古典的自由主義とオーストリア学派

自由主義、今では頻りに古典的自由主義と呼ばれているもの(しかし本書のエッセー「真の自由主義と偽の自由主義」を見よ)は、市民社会のメンバーが自分のとても広い個人的権利の境界内で自由に行為するとき、社会が大いに自己規制的であるという着想に基づいている。これらの権利の中で最高の優先権を与えられるのは契約と交換の自由であり、ひいては自身の労働の自由売却を含む私有財産の権利である。歴史的には自由主義は国家活動に敵意を表明してきており、国家は最小限に削減されるべきだと言い張ってきた。

オーストリア派経済学とは、カール・メンガーの『国民経済学原理』の出版をもって1872年に始まった経済科学の学派に名付けられた、またはその理論的要素に付けられた名前である(ハイエク1968;カーズナー1987;サレルノ1999)。それは非常に早い時点から継続的に――信奉者によって、そしてさまざまな反対者によって一層きっぱりと――自由主義の学説と結びつけられてきた。[1]本エッセーの目的は、オーストリア派経済学と自由主義の間に存在する結びつき、あるいは存在し続けてきた結びつきのいくつかを調べることである。

目次

  1. オーストリア派経済学と価値自由
  2. 方法論的個人主義
  3. 先験主義:ミーゼス、ハイエク、およびポパー
  4. オーストリア派経済理論
  5. 社会の自生的秩序
  6. オーストリア派経済学台頭のイデオロギー的背景
  7. オーストリア派経済学の社会哲学
  8. ミーゼスとハイエク
  9. 付録:カール・メンガーの社会哲学についての覚書

オーストリア派経済学と価値自由

著述家たちはときに政治に関して強い(自由主義的)含意を伴う立場を示しながら、遠慮なく「オーストリア派の倫理的立場」とオーストリア派経済学者の「道徳的かつ倫理的な姿勢」に言及してきた(シャンド1984: 221;リーキー1984: 176)。一見するとこれは驚くべきことだ。というのも、オーストリア派経済学者は自分たちの価値自由(あるいは価値中立)という教えを断言することに心を砕いてきており、ゆえに科学理論の性格に関するマックス・ヴェーバーの構造に従順たらんと奮闘してきたからだ(カーズナー1992b)。たとえばルートヴィヒ・フォン・ミーゼスがこれを述べるには(1949: 881)、「経済学は非政治的もしくはノンポリである……それはつねに手段に言及し、決して究極的な目的の選択には言及しないので、価値判断に関して完全に中立である」[2]

しかしながらそうは言っても、オーストリア派経済学の発達に資した主要人物の全員が常習的に政治問題に関する立場をとっていたことは事実であり、それらの立場はどういうわけか彼らの経済学説に基づいているらしい。たとえばミーゼスはおそらく二十世紀の主要な自由主義思想家として広く認知されている。彼は最高傑作『ヒューマン・アクション』で価値自由経済学と自由主義政策の結びつきに光を当てた。

人間行為学ひいては経済学は幸福や不安の除去という用語を純粋に形式的な意味で用いるのに対し、自由主義はそれらに具体的な意味を添える。それは、人々が死より生を好み、病気より健康を好み、飢餓より栄養を好み、貧困より豊富を好むことを先行前提する……。自由主義者は人が上述の目標を目指して努力すべきだとは断言しない。彼らが主張することは、莫大な多数派が〔それらを〕選好することである。(1949: 154、強調は原文ママ)

そしたら経済学とは、ミーゼスによれば、ほとんどの人々が称える価値を推進するために必要な手段を教えるものである。これらの手段は基本的には私有財産経済たる自由市場の維持からなる。かくして、経済学者は経済学者としては政治的価値判断を含めて価値判断を下さない。彼は「もしも~ならば」の仮説的な命令、つまり仮言名法を提案するにすぎない。すなわち、もしもあなたがAを達成したいならば、Aの達成にはBが必要であるから、Bをせよ、と(ロスバード1962, 2: 880–81)。我々に関わる疑問とは、オーストリア派の理論と自由主義の原理の間の分割はミーゼスが提言するほど明瞭に外科のごとく切り分けられるのか否かである。

方法論的個人主義

方法論的個人主義はオーストリア派経済学の始まりからその要石であり続けてきた(クリステンセン1994)。[3]メンガーは彼の『研究』で次のとおり記す。

国民という集団それ自体は、欲望を有し、仕事を有し、実践を、経済を、消費を有する大きな主題ではない……。かくして……「国民経済」の現象はむしろ、国民を成り立たせる無数の個人的経済努力すべての結果であり、……またこの光において理論的に解釈されなければならない……。こういうわけで、誰であれ……「国民経済」の現象を理論的に理解したい人は、その真の要素へ、国民における単一経済へと遡ろうと試みなければならず、前者が後者から組み立てられる際のこの法則を調査しなければならない。(1985: 93、強調は原文ママ)

方法論的個人主義はオーストリア派[4]の他の指導者にも折り紙を付けられてきており、それは実に、フリッツ・マハループ(1981: 9)が「オーストリア学派の真の信奉者たらしめる最も典型的な要件」の第一要件にリスト化するまでに至っている。

おそらくこの名詞の共示のせいで、オーストリア派学者は問題になっていることが方法論的な個人主義であることを強調してきた。イズレイル・カーズナー1987: 148)はマハループのオーストリア派の規準を引用する際に、これが「政治的またはイデオロギー的な個人主義と混同されてはならず」、単に「経済現象は個人の行為に遡ることで説明されるものだという主張」へ言及するにすぎないと戒める。ローレンス・H・ホワイト(1990: 356)も、方法論的個人主義をあらゆる政治の影から分け隔てようと望む。ホワイトは「実際、方法論的個人主義という言い回しはまさしく政治的変種も含めて個人主義の他の変種から区別するため造語されたのだ」と評論しながら、マックス・オルターがこの結びつきに「政治的」な戦いを仄めかしていると批判する。

しかし興味深い疑問はオーストリア学派に独特の方法論的な原理が政治的意味での(普通多かれ少なかれ自由主義の同義語たる)個人主義と同一であるか否かではない。そうではないことは明らかだ。疑問は、原理自体がどんな政治的分枝をもっているかである。

方法論的個人主義を採用しつつ自由主義を支持しないことは人によっては確かに可能である(ベーム1985: 252–53)。たとえばジョン・エルスターは自身をマルクス主義の類と見なし続けながらも、社会科学では方法論的個人主義の必要性を強弁することができている(1985: 4–8)。[5]けれども、エルスターがマルクスの一定の主張を方法論的個人主義と両立しないがために棄却したことは重大だ。一般的に言ってオーストリア派の方法論でのアプローチは、古典的マルクス主義およびレイシズムとハイパーナショナリズムのいくつかの変種のような自由主義と両立しない一定の全体論的イデオロギーを妨げる傾向にあることが明らかであるように思われる。[6]そしたらこれはこの程度には、単なる方法論的な個人主義ではない。

オーストリア派の方法をめぐる論争では政治的要素が初めから役割を担っていた。当時のドイツ語界での経済思想の有力な潮流では「国民」と「国家」が全体論的実体として理解されるというちょうどこの事実は、別に、メンガーが自分のシステムをこの潮流から峻別した主な理由ではなかったのだ。有名な方法論争の全体では実際に、ドイツ歴史学派の指導者たるグスタフ・シュモラーはその始まりも始まりからメンガーの方法論に基づいて速やかに政治化を行ったのである(ボスタフ1978と1994)。シュモラー(1883: 241)はメンガーの『研究』をレビューし、彼の抽象的で「原子的」な方法を「マンチェスター派の個人主義者」の方法ともっとうまく呼びうるゆえに、彼をマンチェスター主義(レッセフェール)の大罪のかどで非難した。[7]

ベーム=バヴェルクとともにオーストリア学派の(メンガー後の)「第二世代」指導者であるフリードリヒ・フォン・ヴィーザーはその起源を論じる際に彼自身をして興味深い政治的覚書を持ち込んだ。ヴィーザーは彼とベーム=バヴェルクの両者が若い経済学者として古典派経済学の矛盾にいかに驚かされてきたかを次のとおり追想する。

当時ドイツの古典派経済学者に突きつけられた主な非難は彼らの〔政治的〕個人主義を懸念していたのだけれども、我々は、彼らがもとより個人主義的信条に忠実ではなくなっていたことに気がついた。真の個人主義者であれば、彼らは……一緒に経済へ参加して経済活動に携わる個人の意味から始めて経済を説明すべきだったはずだろうに。(1923: 87)

数十年後、F・A・ハイエクは或る意味でシュモラーとヴィーザーに賛成した。方法論に関する彼の最も広範な作品『科学による反革命』の中心的アイディアはまさしく方法論的個人主義の否定と社会主義の成長が理論的にも歴史的にも結びついていることである。ハイエクは次のかどで「方法論的集団主義」を強襲した。

「社会」や「経済」や「資本主義」……また特に「産業」や「階級」や「国」のような全体をば、我々が全体の振舞いを丸ごと観察することでその法則を発見できるようなはっきりとした所与の物体として扱う素質……。歴史学が研究する複合体を所与の全体と見なす浅はかな見解は彼らの観察がこれら全体の発展「法則」を明らかにできるという信念へと自然に導いてしまう。(1955: 53, 73)

さらにハイエクによると、そのような法則の発見と思しきものは主な社会主義計画が組み立ててきたような歴史の哲学の構成に終わってしまう――マルクス主義はもちろん、特に彼が自らの本で吟味するサン=シモン主義の哲学だ。初期「空想的」社会主義者の信奉者たるアンリ・ド・サン=シモンは自然科学の方法を社会の研究に不当に適用する学説、つまり科学主義の卓越した実践家であった。そして「経済的利害間のあらゆる紛争にもまして、科学主義の普及者を通して現在の社会主義に向かう潮流の創造をやってのけた」(1955: 100–01)のは科学主義――方法論的個人主義の否認――である。自由主義の反対者はハイエクを方法論的個人主義のかどで批判する際にまたそれを彼の政治哲学に密接に結びついたものと想定してきた。[8]

いくにんかのマルクス主義者はさらにオーストリア派の方法論が社会的現実の理解を妨げるとして批判してきた。ロナルド・L・ミークによると、――オーストリア派を含む――「ブルジョワ」経済学は経済理論の限界革命を通して、孤立した原子的個人の心理学に集中する図式に逃避してしまったらしい。そうしてそれは、マルクス主義を含む古典派経済学の焦点であった政治経済の重大な問題から(知らず知らずのうちに)注意を逸らした、と。結果として競争する階級間の社会的生産物の分割のような「現実生活」の問題――「普通の人々を悩ませた資本主義的現実の大問題――が体系的に無視されてきた」、と(1972: 505)。

しかしながら、マルクス主義者の苦情は心得違いである。オーストリア派の抽象するアプローチは――必然的に――その理論に付随するのだ。しぶしぶと認められるかもしれないが、いくにんかのオーストリア派学者は彼らの理論を具体的な「現実生活」の問題理解に適用することを怠ってきた。しかしこの懈怠がオーストリア派経済学に本来備わるものではないことは傑出したオーストリア派経済学者たるマレー・N・ロスバードによって――たった一人の例を引くことで――証明される。彼は極度に生産的なキャリアの多くを「純粋経済学」だけではなく政治経済にとって大いに重要な問題にも捧げており、理論的水準でも特定の歴史的文脈にも打ち込んでいた。(たとえば、ロスバード1963, 1970, 1995a, 1995b, 2002を見よ)。[9]

主観主義

オーストリア派経済学は議論を個人的人間行為で始めるし、つねにこれを強調する(ミーゼス1949: 11–29;ロスバード1962, 1: 1–8)。ルートヴィヒ・ラハマンによると、オーストリア学派にとって、

個人の思想設計や経済計算、または経済計画は、つねに理論的関心の最前線に据えられている……。観念の歴史におけるオーストリア学派の重大さとは、おそらく経済的出来事の中心に行為者としての人が据わっているという言明が最も含蓄ある表現だと気づいていることだ。(1978: 47, 51;強調は原文ママ)。[10]

この立場は新古典派理論の立場と対照されてよく、新古典派はラハマンが「根本的に言って、我々は実はここで経済活動のことを語ることができない。人々は現行の経済的存在の外的条件に反応する“react”のである。彼らは行為しない“do not act”」とまで宣言しきってしまう。このかなり厳しい判断を支持する際に、ラハマンはヴィルフレド・パレートの次の言明を引用した。すなわち、「個人が我々に彼の嗜好の写真を残してくれれば、彼らは消滅してもかまわない」。[11]個々の行為する人のそのような見くびるまねに激怒しつつ、ラハマンが新古典派経済学の「干からびた形式主義」を強襲していわく、新古典派が「家計と市場における人間の心の現れを物質的資源と同等の純粋に形式的な実体として」扱うのである(1978: 51, 56, 181、ラハマンの強調)。[12]

イズレイル・カーズナーもまたオーストリア派の考え方の独特さを書き留めてきた。「人間の志、人間の誤り、人間の発見が控えめに見せられ、無視され、単純に無いものと仮定される」によって、先立つリカード派と目下の新古典派の経済学の両方が「機械的方程式」を陳列する。[13]一方のオーストリア派経済学は、敏捷性、創意、可謬性を際立たせ、市場過程での全参加者の創造性を目立たせるし、わけても企業家と企業家的職務の臨機応変な創造性を際立たせる。これはカーズナーがメンガーに遡るオーストリア派の独特の考え方であり、メンガーの独創性は彼の「経済の洞察力」からなる(カーズナー1994, 1: xiv, xxiv)。[14]他方の新古典派経済理論にとって、或る実践家が悔しそうに認めるとおり、企業家と企業家精神はひとえに存在しないのである(ローゼン1997: 148–49)。[15]

この領域全体にはたとえば初期ヴィルヘルム・フォン・フンボルト、バンジャマン・コンスタン、およびハーバート・スペンサーに例示される古典的自由主義の重要な要素との強い結びつきがある。[16]自由主義思想家は権威主義的イデオロギーと戦う際に、変化し続ける世界への創造的反応の源泉として個人的人間それ自体(すなわち階級や人種などに関わらないもの)に焦点を当てた。ここから、彼らは個人的な選択と行為の自由の許容度を可能な限り広げるような自由主義の基本要求を引き出したのだ。

政策の水準では、オーストリア派の個人主義的で主観主義的な方法論は少なくとも間接的には決心を自由主義的な方向に傾ける傾向がある。オーストリア派経済学者は、マクロモデルは多様なグローバル規模の何かが互いに行為するという仮定に頼む「主流派経済学者」が考案したマクロ経済学モデルに懐疑的である。[17]マクロ経済学アプローチと反自由主義的政策には親近感があるようだ。たとえばハイエクはケインジアン革命に付き合って高まったマクロ経済学的統計の利害的関心について次のとおりに記す。

それは主に、経済過程(特殊な法案から期待される特定の効果に関する統計情報以上の知識を要するもの)の予測の基礎に入手可能な統計情報を使ってしまおうとする試みへと導いた、経済過程の一層計画的な統制を唱えて増えつつある要求であった。(1973: 12)[18]

