蹴球探訪
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【首都スポ】<甲子園レジェンドのいま昔> 木内野球でKKのPL倒した取手二2017年5月24日 紙面から
青春の汗と涙をしみこませてきた甲子園の高校野球は来年、夏の大会が第100回を迎える。久しく全国大会から遠ざかりながらも記憶に残る学校の歴史をひもとく新シリーズ。1984年夏、木内幸男監督が率いて茨城県に初めて深紅の大優勝旗を持ち帰った取手二は、清原和博、桑田真澄のKKコンビを擁したPL学園(大阪)に夏の唯一の黒星をつけた。延長18回引き分け再試合を乗り越えた公立校の快進撃だった。(小原栄二) 常総学院監督を退いた今も木内さんはときどき取手二高を訪れる。一塁側に立つ2階建てが優勝メンバーたちも合宿した「眺流荘」。今はトロフィーや写真パネルを保管する記念館にもなっているが、この前で現役選手たちに訓話することもある。木内野球のふるさとだ。 あの試合がなかったら取手二の全国制覇もなかった。「延長で3度勝ち越され3度追いついた。とてつもない試合でした」。取手二の後藤賢監督(57)が球史に残る箕島−星稜戦に負けない壮絶な戦いと振り返るのは、1977年7月27日の茨城大会準々決勝・鬼怒商戦。のちにロッテに入団した梅沢義勝投手にしぶとく食らいつき延長18回、4−4で引き分け再試合。翌日は8−0で快勝した。 この勢いで茨城の頂点に立ち、木内監督は甲子園初出場。甲子園になかなか届かず退任もささやかれていた木内監督のターニングゲーム。当時2年だった後藤監督がしみじみと話す。「OBから次の監督も決まっていたようですが、甲子園出場で続けることになった」。その5年後に優勝メンバーが入学した。 優勝チームの主将だった吉田剛さん(50)が振り返る。「ぼくらが入学したときに甲子園で勝つチームになると、木内さんに言われた。甲子園に出るのは当たり前、優勝が目標になっていった」。阪神などでプレーし、いまは飲食店を営む吉田さんは「やんちゃ坊主」たちの代表格。「後から聞いた話ですが、責任感を持たさないと学校やめちゃうからキャプテンにした。同級生がやられると飛び出していくんで、しょっちゅう停学くらってましたから」 エース石田文樹(故人)、野球センス抜群の佐々木力(現常総学院監督)、しぶとい打撃の小菅勲(現土浦日大監督)、延長10回に決勝3ランの中島彰一(現新日鉄住金鹿島監督)ら個性豊かなメンバーを適材適所に使いながら、のびのびとプレーさせて、清原、桑田を破った。ややもすると力を出し切れなかった彼らを優勝できるまでに強くしたのは皮肉にもPL学園だった。 吉田さんが振り返る。夏の大会の2カ月前、3年生は練習をやめていた。「控え部員がやめると言い出して、おまえらがやめるなら俺たちもとなった」。木内監督は何も言わない。前年夏に優勝、センバツ準優勝のPL学園が水戸市民球場に来る招待試合が組まれていたが、出られる状況ではなかった。「取手二が出ないなら行かないとPLが言い出したと聞きました」。仕方なく“練習ボイコット”を返上した。2週間練習をしていなかったとはいえ、清原に打たれ、桑田に1安打に抑えられ0−13で完敗。すべて木内監督が仕組んだといわれるが、選手の目の色が変わった。 8月に甲子園で再び顔を合わせたときには、PL学園を見下していた。「やる前から勝つと思っていた。それまでにいいピッチャーに当たって勝っていたし、2回戦の箕島の嶋田(章弘)の方がよっぽど速かったですから」。7回に2ランを放って4−1にしたときには吉田さんは守りながら「ヒーローインタビューのことをを考えていた」ほどだった。 9回裏に追いつかれたが延長10回に振り切っての優勝。木内監督は翌年、常総学院に移り、取手二は32年間、甲子園から遠ざかる。PL学園に土をつけた木内野球とは何だったのか。外野手だった大野久さん(元中日コーチ)と同級で甲子園初出場メンバーだった取手二の後藤監督は「やることに無駄がない。いい言葉でいえば合理的ですかね」と評する。 今の取手二でも引き継いでいるのが「ひとつのボールを見ればいい練習はしない」だ。ただ打つフリー打撃や捕るだけのノックはしない。「ボールだけでなく、走者や味方の動きも見ながらの、いわゆる実戦練習が多かった」。当時はまだ珍しかったが、いち早く取り入れていた。練習時間は多くなかったが、選手を追い詰め、考えさせもした。 甲子園で負けてからしばらくして、PL学園の桑田が取手二のグラウンドまで足を運んだ。じっと練習を見て帰ったという。 PR情報
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