修正主義の擁護(およびアプリオリな歴史への反対)
Murray N. Rothbard, The Case for Revisionism (and Against A Priori History), http://mises.org/daily/1541
[ミーゼス・デイリー注:マレー・ロスバードがこの無視されたエッセーで論じるとおり、リバタリアンな知識人の仕事は政治的かつ経済的な理論に限られない。国家とその支配階級の視点からでもアプリオリな理論化でもなく、出来事の生の事実を見るところから歴史を理解することにも及ぶのだ。そうすることは優勢な意見とは異なる結果を生み、ゆえにその中傷者と支持者の両者に修正主義と呼ばれている。修正主義を定義しその方法を支持するこのエッセーは1976年2月『リバタリアン・フォーラム』のページ3~6に『修正主義とリバタリアニズム』として発表された。]
修正主義がリバタリアニズムとどう関わるんだ? 多くのリバタリアンは繋がりを見出さない。これらのリバタリアンは、不侵害公理の理論に、および国家が常に主要な侵害者であるという理論に耽っており、ドイツとロシアとイギリスとアメリカおよびその他の特定の諸国家の相互関係と悪事の汚らわしい詳細に関心をもつ必要を見出さない。もしもすべての国家が邪悪であるならば、なぜ詳細を心配するんだ?
最初の答えは、具体的な現実世界を扱う際に理論では不十分だからである。すべての国家が邪悪であれば、いくつかは他よりもっと邪悪であり、いくつかの特定の国家は内的にはその国民に対して、外的には他の国家の市民に対してもっととても侵害に従事してきたのだ。モナコの国家は大イギリスの国家より少ない程度にのみ侵害を犯してきた。
もしも我々リバタリアンが現実世界を理解すべきであり、かつこの世界に自由の勝利をもたらそうと努めるならば、我々は実際の具体的な歴史を、既存の国家を理解すべきである。歴史は、我々が自分たちの世界を理解でき処断できることによって、そして我々が相対的な犯罪行為を見積もることができ、さまざまな国家に犯された侵害の相対的な程度を見積もれることによって、不可欠なデータを差し出してくれる。たとえばモナコはこの世界の主要な問題の一つではないが、我々はこのことを歴史の知識からしか学ぶことができず、先験的な公理からは学べない。しかしもちろん具体的な現実を学ぶことは相当量の本を読むだけではなくまた心に修正主義の基本的原理をもって読む仕事に取り掛からせる。複雑な歴史を調査することに努めよ、そして容易にはキャッチフレーズやスローガンへと還元できないものに努めよ。
修正主義とは、すべての国家が人口の少数派たる支配階級に統治されており、これは社会の残りへの寄生的かつ搾取的な負担として存続する、という事実ゆえに必要とされる歴史的な教義である。その支配が搾取的かつ寄生的だから、国家は「御用知識人」“Court Intellectuals”の集団の提携を買収しなければならない。彼らの仕事はその特定の国家の支配を受容し賛美するよう公衆を煙に巻くことである。御用知識人には彼らに相応しい仕事がある。御用知識人は継続的な護教論と煙巻きの仕事と引き換えに、国家のジュニアパートナーとして、惑える公衆から国家装置で抜き取った盗品と権力と名声の末席を勝ち取る。
修正主義の気高い仕事は煙を晴らすことである:すなわち、国家とその御用知識人の嘘と欺きの靄を見破ることであり、そして国家活動の動機と本性と帰結の真の歴史を公衆に提示することである。修正主義者はかねてからの国家の欺きの靄から真理を見破り、偽りの外見に隠れた現実を見破る仕事によって以前まで騙されていた公衆の目において国家を脱正統化し脱神聖化するよう努める。そうすることで、修正主義者はたとえ個人的にはリバタリアンではないとしてもきわめて重要であるリバタリアンな功労を果たす。
ゆえに、修正主義的な歴史家は彼自身の個人的なイデオロギーにかかわらず決定的にリバタリアンな仕事を果たす。国家は機能せず、欺きのネットワークを押し付けなければその存在に不可欠な支持を多数派に命じられないから、修正主義的な歴史はリバタリアン運動の仕事の決定的な部分になる。修正主義は具体的な現実に存在する国家の特定の嘘と罪を暴露するために純粋理論を超えてゆくからとりわけ決定的だ。
修正主義は「教条的」でありうる;かくて修正的歴史家が近年示してきたことは、20世紀のアメリカ国家の成長は、大企業の「独占」を抑制しようとする「民主的」な試みの内に生じたのではなく、カルテル化され独占された経済をアメリカ社会に固定するために国家を使う大企業の一定の一団による意識的な欲望の過程の内に生じてきたということだ。
