『数学ガール』はデカルトがお嫌い?
- 2017/05/20
- 13:42
『数学ガール』(結城浩、ソフトバンククリエイティブ、2007)は、高校数学のエッセンスをライトノベル形式でレクチャーする、爽やかな数学テキスト小説である。その後シリーズ化し、2017年5月現在までに『数学ガール』シリーズが5冊、その基礎編『数学ガールの秘密ノート』シリーズが8冊出ている。
本シリーズは2014年に日本数学会賞出版賞を受賞、マンガ化もされているようだ。
『数学ガール』の題名の通り、数学好きの高2の男の子〈僕〉の周囲には、女の子しか登場しない。同級生では元気なショートヘアのテトラちゃん、メガネっ娘のクールなミルカさん、年下中学二年の猫語で甘えてくる従妹のユーリ。ほかは母親と図書室の司書さんが少々出てくるが、みんな女性だ。
そんなハーレム状態にいても、〈僕たち〉に恋愛絡みの下世話な展開は一切ない。ほんのりと、恋愛感情とまではいかない若い異性間に漂う淡く甘いイメージが、いつも〈僕〉を春風のように柔らかく包んでいる。
みんな数学が大好きなので、会えば数学談話になってそれが延々とつづく。――そんな状況があるわけないだろっ! とわめく必要はない。これはフィクションであり、萌え萌えした数学ライトノベルなのだから。
著者・結城浩氏のウェブサイトを開くと、
《理系にとって最強の萌え》をあなたに。
というキャッチフレーズが目を惹く。
やっぱりやっぱりそうなのか~、『数学ガール』シリーズは萌系なのか~! そして言っちゃうのか~、そんなに堂々と~っ!
なお、一読者の私は、これといって萌系好きの男ではない。
萌系マンガの絵は可愛いと思う場合も結構あるが、萌系に浸るには抵抗感の強い39歳の家庭持ちオヤジだ。そして同じく、中高生向きのライトノベルの類は読まない。マンガ的な言葉使いは、どうしても肌に合わない。
ユーリ「ちーっす。お兄ちゃん、なにやってんの?」 (p.22)
こういう文章表現がもう苦手なのだ。私の心はすっかりオジサンなのだろう。
ミルカ「同一性の確認」
ミルカさんは人差し指をピンと立てて言った。 (p.59)
いちいちの動作がわざとらしいと感じてしまう。演技じみている。
これはマンガなのだ、と私の側でチューニングしなければ、感性が疲れてしまう。
僕は、何気なく彼女の隣に座る。
テトラ「きゃああああっ!」
僕「うわああああっ!」
図書館中の視線がこちらに集まった。 (p.129)
虫唾が走るのをこらえるために、私は速読モードになる。
どうせこの辺は読み飛ばしても、萌え萌えしたやり取りがあるだけで内容はない。
――そんな文句ばっかりなら、なんで読むの?! と問われそうだが、教科書を読んでも頭に入ってこない内容が、不思議とこういう形だと食べられるのである。数学の教え方としては明らかにうまい。
可愛い女の子たちに囲まれてさわやかに勉強ができたら、それはそれは幸せなことだ。
たとえそれが妄想であったとしても、嬉しくてありがたいことである。
だから企画の方向性は素晴らしいと思う。売れているのがその証拠でもある。
ただ、表現というか演出が、ちょっと私の感性にぴったり来ないだけなのだ。
最早私も39歳、既にして年寄りなのでのう、若い衆のサブカルチユアは中中解せんのじゃ…ゴホホッ、と思ったら、著者は御年50代半ばとのことではあ~りませんか!
どうやったら、こんな思春期の気持ちそのままで萌え萌え書けるのだろう?……そういえば、秋元康のアイドル曲にしても、あだち充の野球漫画にしても、私の物心つくより前から若い恋愛観そのままにフレッシュな甘酸っぱい表現を全開し、そして彼らは現在も同じ路線を貫き第一線を走り続けている。どうなっちゃっているのだろう? 奇妙だし異常だが偉大なる創造主たちだ。きっとさぞや楽しい人生を送っているのに違いない。
結城浩(ゆうき・ひろし)氏は1963年生まれのプログラミング技術ライターであったが、この『数学ガール』シリーズが大ヒットを飛ばしている。また、ご自身がプロテスタントの信者であることを公表し、ウェブサイト上では宣教的なエッセイなども惜しみなく公開されている。
→「結城浩が書いた本」ページ
『数学ガール』シリーズの本の中には、宗教的なことはまず出てこない。
けれど「あとがき」の謝辞に、〇〇に感謝します、誰それに感謝します、家族の〇〇に感謝します、と感謝を連発するので、私はこの箇所でやはりクリスチャンのお祈りを連想する。
(――具体的に私が連想するのは、どうでもいい昔話なのだが、若い頃の一時期モルモン教の英会話教室に参加していたときのことだ。プチパーティーなどが催されてとても楽しかったが、感謝します、感謝しますと目を閉じてお祈りしていたまさにその時、私はデジカメをスられてしまった、というニガ苦しい思い出がある…出てくるようにとにかく祈りましょう、と言われていっぱい祈ったが、ダメだった.)
