真の自由主義と偽の自由主義

Ralph Raico, “Liberalism: True and False,” Classical Liberalism and the Austrian Method

  1. 導入
  2. 概念的なしっちゃかめっちゃか
  3. ジョン・スチュアート・ミルの役割
  4. 「旧」自由主義対「新」自由主義
  5. 自由主義と福祉国家
  6. 真正自由主義のルーツ
  7. 中世教会の役割
  8. 現代国家の攻撃と自由主義
  9. 理念型の方法を適用して
  10. 参考図書

導入

過去数十年、膨大な量の学術的努力が社会主義の歴史に捧げられ、わけてもそのマルクス主義的な変種に捧げられてきた。社会主義的な学説と扇動はその細目でさえ繰り返し繰り返し気が遠くなるほど詳細に調査され、「マルクス主義的ヒューマニズム」のような分野の特殊な部門が副専攻の学校産業になった。そのような学術資源の割り当てのアンバランスも、社会主義が運命付けられし「全人類の輝ける未来」だったのだという――時代の知識人に広く蔓延した――見解を受け入れられればおそらく不合理ではなかったのだろう。

もっと近頃になって、焦点の変化が明らかになってきた。西洋で伝統的な社会主義計事業が挫折し「現実に存在する」社会主義体制が失敗ひいては腐敗したせいで、我々自身の文明のイデオロギー的な基礎にもっと注意が払われなければならないということが学術界でも分かり始めてきたように思われる。かくして、自由主義は――ピエール・マナン(1984: 9)がいみじくも「過去三世紀に渡れるヨーロッパと西洋の政治の、そして現代政治の通奏低音」と呼ぶ――その内在的な重要性のわりにはまだまだ相対的に地味な程度にせよ、ますます研究の主題になってきたのである。

けれども今のことろ、グイド・デ・ルッジェーロの高く賞賛されたが深い欠陥を負っている作品(1981)に匹敵するような自由主義史の全般的説明を提出する真剣な努力はまるでされてこなかった。[1]彼の作品はとにかくヨーロッパに限られ、あるいはむしろ、イギリスとフランスとドイツとイタリアに限られていた。このような説明が非常に必要とされており、そして疑いなく近い将来に試みられるだろう。以降の所見は自由主義のそのような一般的な論じ方にとってはプロレゴメナと考えられるかもしれない。それらはますます死活と認識されている知的な歴史の領域で理論的一貫性の主義を推進する努力にも相当する。

概念的なしっちゃかめっちゃか

至極当然のことだが、社会主義が失敗してしまったことに対しての現行の不評はライモンド・クベッドゥ(1997: 138)が「自由主義者を自称しようとする熱狂」と言及したものに拍車をかけてきた。今日では多くの著述家が「自分の好みに合わせて自分の『自由主義』を発明する」計略と、過去の観念から「進化」を遂げたことにする策略を頼みの綱にしている。クベッドゥは「諸自由主義の過多は貨幣の過多のように万物の質を落とし、万物の意味をからっぽにすることに終わる」と警告する。[2]

実際、自由主義に関する文献を見渡せば概念的なしっちゃかめっちゃかの状況が露になる。この根っこの原因の一つは自ら「リベラル」と称した有力な政治的分類すべてに融通をしてやろうとする頻繁なる試みである。これは特にイギリスの学者に好まれたアプローチであり、彼らの自由主義の着想では十九世紀イギリス自由党の言うことなすことが重んじられる(たとえば、エクルシャル1986;ヴィンセント1988)。

イギリス自由党がおよそ1900年以降ますます国家主義的方向に逸れてしまったことは疑いがない。いくらか後になって、アメリカ合衆国でも民主党――かつての「ジェファーソンとジャクソンの党」内で似た変質が起こった。しかしそのような、自由主義の名を保った大陸の党でも明らかな変化は、民主的選挙政治のダイナミクスで容易に説明される。

自由党は集団主義的な観念の競争に直面して、自身の経済的立場を強化するために国家を使う人々、つまり「準地代あさり」構成員の動員に長けた「政治企業家」という新しいブランドを生み出した。これらの指導者は権力を得るために自由主義の綱領を「民主主義者と社会改革者の観念から事実上区別できず、しまいには特殊な目的を生み出すべく社会を再設計するための道具として国家の概念を受け入れることに終わる」ほど変更してしまったのである(クベッドゥ1997: 26)。[3]

イギリス自由党(やアメリカ合衆国民主党)内でのイデオロギー的な変化ゆえに自由主義の意味が修正されなければならないと考えるならば、ドイツ帝国の国民自由党員にも適切な考慮が与えられなければならない。彼らは――デイヴィッド・ロイド・ジョージとジョン・メイナード・ケインズ同様に――たとえばリチャード・コブデンとジョン・ブライトとハーバート・スペンサーと同じイデオロギー範疇に位置付けられることを主張するだろう。けれども国民自由党員が支持したものは、反カトリック教会の文化闘争と反社会主義法、ビスマルクの自由貿易中断と福祉国家導入、ポーランド人の強制ドイツ化、植民地拡張と世界政治、そしてヴィルヘルム二世下で増加した軍隊わけても海軍であった(クライン=ハッティンゲン1912;レイコ1999: 86–151、および随所)。実際、もしも党名だけでやっていくならば、国民自由党員は真正自由主義的なドイツ進歩党とフライジン党よりも自由主義の資格をもっているだろうし、国民自由党員がドイツで本物の自由主義を裏切ったか否かという問いは生じることさえないはずだ。

今日では多くの人々によって十二世紀初期の模範的なドイツ自由主義の指導者と目されているフリードリヒ・ナウマンの事例によっても似たいざこざが引き起こされる。ナウマンの見解は国民自由主義者の後期の段階のものと似通っていた。彼はぬきんでた社会帝国主義者であって、新興する「強国の星座」――すなわちイギリスとロシアとフランスの力強い三国協商の形成――が彼の愛した世界政策の致命的な誤りを暴露するまで、植民地キャンペーンと強力な海軍での熱狂、および対イギリス戦争の切望で有名だった。(レイコ1999: 219–61;また本書の「オイゲン・リヒターとドイツ自由主義の終焉」に関するエッセーも見よ)。[4]この「模範的ドイツ自由主義者」を含めるために、自由主義の定義と理解が引き伸ばされなければならないのか? 標準的なイギリス=アメリカ知識人の視野の狭さ以外に何が邪魔するのやら。

この論点で政治家や政治知識人の単なる自己記述が決め手にならないことは明らかだ(フィアハウス1982: 742)。ヒトラーが自分を社会主義者、国家社会主義者と称したことは、彼が社会主義の歴史に馴染むに違いないという仮定を生み出すわけではない。[5]

少数の著者は異なる民族集団や現代史の個々の数十年の「諸自由主義」にあたかも何か繋がりがあるかのように書き続けるくせに、それらの下に横たわるどんな共通の特徴も見つからないと絶望してしまった(たとえばヴァドル1987: 13)。[6]しかしながらほとんどの評論家は形質や模範人物のリストによって概念に何らかの境界画定を試みてきた。

ニューヨークの文芸批評家ライオネル・トリリングは『文学と精神分析』“The Liberal Imagination”で自由主義を「特に〔ソビエト〕ロシアでは疑わしいような、計画と対人的協力の信念」(クランストン1967a: 460から引用)として批判した。幾分かマシなもっともらしさで、ジョン・グレイは自由主義を個人主義的、平等主義的、普遍主義的、メリオリストと見なし、続けて、等しく妥当な「個々の共通〔自由主義的〕家系の血筋」を区別していった(1986: x–xi)。二人のリバタリアン哲学者、ダグラス・デン・アイルとスチュアート・D・ワーナーは、その本質的形質が自由、法の支配、代議制政府、進歩信仰であると主張する(1987: 271)。グレーとデンとワーナーはまた「クリアカット」で「疑問の余地なき」自由主義者のリストを用意し、これは、ロックとカントとハーバート・スペンサーとF・A・ハイエクの隣にケインズとカール・ポパーとジョン・ロールズのような思想家を含んでいる。

けれどもそのような名簿は自由主義の概念を使い物にならないほど貧弱にしてしまう。たとえばカントとスペンサーとポパーとロールズの見解を集めることは、決定的な論点、たとえば福祉国家や民主主義にコンセンサスを生み出さない(ライアン1993: 291)。本質的形質に関するグレイの列挙とデン・アイルとワーナーの目録には誤解の余地なき私有財産の信念が欠けていることはとても重大である。[7]

実際、私有財産こそ論争での口論の種であり、つねにそうであり続けてきたのである。近年、財産と自由主義を強調する運動が息を吹き返し、若干の評論家が酷い困惑を経験してきた。彼らはこの運動に注目しなければならないと感じ、ときにはこれがある種の自由主義と認めなければならなかったが、彼らは同時にこれが保守主義であると強弁する。[8]

ブラジル政治科学界の花形であるエリオ・ジャグァリベは、ハイエクとミルトン・フリードマンとルートヴィヒ・フォン・ミーゼス(「社会主義中傷」の著述家と認定される)を「過激保守主義者」と言い表す(1996: 31)。[9]デイヴィッド・スピッツも同様であり、彼はこの三人の思想家の「聖なるパトロン」がハーバート・スペンサーだったと信じていることを鑑みるに彼らの見解を理解できているのか不明瞭なのだが、彼らを「保守主義者」と称している(1982: 204, 206)。この定義的なギャンビットのかなり傑作な例が社会学者ジョン・A・ホール(1987: 37)に提出されており、彼は――ミルトン・フリードマンのように――「混乱しながら〔原文ママ〕自由主義者を自称するこれらの現代保守思想家」に不満を言う。[10]

ここ以上にヴェーバーの酷評が適切なところは他にない。

日常の話し言葉で使い慣れている未分化な集合概念を用いることはつねに思考と行為の混乱を覆い隠すすべであり、しばしば見かけだましの詐欺的な道具である。要するに、問題の適切な定式化を妨げる手段なのである。(ヴェーバー1949: 110)

ヴェーバーの警告を無視した結果が用語論的なカオスである。ホセ・メルキオールは次のとおり追従する(1991: 45–46)。

自由主義の意味は相当に変化した。大陸ヨーロッパとラテンアメリカでリベラルが今日一般的に意味することは、アメリカ合衆国で意味することとまったく異なる何かである。ルーズベルトのニューディール以来、アメリカの自由主義は「社会民主主義的な臭い」を纏ってきた。アメリカ合衆国での自由主義は自由社会主義に近づいていったのである……

メルキオールは彼の頭の混乱に加えて、近頃の自由市場観念の広がりがアメリカでの自由主義の意味のもう一つの兆候であると示唆する。

他方で、アメリカ合衆国と他所で生じた現行の復興における自由主義の意味にはアメリカで主流の意味とは薄い結びつきしかなく、しばしばそこからの離反さえ跡付けられる。[11]

或る著述家はその戦略的な図々しさから特別な言及に値する。マイケル・フリーデンは当代自由主義の意味から私有財産を丸ごと排除するよう求める。フリーデンによれば(1996: 19, 24, 35)、私有財産は「以前は自由主義の核心的な概念」だったが、十九世紀以降は「限界的な地位へと着実に落下していった。……財産は自由主義の中心から周縁へと移住の道を進んだ……財産の概念は、普遍的個人福祉の概念を支持した必要の概念に向かって落下するよう緩められた」。他の著者の幾人かによって自由主義者やネオ(復興)自由主義者と言及される当代リバタリアンは、「自由主義が経てきた革命的な道から逸れている……リバタリアニズムは言葉の正統性がらみの争いで現代自由主義マントルをめぐる真剣な論争者に到底なり損ねてしまった」から「自由主義の家族から排除されなければならない」。

フリーデンの落下移住論にはかなりの問題がある。たとえば、彼は「経済自由主義」という用語で何を意味するつもりなんだ? 彼の分析では、これは社会水平化の福祉国家に存ずる哲学を指さなければならないだろう。[12]そして「経済の自由化」のような同源の用語はどうなるんだ。おそらく政府統制の解体ではなくむしろ福祉利益を拡張するような何かを意味すると受け取られるに違いない。そのうえ、フリーデンの理解では、当代の有り様の自由主義は福祉受益者の増大中の必要を満たすに相応しい要件を別とすれば、経済の基本構造について言うべきことが何もない。[13]

『西洋自由主義の盛衰』(1984)[14]の著者アンソニー・アルブラスターは爽やかな誠実さと正直さで早期の作品を再評価した。その過程で、彼は用語に競合的な意味を押し付けるため「闘争する」フリーデンのような著述家の考え方を暴露する。アルブラスターは「自由主義的政治経済」にほんの数ページしか割り当てない過ちを懺悔しつつ、ハイエクと彼に関連する思想家の見解について次のとおり記す。

現象に関する私の説明は、「歴史」がこれらの観念を永遠に時代遅れにしてしまっており、彼らの復興はほとんど常軌を逸していて、経済への国家干渉と市民福祉への国家責任の成長の方向に向かう現代の社会的および政治的な発展の主道からの逸脱であるに違いない、という半意識的な仮定にしか基づいていなかった。

