安全保障生産

原著:グスターヴ・ド・モリナーリ


マレー・N・ロスバードの序文

フランス経済学界以上にレッセフェール思想が優勢であったところはなかった。それは十九世紀初期にジャン=バティスト・セーとともに始まり、セーのもっと前進した追随者たるシャルル・コントとシャルル・デュノワイエを経て、二十世紀早期まで続いたものである。ほぼ一世紀かけて、レッセフェール経済学者は専門的経済結社の『政治経済協会』とその会誌『経済学者ジャーナル』を、同様にして他の膨大なジャーナルと大学ポストを支配していた。けれども、これらの経済学者はほんの少しの人々しか英訳されていなかったし、実質的に彼らの誰もイギリス人やアメリカ人の学者には知られていない――唯一の例外はフレデリック・バスティアだが、彼はこの集団の最も深遠な人ではない。この傑出した集団の全体像は未研究であり、目立たぬままに残っている。

フランス・レッセフェール経済学者のなかでも一等「過激」で一貫し、数十年に渡って『経済学者ジャーナル』を編集した、最長寿で最も多作な人物こそ、ベルギー生まれのグスターヴ・ド・モリナーリ(一八一九~一九一二年)である。『安全の生産』としてここに初めて翻訳された若いモリナーリの最初の記事は、今では「無政府資本主義」や「自由市場無政府主義」と呼ばれているものの人類史上初の登場であった。モリナーリはこの用語法を使っていないし、おそらくこの名称には躊躇いを覚えるだろう。彼以前の個人主義的で親アナキスト的な思想家であるラ・ブエティやホジスキンあるいは若いフィヒテなどとは対照的にも、モリナーリは彼の議論の本拠地を国家への道徳的反対には置かなかった。モリナーリは情熱的な個人主義者でありながらも、己の議論を自由市場、レッセフェールの議論に基づかせ、論理的にも次の疑問に答えることへ取り掛かったのだ。すなわち、自由市場が保護以外のあらゆる財とサービスを供給できるし供給すべきであるならば、なぜ保護サービスもまたそうではないのか?

同一八四九年に、モリナーリは彼の急進的新理論を『サン・ラザール通りの夜会』という本で拡張した。これは三人の架空人物、保守主義者(高関税と国家独占特権の提唱者)、社会主義者、経済学者(彼自身)の対話シリーズである。最後の対話は彼の自由市場保護サービス理論をさらに入念に練り上げた。四十年後の『政治経済の自然法』(一八八七年)でもモリナーリはいまだ私的に競争する警察会社と公共事業会社と保護会社の強硬な信奉者であった。残念ながら、英語に翻訳された唯一の作品『明日の社会』(The Society of Tomorrow, New York: G. P. Putnam’s Sons, 1904)では、モリナーリは自由競争を許すよりも、単一独占私的防衛・保護会社の提唱へ部分的に後退してしまっていた。

モリナーリの記事と彼の『夜会』がフランス経済学のレッセフェール忠義者たちに巻き起こした論争の嵐について書き留めておくことは有益である。一八四九年の政治経済協会会合はモリナーリの大胆な新著『夜会』に捧げられた。シャルル・コクランは正義が「最高権威」を要し、国家の最高権威がなければどの分野でも競争が存在しえないと述べた。同じように実証なきアプリオリな猛反対によって、フレデリック・バスティアは正義と安全が実力でしか保障されえないことと、実力が「最高権力」たる国家にしか帰せられないことを宣言した。どちらの評言家もモリナーリの議論に対する批判には携わって悩むことはしなかった。

そうしたのはシャルル・デュノワイエだけだが、彼はモリナーリが「論理の幻想」によって調子に乗ってしまったと苦情も申し立てながら、「政府的企業間の競争は暴力的な戦いに送り出すから荒唐無稽である」と主張していた。その代わりに、デュノワイエは代議制政府内での政党の「競争」に依存することを選んだ――社会的紛争問題に対して到底リバタリアンで満足な解答ではない! 彼はまた、「文明が暴力を置いてきたところ」である国家の手元に暴力を委ねておくのが最も賢明であったと述べた――これが征服国家説の大創始者の一人から出た意見だ!

