リバタリアニズム、50年を経て――私たちは何を学んできたか?

N. Stephan Kinsella, 2014/10/25, Libertarianism After Fifty Years: What Have We Learned?, NYC LibertyFest, Brooklyn, NY, October 11, 2014, [http://joseywales1965.wordpress.com/2014/10/25/libertarianism-after-fifty-years-what-have-we-learned/] and [http://www.stephankinsella.com/2014/10/libertarianism-after-fifty-years-transcript/]

ステファン・キンセラ:以下のものはニューヨーク・リバティ祭りでお届けした私のスピーチ「リバタリアニズム、50年を経て:私たちは何を学んできたか?」(2014年8月11日ニューヨークのブルックリン、『リバティ・ポッドキャストのキンセラ』エピソード152で閲覧可能)の編集された書き起こしである。オリジナルのタイトルは『リバタリアニズム、50年を経て:再査定と再検討』“Libertarianism After Fifty Years: A Reassessment and Reappraisal”だったが、私はほんの15~20分しか割り当てられていないので、かなり範囲を濃縮し、論争ある問題の多くを要約のようにしか触れられなかった。 

目次

  1. 導入
  2. 明らかになってきたこと
  3. 私たちを分断し混乱させた論点
  4. 明晰でない言葉とメタファーの危険

導入

こんにちは、お招きいただきありがとう。イーアンとマイクに感謝を。私には11歳の息子がいますが、彼が私のスピーチを見るのは二回目か三回目になります。一緒にオーバーンへ行ったことがあって、木曜日にニューヨークのコミコンに行きました。コミコンはすごく良かったですよ。楽しんできましたので、今日は公平に代わりばんこです。

15分いただきました。私の話題は「リバタリアニズム50年来――私たちは何を学んできたか?」です。時間がなくて何か情報を切り捨ててしまうようなことがあれば、それはプライベート・ポッドキャストで続けましょう。これは15分にしては大きい話なので時間を越えてしまうかもしれませんが、さらなる情報を見つけることができるでしょう。

これはリバタリアニズムについての私自身の見解です。ここの皆さんに共有されはしないかもしれません。それでも私が話したいことはこれです――リバタリアン運動とは何か? どれだけ古いのか? 私たちはどこから来たのか?

私の見解では、リバタリアン運動は――現代リバタリアン運動は――およそ50年の古さがあります。あの、1943年のアイン・ランドイザベル・パターソンローズ・ワイルダー・レインの本とともに始まった運動のちらつきをその日に数えられると思います。もちろん啓蒙主義と古典的自由主義思想にはリバタリアニズムへの先駆者がいました。他にもレナード・リードミルトン・フリードマンといった著述家がいました。しかし私たちは現代リバタリアン運動の夜明けを実際にはアイン・ランドの『肩をすくめたアトラス』の出版があった1957年に定めることができると思います。それから、もっと重要ながら、1962年にロスバードの作品『人間、経済及び国家』がありました。[1]

なのでこの運動はおよそ55年か45年の古さがあります。イデオロギーと政治哲学の歩みが及ぶかぎりでは、わりと若い運動ですよね。私たちには堕胎とその他の論点のような一定の論争でいまだに不同意があります。しかしここ50年で多くの進歩がありました。部分的には、リバタリアンの絶え間ない内的討論のおかげで、そして外部者による批判、最小国家主義者による批判、内部者による批判のおかげで、私たちは多くの発展を遂げてきました。しかしこの50年の時期に際しては、私たちがここ50年で何を学んできたかを省みる良い時間だと思います。どうすれば私たちは私たちの観念をさらに改善させ発達させてゆくためにこれを使えるでしょうか?

明らかになってきたこと

それでは、まずはここ50年でもっと明らかになってきたことについて話しましょう。繰り返しますが、これは皆が同意することではなくて私の考えですよ。私の考えは、ロスバード、ミーゼス、アイン・ランド、そして私が生存中の最大の政治理論家でオーストリア派経済学者と見なすハンス=ヘルマン・ホッペによって、オーストリア派に影響され、アナルコ・リバタリアンに強く影響された立場から来ています。

この最初の洞察はここの皆さんにとって最もポピュラーとはいかないかもしれませんが、私たちが学んできたことは、一つには、政治的行動主義は進歩の主要な手段としてはせいぜいのところ限定的でしかないということです。[2]人々のやる気を挫きたくはありませんが、投票や選挙政治が我々の行く道であるということには誰もが同意するわけではありません。そして、リバタリアン党の1971年以来の残念な歴史と状態――無能、腐敗、および非効率――は、選挙政治がこれまであまり上出来ではなかったことを示します。

また、NORMLやマリファナ合法化や功利主義的アプローチのような特別または単一の目的の立場よりは、原理的なリバタリアンの立場が選好されることも私たちは学んできたと言ってしまいましょう。前者は自らの目的を持っています。彼らには彼らの役割があります。しかし、原理的なアプローチが優越的であり、必要なのです。皆さんは本当に、リバティへの愛を、リバタリアニズムへの愛を抱く必要があるのです。皆さんは侵害が非実際的なだけではなく本当に間違っていると信じるべきなのです。[3]

