしれないし、また攻撃してくる飛行機をうちの庭から打ち落とすことや、千マイル離れた侵害者を殺せるレーザー銃を所有することができるかもしれない。かくて、どの立地もどの財産も他のものと同じではない。あらゆる所有者は個人的に保険にかかるべきであろうし、そしてそうするために、あらゆる侵害‐保険業者は十分な資本準備金を保有すべきである。

民主主義国家と総力戦

自然災害に対する保険と外的侵害に対する保険の間から典型的に引き出される類推は根本的に間違っている。侵害は決して無差別ではなく選択的かつ標的的であるように、防衛もそうである。防衛すべき異なる物や場所を皆が持っており、そして誰の安全リスクも他の人と同じではない。にもかかわらず類推もまた真理の要点を含んではいる。しかし、自然災害と外的侵害の間のどんな類似性も侵害と防衛の本性のせいではなく、むしろ国家の侵害と防衛(国家間交戦)の特定の本性のせいだ。さきに説明されたとおり、国家は保護の強制的な領土的独占と課税の権力を行う機関であり、そのような行動の費用を国民に外部化できるから、そのような機関は比較的に侵害的である。しかしながら国家の存在はただ侵害の頻度を増大させるだけではなく、その全性質を変えもする。国家の存在は、わけても民主主義国家の存在は、侵害と防衛――戦争――が総力的かつ無差別的な戦争に変化する傾向があろうことを含意する。[13]

完全に国家なき世界のひとときを考えよ。ほとんどの財産所有者は個人的に、多額の資本準備金を財源とする巨大多国籍保険企業に保険をかけているだろう。すべてではないとしてもほとんどの侵害者は悪いリスクであり、何にせよどんな保険も残されていないだろう。この状況ではすべての侵害者や侵害者集団が標的を無被保険物に絞り、あらゆる「副次的損害」を避けたがるだろう。さもなくば自分が一つか多くの経済的に有力な専門的防衛代理人と敵対していることに気づくからだ。同じように、すべての保護的暴力は大いに選択的かつ標的的であるだろう。すべての侵害者は特定の個人や集団であり、特定の場所に位置し、そして特定の資源を装備するだろう。保険代理店は自分の顧客への攻撃に反応し、応報のためにこれらの場所や資源を特定的に標的化するだろうし、副次的損害を避けたがるだろう。さもなくば他の保険業者ともつれ合いになり、そして彼らに服するようになるからだ。

国家主義的な世界の国家間交戦ではこのすべてが変わる。一つには、もしもアメリカが他の国家を、たとえばイラクを攻撃したら、これは限定的な資源を装備し明白に同定可能な場所に位置するただの限定的な人数による攻撃ではない。むしろすべてのアメリカ人と彼らのすべての資源による攻撃である。おそらくすべてのアメリカ人がアメリカ政府に税を支払い、かくて彼が望むか望まざるかにかかわらず事実上すべての政府侵害に関与している。それゆえに、すべてのアメリカ人がイラクに攻撃される等しい危険に直面しているという主張が明白な虚偽である(そのようなリスクは低いか無いかであり、たとえばウィチタやカンザスよりニューヨーク市のほうが確かに高い)一方で、すべてのアメリカ人が彼の政府侵害それぞれへの、必ずしも自発的ではなくとも、活発な参加に関して平等になる。

第二に、ちょうど攻撃者が国家であるのと同じく被攻撃者イラクも国家である。イラク政府はその住民層に課税したり彼らをその軍隊に徴兵したりする権力をもつ。ちょうどすべてのアメリカ人がアメリカ政府の攻撃に引っ張り出されるように、すべてのイラク人は納税者や召集兵として政府の防衛に巻き込まれる。かくて戦争はすべてのアメリカ人によるすべてのイラク人に対する戦争に、つまり総力戦になる。それに応じて攻撃者と防衛者の両方の国家の戦略は変化するだろう。攻撃者はなおも彼の攻撃の目標に関して選択的であらざるをえないけれど、もしも課税するエージェンシー(国家)が稀少性によって究極的に束縛されるより他に理由がないのであれば、侵略者は副次的損害を避けるか最小化するインセンティブを少ししかあるいは少しももたない。対照的だが、防衛的努力に全人口と国富が巻き添えにされるから、生命にせよ財産にせよ副次的損害が望ましくさえある。戦闘員と非戦闘員の間に明瞭な区別が存在しない。誰もが敵であり、すべての財産が攻撃される政府のために支援を提供する。ゆえに誰もが、何もかもがフェアゲームになる。同じように、防衛国家は攻撃者に対する自分の報復から結果的に生じる副次的損害にわずかにしか関心を寄せないだろう。攻撃国家のあらゆる市民と彼らのあらゆる財産は敵と仇の財産でありかくて報復の可能な標的になる。そのうえ、あらゆる国家が国家間戦争のこの特徴に応じて想像上のレーザー銃のような長距離精密兵器よりも原子力爆弾のような大量破壊兵器をもっと多く開発し利用するだろう。

