知識人と商業界

Ralph Raico, “Intellectuals and Market Place,” in Classical Liberalism and the Austrian School, chap. 3.

アダム・スミスが金を出した?

ノーベル経済学賞受賞者のロナルド・コースは、アメリカ合衆国の世論形成者に関して、目から鱗が落ちるような非常に興味深い出来事を語っている。

それは一九六〇年代の天然ガス不足に関連する。シカゴ大学のエドマンド・キッチはかつて、近視眼的連邦規制がこの不足で果たした役割の一部を証明する研究を著しており、彼の発見の公開演説を一九七一年にワシントンDCで行った。コースの言葉では(1994: 49–50)、

オーディエンスは多くがワシントンのジャーナリストやエネルギー問題に関する国会委員会のスタッフメンバーや似たような仕事に就く人々だった。彼らは彼のこの研究の発見にはほとんど興味を示さず、むしろ誰がこの研究に出資したのか暴き立てることに多大な関心を示した。シカゴ大学の法と経済学がガス産業に「買収」されていると、多くの者が確信していたように見えた……大部分のオーディエンスは、価格上がるべしと考える人はみな産業の味方で、価格下がるべしと欲する人はみな消費者の味方だとする単純な世界で生きているようだった。私はキッチの議論の本質がもっと早いころからアダム・スミスに述べられていたと説明することができる――しかしオーディエンスのほとんどは、彼のことをアメリカガス協会にこっそり雇われた他の誰かであったはずだと想定したのだろう。

このエピソードには反市場知識人と彼らの教えを受容してきた人々が常習的に巣食う世界の縮図が見える。この知識人階級の継続的繁栄は古典的自由主義者にとっては長く続く難問と支障であり続けている。このエッセーの目的はこの問題の決定的解答を提出することではなく、主に、この難問を解くための一歩として、(大抵)自由主義的な学者に提示された突出した立場の幾つかを収集し対照することである。最後に、私は自分にとってどの立場が一番もっともらしいと思われるか述べるつもりである。

目次

  1. アダム・スミスが金を出した?
  2. 永続する疑惑
  3. 資本主義と歴史家
  4. 変幻自在の告発状
  5. ハイエク、知識人と社会主義について
  6. シュンペーター、知的プロレタリアートについて
  7. ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの二つのアプローチ
  8. 嫉妬と嫉妬回避
  9. しかし知識人とどれほど関連するのか?
  10. ソビエト共産主義の盛衰
  11. 知識人の理論的再断言の重要性
  12. 歴史神話の役割
  13. 参考図書

永続する疑惑

四十三年前、ボーヴァロンでの一九五一年モンペルラン・ソサエティ集会で、優れた学者たち一団が知識人の資本主義の論い方を討議した。[1]この会談はF・A・ハイエク編『資本主義と歴史家』に収集されて出版された。

アーサー・シュレジンガー(1954: 178)はこの作品に関する愉快な長談義の愚痴を、よりにもよって、有名な『アメリカ政治社会科学アカデミー年報』にレビューの形で執筆した。[2]「この如何わしい書籍への寄稿者はみな何らかの不可解な迫害の感覚に駆り立てられているようだ」とシュレジンガーは宣言する。『資本主義と歴史家』は単なる「魔女狩りの召喚状」にすぎず、「アメリカ人は学会の輝きにこの召喚令状を加えるためウィーン人の教授を輸入するまでもなく自家製のマッカーシーに十分苦しんでいるだろう」、と。ハーバードの教授シュレジンガーはそもそもこの本を出版したかどでシカゴ大学出版局を告発して締めくくった。いわく、「一体全体何が大学の出版局にこんな本を出版するよう説得できたのかとても想像できない。この書籍はファルブライト議員の近頃の言い回し『我々の時代にありふれた豚のような病害……反知性主義〔アンチ・インテレクチュアリズム〕』より酷いものの一例である」。

ああ、もちろんそのとおり。ハイエクもアシュトンもド・ジュヴネルも他のみんなも、豚のような反知識人〔アンチ・インテレクチュアル〕で魔女狩り人で、たぶんちょっとした精神病(「迫害の感覚」)に苦しめられている。愚かしくもシカゴ大学印刷局を急き立ててその指針を曲げようとすら努めているこのレビュー、実はシュレジンガーのようなニューディール派の政治ゴロどもが魔女狩りを実行しても逮捕されなかったときに、彼らがどのように古典的自由主義思想家を扱っていたかの好例なのである。

資本主義と歴史家

ベルトラン・ド・ジュヴネルはこの論文で知識人のことを、「全世界の物事とエージェントの宇宙の表象、〔人〕自身および彼とこれらとの関係の表象、心的イメージ」を扱う者と記述した。あらゆる社会がそのような表象を要するから、この集団の重要性は非常に大きい(91)。

現代知識人に顕著な特徴は、商業界に対する彼らの激しい憎しみであるとのことだ。

西洋知識人の圧倒的多数派は、彼らの社会の経済的および社会的な制度、彼らが資本主義と一括して称する制度に対して敵意を呈し表明している。(103)

いったいなぜこうなのか? その理由は、ド・ジュヴネルが論じるには、利己的な個人の快楽主義的な需要を満足させる社会的な取り決めに対してのピューリタンのような侮蔑に存ずる。現代福祉民主主義も(その目的を成し遂げるに十分なほどでないとはいえ)またそのような取り決めであるはずだが、同じ敵愾心の対象にはなっていない(95–96)。

驚くべきことに、ド・ジュヴネルは「実業家に対する知識人の敵意は謎にはあたらない。というのも両者はその機能ゆえ完全に異なる標準をもっているからだ」と主張する。かたや実業家のモットーはお客さんがつねに正しいであり、かたや知識人の任務は通俗的な意見の重圧に反してでも彼の分野の最高標準を維持することである(ゆえに、画家、小説家、詩人、映画製作者など、「知識人のみのためにいる人々」を好む傾向がある)(116–21)。

資本主義への主な苛立ちの元であると感じられるものの一つがド・ジュヴネルに同定されたことは疑いない。ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスが指摘するとおり(1956: 9)、「市場経済の枠組みに入るものは学会の価値判断ではなく、人々が買うか買わないかする際に実際に表す価値評価である」という事実のせいで、多くの知識人は自分が君臨不可能であることに気づく。

しかし知識人の態度は企業家が高尚な目的ではなく公衆の願望に奉仕するという事実――それと、ド・ジュヴネル自身がさきに提出した理由――だけでは完全には説明されかねる。民主主義的福祉国家では政治家と官僚も卓越性それ自体の標準を維持するために苦闘するのではなく、公衆に奉仕することになっている。にもかかわらず、知識人の激しい憎しみは、たとえ民主主義には差し向けられるにしても、福祉国家やその指導者と役人に差し向けられることはやはりまれなのである。

かくして問題が残る。一九五一年モンペルラン会議以来、状況は重大な点で悪化してきた。

狂信的な環境保護主義の台頭と、産業主義と消費者社会への絶えざる攻撃のせいで、昨今に関しても到底同じことは言いがたい。

Then, de Jouvenel could take for granted that even the modern leftist intellectual “takes pride in the achievement of technique [i.e., technology] and rejoices that men get more of the things which they want” (113).

ボーヴァロンでの解答者たちの二十一年後、一九七二年に、R・M・ハートウェルはモンペルラン協会のモントロー会議で、「歴史とイデオロギー」に関する講演を行った( ハートウェル 1974)。[3]ハートウェルもまた「現代経済成長に制度的枠組みを与える経済的および政治的なシステムに対して多くの者が抱く嫌悪」のことを述べる機を得た。彼は歴史家として自然にも、嫌悪を助長する際の、学会知識人がでっち上げて伝えてゆく歴史神話のきわめて重大な役割を強調した。

ハートウェルの講演は、上述のジャーナリストたちを含め、西洋民主主義の典型的な教養市民が経験する反資本主義的猛攻撃の体系的特徴に関心を向けるため特に注目に値する。彼が書き留めるには、歴史は私有財産と市場経済に反抗する「偏見の自己強化バッテリーのほんの一要素にすぎない」。文芸、経済学、哲学、社会学、それに他の学科でも、生徒はたった一つの要点にまとまる与件と解釈に継続的に従わせられる。それは、私企業の残忍さ、および、国家干渉と国家後援労働組合の有徳さだ。ハートウェルが観察するには、「そして学校と大学が公式教育でプロパガンダするものは、他の多くの制度が再強化する」――わけても協会、クリエイティブアート、マスメディアが( ハートウェル 1974: 11–12)。[4]

変幻自在の告発状

それから二十二年たった今、私は再び知識人と商業界の問題に取り組みたい。

しかしながらこれは、この疑問のくだらなさではなく、むしろその核心的な重要性を論じるものである。或る意味で、モンペルラン・ソサエティは資本主義に対する現代知識人の敵意とこの敵意の有害な帰結の問題を扱うために設立された。ここにいる我々のほとんどは、いまやシュンペーターの断言「資本主義は裁判でポケットに死刑判決を入れた判事の前に立っている」を真理なりと理解して久しい。変わったものは細目だけだとシュンペーターは記す(1950: 144)。知識人によって、繰り返し繰り返し、変幻自在の告発状が提出されているのである。

かつての彼らは、プロレタリアートの貧困化、不可避的な不況、中流階級の消滅のかどで資本主義を告発していた。それから少し後になって、告発は帝国主義、帝国主義者(資本家)権力間での不可避的な戦争になった。

もっと近頃の数十年間で、さきの非難があまりにも明白に弁明できなくなるにつれ、告発はまたも変化した。

資本主義は、技術的進歩(スプートニク)で社会主義的社会に勝つことはできないだの、自動化を促進して破壊的な永遠の失業を起こすだの、消費者社会と豚のような裕福さを創造するだの、そのような豚の所業を下層階級にまで伸ばすことができないだの、「新植民地主義」だの、女性と人種的少数派を抑圧するだの、見かけ倒しの大衆文化を生み散らすだの、地球自体を破壊するだのと非難されてきた。[5]ジョージ・スティグラーが述べるとおり、

「――ホームレス家族の問題のような――新批判の恒常的な流れが発明され、発見され、どっさりと宣言されている」。[6]疑問が残る。この、変幻自在の果てしない告訴状の根源にあるのは何か? 市場経済に対する知識人の絶え間ない敵意を説明するものは何か?