ロスバードでさえ言ったようなこととは異なり、いまやリバタリアニズムは100パーセント反戦であることが明らかになっています。ロスバードいわく、アメリカ史にはたった二つしか正しい戦争がありません:革命戦争と南部の独立を防ぐ戦争のことですね。私たちは革命戦争と南北両側の市民戦争を、この両方の戦争を非難する必要があります。これらは国家が行った戦争なのです。

革命戦争の場合は、徴兵、脱走兵射殺、戦争犯罪の風潮、課税、インフレーションを含む戦争でした。[4]そして今私たちが有する現在の国家に帰着しました。アメリカ革命も同様に失敗でした。

リバタリアニズムは反国家であり、またはとにかく一層そうなってきています。[5]リバタリアンは増加中ですし、アナキズムに引き込まれる人々の数も増加中です。久しい冗談は何だったか? 「ミナキズムとアナキズムの違いは? 約半年」。侵害に反対であるためには、皆さんがすべての侵害に反対しなければなりません:私的侵害、つまり犯罪です。そして公的侵害、または制度的侵害、これは国家がつねにしていることです。

リバタリアニズムはラディカルです。増分のものではありません。増分であることは何も悪くありませんが、リバタリアニズムは現にラディカルな教義なのです。そしてまたユニークであり、ラディカルで、左派と右派とは異なり、そして彼らより優れています。私たちはこれを認識すべきなのです。私たちは「左翼の」ではありません。私たちは「右翼の」ではありません。

また、リバタリアニズムはいまやますます圧倒的に反知的財産です。[6]知的財産、特許と著作権法、そして商標と企業秘密のような関連する法は退屈な分野のスペシャリストと政治オタクに使われていますが、特許と著作権法のいわゆる「濫用」はインターネットの到来および世界貿易と先端技術の増加をもって私たち全員にとって明白になってきています。

知的財産は国家が社会に仕掛ける五つか六つのもっともおぞましいもののうちの一つであると私たちは気づくべきです。戦争、公教育、麻薬戦争、中央銀行、課税の後に――知的財産が挙がります。警察国家を支持し、個人的自由を弾圧し、革新を削減し、全世界に毎年1千億ドルもの費用を押し付けるのに役立つ最低最悪のもののうちの一つなのです。[7]この種の見解は守旧派リバタリアンと客観主義者とミナキストの多くを狼狽させます。彼らはいまもIPを擁護しようとしていますが……しかし現代リバタリアン、左派リバタリアン、テク・リバタリアン“tech libertarians”、若い人々、実際に「インターネットを使う」人々は皆、皆さんが学習することを、そして私たちが自由市場で「競争」と呼ぶものに共有することを妨げる法が何か間違っていると知っています。競争に悪いことは何もないのです。

私たちがブルーノ・レオーニハイエク、その他のような著述家の作品のおかげで学んできた他のことは:立法は法を定める唯一の手段ではない、ということです。法は慣習から、契約から、協定からも生じ、コモンローや仲裁のような分散的過程からも生じるのです。[8]

また、主にハンス=ヘルマン・ホッペらの作品のおかげで私たちが学んできたことは、私たちは民主主義がリバタリアン社会へ進歩する道の上での歩みではないと認識すべきだったということだと思います。旧体制の君主制からの移行は幾つかの方向では良かったかもしれませんが、より良いかは明快ではありませんし、リバタリアンや自由主義的な社会のシミュレーションではないということは明確です。[9]

これらの筋に沿って私が思うことですが、建国の日に遡ってアメリカのことを何らかの種類のプロト・リバタリアンな楽園だと考えるのをやめる必要があるとも認識すべきです。憲法はリバタリアンではありません。集権の文書でした。権力の取っ手だったのです。あれは失敗しました……あるいはむしろ、あれは連邦政府の手中に権力を集中することを意図していたので、成功したのでした。[10]なので私たちはプロト・リバタリアンたるアメリカ建国者とかいう幻想を拭い去る必要があります。彼らは違うのです。憲法はリバタリアンではありません。アメリカはその初期からリバタリアンな国ではなかったのです。問えばたぶん彼らが同意するだろう犠牲者階級がいくらでもあります。

ちょうど近頃の数年で明らかになったもう一つのことは、子供の問題を形成するものとしての平和と協業へのリバタリアンなアプローチでした。つまり、私たちがどう子供を養育するか、どう訓練するか、どう教育するかの再調査がありました。だから反スパンキングと「平和な子育て」運動が起こっています。そしてホームスクーリングといわゆるアンスクーリングにますます頼っています。なので私たちが学び始めていることがすべてのことなのです。[11]

明らかになってきたと思われる最も重要なことは――といっても以前から初期の思想家には知られていたことの幾つかですが――それは、皆さんの申し立てを伝えるための経済学の堅牢な理解の重要性です。そしてこれはオーストリア学派を意味すると思います。[12]皆さんは経済リテラシーをもつべきなのです。そしてオーストリア学派の人気の上昇は当惑させるほどになっています。これには理由があります。皆さんはもはやシカゴ学派やコース学派がほとんどのリバタリアンによって情熱的に賛成されているところは見られないですよね。