残念ながら、この極めて重大な論点は会合ではほとんど取り扱われなかった。というのも、議論は国家の収用権行使をすべて攻撃するのは行き過ぎだというデュノワイエと他の経済学者のモリナーリ批判に大いに集中したからだ。(Journal des Economistes, XXIV (Oct. 15, 1849), pp. 315–16を見よ。)

マカロック教授によるモリナーリのオリジナル記事のこの翻訳の出版をもって、願わくば、モリナーリが学者と翻訳者の注目を浴びんことを。

本論

社会の考え方は二通りある。幾人かによれば、人間の社会結成の発展、つまり結社の発展は、摂理の、不変の法には服さない。むしろ、これらの結社は太古の立法者によって純粋に人工的な仕方で組織されており、社会科学の進歩と足並みを揃え、後に他の立法者により修正されるか改造されるらしい。このシステムにおいては、社会を修正し改造する日課を委ねられたのは権威の原理の守護者たる政府であるから、政府は卓越した役割を演じる。

他方によれば、対照的にも、社会とは純粋に自然な事実である。足が立つところのこの地球のように、社会は一般的な既成の法則に応じて運動している。このシステムでは、厳格に言えば、社会科学のようなものはない。ただ経済科学だけがあり、自然社会の有機的組織を研究し、この組織がどう機能するかを示すにすぎない。

さて、我々は後者のシステムでの政府の職務と自然組織を調査するつもりである。

目次

  1. 自然社会秩序
  2. 安全の競争?
  3. 安全は例外?
  4. 代案
  5. 独占と共産
  6. 警備業の独占化と集産化
  7. 政府と安全
  8. 君主と多数派の神権説
  9. 恐怖政権
  10. 安全保障の自由市場

1.自然社会秩序

政府の機能を定義し画定するためにはまず社会の本質と目的そのものの徹底的な調査が必要である。

人々は社会に与するときどんな自然的衝動に従っているのか? 彼らは衝動に、もっと正確に言えば、社交性の本能に従う。人類は本質的に社交的である。ビーバーや高等動物一般のように、人々は社会に生きる本能的傾向をもっている。

なぜこの本能が存在するようになったのか?

人は多くの欲望を経験するが、この欲望の満足こそ彼の幸福が依存するものであり、その不満足が苦難を引き起こす。彼は孤独と孤立にあっては、不完全、不十分な方法でしかこれらの絶え間ない欲望に満足を供給できない。社交性の本性は彼に似た人たちを彼の下に呼び寄せて、彼を彼らとの意思疎通に追い立てる。したがって、個人の自己利益に駆り立てられ、ゆえに寄り集まって、一定の分業が確立され、続いて交換が起こる。要するに我々は、人が孤立して生きるよりもっと完全に自分の欲望を満足させるための手段によって、組織が出現するのを目の当たりにするのである。

この自然な組織が社会と呼ばれる。

したがって社会の目標は最も完全に人の欲望を満足させることである。分業と交換はこれを完遂する手段である。

人の欲望のなかには、人間性の歴史で重大な役割を演じる一つの特殊なタイプの欲望がある。安全への欲望だ。

この欲望は何か?

可能な最低価格で安全を調達することが人の自己利益であるということだ。

人々は孤立して生きるにせよ社会に生きるにせよ、彼らの存在と彼らの労働果実を保存することに特に関心がある。もしも正義感が地上に普遍的に普及しており、ゆえに各人が他人の労働の果実を暴力か詐欺で取り上げようとは思わず、労働したり彼の労働の果実を交換したりすることに自分を制限していたら……一言で言うと、もしも誰もが他人にとっての有害な行為に対し本能的恐怖をもっていたら、安全は地上に自然に存在したし、人工制度は制定される必要がなかったのは確実である。不幸にも、これは物事のあり方ではない。正義感はほんの少人数の者たちの優れた例外的特典でしかないように思われる。それは劣等人種の間では未発達な状態でしかない。したがって、世界の始まり、カインとアベルの日以来、個人の生命と財産に対して夥しい犯罪が企てられている。

したがってまた、彼の人格と財の平和的所持を皆に保証するための社会的機関の創造が企てられる。

これらの社会的機関は政府と呼ばれた。

どこであれ、最も未啓蒙な部族の間でさえ、人は政府に出くわす。それほど普遍かつ喫緊に、安全への欲望は政府によって提供されているのである。

どこであれ、政府なく、ゆえに安全保障なく、彼らが代案を誤判断していると気づかずやっていくぐらいであれば、人々はむしろ最も過激な犠牲にさえ甘んじて従うのである。

生存するための自分の人格と手段が絶えず脅かされていることに人が気づいたとすれば、彼が最初から恒常的に没頭する事柄は、自分を取り巻く危険から自分自身を保護することではないか? この没頭、この努力、この労働は、必然的に彼の時間のもっと大きな部分を吸収し、同様にして、彼の知性の最も精力的で活動的な能力を吸収するのではないか? したがって、彼は他の欲望を満足するためには、ほんの不十分かつ不確実な努力と部分的な注意しか捧げない。

たとえ彼が、彼の人格と財の平和的所持の保証を請け負う誰かによって、ちょうど彼の時間や労働の当該の部分を引き渡すよう頼まれるかもしれないとしても、それはこの交渉を締結するときの彼の強みになるではないか?

