昨日、次のようなツイートをした。

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そうしたら、「デモを無駄だと言うのか」などという反応がSNSを通して複数寄せられたので、ぼくは考えてしまった。

デモをする権利は、もちろん表現の自由だし、民主主義において必要なことだから、それを否定するつもりはない。

ぼくは、国会前のデモが、もし、国会の中にいる人たち(議員さんたち)になんらかの感化をもたらすことを目的としているのならば、その限りにおいて、近年の経験に基づけばどうも効果がないようだから、議員向けの訴えかけとしては意味がないのではないか、と書いたつもりだったのだけれども、上のツイートはそう読めないだろうか。

思い起こせば、安保法案の時に、ぼくはSEALDsの人たちに呼ばれて、国会前に行った。

あの時、ぼくの中では、そこで何かを喋ることは違うな、と思っていた。

結果として、あのようなパフォーマンスをすることになったけれども、あれはぼくなりに考えた結果で、後悔もしていないし、やってよかったと思っている。

そのことについて、SNS上でいまだに言われるけれども、そんなことを気にしていたら仕方がないわけで、もし、国会前に行く気になったらまた行こうと思う。
しかし、いつ行くかわからないし、その時に何をするのかも、わからない。

ぼくは、国会の「中」と「外」がつながることは大切だと思っている。
昨日の一連のツイートは、国会の「中」が、ロボット化していることを皮肉るのが趣旨であって、デモをやっている方々に対する揶揄ではないことは、全体の文脈を読めばわかるはずだ。

政治資金を党本部に抑えられ、幹事長に党公認という生命線を抑えられ、重要法案に対する反対でもしようものなら、干され、締め上げられて議員の地位が危うくなる。だから、党本部、官邸の意向を「忖度」して、マスゲームのごとく、一糸乱れず集団行動する、という議員さんの心理は、人間として理解できないわけではないけれども、代議制の民主主義においては、致命的な事態だと思う。

本当は、官邸や幹事長などの上層部が、以上のような民主主義の危機を察知して、自らの権力の行使について、抑制的になってくれればいいな、と思うけど、それが期待できないのならば、制度、システムを変えるしかないのかな、と思う。

最近のSNSの様子を見ていると、このようなclarification(このような意味ですと説明すること)を丁寧にして行かないと暗黙知では通じなくなっているように感じるので、このようなエントリーを書く次第です。