いまや我々の見方は「異なっていなければならず、もっと地味でなければならない」。アルブラスターが「ネオ自由主義的経済政策」を「社会民主主義的コンセンサス」と比較していわく、ネオ自由主義的プロジェクトは「分かりきっているとおり反動的」でありつつも「それが自由主義的なものではないということは必ずしも意味しない」。彼は十分に分別をもって次のとおり言い加える。ネオ自由主義が自由主義的であることは、「『自由主義的』は『進歩主義的』や『左翼がかった』に等しい、という北アメリカ〔原文ママ〕の等式を採用する場合にのみ、定義上不可能になるのである」(アルブラスター1996: 165–66, 171)。

この論点に取り掛かることはアラン・ライアンほど熟達した観念史家をもまごつかせる。ライアン(1993: 293–94, 296)はハイエクを当代自由主義者の範疇に振り込むことを認めるが、古典的自由主義者でさえ被害者なき犯罪を合法化することには賛成しなかったという理由でリバタリアニズムが自由主義の変種であることを否定する。

しかしこのリバタリアンな立場はたとえばハーバート・スペンサーの平等な自由の法に明白に含意されているだけではなく、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス(1949: 728–29)とF・A・ハイエク(1960: 451, n. 18)によって述べられてもいる。

ライアンの偉いところは少なくとも「現代自由主義」を「社会主義」から区別しようと試みていることだ。彼の考えでは前者は「社会主義的な福祉国家の反感と擁護を共有していない……現代自由主義には没収の野望はない」(295)。しかしこの境界策定の試みは不出来で失敗している。ライアンの言明の第一部分は絶望的に曖昧であり、第二部分は福祉予算の乳牛として社会民主主義者が市場経済をいやいや受け入れてきた程度と「現代自由主義」政治階級の納税者稼得に対する強欲の両方を過小評価しているのである。[15]

ジョン・スチュアート・ミルの役割

この領域に充満する混乱の多くはジョン・スチュアート・ミルに遡ることができ、彼は英語圏の人々が抱く自由主義の着想で膨大にインフレした立場を占めている。[16]この「合理主義の聖人」はかなりの方面での自由主義学説の重大な歪曲に責任がある。[17]経済学では「個人的自由の原理は自由貿易の学説〔すなわち経済自由主義〕に含まれていない」と述べ、保護主義者の武器庫に弾薬を提供し、社会主義的論法の推敲の仕事さえ引き受けた(ミル1977: 293;ミーゼス1978a: 195;レーダー2002: 357 n. 76と374 n. 23;特にロスバード1995c 2: 277-85)。[18]

ミルは企業家と労働者を含む全社会階級の利害の長期的調和という自由主義的な概念を拒絶した。そのわけは「……彼らが同じ利害関係にあると言うことは、彼の利益にとっては貨幣総額が彼に属しても他の人に属しても同じことになると言うことだから」だ(アシュクラフト1989: 114から引用)。この奇怪で近視眼的な推理によれば、これまでは嫌疑がかかっていなかったかなり多くの社会内利害紛争を暴くことができるだろう。たとえば、道ですれ違うあらゆる二人の人々の間には紛争があるに違いない。実際、自由主義の太鼓判の一つが資本主義であるとアラン・ライアンが論じる際に(1993: 302)、彼は「ここや他所の国々で労働者の大部分が、実際の奴隷制には及ばないどんなシステムにおいても……もちうるような……、職業の選択肢や移動の自由をほとんどもっていない」と記すジョン・スチュアート・ミルの他に誰かを引き合いに出すことはなかった――イギリスと他の国々の「農奴」が町へ、都市へ、外国へさえ、百万人規模で移住していた当時にこれだ。[19]

国際問題では、ミルは、リチャード・コブデンが最も徹底的に唱道した自由主義的な外国戦争不干渉の原理を否認した(1973)。コブデンはそのようなもつれ合いが国内での自由を掘り崩すだろうと恐れたところで、ミルは干渉主義者に対して後に彼らのお気に入りになってしまう論法を差し出すのだった。すなわち、もしも外国人が他所の権力者に脅かされているならば、イギリスのような強くて自由な国は自由を得るために闘う人々を助けに向かう道徳的義務がある、と。[20]そのような常設の干渉主義政策がほとんど国内の自由を妥協しそうでしかないことは、ミルと彼に付き従う人々にとっては気にするような問題ではなかった。

なかでも最悪なのはミルが自由の概念自体を醜く奇形化したことだ。どうやら、自由とは国家や他の制度や個人によって物理的侵害で脅かされない条件というだけではない。むしろ、「社会」がしばしば個人の自由に一層由々しい危険を引き起こすらしい。それは「優勢な意見と感情という暴君」が、「自身の観念と実践をその反対派に対し品行規則として文明的な罰以外の方法で押し付け」、「それ自身をモデルにして自分を形作るようあらゆる性格の人々に無理強いする」傾向によって成し遂げられる(1977: 220)。真の自由は「自治」を要する。というのも、「他の人々の伝統や慣習」を採用することは「猿みたいな」物まねにすぎないからだ。[21]

男女が制度の権威を自由に容認し、この制度によって段取りを決められた彼らのための目標が彼らに自由に選ばれるところでは、ミルは自由の絶滅を感じてしまうのだ。合理主義の聖人さまは次のとおり印象的で完全に本末転倒な例を記す。「一個人としてのイエズス会士はこの上なく不名誉なほど彼の序列の奴隷である」(1977: 308)。だったらどうするつもりやら訝しい。本意にもイエズス会の「奴隷」である人々のために、我々は彼らを解放すべく廃止主義的結社を作るべきなのか? フォーダム大学とジョージタウン大学の奴隷売場への襲撃を指揮する我らがジョン・ブラウンを選出しに取り掛かるべきなのか? また、ミルと彼の別人格たるハリエット・テイラーはいったい何の権利があって、カトリックや正統派の序列の一員として、正統派ユダヤ教や敬虔なイスラム教の一員の地位において律する資格が自分にあると想像することができたのやら。[22]

イエズス会に関するミルの評言はめったに注目されない彼の側面を露わにする。モーリスの言葉で言えば、彼は十九世紀の最も難癖がましいモラリストだったのである。彼は知りもしない人さまのかなり大勢の習慣、態度、選好、道徳基準に絶えず判決を下していた。カウリングの冷めた観察どおり、「頑迷偏見は必ずしもコント派決定論者が時代遅れと烙印を押してきた意見についての最善の記述ではない」(1963: 143-44、強調は原文ママ)。

ジョゼフ・ハンバーガーは遺作(1999)でジョン・スチュアート・ミルの「暗黒面」を調査する。ここでハンバーガーは、個人的自由の無類の支持者として長らくミルに関する安易な見解をもっていたと告白し、ミルの『自由論』だけではなく、彼の他の著述と手紙を、そして彼と親しい友達による評判をも分析する。彼の結論は、『自由論』で支持された意見の自由が――「人間性の宗教」に基づく社会秩序を創設すべく、宗教的信仰わけてもキリスト教信仰を破壊し容認モーレスを打倒するための――ミルの大戦略の一部であった、というものである。真の個性は、ミルとハリエット・テイラーに夢見られた、私利私欲を崇高な能力の恒常的教化と利他性に変えられた将来の「ミル的人間」に受肉するのだろう。

カウリングとハンバーガーの先駆的な修正主義はリンダ・C・レーダーによって感銘的に立証されてきた。レーダーはミルの「自己公言された折衷主義」と「彼にとって馴染み深かった自由主義的伝統の慣用句」の安易な利用の裏の生地を暴露するために、彼女の『ジョン・スチュアート・ミルと人類教』(2002)でミルの大作すべてと関連資料の徹底調査を敢行する。彼女が見出したその生地とは早期から永遠にミルに影響し続ける哲学者、アンリ・ド・サン=シモンとオーギュスト・コントのものであった。これらの実証主義的哲学者に抱かれた進歩の概念は全人類が本能的に共有している世界的な「人類教」の着実な前進のことであった。ミルの「人類教への強い憧れは、人類がユニークな個性を開花するためではなく、人類が彼の価値観とサービスの観念に従順であるためであった」。結局レーダーが結論するには(338)、ミルは「自由の真の友ではない」。

容認された宗教と伝統と社会規範に対する対抗的なスタンスとの自由主義の不吉な結びつきは他の誰よりもジョン・スチュアート・ミルのせいなのだ。お生憎様、これが標準になってしまった。典型的な例では、ケンブリッジ教会史名誉教授のオーウェン・チャドウィックが記すとおり(1975: 22)、

自由主義者とはもっと多くの自由を求めた人々であった。すなわち、もっと束縛からの自由を。この束縛を行使するのが警察でも、法律でも、社会的圧力でも、もしくは人々を自分の責任で悩ませる正統派の意見でも……。自由主義者は、ヨーロッパ社会で確立された法律と慣習が彼らに割り当てる以上の行為し施行する余地が人には必要だと考えた。

この言明で、かたや国家の強要、かたや社会的圧力と正統派の意見と慣習、両者が区別されていないことに注目せよ。ジョン・ダンが述べるには(1979: 29、強調は原文ママ)、

もしも自由主義者にとって中心となる素質的価値が寛容である〔原文ママ〕ならば、彼らにとって中心となる政治的価値はおそらく、あらゆる形態の権威に対する根本的な反感である……。素質的に、自由主義は過去をほとんど重視しない。

十九世紀の偉大な自由主義的歴史家のマコーレーもティエリもレッキーもアクトンも他の人々もみんなそんなもんなのかね。このようなチャドウィックとダンの描写は歴史的には自由主義よりむしろ当代の西洋学会の「反律法主義的」[23]メンタリティーからよく表出されているものだ。

ミルの見解は「社会的不承認を蒙ることと投獄を蒙ること」のかなり致命的な区別を抹消する傾向があり(バーク1994: 30)、[24]潔白で非強要的な伝統的価値観と取決めに対し、わけても宗教的なものに対して自由主義を歯向かわせるべく手ぐすねを引いている。それはまた、政治的権力の大量行使によらず伝統的規範を根こそぎ破壊しつくすにはどうすればいいかが想像しがたいから、たとえミルの意向に反するとしても、自由主義と国家の間に攻撃的な同盟関係を作り出すのである。当代のスティーヴン・ルークスのように「自治」を享受せんとミル主義的プロジェクトに携わる著述家は、なぜかは分からないが、どうやらその全体主義的な含意に気づいておらず、この方向性を提唱することに躊躇いがない。[25]

「旧」自由主義対「新」自由主義

自由主義の通俗的な意味が時とともに劇的に変化したことは、異議を差し挟まれる余地がない。一九〇〇年あたりから英語圏と他所の国々で、本質的に社会民主主義者だった著述家によっていかに用語が囚われてしまったかはよく知られている話である。ヨーゼフ・シュンペーター(1954: 394)は皮肉げにも、自由企業システムの敵は自由主義がもともと賛成していたものとは真逆の自身の信条に対して自由主義の名を適用したとき、このシステムに対して意図せぬお世辞を述べていることに気づいたものだ。

一世紀を経て、いまや論争は自由主義の真の意味をめぐって荒れ狂っている(メドウクロフト1996b: 2)。スティーヴン・ホームズ(1988: 101)はこの論争には我こそはと「自慢する権利」以外のものが何も関わっていないと嘲笑した。にもかかわらず、自分たちのレッテルを確保するための闘争に際して、この嘲笑はシュンペーターに言及された陣営とは別の陣営に彼が与することを控えさせられはしなかった。トーマス・サースの命題には深い真理がある。すなわち、「動物界の掟は食うか食われるかだ。人間界では、定義するか定義されるかである」。政治界よりもこれが当てはまるところはない。

自由主義という用語のこの由々しい変質――ポール・ゴットフリート(1999: 29)が「意味論的窃盗」と呼ぶもの――はいかに生じたのか?