やはり可能な最安値で安全保障を調達することがまさしく自己利益であることは明らかだろう。

2.安全の競争?

政治経済学に良く確立された真理があるとすれば、それはこれだ。

労働と取引の自由は必然的かつ永久的に最大の値下げを帰結するから、消費者の有形無形の欲望に対して供給されるすべての商品について、すべての場合において、労働と取引を自由なままにしておくことが消費者の最善の利益になる。

それとこれだ。

何であれどんな商品の消費者利益も常に生産者利益に優先する。

いまや原理の追求に際してこの厳格な結論に至る。

安全の生産は、この無形商品の消費者利益のために、自由競争の法則の支配下に残すべきである。

その結果、

どの政府も、他の政府が競争に参加することを妨げる権利、あるいは安全の消費者に対しこの商品が排他的に売られるよう要求する権利をもつべきではない。

にもかかわらず、現在に至るまで、人が自由競争の原理の厳格な含意たるこれを前にして尻込みしてきたことを私は認めなければならない。

自由の原理の適用を遠くまで拡張してきた経済学者のシャルル・デュノワイエ氏も、「政府の職務は決して私的活動の領域に落ち着くことはできないだろう」と考える。[1]

自由競争の原理に対する明瞭で明白な例外をご覧あれ。

この例外は独特であることにかけて他の何よりも際立っている。

この原理にもっと膨大な例外を設ける経済学者が見つかることは疑いないが、我々は彼らが純粋な経済学者ではないときっぱり断言していい。真の経済学者は一般的に、一方で政府は自身を制限すべきだと同意し、他方で労働と取引の自由が完全かつ絶対であるべきだと同意する。

しかしなぜ安全に関しては例外があるべきなんだ? 安全の生産が自由競争には任せられないことにはどんな特別な理由があるんだ? なぜ異なる原理に服さねばならず、異なるシステムに応じて組織されなければならないんだ?

この点で科学の大家は黙り込む。デュノワイエ氏はこの例外を明瞭に書き留めるが、その基盤を調査しない。

3.安全は例外?

したがって我々はこの例外化がうまくいっているか否かを経済学者の目で自分に問いかけるに至る。

よく確立された自然法則に例外を許すことができると信じる所業は理性を攻撃している。自然法則はいつでもどこでも正しいに違いないし、さもなくば不当であるに違いない。私はたとえば、物理世界を統治する宇宙の重力法則が、宇宙の任意の事例や時点でかつて停止したことがあると信じることはできない。さて、私は自然法則に匹敵する経済法則を考察し、宇宙の重力法則に対してとちょうど同じだけ分業の原理にも忠実である。私はこれらの原理は歪曲されることができるとしても例外が認められはしないと信じる。

しかし、これが実情であれば、安全保障の生産は自由競争の管轄から除去されるべきではないし、除去されるならば、社会は全体として損失を蒙る。

これが論理的であり真であるか、それとも経済科学の基づく原理が不当であるか、二つに一つである。

4.代案

かくして経済科学の原理に忠実な我々には、さきほど示された例外が正当化されないことと、安全保障の生産が他のすべてと同様に自由競争の法則の支配下にあるべきことが先験的に論証されてきた。

ひとたびこの確信が得られたら、我々がすべきことには何が残っているか? 安全保障の生産が自由競争の法則に服さなくなり、むしろ別の原理に服するようになる事態は、いったいどう生じるのかの研究が残されている。

そもそも、それら原理とは何か?

独占共産のそれだ。

独占にも共産にも基づかない安全産業、つまり警備業の制定機関は全世界にたった一つもない。

ついでに、我々はこれとの連想によって単純な意見を加える。

経済は独占と共産制をどこで発見しようとも、人間活動の多様な諸部門で両原理を等しく不可とするが、そしたら警備業でこれらを受け入れるのは奇妙で不合理なことではないか?

5.独占と共産

どのようにして既知の政府がすべて独占の法則の支配下にあるか、さもなくば共産的原理に従って組織されているかを検討しよう。

まずは独占と共産という言葉で理解されるものが何であるかを調べよう。

人の欲望がもっと喫緊であり必須であるほど、彼がそれらを満足させるため本意にも我慢する犠牲が大きくなることは、観察可能な真理である。さて、自然には有り余るほど見つかる物が幾つかあり、その生産には大きな労働支出は要求されないが、それらは喫緊で必須の欲望を満足させるから、自然価値とはまったく釣り合わないほどの交換価値を帯びることになる。塩を例にとってみよう。人か人々の集団が排他的な製塩と販売に命名されることに成功したと仮定しよう。この人か集団はこの商品の価格をその価値以上に、すなわち、自由競争制度下での価格以上に上げることができるのは明らかである。

そしたらこの人か集団が独占をしており、塩の価格が独占価格である、と人は言うだろう。

しかし消費者がこの濫用的な独占分の追加料金に自由に支払うことに満足しないことは明らかだ。それは彼らに支払いを強いる必要があり、彼らに強いるためには暴力の使用が必要である。

独占はすべて必然的に暴力に依っている。

独占者がもはや搾取対象たる消費者と同じだけ強くないとき、何が起こるのか?

