スコットランド、ウィリアム・ウォレスから7世紀
Lawrence W. Reed, 2010/11/24, Scotland: Seven Centuries Since William Wallace, The Foundation of Economic Education, http://www.fee.org/the_freeman/detail/scotland-seven-centuries-since-william-wallace
私はスコットランド系アメリカ人であり、先祖の祖国の色とりどりの歴史によりほかに私の血に混ざるものはあまりない。頑強なスコット人は自由と独立と自立のような気高い理念にわずかな生涯を捧げたヒーローの間で数世紀にわたって胸を張っている。
1995年に公開されたメル・ギブソンの素晴らしい映画『ブレイブハート』は多くの非スコットランド人に我らが最大のヒーロー、ウィリアム・ウォレスを紹介した。妥協なき強烈なスコットランド愛国者ウォレスは1305年8月5日のその捕獲までイングランド人侵略者に発作を起こさせた。彼は反逆の疑いでロンドンに召喚され、エドワード1世に残酷に処刑された。7世紀前の1305年8月23日のことだ。
エドワードは当然の報いとして「スコットランド人へのハンマー」として知られていた。さて、ウォレスがまだ2歳のときに、スコットランドへのエドワードの陰謀は1272年の王位継承後まもなく姿を現した。スコットランドの人々自身は自分の国民的アイデンティティーを保つ欲望に忠実だったが、彼らの気高さの多くは政治的な情実と引き換えにイングランドの侵略を許すべくエドワードと共謀する節操なき日和見主義者のものだった。彼らの多数が1290年にスコットランド王位を要求し、それから問題を解決するためエドワードに仲裁を依頼した。
イングランド王はスコットランド王のイングランドへの忠誠の誓いと引き換えにしてジョン・ベイリャルを王室の傀儡に選んだ。しかしベイリャルは重要な論点でエドワードと意見を異にする気骨に気づき、1296年に、二つの国民体が戦争に入った。
若きウォレスは1297年7月11日のスターリング・ブリッジの戦いでの猛烈な勝利へと同郷人を率いつつ早くから特別な気性のスコットランド愛国者として表に現れた。ジョン・D・カリック“John D. Carrick”が彼の古典『エルダーズライのウィリアム・ウォレス卿の生涯』“Life of Sir William Wallace of Elderslie”に記すには、「剣士として力強く、射手として比類なく、彼の打撃は致命的であって彼の矢柄は必中であった。騎手として、彼は機敏さと優美さのモデルだった;若い頃に経験した苦難は軍隊生活ありがちな厳しい窮乏をなんでもないものだと思わせた。」
ウォレスの勇気はスコットランドを団結させたが、スターリングの11ヶ月後にスコットランド人たちはフォルカークで数に劣り、壊滅的な一撃を加えられた。ウォレスはその軍力を四散させられ、外国の同盟を求めて独立活動をヨーロッパの裁判所に連れて行った。彼が1303年にスコットランドに戻ってきたとき国で最重要指名手配者となっており、1305年の夏にエドワードのために裏切られた。彼との約束を破ったのは平民ではなく、彼をエドワードに売り払ったのは高い地位のスコットランド当局だったという証拠が強い。ロンドンでウォレスは絞首刑になり、それから生きているまま引っ張られて体を四つ裂きされた。彼は拷問と処刑の前にこれらの言葉で告訴に応答した。
私が大逆者であるはずがない。私は奴に忠誠を抱いてはいないんだから。奴は私の王ではないし、奴は決して私の臣従宣誓を受けていないし、迫害されているこの体にこの命がある間、決して奴はこの命を受け取れはしない。他のかどで告訴されているというのならそのすべてを進んで告白してやる。私は我が国の守護官として我が国の敵どもへの敵だったのだ。私はイングランドに殺されるが、私は死んでもイングランド王に抵抗する。私は突進していって奴が自分のものだと不正に主張している町と城を取り返してきたのだ。もしも私や私の兵が、家だの大臣だの宗教に対して略奪したり傷害したりしたのなら、私は罪を懺悔しよう。だが、私が謝るのはイングランドのエドワードではない。
「ウォレスの死に復讐を」が翌年のスローガンになった。スコットランドがいまだ反乱に煮えたぎっているなかでエドワードは1307年に死んだ。スコットランド王ロバート・ドゥ・ブルース1世の下、エドワード2世の軍は1314年にバノックボーンで決定的に敗北した。6年後、スコットランド指導者の集団は法王がイングランドにスコットランドを去るよう説得することを望んで有名なアーブロース宣言を発した。この宣言はアメリカ独立宣言の4世紀半に書かれたものであり、王は被治者の同意により支配しなければならず、被治者はもしも王がそうしないならばその王を罷免させる義務を負うという原理を表明した。これは次の感動的な言葉を含む:「それ[我々が戦うの]は栄光や名誉や富のためではなく、ただ自由だけのためであり、これは良き人が命あるかぎり決してあきらめないものである。」“It is not for honors or glory or wealth that we fight, but for freedom alone, which no good man gives up except with his life.”
イングランドとスコットランドの王位は17世紀初期に結合され、議会は百年後に合併されたが(スティーヴン・デイヴィーズを見よ)、スコットランドは連合王国内で強い国民的アイデンティティーを持ち続けている。ウォレス主義的で頑強な個人主義はスコットランド啓蒙の観念に現れ、これは制限政府、自立、もっと自由な市場、および個人的自由に関わるアダム・スミスとデイヴィッド・ヒュームおよび他の18世紀思想家を輩出した。イギリス最大の総理大臣の一人であり過剰政府への熱烈な反対者であるウィリアム・エワート・グラッドストンはスコットランドに深く根付いている。
自由へのスコットランド的な血と愛は私にこの相続を誇らせるけれど、私はここ数十年のスコットランド人たちが自分たちの歴史を見失ってきてはいないかが心配だ。ウォレスの精神およびヒュームとスミスとグラッドストンの貢献はおざなりに認められるが、実践のうえでスコットランドの政策担当者は強圧的な福祉国家と固く結びついているように見える。彼らの子孫が気前良き政府に今いかに広く依存しているかを過去の偉大なスコットランド人が知ったらおそらくあきれるだろう。スコットランド系アメリカ人のアレクサンダー・ハミルトンがかつて警告したとおり、「生計の支配は意思の支配である。」
今の実態
「スコットランドはイギリス最大の社会主義国だ」と、ジョン・ブランデル、ロンドン経済問題研究所の前理事は言う。「ヨーロッパ連合のもっとも社会主義的な部分たる強い資格さえある。その公共部門は、地方自治体のエージェンシーを含めて、経済協力開発機構の他の国民体より多くのもの[原注:GDP]を消費している。」自尊と独立のスコットたちとかいうロマンチックで高潔なイメージは非常に異なる現実に道を譲ってきた:そこにいるのは、一層の援助を要求する政治的立候補者を圧倒的に支持したがる、すでにどっさりと援助された住民層だ。
しかしウィリアム・ウォレスの死の705年後にスコット人はなおウォレスが誰かを知っており彼に敬服している。多くの人は自分たちの過去と特徴の偉大さのとても根本的な何かを本能的に知っているようだ:自分たちのもっとも誇り高い相続物は政府を入り江で押しとどめるものであり、政府に自分たちの生命と生計への権力を認めるものではない、と。アメリカのスコット人として、それはつまり私は自分が得るすべてのチャンスを祝うということだ。願わくばいつの日かスコットランドのスコット人たちがふたたびそうすることを。
(出典: fee.org)