慣習的な解釈はこうだ。十八世紀以来の自由主義者は特徴としてはレッセフェールを信じていた。しかしながら、十九世紀最後の数十年の始まりのころ、T・H・グリーンとL・T・ホブハウス(およびアメリカ合衆国とドイツと他所で彼らに対応する人物)はレッセフェールが現代社会の条件には完全に不適切であったことに気づいた。しばしばジョン・スチュアート・ミルに啓示を受けて――ホブハウスの恭しい言葉では(1964: 63)、「ミルの教えが我々を自由主義の真髄に近づけた」ので――彼らは自由主義にもっと現代的な形を与えられることが分かった。慣習的な見解の解説者の一人が記すには、

できるだけ彼自身の主権をもった人、解放された個人という中心的な価値は変わっていない。その価値の理解とその達成の手段が変わったのだ。(スミス1968: 280)[26]

特に、もっと早期の自由主義者には個人的自由の敵として恐れられていた国家が、今ではいみじくもそれを推し進める潜在的なエンジンとして生き生きと見られている。旧(オールド)自由主義は新(ニュー)自由主義に道を譲ったのだ、と。

指摘されるべき第一点は意味的変化の後ろにある政治的目的である。それは革命的な国家アジェンダ拡充の道を楽にするためであった(究極的に、これは原則として限界なきアジェンダになってしまっている)。しかしながら、やかましく叫ばれるそのような拡充の必要性はいまも実施中のひどく疑わしい理論に基づいていた。それは「旧い」レッセフェール自由主義が一定の根深い社会変化によって時代遅れにされてしまったというものだ。「新自由主義」の先駆者と後継者は彼らの主張を商事企業の消費者と労働者に対する一見圧倒的な権力に基づけた。しかし彼らと彼らの追随者のあらゆるプロパガンダにもかかわらず、そのような権力が存在することは経験的にも理論的にも示せない(ロスバード1970: 168-73;ハット1954;アルメンターノ1982;レイノルド1984: 56-68;ディロレンツォとハイ1988)。

そのうえ決定的なことに、「新自由主義」の話の標準的根拠は分析的に欠陥がある。「解放された個人」を達成する目的は自由主義に限定的ではありえないからだ。他のイデオロギーの共産無政府主義と社会主義の多くの変種もこの目的を共有しているのである。

修正社会主義の創始者エドゥアルド・ベルンシュタインによる次の言明を考えてみよ(1909: 129、強調は原文ママ)。

自由なパーソナリティの発達と保護は皮相的には強要であるように見えてもあらゆる社会主義法案の目標である。もっと綿密な調査はつねに、強要が取り上げる以上に社会での自由の総和を増加すること、もっと多くの集団にもっと多くの自由を与えることが強要の問題であると示すだろう。[27]

これが過去一世紀以上にわたる「新自由主義」の立脚点とどう違うのやら。[28]自由主義をその反対派イデオロギーと分かつものはまさしくその実質的な綱領、それが提唱する手段である――私有財産、市場経済、そして国家と国家後援制度の権力の最小化だ。[29]

英語圏以外の国々では率直に社会民主主義者や民主社会主義者と同定される人々が、ここでは彼らに相応しい名を認めることを敬遠する。これが本質的に政治的便宜の問題であると結論することは避けがたい。いくつかの理由で、英語を受け継いだ国々では社会主義を示唆するレッテルは通俗的ではなかったのだ(ゴットフリート1999: 9参照)。

この厳しい政治的事実は社会主義の古典『顧みれば』の著者、エドワード・ベラミーにとって明らかであった。ベラミーは1888年にウィリアム・ディーン・ハウエルズ宛の手紙で自分の学説を何と呼ぶべきか検討した。彼は「社会主義」という用語を拒絶した。この言葉は「それ自体外来的であり、その提案もまとめて等しく外来的である」から「まったく腑に落ちなかった」のだった。彼はハウエズに対し、「ドイツとフランスの改革者が何と称してもかまわないが、アメリカで成功すべき党にとって社会主義は良い名前ではない」と打ち明けた(シフマン1958: 370-71)。ベラミーは代わりに「民族主義者」(ナショナリスト)という名を選んだ。他の人々は似た理由で「自由主義」というレッテルを好んだ。

社会民主主義者の自由主義徴発は大いなる成功を収め、一部のレッセフェール自由主義者に個人主義者を名乗りたがらせるような事態と相成った(レイコ1997)。面白いことに、ジョン・デューイのような社会主義者にとって、次の一手はこの用語も捕らえてしまおうと試みることであった。デューイによれば、大企業と現代社会科学以前の時代には個人主義があったが、この種のものはいまや個人主義に置き換えられなければならないことが分かったのである(デューイ1930)。この「新個人主義」の産物の一つは経済の「規制を計画するため産業と金融の大立者が労働者と公務員の代表に会う調整と指令の評議会」である。

これは明らかにムッソリーニがイタリアに打ち立てた企業国家のレプリカだが、デューイはこの相似を無視することを選んだ。嘆かわしいほど破壊的な仕方で「ソビエトロシアが進んでいる道の上において」アメリカ合衆国が建設的に取り掛かるので、彼が提案したパワーセンターにはボランタリストがいるだろうし、ゆえにアメリカ的な態度があるだろう。(デューイ1930: 118)。[30]こんな風に、自由主義の概念が市場経済と私有財産の信奉者を排除するよう変容した後、つぎは個人主義もが同じ目的で再定義されなければならなかった。おやおや、デューイみたいな社会主義の宣伝者はただ自由主義から自由企業の提唱が丸ごと欠けるように定義したかっただけのようじゃないか。[31]

自由主義と福祉国家

アクトン卿を当代福祉主義の先駆者に徴兵したモーリス・クランストンほど創造的な人はさすがに少ないけれども、[32]今日のかつてなく拡張した福祉国家に夢中になっている著者がこれを自由主義の伝統に合併しようと努めてきたことは不思議ではない。スティーヴン・ホームズはそこまでは行かないが、原理として「福祉自由主義は〔古典的〕自由主義の原理自体と両立するだけではなく、ある意味ではここから直接流れ出てくる」と主張する(1988)。彼の証拠は説得力がない。それは主に二つの事実から成り立っている。すなわち、ほとんどの古典的自由主義者は最小限の貧困緩和を支持し、税資金の政府エージェンシーが(司法システムと軍で)個人の権利を保護することに賛成した。産業化が「前例なき不安定」(1988: 93)を生み出したから、自由主義が国家福祉綱領の方向に進化するのは自然であった、と。ホームズは自由主義的学説のコスモポリタンな本性が「豊かな〔西洋の〕諸個人が、どこで暮らす貧者に対してであれ、彼らのサポートを手伝う国際移転計画」へ導いたとも信じる(1988: 97)。「豊かさ」を認定する狡猾な条件には注目せず済ませるように。

ホームズはたいした理由もなく十九世紀中葉以前には市場の変動や穀物の不作など――つまり経済的不安定――が些細なものだったものと考えているようだ。彼は「貧者」に望むだけ多くの子供を生むよう――国民的にも国際的にも――許す国家助成金が関わるモラルハザードには言及しない。そのような助成法案が十八世紀と十九世紀の自由主義者の思想に含意されていたというのは信じがたい断言だ。ジョン・スチュアート・ミルでさえ貧困緩和の支持は自由に子作りする自由を切り詰めるならばという但し書きと対にしていた(ポール1979: 181)。[33]ホームズの古典的自由主義思想への精通を信用することは、「標準的ハイエキアンの見解」、すなわち自由主義が「積極的公的支給プログラムと完全に両立しない」という彼の断言を強化しない。ハイエクは実際には広範な公的福祉支給プログラムを明示的に是認していた(『自由の条件』を見よ)。[34]

歴史的には、自由主義と福祉国家の関係はホームズのような著述家に想像されるものとは正反対であった。

自由主義が十八世紀に包括的社会哲学として形作られたとき、それはヨーロッパに蔓延っていた重商主義的および官房学的なシステムのアンチテーゼとして自身を提示したのだった。この重商官房システムは普通、君主制国家、わけてもその交戦能力を強化するものと考えられていた。しかしこれは決して君主の臣民の福祉、わけても経済的厚生を活発に促進するという目標を排除しはしなかった。[35]たとえばオーストリアの大臣にして指導者であるヨーゼフ・フォン・ゾンネンフェルスは次のとおりの原理を打ち出した。すなわち、「全市民は国家に最大可能な豊かさを請求する権利がある」(ハーバーマン1997: 25、クーニシュ1986: 27-32)。人民への温情的な思いやりは、『政治原論』の著者たるニコラス・ド・ラ・マールによれば、国政の至高目的であった。ド・ラ・マールは政治ないし警察(ドイツ語でポリツァイ)を「人々を統治し彼らを良くする科学、これらが社会の一般利益になるよう可能なかぎりこれらを行う方法」と定義した。その「独特の目標は人々を人生で享受しうる最も完全な幸福に導くことから成り立つ」(ラフ1994: 319, 330 n. 48)。

十八世紀絶対主義の法律、法令、勅令、指令といった「過度な規制狂」を生み出すのを合理化し助けたのはこの「警察科学」であった(ラフ1994: 312)。申し立ての上ではその意図が親切だったことは、それを暴君的だと強襲した自由主義者にとってはどうでもよかった(ハーバーマン1997: 17-65)。[36]社会生活に対する統制と同じく経済に対するこの統制システムこそ重農主義者ミラボーが「統治偏執狂、現代政府の最も破壊的な病気」と激しい非難をしたとき念頭に置いていたものであり、この言明こそヴィルヘルム・フォン・フンボルトがドイツ自由主義最大の傑作『国家活動の限界』でモットーとして取り上げたものである。

かくして自由主義は、ポリツァイシュタート〔訳注:直訳で警察国家〕――偶然にも福祉国家として最善に翻訳される言葉――に対する反動として成長したのである。この福祉国家の第一段階が続く先は、

啓蒙思想の学説(自然法、レッセフェール、個人の自然権)に影響された第二段階であり、〔これが〕パターナリスティックな国家干渉を拒絶した。それは十九世紀の政治的民主主義と自由主義とレッセフェールに同定されるものであった。(ドーウォート1971: 2)

第三段階は才能あふれる為政者にして自由主義の最大の怨敵であるオットー・フォン・ビスマルクにより始まったものであり、我々は光栄にもその絶頂期に生きている。ビスマルクの露骨な狙いは労働者が徐々に私的手段を蓄積してそれを自分の子供たちに手渡すことで彼らが中流階級の地位に上ること、家族の着実な世代間有産化、ブルジョワ化を妨げることであった。その代わり、労働者階級のメンバーがかつてなく国家年金に依存させられた。彼らは年金に相応しい感謝の意を示すよう期待されたのである。[37]ビスマルクの社会的法律は当時の指導的なドイツ人自由主義者によって激しく反対されたが、そのかいはなかった(レイコ1999: 154-79、そして本書の「オイゲン・リヒターとドイツ自由主義の終焉」を見よ)。[38]

近頃ポール・ゴットフリート(1999また2002を見よ)は当代福祉国家の特徴を見透かす洞察力鋭い分析を行った。

西ヨーロッパと北アメリカでこの状態がその権力を依存しているところは次のような多層的なものである。社会の底辺にして今や中流階級の福祉貴族、でしゃばった公共部門、メディアとジャーナリストの公的擁護者の前衛部隊。(1999: 139)

福祉国家の覆いの下で、メディアと教育機関の同盟者に温かく後援されて、政治家と裁判官と公共の行政官は、あらゆる形態の不平等と「差別」に対して進行中のクルーセイドを行っているのである。拡充しつつある管理的および治療的な国家権力を展開させて、政治階級は「旧い自由主義者が市民社会と呼んだものへの強襲」に従事する(1999: 25)。[39]その結果は、私有財産と法の下の平等、および契約と言論と結社の自由のような、歴史的に重要な自由主義の支柱の転覆だ。干渉主義的国家、あるいはドイツ人の歴史家の言葉でいう国家権力は、いまや「少なくとも過半数未満の人々の意思に、必要なら多数派の意思に反してでも社会を形作る」権利を主張し、それ自体が「単なるソフトな全体国家」であることを露わにする(ラインハート1999: 467)。[40]今日では、ハーバート・スペンサーが一世紀以上前(1981: 23)に呈した苦情はかつてより当てはまる真実を知らしむべく鳴り響いている。「自由主義の名を求める党が、拡張された自由の提唱者だといって自由主義を自称する党が、こんなことをやっているのだ!」

真正自由主義のルーツ

自由主義が自身の国家主義的戯画への大変貌を経験しなかったことは、それが進化しなかったことを意味する。自由主義的な観念が唐突に現れて或る時点で完成し完全に円熟したと提出されるような議論はここにはない。それに、自由主義とはあたかも数世紀かけて哲学者の間で実施された協議であったかのように取り組まれることもできない。[41]そうではなく、これは独特の文化に基づき特定の歴史的条件に遡りうる政治的および社会的な学説と運動として理解されなければならない。

この文化は西洋であった――ローマ司教とともに信仰を共有する人々から生じたヨーロッパである。歴史的な条件は中世のものであった。自由主義の歴史は経済史家がときに「ヨーロッパの奇跡」と呼ぶものに根ざしている。もっと正確には、自由主義はこの「奇跡」のゆっくりと姿を現したイデオロギー的および政治的な面として見ることができる。

ヨーロッパの経験の本質とはそれ自体を統一体と感じながらも政治的には分権化した文明が発達したことである。大陸は分離した競争する司法管轄と政治組織のモザイクに委ねられ、この内的分割自体が中央統制に抵抗した。「言い換えれば、ヨーロッパ全体に組み込まれたレッセフェールの類があった」(ホール1987: 55)。「退出」の相対的な容易さと持続的な軍事競争は、王子に押収などの財産権侵害を控えるよう強いインセンティブを与えた。この過程で主要な役割を演じたのはイタリアとネーデルランドとドイツなどの自由都市であり、これが自治と自信の中流階級の拠り所になって、商業エートスの養い手と運び手になった。[42]ヨーロッパのすべてでありヨーロッパに独特であった最も重要なことは強力で独立した国際的な教会の存在である。

中世教会の役割

歴史的には、発展した社会では宗教的権威と政治的権威の関係は共生のものであった。聖職者は支配者を聖別し、しばしば神格化することで、今度は支配者が彼らに惜しげなく金銭と他の特権を賜わした。これが中世ヨーロッパでは驚異的なほど異なっていた。

アクトン卿は彼の人生と莫大な学習過程を自由の成長の研究に捧げた。彼自身カトリック教徒であり、彼はこの叙事的な物語で彼の教会の役割について神経細やかであった。アクトンは司祭任命をめぐって継続中の教会権力と世俗権力の闘争について次のとおり記す。