あらゆる事例で、独占は最終的には暴力的に、あるいは友好的取引の結果として消滅する。それに取って代わるものは何か?

もしも怒り狂って暴徒化した消費者が塩産業の生産手段を確保するならば、まず間違いなく彼らは自分自身のために塩業から押収し、彼らが最初に考えることは、それを自由市場に委ねることではなく、むしろ自分のためにそれを共同で食い物にすることである。そしたら彼らは製塩所を経営する取締役か取締役会を指名し、これら役員が製塩費用の負担に必要な資金を配分する。過去の経験が彼らを猜疑と不信に陥れ、彼らに指名された取締役が役員自身のために生産を押し取り、自身のためにあからさまにかこっそりと古い独占を再編成してしまうことが恐ろしいから、彼らは生産に必要な資金を充当し、その使用を見守り、生成された塩が等しく有資格者に分配されるよう手配することを任せるために代理人、代表者を選出する。この様式で塩の生産が組織されてゆく。

生産組織のこの形態は共産制と名づけられてきた。

この組織が単一商品に適用されるとき、共産制は部分的と言われる。

全商品に適用されるとき、共産制は完全と言われる。

しかし共産制が部分的であれ完全であれ、経済は独占に対してに劣らず、独占の単なる拡大たる共産制に対しても寛容ではない。

6.警備業の独占化と集産化

塩について今まさに言われたことは安全保障にも適用されないか? これこそ全君主制と全共和制の歴史ではないか?

どこであれ、安全の生産は独占的に組織され始めたし、どこであれ、今では共産的に組織される傾向がある。

理由をご覧あれ。

人に必要な有形無形の商品の中には、小麦という可能な例外を入れても、安全より不可欠なものはないし、ゆえにかくも大きい独占税の支持を受けるものはない。

かくも独占化の傾向があるものは、他にはないのである。

実際、人が安全を欲求する状況とは何か? 弱さである。彼らにこの必須の安全を提供しようと請け負う人々の状況とは何か? 強さである。さもなくば、すなわち、安全の消費者が生産者より強かったならば、彼らは明らかに彼らの援助を省くだろう。

さて、もしも安全生産者が最初は消費者より強いならば、前者が後者に独占を課すのは容易ではないか?

どこであれ、政府が生じるとき、最も強く、最も好戦的な人類が社会の排他的政府を押し取るところが見える。どこであれ、これらの人類がその人数と強さにものをいわせて、一定の多かれ少なかれ広大な境界内で安全保障の独占を押し取っているところが見える。

そしてこの独占はその本性により途方もなく儲かるので、どこであれ、この人種が、彼らの市場範囲を広げ、彼らの強制消費者数を増やし、ゆえに彼らの利得額を高めるため、苛烈な闘争に身を捧げつつ、安全保障独占に投資したことが分かる。

戦争とは安全保障独占の確立の必然的で不可避な帰結であった。

もう一つの不可避な帰結は、この独占がありとあらゆる他の独占を引き起こすことであった。

彼らが安全独占者の状況を見たとき、他の商品の生産者は、独占以上に優位なものがこの世にないと気づかずにはいられない。結果として、今度は彼らが彼ら自身の産業から同じ過程で利得を得るようそそられた。しかし彼らが生産した商品を消費者損失と同時に独占するためには、何が要求されるのか? 彼らは実力を要した。だが、彼らは当該消費者に無理強いをするために必要な実力を有していなかった。彼らがしたことは何か? 返礼として、もっている人から借りることだ。彼らは納得づくの謝礼価格で、一定の画定された境界内で彼ら自身の産業で営んでいく排他的特権を嘆願して獲得した。この特権料が魅力的な貨幣総額を安全生産者にもたらしたから、世界はすぐに独占で覆われた。労働と取引はどこでも枷を掛けられ、鎖に繋がれ、大衆の状況は惨めたりうるかぎり惨めなままにとどめられた。

にもかかわらず、長きにわたる受難の世紀の後で、啓蒙が少しずつ、少しずつ世界に広まるにつれて、この特権の結合体の下で窒息させられてきた大衆たちは、この特権に対して反逆を始め、自由を要求し始めた。いうなれば、独占の鎮圧を要求し始めたのである。