そんなわけで、私は信仰のセンスをまったく持ち合わせない人間だけれど、キリスト教に偏見はない。私の妻はカソリックだし、父は立教大出だし、私の通った高校はものみの塔の総本部の近所にあった。私自身、プロテスタント教会附属の幼稚園に年長で通ったから、白い大きな十字架とキリスト像を毎日見かけていた。弟とはよく二段ベッドにぬいぐるみを並べ、ノアの箱舟ごっこをして遊んだものだ。
*
ここからちょっと、〈著作活動と信仰表現〉などというセンシティブな話に一歩踏み込んでおきたい。
信仰の自由が法で守られているとはいっても、自身の信仰内容を不特定多数の者に対して表現するのは、それなりに勇気も決心もいると思う。特に、何か別の仕事を持ちながら、同時に信仰を表現する生き方を貫くのは難度が高い。
結城氏は、ご自身の信仰的生き方にまず誠実で、そして世間での仕事上の節度と信仰との両立を保ちつつ、品よく、その宣教効果を狙った表現を打ち出している。――結城氏のウェブサイトを拝見して、私はそう感じていたのだった。
きっと氏は、執筆と信仰について、次のように考えたと思う(と、私が勝手にそう想像して書くのだが)。
(1)まず前提として、著作物の内容は全面的に著者によっている。
すべては基本的に、著者の自由になる。
(2)他方、数学のテキストブックというのは一般的に、著者の信仰とは別個の内容になる。
これは絶対条件ではないが、社会的規範、というべきものといえる。
読者側が数学のテキストブックを想定して読むであろうという前提を、著者側が置いた場合は、信仰と著作内容は切り離す判断をする。読者にも各々に信仰の自由があるからだ。
(3)しかし信仰心の厚い著者ならば、信仰と生き方つまり信仰と行動、ひいては信仰思想と著作内容とを完全に切り離すことはできないし、しない。内容が信仰に反するものはまず書かないし、できれば信仰に何かしらマッチしたことを執筆するだろう。
(4)以上のことから、信仰心の厚い著者が誠実な著作を世に出すならば、著作内容(この場合は小説形式の数学テキスト)と信仰(プロテスタント)とを分けつつ、著作内容をしっかりさせ、ほんのりと信仰の香りづけをする、ということになるだろう。
そして実際、結城氏の仕事は、そういった真摯な論理に裏打ちされた制作がなさているのではないかと、私は勝手に信じて『数学ガール』を読んでいた。
*
ところが、じつは、案外そうでもなかったのだ。
私は正直いって、がっかりした。
というのも、全部で13冊が刊行されている『数学ガール』&『秘密ノート』シリーズのうち12冊をぱらぱら見てみたが、たったの一度も「デカルト」が出てこないのである。
端的にいって――デカルトは、結城氏にとって邪魔なのだとわかった。
「ちょっと待てよ」と、読者諸兄は私の言をいぶかしむであろう。
「それは、妙な言いがかりじゃないのか?」と。
たしかに、ふつうに考えれば、デカルトを登場させなくたって数学の本は書ける。デカルトの出てこない代数幾何学の本も、それこそ世の中にゴマンとあるに違いない。
だから、『数学ガール』シリーズにデカルトが一度も出てこないことに難癖をつけるのは、常識的に考えれば、むしろそんなことを言う私の方こそが偏執的なクレーマー、ということになる。
だが、そうではない。
私の目から見れば、明確に分かる。
結城氏はデカルトを強く意識しながら、デカルトのことを書いている。とくに新シリーズ第1作目である『数学ガールの秘密ノート 式とグラフ』(2013)の一冊はあからさまで、これには、デカルトのことばかりが書いてあるのである。
だが、結城氏は悩んだ。――氏の信仰心が、デカルトの思想と相反したからだ。
書こうとしている数学テキストの内容には、デカルトの数学的業績の恩恵を全面的に受け入れなければならない。デカルトに感謝し、手を取り合わねばならない。
だが、結城氏は思想的にデカルト哲学が大嫌いだった。
そこで、結城氏はどうしたか。