我々は市民的自由の台頭をこの四百年間の紛争に負っている……自由は彼らが目指した目的ではなかったけれども、それは世俗権力と宗教権力が民族に援助を呼びかける手段であった。闘争の交互の段階で、イタリアとドイツの町はフランチャイズを勝ち取り、フランスは三部会を勝ち取り、イギリスは議会を勝ち取った。そしてこれが続くかぎり、神授王権の台頭を防いできたのである。(アクトン1956, 86–87)

ハロルド・J・バーマンは西洋的自由を生成する際のカトリック教会の中心的役割に関するアクトン卿の分析を支持してきた。ローマの没落と、これゆえ生じたドイツ人とスラヴ人とマージャル人の改宗をもって、ラテンキリスト教信仰の諸観念と価値観は、ヨーロッパに咲き誇る文化全体を覆いつくした。キリスト教徒の貢献は奴隷制度の緩和と家庭内での大なる平等から不正支配者への抵抗の合法性も含めた自然法の概念まで渡る。教会法は西洋の法システムに決定的な影響を及ぼした。「西洋人に初めて現代法制度のようなものを教えたのは教会であった」(1974, 59)。

そのうえ、バーマンは十一世紀に始まった決定的に重要な発展、すなわち教皇グレゴリウス七世と彼の後継者による「皇帝と王君と封建領主から独立した、一体的で階層的な教会」の創造と、ゆえの、一時的権威者の無慈悲な権力あさりを阻止する力に焦点を当てる(同56)。バーマンは彼の主な総合作品の『法と革命』で、他の学者が調査してきた経済的、政治的、およびイデオロギー的なアスペクトの発達の法的側面を際立たせていわく(バーマン1983)、「おそらく西洋の法的伝統の最も示差的な特徴は同一共同体内での多様な法システムの共存と競争である。法の優越を必然かつ可能にするものはこの管轄と法システムの多元性である(同10)。

バーマンの作品は偉大なイギリス人学者A・J・カーライルの伝統に属しており、カーライルは政治思想の記念碑的な研究『中世』の結論で、中世的政治の基本原理を要約した。すなわち、――王君も含めた――全員が法に拘束されること、無法支配者は正統な王君ではなく暴君であること、正義がないところに共和国はないこと、そして支配者と彼の服従者の間には契約が存在することである(カーライルとカーライル1950, 503–26)。

近頃の他の学識もこれらの結論を支持してきた。一際優れた経済思想史家のジェイコブ・ヴァイナーは、聖アクィナスによる課税への言及が「それをおよそ道徳破りの支配者の多かれ少なかれ異常な行動として扱っている」(ヴァイナー1978, 68–69)ことを、彼の最後の遺作に書き留める。ヴァイナーは、十八世紀後半まで毎年確かに繰り返し発表された中世教皇勅書イン・チェーナ・ドミニを指摘する。これは「法により、または教皇から明確に述べられた許可により支持される場合を除き、新税を課したか旧税を増した」支配者をいずれも破門すると脅していた(同69)。中世は西洋世界中に議会と三部会と国会などを台頭せしめ、これらが君主権力の制限に尽くしたのである。A・R・マイアーズが書き留めるとおり、

ラテンキリスト教国のほぼ全域で、王子の平均収入を別にすれば、議会の合意なく税を課すことはできないという原理がたびたび支配者に受け入れられた。〔議会は〕しばしば金権で支配者の政策に影響を及ぼし、特に軍事的冒険主義を抑え込んだ。(マイアーズ1975 29–30)

人民権、わけても恣意的課税からの保護は、代議制立法府によって防衛されていたし、支配者が多かれ少なかれ尊重する義務を感じるような憲章においてしばしば記載されていた。この最も有名なものは一二一五年にイギリスの諸侯が王に強要したマグナ・カルタであり、その最初の署名者はカタンベリー大司教のスティーヴン・ラングトンであった。

ノーマン・F・カンターは現代の中世論的学識の総合で、ヨーロッパ中世の遺産を次のとおり要約した。

市民社会のモデルでは、最も良く重要な物は国家の全水準より下で生じる。すなわち、家族、芸術、科学は、商業企画と技術過程で生じるのである。これらは諸個人と諸集団の仕事であり、国家の参加は無関係であって切り離されている。国家の飽くなき侵害性と堕落を遮断し、国家の水準より下にある市民社会に自由を与えるものが、法の支配である。およそつねに、ほとんどないしまったく国家の参加がなく、男女がうまく自分たちの運命を乗り越えることがよく起こったのが中世であった。(カンター1991, 416)

かくして、一七世紀よりはるか以前から、ヨーロッパは個人的自由と後の産業的「飛び立ち」をお膳立てする政治的および法的な手はず――生き方のすべて――が整っていたのであった。これらの制度に沿って、またこれらを強化して、王子の権力の制限を含意する自然法に基づいた説教が行われた。ひどく重要なのは国家の脱神聖化であった。カール・フェルディナント・ヴァーナー(1988)はフリードリヒ・クリンガーの作品に注意を向けており、彼は一九四一年にはすでに、早期キリスト教徒思想家わけても聖アウグスティンがいかにして国家を脱神聖化し、かくて古代ギリシア=ローマでは優勢だった着想を急進的に変更したかを指摘していた。

この自然法の伝統が最後に開花したのは後期スコラ学派でのことであって、普通サラマンカ学派に結びついており、その理論的重大さは真価を認められ始めている(ロスバード1995c, 1: 81–88、99–131、チャフエン1986)。

現代国家の攻撃と自由主義

集権化する官僚君主主義と王政絶対主義の台頭をもって、この独特の政治文化は広範な攻撃の下にあった。決定的な襲撃は十六世紀後半オランダでのスペイン・ハプスブルク朝と十七世紀イギリスでのスチュアート朝のものであった。

自由主義が舞台に登場するのはこの時である。それはその始まりから好戦的な学説として現れ、絶対主義の集権化と厳格管理の襲来に敵対していたのである。

自由主義の政治史は厳密な意味では十七世紀中葉のイギリスでのジョン・リルバーンとレヴェラーズに始まる。教会と国家の分離、報道の自由、国家独占特権の廃止、地方政府、ディッガーのような集団が説いた社会主義的平等主義の拒絶を含む包括的な綱領はこの反対派が始めた提示したのであった(ウォルフ1944、エールマー1975)。[43]レヴェラーズの時代から今日までの絶えざる伝統は遡ることができるものであり、話し方の流儀と哲学的および神学的な前提を超えて、これこそすぐに分かる自由主義性にほかならない。

自由主義は(しばしば打算的な理由から)宗教的寛容の達成で勝ち越し、この領域で市民社会が自活するがままを認められるようになったとおり、ついには宗教的自由で主な勝利を収めた。[44]学説と運動としての自由主義は一般的に、市民社会の有益な自生的秩序の可能性を露わにする実践と理論に歩調を合わせて成長しつつある西ヨーロッパひいてはイギリス領北アメリカに存在した社会的現実との継続的な相互作用にあった。[45]自由主義のあらゆる進捗を伴って、「政治哲学と政治経済がこれらの業績を整理し、合理化し、そして体系化した」のである(ヴェーデ1989: 33)。[46]

アメリカ人の歴史家の中でこの相互作用を最も良く理解していたのはジョイス・アップルバイである。彼女は十七世紀イギリスについて次のとおりコメントする。経済関連の著者はここの

……底流にある自由市場活動の規則性〔を発見し〕、そうする際に、彼らは或る可能性と現実に突き当たった。その現実とは、自分の人格と財産に関する意思決定をする諸個人が市場価格の決定者であるということだ。その可能性とは、以前は権威が経済に秩序を保証していたが、市場参加者の経済的関係が経済に秩序を与えられるというものだ。(1987: 187–88)

百年後のアメリカ植民地についてアップルバイが記すには、

十八世紀には、市場経済の二つの特色、すなわち個人的イニシアチブの存在と権威主義的指導の欠如が同時代人を魅了した……。一世紀半の経済発展が自発的人間行為に関する世論を劇的に強化し、社会とは同じ権威の下で生きる人々の非強要的関係に相当するものとして知られる言葉であった……。ジェファーソンを動かしていたのはこの展望である。(1984: 22–23、強調は原文ママ)[47]

これらの点はここで批評する必要がある。

第一に、このアプローチは一定の国民、たとえばイギリスとフランスとアメリカ合衆国を「特別扱い」する点が異論を唱えられるかもしれない。やたらと蔓延る平等主義の時代においては、この異論は深刻なものと感じられるかもしれない。しかしながら、あらゆる「自由主義」が平等に想像されていると想定すべき理由はない――たとえば、この学説の本質的意味に関する我々の理解を形作ったフランス自由主義にも等しい重み付けをロシアやハンガリーの自由主義に与えるべき道理はない。

第二に、もしもここで論じられているとおり、自由主義がそれを生成する社会の反映であ(り、次のこの社会を形成する学説であ)るならば、異なる民族的文脈での自由主義的運動がはっきりと異なる特徴を示すことは容易に理解できる。国家が伝統的に優勢な役割を演じる民族文化では、経験的自由主義は他の多くの物事と同じように国家主義的方向に逸れてゆく。

第三に、自由主義の本性に関する我々の理解は自由主義的学説の妥当性や自由主義的社会秩序の実行可能性に関して何も決定しない。自由主義が社会の自己規制的能力を広範に過剰評価しているということもあるかもしれない。たとえば、ケインジアンな集計的需要の管理と投資の社会化は経済が満足に機能にするには必要であるとか、あるいはあれやこれやの宗教的権威が文化を監督することが最小限の道徳性を維持するには必要であるとかいうこともあるかもしれない。

これより尤もらしい例で言えば、厳格に制限された国家を確立するという自由主義的綱領は根本的な矛盾を秘めており、事物の本質として、総括的権力で武装した国家への道を不可避的に辿ってゆくということが十二分にありうる。これはハンス=ヘルマン・ホッペ(ホッペ2001: 221–38)によって説得的に論じられてきており、彼が述べるには、「最小政府はすべて、自由と財産の安全装置という本来の自由主義的な意図とは対照的にも、最大政府になる内在的傾向を備えている」。

これらのどれかか似たものが正しいと証明されるならば、自由主義は致命的な欠陥を孕んでいると示されることができるだろう。しかしそのような証明では、自由主義とは歴史的には何であったか――それはそれ自体としては何と理解されるか、それは示差的かつ特徴的には何であったか――は変化しまい。

控えめにいっても、自由主義全体を説明しその真価を評価する仕事を引き受ける人々に対して自由主義が自身を提示する歴史的現象は人をたじろがせるものだ。それら現象は数世紀以上に及ぶ社会的、政治的、経済的、法的、知的な人々全体の歴史を伴う。この与件のヒマラヤで自由主義に関連する要素をどう識別すればいいのか? 普通の方法には満足に見えるものはない。それらは我々が要求するものを我々に提出し損ねている。「他の学説とは区別されることができる、独特の政治的学説としての自由主義」(ド・ジャセー1991: 119、強調は原文ママ)を理解させてくれないのである。新しい方法が必要なようだ。

理念型の方法を適用して

提案されてきた可能性の一つはマックス・ヴェーバーの「理念型」の概念を利用することである(ブリーフス1930/31: 101、ベデーシ1990: 2–3)。[48]ヴェーバー(1949: 90, 92、強調は原文ママ)はこれを次のとおり記述する。

理念型は、一つ以上の観点の一面的な強調と、とても散漫で個別的で、多かれ少なかれ存在するが、ときに存在しない、具体的で個性的な現象の総合で形成される。これらの現象は一面的に強調された観点に応じて、統一された概念的構成(思惟像)に整序される……。それはユートピアだ……。慎重に適用されるとき、それらの概念は研究と解明に特に有用である……。そこにはたった一つの基準しかない。すなわち、具体的な現象の相互依存、因果的条件、重大性のうちに、それら現象を暴き出すことの成否である。抽象的な理念型の構成は目的ではなく手段として推薦される。[49]

ルートヴィヒ・ラハマン(経済学での有用性は疑わしいが、歴史学ではそうではない)がマックス・ヴェーバーの概念を評するには、

「理念型は本質的には物差しである……。歴史的現象が我々の一つ以上の概念に近似する程度を表示することで、我々はこれらの現象を整理する」〔ヴェーバー〕。言い換えれば、理念型はそれからの具体的現象の距離でこれらの現象を整理する目的に資するのである。(ラハマン1971: 26–27)[50]

自由主義の理念型は自由主義的学説にとって最も特徴的かつ示差的であるもの――ヴェーバーが「本質的傾向」と呼ぶもの――に基づいて一貫した概念を表現しなければならない(1949: 91)。[51]歴史的には、君主制絶対主義が国家こそは社会のエンジンであると強弁し、その国民の宗教的、文化的、とりわけ経済的な生活を監督する必要があると言い張ってきたところで、自由主義ははっきりと対照的な見解を措定した。すなわち、最も望ましい体制とは、私有財産と自発的交換に基づく社会秩序の全体、つまり市民社会が全般的に運営するものである、と。[52]少なくとも一世紀半にわたって、社会と国家が敵対関係にあり、国家権力が成長するとき社会権力が低減するという観念は、自由主義者の中でも最も「教条的」で「純理的」で「妥協しない」と認識された――あるいは非難された――人々に典型的であった。[53]

