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2017年05月22日

私が南相馬で働く理由 第2回「初期研修:無力な自分、感謝の思い」
―神経内科医・山本佳奈医師―

福島県・南相馬市立総合病院で初期研修をスタートさせた神経内科医の山本佳奈先生。期待を胸に現場に飛び込むが、現実は甘くはなかった。自信を失った彼女に力を与えたのは、地元の方たち。

自らの無力さと向き合いながら患者さんの言葉に助けられ必死で経験を積み上げ2年が過ぎたころ、後期研修先が見つからないという事態に。

世渡り上手、器用というタイプではないのかもしれない。

ただひたすら南相馬で医師として働きたいという情熱が、周囲の心を少しずつ動かしていった。

私が南相馬で働く理由 
第1回 「挫折がもたらしてくれたチャンス」
―神経内科医・山本佳奈医師―

何もできない自分に呆然

憧れの白衣を身にまとい、医師として働きはじめてから早2年が過ぎた。南相馬の桜を愛でるのも、今年で3回目。病院に咲く満開の桜を眺めていると、初期研修を無事終えることができた安堵とともに、次第に初期研修医時代に経験した様々なことが頭の中を駆け巡ってきた。

2015年4月。初期研修医としての生活が始まった。憧れの医師にようやくなれた私は、まるでピカピカのランドセルを背負った小学一年生になったかのごとく希望に満ちていた。

けれども、患者さんを目の前にして、私は立ちすくんでしまった。言葉がなかなか聞き取れない。カルテの書き方や医療器具の使い方がわからない。看護師やコメディカルと、どうコミュニケーションをとっていいか分からない。分からないことだらけの毎日に、瞬く間にその希望は消え、自信もいつの間にか失ってしまっていた。

働き始めて1ヶ月が過ぎた頃だったと思う。「関西から来てくれたのね、ありがとう」とある入院患者さんが声をかけてくれた。毎朝、私が病棟回診をしながら、「おはようございます」と言っているのを聞いて、すぐに関西のイントネーションだと気がついたという。

それからというもの、その患者さんの笑顔が日に日に増えてくることが嬉しくて、退院日まで毎日病室へ挨拶に伺った。だが、主治医でない私は、医療行為を何一つできなかった。ただ話を聴くことしかできなかった。自分の無力さを痛感した。

退院から1ヶ月。通院に来られていたその患者さんに、ばったりと外来の待合室でお会いした。「すっかり女医さんらしくなって」。自信を失っていた私にとって、それはとても嬉しい一言だった。慣れない土地で、分からないことだらけの毎日に空回りしていた私だったが、肩の荷がふっと降りた気がした。自分のペースで出来ることを少しずつ増やしていこう、と思えた瞬間でもあった。

それからというもの、勤務後に勉強の時間を取るようになった。眠くなるまで医局の自分の机で勉強しては、帰宅して寝る生活が始まった。医学の本はもちろんだが、他の分野の本も読むように心がけた。研修医生活が始まってから全く書けなくなってしまっていた原稿も、次第に筆が進むようになった。

原稿とは、前回触れた「貧血」の新書の原稿である。大学6年生の6月、妊婦さんの貧血について問題提起した文章が光文社の編集者・小松現さんの目にとまり、新書を書かないかと手紙が届いた。本を書くことの大変さを知る由もなかった私は、「お願いします」と即答。恩師である上昌広先生は、「君にはきっとむりだよ」と言い放ったが、私の気持ちには届かなかった。80,000字なら書けるだろうと、高を括っていた。

国家試験を終えた翌日から原稿を書くことに明け暮れたが、案の定、書き終えることはできなかった。新書として完成するまで1年という長い年月がかかってしまったが、何もないところから作品を作り出すということは、私にとって研修医時代の貴重な経験の一つとなった。

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地元の方たちのたくましさに励まされて

「初期研修」では、毎月ローテーションする科を変えながら色んな科を学んでいく。やっとその科のいろはを覚えたと思ったら、もう次の科に変わってしまっているというスタイルになかなか慣れなかった私にとって、不完全燃焼の続いた2年間だった。だが、在宅診療科を研修した2年目の夏の3ヶ月間は、毎日がとても充実していたように思う。