これらの疑問に光を投げかけるためには、特定の非難それ自体を超えていかねばならない。イズレイル・カーズナーは次のとおり記す(1992: 96)。

資本主義に対して述べられた特定の弾劾が何であれ、これらの弾劾に含まれる経済分析の誤りが何であれ、反資本主義的メンタリティーの完全な理解は究極的には、市場システムに対して示される反感に意識的にも無意識にも責任がある、深く根付いた偏見と深く沁み込んだ習癖の両方を把握するに至ることが避けられない。

ハイエク、知識人と社会主義について

F・A・ハイエクは知識人の重要性を全面的に確信していたから、我々の問題に非常に関心があった。彼は『知識人と社会主義』(ハイエク1967)というエッセーで「彼らは現代社会が知識と観念を普及させるべく発達させてきた器官である」と言明している。知識人――ハイエクが「観念専門古物商」と特徴付ける人々[7]――は世論の支配で彼らの力を行使する。「今日の普通の人がこの階級の媒介なしで出来事や観念を学ぶことはほとんどない」。彼らはしばしば実質的に、一般集団の心のなかに、他の何よりも専門的名声を製造し、そしてニュースメディアでの優勢をとおして、外国での出来事と潮流に関して各国の人々が有する情報を色付けし形作る。いったん知識人に観念が作用されたら、大衆によるその受容は「ほとんど自動的かつ抵抗不可能」である。究極的には、知識人とは人類の立法者なのである(178–80, 182)。

そうでありながら、知識人に関するハイエクの見解はお世辞のように柔らかだ。彼らの観念はおおよそ「誠実な確信と善良な意図」で決定される(184)。[8]「知識人と社会主義」でハイエクは知識人の平等主義的バイアスにふれるが、しかし分析は基本的に彼らの「科学主義」の点から行われる。ハイエクは彼に特徴的な認識論の強調をもって、市場経済への反逆を、『科学の反革命』(1955)たるフランス実証主義台頭のすばらしい研究で詳細に調査され同定される方法論的誤りから生じているものとみる。

かくしてハイエクの見解では、知識人への主たる影響は自然科学の事例とその応用であった。人が自然の力を理解し支配するようになるにつれて、知識人は、これに相似した社会の力の統御が、似たように人類の福利を生産できるという観念に心酔を募らせてきた。「故意の支配や意識的な組織化は、人間の心に指導されない自生的過程の結果よりつねに優れているというような観念や、前もっての計画に基づく秩序はいずれも相反的な力のバランスによって形成された秩序より良いに違いないというような観念」(186–87)が彼らの上で支配している。ハイエクは次の信じがたい言明(184)さえ行っている。

工学技術の応用でもって、単一の一貫した計画に応じた、人間活動に対するあらゆる形態の指導が、多数の工学的課題でのように社会でも成功するものであると証明したはずだという結論は、自然科学の業績に元気付けられた人々のほとんどを唆すにはあまりにももっともらしい。そのような結論に賛成する強い仮定に対して力強い反論の議論が要求されるだろうことと、これらの議論がまだ適切に言明されていないことの両方は、実際に認められなければならない……。非常に多くの分野で進展を生み出すことに非常に成功すると証明してきたものも、その有用性について言えば制限的なはずであり、その制限を越えて拡張したら積極的に有害になるはずであるという理由が結論的に示されるまでは、この議論はその力を失わないだろう。

ここでのハイエクの推論に従うことは非常に難しい。

彼は明らかに、自然科学が大いに進展し、数え切れないほど多くの特殊な工学企画が成功を収めたから、多くの知識人が「単一の一貫した計画に応じた、人間活動に対するあらゆる形態の指導」も似たように成功するだろうと結論するのもまったく理解できることだ、と言っているようだ。

しかし第一に、自然科学の進展はどんな全般的中央計画に応じてももたらされず、それらはむしろ、分離して分散化されつつも協調的な多くの研究者の成果であった(いくつかの点で市場過程と似たように生産された。ベイカー1945とポランニー1951を見よ[9])。第二に、多くの特殊な工学企画が成功したという事実からは、特殊な企画すべてを組み込んだ、単一の膨大な工学企画も成功しそうだということも、ほとんどの人々がそのような主張にもっともらしさを見出しそうだということも出てこない。

そしたら、分散した科学的研究と個人的な工学企画が勝利したことから、「人間活動に対するあらゆる形態」の指導を引き受ける計画が成功することを、知識人が推論するはずだというのは、いったいなぜ自然なのか、論理的なのか、ないし容易に理解できるんだ?[10]

ハイエクの『隷属への道』のレビューで、ヨーゼフ・シュンペーター(1946: 269)は、ハイエクが「知的な誤りを超えた」どんな責任も敵に対してほとんど帰さない点で、「その落ち度に対して丁重」だったと述べる。しかしシュンペーターが宣言するには、もっと「率直な話」をしなければ、言うべきことすべてを言えなくなる。[11]

シュンペーターはここで重要な区別を仄めかす。敵対者の側の良い信念という儀礼的な推定を含む討論での慇懃さはつねにその場にふさわしい。しかしまた、たとえば反市場的知識人の態度のようなものを説明する試み(知識の社会学の形式)にもその場がある。この努力に際しては、「丁重さ」は正確には最も求められているものではない。自然科学の成功から中央計画の必要に賛成を論じる実証主義的知識人に関して言えば、この偽の推論が単純な知的誤りではなく、彼らの偏見とルサンチマンによって、もしくはおそらく彼ら自身の権力への意思によって助長されていたというのも当然なのである。[12]

何にせよ、反市場的知識人に対するハイエクの紳士的な表敬はときに誤解を招きやすい。彼の言明(1967: 193)を考えてみよ。

観念のシステムが全体として最終的に受け入れられ、疑いの余地なく受け入れられるべきでもある、どんな種類のどんな口実の正統派も、特殊な論点での知識人の見解が何であれ、必然的に知識人全員を敵に回す一見解である。

二十世紀にソビエト共産主義を庇った著名な護教論者を悪名高くも含んでいる人物らのこれは、実際に「落ち度に対する」丁重さである。[13]結局、一九五〇年代後半に、レイモンド・アーロン(1957)が『知識人のアヘン』を著し、H・B・アクトン(1955)がマルクス主義・レーニン主義に対するおそらく最善の哲学的批判を『新時代の錯覚』と題名付けたのはそれ相応の理由があるのだ。[14]

また、共産主義は多数の知識人の忠誠を勝ち取った唯一の極悪非道な正統理念であるというのは、マーティン・ハイデッガー、ロベール・ブラジヤック、ジョヴァンニ・ジェンティーレ、エズラ・パウンドら多くの事例に示されるとおり間違いである。現代知識人の高潔さに関するあまり賞賛的ではないがもっと現実的な見解として、ドイツ人歴史家のゴロ・マン(1991: 534)の自叙伝に目を向けてよい。彼は自身の日記の一九三三年から次のとおり引用をする。「五月十八日。〔ヨーゼフ・〕ゲッベルス、ホテル・カイザーホフでの著述家会合正面にて。『我々〔ナチス〕は当該のものだけではなく知識人をも叱責してきた。これは我々に必要なことではなかった。我々が実によく知っていることだった。まず我々が権力の座に就けば、知識人は本領を発揮してゆくだろう』。とどろくような拍手喝采が――知識人から」。[15]

シュンペーター、知的プロレタリアについて

シュンペーターはハイエクを窘めつつ、自分はカール・マルクスから有益な教訓を学んできたと示唆した(1946: 269)。シュンペーター自身の解釈はマルクス主義に対する彼の一生涯の関与を反映している。彼はマルクスのように、とはいえ概ね異なる理由ゆえに、資本主義システムのひどく悲観的な予断を差し出した(1950: 131–45)。シュンペーターは知識人が資本主義の停止に決定的な役割を担うだろうと考えたが、『共産党宣言』で述べられたシナリオには決して依拠しなかった

ここでマルクスとエンゲルス(1976: 494)は、最終革命が近づくにつれて、「ブルジョワ・イデオロギスト」がプロレタリアの側に転向するだろうと広告した。これらの者は「歴史的運動全体の理論的理解まで骨折り進んできた」イデオロギストになるだろう、と。[16]そのようなお笑い種の自己奉仕的記述はシュンペーターのような根っからの疑り深い人を魅了することがほとんどできなかった。そうではなく、彼の「マルクス主義」は、一定の随伴的な社会学的形質をもったシステムとして資本主義を調査し、このシステム内部の知識人の階級利益を暴露することから成り立っていた。[17]

