イギリス連合王国は「合意による民族」か?
http://mises.org/daily/6886/Is-the-UK-a-Nation-by-Consent
編集者から:
今日スコットランドはイギリス連合王国からの政治的脱退に関する住民投票を開催する。
リバタリアンにとって、どちら側の投票を取り巻く政治も疑わしい。グローバリスト銀行階級の側は、かつてなく分権に恐怖しながら、ウエストミンスターの経済的援助(福祉と読め)とウエストミンスターの軍事力とウエストミンスターの通貨がスコットランドには必要だと警告した。他方で大いに社会主義的なスコットランド人たちは――ある主人から他の主人のもとへ去り――ホリールードの新しい同盟がブルッセルへのもっと啓蒙的な道連れとともに治めるもっと「平等主義」的な社会を求めた。
常のとおり、リバタリアンは第一原理に焦点を当てるべきだ。マレー・ロスバードの1993年のエッセー『合意による民族:民族国家を分解する』はまさにこれを行う。
ロスバードは正しい疑問を立てる:民族“a nation”とは何か? 何が民族を正統なものにするのか? いつ脱退が許されるのか? 国境開放と移民開放は許されるべきか? いかに市民権と投票権が与えられるべきか? 完全に私的な無政府資本主義国はいかに運営されるのだろうか?
我々が国家に反対し、中央銀行に、および増加中のグローバル・クローニー・政治階級に反対するときには、我々が問うべき疑問が、そして答えるべき疑問が存在する。
合意による民族:民族国家を分解する
原著者:マレー・N・ロスバード
[『リバタリアン研究のジャーナル』“Journal of Libertarian Studies”11第1号(1994年秋):1-10ページではじめに発表された。]
リバタリアンは二つの重要な分析単位に焦点を当てる傾向がある:個人と国家だ。けれども我々の時代のもっとも猛烈かつ重大な出来事の一つは、現実世界の非常に無視されてきた第三側面、「民族」“the nation”がここ5年で――いきなり――再発生したことだった。普通ちょっとでも「民族」が想像されるときは一般語「国民国家」“the nation-state”でのように「国家」“the state”に添えられて思い浮かべられる。この概念は最近の数世紀での特殊な発達を受け継いでおり、それを普遍的なマキシムに仕立て上げている。しかしながらソビエト連合と東ヨーロッパでの共産主義の腐敗の結果として我々がここ5年で目にしてきたものは、民族で構成された民族国家とされるものや集権国家の驚くほど迅速で盛んな分解である。本物の民族“nation”や民族性“nationality”が世界の舞台に劇的に再登場してきた。
内容
- 民族の再発生
- 「集団的安全保障」の虚偽
- 脱退再考
- 純粋無政府資本主義モデル
- 開放国境、あるいは聖人のキャンプ問題
- 内飛び地と外飛び地
- 市民権と投票権
民族の再発生
「民族」は、もちろん国家と同じものではない。ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスとアルバート・ジェイ・ノックのような古典的自由主義者と初期のリバタリアンが十分に理解していた違いだ。当代リバタリアンはしばしば勘違いして、個人がただ市場交換の連結だけで互いに縛り付けられる想定する。彼らは誰もが必ず家庭と言語と文化に生まれ合わせることを忘れたのだ。すべての人物が一つかいくつかの重なり合った共同体に生まれ合わせ、普通そこはエスニック集団“an ethnic group”と特定の価値観と文化と宗教的な信念と伝統を含む。彼は一般的に「国土」“a country”に生まれ合わせる。彼は常に特定の時間と空間の歴史的文脈に生まれ合わせ、この文脈は隣人と陸上地域“land area”を意味する。