もちろん、マクロ経済学者にとって自由主義的でありオーストリア派的でさえあることは可能である。最も傑出した当代人の例はロジャー・W・ギャリソンだ(ギャリソン2001と『オーストリア派経済学ニュースレター』“the Austrian Economics Newsletter”2000を見よ)。ヨーク・ギド・フルスマン(2001)は現代(リカード派以後)マクロ経済学がベーム=バヴェルクの『資本と利子』をもって始まったと宣言した。しかしそこで、フルスマンは後のオーストリア派の伝統において、マクロとミクロの経済学の違いが単に名目的なものにすぎないことを説得的に論じる。それは特殊な個人の選択にほとんど影響されえない現象と、個人的選択の効果が決定的に重要であるところの現象に関係がある。しかしながらミーゼスの『ヒューマン・アクション』で体系化された仕方どおり、究極的にはあらゆる経済現象が行為する諸個人に創造されるのだ。専業者の主流派に理解され実践されるマクロ経済学は自称専門家による恒常的な操作を要する偉大なる機械としての経済的人生という妄想を生み出す。

オーストリア派の学者は福祉経済学についても似たような懐疑的な考え方を採用するが、彼らの考えでは、これもまた主観主義の原理を犯している。イズレイル・カーズナーは「この理論にとって決定的に重要なことは、或る意味で、最大化の経済政策の理念である実体へと諸個人の嗜好や目的や満足を集計する試みである」と記す。かたやオーストリア派は個人的計画の調整という概念を使うことで「個人的目的の個性を維持する」分析的枠組みを提供するのである(カーズナー 1976a: 84–85、強調は原文ママ。またロスバードによる古典的分析ロスバード1997, 1: 211–54も見よ)。

個性は多様性と親密で、おそらく両者には論理的な結合さえあり、オーストリア派は新古典派経済学とは対照的にも、経済生活の多様性の役割を同様に目立たせる。「形式主義の欠陥はまさしくこれであり、共通の実質がない多様な現象が同じ概念的形式に押し込められ、ついで同一のものとして扱われてしまう」(ラハマン1978: 189)。

オーストリア派の経済学が遍在的な個人的創意と多様性の重要さを強調するほど、国家主義的な政策アプローチには問題がとても多くなる。程度の差こそあれ、積極的政府活動はつねに特殊な状況での相違を捨象せざるをえず、必ずや高い程度の一様性をもたらし、ゆえに実際の社会的事情に不適当である見込みが高いというという結論を避けることは難しい。かくして――経済行為者に特別な環境での彼の機会敏捷性が果たす役割について、発見過程としての市場について、生産要素の異質性について、および重大な個人間相違の遍在性についての――オーストリア派に特徴的な強調は、かなり多くの点で社会主義計画や国家の効率的経済干渉の可能性に反対を告げているのだ。

不器用で愚鈍な政府活動主義が「個人的目的の個性」を踏みにじってしまうだろうという恐れは過去の偉大な自由主義者の多数に共有されていた。たとえばヴィルヘルム・フォン・フンボルトが記すには(1969: 32)、「市民の積極的福祉のために国家が気遣いすることは乱雑な個性の集まりを操作しなければならない点で一層有害であるに違いなく、ゆえに個別の場合に相応しくない法案でこれらを害してしまうのだ」。

人間と彼らの状況の多様性に関わるオーストリア派の懸念は、政策に含みをもっていることは別にしても、自由主義の人間本性の見解とも強く適合する。[19]ジョン・スチュアート・ミルがフンボルトの『国家行為の限界』を引いて彼の『自由論』の始まりに据えたエピグラフはこの自由主義的な考え方を概括している。すなわち、「本書で展開するすべての議論が直接集中しているところの主要で重要な原理とは、人間の豊かな多様性が発達することの絶対的で本質的な重要性である(ミルの引用1977: 213)。

人間間の個性が自然に不平等へ至ることはオーストリア派経済学と自由主義的社会哲学の両方で肯定されており、両者は所得と富の水準が甚だしく異なることを正当と言い張っている。ミーゼスは人間の生得的な生理学的および知的不平等性を信じてあからさまに次のとおりに述べる。いわく、「所得と富の不平等は市場経済から切り離せない特色である。その除去は市場経済を全面的に破壊するだろう」(1978a: 27–30; 1990: 190–201; 1949: 836)。ラハマンは社会的な影響力と権力の不平等を大目に見て「市場過程は、〔ヴィルフレド・〕パレートが『エリートの事情』と呼んだ、おそらく全社会過程で最も重要なものと緊密に結びついている」と宣言しており、「分別ある人物で、社会が文明化するほど不平等が増加する定めにあると気づきかねる者はいない」として「平等主義」に「我々の世紀の好都合な神話」の烙印を押す(1978: 102, 108、またロスバード1973bと1997, 2: 3–35、およびバウアー1983も見よ)。

先験主義:ミーゼス、ハイエク、およびポパー

オーストリア派経済学をつねに特徴付けてきた演繹的方法の信頼はルートヴィヒ・フォン・ミーゼスと彼の追随者の厳格に先験的なアプローチで最高潮に達した(ロスバード1997, 1: 28–77, 100–08;ホップ1995;スミス1986, 1994a: 299–332, 1994bと1996)。この結びつきのおりに、ミーゼスの方法が自由主義の原理と相容れないという――かなり驚愕すべき――主張が提出されてきた。

ミーゼスを非自由主義と申し立てて窘めながら、T・W・ハチスンはミーゼスと後期ハイエク(彼の呼び方では「ハイエクII」)の間に方法論的原理の鋭い対立があると断定し、ハイエク自身の「真」と「偽」の個人主義の区別がこの対立にぴったり当てはまると提起する(1981: 223–24;ハイエク1948: 1–32)。ハイエクの分析では真の個人主義はイギリス経験論的な社会思想の伝統に同定され、かたや偽の変種はデカルトから生じたフランス合理論、理性主義で束ねられる。ハチスンがハイエクを引用するには、

反理性主義的なアプローチは、人が高度に理性的でも知性的でもなく、非常に非合理で可謬的な存在であり、彼の個人的誤りがただ社会過程の経過でしか矯正されず、この経過が非常に不完全な物質を最善にするよう向かっているとするものだが、これは十中八九イギリス個人主義の最も特徴的な特色である。(ハチスン1981: 224)

ハチスンはハイエクが少なくとも暗にミーゼスを「偽の個人主義」の範疇に振り込むに至ったと考えた。というのもハチスンによれば(強調は原文ママ)、ミーゼスがやるように「まさか『論争の可能性を超えて』いる重大な『恒真的な確実性』の先験的命題の知識についての主張を繰り広げる『』の個人主義者はいるまい。」彼が後期ハイエクの立場と取っているものを脇に置いても、ハチスンは次のとおり語り続ける。

「真」のと同様に「偽」の個人主義者も哲学と経済学の方法について現代オーストリア派の見解をとてもたくさん提示してきた……〔オーストリア派の〕方法論や認識論が明らかに、論理的に、そして明示的に、彼らの政治的原理と両立すべきであることは重要だ。自由はそれ自体の倫理学、政治学、経済学をもつと同様、それ自体の認識論をもっており、これはきっとその最も根本的な側面と要件の一つであるに違いない。(1981: 224)[20]

ミーゼスに対する似たような攻撃がミルトン・フリードマンによって浴びせられており、彼は「私自身の〔政治的〕信念の土台になる基本的な人間的価値」は「人間性に基づいた寛容だ。私には誰か他の人に強要をする権利はない。なぜならば私が正しいか間違っているかは私には確かではないからだ」と述べる。フリードマンはミーゼスを「人格的振舞いの不寛容」のかどで(アイン・ランドをと同様に)非難しながら、ミーゼスについての空想上の性格に関するこの短所を「彼の人間行為学の方法論的学説」に遡った。

彼の根本的なアイディアは、我々が人間であることから、我々が「人間行為」(彼の本の有名なタイトル)として知ったものであった。結果として彼は、我々は人間行為の動機に関する絶対的に一定の知識〔原文ママ〕[21]をもっており、我々はこの基本的な知識から実質的な結論に達しうると論じた。彼が論じるには、事実や、統計学的またはその他の証拠は、これらの結論をテストするために使うことができない……。あの哲学が断言的な実質的結論の本体を宗教に転換したのだ……。フォン・ミーゼスの人間行為学的な見解を共有する二人の人間が矛盾的な結論に達したと想定せよ。彼らはどうやって自分たちの相違を和解することができる? 彼らにできる唯一の方法は純粋に論理的な議論によることだ。一方は他方に「お前の推理は間違っている」と言うべきだ。そして他方は「いいや、お前の推理が間違っている」と言うべきだ。どちらも自分が推理で間違っていると信じていないと想定せよ。唯一残されたすべきことがある。戦うことだ。(1991: 18)

いったいどうしてそのような上品な発端からそんな理屈が生じてしまったのか、率直に言ってまったくわけが分からない。フリードマンの理論が伴う諸問題のうちの一つだが、フリードマンは彼自身の実証主義的な観点で理論を反証することが起こらない数学者と論理学者のひっきりなしの血なまぐさい乱闘を予言しているのだろうよ。フリードマン自身の立場はまた、自分の宗教的信念を確実と感じる宗教的人物が、他人の競合的な宗教的信念を尊重するためにどんな節操ある理由ももてるはずがないということを必ずや含意しており、馬鹿げている。最後に、ミーゼスの人格的な「不寛容」を申し立てるフリードマンの「説明」は経済学での先験主義の他の実践家の人格的「寛容」を説明しかねるものだ。[22]

ハチスンに関して言えば、彼はミーゼスに対する彼の奇妙な攻撃のために本当に何の議論も差し出さない。[23]その代わりにハイエクの非常に疑わしい「偽」のフランス個人主義と「真」のイギリス個人主義の区別があり、そしてハイエクがこの想像上の二分論で打ち立てた知的歴史についての混乱させる説明があり、そのような議論なき裏書きがあるのだ(本書のエッセー『真の自由主義と偽の自由主義』を見よ)。[24]ハチスンはまた「自由」(おそらく自由主義理論を意味するもの)が単一の認識論的(および倫理的)基礎をもつに違いないという無支持で決して自明ではない仮定を行う。明らかに、ハチスンがこれぞ「自由の認識論」なりとして立てる候補とはカール・ポパーの知識論である。

ハチスンはミーゼスとハイエクの知的関係に触れる際に、ハイエクがミーゼスの「偽」の個人主義と決別したことと、彼の認識論的なアイディアがポパーの立場の方へ発達したことを主張する。ポパー自身はミーゼスが自分を「彼の最も偉大な弟子、ハイエクの完全な同意」を奪い取った「危険な敵対者」と見なしていたのだと主張したとき、この問題を公然と仄めかしていた(ポパー1992: 10)。ついでに言えば、ミーゼスが彼との隔たりを保った動機に関するポパーの実証なき推測を折り紙付きのように扱うことに理由はない。

ハイエクがポパーの方法論的見解を受け入れた範囲は不明瞭なまま残されている。ハイエクは1974年のノーベルでの講演でも自然科学と社会科学の主題には根本的な違いが存在すると論じ続けていた。後者で研究される現象の複雑さは普通経験的にテストすることを不可能にするから、自然科学に特徴的な方法を社会科学に適用する試みはほとんど除外される、と(クリステンセン1994: 14)。ハチスン自身(1994: 233, n. 7)はハイエクが「反証主義者」になったという主張に「誇張と誤解」なるレッテルを貼る。そうはいっても、人はポパー主義者が反証主義者でなければ何なのかと訝しむ。[25]

しかし経済的自由を含むものとして理解される自由社会の底はポパーの方法論がどうにかして固めるのだと主張したい人々は問題に直面している。それはポパー自身がこの想像上の結びつきにまるで気づいていなかったことだ。

彼は社会哲学に関する有名な作品『開かれた社会とその敵』で、国家には普通の福祉サービスを提供するだけではなく、これを超えて、働く気のある万人に生計を保障し、挙句の果てには万人を特異な「経済的権力」から生じる「不公平な合意」から保護するサービスをも提供する義務があると断言する――賛成を論じるは強すぎる言い方であろう。1974年にもポパーは代わり映えなく国家が全「公的企業」の支配的シェアを引き受けるべきだと提唱していた(シャーマー1996: 51–52, 36)。[26]

ポパーが真正自由主義に相当するというあらゆる主張を最も損なうのは彼が伝統的な産業資本主義神話を受け入れたことだ。この神話は産業資本主義が労働者階級を抑圧するシステムであり、社会主義者のアジテーションによって部分的に影響された社会政策のおかげでただ漸進的にのみ耐えられるものになった、と宣伝する。ポパーは『開かれた社会とその敵』で、資本家の抑圧に対するマルクスの抗議が彼に「人類の解放者間での永遠の居場所を保証する」と記した。彼はマルクスの「不屈の人道主義と正義の感覚」を、「偽善的な護教論者」、つまり、時のレッセフェール自由主義者による「恥知らずな」労働者「搾取」の「シニカル」な擁護と対照した(1950: 310–12;また675 n. 13も見よ)。[27]後の1973年には、彼はマルクスに決定的な不同意をするけれども、彼を「より良い世界のための闘士として」高く尊敬したと宣言した(1984: 167)。

ポパーが最も否定的な産業革命解釈を無批判に信奉したことは当時の労働条件に関する彼の情報源がマルクスの『資本論』であったことを考慮すれば驚くことではない(シャーマー1996: 52)。しかし、一般公共のこの主題に関して歴史的にもっと正しい見解を持ち込もうとする戦いを率いた自由主義理論家たちの一人、ハイエクその人が彼の友人だったことを鑑みれば、ポパーが決してこの解釈を再検討しなかったことは注目に値する(ハイエク1954)。[28]なぜ果敢なる批判的思想家のポパーが「資本主義と歴史家」とこの論文集で引用された作品の二、三冊を読まなかったのか訝しい。

ポパーの事例は偉大な自由主義者として不相応にも広く重鎮扱いされているもう一人の著述家、アイザイア・バーリンに似ている。バーリンも産業革命と十九世紀レッセフェールが労働者たちを降職させて残忍に扱ったという見解に裏書きをしたのだ(ロスバード1982: 216–17)。バーリンはポパーのように、十九世紀が始まる頃にヨーロッパが前例なき人口爆発に直面したことと、ローゼンバーグとバーゼル(1986: 147、またミーゼス1949: 613–19も見よ)が述べたとおり、「新しい町と工場がヨーロッパの問題の大部分を解決した……それらは問題の部分ではなかった」ということにもうすうす気がついていたようだ。1920年代以降はクラパムとアシュトンとハートウェルのような経済史家がこの判断に十分な証拠を提供した。けれども、バーリンもポパーも、現代世界がどう現れるに至ったかという瑣事に関するアルカイックで政治的に動機付けられた反資本主義者の神話――ハイエクが社会主義的経済史解釈と呼んだもの(1954: 7)――に賛同することに甘んじていた。これにもかかわらず、いくらかの人がしつこくカール・ポパーとアイザイア・バーリンを二十世紀でひょっとしたら最上の自由主義思想家かもしれないなどと見なすことに固執するのはこの上なく異様な話である。