資本主義はそれ以前の社会秩序に比べて、とりわけ攻撃で傷つきやすい。

資本主義は他のどんな社会類型とも違い、不可避的に、そしてその文明の論理自体により、社会不安で利害関係を創造し、教育し、援助する。(1950: 146)

特に、資本主義は一般人の心で言葉の力を振るう世俗知識人階級を生み育む。資本家の富の機構は安い本とパンフレットと新聞を可能にし、これらを読む公衆をかつてなく広げられるようにした。自由主義的憲法に記載されている言論と出版の自由は、この形の社会に内在的な批判的合理主義によって促進される恒常的な腐食――「資本主義的社会の基礎を蝕む自由」をも含意する。そのうえ、以前の体制とは対照的にも、例外的な環境を除けば、資本主義国家が反対派知識人を抑圧するのは難しい。そのような手続きは、ブルジョワジー自体にとって愛しい、警察権力の制限と法の支配の一般原理に抵触するだろう(1950: 148–51)。

資本主義に対する知識人の敵意の鍵は、教育、わけても高等教育の拡張である。[18]これは大学教育を受けた階級の失業〔無雇用〕や過少雇用を創造し、多くの者が「たとえば専門職での雇用可能性を身に付けることなく、肉体労働で身体的に雇用不可能」になるのだ。これら知識人の取るに足らない社会的立場が不満足とルサンチマンを養ってしまい、これが客観的社会批判として頻りに合理化されている。シュンペーターが断言するには、この情緒的不快感は、

資本主義の悪さに関する知識人の正義に適った憤りは許し難い事実からの論理的な推論に相当するという他の理論――それ自体が心理学的な意味での合理化であるもの――よりも、資本主義的秩序に対する敵意をかなり現実的に説明するだろう。(1950: 152–53)[19]

シュンペーターの議論の主な長所は急進主義と革命の社会学の不変の特色たる公職狩りを解明することである。過剰教育と、雇用不可能な知識人の受け皿と、もっと多くの官僚的立場への圧力と、政治的混乱の、それぞれの内的結合は十九世紀ヨーロッパ人観察者にとってありきたりだった。[20]一八五〇年には、保守主義的著述家のヴィルヘルム・ハインリヒ・リール(1976: 227–38)は知的プロレタリア(ガイステス・プロレタリアート)に関し、多くの点でシュンペーターを先取りする注目に値する分析を差し出した。ドイツは雇ったり支払ったりできるよりはるか多くの「知的生産物」を毎年生産しながら「不自然な」国民的分業を立証していた。これは先進諸国で一般的な現象であって、リールが主張するには、甚大な産業的成長が起こった結果であった。しかし貧困化した知的な働き手は、彼らの所得と彼らの知覚上の必要の間に矛盾を経験し、彼ら自身の当然の社会的地位に関する彼ら自身の高慢な着想と、その現実の地位の間に矛盾を経験するが、この矛盾は肉体労働者の場合よりはるかに妥協しがたい。彼らは自分の乏しい給料を「改革」できないから、社会を改革しようとする。ドイツで社会革命運動の指導を引き受けてきたのがこれらの知的プロレタリアなのである。「これらのリテラーティは世界の救済を社会主義と共産主義のゴスペルに見出す。なぜならばそれは彼ら自身の救済を含むからだ」。ただし、大衆の支配によって。[21]後の革命運動は、左翼のものであれ右翼のものであれ、広い範囲で、巨大な国家雇用職員に対するイデオロギー的にカムフラージュされた押し入り強盗として理解されることができる。カール・レヴィー(1987: 180)は十九世紀後半からの国家拡張を、大学教育を受けた人々の数の増加と結び付けてきており、そのような人々は政府の職を求め、これを容易にするためのイデオロギーとして実証主義を利用した。実証主義は、

専門的な意見と技術、特別な訓練、訓練されたインテリジェンスの必要を強調した……それは伝統の世俗化と公的領域の急速な拡大〔に活気付けられていた〕……伝統的エリートと資本企業家を専門家や俗人聖職者の層に置き換えた社会組織の計画案〔の増殖がそこにはあった〕。その実例は、フェビアン協会会員と独立労働党、〔エドワード・〕ベラミーらアメリカの権威主義的ユートピア建設者、イタリアの社会主義的大学教授、フランスの社会主義的エリートのうちに見受けられる。

我々はこの視座から、福祉国家が「資本主義を救った」という主張のもっと深い理解を得る。福祉国家が実際に成し遂げたことは、十九世紀でのようにわざわざ革命的襲撃をしなくてもいいように、今だ大学教育と称されるものの産物(主として中流階級)のために、公務の源泉を設えたことなのである。[22]

反資本主義の源泉としての知識人の全体的余剰というシュンペーターの同定には相当の真理があることは疑いないが、それでも一定の困難が含まれている。

そのような過剰生産――ひいては無雇用(失業)や過少雇用――は、同様に、非資本主義的社会でも特色になっているのである。その結果は発展途上諸国でときおり起こるように、一般的な政権の不安定化である。前共産主義社会での状況に関するもっと詳細な知識は、これが当該諸国での反政府活動と最終的崩壊にも関連していたことを示すかもしれない。

もっと肝心なこととして、問題となっている失業知識人はそれほどでもなく、むしろ雇用されている知識人が問題になる。相応しいはずの職を見つけられない知識人がときに、十九世紀後半には無政府共産主義者として、またもっと近年には第三世界で、革命運動の足軽を担うのは道理であったし、同様に、彼らが感受性の強いサブカルチャーを提供するのも道理であった。第一次世界大戦後のドイツでは、ワイマールのアヴァンギャルド文化から締め出された芸術家と著述家は国民社会主義者の間で傑出した。

しかしシュンペーターのテーゼは他の多くの事例、おそらく歴史的に最も重大な事例では支持されない。エミール・ゾラとアナトール・フランス、ゲアハルト・ハウプトマンとベルトルト・ブレヒト、H・G・ウェルズとバーナード・ショウ、ジョン・デューイとアプトン・シンクレアは到底、知識人界隈での「雇用不可能者」ではなかった。今日、あらゆる先進諸国での大衆ニュースメディアの「スター」――あなたも自分の国での彼らの名前を知っているだろうし、毎年百万ドル以上稼ぐアメリカ人「ニュースパーソン」、資本主義の残忍な不平等の存在者に言及できるだろう――が、典型的には私企業システムに対する恒常的な「蝕み手」である。疑問はむしろ、なぜかくも多くの成功したとても影響力ある知識人が自由経済を粗探しする批評家になってしまうのか、である。[23]

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの二つのアプローチ

シュンペーターが反市場的知識人らにふれるとき彼らの「落ち度に対して丁重」であることを拒むならば、ハイエク自身の師であるルートヴィヒ・フォン・ミーゼスについては何が言えるだろうか?

観念の力が重要であると考える点でミーゼスを凌ぐ人はいない。[24]かくて観念は、特に知識人に代表される「反資本主義的メンタリティー」の基礎を決定する彼の社会哲学と歴史解釈にとって決定的に重要である(ミーゼス1956)。

ミーゼスはしばしば忌々しい一人格の個人的な動機付け――ルサンチマンと苦々しい嫉妬――をこの態度の源泉として強調する。身分社会から契約社会への交代は失敗と劣等感の感覚を悪化させた。機会の平等と全職業の才能への開放のせいで、金銭的成功の欠如が個人を判断する基準になる。彼は社会システムを身代わりにすることでこの負担から逃れようとする(1956: 5–11)。知識人もこの弱さをおそらく重い形で共有している。ミーゼスは折に触れて「反自由主義の心理的根源」を精神病理学にまで遡る。自分の人生の相対的失敗という現実をうまく処理できない人々が社会システムを身代わりにすることは、精神医学が分類を無視してきた類の精神障害である、とミーゼスは主張する。彼はちょっとした自作の精神医学的疾病分類学でこの状態を初期フランス社会主義者シャルル・フーリエにちなみ「フーリエ・コンプレックス」(1985: 13–17)と称した。

ミーゼスの嫉妬とルサンチマンへの焦点は反資本主義的メンタリティーを説明する試みで最もよく知られているけれども、[25]彼の第二の別のアプローチはもっと実りあるものに思われる。ミーゼスは「経済学への抵抗の心理的根源」“The Psychological Roots of the Resistance to Economics” (1933: 170–88)と題付けられた早期のエッセーで、金儲けに烙印を押す伝統的西洋道徳の一部へ急進的な攻撃を開始する。彼はキケロの『義務について』を典型的テキストとして引用しながら、西洋文化に深く根付いた金儲けへの侮蔑を、「我々の公的生活の全体と政治と活字を今牛耳っている」資本家、取引、投機に対する敵意の源泉として同定する。変化する政権の下で数世紀にわたり抱かれ保たれてきたこの侮蔑は階級道徳の自然な成長である――それは特に、税金で生計を立てる環境によって市場から庇われた階級道徳である。[26]それは我々自身の時代においては、「嫌悪と軽蔑」をもって企業家と資本家と投機家のことを見ている「聖職者、官僚、専門家、軍人」によって生成された道徳である(1933: 181–82)。[27]

