わたMANさんの記事を見て、若いってのはいいなーと思いました。そう思うようになっただけでも、自分が年を取ったってことなのでしょうか。
以後、「近頃の若者は(以下略」という言葉が口に出ないよう、気をつけます(笑
人気ブロガーとは?
ブログサーフィンをしていると、
「人気ブロガーになる」
「有名になってブログでお金を稼ぎたい」
というブログをよく拝見します。うんうん、頑張れよ~と暖かく応援しつつも、ある愚問が頭をよぎります。
「人気ブロガー」を連呼してるけど、何をもって「人気ブロガー」としているの?そもそも論として「人気ブロガー」って一体なに?その定義は?
そこを深く掘って考察している人がいないように見受けられます。
アクセス数が多い?ああ、そんなもの金払って業者にアクセス数増やしてもらえばいいんじゃない?お金払ったら何億アクセスも夢じゃないよ(笑
本当の「人気」というのはどういうものか。
それは、「古典になること」。
ブログ自体始まってまだ10年ちょっとの浅い歴史なので、百年なんてまだ遠き道。そもそも百年後なんて、今この記事見ている人の99.9%は生きてませんて(笑
しかし、百年経つと、ネット資源がまだあると仮定して、必ず
「古典ブログ」
「古典Youtube動画」
なるものが出てきます。くどいようですが、その時我々はほぼ確実に生きていません。
ちょっと考えてみましょう。
今人気があるYoutuber、100年後まで語り継がれるほどの「質」はありますかね?Youtubeは見るけどYoutuberにはとんと興味がないので、そこらは知りませんが、宵越しの銭を人気をもらったって、飽き性な大衆に飽きられたら一巻の終わりではないかと。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
目的と手段
いろんなブログを見ていくと、「人気ブロガーになりたい」という人は、ある共通点を持っています。
それは、
目標が「人気ブロガー」ということ
そりゃあ私も人気ブロガーになりたいです。それはブログを書いている以上、全然否定しません。
お、おれはそんなことないんだからね!!
勘違いしないでよ!!
しかし、私は彼らとは手順が違います。真逆です。
とにかく好きなこと、書きたいこと書いてゆく
書く愉しみを、ブログというツールを借りて表現してゆく
自分の持ち味、専門を極めてゆく
そのために、読書などで文章力・文体を鍛える
先哲の知識・知恵・文体を拝借し、自分の見識にする
さすればお金と名声は勝手についてくる
あくまで理想論です。
辛口ですけど、「人気ブロガーになりたい」はなんだか本末転倒に思えるのです。
ブログはYoutubeと違い、メインは文章と写真です。いや、写真ブログ以外、写真は添え物のようなもので、メインディッシュは文章。
当たり前のことを当たり前に書いていても、ある程度アクセスはあるでしょうが、同じことを文章力を持つ者が書くとどうなるか。文から訴えるパワーが違うだけではなく、自分が先に書いたのに「元祖」の旗印まで奪われてしまいます。
そんなパワーを生まれつき持っている人は少ない。持っていたらそれは天才、我々の対象ではありません。
なら、そんな文章力を持つにはどうすればいいのか?
答えは簡単。先哲の知識・知恵・能力を拝借したらいいのです。
活字なら活字の先哲なんて数百人、数万人います。その中でも選りすぐりの「古典」やそれに匹敵する人の作品から、ゲームのファイナルファンタジー風に言うと「ラーニング」したらいいということです。
それが出来る最大の近道が、「読書」です。
「読書家に駄文なし」
とは、昔から言われている言葉です。読書して名文家になれるとは限りませんが、駄文にはなりません。
意識しているしていないにかかわらず、読書をしていると文章のリズムが植え付けられます。ダラダラと「、」が続く、いつ終わるねんこれ!?という文章は書かない。これ、意識的ではなく無意識なのです。
「本を読んでいるヒマがあればブログを書け」ではないのです。「ブログ書いているヒマがあれば本を読め」なのです、実はね。
ああ、なんだか偉そうなことを言ってますが、これも禁煙の禁断症状なのでしょう。
禁断症状で絶賛苦悶中の今の私は私ではありません、私という姿をした何かです。
「人気ブロガー」というのはあくまで手段。
問題は、「人気ブロガー」という武器を使って何をするのか。読者に何を訴えたいのか。何を目的に書きたいのか。そこ、ちゃんと考えてますかぁ~?
