カタルーニャの脱退と「純粋」な動機

Ryan McMaken, Catalonian Secession and ‘Pure’ Motives, http://bastiat.mises.org/2014/11/catalonian-secession-and-pure-motives/

カタルーニャ地域政府は11月9日の日曜日にスペインからの脱退についての投票を進める予定であると合図した。スペイン中央政府は投票が違法でありスペイン政府はどんな脱退投票も認知しないつもりだと強く主張する。(ヨーロッパ的な政府からのかくも露骨に反民主主義的な動きはスペイン政府が外国の土地に民主主義を押し付ける必要を哲学的に艶出しする次の回が楽しみだと分かるだろう。)

投票がベルリンの壁崩壊の25周年に予定されているのは相応しいことだ。というのはもちろん、ベルリンの壁崩壊の出来事は実践的には東ヨーロッパ中の従属国のシステムに打ち立てられたソビエト・メガ国家だったものからの事実上の脱退に多数の国家を導く過程で始まったからだ。ハンガリーとポーランドおよびその他は法律上では独立国家だったが、我々は皆1956年のハンガリーでの、そして1968年のプラハでのあの主張の後ろの現実を眼にした。

怪しいのだが、今日のマドリードの政治家たちは、もしも1989年に小さなビロード椅子に座っていたら、ポーランドをソビエト支配からの自由だと本質的に宣言したあの票を、つまりあのポーランドの連帯票を承認しなかったのではなかったか? もしくは、あれはマドリード政府がカタルーニャ人の投票を呼びなすとおりに「法的詐欺」だったのか? 東ヨーロッパ人の独立に向けた動きのほとんどはソビエト国家に関するものだったら「違法」だった。だがいずれにせよこれらの御しがたい法律破りたちがこれらを進めたのだ。これらのトラブルメーカーが。

「騙ってくれるねえ、マクメイケン」と、幾人かの読者は言うだろう。「カタルーニャの脱退主義者が純粋なリバタリアンではないことを知らないのか? 彼等の多くがマドリードの人々よりもっと大きな社会主義者でさえあると知らないのか?」そりゃあまあそのことには気づいている。東ヨーロッパでの自由の闘士の貴重な少数者がフレデリック・バスティアの門弟だったという事実に気づいているのとちょうど同じようにだ。実際、1956年のブタペストでと1968年のプラハでの者たちを含む自由の闘士の多くは、考えうるすべてのあり方で社会主義者であった。多くの人はモスクワの政治局よりは他のハンガリー人やチェコ人に支配されたいと願った単なる社会主義者だった。

それがどうした? 動機が十分に純粋ではなかったから我々がハンガリー人の反乱を非難すべきだと? 壁の崩壊をもたらした東ベルリンのデモ参加者はミーゼス主義者ではなかった廉でリバタリアンに失せろと告げられるべきなのか?

これは取るには恐ろしい立場だが、脱退主義者が皆で西洋リバタリアニズムの旗を振らないかぎりはどんな脱退運動も非難の価値があるという一部のリバタリアンに占められる立場と違いはない。ああ、私はスペイン国家がソビエト国家とは非常に異なると認めるが、これは大きさの違いであり種類の違いではない。モスクワの政治局から発せられる命令が一般的にマドリードから発せられる命令よりもっと悪いというのが真である一方で、ハンガリーが搾取への拒否権をもたなかったという事実は残る。カタルーニャは今日同じ立場にあり、当該地方の大権を覆してしまうことができる外部者による多数派支配の服従下にある。1956年にハンガリー人はクレムリンの願望に合わせる必要なく彼ら自身の事柄を統治したいと願った。カタルーニャ人はマドリードから同じように逃れたいと願っているのだ。

でも新独立国家が去にし国家よりもなお圧政的だと明らかになったら? 実践的にはこれはとてもありそうにない。独立国家がもっと小さいほど、建国者のイデオロギーにかかわらず、もっと多い国内人口に略奪をしかける能力のあるもっと大きな国家より一般的にはもっと自由があり、もっと開かれた国境でもっと多くの自由貿易に携わりそうだというのは事実である。そのうえ、マレー・ロスバードが記したとおり、もっと小さい国家は経済的自給自足の神話をもっと蔓延させることができない:

民族が激増する世界への一般的な反応は貿易障壁の多さを心配することだ。しかし他の物事が等しければ、新たな民族の数が多いほど良く、そしてそれぞれの規模が小さいほど良い。もしもスローガンが「ノースダコタ製を買おう」やまして「56番通り製を買おう」だったら今公衆を納得させている「アメリカ製を買おう」よりはるかに自給自足の幻想を撒きづらいだろうからだ。同じように、「サウスダコタをぶっつぶせ」やまして「55番通りをぶっつぶせ」は日本製への恐怖や憎悪を撒き散らすより売り込み難いだろう。同じように、もしも県や各近隣や番地がそれ自身の通貨を発行したとくれば、法定不換紙幣の不条理さと不幸な帰結がはるかに明白になるだろう。もっと大いに分権化した世界はその貨幣に適した金や銀のような健全な市場商品へ向かう見込みがはるかに大いにあるだろう。

これは単純に必要から生じる。国家は大きければ大きいほど、資本を持つ人々からもっと多くの資本を長期間にわたってもっとうまく抜き取る能力がある。なぜならば、部分的には、もっと大きな領土は国境内部の人々に対するもっと完全な独占をもたらすからだ。ちょうど惑星規模国家が完全独占を有するように、小さな国家は弱くて偏らない独占しか享受しない。したがって、国家がもっと小さいほどはるかに制約されるから、飛び交う人間と資本の両方を支配することはもっとできなくなる。反体制派の自称のイデオロギーは経済的生活の現実とは関係がない。

まじめな話、独立カタルーニャは北朝鮮やキューバの道(小さな国家支配の大きな例外)を行くだろうとか誰が本気で考えるんだ? そのような明らかに異様なものを信じる人々が同時に無政府資本主義者のことを「非現実的」だとか「手応えがない」だとか言ってくすくす笑うか。

(出典: bastiat.mises.org)