現代ヨーロッパ民族国家は典型的な「主要国」“the major power”だが、ちっとも民族として始まったものではなく、或る民族集団――由来する国土の「中央」にあって首都に本拠を置いたもの――による非主流派の他の諸民族集団に対する「帝国的」征服として始まったものだ。「民族」“a nation”とは客観的現実に基づく民族集団“nationality”の主観的感情の複合体だから、帝国的中央国家は周辺で服従民族集団の間に帝国的中央への降伏を組み入れる挙国一致“national unity”の感覚を作り出す際その成功の程度はさまざまだった。グレートブリテン島ではコーンウォル民族主義“nationalism”がほとんど踏み消されてきたように見えるけれど、イングランド人は水面下のケルト民族とスコットランド人とウェールズ人の民族的大望を決して真には根絶してこなかった。スペインでは、マドリードに本拠地を置いた征服者のカスティーリャ人は――世界の人々がバルセロナ・オリンピックで見たとおり――カタルーニャ人とバスク人の民族主義を、またガリシア人やアンダルシア人の民族主義をすら決して消し去りきれなかった。本拠地からパリに移動したフランス人は、ブルターニュ人とバスク人を、またオック語の人々を決して完全には飼いならせなかった。
集権的かつ帝国的なロシアのソビエト連合の腐敗がさきのソビエト社会主義共和国連邦内で以前は抑圧されていた民族主義の蓋を開けたことはいまやよく知られており、しかもロシア自体、あるいは「ロシア連邦共和国」が、ロシア人が彼らのモスクワ中央から移動してタタール人とヤクート人とチェチェン人およびその他諸々を含む多くの民族を強引に編入したいささか古い帝国的構造であることもいまや明らかになりつつある。ロシア連邦共和国の大部分は、19世紀、ロシア人とイギリス人の衝突が中央アジアの大部分をまんまと切り分けた期間に帝国的なロシアの征服から生じたのだ。
「民族」は正確には定義できないが、異なる形態の共同体や言語やエスニック集団や宗教の、複雑かつ多様な集まりである。スロヴェニア人のようないくつかの民族や民族性はエスニック集団と言語のどちらも独自であるかたわら、ボスニアで戦争中の集団のような他の民族は同じエスニック集団であり同じ言語だがアルファベットの形式が異なり、宗教で激しく衝突している。(東方正教会セルビア人と、カトリック教クロアチア人、およびイスラム教ボシュニャク人。ボシュニャク人は問題をさらに複雑にさせることに元来マニ教ボゴミル異端説の擁護者だった。)
民族性の問題は客観的に存在する現実と主観的な知覚の交錯によりもっと複雑になる。民族主義とは、ハプスブルク下の東ヨーロッパ諸民族やイギリス連邦下のアイルランド人のようないくつかの場合、水面下の言語を、ときに廃れつつある言語を含むものであり、意識的に保存され、発生させられ、そして拡張されるべきものだった。これは19世紀には知的エリートに決定されて行われ、帝国的中央の下で生き、そして帝国的中央に部分的に吸収された非主流派を復興させようともがいていた。
「集団的安全保障」の虚偽
民族の問題はウィルソン主義がアメリカと世界の外交政策に及ぼした圧倒的影響によって20世紀に余計に悪化してしまった。私は「民族自決」という主に第1次世界戦争後に違反が観察される観念に言及しているのではなく、「侵略に対する集団的安全保障」の概念に言及している。この魅惑的な概念にある致命的な欠陥は、これが街角警察のふりをした「世界共同体」と個人的侵害者の類推によって民族国家を扱うことだ。警官は、たとえば人Aが人Bの財産に侵害や窃盗をするところを目撃すると;もちろんBの私有財産、人格や所有物をあわてて保護しようとする。同じように、二つの民族や国家の間の戦争は似た面をもつ仮定される:すなわち、国家Aが国家Bに侵入や「侵略」をすると;「国際警察」やその推定上の代理人によって国家Aは即座に「侵略国」と称される。国際警察や代理人とは国際連盟、国連、アメリカ大統領、または威厳あるニューヨークタイムズ紙の論説委員のことだ。それから世界警察は、それが何なのか分からなくとも、「侵略の原理」を止めるための行動に、あるいは「侵略者」が大西洋を泳いで渡って来てニューヨークやワシントンの全居住者を殺害するとかいう推定上の目標を実行するのを妨げるための行動に、さっと移るものと思われている。侵略者とはサダム・フセインやボスニアのセルビア人ゲリラのことだ。
この通俗的な論法が孕む決定的な欠陥はアメリカの空軍や陸軍が本当にそれほど危なげなくイラク人やセルビア人を根絶やしにできるのかというお決まりの議論の欠陥よりも深い。決定的欠陥は分析全体の暗黙的仮定にある:すなわち、あらゆる民族国家がその全地理的地域を「所有」する仕方は、あらゆる個人的財産所有者が彼の人格を所有する仕方と同じ、および彼が相続してきたか、働いたか、自発的交換において所得した財産を所有する仕方と同じ、公正かつ適当な仕方である、という仮定にあるのだ。あなたや私の家、資産、または工場の正当性と同じように、典型的な民族国家の境界も正当だとか難癖を付けられないとでもいうのか!