かくて戦争と自然大災害の間の――見たところ無差別的な破壊と惨害の――類似性はもっぱら国家主義的な世界の特徴でしかない。

[13] 国家と戦争の関係についてと制限(君主主義的)戦争から総力(民主主義的)戦争までの歴史的変遷については、エッケンハート・クリッペンドルフ“Ekkehard Krippendorff”『国家と戦争』“Staat and Krieg”と;Peter B. Evans, Dietrich Rueschemeyer, Theda Skocpol編“Bringing the State Back In”のチャールズ・ティリー『組織的犯罪としての戦争作りと国家作り』“War Making and State Making as Organized Crime”と;ジョン・F・C・フラー『制限戦争指導論』と;マイケル・ハワード『ヨーロッパ史における戦争』と;ジョン・V・デンソン“John V. Denson”編『戦争の費用』“The Cost of War”のハンス=ハーマン・ホップ『時間選好、政府、および脱文明化の過程』“Time Preference, Government, and the Process of De-Civilization”と;エリック・フォン・クーネルト・レディン“Erik von Kuehnelt-Leddihn”『左翼再考』“Leftism Revisited”を見よ。

保険とインセンティブ

これは最後の問題を提起する。我々はちょうど、すべての財産が私的であり、そしてすべての防衛は産業の災害保険のように資本化された保険代理店により個人的に保険されるべきであることを見てきた。他方、我々はまた保険の両形態が根本的な面で異なることも見てきた。保護保険の場合は被保険物の立地が問題である。異なる立地では被保険価値あたりの保険金が異なるだろう。さらに、侵害者は移動でき、彼らの凶器は変化し、彼らの侵害の全性質は国家の存在で変わる。かくて、最初の財産立地が所与でさえ、被保険価値あたりの価格はこの立地の社会的な環境や近隣が変化するにつれ変わる。競争的保険代理店のシステムはこの変化にどう反応するのか? わけても国家の存在と国家の侵害にどう対処するのか?

これらの質問に答えるにはいくつかの基本的な経済的洞察を思い出すことが重要である。他の物事が等しければ、私有財産所有者は一般的に、わけても事業所有者は特に、保護費用(保険料)が高くかつ財産価値が下落する立地よりも、保護費用が低くかつ財産価値が上昇する立地を選好する。したがって、人々と品々は、リスクが高く財産価値が下落する地域からリスクが低く財産価値が増加する地域へ移ってゆく傾向がある。さらに保護費用と財産価値は直接的に関係し合う。他の物事が等しければ、保護費用(もっと大きい攻撃リスク)がもっと高いことは、財産価値がもっと低いかあるいは下落することを含意するし、保護費用がもっと低いことは財産価値がもっと高いかあるいは増加することを含意する。これらの法則と傾向は保険保護代理店の競争的システムの操業を形作る。

はじめに、税資金の独占者が保護の費用と価格を上げる傾向を現すのに対して、かたや私的な利潤・損失の保険代理店は保護の費用を削減しようと努め、かくて価格の下落をもたらす。同じときに、保険代理人は他の誰よりも財産価値の上昇に利害がある。なぜならばこのことは、彼ら自身の財産保有が高騰することだけでなく、また特に、保険をかけるべき更なる他者財産があるだろうことをも含意するからだ。対照的に、もしも侵害の危険が増大し財産価値が下落するならば、保護費用と保険価格が上昇し、このことは保険業者の下手な営業実態を含意するが、その間にも保険される価値はさらに低くなる。したがって保険企業は前者の好ましい状態を促して後者の好ましくない状態を控えさせる永遠の経済的圧力の下にある。

