リバタリアンが廃止主義者に学ぶべきこと

Murray N. Rothbard, What Libertarians Should Learn From the Abolitionists, http://mises.org/daily/6761/What-Libertarians-Should-Learn-From-the-Abolitionists

[1978年8月“Libertarian Review”からの抜粋。]

勝利が実際に我々の所与の目的であり、正義の必要条件により我々に与えられた目的であるならば、我々は目的をできるかぎり速やかに達成しようと励まなければならない。

しかしこれはリバタリアンがゴールの部分として漸進主義を採用してはならないことを意味する。彼らはできるかぎり速やかにかつ早期に自由を達成しようと願わなければならない。さもなくば、彼らは不正義の存続を追認していることになるだろう。彼らは「廃止主義者」であるべきだ。

異論は、廃止主義が「非現実的」であり、自由(あるいは他のラディカルな社会ゴール)は漸進的にのみ達成されうる、というものがしばしば挙げられる。これが真であろうとなかろうと、(そしてそのようなことは必ずしも実情ではないということがラディカルな社会激変の存在で証明されているにせよ、)この一般的な非難は原理の領域を戦略の領域と深く混乱している。

ゴールの「現実主義」はただゴール自体への批判によってのみ疑われうるのであり、いかに到達するかの問題によっては疑われない。そういうわけで、ゴールを決定した後に、ゴールにできるかぎり速やかに到達するにはどうするか、そこに到達する運動を起こすにはどうするか、というまったく別の戦略的な問いに直面する。

したがって、ウィリアム・ロイド・ガリソンは1830年代に奴隷の即時解放という輝かしい基準を掲げたとき「非現実的」ではありはしなかった。彼のゴールは適切なものであり、そして彼の戦略的な現実主義は自身のゴールがただちに達成されると期待しなかったという事実に現れていた。また、ガリソン自身が見切ったとおり、

できるかぎり真剣に即時の廃止を唱えよ、そうすれば最後に、残念だが漸進的に廃止されるだろう。我々は奴隷制が一撃で覆されるなどとは一度も言ったことがない。そうなるべきだとは、常に主張するだろうが。 (The Liberator, August 13, 1831)

厳密に戦略的な観点からは、もしも「純粋」なゴールの信奉者がそのゴールを言明せず、高々と掲げもしなれば、他の誰もそうしないし、したがってゴールは決して到達されないだろうということもまた真である。さらには、ほとんどの人々とほとんどの政治家は、何であれ申し込まれた「道」の「中」を取る。「極端派」は、中道派とは対照的に、掛金を上げて純粋または「極端」なゴールを高々と取り立てることで更なる極端へと移るだろうし、そうして「中道」をさらに彼の極端な方向に引っ張ってゆくだろう。ゆえに、掛金を上げて中道をさらに彼の方向に引っ張ることは、日和見主義的に究極原理を明け渡すよりも、政治過程をいつも引っ張ることでもっとゴールのためになるようなことを日々の短期にさえ成し遂げるだろう。

廃止運動ガリソン派の戦略と戦術に関する華々しい研究でアイリーン“Aileen Kraditor”が記すには、

社会における廃止主義的な彼の役割の着想からして、彼の扇動したゴールが即時に実現する見込みはなかった。その実現は莫大な数の人々の転向に続かなければならず、そしてその苦闘は不評な主義ゆえに避けがたくまみえる敵意に直面しつつ催されなければならない。……の学者っぽい批判家と同じように、廃止主義者は後即時かつ無条件の解放が長期にわたって起こりえないことを知っていた。しかし彼らはこれらの批判家とは違い、解放はそれが実行不可能な長い期間にも扇動されなければ決して起こらないと確信していた。

その時点で非現実的だからといって即時解放の要求を取り下げてしまえば、廃止主義者が扇動した変化の性質を変えてしまうだろう。すなわち、白人アメリカ人にニグロが自分たちの兄弟だったと示すゴールには要求が欠かせないのだから、漸進的かつ条件付きの解放を快く受け入れていた人々さえもが即時かつ無条件の奴隷制廃止を扇動しなければならなかったのだ。いったんその点で国が変わったから、条件と計画が作られてきたのかもしれない。……

彼らの「夢のような」なスローガンを水割りすることへの拒絶は、到達可能な反奴隷制請求の採用を正当化する廃止主義先導者によく手紙を書いていた奴隷制反対の上院議員たちや下院議員たちの計画的行動にもまして、彼らの眼には優れて実践的であった。……

リバタリアン運動の第一の主要なゴールが自由のできるかぎり速やかな勝利であるべきならば、その運動の最初の仕事はそのゴールに到達するための最も有効な手段を用いることである。