オーストリア派経済理論

経済的疑問に対するどんな分析的アプローチであれ、経済理論それ自体が或る意味で市場経済を贔屓しているのだと言うことができる。ハイエクは経済学への十九世紀の攻撃に関して次のとおり述べる。

人々が最初の衝動的な反応に従うことを妨げて、具体的な苦しみの直接的な観察に引き起こされる激しい感情に対し、知性の行使でしか見えない間接的な効果を天秤にかけさせる理由付けの本体の存在は、激しいルサンチマンを生じさせた。(ハイエク1933: 125)

しかしオーストリア派経済学はその独特の経済理論に結びつきを求めるのがもっともらしい自由主義へとかなり頻繁に、そしてかなり親密に括りつけられてきた。

ミーゼスによって1920年代初期に始められ、ついで彼とハイエクに率いられた社会主義下での合理的経済計画の可能性に対する持続的な理論的攻撃はきっと、当然のことだが、この学派が自由主義的な学説と付き合う際の主要な役割を担ってきた。[29]続く数十年で経済学者間に共通の意見はミーゼスとハイエクが社会主義的な助言者に打ち負かせられてしまったというものであり、オーストリア派の立場一般が時代遅れでもはや廃れていると認める傾向があった。[30]しかしながら、近頃の学識(ラヴォア1985;ベッキ1990;スティール1992)は――例の周知の世界的出来事と同様に――古い評決を覆す務めを果たしてきた。実際、この考え方の革命は或る学者をして「ミーゼスの『不可能性定理』の騰貴に際し、彼の見解に注がれた嘲笑の数十年があたかも初めから伝統的な英知の側にあったかのようにいきなり道を譲ったことは実に醜聞極まりない」と言わしめた(ベーム1990: 231)。[31]

中央計画が致命的な思い上がりであったと発見した業績がオーストリア派に独特であったことは新古典派的な伝統の経済学者たるシャーウィン・ローゼンによって証言されている。ローゼンは「市場社会主義」というオスカー・ランゲと他の人々が提唱したモデルの欠陥を発見するのに必要な要素が新古典派の理論にはないと認める。経済学体制派の多くは、共産主義者の経済的「成功」というプロパガンダ・レポートに思い切って疑義を差し挟んだ人々に対し無視どころか嘲笑さえ浴びせたような自身のアプローチによって、そんな風に拘束服を着せられていたのである(1997: 145)。

少なくともシスモンディとサン=シモンの時代以降、市場経済への主な批判はそれがそもそも景気循環に晒されやすいというものであった。くっきりと対照的にも、ミーゼスに考案されてハイエクとロスバードおよび他の人々に洗練されたオーストリア景気循環理論は貯蓄による経済成長を信用拡張による成長と識別することで始まる。さもなくば市場の滑らかな機能を提供するはずのシグナルを体系的に歪めることで「ブーム・アンド・バスト」あるいは好景気と不景気の循環が始まるのは末期になってのことだ。ロスバードが述べるとおり、「妨害なき市場は補完的資本構造が調和的に発達することを保証する。銀行の信用拡張は市場を妨げてバランスある構造をもたらす過程を破壊する」。信用拡張は国家活動が可能にするから、景気循環とは自由市場とそこでの重債務の自然な帰結からは程遠く、究極的には政府活動に遡るし、わけても中央銀行の蓋明けに遡ることができる(ミーゼス1949: 547–83;ロスバード1963: 25–33, 35と1962, 2: 871–74;ギャリソン1997aと1997b)。

オーストリア派経済理論は他の面でも同様に自由主義に協力的である。過程としての市場の分析は一定の特徴的な干渉主義や社会主義の措置を阻む。たとえば、国民管轄内での個人と企業の所得総額を、思うが侭に分割していい「国民のケーキ」のように扱うことを、だ。同じ分析がまた資本主義に本来備わる社会的不平等を妥当化するのに役立つ。ミーゼスが物怖じせずに宣言するとおり、

選択的な市場過程を作動させるのは市場経済のメンバー全員の複合的効果である……。これらの努力の結果は価格構造だけではなく、多様な個人への明確な任務の割り当て、つまり社会構造もやはりそうである。市場は人々を富者か貧者にし、誰が大プラントを経営するか、誰が床をごしごし磨くか決定し、どれほど多くの人々が銅採掘で働くか、どれほど多くが交響楽団で働くか決定する(1949: 308)。

自由主義的経済秩序への強い支持は、経済取引への政府干渉システムが本来的に不安的であること、言い換えれば、自身をレッセフェールに変えるか、もしくは完全社会主義に変えざるをえないことに応じてミーゼスが提唱した理論によっても提供されている。末期ほど安定的な経済秩序ではなくなるので、ミーゼスの議論は先進的経済にとって唯一安定的な体制としてレッセフェールを確立することに相当する(ミーゼス1977;そしてイケダ1997、第六章「最小国家」の不安定性についてを含んで;ライスマン1998: 219–66;およびゴードン1997を見よ)。

代理情報としての価格というもう一つのオーストリア派の概念もまた干渉主義に敵対的である。シュトライスラーが指摘するには(1988:195)、ミーゼスはヴィーザーの上に理論を築き上げながら、干渉主義を「経済的に関係する事情の情報、つまり価格情報の創造と散布の機構」を破壊し、ゆえに経済的効率性を妨害するするかどで攻撃した。

イズレイル・カーズナーの市場過程参加者の「外的」条件の説明はまた自由主義との他の結びつきを生み出す。

人間行為の科学にとって、自由とは市場参加者に対して彼らの諸事情における有益な(または他の)交換に気づくようになることを許可し鼓舞する事情である……。かくしてミーゼス派経済学の理解は、個人的自由および個人的な生命と財産の権利の安全を保障する政治的制度の社会的有用さを誤りなくいかに示すかを直接見せてくれる。(1992a: 248、強調は原文ママ)

しかしオーストリア派経済学を自由市場と付き合わせる最も明瞭で納得ゆく基礎はおそらく、メンガーに始まって、オーストリア派学者により提示された、経済生活に関する一般的着想に関係がある。ハイエクの見解では、

メンガーの主な業績は、財の効用からその価値を引き出し、所与の消費財量の事例から生産要素含むあらゆる財の一般的事例を引き出すこの拡張であった。(1973: 7)

これは創始者全員の標準になった見方であった。カウダー(1958: 418)は、「ヴィーザーとメンガー、わけてもベーム=バヴェルクにとって、消費者の欲望が因果的連結の始まりであり、終わりである。経済活動の目的と原因は同一である」と書き留める。カーズナーはなぜオーストリア派が創始者の特殊で多様な政策的見解(以下を見よ)にもかかわらずこれぞ自由市場の経済学と解釈されたのかを説明するものこそこの中心的な見方であったと論じる。創始者の作品は

市場の理解を表明したが、この理解それ自体で初期オーストリア派学者が提示したより急進的な自由市場評価を強力に示唆した。後のオーストリア派の学者がさらに一貫してレッセフェールの立場に到着したとき、彼らがその創始者に遡られうるオーストリア派の伝統を単純に追及するものとして思想史家にどう見られていたかを説明するのは、我々が推量するに、後のこの境遇である。(1990: 93、強調は原文ママ)

かくして、カーズナーはミーゼスがF・X・ヴァイスへの返答で掲げた立場を暗に是認する(以下を見よ)。決定的に重要なのは歴史的および人格的に条件付けられた最初のオーストリア派学者たちの政策的な諸見解ではなく、メンガーにおいて革新的であった、そして後継者によって共有された「全般的な経済ビジョン」なのである。彼らは市場経済のことを

消費者の選択と評価によって、完全に、しかも独立的に駆動するシステム――彼らのこれらの評価がシステムを通して「高次財」へ「上方」に送信され、これらの希少な高次財が産業間にどう割り当てられるかを決定し、これらが単一の消費者駆動過程の部分としていかに価値付けられ報酬を付せられるか決定する〔システムと見ていた〕。(カーズナー1990: 99)。[32]

資本主義システムを物質財の最大可能量を生産するシステムとして知覚した古典派経済学者とは対照的に、メンガーの見解は「消費者選好によって働かされる経済統治のパターン」であった。(後に、W・H・ハットはこの状態に「消費者主権」という用語を造語した。)カーズナーが指摘するとおり、「市場経済についての社会主義的および干渉主義的な誤解に対するミーゼスの一生涯に渡る論戦を育んだのはこの完全にメンガー派の洞察であった」(カーズナー1990: 99–100)。そして、マルクス主義者と他の社会主義者を今日に至ってなお不安にさせて激怒させているのは私有財産システムの本性に対するこの根本的な洞察であった、と言い加えてもいいだろう。

社会の自生的秩序

自由主義は市民社会の自己規制能力――国家なしでの社会秩序――の認識に基づいているから、そのような能力に焦点を当ててこれを詳しく説明するどんな社会理論も自由主義的な視座に力強い支持を与える。ロスバードが次のように記すとき、当代のオーストリア派の学者は彼との大幅な呼応を自覚するだろう。

自由市場として知られる社会におけるこれら自由交換のネットワークは生産資源の配分に際して調和と調節をもって精密さを備えきめ細やかで畏敬の念さえ起こさせる機構を創造する。そしてこのネットワークは価格を決定し、あらゆる消費者の願望を最大可能に満足させる方向へと静かに急速に経済体制を導くのである。要するに、自由市場は直接にすべての関係者に利益を与えながらも、彼らを自由なまま強要せずにおく。それはまた社会秩序のために協力で効率的な手段を創造する。実際、プルードンが「自由は秩序の母であり娘ではない」と評したとき、彼は知っている以上にうまく記していたのである。(1963, 2: 880、強調は原文ママ)

オーストリア派は早い頃から社会の「自生的秩序」の強調に関して注目されており、これはスコットランド啓蒙学派の著述家に近しく、或る意味で彼らから派生さえしたものである。社会的な配置とは主として自分勝手な個人的行為の意図せざる産物であり、これがそのようにして思いがけずも有益な社会的制度を発現させるとと思われていた(ハイエク1967: 96–105;ハマウイ1987;ヴォーン1987)。

メンガーは彼の『研究』において「協定や実定的立法の産物ではなく歴史的発達の非意図的な産物であるこれらの社会現象の理論的理解」に割かれた第三巻第二章でこの問題を切り出した。彼は次のとおりに疑問を提出する。すなわち、「この制度の設立に向けて指示される共通意思なく生じるに至った、共通福祉に奉仕し、その発展にとってきわめて重大であるこの制度はどうしてこうなっているのか?」メンガーは「法律、言語、国家、貨幣、市場、これらのあらゆる社会制度は少なからぬ範囲で社会的発展の非意図的な結果である」[33]と指摘し、引き続き方法論的個人主義に基づいて貨幣の起源を説明する輝かしく有名なところへ進む(1985: 146, 152–55;またメンガー1981: 256–85も見よ)。

グスタフ・シュモラーは『調査』をレビューした際に、メンガーが法を(シュモラーの言葉で)「優越的な権力〔つまり国家〕の活動から派生するよりむしろ、もっと高級な知恵の後先考えぬ無反省の産物」と理解するエドマンド・バークとサヴィニーおよびニーバーを追随し、「彼らの学説の経済学への移転はメンガーの考えではバークの方向性で『有益な活動のために計り知れない領域』を切り開いてきただろう」と賞賛したかどでメンガーを批判した。シュモラーが辛辣に評するには、

サヴィニーの神秘主義的な俗信への強い共感は明らかに、集合的な社会組織の意識的行為をすべて嫌悪するマンチェスター派〔すなわちレッセフェール〕から生じている。ちょうで法がそれ自体から生じるように、経済は単なる利己的だが調和的な利害のゲームと考えられて、それ自体の仕掛けのままにされなければならない。(1883: 250)

この節の非難がましい調子を脇におけば、ここでシュモラーがもっともらしいことを言っていると認めていいだろう。オーストリア派の経済学者に陳述されるとおり、自生的秩序の説明は確かに(メンガーが引き合いに出した著述家は一般的には保守主義者と見なされるけれども)自由主義的な社会の働きの見解を立証することに仕えるかもしれない。

これはとりわけハイエクの作品に当てはまる。ハイエクはいかにして自生的秩序が可能であるかというメンガーの疑問を「社会科学の中心問題」とさえ記述した。というのもメンガーの解明まで完全には真価を認められていなかった点ながら「社会制度の起源や形成の問題と働き方の問題〔は〕本質的に同じ」であるから、と(ハエイク1955: 83; 1967: 101)。

ハイエクはこの見解を自由主義と社会主義の戦いに結びつける。

意識的に設計されなかったものはどれも有用ではありえず、人間的な目的の達成に不可欠ですらあえりえないという信念からは、あらゆる「制度」が人間に作られてきたのだからとにかく我々にはそれらを望みどおりに再形成する完全な力があるに違いないという信念に移り変わることは容易い。(1955: 83)

けれどもメンガーとハイエクによる制度の自生的起源――ひいてはハイエクの解釈では、その自生的機能――の見解が自由主義に役立つ程度については決して明らかではない。メンガー自身は次のとおりその決定的な資格を認定した。

しかし、これこそレビューでの問題の本質的な要点なのだが、科学は「有機的に」生じてきたこれらの制度を、その適性を試験することによっては決して調合することができない。慎重な研究がそう要求するときは、手元の科学的洞察と実践的実験の手段次第で変化させなければならず、改善しなければならない。どんな時代でもこの「使命感」を捨てることはできない。[34]

かくして、「社会工学」のために一定の――不明確だがおそらく相当の――領域が存在するように思える。

自生的秩序という概念の真価は「リュクルゴス神話」と呼ばれうるものの愛好家たるフランス啓蒙思想で基調的な著述家のアプローチと対照されるときおそらく最善に認められる。十八世紀フランスではリュクルゴスという古代スパルタ制度を創始した半神話的な人物が広く賞賛されていた。それらの制度はどれも、無私でその身を完全に郷土愛へ捧げる理想的人間の模範、スパルタ人を順調に生み出すために適合している様子であった。ルソーが表現するとおり、リュクルゴスはスパルタ市民を「人間性の水準を超えた存在」にしたのだ、と(1962: 428–29;またパーカー1965も見よ)。彼はルソーが『社会契約説』で「立法者」を記述するに及んだときの筆頭モデルであった。

立法者は機械を発明する工学者であり、王子はそれを組み立てて操作する単なる機械工にすぎない……。あえて人々に対して制定を企てる者は誰であれいわば人間の本性を変化する構えでいなければならない……。崇高な理性、平民の手の上で羽ばたくものは、立法者が神々の口ぶりで述べるこれらの規則を生み出す……。立法者の偉大な魂は彼の使命を弁護すべき真の奇跡である。(1968: 84–87)[35]

リュクルゴス――またはヌマ・ポンピリウスやモーゼや他の超人間的な立法者たち――が人民に「制定した」というこの観念が、マブリと他の影響力ある十八世紀フランス知識人、いわばフィロゾフたちに共有されており、彼らは設計する黒幕の産物としてしか社会生活での有用なパターンと構造――秩序――の発生を把握できなかった。対照的にも、ハイエクが推薦する伝統にとって、そのような秩序は適応性ある進化の過程を通して現れるものとして最善に理解される。ハイエクが好んだ引用の一つでアダム・ファーガソンが記したとおり、「民族は人間設計の施行ではなく実に人間行為の結果である制度の上をよろよろと歩いてゆく」。そのような着想の限界がどこであれ、それはルソーと他の哲学者の幼稚な概念より大いに前進しているのである。

オーストリアは経済学台頭のイデオロギー的背景

ハイエクはオーストリア派経済理論と限界主義一般をどんな政治的汚点からも自由なものとして描く試みを続けながら次のとおり宣言した。

ジェヴォンズやメンガーやワルラスが経済理論を再建する努力に際して、古典派経済学から引き出されてきた政治的結論をふたたび擁護する願望に突き動かされていたという兆候は私には見つけられない。我々が彼らに共感するときのそのような兆候は現行の社会改革運動の側にある。(1973: 3)

しかしここでハイエクは論点がずれている。疑問は、オーストリア派(と限界主義者)の経済学が社会改革に対するレッセフェールの擁護であったか否かではなく、社会主義に対する基礎的私有財産、市場経済の擁護であったか否かである。

ハイエクは多くの人々が限界革命前夜に経済学に存在したと感じていた理論的危機を無視した。たとえばフリードリヒ・フォン・ヴィーザーはベーム=バヴェルクの伝記の記事で、両学者が経済学者のキャリアを始めたころ深く困惑していたことを証言した。彼らが直面した問題の一つは古典派の労働価値説の平易な含意であるように思われたものであった(ロスバード1995c, 2: 88–94を見よ)。もしもあの理論が真理であるならば、

社会主義者の現行条件批判、カール・マルクスと彼の余剰価値説は、完全に正しいのではないか? 社会主義理論は古典派の観念の、古典派経済学者自身には最後まで考えとおす勇気がなかったものの、もっと完全なものに他ならないのではないか?