このことを把握してきた評論家の一人がラルフ・ダーレンドルフであり、彼はジェームズ・ブキャナンとミルトン・フリードマンとロバート・ノージックのような学者が「国家に抗する社会、計画と規制に抗する市場、横暴な権威と集団に抗する個人の権利を断言する本来の〔自由主義的な〕プロジェクト」へ先祖帰りしてきたと記す。

ダーレンドルフが意味ありげに言い加えるには、「自由主義はアナキズムではないが、アナキズムは或る点で自由主義の過激派である」(1987: 174)。[54]

自由主義の理念型の構成は自由主義的な「国家に抗する社会」の肯定を象徴する表現に頼るものであろう。[55]最も簡明な言葉は重農主義的〔自然統治的〕なスローガンであり、いわく、「レッセフェール、レッセパッセ、ルモンド・ヴァドルイメム」(「為すにまかせよ、成るにまかせよ、この世は自ずと立ちゆける」)。もう一つのものはアダム・スミスからの

国家を最低の野蛮から最高の贅沢へ至らしめるためには、平和、低税率、耐え忍びうる正義執行の他にはほとんど何も必要ではなく、残りはすべて物事の自然な成り行きによってもたらされる。この自然な成り行きを妨げ、物事に他の道筋を強いるか、社会の進歩を滞らせようと努める政府はすべて不自然であり、これらを支持することは圧政的かつ暴君的であらざるをえない。(スチュアート1996: 68から引用)

あるいはトマス・ペインの言明であり、いわく

人類を支配する秩序の大部分は政府の結果ではない。その起源は社会の原理と自然な人間の気質にある。それは政府に先行するだろうし、政府の形式的行為が廃止されても存在するだろう。(ペイン1969: 357)

あるいはバンジャマン・コンスタンの助言の含意であり、いわく

正義に忠実なままであれ、これはあらゆる時代のものである。自由を尊重せよ、これがあらゆる良い物を用意する。あなたがいなくても多くの物事が発展するという事実に合意せよ。そして、過去にそれ自体の防御を、未来にそれ自体の達成を任せよ。(コンスタン1957: 1580)

自由主義とは本質的には社会の自己規制の――有益なる自生的秩序を生成する能力の――学説であるから、自生的社会秩序の現象を研究してきた、最も良く発達した社会科学的知識の部門、つまり経済理論に特別な役割がかかる。[56]

この理念型の推敲は十中八九、ジャン=バティスト・セーとアントワーヌ・デスチュ・ド・トラシーおよび彼らの支持者からなるフランス自由主義学派に多くを借りるだろう。ここでは、社会とは本質的に、変わり続ける自発的交換の莫大なネットワークとして受け取られる。政府は「安全の生産」に制限されるが、生産的社会人を搾取するまねを拡張する生来の傾向性をもっている(レイコ1993と本書のエッセー「階級紛争:自由主義理論とマルクス主義理論」)。

このようにして我々は、たとえばアメリカではジェファーソンと後の急進ジェファーソン派の伝統を含み、フランスではバンジャマン・コンスタンとJ=B・セーと産業主義学派および他の『経済学者ジャーナル』著述家を含み、イギリスではプライスとプリーストリーとハーバート・スペンサーおよび十九世紀後半の急進的個人主義者を含み、ドイツでは十八世紀後半の不可侵なる財産権と自由貿易の自然法提唱者、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトとジョン・プリンス=スミスおよび彼の弟子を含み、イタリアではフランチェスコ・フェッラーラと残りのレッセフェール経済学者の学派を含み、オーストリアとアメリカではルートヴィヒ・フォン・ミーゼスと彼の足跡を追ってきた人々を含むような、歴史上の自由主義の主要な並びをうまく同定することができるだろう。この分類学内で、「ニュー」や「モダン」の自由主義が他のあらゆる変種のようにその在り処を見出すだろう。

社会の自己規制の学説に焦点を当てることはもちろんこの学説が真理であることを含意しない。理念型分析は「純粋に論理的な類型の他にはどんな型の完成とも関係ない」(ヴェーバー1949: 98–99、強調は原文ママ)。しまいには自由主義的な世界像が良かれ悪しかれ根本的に間違っていると明らかになることもありえる。そうだとしても、自由主義史の説明はなお興味深いし重要である。

提案された理念型は研究課題を育み導くための要件を満たす。類型からの逸脱は、それらを条件付けた特殊な歴史的および一人格的な環境を決定するために研究される。かくして、ドイツと特にロシアでの他所より強い国家の伝統は、ドイツの事例では軍事強国でしか達成できなかった国民統一の欠乏感で生じた。(一九世紀ドイツ人自由主義者が高い割合で国家役員だったことは見過ごせない。)一つ例をとれば、教育の問題ではイデオローグとリチャード・コブデンのような自由主義者が直面した条件に注意が向けられるだろう。というのも、彼らが賛成した国家の役割は、バスティアとハーバート・スペンサーのような他の人々が反対したものだったからである。

そのような手続きに従うことで、三百年分以上の「次にあれがあった、次にこれがあった」頼みの研究を避けることができるだろう。自由主義のことを、進化し普及しても、なお一人格的な選好と心的な態度の集まりに分解することがなかったし、社会民主主義と区別のつかない政治へと崩壊することがなかったものとして、その特色をはっきりと描き出してくれるだろう。[57]

参考図書

アクトン、Acton, John Emerich Edward Dalberg (1956). “The History of Freedom in Christianity,” in Essays on Freedom and Power, Gertrude Himmelfarb (ed.), New Yo

アンジェル、Angel, Pierre (1961) Eduard Bernstein et l’évolution du socialisme allemand, Paris: Marcel Didier.

アップルバイ、Appleby, Joyce (1978) Economic Thought and Ideology in Seventeenth-Century England, Princeton, N.J.: Princeton University Press.

アップルバイ、Appleby, Joyce (1984) Capitalism and a New Social Order: The Republican Vision of the 1790s, New York: New York University Press.

アルブラスター、Arblaster, Anthony (1984) The Rise and Decline of Western Liberalism, Oxford: Basil Blackwell.

アルブラスター、Arblaster, Anthony (1996) “Liberalism After Communism,” in Meadowcroft (ed.).

アルメンターノ、Armentano, Dominick T. (1982) Antitrust and Monopoly: Anatomy of a Policy Failure, New York: John Wiley and Sons.

アーロン、Aron, Raymond (1970) Main Currents in Sociological Thought, 2, Durkheim, Pareto, Weber, Richard Howard and Helen Weaver (trs.), New York: Doubleday/Anchor.

アシュクラフト、Ashcraft, Richard (1989) “Class, Conflict, and Constitutionalism in J.S. Mill’s Thought,” in Rosenblum (ed.)

エールマー、Aylmer, G. E. (ed.) (1975) The Levellers of the English Revolution, Ithaca, N.Y.: Cornell University Press.

バチュラー、Baechler, Jean, John A. Hall, and Michael Mann (eds.) (1988) Europe and the Rise of Capitalism, Oxford, Basil Blackwell.

バリー、Barry, Norman (1991) “Liberalism,” in Nigel Ashford and Stephen Davies (eds.) A Dictionary of Conservative and Libertarian Thought, London: Routledge.

バリー、Barry, Norman (1996a) “Classical Liberalism in the Age of Post-Communism,” in Charles K. Rowley (ed.), The Political Economy of the Minimal State, Cheltenham, Eng.: Edward Elgar.

バリー、Barry, Norman (1996b) “Economic Liberalism, Ethics, and the Social Market,” in Meadowcroft (ed.).

ベデーシ、Bedeschi, Giuseppe (1990) Storia del pensiero liberale, Bari: Laterza.

バーマン、Berman, Harold J. Berman, (1974) “The Influence of Christianity on the Development of Western Law.” In idem, The Interaction of Law and Religion, 49–76. Nashville/New York: Abingdon Press. 1983.

バーマン、Berman, Harold J. (1983) Law and Revolution: The Formation of the Western Legal Tradition. Cambridge: Harvard University Press.

ベルンシュタイン、Bernstein, Eduard (1909 [1899]) Die Voraussetung des Sozialismus und die Aufgaben der Sozialdemokratie, Stuttgart: J.H.W. Dietz Nachf.

ブリーフス、Briefs, Goetz (1930/31) “Der klassische Liberalismus, ” Archiv für Rechts- und Wirtschaftsphilosophie, 24.

ブルーナー、Brunner, Karl (1987) “The Sociopolitical Vision of Keynes,” in David A. Reese (ed.) The Legacy of Keynes, San Francisco: Harper and Row.

バーク、Burke, T. Patrick (1994) No Harm: Ethical Principles for a Free Market, New York: Paragon House.

カーライルとカーライル、Carlyle, R.W., and A.J. Carlyle (1950), A History of Medieval Political Theory in the West, 6, Political Theory from 1300 to 1600, Edinburgh: Blackwood.

チャドウィック、Chadwick, Owen (1975) The Secularization of the European Mind in the Nineteenth Century, Cambridge, Eng.: Cambridge University Press.

チャフエン、Chafuen, Alejandro A. (1986), Christians for Freedom: Late-Scholastic Economics, San Francisco: Ignatius Press.

コブデンCobden, Richard (1973 [1903]) Political Writings, New York: Garland, 2 vols.

コンスタン、Constant, Benjamin (1957) Oeuvres, Alfred Roulin (ed.), Pleiade, Paris: Gallimard.

コンウェイ、Conway, David (1995) Classical Liberalism: The Unvanquished Ideal, New York: St. Martin’s.

カウリング、Cowling, Maurice (1963) Mill and Liberalism, Cambridge, Eng.: Cambridge University Press.

カウリング、Cowling, Maurice (1990) Mill and Liberalism, 2nd ed., Cambridge, Eng.: Cambridge University Press.

クランストン、Cranston, Maurice (1967a) “Liberalism,” in Paul Edwards (ed.) The Encyclopedia of Philosophy, 4, New York/London: Macmillan/Collier.

クランストン、Cranston, Maurice (1967b) Freedom: A New Analysis, 3rd ed., London: Longmans.

クベッドゥ、Cubeddu, Raimondo (1997) Atlante del liberalismo, Rome: Ideazione.

ダーレンドルフ、Dahrendorf, Ralf (1987) “Liberalism,” in Eatwell, et al. (eds.) 3.

デイヴィス、Davis, R. W. (ed.) (1995) The Origins of Modern Freedom in the West, Stanford, Cal.: Stanford University Press.

ド・ジャセー、de Jasay, Anthony (1991) Choice, Contract, Consent: A Restatement of Liberalism, London: Institute of Economic Affairs.

デンとスチュアートDen Uyl, Douglas J. and Stuart D. Warner (1987) “Liberalism in Hobbes and Spinoza,” Studia Spinozana 3.

デューイ、Dewey, John (1930) Individualism Old and New, New York: Minton, Balch.

ダイシー、Dicey, A. V. (1963 [1914]) Lectures on the Relation between Law and Public Opinion in England during the Nineteenth Century, London: Macmillan.

ディロレンツォ、DiLorenzo, Thomas J. and Jack C. High (1988) “Antitrust and Competition, Historically Considered,” Economic Inquiry, 26 (3) (July).

デーン、Döhn, Lothar (1977) “Liberalismus,” in Franz Neumann (ed.) Politische Theorien und Ideologien: Handbuch, 2nd ed., Baden-Baden: Signal.

ドーウォート、Dorwart, Reinhold August (1971) The Prussian Welfare State Before 1740, Cambridge, Mass.: Harvard University Press.

ダン、Dunn, John (1979) Western Political Theory in the Face of the Future, Cambridge, Eng.: Cambridge University Press.

イートウェル、Eatwell, John, Murray Milgate, and Peter Newman (eds.) (1987) The New Palgrave. A Dictionary of Economics, London: Macmillan, 4 vols.

エクレシャル、Robert (1986) British Liberalism. Liberal Thought from the 1640s to 1980s, London: Longman.

フリーデン、Freeden, Michael (1996) “The Family of Liberalisms: A Morphological Analysis,” in Meadowcroft (ed.).

フリードマン、Friedman, Milton (1967) Capitalism and Freedom, Chicago: University of Chicago Press.

ゲルナー、Gellner, Ernest and César Cansino (eds.) (1996) Liberalism in Modern Times: Essays in Honor of José G. Merquior, Budapest: Central European University Press.

ガーヴェッツ、Girvetz, Harry K. (1963) The Evolution of Liberalism, New York: Collier.

グディン、Goodin, Robert E. and Philip Pettit (eds.) (1993) A Companion to Contemporary Political Philosophy, Oxford: Blackwell.

ゴードン、Gordon, David (1998) “More Liberal than Thou,” Mises Review 4 (1) (Spring).

ゴットフリート、Gottfried, Paul Edward (1999) After Liberalism: Mass Democracy in the Managerial State, Princeton, N.J.: Princeton University Press.

ゴットフリート、Gottfried, Paul Edward (2002) Multiculturalism and the Politics of Guilt: Toward a Secular Theocracy, Columbia, Mo.: University of Missouri Press.

グレイ、Gray, John (1986) Liberalism, Minneapolis: University of Minnesota Press.

グリーンリーフ、Greenleaf, W.H. (1983) The British Political Tradition, 2, The Ideological Heritage, London: Methuen.