考えてない?
「政権交代」を目的にして、いざ目標を達成したら燃え尽き症候群になったか、見事にずっこけた民主党(民進党)と何ら変わりがありません。つい数年前の「歴史的失敗」の教訓は勉強しておきましょう。
私だとただ偉そうで全く説得力がないので、この人の言葉を借りましょう。
「僕らは『有名になりたい』『お金持ちになりたい』『女にちやほやされたい』と書いていたわけではない。ただ、書くことが好きで楽しくて仕方ないから描いていた。
それが結果的に金になり、このようにお仕事をいただいている。ただそれだけなんだよ。
少なくとも、上の目的だけで物書きをやっていた人は僕の仲間にはいなかった」
ある劇作家(ラジオでたまたま聞いただけなので、名前忘れたw)
若いうちはなんでもやっておけ!
しかしながら、言及先の本文にあるように、
「人気が出てチヤホヤされたいというバカみたいな願望」
で若いうちは全然OKです!!
20代のうちは、どんどん経験値を積み自分の蓄え、財産とする時期でもあります。いくら失敗しても周りは許してくれるし、5年後10年後に
「あの時、俺も若かったよね~ww」
と笑える時期が必ず来ます。その時に笑っておけばいい。
ブログネタがない?それなら海外をバックパック担いで1年くらい放浪しろ。世界中を見聞すれば、10年はネタに困らんぞ。
とりあえず犯罪以外はなんでもやっておけ。
バカ?大いにやれ。格好つけるのは40代からでも出来る。
20代で出来ることは40代でも出来る?出来ません!
そしてどんどん失敗しろ。20代の財産は「失敗の数」。
さすれば、結果は自ずとついてくる・・・maybe
私が若い人に送るエールです。
私も20代はハチャメチャやってましたから。このブログのURLになっている私の人生キーワード、「パルプンテ」もここから生まれたものです。
でも、それが20年後にブログネタになっている。何と素晴らしき人生や(笑
私の師匠たち
私が目指しているのは、人気ブロガーやYoutuberではありません。
彼らには悪いですが、私の視界はもっと高みにあります。
具体的な名前を出すと、
1.司馬遼太郎(1923-1996)
司馬遼太郎はいまさら説明不要ですが、私は『坂の上の雲』などの小説より、小説家を「引退」した後の文明論エッセイや、『街道をゆく』シリーズの方が好きです。熟しきった果物の実のように、文章が「とてもおいしい」のです。
実際、私は司馬遼太郎の小説は、ぶっちゃけ『坂の上の雲』しか読んだことはありません。が、『街道をゆく』やエッセイ集は全巻読破、全巻家の本棚に、死ぬまで保存版としてストックしています。
『街道をゆく』シリーズは司馬の紀行文なのですが、どこのどこからそんな人物掘り当ててきたんだ!という歴史に埋もれた人物をまな板の上に載せ、その考察を出発点とします。これが司馬エッセイの真骨頂。
それを旅のメインディッシュにしつつ、そこから文明論に展開していく。
司馬遼太郎は、私の「昭和考古学」の原点の人とも言えます。
司馬さんは、こんな言葉を遺しています。
「昭和は私には書けない。書くとすぐにでも気が狂い、血を吐いて死んでしまいそうだから。
いつか昭和を客観的に見ることが出来るようになり、客観的に見ることが出来る次世代の人たちが書けばよい。いつか私の代わりに、昭和を書いてくれる若い人が出て来ることを願う」
私が昭和史をライフワークにして、「昭和考古学」を研究している理由は、このことばにあります。司馬の友人が、
「これは作家司馬遼太郎ではなく、(本名の)福田定一として語っている」
と言ったこの言葉の翌年に亡くなってしまったので、事実上の「遺言」ですね。
自分の身分もわきまえず、よし、俺が司馬さんの遺志を継ぐと。
昭和生まれだけれども、昭和20年までの「昭和初期」は客観的に見れる世代なので、その「資格」はあると勝手に思っています。
ちょっと大げさですけど、「昭和考古学」は、司馬遼太郎から与えられた宿題のように思えるのです。
