「ヒューマニズム(1)」と併せて読むと解りやすいです)


ちょっと持ち前(?)の、哲学的な話をしよう。

「どんなことがあっても自分は生きるに値するんだ」という、無根拠な自信だ。
それを僕らは「ヒューマニズム」と呼んできた。

「われ思う、ゆえに我あり」というのは有名な「実存主義」の萌芽であるが、僕らはそれを無批判の内に曲解し続けた。
今や「弱者こそ強者」という「繊細チンピラ」が、まさにニーチェの忌み嫌った人間のルサンチマン的体質がSNSと結託し、見るも無残な言論空間を生み出してしまったとさえ僕は考える。

「俺は弱者だ!でも生きる権利がある!無条件に世界に護られている!だから護ってくれない奴は悪だ!この世から抹殺すべきなんだ!」
社会的動物としてはもう末期的な心性が、こうして生まれてしまった。


「神」を葬り去り、ルサンチマンから人間を解放するためにニーチェが生み出した(と一応しておこう)「実存主義」が、このような皮肉な事態を生むとは、僕も哲学を学んだ大学時代では決して想像できなかった。
その末路を後に「実地で学習」し、目の当たりにし、愕然とした。

さてその最大の「戦犯」は、やはりサルトルだろう。
サルトルが、『実存主義とはヒューマニズムである』で、変に定義づけてしまった。
これは強引な人心誘導だったと、今でも思う。

所謂「投企」、すなわち「我思う」ことでしか自分を成立させることができない、このなかなかハードに人々を突き放す「真理」の余りもの非情さ、絶望感を拭うために、「僕らは無条件に赦されているんだ!」という訳の解らない解釈を生み出してしまった。
それが「アンガージュマン」に変容し、古くは学生運動から今のネトウヨに至るまで、無秩序な活動の根拠として都合良く利用されてしまった。


ちょっと脇道に逸れるが、ここでビートたけしの発言を引用しよう。

北野武さんが「夢を叶える事」について言及。その内容があまりにも深過ぎると話題に…


夢に向かって頑張っていた子どもが、挫折してフリーターになっても、なんとか喰っていける世の中だから、夢を追いかけろなんて無責任なことがいえる。
「飢え」というものを体験した世代はもうほとんどいなくなった。
昔はそんなに甘くなかった。
ちゃんとした職業に就けなければ、路頭に迷うんじゃないかって親は心配したものだし、実際そういうことはいくらでもあった。
そういう時代には、誰も夢を持てなんていわなかった。
というより、うっかり夢を語ろうものなら、親に叱られたものだ。
「医者になりたいだって? 何いってんだ。お前はバカだし、ウチにはカネがないんだから、なれるわけないじゃないか」
「画家になりたい? バカヤロウ! 絵描きで飯が喰えるわけがねえだろ」
頭をひっぱたかれて、それで終わりだ。
夢なんて追いかけてないで、足下を見ろというわけだ。
乱暴だけど、それが庶民の知恵だった。
(中略)
夢なんてかなえなくても、この世に生まれて、生きて、死んでいくだけで、人生は大成功だ。
俺は心の底からそう思っている。
どんなに高いワインより、喉が渇いたときの一杯の冷たい水の方が旨い。
お袋が握ってくれたオニギリより旨いものはない。
贅沢と幸福は別物だ。
慎ましく生きても、人生の大切な喜びはすべて味わえる。
人生はそういう風にできている。
そんなことは、誰でも知っている。


まぁごく簡単に言うと、こういうことなのだろう。
「実存主義」の歪曲化による「ヒューマニズム」の横行が、「俺は幸せはなずだ!」「もっと幸せになれるはずだ!」という強迫観念を生み出し、富と価値の奪い合いを助長し、人を生き辛くしている。
敢えてさだまさしの歌詞を批判するが、「しあわせになるために、誰もが生まれてきたんだよ」なんて、わざわざ言う必要はないのだ。
分相応に生きて、そして死ぬだけでいい。
それ以上の価値が、人間にある訳ではない。


21世紀の人類は、そろそろ旧世紀の「ヒューマニズム」の呪縛から解放されるべきだ。
でなければまた価値の奪い合いが起き、ヒステリーが肥大化し、カタストロフィーに至る。


20世紀は何とか持ち堪えたが、今回はどうか解らないよ?