最後に、私たちが回帰し強調する必要のある、明らかになってきたことで最も重要な点ですが、リバタリアニズムとは本質的に財産権に関するものです。本当に、財産権がすべてなのです。[13]

私たちを分断し混乱させた論点

私たちを分断させ混乱させる幾つかの論点がいまもなお存在します。左派対右派論争がこれです。[14]私たちは左翼のものか? それとも右翼のものか? 薄派対厚派論争もあります。私たちは厚いリバタリアンであるべきか、薄いリバタリアンであるべきか?

私たちは活動家であるべきか、私たちは理論家であるべきか、私たちは自分の仕事だけ気にかけて国家のために働かないでいるべきか、という論争があります。[15]

自発的奴隷制のような難解な論点があります。私は契約に署名でき自分の肝臓を販売できるべきなのか? これは譲渡可能性の論点です。[16]

皆さんが他人の行為に責任を負うかに関する論争がときどきあります。アドルフ・ヒトラーは現実には決して引き金を引いていないので彼は現実には殺人を犯していない、と私は人々に言わしめてきました。[17]ただ手先の者だけが有罪なのです。トルーマンは現実には日本に爆弾を落としていません。マフィアのボスは実際には引き金を引いていません。彼の殺し屋がやるのです。なので、皆さんはこの種の混乱をしている、と言わせてもらいます。[18]

そして知的財産のトピックでは、リバタリアンが大いに私たちの方向に移っているとしても――人々の間にはいまだこの論点に関する広い混乱があります。

また、財産権の基礎と本性に関してもいまだに混乱があります。[19]

明瞭でない言葉とメタファーの危険

この混乱の一つの理由は、明晰に話し明晰に考えることへの慎重な注意が欠けることと、メタファーを使うこと危険さに気づきが足りないことです。[20]リバタリアニズムがおよそ50年前かそこらで台頭したとき、リバタリアンはいい加減な用語で話すことができるほど、当時優勢な考え方よりはるかに優れていました。今の私たちは明らかにもっと良くなっていますが、時を経てもっと多くの論点に応用するにつれて、もっと難しい論点が現れ、古い思考と推理の仕方では必ずしも十分ではなくなっています。私たちの基礎を再考する必要があり、このことについてもっと慎重に考える必要があります。

私たちが難しい問題を分析しようとするときに混乱を導きうる、そして私たちの敵対者が曖昧語法を導きうる、用語の軽率な使用やメタファーの例をいくつか出しましょう。

それで一つには、たとえば、ほとんどのリバタリアンは私たちが「公立学校」“public school”と呼ぶものに反対してきました。近頃、たぶんここ十年か二十年で、私はリバタリアンがたとえば「ガバメントスクール」“government school”という言葉を使っていたのを耳にしました。彼らは「自分が政府の学校に反対している」と明白にしたがっていたのですね。実は教育者の任を担っている政府に賛成している、「公立」学校擁護者の注意を引こうと試みているのです。

でも、「政府」“government”という言葉でさえ、私の見解では、使うには危険な言葉なのです。私もそれをときどき使いますが、私は自分が国家“state”に反対していると明らかにするために、ますます「国家」“state”という言葉を使うよう試みています。国家には定義があるからです。領土的地域における法と正義と暴力の支給への独占です。[21]政府という言葉には曖昧な意味があります。そして、政府という言葉によって皆さんへの敵対者は――最小の国家主義者と呼べるミナキストであれ普通の国家主義者であれ――彼らは社会において統治する制度を意味させます。そしてまた彼らは二枚舌のように政府を国家としても使うのです。なぜなら、彼らは国家がこれらの統治する制度に必要だと信じているのですから。

それで、もしも皆さんが無政府主義者なりアナキストなりとして「私は政府に反対します」(意味:私は国家に反対する)と言うならば、彼らは皆さんが法と秩序に反対していると受け取るつもりでいます。それでは、もしも彼らが皆さんに「ええと、あなた法を信じますか?」と尋ねてきたら?

皆さんは「はい」と答えます。

そしたら彼らは「えっ、じゃああなたは政府を信じるんですよね」と言います。

私は「ああ、法と秩序としての政府は信じますよ」と言います。

そしたら彼らは「おや、だったら国家を信じているはずですが」と言います。

ここには誤魔化しがあることが皆さんには分かります。それで私たちは、国家、一定の仕方で定義された国家に反対することへ、焦点を当てたままにすべきなのです。

もう一つあります。滑り坂でのような使い方で侵害“aggression”という言葉を使うことです。幾人かのリバタリアンは、あるいは私たちの敵対者は、これをただの暴力“force”の意味で使うつもりでいます。それでは彼らが「でもさあ、お前らだって侵害には反対してないよね。自分を守るための暴力を信じてるんだし」と言うでしょう。

