日本人の祖先を探る大航海
日本人はどこから来たのだろう?
アフリカで形成された人類集団の一部が、5~6万年前までには東南アジアに渡来。アジア大陸に進出した後期更新世人類は北アジア(シベリア)、北東アジア、日本列島、南西諸島などに拡散した。シベリアに向かった集団は、少なくとも2万年前までには、バイカル湖付近にまでに到達し、寒冷地適応を果たして北方アジア人的特徴を得た。
日本列島に上陸した集団は縄文時代人の祖先となり、南西諸島に渡った集団の中には港川人の祖先もいた。1970年、沖縄県八重瀬町で国内最古の全身骨格・港川人みなとがわじん(1万8000年前)が発見される。この港川人を縄文人の祖先とする日本人のルーツ論がある。
約3万年前に人類が台湾から沖縄に渡った航海を人類学の研究者や探検家らからなるチームが再現して検証するプロジェクトが進んでいる。国立科学博物館(東京)が発表した。2016年夏、与那国島から西表島の75キロを、乾燥した草を束ねた舟で渡った。2017年は、さらに距離が長く、黒潮が流れる台湾から与那国島の海を航行する。
約20万年前にアフリカで誕生した現生人類が日本に渡ったのは、約3万8千年前とされている。チームを束ねる同博物館の海部陽介・人類史研究グループ長によると、ルートは三つ。朝鮮半島から対馬を通り九州へ入る「対馬ルート」、台湾から南西諸島を北上する「沖縄ルート」、ユーラシア大陸の北側からサハリンを経由する「北海道ルート」だ。
再現するのは約3万年前と考えられる沖縄ルート。島と島の間を舟で渡ったと考えられ、距離も長く、難易度が高い。どう海を渡ったか検証するため、現地で入手できる自然の材料で舟を作る。当時の遺跡からはオノが見つかっていないため丸太舟は除外。竹のいかだでは海を渡るのが難しいと考え、草舟で渡ったと想定した。
与那国島から西表島への航海は、与那国島に自生している多年草のヒメガマを、ツル性植物で束ねて作った舟を使う予定。計算では25時間程度かかった。台湾から与那国島への航行は、黒潮に流されるため200キロ程度になる。
果たして日本人は本当に、東シナ海を超え、台湾、沖縄を経由して南方からやってきたのだろうか?
石垣島で国内最古の全身骨格 日本人の起源解明に光
今回、日本人南方由来説を裏付けるような、日本最古の古代人全身骨格が発見された。場所は沖縄県石垣市の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡。身長は165.2センチで、比較的高齢の男性と推定されている。
沖縄県石垣市の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡で見つかった複数の旧石器人骨のうち、1体が国内最古となる約2万7千年前の全身骨格であることがわかった。同県立埋蔵文化財センターが5月19日、発表した。出土人骨は19体にのぼり、世界屈指の規模。4体は頭骨が残り、日本人の起源や旧石器時代の葬送思想を解き明かす画期的な成果だという。
同遺跡は、新石垣空港の敷地内で発見され、同センターや考古学、人類学などの専門家が共同で調査を進めてきた。約2万年前を中心とした人骨千点余りが安定した地層内から出土し、少なくとも19体とみられる。保存状態はよいという。
このうち4体は人類の系統を知るうえで重要な頭骨の復元が期待され、うち1体(4号人骨)は体つきまでわかる全身の骨がそろっていた。国内唯一の全身骨格例だった港川人(沖縄県八重瀬町、約2万2千年前)以来の発見で、日本最古の人類の姿を知ることができるといい、今後詳しく分析を進める。(朝日新聞 5/19記事)
3万年前の航海 徹底再現プロジェクト
「日本人のルーツ」という大きな謎。これまでに蓄積されてきた膨大な遺跡データから、新たに見えてきたことがある。5~3万年前に起こった、アフリカから日本列島までの祖先たち(ホモ・サピエンス)の大移動。そこには専門家もこれまで認識できていなかった、凄い過去があったことがわかってきた。
それは人類が海を越えて島に進出しはじめた最古段階の重要な証拠が、この日本列島にあったということ。最初の日本列島人は3万8000年前頃に対馬の海を渡って来た。つまり日本人は最初から航海者だった!