この反市場的倫理の蔓延に対する洞察は、「誰も優勢なイデオロギーの力から逃れることはできない」から、(ミーゼスの他の、嫉妬に基づくアプローチでは説明できなかったような)私的部門での経済的成功者の間にさえ頻りに見受けられる反市場的態度を説明する役に立つ。かくして、「企業家と資本家は彼らの活動をけなす彼ら自身の道徳的外観に揺さぶられる」。彼らは自責の念と劣等感に苛まれる。このことは中でも億万長者と彼らの息子と娘社が会主義運動に差し出した支持に現れる(1933: 184)。[28]

嫉妬と嫉妬回避

経済的成功者に対する反市場的態度についての異なる見方が、もう一人の自由主義的学者たるヘルムート・シェックに提出されている。シェックは彼の『嫉妬』(1987)で、人類学とエスノロジーと社会心理学と歴史からの証拠に照らし、この染み渡っているが捕らえどころのない――しかも奇妙なほど調査がたりない――現象の経験的研究を提示する。[29]

人間はその本性からして嫉妬をしがちであり、これは他人の幸せを自分の犠牲で達成されたものと解釈する原始的な因果律の着想に起因している。人々は等しく「隣人の嫉妬と神や霊の嫉妬の普遍的な恐れ」の対象になる(363, 308)。他人の嫉妬の恐れ――たとえば「邪眼」――は「原始的、前宗教的、非合理的な罪の感覚」を引き起こし、これとともに嫉妬回避を目指す行動様式を引き起こす。

さまざまな社会で、この罪の感覚を処理し、嫉妬の天罰をかわすための多様な手段が発達してきた。資本主義的社会の知識人に関して言えば、嫉妬回避はしばしば平等主義的な大義の支持として現れる。シェックが答えを出すには、他人の嫉妬に対する世間に拡散した恐れは、「過去百年間、社会をひどく崩壊させ混乱させるような影響を及ぼしてきた、一般的な、当て無しの罪の感覚の根源〔である〕。罪(社会的良心)の苦痛と、無階がない社会やさもなくば嫉妬を刺激しない社会の形態はかつてありえなかったというナイーブな憶測が、多数の中流・上流階級の人々の左翼運動の信奉を招いたのである……」(324)。彼らは社会的および経済的な平等性を説教するような運動を信奉することで、罪と不安を鎮めている。というのも、彼らはいまや自分が「誰も嫉妬しない」社会を築くのに役立っていると感じることができるからだ。[30]

シェックの理論には、左翼知識人、わけても若い左翼知識人に頻りに呈される奇妙な独善的「理想主義」を説明する利点がある。

他人の嫉妬への感受性はほとんどの人々が誤って救済と平和の感覚と解釈する人間心理にかなり深く根付いている。その感覚とは、彼らが人々の道徳的優越性への嫉妬だけではなく、また今ここの現実での人々の行為の適切さへの嫉妬に折れ合ったときに感じる感覚だ。(362)

我々は次のとおり言い加えてもいいかもしれない。自分は財産を奪われて憤慨している人々の嫉妬を超えた安全な立場にいると感じる人々が経験するめでたい開放感は、そのような心理的降伏をにべもなく拒んできた階級同志に直面するとき、しばしば激怒に変わるものだ。

しかし知識人にどれほど関連するのか?

これまで考察されてきた著者たちは、政治的出来事の究極的決定に際して少なくとも、知識人と彼らが生成したイデオロギーに相当な重みを割り当てながら議論をしてきている。これはまたマレー・ロスバードの立場でもあり、彼が(たとえばロスバード1974: 72–76で)理論的に表明したことであり、しばしば(たとえばロスバード1989と1996で)歴史的に説明したことである。マレー・ロスバードは自由市場派知識人の中でも事実上独特であり、政治的変化を利益集団の陰謀として分析するのが適切なところでそうすることにも等しく熟達していた――たとえば連邦準備銀行の場合において(ロスバード1994)。しかし知識人の政治的関連性はもう一つの自由主義的学者集団によって、特にジョージ・スティグラーによって意義を唱えられてきた。[31]

スティグラー教授の正当に名高いウィットは、彼が知識人(1975: 314)を「肉体的努力よりも話したり著したりすることを強く選好する人々」と定義したときやはり的確だった。このようにして、スティグラーは知識人が特別に知的であるというありふれているが間違っている推定を拒否した。この二つの範疇に必然的な結合はなく、ほとんどの場合、知識人を区別するものは特殊な言説の運用力である。[32]

スティグラーは、多くの知識人が資本主義システムから恩恵を享受しているにもかかわらず、全般的に言って、彼らの優位に立つ全部門で執念深い批評家になっていることに非常によく気づいていた(スティグラー1984a: 143–58)。[33]けれども、「私企業への公的尊敬の衰退と経済的生活に対する国家統制の大拡張を……彼らに帰する自然な誘惑がある」(1982: 28–29)とはいえ、当然この誘惑には抵抗した方がいい。彼の見解では、知識人とイデオロギーの決定的影響に関する主張は非科学的である。というのもそのような主張は決して量化されておらず、経験的テストに服さないからである。実に、イデオロギーがどう生成されてどう変化するかには理論が完全に欠如している(スティグラー1982: 35; 1984b: 3)。

対照的にもスティグラーは、量化可能なタームで仮説を定式化し、これを与件に対してテストすること、つまり(新古典派)経済学の慣習的な分析方法で問題を攻撃することを提案する。

経済理論の中心的含意は「人は、家庭でも職場でも――公的にも私的にも――教会でも科学的仕事でも、要するにどこであっても、永遠に効用最大化の存在である」ことである(1982: 35)。ちょうど彼らは市場で個人的効用を最大化すべく行為するように、「個人は国家の使用に関しても恒常的に効用を増加するよう行動する」(1984b: 3)。すなわち、総計としては、国家権力の歴史的拡張を構成するような対策を支持すべく行動する。

実に賢明にも、スティグラーは仮説が同語反復的になってしまうように効用を定義することのないよう警告する(1982: 26)。彼は「効用機能に関して容認されるような内容はない」と認めながらも、彼は一つの内容を提案する。すなわち、人の効用は「行為者と彼の家族の福祉、くわえて、彼の狭い同僚の界隈の福利に依存する」、と(1982: 36)。

しかしながらこれが議論をどれほど発展させるかは不明瞭である。結局、人が所与のイデオロギーを信奉することは普通それが或る意味で彼の「福利」と彼の家族と近しい同僚のそれを促進するだろうという彼の信念に条件付けられるので、効用関数へのこの依存はイデオロギーの影響を計算する必要を自動的に取り除くわけではない。

スティグラーの見解では、イデオロギーの役割を非効用最大化目標としてテストするための最も単純な仕方は、所与のイデオロギーの擁護者がそれを支持することで費用が発生するか否かを確証することである。

平均して、しかも相当期間ずっと、(たとえば)「スモール・イズ・ビューティフル」の支持者は全米製造業者協会を新たな栄光へ推進することに捧げられるほどの才能でこれに見合わない額しか稼いでいないと私たちに分かるならば、私はその証拠を正しいと認めよう。しかしまずはそれを見てみようじゃないか。(1982: 35)

そしたら「効用」とは、あらゆる実践的目的にとっては、所得の最大化を意味しているように思われる。たとえば権力の最大化などの別の価値を用いることはスティグラーの用語における形式化と経験的検証にとって克服しがたい困難を生じるだろうから、これはスティグラーの視座からは理にかなっている。

スティグラーはさらに、自分の(いまや名声と「外見上の影響力」含む)所得を最大化する知識人の願望が、彼らの政治的スペクトル上での分布を説明すると考える(1982: 34)。彼はこの立場を部分的に受け入れていた者としてヨーゼフ・シュンペーターに言及する。しかしシュンペーター(とリールたち)の知識人への経済的動機付けの帰属はスティグラーのそれとは非常に異なった種類のものである。我々が書き留めてきたとおり、シュンペーターが考えていたことは、経済要素(過少雇用など)が反資本主義的イデオロギーを生成しがちな物の見方を知識人の間に創造する傾向があり、これが今度は社会中に広まるということであった。スティグラーが主張していることは、経済要素が個人的知識人に直接間接に作用するということであるように思われる。

スティグラーはイデオロギーが一般的な仕方では相対的に重要でないという彼の概念を、普通は自由主義の英雄的段階における画期的な勝利と見なされるはずの、一八四六年イギリスでの穀物法の廃止に適用する。いわく、この事例を招いたのは、アダム・スミス以来の古典派経済学者のような知識人でもリチャード・コブデンとロバート・ピールのような指導者でもなく、むしろ「政治的および経済的な権力の移動」であった(1975: 318–20)。

ゲイリー・M・アンダーソンとロバート・D・トリソン(1985)は、(ゲイリー・ベッカーらと同様に)スティグラーの流儀で反穀物法同盟のやや詳細な研究を提出したと称したが、これは明らかにスティグラーの立場の曖昧さを避けている。[34]この著者たちは廃止に際して「イデオロギーが役割を担った」ことを否定しないが、基本イデオロギー的説明はその検証不可能性ゆえに避けられなければならないと明言する。彼らはその代わりに、同盟の献金者と支持者の幾人かの直接の財務的自己利益が役を演じた部分に焦点を当てながら、公共選択分析の枠組みを採用する。けれども、量化と形式化の試みなしで一般に周知の事実を積み上げる彼ら自身の語りが、彼らの要求するとおり厳格な意味で「検証可能」であるということは、いったいどう支持されているか、これが明白には程遠い。滑稽なのは、この著者がコブデンへの公的支援金とジョン・ブライトに対する下院でのマンチェスターの指定議席の授与を、二人の偉大な自由主義者の「賄賂」として本気で説明しているところである。