やれやれ、侵害とは暴力の初動です。それに、皆さんは他にも「私は『侵害の初動』に反対する」のようなずっこけた語法に出くわします。これじゃあ「暴力の初動の初動に反対する」と言うことになります。まったく明晰な用語法ではありませんね。

もう一つは、小さな論点ですが、「強要」“coercion”という言葉です。専門的には強要とは何かをするよう誰かに強いるための暴力の脅迫を意味します。ちょうど、実力や暴力と同じように、防衛的に使われるなら正当化される何がしかと同じように、ときには強要も正当化できるのです。私から強盗しようとするやつに私が強要をしても、これは何ら悪くありません。なので私たちが強要を侵害の同義語として用いるのはやめるべきです。[22]

また、労働価値説の近親である労働財産説もあります。多くのリバタリアン思想を知的財産に導いてまた共産主義と20世紀の何千万人を死に導いた根本的な間違いはこれだったと思います。[23]すべてはフィルマーに返答して、むべなるかな、この労働の例えを使ったジョン・ロックとともに始まりました。しかし私たちは労働を特別な物だと考えるのをやめるべきです(ただの行為のタイプにすぎません)。そして私たちが私たちの労働を所有するというこの混乱した観念を捨てるべきです。皆さんは自分の労働を所有していません。労働とは、あなたが所有するものを、つまりあなたの身体をもって、あなたがすることなのです。(とにかく、あなたは「自己」“self”を所有しません。これもまた曖昧な言葉です。あなたはあなたの身体を所有するのです。)[24]

財産権は世界の稀少資源を支配する権利です。これらは唯一の紛争可能な物です。皆さんの身体が例になりますし、世界の他の物も例になります。財産規則はその物の所有者をつねに特定します。あなたの身体を所有することは、あなたがあなた自身の好きに行為することを許すには十分ですが、これはあなたが「あなたの行為を所有する」ことは意味しません。これはあなたが「あなたの労働を所有する」ことを意味しません。もしもこの仕方で考え始めるならば知的財産を受け入れてしまうでしょう。帰着するところがここなのです。私は私の労働を所有する。私がそれを混ぜたものを所有する。私は私の労働を所有する。「価値」を「有する」ものを創造したものを何であれ私は所有する。しかしハンス=ヘルマン・ホッペが言及したとおり、価値に財産権はありません。もっと詳しく述べることができますが、時間が押しているので。[25]

もう一つの問題は「契約」という言葉にあります。リバタリアンは契約に混乱させられています。ロスバードとビル・エヴァーズは契約を所有された資源への財産権の行使と見なしつつ、このトピックで革命的な作品を著述しました。それは「執行可能な約束」ではないのです。執行可能な約束の考え方はまた自発的奴隷の観念に導く債務者の刑務所のような混乱した結論に導いてしまいます。[26]

もう一つは「詐欺」という言葉です。[27]リバタリアンはこの言葉をあっちこっちに投げつけますよね。特に知的財産の提唱者がね。また「剽窃」という言葉も。彼らは詐欺、契約、剽窃、財産権、労働価値説、特許と著作権法について完全に混乱しきっています。彼らはこれらの言葉をでっかい混乱のオクラと混ぜてぐちゃぐちゃにします。それでほら、皆さんが特許法に反対したら、あなたは詐欺に賛成しているとか、あなたは不誠実だとか、あなたは誰かに彼らのアイディアの職権を与えることに賛成していないとかにされます。どれもまったく混乱しており、彼らはみないつも陰険だったり、これらの用語が何を意味するか、法がどう機能するか、財産権が何であるかをまったく知らずにものを言ったりしているのです。

もう一つの混乱があります。誰もが当然だと思う二つのつがいの概念があるのです。「あなたが何かを所有しているなら、あなたはそれを売れる」――これは実際には間違いです。「そして、あなたが何かを売れるなら、これは、あなたがそれを売るために、それを所有せざるをえないということを意味するに違いない」。これもまた間違っています。[28]これらのアイディアは、一方では自発的奴隷制のような観念に導き、[29]他方では知的財産の考えに導きます。そして私は他の文脈でもこれらを分析してきました。もっと時間があるときはこれらを幾つかの点で再考してもいいでしょう。

さて、もう一つの混乱の源泉は財産権がどこから来るかについてのアイディアでして、というのも、ロックの原始収用あるいは入植のように、私たちが未所有の資源の最初の使用者を信じるからという理由で彼がその資源の適切な所有者だと私たちが信じるならば、ところで、人類史全体に財産権原のこの「原罪」か「汚点」があったし、私たちは資源への権原を原初の所有者へと、たとえばアダムへとほぼ遡れないから、これは私たちの財産権理論の全体に欠陥があることを意味する、という発想です。このとき次のステップは何か? 彼らはそれから、ああ、いつの日か再配分をすべきなんだ、と言うつもりなんです。現在の資源配分、富者がもっている財産権は、本当は700年前の征服から来たんだ、と。そしたら本当は誰も自分の富への資格がない、と。そしてリバタリアン革命、左派リバタリアン革命が来れば、私たちはこれらの権原を再配分する必要があるのでしょうし、誰もが平等になるでしょう。平等主義がこれらの人々を駆り立てているのです。[30]