そして近年、沖縄の遺跡調査が進んだことから、琉球列島には「3万年前のハイレベルな航海」があったことがわかってきた。当時の台湾はアジア大陸と陸続きだったが、祖先たちはそこからなんらかの舟を出し、100 km 以上先の見えない琉球列島へ向かう航海に出た。それはおそらく世界最大の海流である黒潮越えを要する、たいへん困難な航海であった。
祖先たちはどうやってそれを成し遂げたのか。そもそもなぜそんなことに挑戦したのか──。こうした問いに答えて私たちの祖先の本当の姿に迫りたい。そのためにできる限りのことをしたい。
そこで、海部陽介(国立科学博物館 人類史研究グループ長)と、24名の多彩な分野の一流研究者・エキスパートたちが集結し、「3万年前の事実」を追求する実証実験プロジェクトが始動した。皆さんも大航海の”クルー”となって、この厚いベールに包まれた 大きな謎解きに一緒に挑もう。
日本列島は、人類の海洋進出のフロンティアだった 「人類史に刻まれるべき偉大な航海」 の発見
研究者である父親(海部宣男。国立天文台名誉教授。ハワイの「すばる望遠鏡」計画リーダー)からの影響もあり、幼い頃から自然科学、特に「人間の過去と成り立ち」に興味があった。今はその夢かなって、国立科学博物館で人類進化の研究者に。これまでジャワ原人やフローレス原人の研究などで成果を上げてきたが、最近では「アジア大陸におけるホモ・サピエンスの大移動と現代アジア人の成り立ち」をテーマにした調査をしている。そうした中、興味深い、知られざる事実に行き当たった。
それが前述の「日本人の祖先は海を渡ってやってきた」ということ。とりわけ琉球への航海は、当時の世界で最も困難なものであったはずで、人類の歴史の一幕として教科書にも記されるべきことだと思う。航海術の発達は、アフリカ生まれのホモ・サピエンスが全世界へ広がることができた原動力の1つ。その謎を解き明かす重要な証拠が、私たちの足元の日本列島にもあった。
「定説」への違和感。語られてこなかった祖先の本当の旅路。 祖先たちは海を越えてきた
今回のプロジェクトの発端の1つは、多くの研究者が採用している「海岸移住説」への私の違和感。この説では、最初のアジア人は海岸をつたってアフリカから東進したと考える。一部の欧米研究者は、この海岸沿いの移動は日本列島付近にまで達したと、さしたる根拠もなしに述べている。
しかし、遺跡データを厳選し、初期のホモ・サピエンスの遺跡の信頼できる年代だけを地図に落としてみたところ、海岸移住説とは異なる、もっとダイナミックなシナリオが浮かび上がってきた。祖先たちは沿岸部に限らず内陸部にも爆発的に広がり、寒冷地を含む多様な自然環境に素早く適応していったようだ。そうした文化的な適応能力を持つ集団が、北(サハリン→北海道)、西(朝鮮半島→九州)、南(台湾→沖縄)の3方から日本列島へ渡って来たはずだ。
このプロジェクトでは、その中で南の沖縄ルートに注目する。全長 1200 km におよぶ琉球列島には、その全域に3万年前頃までさかのぼる遺跡があるのです。偶然の漂流でこのような事態が説明できるだろうか?列島全域に広がっていたこと、子孫を増やして島に定着していた証拠があること、そして本州などで見つかっている他の証拠も合わせると、祖先たちはこの航海にあえて挑戦したと考えるしかない。
そもそも人類の起源とは?
人類の祖先として、時代によって猿人、とか旧人、原人、新人とか言った言葉をよく聞くが、人類というとどの時代のものを言うのだろうか?
「ラミダス猿人は」東京大総合研究博物館の諏訪元教授らの研究グループが、約440万年前の人類、アルディピテクス・ラミダス(ラミダス猿人)の化石から全身像を復元することに成功したもので、二足歩行をしていた人類としては世界最古のものとして注目されている。
人類とは生物の中で直立二足歩行が可能な存在。人類の進化は、アウストラロピテクスとよばれる猿人に始まった。彼らは400万〜500万年前に現われ、150万年目には姿を消してしまった。アウストラロピテクスは、直立2足歩行をするようになった初めての生物であった。
160万〜150万年前には、脳が大きくなり、歯が小型になったホモ・エレクトゥスが現われた。原人ともいわれる。ホモ・エレクトゥスも、はじめはそれまでのヒトの祖先と同じくアフリカの東部と南部だけで生活をしていたが、100万年前くらいからユーラシア大陸へと移動していった。
30万〜20万年前に、ホモ・エレクトゥスはホモ・サピエンスへと進化した。旧人である。ホモ・サピエンスは“知性あるヒト”という意味で、彼らは当時のきびしい氷河期の中でも効率よく食料を獲得することができた。また人類史上初めて死者に花を添えるなどして弔う習慣ができた。
それでは最古の日本人というと、どのくらいの昔になるのだろうか?
日本人の起源・旧石器時代
この日本列島に「人」が棲み始めたのは、いつ頃だろうか?