しかし、彼の本を読めば読むほど、こりゃ無理やなと自身のセンスのなさ、知識量・勉強量の少なさに幻滅してしまいます。司馬作品を読めばよむほど、自分との違いに憂鬱になります。司馬さんを追いかけていくと、本気で鬱病になり、果ては首を吊るのではないかと。そういう意味では、司馬遼太郎は調理方法を一つ間違えると、猛毒にすらなる(笑
2.遠藤周作(1923-1996)
遠藤周作は、自身がカトリック教徒ということもあって、キリスト教を題材にした小説を書いています。
マイノリティゆえの悲哀を描いた作品も多く、意外に知られていませんが海外の愛読者もかなり多いです(特にキリスト教徒)。
よって海外でのウケが良く、ノーベル文学賞の最終選考(3人)にノミネートされたこともありました。
『女の一生』(第一部・第二部)という小説は、これを読んで号泣しない女性は女性にあらずと言われるほど、キリスト教と女性の人生、プラトニックな愛を描いた傑作です。私も大泣きしました。
しかし、遠藤周作の本領発揮はそのエッセイ。「狐狸庵先生」という名前エッセイストという顔もありました。
エッセイスト「狐狸庵」こと遠藤の顔は、本当にこの人、あの遠藤周作か?と思えるほどの活字コメディアン。活字だけで腹を抱えて笑えるユーモア・ナンセンスエッセイの第一人者は、この人をおいて他にありません。
私のブログエッセイは、少なからず遠藤周作ならぬ「狐狸庵先生」を意識しています。ブログエッセイの師匠と言っていいでしょう。
エッセイストの阿川佐和子さんによると、お父さんの阿川弘之と仲が良かったこともあって、遠藤がよく自宅に遊びに来ていたそうです。
幼い佐和子氏から見た遠藤は、
「最初はお笑い芸人かと思っていた」
実は「名のしれた文豪」だと知って愕然、
「プロのお笑い芸人でも食べていけるんじゃないかと思った」
(by阿川佐和子)
というほどのハチャメチャぶりだったそうです。
キリスト教系の学校に通っていた高校生の頃の聖書の授業で、ある時、教師のシスターが遠藤周作の作品を挙げました。
「この方は繊細なお心を持つ、敬虔なカトリック教徒です (-人-)」
厳かな口調で言ったのですが、佐和子さんは、小説家遠藤周作ではなく「お笑い芸人遠藤周作」しか見たことがない。あの「芸人」のどこが繊細なんだwwwと必死に笑いをこらえていたそうです。
この気持ち、わかります。私も『女の一生』で大泣きした後、遠藤文学を読もうと「狐狸庵」シリーズを一冊買って読んだ時、遠藤周作という同姓同名の別人かと思いましたし。
関係ない話ではありますが、10年前、ちょっとご縁があり阿川佐和子さんにお会いしたことがあります。といっても挨拶+アルファ程度でしたが。
背が低く、美人というより「かわいらしい」と言った方が正解。そして知性からにじみ出る品の良さ。芸能人以前に男として目がハートでした。生肉を目の前にしてヨダレを垂らした空腹のライオン状態。一目惚れってこういうことを言うのかと。
いやー、年の差と芸能人ってのがなければ、本気の本気で口説いてました。
同世代の作家とのハチャメチャエピソードを集めた『ぐうたら交遊録』は、狐狸庵エッセイの中でも傑作です。
主にネタに挙げられるのは、
上に書いた阿川佐和子のお父さんにして、志賀直哉最後の弟子である阿川弘之(1920-2015)。
もう一人は医者でもある、『どくとるマンボウ』こと北杜夫(1927-2011)。
歌人の斎藤茂吉(1882-1953)の息子、「もたさん」こと精神科医・エッセイスト斎藤茂太(1916-2006)の弟でもあります。
この3人は仲が良かっただけに、狐狸庵エッセイの餌にされまくりです。
他の二人も、ネタにされて黙っていません。お互いのエッセイでお互いの裏話暴露、罵倒合戦。まるで『笑点』の大喜利の罵倒ネタを約2000文字にしたような、爆笑の連続です。
そういうことは内輪でやればいいものの、それが活字になり、単行本になり、文庫になり、最後には『○○全集』に掲載され永久保存。いちおう、彼らは「全集」が出るほどの文学者です。