なので、いつであれ皆さんの財産理論に何か間違いがあると誰かが言っているのを耳にするときは、彼らがここから来ているのは知っているので、私は自分の財布をしっかり握り締めておきます。物質主義と富者と貨幣を非難する人々はいつだってあなたのお金を欲してるんですよ。なので皆さん、これらの人々を強く警戒しなければなりません。

いまや準左派リバタリアンに影響するもう一つの関連問題がありまして、それは、もしも皆さんが財産権に賛成するなら、皆さんは本当は「侵害」に賛成しているというアイディアです。さて、彼らはどうやってこのアイディアに至ったのか? 基本、彼らは所有権を信じていません。彼らが信じるのは、あなたは邪魔されずに資源を使用する権利をもってその資源を使用しているが、あなたがそれを置いて立ち去るやいなや、それは早い者勝ちの対象だ、というものです。そして、もしもあなたの資源を取り返すために、または彼らがあなたの財産を損害するか使用するので彼らから損賠を得るために実力行使する権利を主張するならば、あなたは侵害を犯している、と。[31]これは明らかに混乱しており非リバタリアンです。

前へ進みつつ

それで、これは私たちが焦点を合わせるべき根本的な問題です。私たちは侵害がリバタリアニズムの根本的な概念ではないと理解する必要があります。侵害とは私たちの財産権の見解の速記記述なのです。すべての政治哲学が、この世のすべての人物が、明に暗に財産権の見解を持っています。私たちが稀少性の世界で生きているというだけのことで、それは紛争が可能である世界を意味するので、財産権が生まれるからです。[32]あなたは、もしもミーゼスの人間行為学と人間行為分析を、そして人間行為がいかに稀少手段――あなたの知識に導かれた、あなたの目的を達するために世界で因果的に有効な物(こういうわけでアイディアに財産権はない)[33]――の目的的利用であるかを理解するならば、財産権がつねに所与の資源を支配する権利であることを理解するでしょう。これに関することです。[34]

侵害はいかに財産が割り当てられるべきかについての私たちの特殊な見解にとっては速記にすぎません。共産主義者、社会主義者、自由主義者、環境主義者の皆が財産権の一定の割り当てを信じています。彼らは国家が財産を所有すべきだとか、おそらく貧しい人々が財産を所有すべきだとか信じています。そのとき疑問は何がリバタリアンをユニークにするかです。それは、私たちの特殊な財産割り当て枠組みです[35]

リバタリアンのパラダイムを見るために必要だと思われる方法、および、あなたがこれを整合的なものだと思うなら、人々を混乱させるちょうど今見て回ったような疑問にこれがどう答えたらいいか、以上をまとめることで終えようと思います:リバタリアニズムの規則はとても単純です。二人かそれ以上の人々が――もしも人物が一人しかいなければ、論争はなく、解決されるべき問題はないから――二人以上の人々が所与の資源を使用したがるとき、論争や紛争がありうるとき、当該の資源のための疑問は単純なのです:これらの二人以上の人々のうち、誰が資源をもっと良く請求できるか?

私たちは三つのとても単純であり、常識的であり、ほぼ否定不可能に真実である規則によってこの質問に答えます。[36]一つ目は:誰が初めに手に入れたか? もしくは、これらの二人の間で、私たちが知るかぎり、誰が初めに手に入れたか? アダムに遡る必要はありませんよ。[37]

二つ目は:或る所有者から他の人への合意的な移転はあったか? つまり契約です。

三つ目は:或る人が他の人を害し、不法行為か犯罪をしたか? したなら、彼はこの他人に貨幣か何らかの資源を移転するよう導く補償か矯正か賠償の義務を負っています。

こんな風に、皆さんがこの三つの原理を見つめるならば、これは誰が当該の資源を所有するかを皆さんに告げてくれるでしょう。私が最初に持ったならば、私が所有者です――それを誰か他の人にあげて、彼らがそれを所有するのでないかぎり。そうするなら、彼らが私より良い請求権をもちます。リバタリアニズムではない他の哲学はこれら三つの決まりの一つを破るのです。彼らが究極的に信じることは、たとえ彼らが資源を契約によっては得なかったり、彼らが以前の所有者に危害を加えられることがなかったり、彼らが決して資源を発見して使用し始めて生産的使用に向けることがなかったりしても、彼らがそれへの権利をもつ、というものです。

基本的にはリバタリアニズム以外のすべての哲学が、他の人々の努力からの生産物を所有したり彼らの身体を所有したりする何らかの形の奴隷制か、勝てば官軍の無法世界、どちらかを信じています。

[38]

こういうわけでリバタリアニズムは優越しているのです。そして、物事を見るためのこの根本的な見解、財産権に焦点を当てることは、私たちがリバタリアンなプロジェクトを改善して前へ進むのを助けるでしょう。ご清聴ありがとう。