しかしながら彼らの「知的苦境」はメンガーの『原理』をたまたま発見したらすぐに和らげられた。[36]ヴィーザーが悪い信念を少しも仄めかしていないことは強調されなければならない。彼は、彼とベーム=バヴェルクの両者は社会主義が古典派の労働由来の価値概念を一貫して適用するにあたって間違えを犯していたと確信するようになったことをはっきりと述べている(ヴィーザー1923: 88)。

フランク・A・フェッターも限界主義の発生をイデオロギー的な袋小路からの脱出と見た学者の一人であった。

フェッターは十九世紀中葉後の古典派経済学の苦しい状況を詳しく論じた。リカードと彼の労働価値説について、彼は次のとおり語った。

彼はこのとても原始的な着想に詭弁的な議論で彼の名の驚異的な権威を与えてしまい、そしてそれはまったく思いがけず、恐ろしくて邪悪な影響を及ぼし続けるものであった。労働は価値(交換価値、彼の言い方では実質的に市場価格)の源泉であり、労働は価値の原因であり、労働がすべての富を生産する。倫理的かつ政治的な結論が自然と続いてくる。もしも労働がすべての富を生産するならば、労働がすべての富を受領すべきだ、と。(1923: 597;またロス1991も見よ)

リカードを挽回しようとするジョン・スチュアート・ミルの試みは非常に不満足で、フェッターは「余剰価値説による私的産業と私有財産への攻撃に対しては空頼み」であったと言い続ける。そのとき「マルクス主義的社会主義が日の出の勢い」であり急速に提唱者を獲得していて、彼らは頻りにミル=リカード派の労働価値説に言及することで己の見解を支持していたのだ。「ベルリンからサンフランシスコまでの私が社会主義講演者に耳を貸したところでは、十九世紀にはまだマルクス主義は真理なりという論証にこれが提出されていたことでもって、彼らの自信と活気が思い出される」。

フェッターもヴィーザーに与して、主観説を広めるとき悪い信仰心には影響されていなかったと間を置かずに指摘する。[37]にもかかわらず、彼はハイエクに反して、「ジェヴォンズとメンガーとクラークの作品の、そして彼らの最も影響力ある同僚の作品の何気ない調査」でさえ「始まりから終わりまで価値論の政治関連の利害が根ざすこの底流の証拠を露にする」と断定をする。[38]しかしフェッターの見地では物語は幸せに終わる。主観価値説はマルクス主義を亡骸の山に置き去りにした。「経済思想史の全体を探しても、一方の観念に対する他方の観念のこれ以上の完全勝利を見つけることは難しいだろう」(1923: 600–02, 605;フェッターについて、ハーバナー1999を見よ)。

敵陣営では、歴代の社会主義的批評家は1980年代以降、限界主義を単なる搾取的資本主義システムの合理化と物笑いの種にした。イタリア人社会主義者のアキルレ・ロリアは「社会関係の深い分析の可能性」を妨害し「確立した経済システムに対するあらゆる理論的脅威」を除去するかどで限界アプローチを強襲した(バルッチ1972: 529)。第一次世界大戦前ドイツのマルクス主義の教皇たるカール・カウツキーはベーム=バヴェルクの作品の形でのオーストリア派の挑戦に注目し、「ベーム=バヴェルクとマルクスの理論は互いに排他的である……。したがってこれが意味するのは、二者択一だ」と宣言している(カロウペク1986: 198–99の引用)。ニコライ・ブハーリン(1927)というベーム=バヴェルクの講義に出席した人はオーストリア派を「金利階級の経済理論」とレッテル張りした。[39]数十年後、ロナルド・L・ミークはメンガーとジェヴォンズを引用しつつ「〔限界主義の〕創始者は例の四半期における〔古典派経済学の〕これらの学説の危険な用法について非常によく気づいていた」と主張した(1972: 503)。[40]

限界革命が労働価値説を覆したときの正確な役割は、しかしながら、十九世紀初期ヨーロッパ大陸での理論的発展に注意を向けてきた学者を見つけることによって詳しく説明される。T・W・ハチスンはいみじくも次のとおり抗議した。

十九世紀初めの四分の一期か三期の経済思想史は、イギリスでそのような並外れた優位と権威をかなり長い間獲得した理論が……あたかもヨーロッパの他のところで似たような掌握と権威を享受したかのようにイギリス中心的な観点で表現されていたし、いまだにそうされている。それは実態ではなかった。[41]

たとえばハチスンは「賃金資金説」はフリードリヒ・ハーマンによって1832年に打ち砕かれており、ドイツではそれから重大な支持を得ていないと陳述する。ドイツ人経済学者は生産要素の生産性を基準にして生産要素に分配された効用と所得によって価値が基礎付けられるという学説をすでに奉じていたのだ(1972: 443, 445)。

エーリッヒ・シュトライスラーはハチスンの議論を敷衍し、ヘルマンとラウとマンゴルトのような英語学者にほとんど知られていない作品を掘り下げながら、たとえばヘルマン(1832)からの、企業家は労働を買う際に「生産物の消費者の代理人としてのみ行為する。消費者が生産物に与えるものだけが労働者のサービスへの真の報いを構成するのである……」のような有効な引用のために彼らを掘り出していた。

「第一次」歴史学派の創始者の一人ヴィルヘルム・ロシャーが「純粋にイギリス国粋的な見解」と却下した労働価値説がドイツ人に拒絶されることはこんな風にありきたりなことであった(1990a: 45n, 47n)。後にカール・ブラントは、フーフェラントら十九世紀初期ドイツ人の経済価値の基礎を効用と提唱する人々をレビューする際に、彼らをJ・B・セーのフランス的伝統に続いていると見なした(ブラント1992: 169–84;またロスバード1995c, 2: 1–45も見よ)。なので、すでに数世紀前の後期スコラ派的な経済思想の伝統および十八世紀フランス人とイタリア人の有名な著述家を脇に置いてさえ、単純すぎる労働価値説をもっと洗練された効用説に取り替えることは、大陸の標準的な教科書、わけてもドイツのものでは1800年代初期から首尾よく定着していたのである。

しかしそうすると前述されたヴィーザーと他の人々による「限界革命」前夜の経済理論の状態に関する報告は謎を生む。シュトライスラーが書き留めるとおり(1990c: 164)、ヴィーザーとベーム=バヴェルクはドイツで研究しており、「ドイツの古い前新古典派の伝統に染まっていた」。フェッターとしては、晩期からドイツで研究していた間、もっと早い時期のドイツ語テキストにきっと気づいていたに違いない。かくして、もしもこの理論が十九世紀の大部分を通してドイツ経済思想の主流派ですでに取って代わられていたならば、メンガーと他の限界主義者による労働価値説とその社会主義的含意への決定的な論駁を受けて三人の男が表明した安堵を理解することは難しい。

オーストリア派経済学の社会哲学

エーリッヒ・シュトライスラー(1987: 1)はオーストリア派経済学者を「学者」に団結したものが決して限界効用のような理論的概念ではなく、ひたすら単純に彼らの自由主義的な政治観念であったと主張してきた。これは誇張されており常軌を逸している判断かもしれないが、学派の指導者の多様な政治的見解はそれを自由主義と同定する際に確かに何らかの役割を演じていた。

創設者――メンガー、およびベーム=バヴェルクとヴィーザー――に関して言えば、ほんのわずかでも問題があると思われるのはヴィーザーの見解である(メイヤー1929;シュトライスラー1986: 86–91)。[42]ヴィーザーは社会主義者ではないとしても、私有財産、市場経済は干渉主義的な対策が必要な欠陥で満ち溢れていると堅く信じていた。ロバート・B・エーケルンド二世は、ヴィーザーにとっては消費者と労働者の両方が典型的には富の大集約所持者に虐げられており、ヴィーザーの見解ではこれらの財産所有者の権力を削減して「強欲な資本主義の犠牲者」に必要なものを供給することは政府の義務であったと書き留めていた。市場交換でどこでも働く権力を突き止めながら、ヴィーザーはもっと豊かな国土の経済的および政治的な優勢を和らげるため発展途上国に対する保護関税にさえ賛成した。彼はハイエクが書き留めたとおりの累進課税だけではなく、また「高い総効用への生産的な企画」ための国家助成金をも正当化しようと限界効用説を活用しようと試したのだ(エーケルント1992)。ヴィーザーに関する「国家主義者であり、(彼自身のカーストから生じる)賢い官僚制に導かれる国家機関の知恵を信じていた」というシュトライスラーの特徴付け(1987: 14–15)に異を唱える理由は少ないように思われる。[43]

ヴィーザーの最後の本で彼の最高傑作を意図された『法の力』は広く多様な解釈に開かれてきた(シュトライスラー1986: 86–91;モルゲンシュテルン1927: 673–74;および特にヴィーザー1983: xiii–xxxviでのサミュエルズ)。とにかく歴史のすべてが説明されて、人類の将来全体が「力」と「指導力」の概念の執拗な適用を通して下書きされるごちゃまぜのごった煮として、この作品はまったくオーストリア学派の伝統の外側にある。[44]かたわら、メンガーの政治的方針は最も研究され、最も論争されてきている。

ミーゼス(1969: 18)はメンガーが「オーストリア政府が――あの時代のほぼすべての政府のように――採用してきた干渉主義的政策に対して心からの不承認をした」と断言しつつ、彼が多かれ少なかれ古典的な自由主義者であったという印象を伝えた。シュトライスラーはまた実質的にレッセフェールなメンガー像に賛成を論じてきており、彼を学派の自由市場への関与の源流と見ている。[45]かたやエミール・カウダーはメンガーを社会政策(社会改革)とレッセフェール批判の共感者と見た(1965: 62–64)。[46]

メンガーは自分の政策的見解を公に誤解の余地なく表明することをたいそう警戒していたように思われる。近頃まで、この分野での彼の一般的な観念に関する主要な資料は指導的な彼が「古典派経済学と現代経済政策の社会理論」と題付けて一流のウィーン新聞で公表した記事であった(メンガー1935b)。アダム・スミス逝去の百周年、メンガーはここでスミスの学説を深い誤解から救おうと試みる。彼が(後のライオネル・ロビンズ1953の仕方で)気づいた主な誤解釈は、スミスがレッセフェールを支持しているかどで間違って非難されてきたことと、彼の学説が不当にもマンチェスター学派のものと合併されていることだ。(マンチェスター派は社会主義的扇動家のフェルディナント・ラサールが言い始めてドイツ語圏でレッセフェールの立場を侮辱する一般的な用語になった。)メンガーの記事を読む人にとって、彼が自身を厳格な古典的自由主義より社会自由主義と考えていたという結論を避けることは難しいだろう。

しかしながらシュトライスラーはルドルフ皇太子が1876年にメンガーに教わっていたとき採ったノートによってメンガーの考え方にまったく新しい光が投げかけられると主張してきた(1987: 20–24; 1994)。このノートは近頃オーストリア人の学者ブリギット・ハーマンに発見された(メンガー1994)。シュトライスラーの判断では(1990b: 110)、これらのノートは「国家に賛成するアジェンダがアダム・スミスよりはるかに少ない最も純粋な品質の古典的自由主義者であったことを示している」。しかしながら、シュトライスラーはノートの証拠価値を過剰評価しているように思われる(以下の『カール・メンガーの社会哲学についての覚書』を見よ)。

カウダーはベーム=バヴェルクを含む学派創設者が「経済政策に関して自由と権威の間での落ち着きなく前へ後ろへ揺れ動くさま」を呈しており、彼らの思考に働く矛盾的な力の結果を示していると主張する。かたや、彼らは「社会存在論者であった。彼らは一般的現実計画が存在すると信じている。あらゆる社会的現象がこのマスタープランに関係すると想像される……。存在論的構造は、あるものだけではなく、またあるべきものをも示唆する」。カウダーがベーム=バヴェルクの『積極資本論』を例にとっていわく、これは「レッセフェール機構下での自然秩序〔を論証する〕。もしも自由市場の長期価格が達せられるならば、経済的繊維は限界効用と割引利子説と迂回生産によって『美しい調和』においてぴったりと具合が合うのである」(カウダー1958: 417、強調は原文ママ;またギャリソン1999も見よ)。この「社会存在論」――ロスバードの自由市場経済の着想の早期版――は自由主義の見方と深く一致する。

しかしカウダーによると、オーストリアの知的伝統の底流にあるものは自生的経済秩序概念の表明が積極的に鎮圧されるレベルにさえ達するほどの国家パターナリズムなのであった。かくして創設者は「イギリス〔すなわちスミス派〕とオーストリアの伝統の間で妥協を試みた」。ベーム=バヴェルクはついに「オーストリアの過去の理念同然たる社会的静寂主義」を説教しながら社会的安定性が進歩より重要であると考えた(カウダー1958: 421–22)。[47]あまつさえシュテファン・ベームは「ベーム=バヴェルクの財務大臣としての傑出した業績は個人の総所得に対する累進所得税の導入であった」と指摘する(1985: 256;またヴェーバー1949: 667も見よ)。[48]

ベーム=バヴェルク自身は弁解として「我々は家を建てる前にその順番を定めるべきだ」挙げながら、オーストリア派経済学者が活動の最初の二十年間に政治経済の実践的疑問へ努力を注がなかったと認めた。しかしながら彼は「我々はそれらに関する意見があり、それらを講壇の上から教えるが、我々の文筆活動はこれまでほぼもっぱら理論的問題に適用されてきた」と言い加える(ベーム=バヴェルク1891: 378)。