古典的自由主義やリバタリアンだけがではなく、この問題のことを考える分別ある誰もが轟くような「否」を答えにすべきであるように私には思われる。あなたや私の肉体人格や私有財産となぜか同じように潔白かつ無違反のまま残すべき「領土保全」“territorial integrity”を伴いつつ、あらゆる民族国家が、そしていつでも存在するとおりのその自己宣言された国境とともに、どういうわけか正しくて神聖不可侵なのだ、と称するのは不条理である。もちろんこれらの境界は例外なく武力と暴力で獲得され、あるいは現場の居住者の肩越しの国家間協定で獲得されてきたし、まことに滑稽にも「領土保全」宣言の仕方により時が経つにつれ大いに移り変わる。
たとえばボスニアでの現在の混乱はどうだ。たった2年前、英国国教会の意見および左派や右派や中道派の容認世論はユーゴスラヴィアの「領土保全」を維持することの重要性を大声で宣言し、すべての脱退運動を痛烈に非難した。さて、ほんのしばらくすると、同じ英国国教会はつい近頃まであの「統合」“integrity”を破壊しようとする邪悪な脱退運動に対する「ユーゴスラヴィア民族」の擁護者としてセルビア人を擁護していたのだが、いまや1991年の「ネーション・オブ・ネブラスカ」以前には存在しなかったでっちあげの「民族」たる「ボスニア」や「ボスニア‐ヘルツェゴビナ」の「領土保全」への「侵害」のためにセルビア人が衝突することを願って罵っている。しかし、時点tにおける「民族国家」の偶然の境界がそれ自体神聖かつ不可侵な「権利」をもつ財産所有実体であると是認されなければならないのだという、国境を私有財産権に例える酷い欠陥もちの類推を伴う民族国家の神話学の罠にもしもひっかかったままでいるならば、これは陥らざるをえない落とし穴である。
当代の情緒を分離するために、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスのすばらしい術を採用しよう:二つの隣接した民族国家「ルリタニア」と「フレドニア」を仮定しよう。ルリタニアが唐突に東フレドニアを侵略して、これを自分のものだと主張したと想定しよう。我々は機械的にルリタニアのことをフレドニアへのその邪悪な「侵略行為」のせいで非難すべきなのか、そして、「勇敢だが小さい」フレドニアのために野蛮なルリタニアに対して文字通りにであれ比喩的にであれ軍隊を送るべきなのか? そんなわけない。というのは、たとえば、2年前に東フレドニアがルリタニアの一部であり一画であって実際西ルリタニアだったこと、および土地の民族的住民でありエトノスであるルリ人がフレドニアの圧制に抵抗する過去2年を大いに必要としてきたということも非常にありえるからだ。要するに、国際紛争では特に、W・S・ギルバード“W. S. Gilbert”の不滅の言葉のとおり、
物事はめったにそう思われているようなものではなく、“Things are seldom what they seem,”
脱脂乳がクリームのふりをする。“Skim milk masquerades as cream.”
いとしい国際警察はそれがブトロス・ブトロス=ガーリであれアメリカ軍であれニューヨークタイムズ論説委員であれ口喧嘩に飛び込む前に二回以上考え直すべきだ。アメリカ人は世界の道徳家かつ警察官としての自薦のウィルソン的役割にとりわけ相応しくない。アメリカでの民族主義は異様に新しく、それは長年のエトノスや民族の集団あるいはその闘争よりは観念に根ざしている。アメリカ人には実質的に歴史的記憶がないという事実も加わり、これがアメリカ人のことをバルカン諸民族への介入に疾走するには異様に相応しくないものにする。そこは、トルコ人侵略者に対する戦争で誰がどの場所でどちら側をとるかが、競争相手のほぼ皆にとって明日の晩御飯よりもはるかに真剣な現実である地帯なのだ。
リバタリアンと古典的自由主義者は民族国家と外交問題の混乱した領域全体を再考するのに特に手持ちの優れた人々だが、これらの論点を根本的に考えることに携わるには共産主義者とソビエト連合に対する冷戦に没頭しすぎていた。もはやソビエト連合は潰れて冷戦は終わっており、おそらく古典的自由主義者はこれらの決定的に重要な問題についてもう一度考え直すのを憚らないだろう。
脱退再考
はじめに我々は、正当ではない国境があると結論できる。リバタリアンにとってのゴールの一つは、既存の民族国家を変形して、私的財産境界が正当であるのと同じ意味で正当だと呼ばれることができるように民族的境界を民族実体にすることであるべきだ;すなわち既存の強圧的民族国家を真正の民族または合意による民族に解体することである。
たとえば東フレドニアの場合、居住者はフレドニアを自発的に脱退でき、そしてルリタニアの同士に合流できるべきである。またもや古典的自由主義者は民族的境界を「どうでもいい」と言いたがる衝動に抵抗すべきである。もちろん古典的自由主義者が永いこと示してきたとおり、フレドニアでもルリタニアでも政府干渉の程度が少ないほどそのような境界はどうでもよくなるだろうということは真理だ。しかし最小国家の下でさえ民族的境界はなお重要であり、地域の居住者にとっては大きなことだ。というのも、道の標識や電話帳は、また裁判所手続きや地域の学校の教室は――ルリタニアかフレドニアで、あるいは両国で――何語なんだ?