往診、看取り、入院管理、そして仮設住宅での健康講話。仮設住宅を訪れては、たくさんの地域の方にお会いした。病院にいては知る由もなかった、地域の生の声をたくさん聞いた。「帰りたくても帰る家がない、娘たちはもう戻ってこない、一緒に戻ろうと言っていた旦那が亡くなった‥。でも私は小高区に帰りたいの」。多くの人が前を向いて頑張っていた。そんな姿に、自分が励まされていたように思う。

仮設住宅に住むある女性は、なんと私が仮設住宅を訪れては、健康講話を行い、その後に健康相談に乗っていたことを地元の新聞に寄稿してくれた。「掲載されるかわからなかったから秘密にしていたのよ」なんて後から教えてくれた。新聞に自分の意見を寄稿することはあっても、自分のことを書いてもらうことは初めてだったから、とても嬉しかった。

ある日の往診。おばあちゃんの家に到着するや否や、「ちょっと来て」とこっそり呼ばれた。陰部の悩みだった。「おばあちゃん、なかなか男の先生には相談したがらないのよね。でも女医さんが来てくれて、良かった」と。こうした相談は度々あった。この地域には女医が必要だということを痛感した出来事だった。


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後期研修先がない……。思いがけない試練。

在宅診療科の研修を終え、気がつくと初期研修も残り6ヶ月弱。学生時代の頃からずっと産婦人科医になりたいと思っていた私は、次第にこの地域に残って女性の健康を守りたいと考えるようになっていた。南相馬に残り産婦人科医として働いたとしても、基幹施設ではないため専門医を取得することはできない。だが、それでもこの地域に残りたいと思った私は、南相馬で後期研修をしたいという自分の思いを院長に伝えた。

「それは難しいかもしれない」返ってきた院長の言葉は、想像だにしなかったものだった。来年の春、この病院に産婦人科の先生がいないかもしれないというのだ。動揺しながらも、副院長にも自分の思いを伝えた。「南相馬に残って産婦人科をしたい」と。副院長の「なんとかするよ…」という言葉を信じて、私はひたすら待ち続けた。

初期研修も残り1ヶ月を切ったある日の午後。「産婦人科に進みたいなら、他の病院にいくしかない…」。副院長の口から出てきた言葉は、私をどん底に突き落とした。産婦人科では私の指導はできない、という。南相馬に産婦人科医として残りたくても残れないという現実に、私は激しく動揺してしまった。

さらに、産婦人科の専門医研修の問題点について書いた拙文 (『「基幹施設は大学が基本」が招く産科医療の危機 地方から考える産婦人科専門医制度』m3.comより)が引き金となって、「来年度は君を採用しない」と市から通達が来たことを聞いた。福島医大との対立を避けるため、私を雇用しようとしなかったという。

この時ばかりは、空いた口が閉まらなかった。だが、福島医大の新理事長である竹之下誠一先生や参議院議員の森まさこ先生始め、多くの方々が心配してくださった。そして、私が南相馬に残れるよう働きかけてくださった。

「とりあえず、神経内科をしてみたらどうですか。それから、今後のことをゆっくりと考えてみても遅くはないでしょう」と行き場のなかった私に、そう声をかけてくださったのは、神経内科医の小鷹昌明先生だった。どん底にいた私にとって、それはそれは嬉しい一言だった。神経内科に進むとは夢にも思っていなかったが、女性を総合的に診ることのできる医師になりたいと思っていた私にとって、神経内科を勉強することは決して無駄ではないと思えた。きっと全てが自分の財産になると。

神経内科医として働き始めて早1か月。外来や病棟管理、往診、さらには日中の救急対応や夜間当直をこなしているうちに、一週間があっという間に過ぎていく。充実した毎日を送ることができている私は幸せだ。研修医時代の最後の一ヶ月は、私にとって試練であったが、私一人では決して乗り越えることはできなかった。多くの方々に支えていただいているから、私は南相馬で働くことができている。感謝の気持ちでいっぱいだ。

たくさんの人たちに南相馬のことを、そして福島のことを伝えたい。そう思い私は研修医として南相馬にやってきた時から、新聞への寄稿やSNSで発信し続けた。

自分の意見を文字にすることの意味とは――。最終回は、そのことを詳しくお話しさせていただきたいと思う。

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 山本佳奈(やまもと・かな)先生

1990年、滋賀県生まれ。滋賀医科大学卒業後、医師免許取得。2015年4月より福島県の南相馬市立総合病院にて初期研修開始。2017年3月、初期研修を終了し、4月同院にて神経内科医として勤務している。著書に『貧血大国・日本』(光文社新書)がある。

 

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