それらに関する意見とは彼のキャリアにおいて何であったか、ベーム=バヴェルクは1891年に発表されたもう一つのエッセーで或る程度吐露した。ここで彼はオーストリア派経済学者が「社会的な問題」に無関心であるというルヨ・ブレンターノの非難に名誉毀損とレッテルを貼る。対照的にもベーム=バヴェルクが言い張るには、彼の見解では「現在の社会状況には嘆かわしく改善が必要なことが多く」あり、彼は「無関心なレッセフェール・レッセパッセの態度」を完全な心得違いと見た。実際、彼は「経済的に抑圧された人々」を贔屓する改善の努力に「最もあたたかく」共感し、出版物ではこの話題で自身の考えを露にしてきてはいないけれども、教師としてはつねに公言していると記す(ベーム=バヴェルク1994: 112)。

後の1930年代にオーストリア学派が受容と威信を得るにつれて、ベーム=バヴェルクと他の創設者を社会改革者に入隊させ、かくて彼らを学派の新星ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの原理的な経済自由主義から引き離そうとする試みがなされた。

ヴィルヘルム・フロイゲルスは1935年の記事でオーストリア派の主観価値説の科学的有用性を擁護した。それは同時に、個人的必要を超えた国民共同体の必要を置く古いドイツの伝統、フロイゲルスが記したときにはドイツで礼式上必要だった立場とでも言うべきものと完全に両立したのだと論争した。「もしも〔オーストリア派学者の著書が〕その始まりのとき一定の個人の最も重要な必要を同時に社会の最も重要な必要と見なす性癖を露呈していたら、この性癖はただちに乗り越えられていたはずだ」と(フロイゲルス1935: 550)。フロイゲルスの主な証拠品は(ヴィーザーによる言明を別にすれば)1886年に属するベーム=バヴェルクのエッセーであり、「自由競争の不利益な効果」と題付けられていた。

このエッセーでベーム=バヴェルクは、自由競争の需給条件下では「社会的に最大可能な絶対“rein”効用量」を創造する「最も有用で社会的に最も有益な」均衡がもたらされると考える。驚くことに、この見解の解説者は社会改革者の態度で知られるアルベルト・シェフルであって、これに批判を加えたのがベーム=バヴェルクであった。ベーム=バヴェルクはこれを「交換からの絶対高稼得と相対高稼得の混同」による「人惑わせ」と特徴づける。彼は「理想的測定基準」を仮説化しつつ、所与の財に関して貧困消費者に競り勝つ富裕消費者は貧困消費者が得るより少なくしか効用を得ないのは当然だろうと主張する。「残念ながら実際の経済生活ではこの種の事件が数え切れないほど起こる」一方、ベーム=バヴェルクは例証として1840年代アイルランドを取り上げた。そのとき現地の住民には穀物の市場価格を支払う余裕がなく、穀物はその代わりに輸出されていったのだ。結果は穀物が富裕層の精神と良い焼き加減の商品の需要を部分的に満たしに向かうかたわらでアイルランド人が飢えて死ぬことであった(1924: 476–77, 479)。ベーム=バヴェルクは次のとおり結論する。

偏見なき人物は確かにみなここで、利己的な交換の競争が穀物と穀粒という商品を社会的に最も有益な配分、すなわち民衆の致命的な維持と発達に最大の絶対効用を添付する配分へと導かなかったことをいったん認識するだろう。(1924: 480)

この種の言明が「自由主義理論の主な基盤とその上に建てられたレッセフェールの要求という腐敗を科学的にもたらして」きたのはオーストリア派の理論自体ではなかったとフロイゲルスに宣言させた(1937: 35)。後に、ジョウン・ロビンソンは似たように、限界効用説の含意が最初はすべて「経済システムに対して再分配主義より急進的に干渉する手段ではなくとも、商品を不平等に分配することでかなり多くの効用の果汁を干からびさせる累進課税と福祉国家」の方向に向いていたと論じた(1962: 52;強調は原文)。

ここではロビンソンの果汁という用語の使い方が重大な意味をもつように見えるし、この点でフロイゲルス(とベーム=バヴェルク)の根本的な誤りを指摘している。仮定では限界効用理論は、個人内で生じ、どうにかこうにか測定できる臭気の類なる「効用」と呼ばれる心的実体を扱っているように見える。ベンサム的な功利主義への逆行という見方は、その狙いが集計的「社会効用」を最大化することならば、個人間効用比較が可能ばかりか義務であることを含意する

しかしこのアプローチ全体は、効用がつねに序数的であり決して基数的ではないという現代オーストリア派分析の推理がいったん理解され受容されれば地に落ちる。それはつねに、個人が行為する際の選好の順位に言及し、他人はいわずもがな、行為する個人自身が測定できるようなある種の心理学的実体の量には決して言及しない(ロスバード1997, 1: 22–40;またカウダー1965: 215–17も見よ)。

いずれにせよ、1880年代と90年代のベーム=バヴェルクからの引用は「ドクトリネール」あるいは「純理派」の経済自由主義の伝統からはかなり決定的に距離を置いているように思われるだろう。けれどもエーリッヒ・シュトライスラーには、彼を「国家に対する非常に広範な懐疑主義〔をもった〕……非常に過激な自由主義者」として国家を「悪」と「愚」の両方と見るアダム・スミスの見解を共有する一人と言及することができる。最も興味をそそられるのはシュトライスラーの証拠がベーム=バヴェルク末期の1914年に出版された二つの新聞記事から引き出したものである。

ここでベーム=バヴェルクは(労働組合による)強要的干渉が経済法則を出し抜けるという概念と政治家が大量の公的貨幣支出を通して一時的な社会的平和と支持を買収する性癖の両方を批判する。そしたらベーム=バヴェルクを痛烈な政治的指導者批判と政府過程自体の懐疑に転向させたのは彼のオーストリア財務大臣としての一身上の経験であったように思われる(1987: 10–14)。彼の考え方は政治過程の実地観察に基づいて、初期の「市場の失敗」に対する焦点から、不可避的に反社会的な「準地代あさり」の面に対するもっと成熟した懸念へと進化を経たようだ。ベーム=バヴェルクの後期の見解の論点は、シュトライスラーが指摘するとおり、特殊利益の論点である。ミーゼスが出席したベーム=バヴェルクの講義は1905年~06年であり、彼の政府での最終任期末期の後であった。

フロイゲルスの記事が発表された数年後、1886年のエッセーも含めてベーム=バヴェルクの作品集を編集していたフランツ・X・ヴァイスは――ミーゼス自身に反対して――フロイゲルスと同じ立場を論じた。ドレズデンで開かれミーゼスとハイエクおよび他のオーストリア学派の指導者が出席した(ヨーロッパドイツ語圏社会科学者の主集団たる)社会政策学会1932年会合では、ヴァイスもまたミーゼス的自由主義からオーストリア派経済学を引き剥がそうと試み、オーストリア派の古い世代が発表したさまざまな言明を引用していた。それらの中には、メンガーの自分をマンチェスター派の支持者と非難するのは軽率であるという明言と、ベーム=バヴェルクの「無関係なレッセフェール・レッセパッセ政策」の非難と、ヴィーザーの国家活動を受け付けない不変の経済自然法が存在するなる主張は「真剣に受け取られることはほとんどありえない」という見解があった。

彼〔ミーゼス〕の目的は「彼が引き出すべきだと信じる経済政策のために〔オーストリア派の学説の〕創設者も含む著名な代表者の多くが引き出さなかった結論をたくさん確立することであった。」とヴァイスは宣言する。ヴァイスの批判に対するミーゼスの短い反応いわく、「私は権威と引用に敬虔ではないし、私の議論は訓詁ではなく論理に基づく」。興味深い含意は、オーストリア派経済学の政治的帰結とは、時代の世論の雰囲気に服する初期の主提案者の特殊な見解から集められるべきではなく、システム自体の内的論理から集められるべきだというものである(ミーゼスとシュピートフ1933: 51–53, 131, 118)。[49]

ヴァイスとフロイゲルスのような著述家がミーゼスに関して耐えられないと思ったことは、フロイゲルの言葉では(1935: 538)、彼が「確かに改善の形だが、しかしそのひたすらの過激主義で、マンチェスター派の決定的な誤りを生き返らせようと努めている学者」だったことである。レッセフェール学説のこれらの根本的な「誤り」が間違えなくこれっきりで文明世界全体ならずとも中央ヨーロッパでは葬られたと思われた。ミーゼスがきっとレッセフェールというぞっとする失墜した観念がらみの議論が厚かましくもミーゼスによってきっと再開されてしまうだろうということは、彼の敵対者にとってはそれ以来彼の全人生にわたって決して許すことができない何かであった。オーストリア派経済学と真正自由主義の親密なる結びつきを露にしたのはミーゼスだった。

ミーゼスとハイエク

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスとF・A・ハイエクに始まって、これら二人の学者が自身をしてかつて傑出したオーストリア派経済学者になり、二十世紀の最も著名な自由主義思想家になって以来、自由主義とオーストリア学派の繋がりは強烈で浸透性のものになった。しかしながらこのどれも、明らかに彼らに資格がある立場の類を彼らに与えるには十分ではないとアメリカの学界は考えた。[50]両者、わけてもミーゼスは、二十世紀後半の自由市場哲学の沸き立ちの功で、一般的に評価される以上に大いに責任があった。[51]

しかし、この二人の偉大な男たちは頻りに融合されるから、彼らは経済理論の範囲だけではなく(サレルノ1993;またカーズナー1992c: 119–36も見よ)、本エッセーのテーマにもっと関わることとして、自由主義の程度においてもまた鋭い区別を露呈していたことが強調されなければならない。

したがって我々はハイエクの経済科学への貢献ではなく彼の政治的態度に言及することになる。彼の政治的態度は彼がミーゼスと一緒に現代オーストリア学派の理論的基礎を組み立てたころのキャリア早期の部分でとても重大であり価値があった。[52]

ミーゼスが頑固なレッセフェール市場経済の提唱者であった一方で(ミーゼス1978a;ロスバード1988: 40;ホップ1993;クライン1999)、ハイエクは彼が有用な国家活動の可能性と見たものに対してつねにもっと開かれていた。彼はヴィーザーの生徒であって、自ら認めるとおり、「オーストリア学派の他のメンバーのほとんどのメンバーとは違って〔ヴィーザーは〕私が若いころ傾倒していたフェビアン社会主義にかなりの共感を寄せていたから……私は彼に魅了されて〔いた〕。実際、彼は限界効用説が累進課税の基礎を提供したことを誇っていた……」(ハイエク1983: 17)。

彼のキャリアの早期に、ハイエクは経済学の教えが国家干渉に反対する仮定を生み出すだろうと述べ、次のとおり言い加える。

しかしながらこれは決して経済学者の仕事の積極的な部分を消し去らない。すなわち、集合的行為は抗議の余地がないだけでなく望ましい目的を達成するため実際に有用な手段であるところのうちの領域を除き去らないのだ……古典派の著述家はあまりにも仕事の積極的部分を無視し、それによってレッセフェールが究極で唯一の結論とする根拠を得るものという印象を与えることを許してしまった(1933: 133–34)。

彼の豊かな生産性を示した長い学者人生を通して、ハイエクの観点にはこれが残った。多くの混乱した解説者が彼をレッセフェールの提唱者と特徴付け続けるのは残念ながらありがちだ。[53]実際には、彼はこれを誇りとしたミーゼスとは似ても似つかず、この言葉で自分の見解を表すことをつねに避けていたのだ。挑発的にも――そしてひどく誤解を招きかねないことに――ハイエクは想像上の古典派経済学のレッセフェールの結論は「もちろん国家活動があらゆる一つ一つの事例で有用であったという証拠によって無効にされてきたようだ」と述べた(1933: 134)。ここでハイエクは他の場合では彼の考え方にぼんやりと大きく現れていたはずの自身の原理を見失ってしまったように思われる。すなわち、そのような社会政策の問題にとっては「あらゆる一つ一つの事例」は問題ではありえず、むしろ一般的規則とその全般的効果が問題でなければならなかったのだ。

ハイエクは常習的にかなりの社会政策愛好を示した。[54]『隷属への道』の出版に続いたシカゴでの討論ラジオで、彼は「私は国の万人への最低所得に賛成します」と述べただけではなく、無知なくせに攻撃的な二人の反対者に迫られて、「私の見るところでは、金融システムが中央統制下にあるべきだということは思慮深い人には決して否定されてきていません」という驚くべき断定まで行った(1994b: 114, 116)。二十数年後に彼の本の増刷への序文で、ハイエクは自分が『隷属への道』を書いたときには「私は現行の干渉主義的迷信から完全には自由ではなく、結果として、今では私が不当と考えるさまざまな譲歩を行ってしまった」と認めた(1994a: xxiv)。[55]フェビアン主義への若かりしころの軽い傾倒とフリードリヒ・フォン・ヴィーザーへの深い賞賛を脇においても、ハイエクは1930年代と40年代に過ごしたイギリスで知的生活を牛耳っていた、ソビエトロシアで進行中の崇高なる実験への夢見る目つきでの賞賛を頻りに含む、極悪きわまる国家主義によってこの方向に影響されていたのかもしれない。いずれにせよ、もっと一貫した――あるいはもっと「教条的」な――種類の自由主義からの彼の逸脱は一生涯持ちこたえたミーゼスにめとられた。

ミーゼスは貧者が私的慈善活動で受けるべき必要満足の可能性を際立たせ、ビスマルク的な社会保障制度の事業に決然として立ちはだかった(1949: 829–50、わけても832–36)。かたやハイエクは次のとおり宣言する。

政府活動は法と秩序の維持に制限されるべきだと二、三人の理論家が要求してきたけれども、そのような立場は自由の原理によっては正当化されえない……。我々が豊かになるにつれ、共同体がつねに彼らへ提供してきた最低限の生計費では彼ら自身を世話できなくなり、市場外部では提供できないものが次第に増えるだろうこと、あるいは政府がそのような努力を支援してよく、または指導さえしていいということはほとんど否定されえない。

あたかもそれでは十分でなかったかのように、ハイエクは掛け金を吊り上げる。一見したところ明らかなモラルハザードや公共選択的考慮に関して、彼は次のとおり言い加える。

なぜ政府が社会保障と教育のような領域でもまたなんらかの役割を演じずにいるべきなのか、あるいはイニシアチブをとらずにいるべきなのか、あるいは一時的に一定の実験的開発を援助すべきではないのかにはほとんど正当な理由がない。ここでの我々の問題は目標よりはむしろ政府の活動方法である。(Hayek 1960: 257–58)

ハイエクが言い張るには、国家は単なる「強要的な機構」ではなく「サービス・エージェンシー」でもあり、そのようなものとして「さもなくば達成できないかもしれない望ましい目標の達成を危害なくば支援していい」。[56]「課税額の上昇を除けば強要に関わらない」(原文ママ)(ハイエク1978: 144)場合に広範な福祉国家を開放するこの見解はアンソニー・ド・ジャゼーによって批判されてきた。ド・ジャゼーは説得力をもって、ハイエクが自分の提案を「浅はかな筆致で」述べていると言い、それから次のとおり言い加える。