ハーバーマン、Habermann, Gerd (1997) Der Wohlfahrtsstaat: Geschichte eines Irrwegs, 2nd ed., Berlin: Ullstein.

ホール、Hall, John A. (1987) Liberalism: Politics, Ideology, and the Market, Chapel Hill, N.C.: University of North Carolina Press.

ハンバーガー、Hamburger, Joseph (1999) John Stuart Mill on Liberty and Social Control, Princeton, N.J.: Princeton University Press.

ハーディン、Hardin, Russell (1993) “Liberalism: Political and Economic,” Social Philosophy and Policy, 10 (2) (Summer).

ハイエク、Hayek, F.A. (1954) “History and Politics,” in idem (ed.) Capitalism and the Historians, Chicago: University of Chicago Press.

ハイエク、Hayek, F.A. (1960) The Constitution of Liberty, Chicago: University of Chicago Press.

ヘクマン、Hekman, Susan J. (1983) Weber, the Ideal Type, and Contemporary Social Theory, Notre Dame, Ind.: University of Notre Dame Press.

ヒンメルファーブ、Himmelfarb, Gertrude (1990) On Liberty and Liberalism: The Case of John Stuart Mill, San Francisco: Institute for Contemporary Studies.

ハーシュマン、Hirschman, Albert O. (1991) The Rhetoric of Reaction: Perversity, Futility, Jeopardy, Cambridge, Mass.: Harvard University Press.

ホブハウス、Hobhouse, L.T. (1964 [1911]) Liberalism, Oxford: Oxford University Press.

ホームズ、Holmes, Stephen (1988) “Liberal Guilt: Some Theoretical Origins of the Welfare State,” in Moon (ed.)

ホップ、Hoppe, Hans-Hermann (2001) Democracy: The God that Failed The Economics and Politics of Monarchy, Democracy, and Natural Order, New Brunswick, N.J.: Transaction.

フンボルト、Humboldt, Wilhelm von (1968 [1854]) The Limits of State Action, J.W. Burrow (ed.), J.W. Burrow and Joseph Coulthard (trs.), Cambridge, Eng.: Cambridge University Press.

ヒューム、Hume, David (1985 [1777]) Essays Moral, Political, and Literary, Eugene F. Miller (ed.), Indianapolis, Ind.: Liberty Classics.

ハット、Hutt, W. H. (1954) The Theory of Collective Bargaining, Glencoe, Ill.: Free Press.

ジャグァリベ、Jaguaribe, Helio (1996) “Merquior and Liberalism,” in Gellner and Cansino (eds.)

ジョーンズ、Jones, E.L. (1987) The European Miracle. Environments, Economies, and Geopolitics in the History of Europe and Asia, 2nd ed., Cambridge, Eng.: Cambridge University Press.

カールソン、Karlson, Nils (1993) The State of State: An Inquiry Concerning the Role of Invisible Hands in Politics and Civil Society, Uppsala: University of Uppsala, Dept. of Government and Political Science.

カーズナー、Kirzner, Israel M. (1976) The Economic Point of View. An Essay in the History of Economic Thought 2nd ed., Kansas City, Mo.: Sheed and Ward.

クライン=ハッティンゲン、Klein-Hattingen, Oskar (1912) Geschichte des deutschen Liberalismus, 2, Von 1871 bis zur Gegenwart, Berlin-Schöneberg: Fortschritt (Buchverlag der “Hilfe”).

コック、Koch, Rainer (1986) “Liberalismus und soziale Frage im 19. Jahrhundert, in Sozialer Liberalismus,” Karl Holl, Günter Trautmann, and Hans Vorländer (eds.), Göttingen: Vandenhoeck and Ruprecht.

クリーガー、Krieger, Leonard (1963) “The Idea of the Welfare State in Europe and the United States,” Journal of the History of Ideas 24 (4) (October-December).

クーニッシュ、Kunisch, Johannes (1986) Absolutismus, Göttingen: Vandenhoeck and Ruprecht.

ラハマン、Lachmann, Ludwig (1971) The Legacy of Max Weber. Three Essays, Berkeley, Cal.: Glendessary Press.

ルークス、Lukes, Steven (1973) Individualism, New York: Harper and Row.

マナン、Manent, Pierre (1987) Histoire intellectuelle du libéralisme. Dix lecons, Paris: Calmann-Lévy.

マニング、Manning, David (1976) Liberalism, New York: St. Martin’s Press. Meadowcroft, James (ed.) (1996a) The Liberal Political Tradition: Contemporary Reappraisals, Cheltenham, Eng.: Edward Elgar.

メドウクロフト、Meadowcroft, James (1996b) “Introduction,” in idem (ed.).

メルキオール、Merquior, José G. (1991) Liberalism Old and New, Boston: Twayne.

メルキオール、Merquior, José G. (1996) “A Panoramic View of the Renaissance of Liberalisms,” in Gellner and Cansino (eds.)

ミル、Mill, John Stuart (1963 [1848]) Principles of Political Economy with Some of Their Applications to Social Philosophy, Collected Works, 2, J.M. Robson (ed.), Toronto: University of Toronto Press.

ミル、Mill, John Stuart (1977 [1859]) On Liberty, in Essays on Politics and Society, Collected Works, 18, J.M. Robson (ed.), Toronto: University of Toronto Press.

ミーゼス、Mises, Ludwig von (1933) Grundprobleme der Nationalökonomie: Untersuchungen über Verfahren, Aufgaben und Inhalt der Wirtschafts- und Gesellschaftslehre, Jena: Gustav Fischer.

ミーゼス、Mises, Ludwig von (1949) Human Action: A Treatise on Economics, New Haven, Conn.: Yale University Press.

ミーゼス、Mises, Ludwig von (1976 [1927]) Liberalism: A Socio-Economic Exposition, Ralph Raico (tr.) 2nd ed., Kansas City, Mo.: Sheed, Andrews, and McMeel.

ムーン、Moon, J. Donald (ed.) (1988) Responsibility, Rights, and Welfare: The Theory of the Welfare State, Boulder, Colo.: Westview.

マイアーズ、Myers, A.R. (1975) Parliaments and Estates in Europe to 1789, New York: Harcourt, Brace, Jovanovich.

ペイン、Paine, Thomas (1969 [1792]) The Rights of Man, in The Complete Works, Philip S. Foner (ed.), New York: Citadel Press.

パターソン、Patterson, Annabel (1997) Early Modern Liberalism, Cambridge, Eng.: Cambridge University Press.

ポール、Paul, Ellen Frankel (1979) Moral Revolution and Economic Science: The Demise of Laissez-Faire in Nineteenth Century British Political Economy, Westport, Conn.: Greenwood Press.

ラフ、Raeff, Marc (1994) “The Well-Ordered Police State and the Development of Modernity in Seventeenth and Eighteenth Century Europe: An Attempt at a Comparative Approach,” in idem, Political Ideas and Institutions in Imperial Russia, Boulder, Colo.: Westview.

レーダー、Raeder, Linda C. (2002) John Stuart Mill and the Religion of Humanity, Columbia, Mo., University of Missouri Press.

レイコ、Raico, Ralph (1989) Review of Arblaster’s The Rise and Decline of Western Liberalism, Reason Papers, No. 14 (Spring).

Raico, Ralph (1993) “Classical Liberal Roots of the Marxist Doctrine of Classes,” in Requiem for Marx, Yuri N. Maltsev (ed.), Auburn, Ala.: Ludwig von Mises Institute.

レイコ、Raico, Ralph (1997) “Individualism,” in The Blackwell Encyclopedic Dictionary of Business Ethics, Patricia H. Werhane and R. Edward Freeman (eds.), Oxford: Blackwell.

レイコ、Raico, Ralph (1999) Die Partei der Freiheit: Studien zur Geschichte des deutschen Liberalismus, Jörg Guido Hülsmann (tr.), Stuttgart: Lucius and Lucius.

ラインハート、Reinhard, Wolfgang (1999) Geschichte der Staatsgewalt: Eine vergleichende Verfassungsgeschichte Europas von den Anfängen bis zur Gegenwart, Munich: Beck.

レイノルド、Reynolds, Morgan O. (1984) Power and Privilege: Labor Unions in America, New York: Universe.

ローゼンバーグ、Rosenberg, Nathan and L.E. Birdzell, Jr. (1986), How the West Grew Rich. The Economic Transformation of the Industrial World, New York: Basic Books.

ローゼンブラム、Rosenblum, Nancy L. (ed.) (1989) Liberalism and the Moral Life, Cambridge, Mass.: Harvard University Press.

ロスバード、Rothbard, Murray N. (1970) Power and Market: Government and the Economy, Menlo Park, Cal.: Institute for Humane Studies.

ロスバード、Rothbard, Murray N. (1995) An Austrian Perspective on the History of Economic Thought, 2 vols., Aldershot, Eng.: Edward Elgar.

ルッジェーロ、Ruggiero, Guido de (1981 [1927]) The History of European Liberalism, R.G. Collingwood (tr.), Gloucester, Mass.: Peter Smith.

ライアン、Ryan, Alan (1993) “Liberalism,” in Goodin and Pettit (eds.).

サドリ、Sadri, Ahmad (1992) Max Weber’s Sociology of Intellectuals, New York: Oxford University Press.

シャピロ、Schapiro, J. Salwyn (1958) Liberalism: Its Meaning and History, Princeton, N.J.: Van Nostrand.

シャッツ、Schatz, Albert (1907) L’Individualisme économique et social. Ses origines, son évolution, ses formes contemporaines, Paris: Armand Colin.

シフマン、Schiffman, Joseph (1958) “Mutual Indebtedness: Unpublished Letters of Edward Bellamy to William Dean Howells,” Harvard Library Bulletin 12 (3) (Autumn): 363–74.

シルス、Shils, Edward (1989) “Liberalism: Collectivist and Conservative,” Chronicles 13 (7).

スキデルスキー、Skidelsky, Robert (1995) The Road from Serfdom: The Economic and Political Consequences of the End of Communism, London: Allen Lane/ Penguin Press.

スミス、Smith, David G. (1968) “Liberalism,” International Encyclopedia of the Social Sciences, David L. Sills (ed.), New York: Macmillan/Free Press.

スペンサー、Spencer, Herbert (1981 [1884]) “The New Toryism,” in idem, The Man vs. the State, Indianapolis, Ind.: Liberty Press.

スピッツ、Spitz, David (1982) The Real World of Liberalism, Chicago: University of Chicago Press.

スチュアート、Stewart, Dugald (1966 [1793]) Biographical Memoir of Adam Smith, New York: Augustus M. Kelley.

スチュールマン、Stuurman, Siep (1994) “Le libéralisme comme invention historique,” in idem (ed.) Les libéralismes, la theorie politique et l’histoire. Amsterdam: Amsterdam University Press.

サース、Szasz, Thomas S. (1973) The Second Sin, Garden City, N.Y.: Anchor/ Doubleday.

ヴォルズ、Valls, Andrew (1999) “Self-Development and the Liberal State: The Cases of John Stuart Mill and Wilhelm von Humboldt,” Review of Politics 61 (2) (Spring).

フィアハウス、Vierhaus, Rudolf (1982) “Liberalismus,” in Otto Brunner, et al. (eds.) Geschichtliche Grundbegriffe: Historisches Lexikon zur politischsozialen Sprache in Deutschland 3, Stuttgart: Klett-Cotta.

ヴィンセント、Vincent, Andrew (1988) “Divided Liberalisms?” History of Political Thought 9 (1) (Spring).

ヴァイナー、Viner, Jacob (1978) Religious Thought and Economic Society, Jacques Melitz and Donald Winch (eds). Durham, N.C.: Duke University Press.

ヴァドル、Wadl, Wilhelm (1987) Liberalismus und Soziale Frage in Österreich. Deutschliberale Reaktionen und Einflüsse auf die frühe österreichische Arbeiterbewegung (1867 – 1879), Vienna: Österreichische Akademie der Wissenschaften.

ワリゴルスキー、Waligorski, Conrad (1981) Introduction to Conrad Waligorski and Thomas Hone (eds.) Anglo-American Liberalism: Readings in Normative Political Economy, Chicago: Nelson-Hall.

ヴェーバー、Weber, Max (1949) The Methodology of the Social Sciences, Edward A. Shils and Henry A. Finch (trs. and eds.), Glencoe, Ill.: Free Press.

ヴェーデ、Weede, Erich (1989) “Ideen, Ideologie, und politische Kultur des Westens,” Zeitschrift für Politik 36 (1) (March).

ヴァーナー、Werner, Karl Ferdinand (1988) “Political and Social Structures of the West, 300–1300,” in Jean Baechler, et al. (eds).

ウォルフ、Wolfe, Don M. (ed. ) (1944) Leveller Manifestoes of the Puritan Revolution, New York: Thomas Nelson and Sons.

ツィッテルマン、Zittelmann, Rainer (1990)

Hitler: Selbstverständnis eines Revolutionärs

, Stuttgart: Klett-Cotta.