修正的歴史家がさらに示してきたことは、「福祉」国家は国家が助けて援助してやると言い張るまさにその相手の集団を、助けるよりはむしろ傷つけるということだ。要するに、福祉国家は一定の大企業集団およびテクノクラート・国家主義的な知識人の支配連合を、社会の残りの人々の支出で援助するよう設計されているのだ。もしもそのような歴史的真理の知識が広く行き渡れば、現代大企業にとって事業でそれ自体を維持することは実際難しいだろう。
歴史修正主義が教条的な最前線において重要な功労を果たしてきたうちで、その主要な襲撃は戦争と外交政策を相手取ってきた。戦争は1世紀にわたり国家がその惑える公衆に支配を固定するための主要な方法だったからだ。リバタリアンと古典的自由主義者の間では、19世紀の初期と中期に西ヨーロッパとアメリカではかくも優勢だった古典的自由主義がなぜ20世紀の到来のときにはすでに屈辱的にも失敗したのかについての多くの議論が幾年にもわたって存在した。主たる理由はいまや明らかだ:さまざまの強力な国家の干渉主義的政策と戦争政策の裏で公衆の多数を動員する兵器として愛国主義を振るう国家の能力である。
戦争と外国干渉は、国家が権力と搾取を拡張し、また他所の国家のおかげで或る国家が自分に危険の要因をもたらす決定的な方法である。けれども、戦争こそはその市民を騙して一緒くたに集め、彼らに国家を防衛させ、国家の利益と権力を増進させるための黄金の機会を国家によこすというのが現実であるときに、国家は――あらゆる国家は――市民の保護と利益のために戦争を戦い他の国々に干渉するのだとその市民を特に上出来に惑わす。戦争と外交政策は国家にその市民を惑わし欺くためのもっとも安楽な手段を与えるから、外務の最前線に関する修正主義的な暴露は国家装置とその国家侵害を脱神聖化し脱正統化するもっとも重要な方法である。
外交問題に関する真理の修正的暴露において、ほとんどのアメリカ人とほとんどのリバタリアンさえもが固く信じている一つの格別の神話には、すなわち、国家主義者の首位にして干渉主義者であるウッドロー・ウィルソンに思想宣伝された、「国内的独裁制は頑として対外的な戦争と侵略を決心するものであり、他方で国内的民主制は絶えず平和的かつ非侵略的な外交政策を行う」という神話には、至上の重要性がある。国内的な独裁制と対外的な侵略性のこの相関には皮相的なもっともらしさがあるけれど、まったくながら事実的、歴史的な記録に基づいた真実ではない。
侵害がそれ自体の内側に向かっており、したがって外交関係では平和的だった、多くの国内的な独裁国(たとえば合衆国のペリー提督によって19世紀に強制的に「開国」させられる以前の日本)、そして好戦的かつ侵略的な外交政策を行ってきたあまりにも多くの国内的な「民主国」(たとえばイギリスとアメリカ)が存在してきた。
対外侵略に対する堤防からは程遠い民主主義的な投票の存在は単に国家が投票者を煙に巻くためその思想宣伝をもっと徹底的に如才なく行うに違いないことを意味するだけだ。あいにく国家とその御用知識人はすっかりこの仕事をこなしてしまった。
それなら、外務の歴史ではアプリオリな歴史は単純にうまくいかないし、「民主国」の外交政策の記録が独裁国の外交行為よりなおさら多くの煙巻きを必要とすることを念頭に置きながら特定の国家の戦争と侵略についての詳細で具体的な歴史的探求に携わらなければどうにもならない。リバタリアン公理や単に特定の国での内的独裁制の程度から戦争と帝国主義のための犯罪行為の相対的程度を演繹する方法はない。戦争と帝国主義のための犯罪行為の程度は純粋に証拠に基づいた問題であり、厳しく証拠を見つめる仕事から逃れられはしない。
現代世界の特定国家の歴史についてそのような冷めた目で経験的に証拠を見つめる結果は、メディアと教育システムの御用知識人に提出された外務神話学で育ったアメリカ人をぎょっとさせる。すなわち、19世紀と20世紀前半をとおしての主要な侵略者、主要な帝国主義者と戦争挑発者が大イギリス帝国だったこと、そしてさらには、アメリカ合衆国が第一次世界戦争の期間にイギリス帝国のジュニアパートナーとして署名した結果は第二次世界戦争後に主要な帝国的かつ戦争挑発的な権力として取って代わるだけだったこと。