ここにあるのは自由主義の御旗の下で「スウェーデン・モデル」のような何かを再創造するためのはっきりとした要求であり、あるいは一斉にそう受け取ることを言い訳してしまうかもしれないところのものである。ハイエクはそのような提案を帰せられることにぞっとする思いだろうが、彼の解説はこれと完全に一貫するのだから、このわけで「緩い自由主義者」に分類されなければならない。(1991a: 15–16;また1996も見よ)[57]

予想されるとおり、ハイエクの「社会的」領域での国家活動主義の裏書きはレッセフェールの立場に対する物知りな敵対者に「ハイエクでさえ……認めている」という形の修辞的議論を提供した(たとえばバッティスティ1987: 264–65で、著者がヴィルヘルム・フォン・フンボルトの最小国家の立場を掘り崩すためにハイエクを使うところ)。

ハイエクとミーゼスは他の面でも同様に対照されていい。J・C・ニーリはハイエクが明示的に認知したイギリスのホイッグの(穏健派自由主義的な)伝統だけではなく、また彼の政治哲学がオーストリアのアルトリベラリスムス(古い自由主義)の伝統にも似ており、これはいくつかの面でホイッグ党以上に自由主義から妥協していたものであることを指摘する。ニーリが述べるとおり、「ハイエクの立場には……残響し続ける伝統主義や保守主義があった」。オーストリアのアルト自由主義には先祖代々の制度の顕著な魅了と個人的権利の概念(自然権と理解されるにせよ実定権と理解されるにせよ)に対する懐疑主義があった。その代表者の多くは「無制約な社会的移動性を明確に嫌っていた――これはオーストリア=ハンガリーでは主にユダヤ人の地位向上を意味したのだ」(ニーリ1986: 104, 106)。

対照的だが、ミーゼスはここでも他の領域でのようにもっと急進的なのであった(ロスバード1981を見よ)。ミーゼスは、伝統的な「ブルジョワ」(貴族的)文化が我々に人間本性として知られているものと本質的に調和すると考えるその強い提唱者であり、文化とは生き方として理性に献身することに基づくものだと理解していた。

人間理性の能力への賛辞は彼の作品を通して撒き散らされている。たとえば理性は「人を獣から区別する証」であり、「特別人間的であるものすべてをもたらした」。また「人には誤りと戦うための道具がただ一つしかない。理性である」(ミーゼス1949: 91, 187;また特にサレルノ1990を見よ)。これはハイエクの後期の作品での理性への謗りとは著しい対象をなしている(特にハイエク1988)。[58]

伝統に関してミーゼスの態度が最もよく表現されているのはおそらく『理論と歴史』である。

歴史は過去を顧みるが……それは怠惰な静寂主義を教えない。それは先立つ世代の偉業を凌ぐよう人を奮起させるのだ。伝統への忠実さとは、人間行為の根本的規則、すなわち絶え間なく状況を改善する努力に対する歴史家の観察を意味する。それは不適当な古い制度の維持を意味しないし、もっと批判に耐える理論によって遠い昔に覆された学説への固執を意味しない。(1957: 294, 296)[59]

後のオーストリア派経済学者でミーゼスの足跡を追っている人たちは、もっと急進的な形の自由主義を大いに採用してきた。彼らの中で最も傑出している者の一人であるマレー・ロスバード(1970, 1973a;ブロックとロックウェル(編)1988)は反国家主義にかけて自らの師を凌いでいる。オーストリア派が自由市場と私有財産の擁護で国家自体の廃止と市民社会の完全勝利(ホップ1987と1999;ルミュー1988)の点まで考える多くの聡明な人たちと付き合っているのはかなりの程度でロスバードの「リバタリアンな学識と提唱」(カーズナー1987: 149)のゆえである。国際関係と外交政策および戦争と平和の問題まで他のオーストリア派の学者には相対的に怠られた次元をロスバードが広範に扱ったことは注記されなければならない(たとえばロスバード1972, 1978;しかしまた1944も見よ)。この領域でも、他のすべての領域のように、ことあるごとに国家権力と格闘する自由主義の核心的観念をさらに追い求めたのはロスバードなのであった。

付録:カール・メンガーの社会哲学についての覚書

エーリッヒ・シュトライスラーはルドルフ皇太子のノートを分析する際に、それらが皇太子の個人教師たるカール・メンガーの政策見解を反映していると想定する。そうであれば、このころのメンガーは国家に相応しい任務について非常に制限的な考えを心に秘めていたのであり、(正義と防衛を超えたところでは)一定の「外部性」に対処することにそれらを制限している。「ただ異常な事例だけが国家の干渉を許す。我々は正常な経済生活の状況ではそのような処置が有害であると必ずやつねに宣言しなければならない」と、ルドルフは記した。国家の義務は次のような政策の実施に制限されなければならない、すなわち、牛の病気の蔓延、他国との貿易協定の交渉、道と鉄道と学校の建設、および工場での成人の労働に一日あたり十五時間の上限を課し、児童労働工場を全部廃すること(シュトライスラー1987: 22–23)。

そしたらいったい何がメンガーに後に社会政策を裏書きするような言明をさせたのか? アダム・スミスに関する1891年のエッセーを扱う際に、シュトライスラー(1990b: 109–10;またメンガー1994: 13–14)はメンガー自身が脚注でドイツ語で引用する節での彼の立場を歪曲している。シュトライスラーが記すには、「〔メンガーが〕実際に言っていることは単純に、アダム・スミスは労働者と雇用者のあらゆる衝突とあらゆる要求に際して正義がつねに雇用者側にあるとは考えなかったことであり(明らかに正しい!)、そしてスミスはあらゆる場合であらゆるタイプの国家活動に反対するわけではなかったことである(またもや明らかに正しい)。

しかしながら彼が出した引用でメンガーが言っていることはこれだ。すなわち、「A・スミスは貧者と富者の、および強者と弱者の利害衝突のあらゆる場合で例外なく後者の側につく。貧者と弱者を贔屓する国家干渉はスミスには少しも拒絶されず、代わりに彼は財産乏しき階級の……贔屓を期待するあらゆる場合でそれを是認する」(シュトライスラー1990b.: 109nの引用、強調はメンガーの原文ママ)。

メンガーがスミスを擁護する際に述べたことは、スミスが「貧者」のために「富者」に対して戦うとき、貧者を害する重商主義的法案の廃止の支持を超えて徹底的な積極的立法の提唱へ赴いたことなのだ。「スミスは賃金水準の法的決定が労働者を贔屓する場合にかぎればこれにさえ賛成し、そのような賃金統制をつねに正当で公正なりと宣言する。実際、A・スミスは労働の完全収穫からの控除に資本利潤を指定し、自ら種を蒔かなかったところで収穫したがる人々の所得に地代を指定するほどかけ離れていた」(メンガー1935b: 224, 230–31、強調は原文ママ)。メンガーは同じ仕方でJ・B・セーを論じる。国民的産業を有利にするためのセーの――そしてスミスの――申し立て上での関税支持はフリードリヒ・リストの観念と結び付けられた。メンガーが宣言するには、ドイツの社会改革思想家(講壇社会主義者、社会政策の提唱者)は

スミスと古典派経済学に対する戦いではなく、資本主義的マンチェスター派――社会政策に関して歪んだ古典派経済学像――の代表者に対する戦いとしては部分的に正しかった。古典派経済学が想定した最終段階は、コブデンとブライト、バスティア、プリンス=スミス、シュルツェ=デーリッチュには見出されず、社会政策が客観的科学的性格をもつかぎり、現代社会政策学派のシスモンディについで最も重要な創設者と特徴付けられるべき社会哲学者たるジョン・スチュアート・ミルに見出される。(メンガー1935b: 232–33強調は原文ママ)

さらに、メンガーは古典派経済学者と社会政策者それぞれの時代状況に言及することで彼らの異なる立場を説明する。もっと早期の経済学者は政治的に設けられた障壁を除去しようとしていたが、いまや強調点は「労働者階級の状況介在のための努力の更なる発展」、つまり積極的国家干渉になっている、と(1935b: 234–55)。

メンガーは1884年にシュモラーの『研究』レビューに論駁する際すでにレッセフェールから離反していた。ここでメンガーは、混乱していて明らかに矛盾した仕方でものを記す。初めに彼は次のとおり断言する。

いわゆるマンチェスター学派の支持者であることはまったく不名誉なことではない。それは個人的利害の自由な遊びが共通善を最善に振興するという最も重要な命題としてうまく特徴付けられる科学的確信の連続に、我々が固執することしか意味しない。シュモラーより知的にはるかに優れている社会哲学者であり、最も高貴な真理愛に導かれる人々たちは、自身を上述の原理とそこから帰結する経済政策の格言の支持者と公言してきた。(メンガー1935c: 92n)

しかしながらメンガーが続けて言うことはこれだ。

多くの面で不快な我々の科学の領域で、もしも何かが私とシュモラーを和解させるとすれば、それは彼が弱者と貧者の運命のため社会的邪悪に対して高潔な人々の側で紛れもない献身をもって戦っているという境遇である。これは、私の研究方針と完全に異なりつつも、私の共感が同じだけ完全にそのような努力の側についているところの闘争である。私は人々の経済生活を形作る法則の研究に対して己の乏しい力を捧げるかもしれないが、資本主義の利益に仕えることより私の考え方の趣から程遠いものはない。シュモラーの非難より真理と対照的なものはなく、私がマンチェスター党の支持者であるという叱責より不真面目なものはない……。(メンガー1935c: 93)[60]

この節でメンガーはレッセフェール著述家が「資本主義の利益」に仕えると含意していることに注目せよ。同様に1906年、メンガーはベルリン新聞でジョン・スチュアート・ミル誕生百周年にミルの批評文を公開した。ここで彼はミルについて、彼が『原理』で社会的問題に相当の努力を捧げ、「そうすることで、数十年後にいわゆる講壇社会主義がドイツ経済のために、ポール・コーウェとシャルル・ジドがフランス経済のために成し遂げようと試みたことを、イギリスのために多くの点で試みた」たかどで彼を賞賛した。そうする際に、ミルの作品は

万国の教養ある界隈で、そして今日の公的討論で、社会問題が一方的階級利害の見地から把握されることが以前よりはるか少ない程度にしかなくなっているという事実に特に貢献した。(メンガー1935a: 290)

またもや、レッセフェールの立場は資本家以外の共同体の損失で彼らの利益に奉仕しているという含意がある。

ついでに言えば、シュトライスラーが「J・S・ミルは少なくともメンガーには社会主義者よりほとんど良いものではないと見なされた」と言うとき(1990b:128)、これは非常に紛らわしい。1891年と1906年のエッセーからの引用のとおり、メンガーはミルをその作品が古典派経済学の絶頂に相当した社会改革者として大いに尊敬して見ていた。

シュトライスラーはメンガーによる後の言明を割り引こうと試みる。すなわち「彼〔メンガー〕の立場が〔皇太子のノートの期間後に〕もっと静かな自由主義へと変化したという証拠は彼の著述には微塵もない。彼の一般的な声明はまさしく社会政策にもっと賛成であるように見えるが、彼は抗議ノートで具体的な紛争の例を決して出さなかった」(1990b: 112, 強調は原文ママ)。しかしシュトライスラー自身がオーストリア学派の創設者たちについて書くとき(1987:11)、彼らは「みな理論家であって、ゆえに、確かに経済政策については非常に際立った見解をもっていたけれども、彼らの政治的見解についてはほとんど何も書かなかった」。メンガーの全般的政策見解の「具体例」はひょっとするとノートで間接的に知らされていたのかもしれないようなものを除けば稀であるようだ。

他方で、メンガーは確かに社会政策と講壇社会主義のような用語が経済的事情での非常に行動主義的な国家への支持を意味することに気づいていた。もしもシュトライスラーが主張するとおりにメンガーが「最も純粋な品質の古典的自由主義者」であったならば、なぜ彼は社会主義と講壇社会主義にこんな風に――シュモラーに対する酷評の只中で、「社会政策」の主義を推進する際の彼の偉大な功労を認めるほど――好ましいことを書いたのか?[61] シュトライスラーの解釈を鑑みれば、これらの言明は説明が政治的日和見主義に見出されなけれないかぎりは大きな謎に相当する。

1883年から1906年にかけて出版されたメンガーの言明に反し、シュトライスラーは自身が1876年のノートの含意と考えるものを並べ立てる。しかしシュトライスラー自身の価値ある研究からは、ノートが(実に十中八九メンガーのルドルフ教育を反映するにせよ、)一定の面でメンガーの見解と一致しないことが明らかだ。すなわち、「皇太子はメンガーの原理とは徹底的な対象をなす純粋に古典的な賃金理論を教わった。彼はF・ラッサールがこの理論に名づけたところのいわゆる賃金の鉄則をはっきりと教わった。」。シュトライスラーの分析は背理法に近づくところで最高潮に達する。「人がこのノートによって、もしもメンガーが自分の革新のことをアダム・スミスに創造された偉大な古典派経済学の大建造に飾られる些細なフリルと見なしていたに違いない、と判断するならば」(メンガー1994: 19–21)。

実際シュトライスラーは、メンガーが彼自身信じていなかった、「多くの件で……彼が説得力をもって論じてきたものとは正反対のものが唯一可能な正しい理論的立場」とされた変種の経済学を皇太子に教えていることについて、自らもっともらしいわけを提示する。

シュトライスラーによると、メンガーは

たいていの経済学的な進路での賢さと同じく、政治的にも賢い進路をとった。彼はとにかく彼自身の考えをほとんど述べなかったし、自身の出版した作品からは教えなかった。そうではなく、彼はほぼもっぱら世界的に有名な、つまり古い本で教えていた……。このようにして彼はありうる批判から自身を守ったのだ。

しかしこの場合、ノートがメンガーの「成熟した判断」を変わることなく反映すると考えることにどんな理由があるのか?(メンガー1994: 9, 6, 23)

マルガレーテ・ボースはメンガーがフランツ・ヨーゼフ一世に書いた手紙を引用するが、これは彼の政治見解を概説していた。ここでメンガーが「個人主義者」と「道徳家」を区別していわく、「道徳家〔もまた〕経済活動の自由を自然で正常な状態と考えるが、彼は個人的利益と共通利益が経済的事情で衝突することに気づいている」。彼は自分自身が「穏健な道徳家の学派を信奉している」と記す。後にメンガーはウィーン新聞で、皇太子が個人教師に「保護主義からと同様マンチェスター派からも離れた」見解を学んだと匿名のルドルフ死亡記事に採録させようと努めたのだった(ボース1986: 29, 31)。

ボースが指摘するとおり、メンガーが帝国裁判所にあまりにも自由主義的すぎるという疑惑をかけられていたことは事実である。早い時点で、彼の政治的傾倒は警察の報告書の対象にさえなっていたのだ。かくして、メンガーの経済政策に関する時おり奇妙で矛盾した言明と社会政策の是認を、本当に、少なくとも部分的に説明するのは、政治的日和見主義かもしれない。

[1] この学派の信奉者にして自由主義観念の歴史家であるライモンド・クベッドゥ1997は、二十世紀の新しくしかも知的にとても強力な形態の自由主義の理論的基礎として方法論的な個人主義と主観主義から始めつつ、説得力をもって先立つ時代の「古典的自由主義」の後継者たるオーストリア派の学説を提示する。

