成徳ジュニアは5人の子供たちでスタート、中学校の授業が終わってから成徳高校に集まってトレーニングと基礎練習をする日々が始まりました。
まあ、バレーボール塾とか、バレーボールスクールに通っているイメージですね。
子供たちを6カ年計画で育てるという考え方は、27年前の成徳ジュニア発足からのものであり、現在になっても
『バレーボールを嫌いにさせない』
『子供たちを長い目で見て育てる』
という考え方はずっと受け継いでいます。
それとその頃と言えば、あちこちで中学校や高校バレーの指導者の暴力をよく耳にしていましたから、
『絶対に叩かないで勝つ、叩かないで上手な選手に育てる、考えられる選手に育てる』
という、他にはできない指導をすることを小川先生は徹底されていました。
そうして2年間で10数名の選手が集まり活動していましたが、彼女たちの成長は予想通りとなり、招待試合では負けなくなりました。
しかし、どんなに強くても中学校の大会には出場できません。
それはモチベーションの低下につながる要因ですし、将来の有望選手を集めることには限界がありました。
悩んでいたそんな時に、当時の成徳学園の理事長が中学校を再開してくださることになり、成徳ジュニアは3年間の活動を終えて発展的に解散し、成徳学園中学校バレーボール部が誕生しました。
一方で成徳ジュニアの子供たちと一緒にバレーボールをしたい、夢を追いかけたいという有望な中学生が数名、ジュニアの選手たちとともに成徳学園高校に入ってきました。
小川先生と夢を語ってから5年が経過した3月、ついに夢に描いた春の高校バレーに初出場を果たしました。
成徳ジュニアの子供たちが高校2年生を迎える3月だったと記憶してますが、もしかしたら1年ずれているかもしれません。
小川先生、安藤先生、鈴木トレーナーと飲んで描いた10年計画の春高初出場の夢をわずか5年足らずで小川先生が叶えてくれました。
その頃には、成徳中学校のバレーボール部も活躍を始めており、こちらにもいろいろな小学生チームから原石を集めて育てるという成徳ジュニア方式が採用されて確実に力をつけ始めましたので、未来への展望は開けてきました。
成徳ジュニアの1期生からユミという選手が日立に入社。初のVリーガーも誕生しました。
そして、成徳学園中学校は東京都大会、全国大会で優勝する実績を残し始めたのですが、成徳学園中学校1期生の選手たちが春の高校バレーで初の3位になった時(これは小川先生と出会ってから8年か9年が経過していました)に、サンケイスポーツの解説欄に【これから成徳学園高校の時代が確実にやってくる】という記事を見つけた時は、嬉しくて嬉しくて一人で浴びるほど酒を飲んだ記憶が蘇ります。
その1期生のセッターもVリーガーデビューを果たし、現在は下北沢成徳高校バレーボール部のコーチとして小川先生のお手伝いをされています。
と、まあ成徳学園高校(現在の下北沢成徳高校)が、黄金時代を迎える初期の頃の話です。その後の成徳学園高校の活躍はご存知の通りで、数多くの全日本選手(8〜9名)Vリーガー25名強を輩出するなど、バレーボールの名門校となりました。
しかし順風満帆の日々は続きません。これまでの間、実は多くの苦難の時期もありました。成徳学園中学校が再び生徒の募集停止を行い、休校になった時は、私と小川先生の夢は終焉を迎えるまでになりました。今から約13年前ころとなるでしょうか。
来年から中学の募集停止を告げられた時は大ショックでした。
狛江セブンから富永こよみ選手をいただいた年でしたから、はっきりと覚えています。
この苦難の道をどう乗り越えて、今の成徳があるのか?
それは秘密ですね。それを話すと本が一冊書けます。マジで。
では、明日からは成徳学園中学校のバレー部の話題ですよ。