[1] 次のものは私が今度のリバタリアンな本に書いた序文の抜粋である:

現代リバタリアン理論の古さはほんの50年ほどである。もちろん[1]、我々の偉大な思想家に影響してきた観念は数世紀ほど前のフーゴ・グロティウスと、ジョン・ロック、トマス・ペイン、ハーバート・スペンサー、デイヴィッド・ヒューム、ジョン・スチュワート・ミルのような有名人に遡ることができ、また、グスターヴ・ド・モリナーリ、ベンジャミン・タッカー、ライサンダー・スプーナー、バートラン・ド・ジュヴネール、フランツ・オッペンハイマー、アルバート・ジェイ・ノックのようなもっと近頃の一層と急進的な思想家に遡ることができる。[2]

現代的な運動の開始時はブライアン・ドカティが「リバタリアニズムの三人のフリアエ」と呼ぶ、ローズ・ワイルダー・レイン、アイン・ランド、イザベル・パターソンの作品に検出されることができ、かなり目を引く話だが、彼女らそれぞれの本『自由の発見』、『水源』、『機械の神』はすべて同じく1943年に出版された。[3]しかしそのもっと現代的な形態としては、リバタリアニズムは1960年と1970年に主としてアメリカ合衆国に基づいた思想家、有名な、アイン・ランドとマレー・ロスバードから生じていった。発生期のリバタリアン運動に重大な影響を与えた他の人々には、『リベラリズム』“Liberalism”(1927)と『ヒューマン・アクション』(1949年、およびドイツで1940年に出版された先行版)の著者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、『隷属への道』の著者F・A・ハイエク、(1946年に設立された)『経済教育財団』の長レナード・リード、影響力ある『資本主義と自由』の著者ミルトン・フリードマンが含まれる。

しかしながら、最も卓越した影響力ある現代リバタリアンの人物は、「客観主義」創始者にして「資本主義急進派」たる前述の小説家かつ哲学者のアイン・ランドと、ミーゼスに影響されたリバタリアン・アナルコ資本主義者の経済学者かつ政治理論家たるマレー・ロスバードであった。ロスバードの発芽の役割は非ロスバード派によってさえ広く認知されている。たとえば客観主義者のジョン・マッケーシーが観察するとおり、市民がもつべき権利は何かについての19世紀中期の討論から、

「ここ50年のリバタリアニズムの主な種類のものが育ってきたのだ。それはマレー・ロスバードに1970年代に次のように明瞭に定式化された原理に基づいていた:誰も、他人の身体や財産に対して物理的暴力の使用を初動してはならず、またこの初動を脅迫してはらならない“No one may initiate the use or threat of physical violence against the person or property of anyone else”。この観念はアメリカの創始者ジョン・ロックに根ざし、もっと直近ではアイン・ランドに根ざしているが、標準になったのはロスバードの定式であった。それは不侵害原理、あるいは――ロスバードが哲学的正当化の結論ではなく政治理論の開始点としてとったことから――不侵害公理として知られるようになった。20世紀後半には、この原理を受け入れる者は、たとえ権利は政府がまったくないとき最も良く保護されるというロスバード自身の強い主張に同意しなくても、みな自分をリバタリアンと呼ぶことができたし、そう呼ぶことに気づくことができた。」[4]

我々は今のリバタリアニズムの夜明けをランドとロスバードの作品に日付けすることができる。すなわち、ランドの『肩をすくめたアトラス』(1957)と、特にロスバードの『人間、経済及び国家』(1962)、『権力と市場』(1970)、および『新しい自由のために』“For A New Liberty”(1973)、くわえて彼のジャーナル『リバタリアン・フォーラム』“The Libertarian Forum”(1969–1984)に。『新しい自由のために』は急進リバタリアンの展望を早い時期から華々しく大胆に言明したものとして今でも屹立している。60年代中盤から、現代リバタリアン運動は主として、アイン・ランドの暴力不初動原理と「急進資本主義」に、不侵害の原理や公理に基づくロスバードの体系的リバタリアン本体が合体したものだ。リバタリアン党が1971年の、これらの観念と自由運動が元気になってきたころに設立されたのは驚くことではない。