この過程は多くの形態をとる。たとえばイギリスでは何が起こったか? 最初、国を統治する軍事的に組織された人種(貴族)、その頂点で世襲的指導者になった者(王君)、および等しく世襲的な統治の会議(貴族院)が安全保障の価格を定めたが、これは独占されており、幾らでも好き勝手な価格で定められていた。安全生産者と消費者の間に交渉はなかった。これは絶対主義の支配であった。しかし時が経るにつれ、自分たちの人数と強さに気づき始めた消費者は、純粋に恣意的な政体に怒り狂い、商品価格をめぐって生産者と交渉する権利を獲得した。この目的で、彼らは安全の価格、税率を討論するための代理人を庶民院に送り込んだ。かくして彼らは自身の命運をいくらか改善できた。にもかかわらず、安全の生産者は庶民院議員の指名に際して直接決定権をもっていたので、討論は完全には開かれず、商品価格はその自然価値以上にとどまった。

或る日、搾取されていた消費者は生産者に対して怒り狂い、彼らから彼らの産業を奪い取った。ついで彼らは自分たちでこの産業を営む仕事を引き受け、このために議会によって補佐される事業指導者を選び出した。かくて独占に代わって共産制になった。しかしこの企みはうまくいかず、二十年後には原始的独占が再確立されてしまった。独占者は唯一この時だけは絶対主義の支配を復活させたりしないほど十分賢く、野党の代表者を腐敗させることにずっと慎重なまま、税に関する自由な討論を容認した。彼らはこれら代表者に安全保障の実施での多様なポストを与えたし、最大影響力を上級議会の胸中にまで迎え入れさえしたのである。はたして彼らの行動ほど利口なものがかつてあっただろうか。それでもやはり、安全消費者は最終的にはこれらの濫用に気づき始め、議会の改革を要求した。この長きにわたる改革の戦いは最終的には成功を収め、この時から、これら消費者は重大な意義ある負担軽減を成し遂げた。

フランスでは、同じように頻繁な盛衰と多様な修正を経た後、安全独占は二度にわたって崩壊してきた。かつてイギリスで起こったように、或るカースト階級のための独占と、ついで一定の社会階級の名の下での独占は、最終的には共産的生産に取って代わられた。消費者は全体としては株主のように振る舞いながら、指導者と彼の政権の行為を監督する責任がある指導者を指名した。

我々はこの新政権の議題についてたった一つ単純な観察をするに甘んじよう。

ちょうど安全保障の独占が論理的には普遍的独占を生み落とさざるをえないように、共産的安全保障も論理的には普遍的共産制を生み落とすに違いない。

現実には、我々の下にある選択肢は二つである。

共産的生産が自由生産より優れているか、そうではないか。

是であれば、事態は安全には限らず、あらゆる物にとってそうでなければならない。

否であれば、進歩とはそれが自由生産に置き換えられることから成り立つ。

完全共産制か、それとも完全な自由か? さあ、二者択一だ!

7.政府と安全

しかし安全の生産が独占や共産制の仕方以外で組織されうるところは思い浮かべられないだろうか? それはもしかしたら自由競争に委ねられないだろうか?

政治的著述家たちによるこの疑問への答えは満場一致である。否だ。

なぜ? なぜかを告げよう。

なぜならば、これらの著述家は、特に政府には関心をもっているが、安全保障のことは知らないからである。彼らはそれを人工的な虚構と見なしており、政府の使命とはそれを絶えず修正し改造することだと考えているからだ。

さて、社会を修正し改造するためには、社会を構成する多様な個人個人の権威よりも優れた権威に権限を与える必要がある。

独占的政府は、彼らの妄想に応じて社会を修正や改造する権利と、当人が望まなくてもその人格と財を処分する権利を与える神から、この権威を授かったと主張する。共産的政府は主権的人民の多数派に現れるという人間理性に訴える。

しかし独占的政府と共産的政府は本当にこの優越的で抗いがたい権威をもっているのか? 彼らがもっている権威は自由政府がもちうる権威よりも本当に高位なのか? これは我々が調査しなければならないことだ。

8.君主と多数派の神権説

もしも、社会は自然には組織されないということが真実であり、その運動を統治する法は恒常的に修正か改造をされるべきだということが真実であるならば、立法者は必然的に不変の神聖な権威をもっているに違いない。彼らが地上で節理を継続する者であるならば、彼らはほとんど神に等しいと見なされなければならないだろう。そうでなければ彼らの使命を果たすことは不可能ではないか? 実際、人は人事に干渉することができないし、人事を指揮し規制することは多くの利益を日々傷つけずには果たせない。権力者が上級の実体から命令を受けていると信じられていないならば、被害者一団が抵抗をするだろう。