[1] イタリア版の原典は1925年に始まる。F・A・ハイエクは古臭くて超悲観的な産業革命の説明を批判するためにこれを引用するが、真正自由主義陣営外部に対する彼独特の気前の良さでこれを「ルッジェーロの正当にも尊敬された作品」と呼ぶ(1954: 11)。

[2] あまりにも多くの著述家の特徴的変遷に面して、コンラード・ワリゴルスキー1981: 2はどんな「厳格で教条的な〔すなわち明晰で一貫した〕自由主義の定義もそれ自体非自由主義的であるだろうから」控えるという。

[3] ラルフ・ダーレンドルフが説得的に述べたとおり、1987: 174いわく、「自由党は、単に名前を残したまま政策を社民党(カナダ)とも保守党(オーストリア)とも見分けがつかないものへと変えてしまう場合を除けば、卑しむべき地位へと衰退した」。

[4] この事情は高く尊敬されるドイツ人「自由主義者」のヴァルター・ラーテナウとも似ている。レイコ1999: 43–44を見よ。

[5] しかしながら、ヒトラーが加担した経済の国家指導と福祉国家の拡張に関するいくつかの見解と政策は、彼が彼の模範たるカール・ルエーガーと同様に、少なくとも社会福祉主義の歴史に位置すると認められなければならないかもしれない。ツィッテルマン1990: 116ff., 145, 470, 489ffを見よ。

[6] 同様に、ローター・デーン1977: 11は、「自由主義とは何かについての普遍的な、包括的な概念的決定は失敗してきた」と主張した後に、無造作にも、自由主義的と普通見なされる理論と党派の「非自由主義的または反自由主義的な要素」を語り続ける。スチュールマン1994: 32は、自由主義が「歴史的発明」にすぎず、それが統一された全体を現し、よく定義された『歴史的個性』を現す一八四八年の革命後まで、一貫した哲学をもっていなかったと断言する。しかし一八四八年以前と以後のどちらにおいても、自由主義者と普通見なされる思想家、たとえばジェレミ・ベンタムとバンジャマン・コンスタン、ジョン・スチュアート・ミルとハーバート・スペンサーの間には歴史的および政治的な相違があったことは事実である。

[7] J・サルウィン・シャピロ1958: 88–90が自由主義の「永続する価値観」をカタログ化にふれたとき、彼は私有財産も自由貿易も含めなかった。この学説を特徴付けする際に今日の多くの著述家がどうやって私有財産の討論を省くかは注目すべきである。ここにあるのは世界史を形作ってきたイデオロギーなのだが、それはどうやら、人間的存在が労働し、生存し、投資し、ときに繁栄する条件について特に言うべきことがないらしい。

[8] ブルーナー1987: 25–26参照、彼が説得的に論じるには、アメリカでの「自由主義的」と「保守主義的」の用語の標準的な扱いは「ほぼ欺きの情報の行使である。望ましい社会に関する代替的展望の特徴的特色は、何よりも特に支配的な財産権様式を含む社会的および政治的な制度の観点において、もっと有益にアプローチされる」。ブルーナーは、社会主義者と社会民主主義者と自由主義者と保守主義者の立場を区別する。「社会民主主義的な着想は本質的には、拡張された包括的な福祉国家に集中する……。私有財産権はなおも生産手段にさえ残っている。しかしこれらの権利は典型的には多様な次元で制限される」。自由主義的着想は「厳格な立憲的制限によって、他の三つの立場とは根本的に異なる」。

[9] これらの思想家が強く現状に入れ込んで急進的変化を忌み嫌っていることは到底ジャグァリベが言わんとするところではありえないから、その結論は、この運動は彼の見解では現代史の推定目標たる普遍的福祉国家を拒絶するから保守的すぎる、ということであるに違いない。

[10] フリードマンの立場を述べる際のホールの大失態は、自由市場派の学者の観念を扱う際の多くの著述家が呈する嗜みなさの典型であるから、言及される価値がある。ホールによると、フリードマンは「自由と資本主義がつねに二人三脚である」と考えている。しかし、ホールが引用する作品でフリードマンが明示的に述べるとおり(フリードマン1962: 10)、「歴史が教えてくれるのは、資本主義が政治的自由の必要条件であるということだけである。それは十分条件ではないのである。……このように、根本的に資本主義的である経済体制と、自由でない政治体制が共存することは、明らかに可能である」。ゲルトルーデ・ヒンメルファーブ1990: 324nは、フリードマンとハイエクが自分たちを本物の自由主義者と称するとき、彼らに保守主義者とレッテル張りする反対者より「もっと首尾一貫している」と認める。にもかかわらず、彼女は「社会的現実の反映として、現行の用語法が尊重されなければならない」と考える。しかし現行の用語法が政治的戦略の産物であり、それ自体が概念的な支離滅裂を生み出すとしたらどうするんだ? この人騙しの用語法の存ずる「社会的現実」とは何のことだ?

[11] 呆然とさせるような混乱がかくも多い文献においてさえ、メルキオールの混乱への寄与は抜きん出ている。彼は「福祉国家の解体、私兵団の採用、私的通貨の使用すら要求することも躊躇わない」ような「最小国家狂信者」を非難する。最小国家提唱者への私兵支持者の包含(普通はアナキストや無政府資本主義者と称される、最小国家信者を論理的に排除する範疇)と、これらの立場がすべて自明のごとく馬鹿げているという含意に注目せよ。メルキオールが申し立て上ではノルベルト・ボッビオに従ってさらに論じるには、民主主義は「自由主義の帰結か少なくとも拡張であり」福祉国家は「政治的市場ではっきりと表明された大衆的需要」の産物であるから、福祉国家は自由主義の産物であるらしい。しかしこれは、被害者なき犯罪から軍国主義と帝国主義的征服戦争まで、どんな民主的過程によって生成され広く支持された政策も、自由主義的学説の部分と見なされなければならないことを意味するだろう。ハイエクは「コンピューターがもっとうまくやれる」から市場を「資源分配の最善手段」(1996: 11, 16–17)とは見なしていなかった、というメルキオールの見解にはコメントなど要るまい。

[12] これはL・T・ホブハウス(1964: 88–109、またグリーンリーフ1983: 162–68も見よ)が選んだ頼みの綱であり、彼は「経済自由主義」の下に、国家の土地所有および公共事業と主要産業の所有と営業、高い累進的な所得税と富創造の「社会的要素」の収用、万人に対する「生存賃金」と広範な社会保障制度、「社会サービスと社会的利益の均等化の実施を含める。ホブハウスはこれが経済自由主義と見なされるべき理由を指摘しない。これは明らかに、これらの政策は彼の時代のイギリス労働党に制定されるか、その更なる急進派に目指されるに十分であった。このプログラムはホブハウスが好んだ「自由党・労働党」(リブ・ラブ)政治同盟に基礎たりうるものを提供もした。

[13] おそらく、フリーデンが考慮すべき小さな問題点は彼の自由主義の定義が翻訳できないことである。たとえばフランスでは、自由主義者“libéral”はいまだに自由市場経済の信者を意味しており、超自由主義者“ultralibéral”はフレデリック・バスティアなどの「ドクトリネール」や「狂信的」な自由市場信奉者を意味する。

[14] この興味深く物議をかもす学者による、この主題への情け容赦ない攻撃についての書評として、レイコ1989を見よ。

[15] ポール・ゴットフリートの所見(2002: 26)参照、「制限された経済的自由は、社会実験に専念する行政国家と共存することができる。ガチョウの資本家がこの過程で殺されなければ、行政機関は膨張的であることも財政的に安定であることもできるのである」。

[16] ミルを模範的な自由主義思想家に持ち上げることは、また自由主義に存ずる(より狭い意味での)哲学的基礎の研究を強化する傾向があった。この基礎はしばしば経験主義的認識論と功利主義的倫理学を含むように取られている。しかし自由主義史内にはこれらと衝突するが信用に足る哲学的伝統――アリストテレス主義とトマス主義からカント主義など――があまりにも多く共存している。ベデーシ1990: 1–2参照。

[17] たとえヴィルヘルム・フォン・フンボルトが『自由論』の主たる発想源であるとミルが言っており、そのエピグラフに『国家活動の限界』から一節引いているとしても、真正自由主義からのミルの逸脱はフンボルトとの違いから出ている。ヴォルズを見よ、とはいえ彼はミルをもっと現実主義的な自由主義者と見なしているが。

[18] ヘンリー・シジウィックは『経済学原理』後期の版で、ミルが「彼の究極的な社会改良の理念において完全に社会主義的」であったと結論した。リチャード・コブデンが考えるには、未発達な産業の保護に賛成するミルの論法は、「他の著述では良い物事を生み出してきたかもしれないが、そのどれより由々しい」(ダイシー1963: 429とn. 2から引用)。

[19] ライアンは「には及ばない」という修正を省くことでミルの言明をわずかに歪めている。ミルの成熟した見解に関しては、有名な暖かい共感者によるまとめが公平であるように思われる。「彼は今そのために戦う用意ができているような、人が『お国のために掘ったり編んだりする』ことを学び、産業の余剰生産物が生産者間に分配されるような協同組合的社会組織を心待ちにするようになった。中年時代、彼にとっては自発的協同組合がこの目的のための最善の手段であるように見えたが、末期の直前には、彼はこの見解の変化が彼を社会主義者に位置づけることを認識していた」ホブハウス1964: 62。マレー・ロスバードがミルのことを「ぼやけ頭のたわごと人間」と異端的に言及するとき念頭においていたものが分かる(1995c, 2: 277)。

[20] デイヴィッド・マニング1976: 93が無条件的に断言するには、「十九世紀の中葉から、自由主義は国際的自由貿易と同様に国際的民族自決の支持に硬く関与していた」。予想どおり、彼の証拠はミルから来ている。マニングの断言は反干渉主義的マンチェスター学派(と他の多くの学派)を無視しており、当学派の外交政策思想への影響は二十世紀にも及んでいた。

[21] 専門的哲学者の愛しの「自治」の理念に対するローレン・ロムスキーの鋭い批判を見よ。たとえば、「自治の擁護は実績への軽蔑を伴うのが典型である……。特殊な家族、民族、宗教に生まれた人は、それによって彼の選択肢を制限する碇に繋がれてはおらず、むしろそれらを真似て価値ある人生を送るための見通しを受け継ぐ受益者となっている」。

[22] レーダー2002: 324–35はヘンリー・リーヴによるミルの自伝の長いレビューをうまく利用する。リーヴはミルのほぼ全人生に馴染み深く、『エディンバーグ・レビュー』の編集者にして、トクヴィルの『アメリカの民主政治』の翻訳者であった。リーヴによると、ミルの周知の奇妙で孤立的な養育および彼とハリエット・テイラーの後の全般的な社交忌避の結果の一つは、ミルがイギリス人の人生と社会に「完全に無知」になったことであった。リーヴが言い加えるには、「ミルはちょっとでも社会と称していいようなところでは決して暮らさなかった……。晩年には、うっとりした心酔者に取り囲まれて、何か預言者のような生き方をしていた……。彼にとっては人間自体が現実というより抽象であった。彼は世界のことを何も知らなかった」。

[23] この用語はエドワード・シルス1989: 12–14によって「集団主義的」自由主義者について用いられた。

[24] バークの説得的な議論1994: 28–30の、「物理的暴力と他の種類の圧力の間の境界線をぼやけさせる」ミルの傾向を批判するところを見よ。また、ノーマン・バリー(1996a: 50)の、彼が「ジョン・スチュアート・ミルに勧められる無思慮で意図的な種類の反体制主義」に言及するところも見よ、いわく、「無制約な条件の下では諸個人は彼ら自身の生き方の創造者である。それがはたして彼らを完全に自治的なエージェントにするのかどうかはともかく」。

[25] ルークス1973: 154–55の、「自然環境と社会環境の質と自由を高めるためであれば、それらを形成し支配するべくかつてより活発な役割を引き受ける」ことが政府に必要だと記すところを見よ。真の自由が高められなければならないという領域の一つは宗教である。というのもルークスが主張するには、宗教的信念は「個人が彼らの自己と状況の自覚と彼らの人間的な力を完全に発達させることとは両立しない」からである。彼は「人々の幻想的幸福としての宗教の打倒は彼らの現実的幸福のための要求である」などというマルクスに賛成する(強調はマルクス)。ルークスは、そのような社会工学を引き受けるべき政府は「民主制かつ代議制」でなければならない、と言い張る。ここでルークスは社会工学に際しての前任者たるロベスピエールとレーニンなどにとっての主な障害だと証明されたものにぶつかっている。真の民主制かつ代議制の政府は、この政府から退去する人民を変化させるような権限を得られるのか?