ウィルソン的イデオロギーはとりわけ20世紀のイギリスとアメリカに適用されるところの単にひどく有害な神話であり、リバタリアンはこの神話を学び直して捨て去り、自分たちを歴史的真理に合わせる心構えをしなければならない。リバタリアンはアメリカ国家に広められた多くの教条的神話を学び直してまんまと捨て去ってやるべきなのだから、やたらに広まった国内的な神話に対してと同じように、学び直し、捨て去る熱意において、真理を発見できることを望む。そのとき、古典的自由主義だけが、完全なリバタリアニズムだけが、西洋世界での、わけてもアメリカ内での完全なルネッサンスを達成することができるだろう。
アメリカの(およびイギリスの)国家の最大の欺きは防衛的かつ平和的だと言い張られるその外交政策である。したがって、20世紀の主要な戦争犯罪と帝国主義はアメリカ合衆国と大イギリス帝国に属すると修正主義者が主張するとき、彼らは必ずしも合衆国のさまざまな敵が国内的かつ内的に合衆国の独裁制や侵略性よりも弱かったと主張する必要はない。
リバタリアン修正主義者は決してこのテーゼを主張しない。ソビエト連合や共産的中国やナチドイツあるいはカイザー・ウィルヘルムのドイツでさえ内的政策の横暴さがイギリスやアメリカより弱かったと主張するリバタリアンはいないだろう。まるで逆だ。しかし他の人々と同じように、リバタリアン修正主義者が主張することは、経験的な事実の問題として、アメリカ合衆国と大イギリス帝国がそれぞれの特定の戦争と紛争で主要な侵略者にして戦争屋だったということだ。そのような真理はアプリオリな「歴史家」には心地よくないかもしれないが、それでもやはりこれらが現実の事実である。
おまけに、上記で仄めかされたとおり、今世紀にアメリカ合衆国と大イギリス帝国で国内的な国家主義の加速を引き起こしてきたのはまさに戦争の利用と戦争神話学である。実際アメリカ国家主義のあらゆる重大な進展は「防衛」戦争だと言い張られたものの過程で生じてきた。アメリカ南北戦争では国家の権利が押し出され、これがインフレ的かつ国家主義的銀行システムと、高関税と鉄道助成の政権と、所得税と連邦消費税をもたらした。第一次世界戦争ではアメリカを現代的な計画と「ニュー・ディール」の福祉戦争国家に誘い出し、そして第二次世界戦争と冷戦ではこの仕事が完成されて、我々を今日苦しめている現在の巨大政府リバイアサンに至らしめた。
それぞれの帰結が外国の「侵略者」にもたらされた不運な事故ではなく、アメリカの国家に従事された意識的で故意の侵害的かつ戦争挑発的な政策の結果であることは、急発展するアメリカの国家についての理解に高く関連があり肝要である
したがって修正主義はアメリカ合衆国の敵性国家が外国ではなく本国にいるという有りのままのすべてを我々に暴き立てる。外国国家は本国と外国で、国内の市民と国外の人民に対するアメリカの国家権力を増大するための単なるスケープゴートとして仕えてきた。敵は外国のお化けではなく、我々の中に、ここにいる。リバタリアンと他のアメリカ人によるこの真理の完全な理解だけが、我々が直面している問題を同定し、自由の勝利を確実に進めることを我々に可能とさせられる。自分たちの敵に打ち勝つ前に、敵が誰なのかを知っていなければならない。
アメリカの国家はその略奪行為を弁護するにあたって、その反対者を黙らせてその公衆をさらに惑わせるために強力な思想宣伝兵器を利用するべく御用知識人の助けにあずかることができる。すなわち、その帝国主義者と戦争政策の批判者に対して、さまざまな国家の敵の国内政策に味方する意識的あるいは無意識なエージェントやシンパだとレッテルを貼るのだ。
それで修正主義者は、ましてやリバタリアン修正主義者はなおさらだが、今世紀をとおして――ときに突然、ときに順次――カイザーの、ナチの、あるいは共産主義者のシンパや道具であるものを継続的に非難してきた。この後ウィルソン的時代においては、アプリオリなリバタリアンすら彼らに担がれて、彼らと同じ臭いの筆で修正主義的リバタリアンに汚名をかけてきている。
リバタリアンが本当にナチや共産主義者でありうるのだと一時でも思うことの愚かさでさえ、もっと判断力のある仲間を誹謗中傷することによってリバタリアンを煙に巻いて思い留まらせてしまうことはなかった。上記のすべてに必要とされることは後ウィルソン的神話学と20世紀アメリカ的プロパガンダのアプリオリな歴史を脱ぎ捨てることであり、そして(アメリカの)皇帝が実は服を着ていないと気づくことである。他のアメリカ人に倣うリバタリアンの煙を晴らすためには修正主義の鋭い真理が必要である。
(出典: mises.org)