――なんと「デカルト」その人の名をすべて消去したのである。だが、それだと〈苦悩〉した意味が残らない。だから消した名前の〈痕跡〉をわざとあちこちに残したのだった。
「どうだ! お前なんか大っ嫌いだから、名前を消してやったぞ」
と言わんばかりに。
あるいはもしかすると、その〈痕跡〉は、氏の良心の〈痕跡〉だったのかもしれないが。
読者諸兄はきっと呆気にとられていることだろう。
「君は、なんちゅう問題発言をしているんだ!」
「しかも、センシティブな暴言ばかりじゃないか!」
「もしこれがテキトー発言なら、相当ヤバイんじゃないの?」
では、これから『数学ガール』の「デカルト嫌い」を追求していくとする。
よっこらしょと私は立ち上がり、人差し指をピンと立てた。
*
まずは、確認したシリーズ12冊の中に登場する数学者などをざっくり挙げておく。オイラー、ニュートン、ガリレイ、ライプニッツ、メルセンヌ、ファラデーなどの登場である。
ここにデカルトが一度も出てこないのは、すでに少々不自然だ。「慣性の法則」を科学に仕立てていったのはガリレイ・デカルト・ニュートンの3人だった。ニュートン・ライプニッツの微積分チームはふたりともデカルトマニアだった。メルセンヌはデカルトに『省察』をまとめさせた。ファラデーは…あんまり関係ないが、それ以外は皆、何かしらデカルトと関わっていたのである。
オイラーはずっと後の人だが、本書の本文にも出てくるのでそれを見ておこう。
ミルカさんは、レオンハルト・オイラーが大好きなのだ。彼女は、歴史上最も多産な数学者オイラーを、いつもオイラー先生と呼ぶ。 (p.79)
18世紀のスイス人・オイラーは解析学などの権威である。
『微分積分学の誕生 デカルト「幾何学」からオイラー「無限解析序説」まで』(高瀬正仁、Kindle本、2015)というような書籍も世の中には存在する。
『数学ガールの秘密ノート 式とグラフ』にオイラーが太字で出てきてデカルトがまったく出てこないのは、わざととしか考えられないのである。
もっと見ていこう。
本書p.52やp.56などにはxの二乗の表現などが出てくる。
僕「…これを冪乗で書くっていうんだよ。…」 (p.56)
この「冪乗の書き方」は、デカルトが開発したものである。
比例の定義
量xと、量yと、0以外の定数aがあって、
y=ax
… (p.93)
このように変数をxyzなどアルファベット後方の文字、定数をabcなどアルファベット前方の文字で表すと決めたのもデカルトだ。
だがそもそも、デカルトの数学者としての業績は、なんといっても「代数幾何学」そのものの創始だろう。
テトラ「《図形の世界》と《数式の世界》……ですか?」
僕「そうそう。x軸上に点があるかどうかは《図形の世界》の話だよね」
テトラ「えっと、それは点が図形だからですか」
僕「うん、そう。それから y=0 は《数式の世界》の話」
テトラ「ははあ……なるほどです。《図形の世界》の話と《数式の世界》の話をつないでいる……あ、これも《秘密ノート》に書いておきますねっ!(先輩、内緒ですよ)」
… (p.136)
僕「こんなふうに、横軸をx軸、縦軸をy軸にしてグラフを描くね。これは座標平面だよ」
… (p.65)
こうしてx軸・y軸を使って座標平面を作り(デカルト座標)、《図形の世界》と《数式の世界》とを橋渡しして「代数幾何学(解析幾何学)」を始めたのは、周知のとおりデカルトである。だから、デカルトの業績が本書『数学ガールの秘密ノート 式とグラフ』の内容そのものに半分以上かぶっていたとしても、不思議でもなんでもない。
…
式とグラフに隠された秘密を、僕たちは共にする。
…
誰にも暴かれず、
誰にも奪われない。
そんな、大切な秘密となる。
(「プロローグ」より)
けっきょく、著者が内緒内緒とテトラに言わせて〈秘密〉にしているのは、デカルトへの〈賞賛〉と〈不満〉なのではないのか?
