僕は映像に携わる上で、一番大事な要素は技術でもセンスでもなく、「倫理」だと思っている。
これは、いわゆるゴダールの「トラヴェリングとは倫理である」というテーゼに基づくものだ。
ジャック・リヴェット「卑劣さについて」を読む
記憶だけではやっぱりダメだから、一次資料にあたってみたら興味深い記述が出てきた。
まぁこれも厳密には一次資料ではないのだが。
ゴダールが言い出した訳ではなかったのね。
ちょっと長いが引用しよう。
ここで言う「道徳(倫理)」とは、もちろん学校で教わる道徳のことではない。むしろ逆かも知れない。
「愛がすべて」とか「家族を大切にしよう」とか「アイドルはキラキラしてなきゃダメなんだ!」とか(笑)、そんな「形式主義」に陥ることなく、この世の不可解さや複雑さに、裸眼で対峙することだ。
カメラを通して、「くもりなき眼」で、ただひたすら世界を見つめ続けることだ。
映画の役割というのは、究極言ってしまうと、それだけしかない。それだけしかなかったのだ。
「映画はリュミエール兄弟が始め、リュミエール兄弟が終わらせた」と良く言われるのも、そういう理由だ。
「演出」というのは、時に(いやしょっちゅう)この視点を妨害する。僕は歳を取ると共にこのことに気づき、変なことは極力しないよう、突飛なアイディアは封じていくようにしてきた。
ジャック・リヴェットは「形式主義」が「恐怖政治」化することまで憂いでいる。そこら辺のオタクどもに聞かせてやりたいね。まぁ全然理解できないだろうけど。
これは、いわゆるゴダールの「トラヴェリングとは倫理である」というテーゼに基づくものだ。
ジャック・リヴェット「卑劣さについて」を読む
記憶だけではやっぱりダメだから、一次資料にあたってみたら興味深い記述が出てきた。
まぁこれも厳密には一次資料ではないのだが。
ゴダールが言い出した訳ではなかったのね。
ちょっと長いが引用しよう。
話は変わるが、ムレの「道徳とはトラヴェリングに関わる事柄である」という文章(またはそのゴダール版の「トラヴェリングとは道徳に関わる事柄である」)は、あちこちで大いに引用されたが、たいていの場合、かなり愚かな仕方で引用された。人はそこに形式主義(formalisme)の頂点を見て取ることを望んだのだ――〔ジャン・〕ポーランの用語法を借りるならば、むしろその「恐怖政治」的な行き過ぎを批判することもできるのに。しかしながら、『カポ』で〔エマニュエル・〕リヴァが電気の流れる有刺鉄線に身を投げて自殺するショットを見るがよい。その瞬間に、死体を仰角で再び画面に収めるべく前方へのトラヴェリング(travelling-avant)を行い、挙げられた手が最終的なフレーミングでちょうど角に刻まれるように気を配ることにしたこの男は、最も深い軽蔑にしか値しまい。私たちは数ヶ月前から、形式と内容とか、リアリズムと夢幻劇とか、脚本と「演出」とか、自由に演じる俳優か制御された俳優かとか、その他のたわごと(balançoire)といった偽の問題にうんざりさせられている。あらゆる主題は権利上、生まれながらにして自由かつ平等であるのかもしれないが、重要なのは、色調(ton)、あるいは語調(accent)、ニュアンス――どれでも好きなように呼べばよいだろう――であり、すなわち、ある人間――作家という必要悪――の視点であり、その人間が自分の撮るものに対して、したがって世界と森羅万象に対して取る態度なのである。それは状況の選択や、筋書きの構築や、台詞や、俳優の演技や、純然たる技法(technique)のうちに、「一様におなじだけ」(indifféremment mais autant)表れうるのである。恐れとおののきを抱きながらでしか取り扱うべきではない事柄というものがある。おそらく、死はその一つであろう。これほど神秘的な事柄を撮影する瞬間に、どうして自分が詐欺師だと感じずにいられるだろうか? ともかく、自分に問いを課し、その問いかけを何らかの仕方で自分が撮るもののなかに含める方がよいだろう。だが、疑いこそ、ポンテコルヴォやその同類に最も欠けているものなのだ。
ここで言う「道徳(倫理)」とは、もちろん学校で教わる道徳のことではない。むしろ逆かも知れない。
「愛がすべて」とか「家族を大切にしよう」とか「アイドルはキラキラしてなきゃダメなんだ!」とか(笑)、そんな「形式主義」に陥ることなく、この世の不可解さや複雑さに、裸眼で対峙することだ。
カメラを通して、「くもりなき眼」で、ただひたすら世界を見つめ続けることだ。
映画の役割というのは、究極言ってしまうと、それだけしかない。それだけしかなかったのだ。
「映画はリュミエール兄弟が始め、リュミエール兄弟が終わらせた」と良く言われるのも、そういう理由だ。
「演出」というのは、時に(いやしょっちゅう)この視点を妨害する。僕は歳を取ると共にこのことに気づき、変なことは極力しないよう、突飛なアイディアは封じていくようにしてきた。
ジャック・リヴェットは「形式主義」が「恐怖政治」化することまで憂いでいる。そこら辺のオタクどもに聞かせてやりたいね。まぁ全然理解できないだろうけど。