こういうわけで、神権の擬制がある。

この擬制は確かに最も想像しやすいものだった。神自身が社会に法を施し社会を統治するために一定の人々や一定の人種を選民したのだ、と多くの人々を説得することに成功するならば、節理の任命を受けた人々に対する反逆を夢見る者はいなくなり、政府が行うことはすべて受け入れられるだろう。神権に依拠する政府は不滅である。

ただし、たった一つの条件において。すなわち、神権が信じられているかぎりにおいて。

人民の指導者が神意の節理自体から直接に霊感を受けてはおらず、彼らは純粋に人間的な衝動に従っているのだという発想が浮かんだら、彼らが纏う威光は消え失せるだろう。人はその効用が明白に証明されていないような人造物には抵抗するので、不敬にも彼らの主権的決定に抵抗するだろう。

人間的政府を所持する人種の超人間性を確立するために神権の理論家が患う痛みを見てみることは魅力的である。

たとえば、ド・メーストル氏の話を聞いてみよう。

人は主権者を作らない。人はせいぜい、或る主権者から彼の国家を取り上げ、彼自身すでに王子である他の主権者に当の国家を手渡すための道具として奉仕することができるにすぎない。そのうえ、平民の出自に遡ることができるような主権的家族は決して存在しなかった。もしもこの現象が現れるとしたら、それは新時代を記録するだろう。

……主権者を作るのは私であると記されている。これは単なる宗教的スローガンでも説教者のメタファーでもない。それは純粋で単純な文字通りの真実である。それは政治界の法則である。一言一句そのままに、神が王を作るのだ。彼が王家を構え、彼らの出自を隠す雲の真ん中で、彼らを養う。ついには彼らが顕現し、栄光と名誉の王冠が授けられ、こうして彼らは彼らの地位を得る。[2]

神意の節理が一定の人々に体現されており、準神聖な権威がこれら選民に注ぎ込まれているというこのシステムによれば、国民臣民服従者にはぜんぜん権利がないことは明白である。彼らは疑問をもたず、あたかも主権的権威者の法令が節理そのもの自体であるかものようにこれに服従しなければならない。

プルタルコスによれば、体は魂の道具であり、魂は神の道具である。神権学派によると、神は一定の魂を選択し、それらを用いて世界を統治するための道具にする。

もしもこの理論に忠実であったら、確かに神権に基づく政府をぐらつかせるものは何もない。あいにくだが、彼らは完全に不忠に陥っている。なぜか?

なぜならば、人はふと疑問と理由が思い浮かぶものであり、疑問点を質疑し理由を推理する折りに触れて、神意との意志疎通あたわずただ死すべき定めにある彼らが彼ら自身を統治するよりも、はたして彼らの統治者が彼らをうまく統治したかといえば別にそんなことはないということに気づいたからである。

神権に与る君主や貴族の服従者は彼らに従うことが自分たちの自己利益に適うと考える場合にしか彼らに従わないのだというところまで、自由な調査が神権の擬制を廃れさせたのだった。

共産主義的な擬制の方は少しでもマシになっているだろうか?

ルソーを大司祭とする共産主義的理論によると、権威は上からはくだってこず、むしろ下からのぼってくる。政府はもはやその権威を神意に期待せず、団結した人間に期待する。一つの分割不可能で主権的な民族に対して期待するのである。

これこそ大衆主権の支持者たる共産主義者が想定するものだ。彼らは、人間の理性には最も完全に社会に適する最善の法と組織を発見する力があり、実践では衝突する意見の間での自由な討論の結論でこれらの法が露わになると想定する。もしも満場一致がなく、討論後にもなお反対意見があったとしても、多数派は多数の分別ある諸個人から成り立っているから正しい。(これらの諸個人はもちろん平等であると想定されている。さもなくば全構造が崩れるからだ。)したがって多数派の決定は、たとえ最も深く定着した確信に反し、最も貴重な利益を損なうとしても、になるに違いないし、少数派はこれに服従する義務があるのだ、と彼らは言い張っている。

理論ではこうだが、実践では、多数派の意思決定の権威ははたして本当に想定どおり抵抗不可能で絶対的な性質をもっているのか? あらゆる事例でつねに多数派に尊重されているのか? されうるのだろうか?

例を見てみよう。

社会主義がすでに都市の労働者階級へのプロパガンダに成功しているように、郊外の労働者階級へのプロパガンダに成功し、ゆえに国土の多数派になり、この状況から利益を得つつ、立法府に社会主義的多数派を送り込んで社会主義的大統領を任命したと仮定しよう。この多数派とこの大統領が主権的権威を与えられて、プルードン氏が要求したとおり、貧者の労働を組織するために、富者に三億円課税すると法令で定めたとしたら、悪逆非道で不条理ながら、それでも合法的で合憲的な強奪に対して、少数派が平和的に服従することはありえそうか?