――私は、それを暴きたい。
ときおり、僕はこんなふうに自問する。
「自分の目は澄んでいるか?」
(p.49「第3章 数式のシルエット」より)
澄み切っていた著者の瞳だが、ある瞬間だけ、いつになく濁っていたのではないのか?
そして、血走った眼を見開き――――デリート・キーを連打し続けた。
バックスペース・キーも押し続けた。――――「デカルト」の名前が全部消滅するまで。
*
さらに『数学ガールの秘密ノート 式とグラフ』を見ていこう。
最初「第1章」のトップに、ドナルド・クヌースの言葉が引用されてある。
私たちはみな、
自分自身で発見したことを最もよく身につける。
―― Donald Knuth
(p.18「第1章の問題」より)
最後「第5章」のラストには、アランの言葉が引用されてある。
ひとは、実際に試みているうちに、ものを学ぶものであって、
試みようと思うだけでは、ものは学べないのである。
―― アラン(斎藤正二訳)
(p.209「第5章の問題」より)
本書での格言の引用はこの2つのみだ。
もちろん「問題を解く際の心得」として有用だから引用したのだろうけれども、それにしても、なぜこの2人なのか?
ドナルド・クヌースはプログラミングの博士で数学者の小説家だが、おおっ?……プログラマーで数学者で小説家といったら、結城浩氏その人ではないか。
つまり最初の最初で結城氏は、(おそらく)最も尊敬する偉人の格言を挙げた。
では、アランは?
アラン(1868-1951)は『幸福論』で有名な、フランスのヒューマニズム思想のモラリストだ。
芸術論、教育論、宗教、哲学…いろいろ書いた人だけれど、じつは、デカルト研究でも著名である。
第二次大戦のさなかの1944年には、筑摩書房からアラン著『デカルト』が、桑原武夫と野田又夫によって翻訳出版されている。敵国フランスの哲学書の翻訳本が敗戦間近に出版されていた事実は、われわれ現代人に日本国の可能性について希望を与えてくれる。本書はみすず書房などに受け継がれ、今も新装版が出続けている。
「心身問題については今もなおデカルト以上に優れた教師は見当たらぬ」と評すなど(→ウィキペディア)、アランはデカルトを尊敬し、デカルト哲学を重要視していた。
ところで結城氏が引用した格言には原典が示されていないが、おそらく『芸術に関する101章』(世界教養全集、アラン著、斎藤正二訳、平凡社、1962)からの引用であろう。デカルト研究でも有名なアランの格言を、デカルトとは関係のない書物からこれ見よがしに引用してきたのだ。先程もいったように、『数学ガールの秘密ノート 式とグラフ』の内容の半分以上は、デカルトが創り上げた内容であることに当てつけながら。
さてここで試みに、〈尊敬される人 → 尊敬する人〉という関係をx軸・y軸にとってみれば、
x軸: 〈ドナルド・クヌース → 結城浩〉
y軸: 〈ルネ・デカルト → アラン〉
の座標が浮かび上がる。これこそが、本書『数学ガールの秘密ノート 式とグラフ』の〈秘密〉構成なのだ。
*
だがこれでは結局のところ、数学ミドルマン結城氏がデカルトについて「直接的に」ストレートに語ったものは、本文中に全然確認できない。まぁ、そもそも、私はそのことを槍玉に挙げているのだけれど。
結城氏がデカルトを意識していたという証拠が、何かないだろうか?
ググって探すと、ツイッター上に結城氏がデカルトについて触れたものが見つかった。
「難題は分割して考えなさい」 ルネ デカルト
(@hyuki 2010年?より)
それともう一つ。こ、これは…!
