僕は幼い頃から色んなものを疑ってかかった。授業中何度も質問する僕に教師は愛想を尽かし無視する事は幾度となくあった。
「なぜ1+1は2なんだ?」
「Aは何でエーと発音するんだ?」
「なぜペンは離すと下に落ちるんだ?」
こんなガキを嫌った大人達は僕をほったらかしにした。でもそのおかげで僕はよく本を読むようになった。学生時代は興味ない教科を聞かず図書室にこもったり、教室で授業とは関係ない本を読みふけっていた覚えがある。
僕の疑問に身近な大人は答えてくれないけど本は教えてくれた。小学5年生の僕に仏教への興味を抱かせてくれたのはある仮説だった。
「もしかして善い事も悪い事もやった事は返ってくるんじゃないの?」
子供向けの本も周囲の大人も教えてくれなかったいくつかの哲学はお坊さんが教えてくれた。そういうものへの好奇心を育ててくれたのも仏教だったし、臨死体験をしてからそういうものへの意欲は強くなっていた。
でも、ある答えだけ、仏教とは相容れなかった。
「森羅万象を疑っているこの私は誰だ?」
僕は断言した。『私は存在する』
しかし、何人ものお坊さんは無我を連呼した。確かにそれは解かる。僕だって心や体が私だとは思わない。なぜなら、それらが私ではないと理解している存在があるからだ。しかしお坊さんは「それは実体として存在しない」と言った。
「そう認識したのは誰だ?」
私は存在しない*1という想念をみている者こそ私なんだ。これこそ実体である。僕はそれがわかって心が楽になった。そして仏教からは離れた。
その頃、僕が手に取っていたのはヒンドゥー教の聖典だった。インスタに書いているラマナ・マハルシとはアドヴァイタの聖者。
アドヴァイタ
ヒンドゥー教ヴェーダーンタ学派において、8世紀のシャンカラによって唱えられた学説。これはヴェーダンタ学派における最有力の学説*2
さらに、ラマナマハルシの弟子であるマハラジやムージの本も読んだ。 それ以来あんまり哲学的な疑問は湧き出てこなくなったし、黙っている事が多くなった。
*1:無我
*2:ウィキペディアの執筆者,2016,「不二一元論」『ウィキペディア日本語版』,(2016年4月16日取得,https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%B8%8D%E4%BA%8C%E4%B8%80%E5%85%83%E8%AB%96&oldid=59369054).クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 Unportedライセンスの下で利用可能です