大臣時代活動〜北朝鮮工作船進入事件 46年ぶりの決断〜

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北朝鮮工作船進入事件(46年振りの決断)

 2001年12月22日、議員会館で政務に励む川崎に海上保安庁から一本の連絡が入った。それは「奄美大島近海で国籍不明の不審船を追跡、停船命令を出したが応じず本日午後2時36分不審船に向け威嚇射撃を行なった」というものだった。
 その後も海上保安庁から川崎の元へ、驚愕の報告が次々と届けられた。
「不審船は停船、逃走を繰り返し午後10時9分、同船からの攻撃により巡視船あまみ・きりしま・いなさが被弾。海上保安官3名が負傷。また同船はロケット弾様のものを発射。巡視船あまみが正当防衛のため、同船に対して射撃を実施」
「午後10時13分、同船沈没。以後、海上保安官の安全を確保しつつ、漂流中の同船乗組員の捜索救助を実施」
 海上保安庁が船体射撃にまで踏み切ったのは1953年旧ソ連船に行なわれて以来48年ぶりの事。これは、川崎が海上の治安維持を司る海上保安庁の最高責任者として指示をくだした1999年の能登半島沖不審船進入事件のマニュアルを基に対応を強化してきた政府の判断であった。
 1999年3月23日、この日は運輸大臣川崎二郎にとって一番長い日となった。
追跡劇は23日早朝、海上自衛隊の哨戒機P3Cが能登沖で2隻の不審な船を発見した時から始まった。海の安全を守るのは川崎の指揮下にある海上保安庁の任務だ。防衛庁から海上保安庁に不審船の存在が伝えられたのは午前11時ごろ。海上保安庁はこの2隻を船体の状況、船籍の確認から不審船として漁業法第74条3項の基づく臨検を行なうべきと判断、巡視船を現場へ急派させ、不審船への停船命令を出させた。
 巡視船「はまゆき」・「のと」・「くろべ」が出動し、先に到着していた海上保安庁の航空機が不審船「第二大和丸」にたいし午後1時18分に停船命令を出し、午後2時には「第一大西丸」に6分間の停船命令を出した。しかし不審船は停船命令を無視して逃走した。

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偽装漁船「第二大和丸」 偽装漁船「第一大西丸」

 川崎のもとにその連絡が入ったのは午後3時ごろであった。報告を受けた川崎は首相官邸に乗り込み防衛庁長官、外務大臣ら関係閣僚が急遽召集された。そして午後5時40分、関係閣僚会議が首相執務室で始まった。川崎は小渕首相に不審船をめぐる23日早朝からの動きを説明。会議中の野呂田防衛庁長官からの「基本的には海上保安庁の仕事」との発言には「海保の仕事なので全力をつくす」と引き取ってから「ただし海保の力で十分対抗しきれない時には再度報告するので、その際は協議をお願いしたい」と付け加え、全閣僚に対しいつでも連絡がとれる退勢を整えるよう求めた。
この時川崎の脳裏には、不審船が予想をはるかに超えた高速力である場合には拿捕が難しいのでは、との思いがよぎっていた。
川崎は当時の事を振り返り決断は正しかったと語る。「船の現有能力に問題はあるが第一次的には海保の仕事なのだから海保が中心となって全力で対処すべきことに変わりはないだろう」
 そして午後6時10分には首相官邸・危機管理センター内に「不審船に対する官邸対策室」を設置。運輸省に戻った川崎は、第九管区に対応を委任し「法律で許される範囲内で最大限の努力をするよう」指示した。1953年以来46年間行なわれていなかった威嚇射撃についても、現場での判断を最優先にするよう指示をだした。
 午後6時39分、川崎は不審船の写真を手に緊急記者会見に臨み、発見の経緯とそれまでの追尾を始めて公に発表した。
 午後7時31分、川崎に対応を一任されている新潟市の第九管区海上保安部・岩男登本部長から追跡する巡視船に威嚇射撃の指示を出したとの報告をうけた。それまで12ノットほどで逃走をしていた不審船は22ノットまで速力を加速。追跡中の巡視船の内「はまゆき」・「なおづき」は威嚇射撃をともなった懸命な追跡にもかかわらず速力不足、燃料不足により午後9時30分には追尾をあきらめざるをえなかった。

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巡視船「ちくぜん」による威嚇射撃 巡視船「はまゆき」による威嚇射撃

 不審船はその後もグングン速度を上げ、ついには35ノットにまで達した。午前0時30分、川崎は35ノットで疾走する不審船には海上保安庁の船では事実上不可能であると判断、首相官邸対策室で連絡会議が行なわれる中、川崎は野呂田防衛庁長官に「権限行使にならない範囲内で警戒監視の観点から」追尾に協力を要請した。
 しかし、創設以来始めての「海上警備行動」に出動した海上自衛隊も威嚇射撃に留まり、不審船のスクリューにネットを絡ませる「ネット作戦」も不成功に終わった。
 深夜にわたる追跡劇はこうして失敗に終わった。川崎は事件後「日本の領海警備の重要性は増しており今回足りなかった海保の能力、整備を増強していかなければならない」と決意を語り、海保に対し技術的・制度的な指示を出した。具体的には「海上保安庁長官を通じ全国の管区本部に対して領海内安全管理の強化を指示」、「海保所属の航空機への催涙弾・剛球・銃器などの搭載」、海保から川崎への連絡の遅さから「海保庁内に危機管理指令センターの設置」「海保、防衛両庁の合同訓練」「法整備の検討」などである。
 川崎のこのような具体的な指示、又その後の「海上保安庁法・自衛隊法の改正」は日本の不審船に対する体制作りに生かされた。不審船からロケット弾による攻撃を受けた2001年の事件に対して日本が万全の体制で望めたのは川崎の判断・「同じ轍は踏まない」という対応によるものといえる。



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