この列島は火山灰の影響で土壌が酸性化し骨の化石が残りにくいことから、人骨化石でもって、それを実証することはなかなか難しい。
1948年、野尻湖畔の旅館の主人であった加藤松之助が、野尻湖底でナウマンゾウの臼歯(きゅうし)を発見した。このナウマンゾウはおよそ40万年前、中国大陸から日本に渡ってきたアジア象で約2万年前まで生息したことが知られている。
ナウマンゾウやオオツノジカなどの黄土動物群など大型食用動物を追って、原人や旧人がこの日本列島にやって来ていたことは想像に難くない。
また、樺太経由で北海道や東北地方まで、マンモスやヘラジカを求めて、北の狩人・マンモスハンターたちも来ていたであろうと考えられる。
この時代を前期旧石器時代、或いは中期旧石器時代と呼ぶ。当時は大陸と陸続きだったので、自由に人や動物は行き来できたのである。
日本人の二重構造モデル
しかし、この時期の「人」は現代の日本人の祖先とは違う。私たち日本人の祖先は、いつどこからこの日本にやってきたのだろう?
この問の答は、自然人類学の埴原和郎氏の「二重構造モデル」が最もポピュラーである。「二重構造」モデルとは何であろうか?
日本人のルーツ(起源)がたどれるのは、後期旧石器文化がこの地に現れ始めた時代からである。この時期の日本人は、かって東南アジア(スンダランド)に棲んでいた古いタイプのアジア人集団−原アジア人−をルーツに持つ。
沖縄本島の南端・具志頭村港川の採石場から、1968年、アマチュア研究者の大山盛保によって5〜9体分の人骨が発見された。日本で唯一と言っていい旧石器時代人(18,000年前)の完璧な人骨化石・港川人の発見である。
埴原和郎氏は港川人は中国南部の柳江人やジャワのワジャク人 に似ているが、中国北部(河北省)の山頂洞人とはかなり違っている。従って港川人を初めとする日本の旧石器時代人のルーツは、中国南部から東南アジアにかけての地域という可能性が高いとし、とりわけ東南アジア島嶼部(スンダランド)ではないかとしている。
閉鎖的縄文人
旧石器時代人に続く縄文人も、骨の形からみると港川人やワジャク人の特徴を受け継いでいるので、縄文人の祖先も同じように、東南アジア系の集団だったと考えられる。
その縄文人は1万年もの長期間に亘って日本列島に生活し、温暖な気候に育まれて独特な文化を熟成させた。
大陸との交流は皆無ではなかったにせよ、縄文文化は一種の鎖国、閉鎖環境の中で熟成されたと考えられる。すなわち縄文人は1万年の間、混血など他の集団の影響を受けず、純粋な集団として小進化をしたとしている。
気候が冷涼化するにつれて北東アジアの集団が南下し、渡来して来た。おそらくこの渡来は縄文末期から始まったが、弥生時代になって急に増加し以後7世紀までのほぼ1,000年にわたって続いた。
この集団は、もともと縄文人と同じルーツをもつ集団だった。だが、東南アジアから北上し、且つ長い期間に亘って極端な寒冷地に住んだため「寒冷適応」をとげ、その祖先集団とは著しい違いを示すようになった典型的アジア人である、という。
これで明らかなように、埴原氏はホモ・サピエンスは東南アジアに達した後、北上して北東アジア人が成立したとし、最近、定説化している、ヒマラヤの裏を通って北上した超初期型のモンゴロイドの集団があったという説を認めていない。
また、埴原氏の二重構造モデルで特徴的なのは、弥生時代の渡来人をかなり北方の民族としていることである。
渡来した弥生人
大陸からの移動人口は先住の縄文人の数をはるかに上回るほど多かった。その結果水稲耕作や金属器に代表される大陸の先進文化が流入し、採集・狩猟を中心とした縄文文化が一挙に農耕中心の弥生文化に変貌した。これは埴原の100万人渡来説として有名である。
渡来集団はまず北部九州や本州の日本海沿岸に到着し小さなクニグニを作り始めた。更に彼らは東進して近畿地方に至り、数々の抗争を経て統一政府、つまり朝廷を樹立した。
朝廷は積極的に大陸から学者や技術者などを導入したこともあって、近畿地方は渡来人の中心地となった。また土着の縄文人を同化するため北に南に遠征軍を派遣したり、地方に政府の出先機関を設置した。
渡来系遺伝子はこのようにして近畿を中心に徐々に地方へ拡散した。したがって縄文系と渡来系との混血は近畿から離れるにつれて薄くなるという「遺伝子の流れ」を造った。
上記の混血がほとんど、或いは僅かしか起こらなかった北海道と南西諸島に縄文人の特徴を濃厚に保持する集団が残ることになった。アイヌ人と沖縄の集団がそれであり、彼らがいろいろな形質や遺伝子などで共通するのも説明できる。
以上が埴原和郎氏が考える日本人形成史の概要であり、日本人集団の主な構成要素を縄文系と渡来系の二つと考えることから「二重構造モデル」と名付けたと言う。(出典:日本人の起源HP)
参考 日本経済新聞: 石垣島で国内最古の全身人骨 2万7千年前と推定
雑学 古代日本の謎と不思議―日本人の祖先(ルーツ)をめぐる秘話がいっぱい!! | |
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