いいや、疑いなく、少数派は多数派の権威を無視し、自分たちの財産を防衛することを躊躇わないだろう。

この体制でも、人は先の体制でのように、権威の擁護者たちに従うことが自己利益に適うと考える場合にかぎって彼らに従う。

このことは、自由体制の下でのように権威の道徳的基礎が頑強かつ広範であることは、独占や共産の体制下ではありえないと我々に肯定させる。

9.恐怖政治

それにもかかわらず、独占者にせよ共産主義者にせよ、人工組織の党員党派が正しかったと仮定しよう。社会は自然には組織されず、社会を規制する法律を制定したりしなかったりする仕事が絶えず人々に委ねられるときの、世間の人々が属する嘆かわしい状況をうかがってみよ。統治者の道徳的権威が依存しているのは、現実には、被治者の自己利益である。何であれ彼らの自己利益にとって有害であるものに抵抗する自然な傾向がある被治者たちは絶えず物理的実力の助けを要求するだろう。

しかも、独占者と共産主義者はこの必要性を完全に理解している。

ド・メーストル氏は言う。誰かがもしも、神に選ばれし者の権威を損ねたら、彼を政治権力に引き渡そう、絞首吏に公務を執行させよう。

ルソー学派の理論家は言う。誰かがもしも、民に選ばれし者の権威を認知せず、何にせよ多数派の決定に抵抗したら、彼を主権的人民の敵として罰しよう、ギロチンに正義を執行させよう。

これらの二つの学派はどちらも人為組織を自分たちの起点と見なしており、必ず同じ結末へ至る。恐怖政治。テロだ。

安全保障の自由

市場

さて、一つだけ仮説的状況を定式化させてほしい。

新生社会を想像しよう。これを構成する人々は忙しく働いており、彼らの労働の果実を交換している。彼らの人格、彼らが占有し耕作する土地、彼らの労働の果実は彼らの財産であり、彼ら自身を除けば誰もこれら財産を処分したり、これらに触れたりする権利をもっていないということが、自然な本能によって明らかにされる。この本能は仮説的ではない。これは存在する。しかし人間は不完全な被造物であり、各自の人格と各自の財に対する万人の権利がすべての魂に同じ程度に刻み込まれてはいないし、一定の個人は暴力か詐欺によって他人の人格か財産に対して犯罪を企てる。

それゆえ、これらの暴力的か詐欺的な侵害を防犯するか鎮圧する産業が必要だ。

人か人々の組がやって来て、次のとおり言ったと仮定しよう。

私は報酬のために、人格と財産に対する犯罪的企てを防犯したり鎮圧したりする仕事を請け負おう。

自分の人格と財産があらゆる侵害から守られることを願う人々にこれを依頼させてやろう。

この安全生産者との商談を取り決める前に、消費者がすることは何だろうか?

第一に、彼らは彼が本当に彼らを保護するほど強いか検討するだろう。

第二に、彼らは、彼らが鎮圧するはずの侵害を彼ら自身が誘発するのではないかと心配しなくてもいいような性格をしているか否か。

第三に、同等の保証を申し出る他の安全生産者には、もっと良い契約条件で彼にこの商品を申し出る気があるか否か。

これらの条件は多様な種類のものである。

消費者に人格と財産の完全な安全を保証することができ、しかも損害の場合には消費者が蒙った損失に比例して彼らに補償をすることができるためには、以下のことが必要とされる。

1       人格と財産の侵害者に対し、生産者が一定の罰則を制定し、消費者がこれに違反した場合、消費者自身がこれら罰則を受けることに消費者が同意すること。

2       違反の張本人発見を容易にするため、彼が消費者に一定の不便を課すこと。

3       彼が生産費用を賄い、同様にして彼の努力に相応しい収益を得るため、消費者状況に応じ、特に彼らが従事する職業と、彼らの財産の範囲と価値と本性に応じた可変の一定金額を定期的に徴収すること

もしもこの産業で仕事を営むために必要なこれらの条件が消費者と同意可能であるならば、商談は締結に至る。さもなくば、消費者は安全保障なくやっていくか、他の生産者を利用するだろう。

さて、警備業に特有の本性を考察すれば、生産者が必然的に自分たちの依頼人を一定の領土的境界に制限することは明らかである。彼らは、もしもほんの少数の依頼人しかいない地方で警備サービスを提供しようとしても、その費用を賄えないだろう。彼らの依頼人は自然に彼らの活動の中心地周辺に寄り集まるだろう。にもかかわらず、彼らが消費者に指図することでこの状況を濫用することは、やはりできないだろう。濫用的な警備料値上げが起きるとき、消費者はつねに、新しい企業家を愛顧するか、それともその隣の企業家を愛顧するか、という選択肢があるからだ。