デカルト「われは思惟する。ゆえにわれは存在する!」
数学教師「出した課題は唯一性の証明なんだが」
デカルト「ゆ、唯一性…?」
数学教師「思惟する存在aとbがいたとして、a=bを言えばいいの」
デカルト「aは思惟する。bも思惟する…わ、われは…」
数学教師「思惟する以外の属性はないの?」
デカルト「わ、れ?わ、われは」
数学教師「われわれなら唯一性は証明できてないな。不可」
(「結城浩の連ツイ」2015年May17日 21:02 より)
あっははは。これは相当ひどい言いがかりだ。
デカルトの第一原理の一節だけ切り取ってきて別の問題を合成し、数学教師はどこまでも上から目線だが、おたおたするデカルトをあっという間に落第に処してしまった。
この対話から読み取れることが、いろいろある。
対話の内容はというと、著者がデカルトに「存在の唯一性の証明」の問題を突きつけて、デカルトが答えられないであろうとの告発になっている。
この告発には、おそらく次のような内容が隠されている。
(1)「思惟するわれ」の存在が、哲学の基礎になるとでもいうのか。神の存在に先立って? 無礼者め。
(2)では、そもそも「思惟するわれ」とは、言うほど頼りになるような、唯一絶対の存在なのかね。
まず、他人は別の「思惟する者」だから、「われ」との唯一性はない。
けど、あんた自身だって刻一刻と変化しているんだ。現代なら動的平衡と呼ぶし、あんたの時代以前ならヘラクレイトスがパンタ・レイ(万物は流転する)っていってたとおり。しかもフロイト以降は無意識の領域だって確認されている。思惟する「われ」は身体と切り離せない存在だし。
つまり、「思惟するわれ」の唯一性なんか、ありえないんだよ。コテンパに否定されるんだよ。そんな唯一性を持たないグラグラしたものは、哲学の基礎には不向きなんだよ。
(3)じつは私は、君に〈背理法〉を促したってわけさ。解説しようか。
「思惟する存在aとbがいたとして、a=bを言え」ば、それらの同一性が証明されるのだが、思惟する存在aとbは同一になりえない。他者同士も、一個人においても。ゆえに、思惟するいかなる存在の唯一性も否定されるのだ。
そして数学教師(=結城氏)の結論が得られる。
(4)では、唯一絶対な存在とは何か。それは神にきまっている。神は全てであるのだから。
こんな恒等式で表してもいい。すなわち、∞=∞ と。
(5)けっきょく、デカルトは唯一絶対で全知全能で無限なる神を信じていないってことさ。
神に先んじて「思惟するわれ」を第一原理に持ってくるんだから。
(6)だから私は、ルネ・デカルトが嫌いなのだ。
だが、いくらデカルトが嫌いでも、『数学ガール』の内容と信仰思想とは分けてほしかった。
それが理性というものであるし、フェアな執筆であるし、読者への誠心であろうと私は思う。
ついでに少し付言しておく。
デカルトの哲学はまず、思索の〈順序〉が大切であるとデカルトは注意を喚起している。
一言だけ切り取ってきてそれをどうこう言っても、デカルトの真意は見えない。
たとえば、「われ」の「思惟する以外の属性」は、このあと順を追って後から確認していくのである。
さて、結城氏の課題「唯一性」は、たしかに考慮されなかったし、否定もされるだろう。しかし「我思う、ゆえに我あり」の主旨はそもそもそういうことではないのだ。
また、結城氏のなさった「イジリ方」は、どんな著作にも同じ手口が適用できてしまう。
――例示が必要だろうか?
ミルカ「《例示は理解の試金石》だ。…」 (p.65)
*
ユーリ 「ユーリはしーする、ゆえにユーリはそんざいする!」
重箱狂師「出した課題は唯一性の証明なんだが」
ユーリ 「ゆ、ゆいいつせい…?」
重箱狂師「思惟する存在aとbがいたとして、a=bを言えばいいの」
ユーリ 「えーと、しーする存在aはテトラ、bはミルカ、cはお兄ちゃん、dは…」
重箱狂師「そ、それを言ったらまずいだろっ! しー、しーっ!」
ユーリ 「ユーリはしーしないよ。dは……著者の結城浩さんだにゃ!」
重箱狂師「そ、それを言ったら、お前もだろうが!」
ユーリ 「そーだった。ユーリ=e、=a=b=c=d=テトラ=ミルカ=お兄ちゃん=結城浩
さんで、キュ、キューイーディーだにゃ」
重箱狂師「Q.E.D.だにゃ、じゃない。それで一体何の唯一性が証明できたとい
うんだ、無礼者!」
ユーリ 「にゃあ」
重箱狂師「ユーリ? 何してる、おいっ…やめろ、マスクをとるなっ…ユーリ!