要するに、すべての集団、すべての国籍が、どんな民族国家から脱退して、同意によってどんな他の民族国家へと合流することも許されるべきである。この単純な改革が合意による民族の建国への長い道のりを行くだろう。スコットランド人は望むならイギリス連合王国を去って独立し、ゲール構成員が願うならゲール連合に参加することさえイングランドに許されるべきだ。
民族が激増する世界への一般的な反応は貿易障壁の多さを心配することだ。しかし他の物事が等しければ、新たな民族の数が多いほど良く、そしてそれぞれの規模が小さいほど良い。もしもスローガンが「ノースダコタ製を買おう」やまして「56番通り製を買おう」だったら今公衆を納得させている「アメリカ製を買おう」よりはるかに自給自足の幻想を撒きづらいだろうからだ。同じように、「サウスダコタをぶっつぶせ」やまして「55番通りをぶっつぶせ」は日本製への恐怖や憎悪を撒き散らすより売り込み難いだろう。同じように、もしも県や各近隣や番地がそれ自身の通貨を発行したとくれば、法定不換紙幣の不条理さと不幸な帰結がはるかに明白になるだろう。もっと大いに分権化した世界はその貨幣に適した金や銀のような健全な市場商品へ向かう見込みがはるかに大いにあるだろう。
純粋無政府資本主義モデル
民族性に関する現在の悩ましい紛争を解決するための導きとして提案されるようなモデル自体を提唱するほどではないが、私は本稿で純粋無政府資本主義モデルを掲げる。純粋モデルでは単純に、世界に「公共」のままである陸上地域も平方フィートも存在せず;街路、街区、あるいは近隣といった、陸上地域のすべての平方フィートが私有化されている。総私有化はしばしば驚くべき方法で国籍問題を解決する助けになるだろう。そして私はいくつかの陸上地域が政府領域のままである間でさえも既存の国家あるいは古典的自由主義国家がそのようなシステムに接近しようと試みることことを提案する。
開放国境、あるいは聖人のキャンプ問題
開放国境あるいは自由移民の問題は古典的自由主義者にとって加速的に問題化してきた。そのわけは第一に福祉国家がますます移民に入国と受給支援を援助するからであり、第二に文化的境界がますます浸水されてきたからである。ソビエト連合が崩壊することで、エスニック・ロシア人が相手国の文化と言語を破壊するためにエストニアとラトヴィアに雪崩れ込むよう仕向けられてきたことが明らかになったとき、私は自分の見解を考え直し始めた。以前はジャン・ラスパイユ“Jean Raspail”の反移民小説『聖人のキャンプ』“The Camp of the Saints”を非現実的だとして気軽に切り捨ててしまっていた。『聖人のキャンプ』では、実質的に全インド人が小さなボートでフランスに移動しようと決意し、そして自由主義的イデオロギーに感染したフランス人は経済的かつ文化的な民族破壊を防ぐ意思を奮い立たせられなかった。文化的かつ福祉国家的な問題が増大するにつれて、ラスパイユの関心事を切り捨てるのはもはや不可能になった。
無政府資本主義モデルに基づいて移民を考え直したとき、総私有化国土にはまったく「開放国境」が存在しないということが私にとって明らかになった。もしも国土での土地のすべての一画が人物や集団や会社に所有されるならば、入国の招待なしで、および財産の賃貸や購買の許可なしで入国できる移民が存在しないだろうことを意味する。総私有国土は特定の居住者と財産所有者の望みどおりに「閉鎖」されているだろう。そのとき現実には、アメリカ合衆国に事実上存在する開放国境の政権はあらゆる街路と公共陸上地域を担う国家たる中央国家で強制的に開放するものに等しく、土地や設備の所有者の望みを本当に反映してはいないということが明らかであるように思われる。