さらに数十年続き、他にもリバタリアンな観念を詳しく説明する多くの影響力ある作品が現れた。リンダとモリスのタネヒル夫妻『自由を売る市場』“The Market for Liberty”(1970)、ジョン・ホスパー『リバタリアニズム:明日のための政治哲学』(1971)、デイヴィッド・フリードマン『自由のメカニズム』(1973)、ロバート・ノージック『アナーキー、国家、ユートピア』(1974)、アンリ・ルパージュ“Henri Lepage”『明日、資本主義』“Tomorrow, Capitalism”(1978)、サミュエル・エドワード・コンキン三世“Samuel Edward Konkin III”『新リバタリアン宣言』“New Libertarian Manifesto”(1988)、ジャン・ナーヴソン“Jan Narveson”『リバタリアン・アイディア』“The Libertarian Idea”(1988)アンソニー・ド・ジェセイ“Anthony De Jasay”『選択、契約、合意:リバタリアニズムの再言明』“Choice, Contract, Consent: A Restatement of Liberalism”(1991)、リチャード・エプステイン“Richard Epstein”『複雑な世界のための単純なルール』“Simple Rules for a Complex World”(1995)、チャールズ・マレー“Charles Murray”『リバタリアンであることの意味:個人的解釈』“What It Means to Be a Libertarian: A Personal Interpretation”〔訳注:題の訳に確信なし〕(1996)、デイヴィッド・ボーツ『リバタリアニズム:入門書』“Libertarianism: A Primer”(1998)、ランディ・E・バーネット『自由の構造』“The Structure of Liberty”(1998)、そしてもっと近頃では、ジェフリー・A・ミロン“Jeffrey A. Miron”の『リバタリアニズム、AからZまで』“Libertarianism, From A to Z”(2010)、ヤコプ・ヒューバート〔訳注:名の訳に確信なし〕“Jacob Huebert”の『リバタリアニズムの今』“Libertarianism Today”(2010)、ゲイリー・シャルティエ“Gary Chartier”の『アナキストの良心』“The Conscience of an Anarchist”(2011)、ジェラード・ケイシー〔訳注:名の訳に確信なし〕“Gerard Casey”の『リバタリアン・アナキズム』“Libertarian Anarchism”(2012)。

[1] これに関するもっと多くのことについて、Brian Doherty, Radicals for Capitalism: A Freewheeling History of the Modern American Libertarian Movement (2008)と、David Boaz, The Libertarian Reader: Classic and Contemporary Writings from Lao Tzu to Milton Friedman (1998)を見よ。

[2] Boaz, The Libertarian Reader, idを見よ。

[3] Doherty, Radicals for Capitalism, idを見よ。

[4] John P. McCaskey, “New Libertarians: New Promoters of a Welfare State” (April 14, 2014)。また、Wendy McElroy, “Murray N. Rothbard: Mr. Libertarian,” LewRockwell.com (July 6, 2000)を見よ。

[2] The Trouble with Libertarian Activism.

[3] Why I’m a Libertarian — or, Why Libertarianism is Beautiful.

[4] The Murdering, Thieving, Enslaving, Unlibertarian Continental Army.

[5] The Nature of the State and Why Libertarians Hate It.

[6] The Death Throes of Pro-IP Libertarianism; “The Four Historical Phases of IP Abolitionism”;“The Origins of Libertarian IP Abolitionism“を見よ;またThe Case Against IP: A Concise GuideAgainst Intellectual PropertySelected Supplementary Material for Against Intellectual PropertyAnti-IP Resourcesも見よ。

[7]Where does IP Rank Among the Worst State Laws?”を見よ。また“Copyright and Free Trade; Patents and Censorship”; “Death by Copyright-IP Fascist Police State Acronym”; “SOPA is the Symptom, Copyright is the Disease: The SOPA Wakeup Call to Abolish Copyright”; “Should Copyright Be Allowed to Override Speech Rights?”; “Copyright is Unconstitutional”; “Patent vs. Copyright: Which is Worse?”; “Copyright Censorship versus Free Speech and Human Rights; Excessive Fines and the Eighth Amendment”; “Masnick on the Horrible PROTECT IP Act: The Coming IPolice State”を見よ。

[8] KOL001 | “The (State’s) Corruption of (Private) Law” (PFS 2012)Legislation and the Discovery of Law in a Free Society; まとめ版: Legislation and Law in a Free SocietyAnother Problem with Legislation: James Carter v. the Field CodesKOL129 | Speech to Montessori Students: “The Story of Law: What Is Law, and Where Does it Come From?”KOL020 | “Libertarian Legal Theory: Property, Conflict, and Society: Lecture 3: Applications I: Legal Systems, Contract, Fraud” (Mises Academy, 2011).

[9] Hoppe, Democracy: God that Failed, and Introduction (「ミーゼスとロスバードの両者には民主制の経済的かつ倫理的な欠陥に気づきながらも君主制から民主制までの変遷を進歩と見なす甘い欠点があった。」)

[10] On Constitutional SentimentalismBlack Armbands for “Constitution Day”The Bad Bill of RightsGoodbye 1776, 1789, TomRockwell on Hoppe on the Constitution as Expansion of Government PowerRichman on the 4th of July and American IndependenceThe Murdering, Thieving, Enslaving, Unlibertarian Continental ArmyNapolitano on Health-Care Reform and the Constitution: Is the Commerce Clause Really Limited?Was the American Revolution Really about Taxes?Bill Marina (R.I.P.) on American Imperialism from the BeginningHappy We-Should-Restore-The-Monarchy-And-Rejoin-Britain Day!Revising the American Revolution;The Declaration and Conscription‘Untold Truths About the American Revolution’Jeff Hummel’s “The Constitution as a Counter-Revolution”Bill Marina (R.I.P.) on American Imperialism from the Beginning;Happy We-Should-Restore-The-Monarchy-And-Rejoin-Britain Day!Revising the American Revolution.