ジョージ・スティグラーはときに、知識人の影響力に関する卑下のような評価と、政治的指導者含む諸個人の影響力に関する同様に低い評価を組み合わせていた。政治的変化の一般的説明に関するスティグラー自身の仮説は次のとおり。

我々が生きている世界は、自分たちの自己利益を追求して知的に行為する、ほどよく事情に精通した人々の世界である。この世界では、指導者は控えめな役割しか演じない。(1982: 37)

この世界では、指導者は質素な役割しか演じず、彼らが指導すると思しき階級の教官や助言者というより、代理人として行為しているにすぎない(1982: 37)。

概して言えば、歴史上傑出した指導者の効果は「ほぼ極小」なのである(1975: 319)。この査定が、ムハンマド、ナポレオン、ビスマルクないしヒトラーの、あるいはレーニンとスターリンの経歴の研究者から同意を引き出すことは、ほとんどないだろうと言ってしまっても差し支えない。[35]

ソビエト共産主義の盛衰

政治でのイデオロギーの影響を軽視する著者はロシアでの共産主義の台頭、持続、最終的譲位を説明するのに悪戦苦闘している。イデオロギーが従属的地位に追いやられたら、ソビエト共産主義史の決定的エピソードを説明できるとは想像しがたい。そのようなエピソードには、レーニン自身の革命的キャリア、ボルシェビキ党の結成、一九一七年の十月クーデター〔十月革命〕、「戦時共産主義」制度、内戦勝利、農業集団化とホロドモールを実行した中核の狂信的献身が含まれる。

マーティン・マリアが主要研究で断言するには(1994: 16)、「ソビエトの現象を理解する鍵はイデオロギー」、特に、マルクス主義・レーニン主義である。

マリアは話を十九世紀に遡る。ロシアは市民社会が弱く国家が強いところであり、社会主義的観念の蔓延の温床となっていた。自由主義的社会理論、ロック、ヒューム、アダム・スミス、テュルゴ、ジェファーソンらの観念は根を張らなかった。ロシアににわかにインテリゲンチアが現れたときから、ロシア人が政治的見解のほとんどを引き出していたもとのヨーロッパの知識人は、資本主義を恐怖の対象にしていた。ツァーリの没落に続く混沌と第一次世界大戦に起因する士気阻喪は、レーニンと彼によく鍛えられたボルシェビキにクーデターの成就を許した。

ボルシェビキはすぐマルクス主義者の夢を実現しに取り掛かった。私有財産と市場を廃止することで自由で反映した社会を建設することだ。しかしマリアがオーストリア学派わけてもミーゼスとハイエクを引用しながら主張するには、そもそもこの仕事は現実への挑戦であって、不可能だったし不可能である(185, 515)。ソビエト連合は最初から「世界史上の詐欺」だった(15)。想定上では進歩的人間性の前衛だったはずの土地は、実際には、果てしない圧制、大貧困、とめどない絶望のアリーナだった。この現実を制圧し、超現実シュルレアリテ〕を創造して支持すること、シュルリアリスムが、国内外、全西洋諸国の同調者知識人の、国家知識人の大群の仕事になった。[36]

思想教化は最初は市民戦争で大規模に始まり、その標的は赤軍の何百万人の新兵だった。ロシア人の農民・兵士を「意識的な革命的戦士」に転向させるという露骨な狙いでもって、活字、講義、キャバレーでの討論集団、演劇、映画、既知のプロパガンダ手段がすべて、前線を視察する数千人のボルシェビキ中核に使用された。市民戦争の流れで党に加入した五十万の赤軍兵士は「革命の宣伝者」になり、彼らは「一九二〇年代早期にソビエトの機関に殺到したところの、彼らの町と村に、ボルシェヴィズムを、その観念とその方法を持ち帰った」(ファイジズ1997: 602)。充満したプロパガンダの弾幕は七十年にわたって続き、鎮圧だけでは決して彼らの継続的支配を確保できないと共産党当局の意識に証明し続けていた。[37]

同様に、ソビエト政権の崩壊はイデオロギーの作用のケーススタディー、この場合、或るイデオロギーの支配力の終焉としてしか理解できない。

レーニン主義信仰の転覆はスターリンの死後に、フルシチョフに導入された「雪解け」をもって始まった。一九六〇年代に、しばしばサミズダート発行者である少数の反体制派知識人が、小さな都会と大学サークルで疑いの種を蒔いていた。それでもゴルバチョフ下でのペレストロイカとグラスノスチの宣言まではソビエト市民の大多数がなお教化されたままであった。

その後、――スターリンの犯罪と同じだけのレーニンの犯罪、社会主義的本国に充満する貧困、数十年にわたってソビエトのイデオロギストに紡がれてきた空想世界の真の本性に関する――真理が暴かれる。ハイエクが「観念専門古物商」と称した者たちによって、印刷物とテレビとラジオでプロパガンダが行われていたのだった(シェイン1994: 212–44)。「一九九一年より世論調査はソビエト市民の多数派と都会人の実質的多数が、このシステムの基本的信頼を失っていたことを示した……ソビエトの世界図は戦車と爆弾ではなく事実と意見によって、数十年間押し殺されてきた情報の開放によって大破したのだった……。心を変えさせたのは、多様な問題に関する同時の大量の新情報の、累積的、相乗的な効果であった」(シェイン1994: 214–15, 221)。膨らむ情報の同じカスケードが、ソビエト支配階級そのものの信頼を打ち砕き、それ自体の正統性の意味を、そして最終的にはその強要する意思をかき消していった(ホランダー1999)。

知識人の理論的再断言の重要性

スティグラーに代表される立場が今度は他の自由主義的学者に批判されたが、批判者の中にはダグラス・C・ノースがいる。利益集団の圧力がかなりの程度の政治的意思決定を説明するなどと、ノースは公共選択理論が政治的行動の多くを説明すると惜しみなく認める(1981: 56)。しかし彼の見解では、これを話のすべてと見なすことは新古典派経済学の「近眼ビジョン」の犠牲になることである。

何気ない観察も、ただ乗り問題の論理に直面して起こらないはずだった大集団行動によって膨大な量の変化が起こったという証拠を提供する……。明白な利益が関係者個人にとっての大量の費用を相殺しないときにも大集団は行為するので、人々は投票するし、匿名で血を寄付する……。個人の効用関数は新古典派理論に組み込まれるほど単純な仮定よりもっと複雑なのである。(1981: 46–47)

ノースによればイデオロギーは遍在するものであり、これは「諸個人が、彼らの環境を受け入れ、『世界観』を提供され、かくて彼らの意思決定過程が単純化されるところの経済化装置」である。イデオロギーの根本的な目的は「単純で快楽主義的で個人的な費用便益の考量とは対照的に行動するよう集団を勢力的にすることである」。[38]そしてまれな例外を除けば、イデオロギーは知識人の手引きの下で発達する(ノース1981: 49–53)。

その重大さを実際より軽く見せる学者には無視されているが、イデオロギーの決定的な部分は、正か邪か、正当か不正かの判断である。これに関連して、ノースはそのような学者を再考させてもおかしくないような議論を提出する。

もしも〔正当と不正の〕概念は選択がされる際の仕方にとって決定的ではないならば、歴史のあちこちで自分たちの立場の正義や不正義を諸個人に説得する試みに注ぎ込まれた大量の資源を説明するという難問が我々に残される。(51)

言い換えれば、もしもスティグラーが信じるとおり、人々は自分たちの自己利益を追求して知的に行為しており、ほどよく事情に精通しているならば、我々は正邪の疑問をめぐるこの大量で継続的な資源の「誤用」をどう説明するんだ?

ロバート・ヒッグズはスティグラーの立場に精通したもう一人の批評家である。彼は『危機とリバイアサン』で二十世紀アメリカ合衆国連邦政府の成長の詳細な調査を提出し、その際に「イデオロギーの生産と歪曲の専門家」たる知識人の重要性を強調している。彼が断言するには、「イデオロギーの理解には政府成長の理解が欠かせない」(1987a: 192, 36)。

ヒッグズもまた、従来の新古典派アプローチでは政治的行動の広い範囲を説明できないと信じている(1987a: 39–41)。彼はアマルティア・センのものも含む社会心理学の広く容認された結論を引き合いに出しながら、個人がしばしば彼らの「アイデンティティー」や「自己イメージ」を確認し、強化し、妥当と立証するよう行為することを書き留める。たとえば、「或る人物が所属しようと選ぶ集団の種類は、彼が彼自身であると受け取る種類の人格と密接に結び付けられる――典型的人物にとっての主要な問題だ」。これもまた彼らの自己イメージの政治的次元に当てはまる。人々は政治的に行為するとき、偏狭な快楽計算に還元できない正邪や正不正の論点であるものにしばしば本当に関わっているのだと、ヒッグズはノースのようにまたもや強調する。ヒッグズは、人々の欲望の内容に関して何一つ含意しない純粋に形式的な効用価値説の本性についてシュンペーターを引用しながら、「新古典派経済学の武器でイデオロギーの要塞を破壊することはできない」と結論する(1987a: 42, 44; 1987b: 141–42)。[39]