このインセンティブ構造は保険業者の操業に根本的な影響を及ぼす。一つには、ありふれた犯罪と犯罪者に対抗する保護という見かけ上わりと簡単な場合について言えば、競争的保険業者のシステムは現在の犯罪保険に劇的な変化を引き起こすだろう。この変化の範囲を認識するためにはまず、今日の、かくてお馴染みの国家主義的な犯罪保険を最初に見ることが役立つ。国家エージェントは(たとえ彼らが課税するための財産をもっと多く存在させるためにだとしても)一般的な私的犯罪と格闘することに関心があるとはいえ、それを防ぐ仕事に、あるいはもしも起こったら被害者に補償して犯罪者を逮捕し処罰する仕事にとりわけ効果的であるということには税資金エージェントとしてほとんどまたはまったく関心がない。くわえて民主的条件の下で、傷害に侮辱が加わる。もしも誰もが――不侵害者と同じように侵害者が、そして低犯罪立地の居住者と同じように高犯罪立地の居住者が――投票したり官庁に選出されたりできるならば、不侵害者から侵害者への、および低犯罪地域の居住者から高犯罪地域の居住者への財産権のシステマチックな再分配が実施され、犯罪が実際に促進されるだろう。したがって、犯罪は、およびあらゆる種類の私的安全サービスへの需要は、いまや空前絶後の高さである。さらに恥ずべきことながら、政府は(防ぐべきだったのに)防がなかった犯罪の被害者に対して補償するのではなく、侵害者の逮捕や投獄、更生、エンターテイメントを納税者として支払うよう被害者に強いる。保険業者がするように、高犯罪立地でもっと高い保護価格を要求し、低犯罪立地でもっと低い保護価格を要求するのではなくて、むしろ政府はその精密なる正反対をなす。それは高い犯罪と低い財産価値の地域よりも低い犯罪と高い財産価値の地域でもっと多くの課税をするか、前者の立地――スラム――の居住者を後者の支出でなおさら援助するのであり、かくて犯罪に有利な社会的条件を促進してしまう一方で、犯罪に不利な社会的条件を侵食してしまう。[14]

競争的保険業者の操業は著しく対照的である。一つには、もしも保険業者が犯罪を防げなかったら、被害者に補償をしなければならない。かくて保険業者は何よりもまず防犯に効率的であることを望むだろう。それでも防げないとしたら、彼らは犯罪者の探知と逮捕と処罰に効率的であることを望むだろう。なぜならば保険業者は違反者を発見し逮捕するにあたって――被害者や保険業者よりむしろ――犯罪者に損害賠償と補償費用の支払いを強いるからだ。

もっと明確に言えば、ちょうど保険企業が財産価値の仔細な局地的目録を現在維持し継続的に更新しているように、犯罪と犯罪者の仔細な局地的目録を維持して継続的に更新するだろう。他の物事が等しければ、どんな私有財産の立地に対する攻撃のリスクも潜在的な侵害者の接近と数と資源とともに増加する。したがって保険業者は実際の犯罪と既知の犯罪者と彼らの所在地についての情報を集めることに関心があるだろうし、そして物的損害を最小化する相互の関心にはお互いの情報を共有することがあるだろう(ちょうど銀行が今も悪い信用リスクの情報を互いに共有しているように)。さらにまた、保険業者は(まだ犯されておらず知られていない)潜在的な犯罪と侵害者の情報を集めることにとりわけ関心があり、そして現在の――国家主義的な――犯罪統計を根本的な精査と改善に導くだろう。将来の犯罪発生を予測してその時価(保険金)を計算するために、保険業者は、犯罪者と犯罪の頻度と人相と性格を、犯罪が起こり犯罪行動がとられる社会的境遇とともに相関づけて、開発し、人口統計的かつ社会学的な犯罪指標の精密なシステムを継続的に洗練させる競争的圧力の下にある。[15]すなわち、犯罪指数を、たとえば性、年齢層、人種、国籍、民族性、宗教、言語、職業、収入の構成要素を考慮して、あらゆる近隣の人々が記述され、そのリスクが算定されるだろう。

したがって、そして現在の状況とはっきりと対照的に、地方、地域、人種、国民、民族、宗教、および言語間の、所得と富のあらゆる再分配が消滅するだろうし、社会的紛争の恒常的源泉が永遠に除去されるだろう。その代わり、出現した価格(保険金)構造は各立地とその社会的境遇のリスクを反映する傾向があるだろう。その立地と境遇リスクは、どの人も彼自身および彼特有の近隣に関わる保険リスクへ以外には誰の保険リスクへの支払いも強いられないだろう。もっと重要なことには、継続的に更新され洗練させられる犯罪と財産価値についての統計のシステムに基づき、そして高リスクで低価値の(以降「悪い」)立地から低リスクで高価値の(以降「良い」)立地への移住の傾向性に一層動機付けられて、競争的な侵害保険業者のシステムは(脱文明化よりむしろ)文明的進歩の傾向性を促進するだろう。