[11] Montessori, Peace, and Libertarianism; KOL059 | Libertarian Parenting—Freedomain Radio with Stefan Molyneux (2010); Stefan Molyneux’s “Libertarian Parenting” Series; Montessori and “Unschooling”.

[12]Afterword,” in Hans-Hermann Hoppe, The Great Fiction: Property, Economy, Society, and the Politics of Decline; “Foreword,” in Hans-Hermann Hoppe, A Theory of Socialism and Capitalism.

[13] Rothbard, “Human Rights” As Property Rights; Hoppe, A Theory of Socialism and Capitalism, chs. 1-2 et pass.

[14] The Limits of Libertarianism?: A Dissenting View.

[15] The Trouble with Libertarian Activism.

[16] KOL004 | Interview with Walter Block on Voluntary Slavery; A Libertarian Theory of Contract: Title Transfer, Binding Promises, and Inalienability.

[17] KOL149 | IP And Beyond With Stephan Kinsella – Non-Aggression Podcast.

[18] Causation and Aggression.

[19] Hoppe, A Realistic Libertarianism.

[20] On the Danger of Metaphors in Scientific Discourse; KOL 044 | “Correcting some Common Libertarian Misconceptions” (PFS 2011); KOL 045 | “Libertarian Controversies Lecture 1″ (Mises Academy, 2011); KOL118 | Tom Woods Show: Against Fuzzy Thinking.

[21] ホッペが記すとおり:

「国家の定義から始めよう。エージェントに国家としての資格をもたせることができるのは何か? このエージェントは所与の領土の住民間での全紛争が究極的意思決定のため彼の下に持ち込まれ、かつ彼の最終審理に服することを主張できなければならない。特に、このエージェントは彼自身に関わる全紛争が彼か彼のエージェントに判決されることを主張できなければならない。そして究極的裁判官として行為することから他者全員を排除する権力に含意される国家の第二の定義的特徴とは、エージェントの課税する権力があり、すなわち正義を求める者が彼のサービスに支払わなければならない価格を片務的に決定する権力である。

この国家定義に基づけば、なぜ国家権力を支配する欲望が存在するかを理解するのは容易い。誰であれ所与の領土の最終調停の独占者は立法することができるからだ。そして立法できる彼はまた課税できる。なるほど、これは妬ましい立場である。」

『国家の本性、そしてなぜリバタリアンがこれを憎むか』“The Nature of the State and Why Libertarians Hate It”から引用。

[22] The Problem with “Coercion”.

[23] KOL 037 | Locke’s Big Mistake: How the Labor Theory of Property Ruined Political Theory; “Objectivist Law Prof Mossoff on Copyright; or, the Misuse of Labor, Value, and Creation Metaphors; The Intellectual Property Quagmire, or, The Perils of Libertarian Creationism; Hume on Intellectual Property and the Problematic “Labor” Metaphor”; Locke, Smith, Marx and the Labor Theory of Value.

[24] What Libertarianism Is; How We Come To Own Ourselves.

[25] Hoppe on Property Rights in Physical Integrity vs Value.

[26] A Libertarian Theory of Contract: Title Transfer, Binding Promises, and Inalienability.

[27] Fraud, Restitution, and Retaliation: The Libertarian ApproachKOL020 | “Libertarian Legal Theory: Property, Conflict, and Society: Lecture 3: Applications I: Legal Systems, Contract, Fraud” (Mises Academy, 2011).

[28] KOL092 | Triple-V: Voluntary Virtues Vodcast, with Michael Shanklin: Can You Trade Something You Don’t Own?KOL 044 | “Correcting some Common Libertarian Misconceptions” (PFS 2011) (see slide 7); KOL 049 | “Libertarian Controversies Lecture 5″ (Mises Academy, 2011) (see slide 15).

[29] Inalienability and Punishment: A Reply to George Smith; A Libertarian Theory of Contract: Title Transfer, Binding Promises, and Inalienability.

[30] Mises, Rothbard, and Hoppe on the “Original Sin” in the Distribution of Property Rights; Hoppe, A Realistic Libertarianism.

[31] Mises, Rothbard, and Hoppe on the “Original Sin” in the Distribution of Property Rights.

[32] Hoppe, Of Private, Common, and Public Property and the Rationale for Total Privatization, and Hoppe, A Realistic Libertarianism.

[33] Intellectual Freedom and Learning Versus Patent and Copyright, section “Knowledge as a Guide to Action”.

[34] What Libertarianism Is; Selected Supplementary Material for Law in a Libertarian World: Legal Foundations of a Free Society.

[35] What Libertarianism Is.

[36] The Limits of Libertarianism?: A Dissenting View; KOL077 | The Unique Libertarian Framework: Homesteading, Scarcity, Conflict, Property Rights.

[37] 「共通祖先」に権原を辿る民法の解決法に関する議論について、Mises, Rothbard, and Hoppe on the “Original Sin” in the Distribution of Property Rightsを見よ。

[38]  What Libertarianism Is.

(出典: joseywales1965.wordpress.com)