総私有化の下では――移民問題だけではなく――多くの地方紛争と「外部性」問題がきれいに解決するだろう。私企業や会社あるいは契約的共同体に所有されるすべての場所と近隣とともに、各共同体の選好に応じた真の多様性が君臨するだろう。いくつかの近所付き合いは民族的または経済的に多様だろうし、他方で他の近所付き合いは民族的または経済的に同質だろう。いくつかの地方ではポルノや売春や麻薬や堕胎が許可されるだろうし、他の地方ではそれらのいくつかあるいはすべてが禁止されるだろう。禁止は押し付けられた状態ではなく、人物や共同体の陸上地域の使用か、もしくは単純に居住要件であろう。他人に自分の価値観を押し付けたくてうずうずしている国家主義者が消滅する一方で、すべての集団あるいは利益は少なくとも価値観や選好を共有する人々が近所に住んでいることに満足するだろう。近所の所有者はすべての紛争に対するユートピアや万能薬を提供しないが、少なくとも、ほとんどの人々が本意から耐え忍ぶだろうところの「次善」の解決策を提供するだろう。
内飛び地と外飛び地
集権的国家からの国籍脱退の明白な問題の一つは、混合地域に、あるいは内飛び地と外飛び地に関わる。ユーゴスラビアの膨れ上がった中央民族国家を構成員の部分に解体することは、スロヴェニア人とセルビア人とクロアチア人に独立国民体“nationhood”を提供することで多くの紛争を解決してきたが、多くの町と村が混在しているボスニアについてはどうだ? 解決策の一つは更なる分権化をとおして更なる同じ事をなお励ますことだ。たとえば、もしも東サラエヴォがセルビア人であり西サラエヴォがボシュニャク人であれば、彼らはそれぞれ分離した民族の部分になる。
しかし、これはもちろん、他の民族に囲まれた多数の民族部分を、多数の内飛び地を結果的に生じるだろう。これがどう解かれうるか? まず、飛び地問題は今も存在している。もっとも非道な既存の紛争の一つは、まだCNNで報道されていないからアメリカが干渉していないものだが、ナゴルノ・カラバフの問題であり、アゼルバイジャンに完全に囲まれたアルメニアの外飛び地であって、したがって形式的にはアゼルバイジャンの中にある。ナゴルノ・カラバフは明らかにアルメニアの部分である。しかし、それならカラバフのアルメニア人はアゼルバイジャン人が回廊を封鎖する今の運命をどうやって避けるのだろうか? そして彼らはアルメニアへの回廊地帯の開放を保とうとする際にどうやって軍事的な戦いを避けるのだろうか?
総私有化の下ではもちろんこれらの問題が消滅するだろう。今日でさえ土地への彼の権原を明らかにする保証がなければアメリカの誰も土地を買わないだろう;同じように、明らかに完全に私有化された世界では通行権は土地所有の決定的な部分である。そのような世界ではカラバフ財産所有者は彼らがアゼルバイジャン人の土地回廊の通行権を購入したと保証するだろう。
分権化もまた北アイルランドでの見かけ上解決不可能な永久的紛争に実行可能な解決策を提供する。1920年代初期にイギリス人がアイルランドを分割したとき、彼らは次にもっとミクロに管理される分割を行うことに同意した。彼らはこの約束を決して果たさなかった。しかしながら、もしもイギリス人が北アイルランドで詳細な教区毎の分割票を許していたら、陸上地域のほとんどはカトリックが多数派だが、彼らはおそらく分かれて、共和国に、たとえばティローンとファーマナ、南ダウンと南アーマーのような州に加わっていただろう。プロテスタントはおそらくベルファストとアントリム州とその他のベルファスト北部に残っていただろう。残りの大きな問題はベルファスト市内のカトリック内飛び地であろうが、飛び地への通行権の購買を許すことでまたも無政府資本主義モデルへの接近は到達されることができる。
ミクロ近隣の水準まで脱退と地方支配を許可することで、そして契約的な通行権を発達させることで、総私有化まで我々のモデルが接近されうることと紛争が最小化されうることは明らかだ。アメリカでは、忘れられた修正第10条を多大に強調し始め、そして中央化した最高裁判所の役割と権力を解体しようと試みるリバタリアンと古典的自由主義者にとって――実際、多くの他の少数派や反体制派にとって――ラディカル分権化に向かって進む際に重要になる。自分と同じイデオロギー的教派の人々を最高裁判所で掴み取ろうと試みるよりは、むしろその権力をできるかぎり押し戻して最小化しなければならず、そしてその権力を国家の、また地方の管轄本体にまで解体しなければならない。
市民権と投票権
