最近、マラソン好きなおじさんって多いじゃない❓
私もそうなんだけど❗😅
マラソンとか筋トレとか百名山にハマる中年は、それ自体が楽しいのではなくて、承認欲求を満たすためにやってる、という話をどっかで聞いたことがある。
他の人はどうかわからないけれど、私、それを見てかなりギクッ😲とした。
承認欲求を満たすためにマラソンしてた私
そもそもなんでフルマラソンみたいなことするの❓とよく聞かれる。
見栄を張って、健康のためとか、自分に試練を課すとか、サブスリーを目指したいとか言ってたけど
本音を言えば承認欲求を満たしたいだけかな😅
だって、フルマラソンを○時間以内で走りました❗とかいって、フェイスブックにでも投稿すると、みんな注目してくれるでしょ❓😅
そうやって認めてもらえないと、自分はいつか見放されてしまうみたいに思ってたのよね。
昔は。
年3回のフルマラソンに当選してしまった
幸か不幸か、ひとシーズンで3回の大型大会に当選してしまったことがあった。
貧乏性だし、めったにないことなので、すべて走る💨ことにしたんだけれど、これがキツい。
承認欲求を満たしたいといっても、さすがに毎月のようにフルマラソンを走るのはしんどい。
で、3回めの大会の時なんて、もうやる気ゼロで、ろくに練習もせずに参加した。
(それでもサボらないのは、エントリー料に万単位のお金を払っているから💦)
ろくに練習もしてないので、タイムもひどいだろうし、どうせフェイスブックでも自慢できない。
だからいつでもリタイヤしていいやって気持ちでスタートをする。
でも、1万円以上払ったんだから、元は取りたいと思う😅
どうしようか……と、走りながら考えた結果、
今回は完走やタイムを目指さずに、沿道の人にひたすら「ありがとう」を言う大会にしよう
と勝手にルールを変えることにした。
正確に数えてはいないけれども、おそらく500~1000人 程度の人に「ありがとう」を言えたんじゃないかな。
わずか4時間程度の間に、これだけの人一人ずつに「ありがとう」を言う機会なんてないから、楽しかった😊
「ありがとう」を言いまくっている時に、いろいろな発見があったのだけれども、今日のテーマとは異なるので、また別の機会にでも書こうと思う。
ルールを変えると、自分のための走りができる
冒頭にも書いたけれども、私は承認欲求を満たすためだけにフルマラソンを走っていた。
だから、ノンストップで走りきることや、タイムがとても重要だった。
(フェイスブックで自慢して、「いいね!」を押してもらいたいから😅)
でも、こういう走りは苦しいのよね。
皆の共通する価値観(マラソンは○時間以内で走るとすごい)の中を走っているにすぎなくて、誰かが決めたものさしで評価されるために走っているようなものだからね。
誰かが作った基準や指標(サブスリーだとかサブフォーだとか)より、よい結果が出れば満足して、そうでなければ不満足になるという世界を生きることになる。
でも、自分の決めたルール(ありがとうを言って走る)で走ると、他人の決めたマラソンの価値観から自由になる。
タイムのような共通の価値観を指標にしないので、
「もっと練習しておけば、みんなに認められるタイムが出たのに」という過去の後悔や、
「このままだとみんなに認められるタイムでゴールできそうにない」という未来の不安から自由になれる。
「『ありがとう』と言うと、この人はどんな反応をするか」ということだけを考えて、今ここを走ることができる。
「ありがとう」と言って走るのは、誰かに評価される走りではない、自分だけに適用されるルール。
しかし他人の作ったルールやものさしという価値観を走らず、自分なりのルールを設定し、自分自身の価値観を走れば、見えないもの(ありがとうへの反応)が見えてくる。
そんな風に思って走ってると、自分ルールで走ってそうな人って、結構いるのよね。
私が印象的だったのは、ゴミ袋を持って、沿道のゴミを拾いながら走っている人。
彼もまた、タイムや完走といった他人の価値観を走るのではなく、ゴミを拾うことで見えてくる何かを求めながら走っていたのだと思う。
私が「自分自身の価値観で走る」ことを覚える前だったら、ゴミ拾いしながら走るだなんて、単なるパフォーマンスとしか思えなかっただろうな。
当然、私もゴミを拾って、彼に渡したよ。
ありがとうって大きな声で言ってね😉