ヒッグズ自身の方法論は、非現実的な量化という意味ではないとはいえ、厳格に経験的である。レトリックはイデオロギーに必要不可欠だがら、イデオロギー的変化はしばしば世論指導者のレトリックの慎重な調査によって遡ることができる。しかしながらあらゆる科学でのように、採用される方法は研究中の現実の領域に相応しくなければならない。「我々の背が高いか低いかのように〔イデオロギーとイデオロギー的変化を〕測定することはできないとはいえ、そのような知識が適任であってもいいような一定の目的では、かなりの程度それらを質的に学ぶことができる」(1987a: 48–51)。

多くの政治行動が自己イメージの肯定を伴うというヒッグズの洞察は質疑を誘う。はたして人々は、ついで確認し自ら例示するような政治的アイデンティティーというものをどう獲得するのか。そのようなアイデンティティーの源泉は明らかに正規教育システムである。[40]この視座からは、西洋諸国の教育機関が反資本主義的観念の具足一式をどう伝道するかだけではなく、またこの機関に加工処理される生徒のうち重大な割合に特殊な自己イメージをどう与えるか、彼らが後に実現する自己イメージ――相対立する文化の一員としての彼らのアイデンティティー、私企業に対する一生のアニムスを担うもの――をどう与えるか、これを調査するのにとても役立つと証明するだろう。

歴史神話の役割

知識人に反市場的観念を広めた主要媒体は十中八九、歴史学的著物であったとハイエクは信じていた。彼はエッセー「歴史と政治」で、政治的世論の歴史解釈が大きな影響力をもっていると書き留めており、産業革命を筆頭とする「経済史の特殊な見解から成り立っており、ここ二、三世代にわたって政治思想を支配してきた、社会主義的歴史解釈」のことを語っている。その解釈は、その教理のほとんどが神話であることを、とっくの昔に示されている(ハイエク(編)1954: 3, 7)。ハイエクが述べるには、学者には長らく放棄されているこの見解が世間では優勢であることは問題を提起している。事実、ハイエクがこれらの考え方を書き留めてから五十年たった今日、時代錯誤な産業革命「大災害」型の変種が大多数によって可愛がられている。

社会主義的偽史の一部であり、今も同様に轟き渡っているもう一つの伝説の例に焦点を当てるのは、役に立つことかもしれない。

数十年にわたって優勢なその見解とは、ドイツの大企業がナチス政権の台頭に中心的で不可欠な役割を担ったというものである。偶然にもこの解釈は、総括的「ファシズム」とそのドイツ的変種がプロレタリアの最後の襲撃に直面するブルジョワジーの握りこぶしに相当するというコミンテルン(共産主義インターナショナル)の一九二〇年代と同三〇年代に発せられた公式な立場と共鳴していた。

社会主義者は数年にわたり、ヒトラー政権到来の責任がドイツ大企業の財政的および政治的な支持にある――ひいては第二次世界大戦とこれが伴った残虐行為すべてにも責任がある――という考え方を押し売りし続けていた。ドイツ連邦共和国では、知識人はフランクルフト学派のもったいぶった言い回しにひたりながら、飽きることなくマックス・ホルクハイマーの格言を繰り言していた。いわく、「資本主義のことを語りたくない者はまたファシズムについても黙っているべきだ」(ノルト1982: 76から引用)。しかしながらこの見解は、アラン・ブロックとノーマン・ストーンとH・スチュアート・ヒューズも含む多くの傑出した非社会主義的著述家にも共有されてプロパガンダされた。

イェールのヘンリー・アシュビー・ターナー二世はその見事な学識の作品で、この解釈が神話にすぎないと証明した。彼は他の著述家には無視された多くの一次史料に依拠した。ターナー自身の分析はいまでは実質的にこの分野の専門家全員に受け入れられている。彼の見解を産業革命経済史家より教養公衆に紹介することで彼がこれ以上成功するか否かはまだ分かっていない。

数年前、なぜ我々は虚偽と実証可能な歴史説明の残存を観察しているのかと、R・M・ハートウェルが疑問を提出した(ハートウェル1974: 2)。[41]ターナーは彼の作品の結末近くで、なぜこんなに多くの専門的歴史家がそんなに無批判にもヒトラーとドイツ実業家の古い作り話を受け入れなければならなかったのかを考えた。彼の答えは、バイアスだ。「要するに、大企業の政治的役割の扱いでは、他の場合では誠実な歴史家さえ繰り返しバイアスを表すのである」(ターナー1985: 350)。彼はこの危険な偏見を説明しようと試みる(350–51)。

歴史専門家が事業界と私的に接触することは一般的にはほとんどかまったくない。彼は他の多くの知識人と同様に、大企業のことを上から目線と疑り深さの組み合わせと見なす傾向がある。[42]……実業界とナチズムの関係に集中する人はほぼみな程度の差はあれ左翼につくか少なくとも中道左派に政治的共感を覚えており、実に多くの者にとって、大企業を……ナチズム台頭に連座させる誘惑に抵抗することは難しい。この主題でのいくつかの出版物には故意の事実歪曲が目立つとはいえ、本書で扱われた神話に対する多くの歴史家の感受性は知的不誠実のせいではなく、むしろ過去をしっかり捉える試みをあえて妨げる予断の類のせいである。

ターナーの説明は、ジョン・エルスター(1985: 476, 487–90)に改良された、マルクス主義的イデオロギー概念を構成するいくつかの要素のうち一つの見地で、もう一つの言い方をすることができる。個人の社会関係の把握は彼自身がこのネットワークで占める特殊な立場のせいで不可避的に歪められる。なぜならば、彼は必然的に「一部の視点から全体を」理解するようになるからである。

この光に照らしてみれば、問題の根源は学会知識人の社会的立場に存じており、彼らの見解が今度は他の実質的全知識人の見解を深く形作り条件付けている。ミーゼスの指摘を繰り言すれば、彼は本質的には、保証された所得源泉で生計を立てることに慣れた官吏なのである――普通は税金だが、保証された基金の場合も似たようなものだ。彼はそのような人物として、資本家の、企業家の、投機家の、貿易商人の生き方、市場の栄枯盛衰で生き死にする男女の生き方の真価を認めることはおろか、彼らの生き方の理解を始めることできるとさえめったに気づかない。かくして、問題は忌々しい一人格の個人的な動機付けというより、むしろ社会的に決定され歪曲された認知であるということが分かる。

抗弁として、学会知識人は道徳的にも専門的にも、社会的に押し付けられた目隠しから開放されて、自由市場秩序の実態を理解すべく努力する義務を負っているという異議が唱えられるかもしれない。しかしながら、彼らは明らかにこの義務に従っていないということは、我々が考察してきた問題のもう一つの言い表し方であるにすぎない。

私自身の意向は、我々の文化に染み渡った、商売と利潤創造への反感に焦点を当てる、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの「第二」のアプローチに向いている。この千年来の反感は、我々が求めるかぎり我々とともにある階級、市場の脅迫的な厳格さから庇われたとても影響力ある階級によって、今も蔓延り続けている。

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[1] T.S. Ashton, “The Treatment of Capitalism by Historians,” L.M. Hacker, “The Anticapitalist Bias of American Historians,” and Bertrand de Jouvenel, “The Treatment of Capitalism by Continental Intellectuals”。これらは後に、アシュトンの追加的エッセーと、十九世紀初期の工場システムに関するW・H・ハットの寄稿と、“History and Politics”に関するF・A・ハイエクの導入で補われ、シカゴ大学出版局によって一九五四年に出版された。

[2] 後になって、この作品の重要性に関する偏見少ない判断がテイラーに1997: 163提出された。いわく、「続く十年の期間に、現代経済史はハモンドとトーニーとウェッブ夫妻が確立したリベラル左派コンセンサスからの劇的な揺り戻しを経験した。この方向の変化にとっての種子的なテキストはF・A・ハイエクに編集された一九五四年のエッセー集『資本主義と歴史家』であった……」。

[3] 私はこの小論に私の注意を向けさせてくれたレナード・P・リッジョ教授に感謝する。

[4] アメリカ学会の左翼がかりについて、リー1994とこれに引用された調査を見よ。

[5] ブロンフェンブレナー1981: 104参照、「環境保護立法の台頭とサリドマイド後の消費者保護という建前の急増はどちらもシュンペーターの死の後に現れてきたが、どちらもシュンペーターの役に立っていた」。哲学者のロバート・ノージック1984: 134はレッセフェール資本主義が独占と汚染から体系的な過剰生産や過少生産まで多様な害悪を引き起こしたという批判に返答する際にしばしば経験したことを記した。述べられた非難に対してノージックが骨を折って反論した後、彼の対談者は、児童労働、人種主義、広告などなどと「その言い分を捨ててすぐ他の言い分に飛び掛る」。「言い分につぐ言い分が諦められていった……。にもかかわらず、諦められることがないのは、資本主義への反対だ」。ノージックは特殊な議論は重要ではないと結論した。なぜならば「底流には資本主義に対する恨み、アニムスがある」からだ(強調は原文ママ)。これは他の多くの自由市場提唱者もまた証言できる経験である。

[6] スティグラー1989: 1。私はこれらスティグラー教授の未発表の論文をご好意により私に利用させてくれたジョージ・J・スティグラーのマネージャーたるクレア・フリードランド博士に感謝する。