政府は――わけても民主的政府は――課税と移転政策をとおして「良い」近隣を侵食し「悪い」近隣を促進する。彼らはまた強制統合の方針をとおしてさらに危険な効果を伴いつつ促進する。この政策には二つの面がある。一方では、移民問題に直面する「良い」立地と近隣の所有者と居住者にとって、強制統合とは彼らが国内移住者を、公共道路上の短期滞在者か旅行者として、顧客か依頼客か居住者か近隣者として、差別なしで受け入れざるをえないことを意味する。彼らは、移住からの望ましくない潜在的リスクとみなす誰かを排除することが政府に禁止される。他方では、「悪い」立地と近隣の所有者と居住者(入移住“immigration”よりむしろ出移住“emigration”を経験する者)にとって、強制統合とは効果的な自己防衛を妨げられることを意味する。彼らは、彼らの近隣から既知の犯罪者を追放することで犯罪を除去するよう許されるよりも、むしろ侵害者と永遠に交際して生きるように政府に強制される。[16]

私的保護保険業者のシステムの結果は、あまりにも馴染み深い脱文明的な国家主義的犯罪保護の効果と傾向性とは著しく対照的であろう。保険業者が「良い」近隣と「悪い」近隣の間の違いを除去できないだろうことは確かだ。実際、これらの違いはもっと顕著になるかもしれない。しかし保険業者は財産価値の上昇と保護費用の低下への関心に駆られて、「良い」近隣と「悪い」近隣のどちらをも啓発し称揚することで、改善される傾向性を促進するだろう。かくて保険業者は「良い」近隣では選択的移民政策を採用するだろう。彼らは国家とは異なり、移民に対する被保険者間の差別的意向を軽視しようとはしないだろうし、できないだろう。対照的に、保険業者は彼らの顧客の誰よりもなおさら差別に関心があるだろう。というのは、ただもっと低い犯罪リスクと増加された財産価値を加える態度の移民だけを認め、もっと高いリスクともっと低い財産価値を導く態度の移民を排除する際にである。すなわち、保険業者は差別を除去するよりむしろ差別を実践的に合理化し完成させるだろう。保険業者は、犯罪と財産価値についての彼らの統計に基づいて、そして保護費用を減らし財産価値を高めるために、移住と移民に関わるさまざまな規制的(排他的)規則と手続きを定式化し、継続的に洗練させるだろうし、かくて(高低リスクと価値生産性として)潜在的移民間の差別の価値(および不差別の価値)に――価格と価格差の形で――量的な正確さを生ぜしめるだろう。

同様に、「悪い」近隣では保険業者と被保険者の利益が一致する。保険業者は既知の犯罪者に対する被保険者の追放的意向を抑圧しようとは思わないだろう。彼らは(特定の浄化活動次第の)選択的値引きを提供することでそのような傾向性を合理化するだろう。実際、保険業者は他の業者と協調して、既知の犯罪者をアマゾンの密林やサハラや北極・南極地域の公開未開地または荒地へと、目前の近隣からだけでなく文明からすっかり駆除するだろう。

[14] 犯罪と刑罰、過去と現在について、テリー・アンダーソンとP・J・ヒル『無政府資本主義のアメリカ的実験:そんなに野蛮じゃない西部』“The American Experiment in Anarcho-Capitalism: The Not So Wild, Wild West”と;ブルース・L・ベンソン『保護のための銃、および犯罪を制御する政府の失敗に対する他の私的部門の反応』“Guns for Protection, and Other Private Sector Responses to the Government’s Failure to Control Crime”と;ロジャー・D・マクグレイス『ならず者、追いはぎ、自警団:フロンティアでの暴力』“Gunfighters, Highwaymen, and Vigilantes: Violence on the Frontier”と;ジェームズ・Q・ウィルソンとリチャード・J・ヘルンスティーン『犯罪と人間の本性』“Crime and Human Nature”と;エドワード・C・バンフィールド“Edward C. Banfield”『神々しからぬ都市へ再訪問』“The Unheavenly City Revisited”を見よ。