[2] ロレンツォ・インファンティーノ1998: 114–30は、人間行為の合理性に関するミーゼスとヴェーバーの概念を対照すると同様に、方法論的個人主義に関して彼らに共通するいくつかの面白い点を議論する。

[3] エーリッヒ・シュトライスラー1990a.: 60は、メンガーの業績が発見されるのはこの領域であり、限界革命をともに手ほどきしたことではないのだとさえ主張してきた。

[4] たとえばオイゲン・フォン・ベーム=バヴェルクが述べるには(1891: 380–81)、「もしも発展した経済秩序の小宇宙を正しく理解したいならば、研究することに飽きる暇は我々にはない……我々は小さな諸物からなる大きな諸物の現象を理解しようと努めなければならない」。F・A・ハイエクはおそらく他の誰よりもオーストリア派を方法論的個人主義に同定した人であり、彼が記すには(1973: 8)、「複雑な市場構造モデルに関する建材として知性的に理解できる個人の品行を一貫的に使うことは、もちろんメンガー自身が「原子的」(あるいはときに手稿の覚書では「組成的」)と記述した方法の本質であり、後に方法論的個人主義として知られるようになった」。

[5] エルスターは重要な主張を通した(1985: 5、強調は原文ママ)。いわく、「もっと長い時間の遅れからもっと短い遅れで我々がマクロからミクロへと進むときに強化されるのは、我々の説明に際しての確信であるだけではなく、それに関する我々の理解である。説明することは仕組みを提供することであり、ブラックボックスを開いて、ナットとボルトを示し、歯車と車輪を示し、集計的結果を生成する願望と信念を示すことである」。

[6] オーストリア派の方法はまた一定の形態の保守主義とは対照的に、自由主義との親近感が強い普遍主義をも含んでいる。ミーゼスが述べるとおり(1969: 38)、「シュモラーと彼の追随者の宣言に反して、[オーストリア派の学者は]時間と場所に関わらず、行為者の国民的および人種的な特徴にも、宗教的、哲学的、および倫理的なイデオロギーにも関わらず、あらゆる人間行為に妥当する経済定理の本体があることを主張した」。

[7] オーストリア学派の一般的な哲学的背景について、特にゴードン1993、またスミス1994cを見よ。ピアソン1997: 31は(オーストリア派の学者を含む)初期限界主義者とドイツ歴史学派が互いに対する反動というよりはむしろ(主にイギリス政治経済の)古典学派への反動だったのだと主張しながら両者の相違を最小化しようと試みる。しかしながら彼は確信を吹き込むに失敗する。というのも彼の分析は彼の次の仮定に基づいているからだ。すなわち、限界主義者は「自然法の面影を決してすっかり失いはせず、率直に言って社会現象である『価格』へ向かうというあの超越的な質を、つまり『価値』を利子に取り換え[た]」。

[8] M・ギンズバーグが引用されているゲルナー1968: 256 n. 4を見よ。いわく、「方法論的個人主義の受け入れを拒否する人々は……権力集中の危険によく気づいている。しかし彼らは我々に開かれた唯一の選択が、一方で自生的な競争的秩序、他方で全体に染み渡る統制のシステムの二者択一であることを否定するのだ」。また同ページでのゲルナー自身のコメントも見よ、いわく「我々の状況を曲解することから論理と自由の名で我々を救おうと試みる〔方法論的〕個人主義者は、レッセフェールのわずかなプロパガンダがそれらの非常に一般的な問題で繋ぎとめられているものであるという疑惑からつねに完全には自由ではない」。

[9] ロスバードは『大恐慌』(1963)の説明で、他の作品と同じように、関与する「階級」(あるいはもっと厳格にミーゼス=ロスバード派の用語法で言えば「カースト」)に光を当てて非常に具体的な歴史的出来事を頻りに解釈しながらそれらを説明するのに役立たせるため理論を適用する。またギャリソンとカーズナーによるコメント(1989: 121)も見よ、いわく「ハイエクの景気循環理論は」科学的な他の長所の中でも特に「十九世紀と二十世紀の経済史の多くを解釈するための基礎を提供する」。

[10] ホワイト1984: 4参照、「経済現象への主観主義的アプローチは全個人が選択し目的的に行動するという洞察の上に経済分析を打ち立てる……。異なるメンバーがそれぞれの仕方で自分たちの方法を擁護してきたけれども、このアプローチは1870年代の始まりから現在までオーストリア学派の太鼓判であり続けてきた」。またヴォーン1990: 382参照、「メンガーの研究対象である人間は……静的かつ完全に定義された選好機能によっては要約することができない……。彼は彼自身と彼の世界の両方の能動的な創造者である。そして創造は状態というよりはむしろ過程である」。

[11] パレートとは対照的にも、オーストリア派の見解では消費者は消費機能の位置ではなく、また企業家的役割をも演じる絶え間ない変化の源泉と見なされる。(Mises 1949: 253–54)。パレートにとって、彼の実証主義とうわべの「反個人主義」にもかかわらず、彼の全人生をかけて熱烈な経済自由主義者であった。フィナー1968と本書のエッセー『ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの『リベラリズム』、ファシズムと民主主義と帝国主義について』を見よ。

[12] カーズナーの所見1976b: 59参照、「『自動的資本維持』〔クラーク=ナイト概念〕の考えがミーゼスにとっていかに無縁であったかを察するのは簡単なことだ。社会的経済現象を説明するとき――オーストリア派経済学がするとおりに――個人的な人間の目的ある故意の意思決定に分析的注意を集中するアプローチは、この資本概念を、自生的に成長するプラントが単に事実として間違っているだけではなくまったく不条理として扱わざるをえない。

[13] 自薦のオーストリア派「同行者」リーランド・イェーガー1995: 219参照、「経済学は人間の選択と行動を扱い、機械的に依存可能な関係は扱わない。経済とは根拠ある信頼をもってその『構造』を確証し操作することができる機械ではない」。自然科学での定数と比較できるような定数は経済学にはなく、「結局、数量経済学での起用さも非存在を存在させることはできないのだ。」またイェーガー1997の、オーストリア派経済学の分別ある評価の後で、著者が職業主流派によるオーストリア学派の相対的無視についていくつかの理由を提言するところも見よ。

[14] 特に、カーズナー1973に始まる、ミーゼス派の観念をこのトピックで発展させようと試みるイズレイル・カーズナーの作品を見よ。そしてロスバード1997, 2: 245–53とジャフェ1976による解説は、メンガーとジェヴォンズとワルラスを「限界革命」の共同創始者として「同質化」する風潮のせいで、オーストリア派と新古典派に最初から存在した両アプローチの決定的な違いが見過ごされてきたと論じる。

[15] オーストリア派と新古典派の他の対照に関する情報豊かな議論のために、ウェルタ・デ・ソト1998を見よ。

[16] ハーバート・マティスが初期オーストリア学派について述べるには(1974: 257)、「この新しい知的な経済学アプローチは主観的で、相対的で、心理的であった。というのも、それは抽象的な概念からではなく人間の存在から始めたからだ。したがってそれが古典的自由主義からの逸脱の程度を示す。」ここでの明らかな混乱は自由主義の歴史についての多くの著述家による皮相的な取り扱いの典型を超えるものではない。

[17] たとえばエドワード・G・ドランの『主流派経済学』の批判1976b: 6, 11参照、「それは現実の重要な構成要素――目的的な行動の概念を必然的に除外してしまう。かたやオーストリア派は「社会的世界で作動している真の因果的関係をありのままにしておくべきだと言い張り、疑わしい統計的集計間の経験的規則性を単に確立するだけでは満足しない」。オーストリア派は「マクロ経済学的な問題にミクロ経済学的なアプローチを差し出す」。

[18] またロスバードによるこの主題についての二つのエッセーでの辛辣な分析1997, 2: 180–84と217–25も見よ。

[19] たとえば、ローレンス・バーケンの明敏で重要なコメント(1988: 256)いわく、「限界主義が勃興することでのみ、個人的な嗜好が全員の必要というアイディアからきっぱりと開放されたのである。前限界主義的な考え方は、時々の例外こそあれ、特異な消費者の重大さを無視するか過小評価してきたので、個性の印としての消費者選好を認識することを妨げていた。「正常」の観念を下支えしようとする世俗道徳として働いた早期の経済思想は、全員の条件で必要や効用のことを考えた……。限界主義が到来することでのみ、我々は本当に個人主義的な欲望の発生にまみえるのである。」しかしながらバーケンの分析は新古典派の限界主義の変種よりはオーストリア派の方にこそ適用するように見える。

[20] ハイエク自身、ミーゼスの『社会主義』(Mises 1981: xxiii-xxiv)の増刷への前書きで「あらゆる社会的強調が合理的に認識された効用の発揮である」というミーゼスの主張を「事実的には間違っており」ミーゼスの「過激理性主義」の表出として批判したとき、「ハイエクII」とミーゼス両者のハチスンによる区別にいくつかの支持を添えた。しかしこの一説の一般的な主旨はミーゼスに対する彼の不同意を実際より控えめに思わせることである。たとえば、ハイエクはミーゼスが「彼自身を理性主義‐構成主義的な開始点から大いに開放して」、「ミーゼスは他の誰とも同じだけ我々自身が設計しなかった何を理解できるよう我々を助けてきた」と述べた。

[21] ミーゼスは人間行為の心理学的な意味での特定の動機が経済学に関係するなどとは一度も主張したことがない。それどころか、動機は行為で証明されるものとしての選好の問題であった。

[22] フリードマンが彼の見解を大衆に向けて表明したことは注記されなければならない。なお、どうすれば彼の議論が実質的にもっと厳格化または一貫化されうるかを検討することは困難である。たとえばフリードマンは、もしも我々が人々を説得することに本当に効率的であろうとするならば、〔想定上ではミーゼスが露呈したらしき〕不寛容に気をつけなければならないと宣言するけれども、非常に寛大にも「ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスが他のどの個人よりも自由市場の根本観念を広げてきたことに疑いはない」としぶしぶ認めてしまう(1991: 18)。フリードマンによる申し立て上では先験的らしきアイン・ランドの哲学についての彼の手短な説明の方も単純に誤報に基づいており不正確である。

[23] ミーゼスの業績に精通している人々(ロスバード1988;ホップ1993;ライスマン1998;ツラビンガー1994;エベリング1981を見よ)にとって、これを最小化しようとするハチスンと他の人々の試み、たとえば「彼は真理を欠くわけではないとはいえ確実にほぼ慈悲の心がなく、戦間期オーストリアでの企業家的利害関係のための主要ロビーイストと呼ばれてもいいかもしれない」というエーリッヒ・シュトライスラーの断言(1990b: 109;また1988: 200も見よ)は不可解さより馬鹿馬鹿しさが勝つ。

[24] 先験主義の疑問に関しては、ハイエク(1955: 221 n.1)がジョン・ロックについて、彼が「モラル・サイエンス」(倫理学、政治理論など)を「それに等しい確実性の、数学と比べられる先験科学と」見なしていたと記したことは注目するに値する。ハイエクがここでロックに好ましい判断を下していることは文脈が明らかにする。ハイエクやハチスンがロックを「偽」の個人主義者に分類することを望んでいたかははっきりしない。

[25] ポパー派に対する鋭利な批判として、ゴードン1993: 34–41を見よ。

[26] またド・ジャゼー1991bを見よ。ジェラルド・ラドニツキー1995: 49–84、特に50, 64, 83は、ポパーの政治哲学一般とともに、彼が頻繁に繰り返した「ヒューマニスト」としてのマルクス賞賛を批判する。彼はポパーの「いいかげんな社会民主主義」への譲歩が「生き残り戦略」であって、これが彼の見解に広い読者層を招き寄せることを許したのだと考える。ラドニツキーはこれを、国家主義的な時代精神に妥協することをあっさりと拒絶した人、ミーゼスと対照する。ラドニツキーの見解はポパーを偽善者で日和見主義者だと描写しており、これは正しいようには見えない。

[27] ポパーの自由主義思想史の知識は愕然とさせられるほど欠陥があった。たとえば彼1992: 10は、完全社会主義が必ず政治的奴隷化を伴うという概念をハイエクの独創と考えた(そしてミーゼスはこれをハイエクから引き出したのだ、と)。しかしこの観念は十九世紀後半の自由主義者にとってはありふれていた。ハーバート・スペンサーのエッセー『来たるべき奴隷制』、イヴ・ギュイヨーの『社会主義的暴君』、オイゲン・リヒターの『社会民主主義的将来像』、および他の人々の作品で立証されるとおり。

[28] 『資本主義と歴史家』の影響について、テイラー1997: 162–64を見よ。ジェレミ・シャーマー(1996)は博学な研究で、ポパーの明白な社会民主主義的態度にもかかわらず、彼の観念の含意がポパー自身の理解より古典的自由主義にもっと緊密であると論じた。この主張の妥当性や範囲がどうであれ、それ以前のもっと根本的な疑問がある――ポパーの政治観念は歴史的にも経済的にも酷く間違った概念に基づいているのに、そもそも幅広い調査を是認するほどはたして重要なのやら。政治的問題を扱う際のポパーの薄っぺらさが1956年の世界情勢の概観『我々の時代の歴史:楽観主義者の見解』(1962: 364–76)よりも明白になるところはない。ここで彼は――他の諸々の中で、人類の約五分の一に相当する、毛沢東主義政権下で生きる中国人を気にも留めず――「我々自身の社会世界がかつてあったものの中で最善である」と宣言する。彼はこれといった理由もなく「階級の相違」の消滅が望ましいと仄めかすだけでなく、また不条理にもアメリカ合衆国(と他のどこかで)「我々は実際いくぶんか階級なき社会に近づいてきている」とアナウンスする。同様に、ポパーはハイエクに賛辞を送りながら(ポパー1997: 321、1992年の会話から)、ハイエクとの会話でしばしば「複雑な社会では、法、ひいては国家の保護を享受する場合にしか自由市場に近づくものが存在できない。それはつねに法的枠組みによって束縛され、あるいは制限され、そしてこの枠組みによってのみ可能になるので、かくして『自由市場』という用語はつねに逆コンマで括られなければならない」からという理由で「保護主義、もしくは国家保護主義……と呼ばれていたもの」(原文ママ――おそらくポパーは他のみなが干渉主義と呼ぶものに言及しているのだろう)に対するミーゼスの戦い方を批判したと回想している。それではポパーの「論理」の上では「報道の自由」と「宗教的自由」のような用語もまた同じ理由でつねに逆コンマで括られなければならない。

[29] ミーゼスとハイエクが有名な論争で結びついた際の両者のいくつかの違いについて、カイザー1994を見よ。

[30] この立場の言明として、メーツ1991: 101–05で、学術的著述であるためと称して著者がミーゼスのことを彼の社会主義計画批判で「オーストリア派ブルジョワジーの理論的およびイデオロギー的な反撃」に乗り出したと特徴付けるマルクス主義者の論争術的戦術を採用するところを見よ。