市民権は投票権を与えるから、現在の悩ましい問題の一つは誰が所与の国土の市民になるかに集中する。アングロアメリカ・モデルでは国土の陸上地域に生まれたすべての乳児が自動的に市民になるが、明らかに妊娠中の親による福祉移民を招いている。たとえばアメリカでの現在の問題は非合法移民の乳児がもしもアメリカの土のうえで生まれたら自動的にアメリカ市民になり、したがって彼ら自身と彼らの両親に永遠の福祉支払いと自由医療保険の資格を与えてしまうことである。フランス的システムでは必然的な市民になるためには市民になるように生まれなければならないが、明らかに合意による民族の観念からは程遠い。
また投票することの概念と機能の全体を考え直すことも重要だ。誰もが投票する「権利」を持つべきか? 20世紀中期アメリカのリバタリアン理論家ローズ・ワイルダー・レインはかつて女性の参政権の正しさを信じているかと尋ねられた。彼女の答えは「いいえ」であり、「そして私は男性の参政権にも同じように反対です。」ラトヴィア人とエストニア人はロシア人移民に永久の在住者でいることを許しつつも、彼らに市民権を認めず、ゆえに投票権を認めないことによって、ロシア人移民の問題に理路整然と取り組んできた。スイス人は一時的な外国人労働者を歓迎するが、永久の移民を、まして市民権と投票権を厳しく思いとどまらせる。
ふたたび無政府資本主義モデルの啓蒙に向かおう。総私有化社会での投票はどのようなものか? 投票が多様だろうかということだけではなく、もっと重要なことだが、誰が本当に気にするのだろうか? 経済学者をもっとも深く満足させる投票形態はおそらく株式会社か合本制株式会社であり、投票権は企業資産の所有株式に比例する。しかしまたそこにはあらゆる種類の多数の私的クラブが存在するし存在するだろう。クラブの決定は普通メンバーあたり一票の基礎で行われると想定されるが、それは一般的には真ではない。疑いないことだが、運営が最善でありもっとも心地よいクラブは、もっとも有能でありかつもっとも興味がある小数者の無期限に継続できる寡頭制のものであり、エリートだけではなく一般の非投票者にとってももっとも心地よいシステムのものである。たとえば私がチェス・クラブの一般メンバーだとして、このクラブの運営の方法に満足しているならば、なぜ投票のことを心配すべきなんだ? そしてもしも私が運営に興味をもっているならば、おそらく私は心地よい支配エリートに加わらないか頼まれるだろう。彼らは常に精力的なメンバーを求めている。もしも私が結局クラブの運営方法に不満ならば、私はすぐにそこを去って他のクラブに加わるなり自分のクラブを作ることさえできる。もちろんこれは我々が考えているのがチェス・クラブか契約的近所共同体かにかかわらず自由で私有化された社会の大きな美徳の一つだ。
我々が純粋モデルを目指して力を尽くすにつれ、ますます多くの地域と生活の一部が私有化されるかミクロに分権化されるかするにつれ、投票の重要性は少なくなってゆくだろう。もちろんこのゴールまでの道のりは遠い。しかし、我々の政治的文化を、わけても、卓越した政治的な財として「民主制」や投票する「権利」を扱う政治的文化を変え始めることが重要だ。実際、投票過程はせいぜいのところくだらなくて取るに足らないものであり、合意的契約から生じる可能なメカニズムを別とすれば決して「権利」ではないと見なされることが重要である。現代世界では、民主制か投票は、他人を支配するための政府の使用に加入なり承認なりをするか、あるいは自分自身や自分の集団が彼らに支配されるのを防ぐ方法として使用するかのどちらかのためにのみ重要だ。しかしながら、投票はせいぜい非効率な自衛道具にすぎず、中央政府の権力を丸ごとばらばらにすることで置き換えてしまう方がはるかに良い。
まとめると、我々はもしも国家を構成員の民族性と近所付き合いに解体しながら現代の集権的かつ強圧的な民族国家の分解と分権化を推し進めるならば、社会的紛争の広がりを、投票の重要性と範囲を、つまり政府権力の範囲を一度に同時に縮小させるだろう。私的契約と自発的合意の範囲は強化されるだろうし、残忍で抑圧的な国家は調和してますます繁栄する社会的な秩序へと次第に解消されてゆくだろう。
(出典: mises.org)
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