[15] 官庁統計――国家主義的統計――がいわゆる公共政策(ポリティカル・コレクトネスのために)とりわけ犯罪に関して故意に無視し曲筆しまたは既知の事実を歪曲する範囲の概要については、J・フィリップ・ラシュトン“J. Philippe Rushton”『人種、進化、および行動』“Race, Evolution, and Behavior”と;マイケル・レヴィン“Michael Levin”『なぜ人種が問題なのか』“Why Race Matters”を見よ。

[16] ハンス=ハーマン・ホップ『自由移民と強制統合』“Free Immigration or Forced Integration”を見よ。

国家の侵害に保険をかける

とはいえ、国家に対する防衛についてはどうなんだ? 国家の侵害から保険業者が我々をどう保護するのか?

はじめに、強制的税資金独占たる政府がすることは何であれ本来的に無駄かつ非効率であることを覚えておくのが重要だ。これはまた武器の技術と生産、軍事的な諜報と戦略についても、わけてもハイテクノロジーの我々の時代においても真である。したがって国家は自発的に融資される保険代理店に対して同じ領土内で競争できないだろう。さらには、保護費用を下げ財産価値を上げる保険業者に設計される入移住“immigration”に関わる規制的規則の中でもっとも重要かつ一般的なのは政府エージェントに関わるものであろう。国家は本来的に侵害的であり、あらゆる保険業者と被保険者に永遠の危険を引き起こす。かくて、とりわけ保険業者はあらゆる既知の政府エージェントの入移住“immigration”(領土的入場)を潜在的安全リスクとして厳格規制したがるか排除したがるだろうし、来訪者か、顧客、依頼客、居住者、近隣者であるようなどんな既知の政府エージェントとのどんな直接接触をも排他するか厳格制限するよう保険条件か低保険金で被保険者を誘導するだろう。つまり、どこであれ保険会社が――すべての自由領土で――操業すると、国家エージェントはどんな一般的犯罪者より潜在的にもっと危険な望ましくない賎民“outcasts”として扱われるだろう。したがって、自由領土から分離されたその周辺部の領土でしか国家は操業できず、そこにしか国家の全職員は居住できないだろう。おまけに、国家主義的領土の比較的に低い経済的生産性のせいで、そこのもっとも価値生産的な居住者の出移住“emigration”により、政府は継続的に弱体化するだろう。

さて、万が一にもそのような政府が自由領土を攻撃か侵略かしようと決意したらどうなるか? さるるより言わるるが易し! 誰が何を攻撃するんだ? 国家の敵はいないだろう。ただ私有財産所有者とその私営保険代理店があるだけだろう。侵害に、ひいては挑発にさえ従事していた者はおそらく誰もいないだろうし、わけても保険業者にはいまい。かりに国家に対する侵害や挑発が少しでもあるとしたら、それは特殊な人物の行為であろうが、この場合は国家と保険代理店の関心は完全に一致するだろう。両者とも攻撃者が処罰されるところを見たがるだろうし、攻撃者にすべての生じた損害の責任があると思うだろう。しかし、侵害者‐敵がなければ、はたして国家はどうやって攻撃を、ましてや無差別攻撃を正当化するんだ? 必ずや正当化せざるをえないのだ! ラ・ブエティ、ヒューム、ミーゼス、およびロスバードが説明してきたとおり、あらゆる政府の権力はもっとも専制的なものでさえ究極的には意見と合意に頼っている。[17]君主と大統領は攻撃せよと命令をもちろん出せるに違いない。しかし本意にも命令を実際に実行する多数の他の人々がいなければならない。命令を受けて従う将軍がおらねばならず、本意にも進軍して殺し殺されする兵士がおらねばならず、戦争に資するために本意にも生産を続ける国内生産者がおらねばならない。もしも国家支配者の命令が非合法的だと見なされてこの合意的本意が欠けてしまえば、最近の見本としてはイラン国王とソビエト連合が例証したように、見かけ上もっとも強力な政府さえもが無力化し崩壊する。ゆえに、自由領土への攻撃は国家の指導者の観点からは過激なリスクと見なされるべきだろう。プロパガンダの努力もどれほど入念であれその攻撃が無辜の犠牲者への侵害以外の何かであると大衆に信じさせはしないだろう。この状況では、国家の支配者は領土的拡張の試みで正当性とその全権力を失うリスクを犯すより、むしろ現在の領域への独占的統制を維持して満足するだろう。