自分の意に適う誰からでも安全を購入できるという消費者に許されたこの選択肢は全生産者間に恒常的な競争意識をもたらし、各生産者はもっと安く、もっと早く、もっと完全で、もっと良質な正義の魅力で自分の依頼者数を維持するか増加しようと励んでいる。[3]

もしも逆に、消費者が自分の意に適う誰からでも自由に安全を買ってよくはないのであれば、たちまち多くの専門家が専断と酷い経営に打ち込み始めるところを目にすることになる。正義は高く遅くなり、警察は人を苛立たせ、個人的自由は尊敬されなくなり、安全価格は権力とその影響または消費者の権力階級に応じて濫用的に増やされ、不平等に課せられる。保護者は互いに消費者をもぎ取りあう熾烈な闘争に従事する。

自由競争の支配下では安全生産者間の戦争は完全にその正当化を失う。なぜ彼らが戦争するんだ? 消費者を征服するため? しかし消費者は自分が征服されることを許さないだろう。競争相手の人格と財産をあくどく攻撃する者に自分たちが保護されることのないよう慎重であろう。もしも幾人かのふてぶてしい征服者が独裁者になろうとしたら、彼らは彼の侵害で脅かされた自由消費者全員をその救援で引き付けるだろうし、彼をその身に相応しく処遇するだろう。ちょうど戦争が独占の自然な帰結であるのと同じように、平和は自由の自然な帰結である。

自由の政権の下では、警備産業の自然組織は他の産業のそれと異ならないだろう。小さな地方では単一の企業家で十分だろう。この企業家は彼の商売を自分の倅に譲り渡すかもしれないし、あるいは他の企業家に売り渡すかもしれない。もっと広い地方では、或る企業が会社で、この重要で困難な商売を営むに十分な資源を集めるだろう。これがうまく成し遂げられたら、この会社は難なく持ちこたえ、この会社とともに安全保障が持ちこたえられるだろう。警備業でもちょうど他のほとんどの生産部門のように、おそらくついには後者の組織様式が前者のそれに取って代わってゆくだろう。

これは一方では君主制であろうし、他方では共和制であろうが、それは独占なき君主制であろうし、共産主義なき共和制であろう。

どちらにしても、この権威は受け入れられ、効用の名において尊敬されるだろうし、恐怖で押し付けられた権威ではないだろう。

このような仮説的状況が実現可能であるか否かは確かに異議を唱えられるだろう。しかし我々はユートピアンと見なされる恐れを承知で、慎重な事実調査が他の全経済問題で自由に賛成するように、政府の問題でもますます自由を是と判断としてゆくようになることは異論の余地なしと肯定する。我々としては、すでに社会が商業の自由のために確立されてきたように、いつの日か政府の自由が確立されてゆくと確信している。

そして我々は次のとおりに言い加えることを躊躇わない。この改革が達成された後、経済世界を統治する自然法の自由な働きに対する人工障壁はすべて消滅してしまい、多様な社会メンバーの状況が

可能な最善

になるだろう。

[1] 彼の注目すべき本De la liberté du travail, Vol. III, p. 253〔『労働の自由』第三巻(ギヨマン出版)〕を見よ。

[2] Du principe générateur des constitutions politiques〔『政治的構造の生成原理』〕序文。

[3] アダム・スミスはその非凡な観察精神をあらゆる主題へ伸ばしたが、彼はイギリスでの司法省が異なる法廷間の競争によって大いに進歩したと述べた。

イギリスでは裁判料とはもともと異なる法廷の支払金であったように思われる。各法廷はできるだけ多くの商売に自身を引っ張り出すべく努力したし、このため、もともとその管轄に属することが意図されていなかったはずの多くの訴訟を受理することが本意であった。刑事事件のみの審理のために設けられた王座裁判所が民事訴訟も受理した。王の歳入を取立て、王のために借金の支払いを執行すべく設けられた財務府裁判所は、被告に支払い能力がないせいで原告が王に支払うことができないと申し立てられるときなど、他のあらゆる契約負債も受理した。そのような擬制の結果、多くの事例で、どの裁判所が訴訟を審理するかは訴訟当事者に丸ごと依存することになった。各裁判所は優れた処理と公平さによってできるだけ多くの訴訟に自身を引っ張り出すよう努力した。イギリスでの現在の感嘆すべき司法構造はおそらくもともとはかなりの程度が昔裁判官各々の間に生じたこの競争によって形成されたものであり、各裁判官は自身の裁判所において、あらゆる種類の不正義に対して法が認める最も有効な最速の法的救済を与えるよう努めた。(The Wealth of Nations, p. 679〔国富論〕)

〔訳注:モリナーリ『安全保障生産』を興味深いと思われた方には、この学説を発展させたハンス=ヘルマン・ホッペ『私的防衛生産』をお勧めします。〕

(出典: mises.org)