[7] ハイエクによる定義は、たとえば社会主義者の中ではサン=シモンとマルクスなどの、観念の創始者を排除する点でやや特異である。

[8] あるとき(182)、ハイエクは利己的な一人格的利益が知識人の態度に資すると示唆しているのに、名指しはせずともカール・マンハイムとその「〔知識人階級〕は彼らの見解がそれ自身の経済的利益に断固影響されなかった唯一のものであった……という不可解な主張」に言及する。しかし彼はこの主張が「不可解」であると考えるわけを指摘しない。

[9] これらはどちらもハイエクが実によく知っていた作品であり、これが彼の議論を或る点でもっと複雑にしている。

[10] 『社会主義と科学』“Socialism and Science” 1978: 295に関するもう一つのエッセーで、ハイエクは「自生的成長の結果よりも故意に創造された規則正しい配置を選り好む、工学と同様に物理科学に熟達した心の否定不可能な性癖――しばしば知識人を社会主義法案にひきつける、影響力あるありふれた態度。これは政治思想の発展に深く影響した現象であり、広く行き渡った重要な現象である」と言及する。はたして、アメリカ合衆国、西ヨーロッパ、またはその他の国々での大学教授の政治的意見を調査して、人文科学と社会科学の学部よりも物理科学と工学でもっと社会主義的意見がありふれていると出るだろうかはひどく疑わしく思われる。

[11] ハイエク1973: 161 n. 18, 70はシュンペーターの批判に反論して、それは『隷属への道』での敵対者に単なる知的誤りにすぎないものを帰した「決定的要素についての深い確信であって、『落ち度に対する丁重さ』」ではなかったと断言する。ハイエクは、「この世界で最も有害なエージェントの多くの源泉がしばしば邪悪な人々ではなく高尚な理想主義者であり、特に全体主義的野蛮の基礎には自分が生んだ子孫を決して認識しない高潔な善意の学者がいた、と気づくことが必要である」と再断言する。いったいハイエクはどうやったら「全体主義的野蛮の基礎に」いた人々の性格に関するこのことを知ることができたのか訝しい。

[12] ジョージ・スティグラーによるコメント1989: 6参照、「企業システムに対する知識人の不満足の中心的理由」は、「それは諸個人に行動の変化を強要するための機構を彼らに与えない」ことである。またロバート・スキデルスキー1978: 83参照、若いアメリカ人経済学者をケインジアニズムに転向させた要因の一つとして彼が挙げたのは、それがアルヴィン・ハンセンにプロパガンダされた変種において「経済学者エリートによる経済的生活の永遠の指導のために理論的根拠」を提供したことである。「ケインジアン政治経済学では、公共政策は専門的経済学者に委ねられ、される必要があることはただ彼らだけ理解することになるだろう」。ロバート・ヒッグズ1987a: 116が観察するには、千九百年代のアメリカ人進歩主義者は国家干渉に魅力を見出していた。なぜならば、それは工学者と計画者と技術者と官僚に監督され指導されるような社会組織を含意し、ゆえに「賢い少数派に責任を」与えるからである。

[13] この主題に関しては今では相当数の文献がある。たとえばコート1973を見よ。リチャード・パイプス1993: 202は興味深いコメントを行っており、いわく、「ボルシェビキ政権はその不快極まりない特徴のすべてでもって彼ら〔知識人〕を魅了した。なぜならばこれはフランス革命以降初めて彼らと同類の人々に権威を授ける政府だったからである。ソビエトロシアでは知識人は資本家を搾取し、政敵を処刑し、反動的観念を抑圧することができる」。またソビエト共産党の犯罪について何を知っていたか、いつ知ったかを公然と証言させるために、ユージーン・D・ジェノヴィーズ(1994)によって彼の同僚の知識人に発せられた挑戦も見よ。

[14] オブライエン1994: 344参照、彼は「〔彼の〕学会での同僚の圧倒的多数派がスターリン主義と他のマルクス主義政権の恐怖に対して賢明なる不可知主義と相対主義の態度を採った」ことを書き留める。

[15] バンジャマン・コンスタン1988: 137–38は革命派のフランス人著述家とナポレオン時代を批判する際に、恣意的権力に共鳴する知識人の偏愛を記述した。「法廷外の力の大発展はすべて、そして危険な環境で非合法な対策に頼る事例はすべて、幾世紀もかけて、尊敬をもって語られており、独りよがりに記述されてきた。安逸にも自分のデスクに座っているこの著者が、机上から全方位に恣意的措置を投げつける……。権力の乱用を主張しているからには、彼はしばらくの間、自分が権力を授かっていると信じている……こうして彼は権威の喜びに耽り、彼にできるかぎりのやかましい声で、公衆の安全、最高法規、公共の利益に関し、多くの言葉を繰り返す……。哀れなる痴愚者よ! 彼が語りかける相手は、彼の言葉を聞くのが願ったり叶ったりの者であり、機会のあり次第、彼自身の理論を彼自身で試してみる者なのである」。コンスタンの言葉はソビエト恐怖国家の創造に力添えしたボルシェビキ知識人の多くに対するスターリンの扱い方を予見する解釈と考えられるかもしれない。

[16] カムフラージュされた知的「新階級」気取りのイデオロギーとしてのマルクス主義に対する批判は、バクーニンに始まりマハイスキーらに続けられた無政府共産主義的伝統の一部になっている。ドルゴフ1971とゼレンニーとマーティン1991を見よ。

[17] しかしながら、階級闘争のタームでの歴史的変化に関するマルクス主義的分析のようなこのアプローチは、古典的自由主義思想家のうちに膨大な先駆者がいた。本書のエッセー「階級闘争:自由主義理論対マルクス主義理論」を見よ。

[18] レイモンド・リュイエ1969: 155–56参照、彼は、(「成人教育」を含む)長引いた国家の教育と、国家の保護下での「文化」の伝播から生じる、社会的および心理的な問題を指摘する。彼が結論するには、「『文化の民主的拡大』で生じた最大の進歩が、いつもの税を課すことを除けば国家が関与しなかったところで、紙表紙本の形で私企業に生産されてきたことは典型的である」。第三四半世紀後の、コンパクト・ディスク(CD)とコンピューターについても同じことが言われうるだろう。リュイエの作品は実に不当にも無視されているが、これは自由市場経済と資本主義社会に対する知識人の頑固なルサンチマンの深くエレガントな吟味となっている。この点で、この作品は近頃のレイモン・ブードン(2004)とは対照に位置している。その有望な題名(『なぜ知識人は自由主義を好まないのか』)と時おりの洞察にもかかわらず、ブードンの本は皮相的であると分かる。たとえば、自由主義的秩序に対する知識人の転向を一九〇〇年台あたりからと定めるなど。

[19] シュンペーター1950: 155が強調するのは国家官僚制を手段とした知識人の影響力の重要な経路であり、これは「似たような教育のおかげで多くの共通点をもっている現代知識人による転向に開かれている」。

[20] オボイル1970を見よ。またレヴィー1987: 160を見よ、彼は「復古後ヨーロッパで〔すなわち一八一五年後に〕国家に創造されたインテリゲンチャ、彼らが経済成長の早さを凌ぎつつ深刻な過少雇用に直面し、一八三〇年と一八四八年の革命で重要な役割を担った」と書き記す。ビスマルク首相(レイコ1999: 100)は国会で、ロシアでの社会革命派が、高等教育に生産されたが社会には吸収しきれない余剰者、つまり「大卒プロレタリアート」から成っていたと主張した。その指導者は労働者ではなかったが「上品ぶった教育による人々の一部、多くは生半可な教育しか受けていない人々……道楽三昧の生徒と純真無垢な夢想家」で構成されていた。

[21] シュンペーターは『資本主義・社会主義・民主主義』ではリールに言及せず、彼のことは『経済分析の歴史』(1954: 427 and 427 n. 20)で一度言及したが、それは文化史でのリールの作品に関連してのことでしかなかった。

[22] ミーゼス(1974: 47–48)参照、「現代の国家主義と、社会主義と、干渉主義の騰貴を扱う際には、公職を待ちわびた大学卒業生と公務員のロビー団体と圧力団体が演じた重い役割を無視してはならない」。これに関連して、ミーゼスはイギリスのフェビアン協会とドイツ帝国の社会政策協会に言及する。

[23] シュンペーターの根本的分析に対しては、ポール・サミュエルソン1981: 10から疑義が差し挟まれており、彼が指摘するには、日本では数十年にわたる「ジャーナリストと教員の間でのマルクス主義的用語法の継続的遍在」が日本政治界に明瞭な結果を生じなかった。

[24] たとえば一九三二年にミーゼス1990: 96が述べるには、「ヨーロッパがここ二十年で蒙ったあらゆる不幸は、ここ五十年で社会的および経済的な哲学を支配した理論が適用されたせいでの不可避的な結果であった」。

[25] ポール・サミュエルソンがミーゼスの著述に注意を払った非常に数少ない出来事のうちの一つにおいて、彼1981: 10, n. 3は「競争的商業上での生存闘争でうまくやっていけない人々が資本主義的秩序を覆そうとする泣き言屋と不平屋になるという彼の見解」のことを記す。これはまたノージック1984: 138に言及された唯一のミーゼスの説明でもある。