[31] カレン・ヴォーン1994は社会主義的な著述家がオーストリア派の強襲に対して市場社会主義的応答を導出するため新古典派理論を使用したことがミーゼスとハイエク両者を自分たちの議論のオーストリア派に独特な構成要素に敏感にしたと主張する。

[32] ダシュグプト1985: 80参照、古典派経済学とは対照的にも、「蓄積ではなく消費が限界主義的経済学には経済活動の原動力に見えている。新システムはいわば「資本家主権」を「消費者主権」に置き換えるのだ。

[33] メンガーは国家を言語と市場のような社会的形成と同じ範疇に含めることで、国家と市民社会、強要と任意制という決定的に重要な自由主義的区別を曖昧にしていることは注記されなければならない。

[34] エミール・カウダー1965: 61はメンガーが宗教的偏見と反セム主義、軍国主義、決闘、および戦争の美化に反対し、「封建的なハプスブルク君主国の柱――聖職者、軍人、貴族――に対して非常に批判的であった」ことを指摘する。これらのいくつかは難なく論じられることだが「自生的に」発達した伝統や制度である。

[35] 多くの者によっていまだに本格的な政治思想家と見なされているルソーは彼の政治学最後の作品『ポーランド統治論』で幼稚なのぼせ上がりの全体主義的な含みを詳しく語りながらリュクルゴスの理想化を続けた。いわく、「彼は彼ら〔スパルタ人〕の法で、彼らの遊びで、彼らの家で、彼らの愛で、彼らの祭りで、ひっきりなしに彼らの国を示した。彼は彼らに一瞬もただ彼ら自身でいることを許さなかった。そしてその目標によって高尚にされたこの継続的な制約から熱烈な国土愛が生まれた……」。クロッカー1973: 335を見よ。

[36] ヴィーザーが主張するには1923: 91–92、メンガー以前にはあらゆる経済思想学派が「いずれかの大経済団体の利益を追求し……党派的利益に根拠を探していた」。実に奇妙だが、彼は「ブルジョワ」と「プロレタリア」の経済学者というマルクス主義的な用語法さえ採用し、「プロレタリア」すなわち社会主義的経済学者は「とにかく彼らの根本的な立場を放棄する」ことなくメンガーの経済理論から学ぶことができ、むしろ彼らは「彼らの立場を強化する」ことができるとまで極言する。

[37] エーリッヒ・シュトライスラーはオーストリア派経済学者に階級利害を帰する非社会主義者の中へ去っていった(1988: 200–01)。「君主制の終焉後、古い支配階級に属した学派メンバーは権力を没収され、金利資本を廃止したハイパーインフレーションで金融資産をほとんど収用されてしまった。彼らが国家に対して特に批評的であったのも不思議ではない。」

[38] フェッター1923: 602はマルクス経済学にとって否定的な主観説の含意がヴィーザーとベーム=バヴェルクの作品でもっと明らかになることを書き留めたが、「しかしながらこの含意は主観主義学派のまさしく始まりから認識されていた」と主張した。彼は特に根拠を引用しないが、たとえばロドベルトゥスの資本家と地主が労働生産物を搾取しゆえに「働かず暮らす」という主張に対するメンガーの批判を念頭に置いていたのかもしれない。メンガー1981: 168 n. 30はこれに対して、彼らが「土地と資本のサービスで生計を立てており、ちょうど労働サービスは価値があるように、これら両サービスは個人と社会に対して価値がある」と反論した。

[39] シュトライスラー1990a: 64が奇妙な言明をしていわく、「おそらくブハーリンはそれ〔オーストリア派経済学〕が金利者の経済学であると考えるとき結局はその特徴から大きく外れてはいない」。しかしながらマルクス主義に共感的な著者のギュンター・カロウペクはブハーリンのオーストリア派批判を論じる際に「しかし、もしも限界効用学派が需要に注意を払ったのならば、これは確かに第一義には金利時代の始まりの症例ではなく、むしろ資本化一団の拡張と連れ立つ大衆の生活水準増大の反映であった」(1986: 221)と述べるときその特徴にかなり近しい。

[40] 他方でジョウン・ロビンソンは「効用の大局はレッセフェールを正当化するものであった」けれども理論には平等主義的および再配分主義的な含意が内在すると論じた(1962: 52、強調は原文ママ)。

[41] スミスからミルまでのイギリスの伝統に集中する経済思想史アプローチが放棄さるべきはマレー・N・ロスバード(1976a)が論じている。ロスバードが説得力をもって主張するには(1976a: 53)、もっと精通した解釈は「スミスとリカードは経済科学を創設したのではなく悲劇的に間違った軌道へ追いやったのであり、これをオーストリア派と他の限界主義者が正しくするには時間がかかった」と見るだろう。ロスバードはマージョリー・グライス=ハッチンソンとレイモンド・デ・ローヴェルを引用しながら、中世と現代初期の思想家、わけてもスペインの後期スコラ学派の重要性を強調する。これらのテーマはまたロスバードの経済思想史1995cで後期スコラ学派が論じられるところ1: 97–133に行き渡る。またヘスース・ウェルタ・デ・ソト1999も見よ。

[42] しかしながらオスカー・モルゲンシュテルン1927: 673–74はヴィーザーの最後の作品『力の法』くっきり異なる解釈をし、ヴィーザーにそぐわない「確信的な平和主義者」という特徴付けをした。

[43] シュトライスラー1986: 100はヴィーザーの『将来の社会主義国家』へのつねの参照が彼の生徒ヨーゼフ・シュンペーターに有望な歴史的発展過程の後の評価で影響したと指摘する。

[44] ヴィーザーの経済理論に関してさえ、ミーゼス1978b: 36は彼を「オーストリア学派のメンバーとは呼びかねるし、むしろローザンヌ学派のメンバーであった」と結論した。この見地はホップとサレルノ1999によって説得力をもって説明された。

[45] シュトライスラーの洞察に富んだ所見1987: 24参照、「他の国では自由主義の星のめぐりが怪しかったとき、メンガーを通して、彼の学派が経済自由主義の船になった。この学派は『失われし主義』を引き受けて、最悪の衰退期に――わけても戦間期に――自由主義を介護したのである」。

[46] カウダー1965: 64はメンガーについて次のとおり断言する。「彼は自由競争の一貫した擁護者ではなかったし、彼の兄弟にして有名な社会主義者であったアントン・メンガーにいくらか影響したにもかかわらず、社会主義者でもなかった。

[47] しかしながらポール・シルヴァーマン1990: 85, 90–91は、メンガーの作品のオーストリア的な背景の本性(および同様にして、申し立て上でのメンガーの方法論的なアリストテレス依存)に関してカウダーを批判する。シルヴァーマンは、オーストリア史での自由主義的官房学者の学派の重要さを指摘する。これはその重鎮ジョゼフ・フォン・ゾンネンフェルスを含み、彼は「国家が監視し保護することにあいなった、すでに確立されていた社会的調和のシステム」を仮定した。ジョゼフ・フォン・クドラーの経済学の著作はメンガーの『原理』出現以前はオーストリア大学で標準的な教科書であったが、同様に「頑強な自由主義的考え方」を呈していた。シルヴァーマンの見解では、メンガーに対する「オーストリアの伝統」の衝撃はメッテルニヒ的な安定性の研究に拍車をかける保守主義の方向ではなく、その代わりに主として社会における人にとっての客観的で合理的な目的の概念を伝えるために働いていたのかもしれない。これはたとえばメンガーを真実欲望と擬制欲望を区別するよう導いており、彼の主観主義に制限を置いた。

[48] ベーム1990: 232 n. 2はミーゼスの過激自由主義的見解が「うんざりするほど繰り返されるレッセフェールの申し立てにもかかわらず――(ヨーロッパ的な意味での)『啓蒙保守主義』や『パターナリスト保守主義』」へ向かったオーストリア派創設者たちの一般的立場を踏み外していたと提言する。

[49] ウィーン大学では、ナチスドイツとの併合後もオーストリア学派に残ったハンス・メイヤーもまたミーゼスの急進的な自由主義的結論が学派の教えに本来備わるものではないと考えた(クレイヴァー1986: 10–11)。これはメイヤーの新国民社会主義政権での役人としての立場を考えれば容易に理解できる。ミーゼスの「一人格的」で「マンチェスター自由主義的」な世界観を「オーストリア学派の客観的報告」から引き離そうと試みる伝統はヴェーバー1949: 644によって再開されていた。

[50] ハンス=ヘルマン・ホップは非常にうまく問題を提起した。ミーゼスが1940年にアメリカ合衆国に着いたとき、彼はすでに「国際的な科学セレブリティ」であって、彼の影響力ある作品『貨幣と信用の理論』と『社会主義』はすでに数年間英語で読むことができていた。「しかし当時の三流ヨーロッパ人マルクス主義者あるいは『マルクシアン』がみな資本主義の地アメリカの大学で難なく学会の尊い地位を得られたのに対して、知識人は恥知らずにも自由主義と資本主義の偉大な理論家たるミーゼスをあからさまに白い目で見た。ミーゼスはついにニューヨーク大学で職を得られたが、終身客員教授としてにすぎなかったし、大学は彼に給料を支払わず、それは私的な源泉から賄われた。ホップ1993: 27–28, 30, 34 n. 24。ハイエクの状況も類似していた。彼は社会思想委員会で教授になりはしたのだが、ジョージ・スティグラーとミルトン・フリードマンの経済学部によって相応しくなく十分に「科学的」ではないと見なされていたし、彼の給料は同様に外側の源泉から支払われていた。

[51] スティール1992参照、「第二次世界大戦後のヨーロッパに有能な自由主義的思想家がいた事実は主に戦間期の『社会主義』の影響のおかげである。ミーゼスによって社会主義から転向した一掴みの活動的な人々の存在がなければ、西ドイツにはどんな『経済的奇跡』もなかったかもしれない」。またロール1945: 176を見よ、いわく「ハイエクと彼のウィーンの同僚は二十世紀初期にまたイギリスで現れ始めた〔個人主義と自由主義の〕驚くべき復興運動の指導者であった……。アメリカ合衆国でこの運動にすっかり比肩するものは何もない。」

[52] 特にジョゼフ・サレルノによるハイエクの『価格と生産』の明敏な導入と他の作品“Hayek on the Business Cycle,” Mises Daily, October 8, 2008を見よ。

[53] ハイエクの立場についてはシャーマー1997を見よ。ドイツ「ネオ自由主義者」アレクサンダー・リュストーはハイエクの立場を「彼の親方ミーゼス」と識別できず、両者を「古い自由主義」の博物館に飾るに相応しいその「最後まで生き残った例」と見なす多くの者たちの一人である。カトリン・マイアー=ルスト1993: 69–70を見よ。マイアー=ルスト自身(91)はドイツ「ネオ自由主義」および「オルド自由主義」とハイエクのような「古典的レッセフェールの擁護者」の鋭い区別を論じる。

[54] またシュトライスラー1987: 10を見よ、いわく「少なくとも十八世紀と十九世紀の際立った自由主義者は国家の再配分的職務をかなり嫌っていた。他方、フリードリヒ・フォン・ハイエクにはもはやこの意見はない。彼は社会政策の追及が市場の助けだけではなく市場と無関係な移転を通して試みられなければならないと信じる。」

[55] ハイエクはまたもっと後に『隷属への道』でのもう一つの誤りがソビエト共産主義実験の重大さの無視であったと述べ、かなりおかしなことに、これは「私がロシアのことを書いたおりには我々が戦時中の同盟であったことを思い出すとき無理もないかもしれない」ような落ち度であったと言い加えた。これはエーリッヒ・ロールにより『アメリカン・エコノミック・レビュー』(1945: 180)で『隷属への道』に向けられた奇妙な批判の不思議な倒錯である。批判いわく、「ハイエクはドイツとソビエト連合での戦前最後の数年間の非常に異なる発展を反映することをやめたのかもしれず、彼には少なくとも戦争自体が敵と我々の同盟に行われていた方法の非常に異なることを認める程度の慎みがあったのかもしれない。我々にはもうマイダネクが集産経済の不可避な帰結であることが示されている」(1945: 180)。明らかに、ロール教授と彼の等しく無知なアメリカン・エコノミック・レビュー編集者はどういうわけかウクライナの恐ろしい飢饉や大量処刑や今日ではグラーグとして知られる強制労働収容所システムを、どれも我々の立派な戦時同盟がなした所業である、二十世紀の模範的な恐怖国家のことを、一度も耳にしたことがなかったのである。

[56] たとえばミーゼス1949:149参照、「国家や政府は社会的な強制と強要の機構である。それは暴力的行為の独占を有する……。国家は本質的に平和的人間観関係の維持のための制度である。しかしながら平和の維持のため、それは夥しい平和破壊者を鎮圧するべく用意しなければならない」。

[57] ハンス=ヘルマン・ホップ1994: 67は思い切って「ハイエクの市場と国家の役割に関する見解は現代社会民主主義者と体系的に区別することができない」と断言した。しかしハイエクが社会正義を拒絶したかどの社会民主主義的な著述家によるプラント1994での攻撃を見よ。

[58] 人生の後期に、ハイエク1994: 68は「おそらく私が他の誰よりも多くのことを学んできた」ミーゼスと彼の「不思議な関係」に言及した。ここでハイエクは「結局ミーゼスは理性主義者・功利主義者にとどまったが、社会主義の拒絶は理性功利主義とは相容れない……。我々が我々の快楽に応じてすべての手はずを整えられることを含意する、厳格な合理主義者、功利主義者に我々がとどまるならば」という混乱した主張をした。もっと早い時期には、ミーゼスに関するハイエクの判断はもっと前向きであった。1952年にハイエクがミーゼスのことを記したときは、「人が彼にことごとく倣うか否かにかかわらず」と言い加えながらも、「二十世紀初期、彼が新たな自由主義思想の大建造を他の誰よりもっと一貫的に、もっと体系的に、もっと上出来に打ち立てていた……彼の作品は当代の専門家の仕事より18世紀の偉大な社会哲学者のものにずっと似ている……ただ彼だけが我々に対してあらゆる経済思想と社会思想の論じ方に決着を与えてきた」断言した(1952: 729–30)。

[59] サレルノ1990で、ハイエクの立場の批判をもって、ハイエクがミーゼスの「行き過ぎた理性主義」と批判したものについての包括的な調査が提出された(ミーゼス1981への前書きxxiii)。

[60] メンガーが脚注1935c: 93 n.で言い加えるには、「私は確かに私の研究のいくつかの場所において政治経済学でのいわゆる『倫理的』風潮を攻撃するが、他方でこれを経済研究での「社会政策」的風潮から厳密に区別している」。ついでに言えば、シュトライスラーはメンガーのシュモラーとの衝突を挙げるが、シュモラーの社会政策クルーセイドに対する彼の賞賛を省く(メンガー1994: 24 n. 8)。

[61] 1891年からメンガー(1935b: 244–45)はまた社会改革者の政治に対して厳しい批判を行った。いわく、「社会政策の提唱者がすっかり軽蔑するところの自己利益は世界から消滅しなかった。むしろそれこそが集産主義的で民族的で階級的なエゴイズムを生成してきたのであり、このエゴイズムは(分割さるべき対象の!)総生産の増加のためには励まず、各個人の社会階級に最大可能な総生産の分け前のために励むのである。

(出典: mises.org)

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