できるかぎり速やかに自由というゴールを達成するために手段が有効であるには、手段が目的と矛盾してはならないということが明らかであるべきだ。というのも、もしも矛盾すれば、目的は効率的に追求されず却って妨害されてしまうからだ。これはリバタリアンにとって二つのことを意味する:

  • リバタリアンな勝利という究極的ゴールを掲げるのを、決して否定したり懈怠したりしてはならないこと。
  • 他人の身体や正当な財産に対する侵害という――非リバタリアンな手段を、決して使用したり提唱したりしてはならないこと。

かくて、リバタリアンは決して疑わしい便宜主義のために完全な自由という究極的なゴールを否定したり秘密にしたりしてはならず、そして決して不侵害の世界のために他人を侵害してはならない。たとえばボリシェビキは革命以前「搾取的」な資本家の名において武装強盗により部分的に資金を調達していた。明らかに、リバタリアン運動のため私有財産に対して侵害を用いることは、リバタリアンの原理に照らして不道徳であるのに加えて、これらの原理自体と究極的到達を傷つけるだろう。

この点で、リバタリアン運動も含めて、社会的な変化のためのどんなラディカルな運動も重要な現実主義的問題に直面せざるをえない。現実世界では、ゴール――リバタリアンにとっては国家とその侵害的強制の消滅――はあいにくと一晩では達成されえない。これが実情である以上、「過渡的要求」に向けて、すなわち究極的ゴールにまだ達していない期間にも自由へと進むための要求に向けて、リバタリアンが取るべき立場は何か? また、そのような要求は完全な自由という究極的ゴール自体を傷つけないだろうか?

我々の見解では、この問題の適切な解決案は「中道派」“centrist”案や「運動興し」案だ。言い換えれば、勝利の究極的ゴールが常に心に保たれかつ高く掲げられた上で、勝利への道に沿う途中駅として過渡的請求を提唱するのは正統かつ適切であるということだ。こうすれば究極的ゴールが明らかであり見失われず、そして過渡的または部分的な勝利は運動の究極的な原動力を譲歩したり弱化したりするのではなくむしろ自身を育てるように圧力をかけ続ける。

かくて、リバタリアン運動が過渡的要求として全員一律に50パーセント減税を採用したとしよう。これは、51パーセント削減がどういうわけか不道徳や不適切であるとは仄めかさないような仕方でされるべきだ。50パーセント削減は単なる初動の要求にすぎず、究極的ゴールそのものではないだろう。そうであれば、課税の完全な廃止というリバタリアンなゴールを蝕むだけだろう。

同様に、もしもリバタリアンが特殊な税を削減したり廃止したりするよう要請するべきならば、その要請は決して他の領域の増税提唱を伴ってはならない。かくて、現代世界のもっとも圧政的かつ破壊的な税が所得税であり、ゆえに最高の優先性を税のその形態を廃止することに与えるべきだ、と申し分なく結論するかもしれない。しかし所得税の劇的な削減や廃止の要請は、他の領域(たとえば売上税)のもっと高い税の提唱とつなぎ合わせることは、税廃止の究極的ゴールに矛盾する手段が実際利用されるため、決してすべきではない。リバタリアンは、手短に言えば、ありうるどんな領域の国家活動であれ削減し、除去し、できるのならばいつでもどこでも国家を滅多打ちにすべきなのだ。

例として、あらゆる景気後退の間、ケインズ的自由主義者は消費者需要の刺激のために一般的に所得税の減税を提唱する。他方で保守主義者はそのような減税を高い政府赤字が導かれるとして反対する。対照的に、リバタリアンはいつでもどこでも減税を国家強盗の削減として支持すべきだ。予算が議論されるときも、リバタリアンは政府支出の削減を赤字除去のために支持すべきだ。ポイントは、減税や政府支出削減など、国家があらゆる項目で反対され削減されるべきだということである。予算均衡のための増税提唱や減税反対はリバタリアンなゴールを無効にし妨害することである。

しかし、完全な自由という究極的なゴールが常に掲げられるべきであり、かつ国家があらゆる点で削減されるべきであるとしても、なおも優先事項を採択し、所与の時間でもっとも重要である領域においてもっとも特定的に国家への反対を扇動することは、リバタリアン運動のためには適切かつ正統かつ必要である。かくて、リバタリアンは所得税と売上税の両方に反対するけれども、二つの税のうちでたとえば所得税がもっと破壊的であり、この特定の税に反対してもっと強く扇動すべきだ、などと選択することは道徳的にも適切であり戦略的にも重要である。手短に言えば、リバタリアン運動は他のすべてと同じように自身の時間とエネルギーと資金の稀少性に直面し、およびこれらの稀少な資源を所与の時間でもっとも重要な用途に割り当てなければならない。優先的に受け入れられるべき特定の論点がどれかは特定の時間と空間の条件に依存する。

(出典: mises.org)