しかしありそうにないことかもしれないが、なおも国家が近隣の自由領土に攻撃や侵略をしたら何が起こるか? この場合、侵害者が非武装の住民に遭遇することはないだろう。文民的住民が非武装化されているのは国家主義的領土に特有でしかない。国家は課税と搾取をしやすくするためにそれ自体の庶民を武装解除しようと至るところで付け狙う。対照的だが、自由領土の保険業者は被保険者を武装解除したがらないだろう。あるいはできないだろう。誰かに保護されることを望むだろう人に対して、はたして誰が最初のステップで自己防衛の究極的手段を手放すように要求するんだ? 保険代理店は対照的にも選択的値引きで被保険者間に武器の所有を推奨するだろう。

さらには、武装した私的庶民の敵対を別としても、侵略国家は一つだけではなくおそらく幾つかの保険と再保険の代理店にぶつかるだろう。上出来な攻撃と侵略の場合、これらの保険業者は大規模な補償金払に直面するだろう。しかしながらこれらの保険業者は侵略する国家とは異なり、効率的かつ競争的な会社であろう。他の物事が等しければ、攻撃のリスクは――ひいては防衛保険の価格は――どんな国家からも遠い場所よりは国家領土の近辺か近距離の立地でもっと高いだろう。このもっと高い価格を正当化するために保険業者はありうる国家侵害に対する防衛的用意を、諜報サービス、ふさわしい武器と物資の所有、および軍事的な人事と訓練の形で顧客に実演するだろう。言い換えると、保険業者は国家攻撃の緊急事態に――効率的に装備されかつ訓練されて――備えるだろうし、二重の防衛戦略で反応する用意があるだろう。一方では、自由領土内での彼らの操業に関するかぎり、保険業者はあらゆる侵略者を追放か捕獲か殺傷する用意がある一方で、すべての副次的損害を回避なり最小化なりしようとするだろう。他方では、国家領土上での彼らの操業に関するかぎり、保険業者は侵害者――国家――を応報的に目標化するよう準備するだろう。すなわち保険業者は、政府階層の上は国王か大統領か首相から下までの国家エージェントを長距離精密兵器でにせよ暗殺特殊部隊でにせよ反撃なり殺傷なりする用意があるだろう一方で、同時に無辜の文民(非国家エージェント)の財産へのあらゆる副次的損害を回避なり最小化なりしようとするだろうし、かくて侵略政府に抵抗する内的居住者を勇気付け、その非合法化を促進し、ややもすれば解放および国家領土の自由国への変形を刺激するだろう。

[17] エティエンヌ・ド・ラ・ブエティ『服従の政治学:自発的隷従論』と;デイヴィッド・ヒュ-ム『政府の第一原理について』;同『道徳政治論集』“Essays: Moral, Political, and Literary”と;ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス『リベラリズム:古典的伝統において』“Liberalism: In the Classical Tradition”と;マレー・N・ロスバード『平等主義:自然への反逆、および他のエッセー』“Egalitarianism As A Revolt Against Nature and Other Essays”

自衛権を取り戻す

かくて私は議論を一周した。第一に、保護国家と私有財産保護国家の観念は根本的な理論的過誤に基づいており、この過誤が破滅的な帰結、すなわちすべての私有財産権の破壊と不安全および永遠の戦争をきたすことを示した。第二に、誰が私有財産所有者を侵害から保護するかについての正しい答えは他のすべての財とサービスに同じであり、私有財産所有者と、および分業と市場競争に基づく企業であることを示した。第三に、私的な利潤・損失の保険業者のシステムが私的犯罪者や国家による侵害をどう効率的に最小化するかを、そして文明と永遠の平和に向かう傾向を促進するかを説明した。それなら唯一の未解決の仕事はこれらの洞察の実行であり、国家からの自発的な協調と合意を撤回することと、他人にも同じことをするよう説得するために世論でその非合法化を促進することだ。正当かつ必要な国家という誤った公的な認識と判断がなく、かつ公衆の自発的協調がなければ、見かけの上では最も強力な政府すら内破しその権力は蒸発する。かくて我々は解放されて自衛権を取り戻すだろうし、そして保護と紛争解決についてのすべての問題に際して効率的かつ専門的な援助を規制なき自由な保険代理店に求められるようになるだろう。

参照

Anderson, Terry, and P.J. Hill. 1979. “The American Experiment in Anarcho-Capitalism: The Not So Wild, Wild West.” Journal of Libertarian Studies 3, no. 1.