[26] 今日ではドイツ自由主義の偶像となったフリードリヒ・ナウマンは、社会福祉法案と帝国主義的アジェンダを推進するために、一八九六年に国民社会結社を設立した。当時の最高位の真正自由主義的な政治的人物であるオイゲン・リヒターは、ナウマンの小集団を「牧師と学校教師の党」と嘲った。リヒターはそのメンバーが税金で生計を得ているちおう事実から彼らの不完全な市場理解を説明した。レイコ1999: 227。また、リヒターに関する本書のエッセーも見よ。

[27] ミーゼスは聖職者が慣例的に国家助成金で援助されていた大陸の政権を念頭に置いていたと指摘されなければならない。ド・ジュヴネルはハイエク(編)1954: 104で、現代知識人が中世聖職者の任務を引き受けてきたと指摘する。彼らは「富者の目の前に貧者の事情を延々と突きつけており」、富者に対して富者であるかどで延々とお説教し続けている。

[28] ロバート・ヒッブズ1987: 239はシュンペーターに依拠しながら、反資本主義的知識人の文化的覇権の結果の一つについてコメントする。いわく、「ブルジョワジーは伝統的な価値観と理想に信頼を失った。自由市場システムの擁護は、社会保障と平等と、政府の規制と計画に更なる優先権を与える政治的環境に合わせ、着実に弱くなっていっている」。ジョージ・スティグラー1984: 152–53もまた、知識人の影響力のせいで、資本家が自分たちの利潤追求に申し訳なさそうになったと考えた。「既存製品を生産し新商品を導入する際の大いなる効率性は大いなる利潤で証明されると誇ることは、彼ら〔資本家〕によってさえ、公的消費に対する配慮の形であまりにも時代遅れであると見なされている」。ミーゼス1933: 183は知識人の経済理論の拒絶とゆえに自由主義の拒絶について、もう一つの理由を示唆する。彼らは歴史を作る半神と自分を同一視しているのだが、経済学は人類の主人の力に厳格な制限があると論証してしまうのである。

[29] チェ1993は嫉妬と社会正義の要求を等しいものとし、それが企業家的利潤の源泉と機能を理解するには無能であることから生じるものと見る。そうである範囲では示唆的かつ有用であれ、これは嫉妬の見解として取るにはあまりにも狭いように思われる。

[30] シェック(327)が経済的成功者の左翼的態度を述べるに、それは「人は哲学的に着飾られた綱領を、長期的には共産主義的な綱領を選択するようになるだろう……彼が自分の特権的地位を罪の感覚と組み合わせるかぎり、もっと難なくすぐに選択できるもの、もっと不平等で、優れており、例外的なものはすべて、彼がすでに社会で占めている立場である」というものだ。

[31] ノーマン・バリー1989: 55(また同1984も見よ)は、自由主義的大義の勝利を自由主義的「観念」の発展に帰しながら、「不吉な利益者」の行為によって公共部門拡大を説明すると請け負う古典的自由主義思想の「知的分裂症」に言及するとき、実情をやや誇張している。この問題に取り組んできたほとんどの自由主義者の立場はR・M・ハートウェル1989: 122の「良かれ悪しかれ、観念は当てにされるし、つねに抱かれている」という言明によって最も良く要約されているかもしれない。「観念と利益の間には相互作用があり、二つの力の相対的な強さは当該社会で優勢な制度的協定に依存するだろう」というバリー自身の示唆1989: 54はいつもの自由主義的見解の公平な要約である。

[32] レイモンド・リュイエ1969: 158の特色がよく表れている、彼の巧みなスケッチを参照、いわく、「知性へのどんな特別な才能もないし、しばしば労働者や職人や並の小売業者より劣った知能しかないし、ときには明らかに知能が精神的欠陥の水準に近い者が……今日の知識人なのである。『合格』するには知性の語彙を身に付けるだけで十分だ」。

[33] 同161参照、「知識人は彼の生き方を選択したがるし、また彼の生活水準を選択したがる。彼は経済的な回路の外側で自由を選択するが、この回路の利益を放棄しない。経済の内側で働く人々にとって、彼は不快である。ちょうど田舎者にとって、貴族のことが不快であったように。貴族はやはり田舎者の労働で生計を立てていたのだった。あるいは十七世紀の服屋や小売商のように。彼らは結局勘定を拒んでもいい上流階級と貴顕紳士の当てこすりの的であった」。リュイエの洞察に富み見事に著された本が英語に翻訳されておらず、あるいは相応しい評価を得ていないことは大いに遺憾である。

[34] スティグラーが或るとき記す1975: 315には、知識人の役割は「sその社会で有力な集団にはっきりと求められているイデオロギーの需要に単に応じる」ことではない。そうではなく、「集団も望ましいイデオロギーも明瞭に定義されたり時間を通して不変であったりはできないので、印象に残る知識人は、見解の変遷を見抜き、見解の詳細を詰め、これらの見解を新しい環境で次第に採用するのに有用な機能を果たす」。彼の課題は「立場や利益の集合に一貫性を与え、新しい論点と事実に準備済みの適用を許すほど十分に広い原理へとそれら集合を展開し、自然な同盟を発見して集団間の水面下の紛争を暴露する」ものであり、これらは「決まりきった課題でも取るに足らない課題でもない」。しかしスティグラーの[未]qualificationは彼の立場をかなりの程度掘り崩している。もしも知識人が職に就いており、the job, among other things, of even defining interest groups,ならば、彼らの依存効果は相当のものであるように思われよう。

[35] 世界中の貧困国で知識人と軍事的中核に共有されるようになったマルクス・レーニン主義者の革命的展望を遡る作品で、フォレスト・D・コルバーンの作品で彼が抜け目なく観察するには1994: 104、「革命について満足に理解するためには革命的衝動それ自体が説明されなければならないし、最も還元主義的な理論家だけが、国家と社会を改造する急進的衝動は完全に「合理的」ないし「自己利益的」であると論じるだろう……このアプローチはおそらくキューバの官僚や百姓の行動を説明することができるが、フィデル・カストロを説明するには失敗する。彼のキューバ革命の指導力は客観的条件や物質的利益の変化のみによる結果としては説明されることができない。彼の観念――彼を満たすもの――は確かに彼の意思決定を形成するから重大である。革命では観念が利益と結果を調停する媒介変数以上のものになるから、革命派エリートの観念を説明することは決定的である。観念は利益の知覚を変形するし、時には荒々しくそうするものである。観念は行為者の利益の理解ばかりか可能性の知覚をも形作る」。

[36] マリアらとは対照的にも、リチャード・パイプス1993: 502はイデオロギーが「副次的要素であり……〔共産党支配階級の〕行為を決定したり彼らのことを後世の人々に説明したりする原理の集合ではない」と考える。しかしながらパイプスの推論は深刻な欠陥を負っている。たとえば彼はマルクス主義がソビエト犯罪の共犯ではありえなかったと主張する。なぜならば「西洋のどこもマルクス主義をレーニン主義・マルクス主義の全体主義的乱行に至らしめなかった」から、と。ここで彼は、西洋では社会党が正統派マルクス主義を放棄し、代わりに「混合経済」と福祉国家の方を選択したという事実を無視している。何にせよ彼の議論は、人々を駆り立てて統制する手段としてではなく、共産党支配者の行為の決定要因としてしかイデオロギーに関わらない。パイプスはさらに、イデオロギーは国民社会主義において小さな役割しか担わなかったと主張する。彼はこの主張ではヘルマン・ラウシュニングの著述に依拠しており、この人は、申し立て上の一身上の経験に基づき、ヒトラーとの直接の会話も含めて、ナチズムとは単なる「虚無主義」に相当するものだったと考えた。しかしながらトービアス1990を見よ、ラウシュニングの報告書はひどく疑わしい資料であり、ことによると偽りである。そのうえ、反セム主義のイデオロギーがナチスのヨーロッパユダヤ人虐殺で小さな役割しか、あるいはまったく役割を担わなかったと論じる構えでいる者を、精通した人物のうちに見つけ出すことは今日では不可能である。

[37] 現代全政府による人民大量教化のための公教育システムの使用、わけても全体主義的政府によるそれがロット、1999に論じられている。

[38] サルトーリ1969: 410参照、「イデオロギー的行為者においては、『利益の論理』が『原理の論理』と両立する。実に、イデオロギー的な政治とは各行為者の効用尺度がイデオロギー的尺度に変更される状況に相当するのである。それゆえこの場合、プラグマティストをかなり狼狽させることに、利益の論理はもはや、政治的行動を説明はおろか予言することにすら不十分である」。

[39] ヒッグズ(37)がイデオロギーを有用に定義していわく、それは「社会的関係に関する、或る程度まで一貫した、かなり包括的な信念体系」であり、認知的、情緒的、構想的、連帯的、以上四つの別個の側面をもつ。

[40] ノース1981: 54参照、「社会での教育システムは偏狭な新古典派のタームではあっさり説明されない。なぜならばその多くは明らかに、人的資本投資よりむしろ、価値観の集合を教え込むことに向けられているからである」。

[41] ハートウェルのもう一つの疑問である、なぜほとんどの歴史家が「『右翼』より『左翼』に情け深いのか」もまた真剣な考察に値する。

[42] ポラード2000: 1参照、「金儲けは賎業だ。この文は商業と産業の世界に対する英文学の態度をほとんど要約していると言っていいかもしれない。わずかな著者しか商業と産業の世界を自己体験しなかった。彼らの世界は想像的なものと精神的なものに統治されている。したがって彼らが物質主義的と見なす他の世界を彼らがかくも頻りに軽蔑しているのも不思議ではない」。