ユーリ! あっ、ユーキ!」
*
『数学ガール』ファンのみなさんを不快にさせるイジリ方をしてしまった。
お詫びに、〈極上の謎解き〉をプレゼントするので、許してほしい。
『数学ガール』では、プロローグに1冊のエッセンスが予告されてあることは、ファンのみなさんならたぶん気がつかれていることだろう。
今回のプロローグも内省的な詩情が漂っている。出だし部分を抜粋してみる。
これは、対話だ。
あるときは、中学生のユーリと共に、
あるときは、高校生のテトラちゃんやミルカさんと共に、
僕たちが繰り広げる対話だ。
対話には、すべてが詰まっている。
疑問も、解答も、賛同も、反論も、賞賛も、不満も。
空間も、時間も。
そして――秘密も。
対話を通して、僕たちは秘密を共にする。
式とグラフに隠された秘密を、僕たちは共にする。
…
ぼーっと読んでいてはいけない。プロローグが1冊のエッセンスなのだから。
ここには、どういうことが書かれてあるのか?
対話に何が詰まっているって? そして〈秘密〉って何のことだ?
さあ、謎解きである。
本書のp.162~163。最後の第5章のラストシーンで、ミルカとテトラと僕はそれぞれ帰路につき、
――僕たちが、ひとりひとりで考える時間だ。
というふうにお開きになる。
その直前、テトラは何か胸につかえている意味ありげな態度だった。
テトラ「あ、す、少し考えてみたいことが」
僕 「何?」
テトラ「いえ、えっと、あの……秘密、です」
そのさらにその直前――3人が話していたのは、上に開いた二次関数の定数αの値を変えて、どんどん関数グラフを座標の上方に移動させる方法だった。(p.161)
(なお、このグラフ移動を示した図のタイトルが「…のグラス」となっている。「…のグラフ」の誤字であろうが、ワイングラス片手に謎を仕込んだ結城氏の胸騒ぎが見て取れる気もする.)
いよいよ、ここからがミステリーの解答編だ!
写真:開いた本は『デカルト著作集(1)』の「幾何学」と『数学ガールの秘密ノート 式とグラフ』。
閉じた本は『数学ガールの秘密ノート 丸い三角関数』と『デカルト著作集(3)』。
*
定数αの値を増やしていくと、x軸と二次関数との接点が、2→1→0 となる。
これは、話している3人がそれぞれ別れて帰っていく下校時刻の情景と重なって、素晴らしい余韻を残している。読者は読了し、もう一度「プロローグ」に戻ってみよう。
対話には、すべてが詰まっている。
疑問も、解答も、賛同も、反論も、賞賛も、不満も。
空間も、時間も。
そして――秘密も。
この対話編に詰まっているすべて、それは、
疑問-解答
賛同-反論
賞賛-不満
空間-時間
秘密
だという。この二項対立的な組み合わせでは、〈秘密〉はあぶれてしまっている。
この並び順は間違っているのだ。
組み合わせを再検討してみよう。反語でなく、類語でやってみる。
疑問-秘密
賛同-賞賛
空間-時間
不満-反論
解答
こんどは〈解答〉があぶれたが、これでいい。
〈疑問〉と〈秘密〉から数学の物語ははじまり、〈解答〉で終わる。
ところで、この並びを見て、何か感じないだろうか?
…では、こうしたらどうか。
∧
|
| q疑問--------秘密
| 賛同-------賞賛
| 空間-----時間
| 不満--反論
| 解答
--+---------------->
|
|
3人が最後に話していたのと似た二次曲線が描けた。
グラフは下方にあり、x軸との接点の数を 2→1→0 と変えつつ、徐々に上に上がって上記の図になるだろう。左からグラフに沿って右まで読むと、
疑問、賛同、空間、不満、解答、反論、時間、賞賛、秘密。
この〈対話〉 Dialogue は、この順番が正しい。
なぜならこれは――アナグラムなのだから。
疑問
賛同
空間
不満
解答
反論
時間
賞賛
秘密
英語に訳そう。
疑問 Doubt
賛同 Endorsement
空間 Space
不満 Complaint
解答 Answer
反論 Refutation
時間 Time
賞賛 Eulogy
秘密 Secret
『数学ガールの秘密ノート 式とグラフ』は、はじめからデカルト(DESCARTES)と結城浩氏との対話だったのだ。「式とグラフに隠された秘密を、僕たちは共にする。」この〈僕たち〉だ。
著者はデカルトの名を書かなかったのではなく、本の中に堂々と隠したのである。
そしてこれこそが――大切な〈秘密〉であり、「僕たちの対話」だったのだ。
よく隠れる者は、よく生きる者だ
――ルネ・デカルト
Q.E.D.
スポンサーサイト