Banfield, Edward C. 1974. The Unheavenly City Revisited. Boston: Little, Brown.

Benson, Bruce L. 1986. “Guns for Protection, and Other Private Sector Responses to the Government’s Failure to Control Crime.” Journal of Libertarian Studies 8, no. 1.

Boétie, Etienne de la. 1975. The Politics of Obedience: The Discourse of Voluntary Servitude. New York: Free Life Editions.

Buchanan, James M. 1975. The Limits of Liberty. Chicago: University of Chicago Press.

Buchanan, James M., and Gordon Tullock. 1962. The Calculus of Consent. Ann Arbor: University of Michigan Press.

Denson, John V., ed. 1997. The Costs of War. New Brunswick, N.J.: Transaction Publishers.

Fuller, John F.C. 1992. The Conduct of War. New York: Da Capo Press.

Hoppe, Hans-Hermann. 1993. The Economics and Ethics of Private Property. Boston: Kluwer.

——. 1998. “The Trouble With Classical Liberalism.” Rothbard-Rockwell Report 9, no. 4.

——. 1997. “Where The Right Goes Wrong.” Rothbard-Rockwell Report 8, no. 4.

——. 1997. “On Certainty and Uncertainty, Or: How Rational Can Our Expectations Be?” Review of Austrian Economics 10, no. 1.

——. 1997. “Time Preference, Government, and the Process of De-Civilization.” The Costs of War. John V. Denson, ed. New Brunswick, N.J.: Transaction Publishers.

——. July 1995. “Free Immigration or Forced Integration?” Chronicles.

——. 1989. A Theory of Socialism and Capitalism. Boston: Kluwer.

Howard, Michael. 1976. War in European History. New York: Oxford University Press.

Hume, David. 1971. “The First Principles of Government.” Essays: Moral, Political, and Literary. Oxford: Oxford University Press.

Knight, Frank H. 1971. Risk, Uncertainty, and Profit. Chicago: University of Chicago Press.

Krippendorff, Ekkehard. 1985. Staat und Krieg. Frankfurt/M.: Suhrkamp.

Kuehnelt-Leddihn, Erik von. 1990. Leftism Revisited. Washington, D.C.: Regnery.

Levin, Michael. 1997. Why Race Matters. Westport, Conn.: Praeger.

McGrath, Roger D. 1984. Gunfighters, Highwaymen and Vigilantes: Violence on the Frontier. Berkeley: University of California Press.

Mises, Ludwig von. 1981. Socialism. Indianapolis: Liberty Classics.

——. 1985. Liberalism: In the Classical Tradition. San Francisco: Cobden Press.

——. 1966. Human Action. Chicago: Regnery.

Mises, Richard von. 1957. Probability, Statistics, and Truth. New York: Dover.

Molinari, Gustave de. 1977. The Production of Security. New York: Center for Libertarian Studies.

Rothbard, Murray N. 1995. The Logic of Action, Vol. 2. Applications and Criticism from the Austrian School. Cheltenham, U.K.: Edward Elgar.

——. 1998. The Ethics of Liberty. New York: New York University Press.

——. 1993. Man, Economy, and State. Auburn, Ala.: Ludwig von Mises Institute.

——. 1978. For A New Liberty. New York: Collier.

——. 1977. Power and Market. Kansas City: Sheed Andrews and McMeel.

——. 1974. Egalitarianism As A Revolt Against Nature and Other Essays. Washington, D.C.: Libertarian Review Press.

Rushton, J. Philippe. 1995. Race, Evolution, and Behavior. New Brunswick, N.J.: Transaction Publishers.

Spooner, Lysander. 1966. No Treason: The Constitution of No Authority. Larkspur, Colo.: Pine Tree Press.

Tannehill, Morris and Linda. 1984. The Market for Liberty. New York: Laissez Faire Books.

Tilly, Charles. 1985. “War Making and State Making as Organized Crime.” Bringing the State Back In. Peter B. Evans, Dietrich Rueschemeyer, Theda Skocpol, eds. Cambridge: Cambridge University Press.

Wilson, James Q., and Richard J. Herrnstein. 1985. Crime and Human Nature. New York: Simon and Schuster.

(出典: mises.org)