[26] これはデイヴィッド・G・スミスの『社会科学国際百科事典』での自由主義への参入からの引用である。このような重大なトピックがスミスに残されなければならなかったことには同情する。彼の論じ方はしばしば絶望的なほど混乱している。たとえば、彼はルートヴィヒ・フォン・ミーゼスが「自然、社会、集団、経済的権力のなすがままに個人」を放っておくほど「過激」すぎるから自由主義者と見なされることはありえないと主張するが、J=B・セーとバスティアのことは「自由主義的経済学者」と呼称する(スミス1968: 277, 280)。

[27] ピエール・アンジェル1961、特に7, 9, 287, 332, 382–87, 411–15, 420–33参照。ベルンシュタインはマルクス主義の中心的経済概念を国家所有権と同様に拒絶し、資本主義的秩序の不明確な継続的存在に甘んじていた。しかしながら彼が言い張るには、「社会的」立法を発展させることで「民主化された」資本主義に進化しなければならない(彼はワイマールの「社会国家」を良いスタートだと見なしていた)。ベルンシュタインの修正主義は、共産主義者として知られるようになった人々を除き、ドイツ社会主義とあらゆる実践的目的のために西洋社会主義をまるごと吸収することによって終わった。

[28] またルーカス1973: 12の、個人主義的な目的をもっと現代社会に相応しい手段で実現するとき「社会主義は個人主義の論理的完成である」と断言するジャン・ジョールを引用するところを見よ。ルーカスは「個人主義の価値を実現する唯一の方法は人道的な形態の社会主義によることである」と断定しつつ、ジョールに同意する。我々は彼が少なくとも(この文脈では政治的および経済的な自由主義に相当する)個人主義と社会主義の分析的区別を保ったことに感謝しなければならない。

[29] R・W・デイヴィス(1995: vii–viii)参照、彼の優れたシリーズ『現代的自由の形成』の序文より、「我々は自由を市民的および政治的な自由という伝統的で制限的な意味で用いる――宗教の自由、言論と集会の自由、人格と財産に対する恣意的で気まぐれな権威からの個人の自由、財とサービスを生産し交換する自由、そして政治過程に参加する自由……」。ワシントン大学「自由の歴史センター」の所長であり、当シリーズのスポンサーであるデイヴィスは、自由のこの現代的観念が「フランクリン・ルーズベルトの四つの自由の「欠乏からの自由と恐怖からの自由の無限の要求」とは鋭く区別されなければならないと言い加える。

[30] 後年、ルーズベルトの「ブレーントラスト」なるレクスフォード・タグウェルは、『ニュー・レパブリック』に「我々のうちの自由主義者のソビエト新ロシアへの関心は、広く通俗的な『計画』への関心を生み出してきた」と記した。ゴットフリート1999: 66から引用。

[31] ゴットフリート、同13参照、「デューイが彼の提唱した社会改革を『自由主義的』と特徴付けようと決意したとき、彼は『進歩的』『企業的』『有機的』ではすでに実験済みだった」。

[32] クランストン(1967b: 7–8)の、「アクトン卿は人類史を自由への闘争の観点で記すことを提案した……。アクトンが『自由』で言わんとしていたことは、自然の制約からの自由、病気と飢餓と危険と無知と迷信からの自由であったように思われる」という不条理な言明を行うところを見よ。これは、クランストンが進歩的自由論と称する、福祉国家で絶頂を迎えるものである。

[33] エレン・ポールは、「公的な施し物の受取人にそのような制限がなければ、将来の扶養人口は社会の資力を食いつぶすだろう」というミルの見解を言い加える。

[34] 税資の軍隊と警察と裁判の支給が福祉主義への自由主義的譲歩であるというホームズの議論は、なお説得力がないとはいえ、もっと興味深い。可能な論駁は二つある。第一に、古典的自由主義者が実際に支離滅裂であることと、徹底的な自由主義が結局は無政府資本主義に終わること。第二に(伝統的な自由主義思想に近しくは)、社会(軍隊と警察と裁判のシステムをもつ国家)の存続に不可欠であると想定される機構への税資と「恵まれない人々」への無制限な手当への税資には質的相違があること。

[35] クリーガー1963: 557参照、彼は重商主義が「共通して福祉国家に結びつく三種類の活動を唱道する。というのは、経済的強者の規制と、経済的弱者の支持と指導と、私的イニシアチブが欠けているところでの国家自身の事業である……究極的な動機が何であれ、労働人口層の物質的福利が重商主義的為政者の恒常的関心であった」と(好意的に)記す。

[36] ゲーツ・ブリーフス1930/31: 94–95参照。ブリーフスによれば、自由主義は「経済と社会を行政機関の一支局と見なし、そのように扱おうとする」重商主義的な試みに対する反動として生じた。「この立場に反対する自由主義のテーゼはこうだ。国家に経済的任務はない。社会的任務もない〔民主的な自由と財産の保護と国外の敵からの防衛を別とすれば〕……。このように、経済と社会は国家に形成され構成される全体性からは区別された。この世は自ずと立ちゆくのである……」。

[37] これはもちろん現代の社会保障制度の最終結果であった。

[38] ハーシュマンの『反動のレトリック』(1991: 131–32)は多くの誤りがあるにせよ、現代福祉国家に存ずる自由主義的な伝統と価値観の間の「緊張」を指摘した功績がある。ハーシュマンが書き留めるには、「おそらく、強い自由主義的伝統による顕著な係累がなかったビスマルクのドイツによって社会福祉政策が創始された基本的な理由はこれ〔緊張〕である。」。

[39] モーリス・コーリング(1990)は彼の一九六三年の作品の第二番の導入で、ジョン・スチュアート・ミルが、好戦的環境保護主義者と急進的フェミニズムを含む今日の「公民的および官僚的な美徳の党派」と連動していることを示唆した。

[40] ラインハートは、「大衆主権という虚構による正統化は、社会権力が社会自体に入るよう見せかけて、国家権力が社会に侵入することを許した」と言い加える。ラインハートの威厳ある国家権力史の絶頂たる、福祉国家と全体主義国家の類似点(458–67)に関する分析全体は非常に啓蒙的である。

[41] ピエール・マナンほど造詣が深い学者でさえ、自由主義は「実践される前に思惟され決意された」し、「意識的であり『構成された』プロジェクトの様相を呈している」、と示唆する(1987: 8–11、強調は原文ママ)。アメリカ建国者のモンテスキューへの強い信頼に関する彼の強調は、イギリスと植民地の法的および政治的な伝統、ついでそれらが発達した独特の社会に条件付けられたアメリカ立憲主義といった他の源泉を無視している。

[42] 数年前には、古典的自由主義が上り調子の自分勝手なブルジョワジーのイデオロギーとして軽蔑的に却下されることは今よりずっとありふれていた。ハリー・K・ガーヴェッツ(1963: 24, 60)によると、古典的自由主義のプログラムは「貿易商人と製造業者の欲望と野望」によって「大いに決定されていた」。ガーヴェッツがハロルド・ラスキに倣ってアーサー・ヤングを引用するには、「下層階級が貧困に引き止められねばならず、彼らが決して勤勉にはならないことは、白痴以外の全員が知っている」。アダム・スミスやコンドルセなどよりもアーサー・ヤングを十八世紀自由主義思想の代表者ととることは、失格事由に相当するような純然たる無知か悪意に帰せられなければならないほど奇妙であり、他人の慈悲深さの如何に依存している。

[43] マレー・ロスバードの判断1995c, 1: 313参照、レヴェラーズは「世界初の自意識的にリバタリアンな運動であった……経済はほとんどレヴェラーズの主な焦点ではなかったけれども、彼らの自由市場経済の信奉は彼らの自由と私有財産権の強調からの単純な派生であった」。

[44] パターソン1997: 25–26参照、「寛容の必要性に関するロックの理解はジョン・ミルトンのそれより広く深かった……。そして一七七六年、トマス・ジェファーソンがバージニア教会廃止に関連して演説の用意をすべく座ったとき、寛容論を提示するためロックの『寛容書簡』を踏み石に使った。ジェファーソンのノートは簡潔に論理の飛躍を記録している。『(彼〔ロック〕自身が、寛容の行為を枠取りする議会のことを語って)ここまで来たのは素晴らしいことでしたが、我々は彼が切り上げたところを超えてゆくかもしれません』」。

[45] ヒューム1985: 604–05参照(強調は原文ママ)、「人類の経験が増加するにつれて、人民とは描写されてきたような危険な化け物ではないということもまた分かってきた。……合衆国が例示する以前は、寛容は良い統治と両立しないと思われていたし、幾つかの宗派が一緒に仲良くやっていくこととと、わけても、共通の国土でお互いに愛着をもつことは不可能と考えられていた。イギリスが似たような市民的自由を例示した……」。

[46] ハーディン1993: 121参照、「……多かれ少なかれ経済自由主義が培われた。それは予期よりは回顧によって分析され理解された。それは党派や知的アジェンダなしで生まれた。バーナード・マンデヴィルとアダム・スミスおよびその他の人々がこれを分析し始めた時から、彼らは自分たちの社会の特徴を分析していたのである。彼らがプログラムをもっていたとすれば、それは国家後援の独占と保護の要素を潰すための政治的実践の改革のためのプログラムであった」。ハーディンはこれを政治的自由主義の「発明」と対照する。

[47] ノーマン・バリー1991: 160参照、「自由主義は十八世紀ヨーロッパで、中央統制なくとも安定性(あるいはある種の均衡)を維持する社会メカニズムがあると発見したとき始まった」。

[48] ブリーフスは彼の「理念型的構成」の用法について、「個別の著者にその資格を見出すことができるかを考慮せずとも、論理的に強化され、最後まで念入りに考えられる、自由主義の本質的基礎観念を際立たせる」ことと述べる。

[49] サドリ1992: 16と11–22参照、「歴史的理念型とは歴史的事実の一面的強調と様式化の結果であり、……歪んで偏っている。というのもこれは、これが相当する現実よりも高い論理的一貫性と低い事実的および歴史的な詳細を伝えるからであり、また歴史的現実の一定要素を他の要素の除外に「関連する」「重要な」ものとして好むからである。

[50] イズレイル・M・カーズナー1976: 158–59とミーゼス1933: 71–88の批判も見よ。ラハマンとカーズナーとミーゼスの批判はレイモンド・アーロン1970: 246–47が「特殊な種類の行動の再構成を合理化する」第三種のヴェーバー的理念型と同定したものへと差し向けられている。ここで用いられているのは第一種の「歴史的詳細の理念型」である。

[51] ヘクマン1983: 32はヴェーバーが「概念自体に内在する『論理』」を語るところの強い主張を強調する。「理念型を作り上げる特徴が『それらの両立可能性に応じて』組み合わせられるだろうとヴェーバーが述べるとき、彼の要点は、概念が恣意的な仕方で丸ごと投げ捨てられることはできないということである。理念型は社会科学者の気まぐれや勝手な思いつきの産物ではなく、論理的に構成された概念なのである」。

[52] カールソン1993: 77参照、彼は市民社会について、その現代的意味は「政治的領域や国家とは区別され、その外側のある種の領域で、十八世紀と十九世紀にゆっくりと発生した。主たる影響の一つはロックに触発されたトマス・ペインのような自然権論者から生じ、彼は実際のほとんどの政府には市民社会の個人的自由と自然社交性を絶え間なく脅かす傾向があると論じた。この観点では国家はせいぜい必要悪と見なされ、市民社会とは良い人生が達せられるかもしれないようなほぼ自己規制的な領域と見なされる」ものと記す。ヘーゲルは市民社会に否定的な共示を充填しつつも、市民社会と国家の対照を保った。カールソンはこれら両アプローチの規範的な論じ方と自分で見なすものを避けようと努め、市民社会を次のとおり定義する。すなわち、「所与の政治的領域内での多数の相互依存的行為者間の非政治的関係と行動様式。ここで『非政治的』で意味されるのは、国家活動によって直接に創造されたり是認されたり執行されたりせずとも進化してきたか存在してきた、社会的および経済的な配列、規定、制度のことである」(強調は原文ママ)。

[53] ロバート・スキデルスキー1995: ixは集団主義――おそらく自由主義の反対――を「国家は市場より良く事情を知っており、必要であれば市民社会の自生的傾向を押し殺してでも、同傾向のうえで事情を改善できるとする信念」と定義する。彼はこれを「二十世紀最悪のとんでもない誤り……国家の優秀な知恵というこの信念が、それに基づく政治経済を奇形化し目一杯破壊する病理を仕込んだ」と記述する。

[54] ノーマン・バリー1996b: 58参照、「経済自由主義はその究極的な論理的結論を無政府資本主義の学説に見出す」。とはいえダーレンドルフは福祉自由主義が本来の自由主義的プログラムの妥当な延長であるという考えを抱いている。

[55] ヴェーバーが1949: 95に記すとおり、「一定状況の理念型は或る時期の一定の特徴的な社会現象から抽象されることができるものであり、これはまたその時期に生きている人物の心のうちに、実践的生活で励まれる理念や一定の社会関係を規制する格律として存在するものでもある」。

[56] 自由主義の最良の歴史家の一人であるアルバート・シャッツの結論1907: 32参照、「少しずつ少しずつ、有機体の機能に自然に君臨する秩序が衛生学者の作品ではないのと同様、経済的秩序とは立法者の恣意的作品ではない……一言で言えば自然経済秩序があるのであり、この秩序は恣意的規制秩序に取って代わることができる……との観念が発生し普及してゆくだろう。この観念が科学的に確立される日に、個人主義的〔すなわち自由主義的〕学説が誕生したと言うことができる」。

[57] 自由主義と社会主義の区別を廃止する際の知的狼狽のどん底はエクレシャル1986: 62によって達せられているかもしれない。彼が述べるには、「もっと自由主義的な社会を創造する課題はいまや、既存の資本主義の枠組み内で社会主義的未来の基礎を築こうと努力する人々、マルクスとエンゲルスの言葉での『人類は一足飛びにではなく一歩一歩前進すること……漸進的にのみ私有財産を社会財産に変貌させることができる』と認識する社会主義者の側にある」。

(出典: mises.org)

  1. weeklylibertyの投稿です