「狂という言葉がある。キチガイという意味ではない。あることに夢中になりすぎて、その言動、はたから見ると常軌を逸した御仁を言うのである。
私の友人の中でも阿川弘之は、まさしくこの意味にふさわしいお方である。彼には四つの狂がある。乗物狂。食物狂。軍艦狂。そして賭博狂である(以下略」(遠藤周作『ぐうたら交遊録』)
文章が古典落語のような響きを持ちつつ、はいこれから罵倒するよ~♪という準備万端。何書き出すんやろ?というワクワクと同時に、笑いがこみ上げてきます。
事実、この出だしは「名文」として、数々の作家・エッセイストに文章を変えオマージュされています。私もいつかはこれをオマージュしたいなと。
しかしあの世の遠藤さん、阿川さんは「軍艦狂」というより「旧帝国海軍狂」だと思いますが、いかがでしょう。
阿川弘之は車の運転が荒いことで有名だったそうですが、遠藤周作もその「犠牲者」の一人となります。長くなりますが文をそのまま引用します。
阿川の運転は人の噂とはちがって、うまかった。ビューッと疾風のように走り、ギイーッと嫌な音をたてて急停車するどころか、安全な速度で慎重そのものであり、私は思わず、
「本当はうまいんだな」
そう賞賛したくらいである。
冬の山は人影少なく、ドライブウェーにも車の数は少ない。私は阿川のおかげで思いがけなく快適なドライブを楽しめたことを感謝し、
「有難うよ」
マツタケを奪われた恨みも忘れて彼に礼を言った。その私の顔を阿川は黄金仮面のように眼を細めてじっと眺めると、
「どういたしまして」
いつもとはガラリと違う声を出すのである。
冬の湖をぐるりと回り、新しくできたという箱根ターンバイクをまわって帰ることにした。こちらは先程の道よりももっと寂寥として通る車さえない。
「君は人の噂とはちがうね」
と私は言った。
「どうして」
「人の噂だと、君の運転は神風運転だというが、実際、こう乗ってみると、なめらかだ。僕はひとつも、こわくないよ」
「そうかね」
「僕は東京に戻ったら、君の運転についての誤解を弁じたいぐらいだ」
「そうかね」
そうかね、そうかねと返事をしながら彼は少しずつアクセルに力をかけていたのである。私は車のスピードが刻一刻と増していくのを感じた。
「何だか、早くなったようだが」
「そうかね」
「そのくらいで、もうスピードはあげぬほうが、良いと思うが・・・」
「そうかね」
眼の前の道、両側の林、標識が矢のように飛びはじめた。下り坂がアッという間に眼の前に迫ると、たちまち上り坂となり、息つく間もなく頂上が迫る。
「君、何をするのだ、やめたまえ」
「そうかね」
「冗談はよしなさい。馬鹿はやめろ」
「そうかね」
私は額から汗が出はじめた。私はこれでも自分の家に女房一匹、金魚五匹、犬二匹、息子一匹、メダカ二十匹、合計二十九匹の生命を養う身である。もし私がこの阿川の目茶苦茶運転のために生命を失うとすれば、これら二十九匹の生命は明日からでも飢えるであろう。
「よせ。よさんか」
「そうかね」
「助けてくれ。お願いします」
「そうかね」
そこで初めて阿川はアクセルを少しゆるめた。
「じゃあ、お前、レストランMで奢るか」
Mというレストランはパリの有名な料理屋の出店で、料理はともかく値段がべら棒に張ると聞いている。そこで自分に奢れと阿川は言うのである。私はしばし、ためらった。
ためらっている私を見ると、阿川はふたたびアクセルを強くふんだ。眼前の道、両側の林は逆巻く濁流のように流れはじめた。クルクルクルクル、眼がまわる。
「奢るのか。奢らないのか。イエスか。ノーか」
「イエス、イエス」
「俺のほかに、女房もつれていくがいいか」
「か、かまわん」
「息子もつれていくがいいか」
「いい。いい」
「娘もつれていくがいいか」
「いい。いい」
「赤ん坊もつれていくが、いいか」
「いい。いい」
「メニューを見て、食べるものを選ぶのは俺の家族だが、いいか」
「イエス。イエス」
車の速度がやっと元に戻った時、私は頭がくらくらとして物もしばし言えなかった。私が絶対に自動車運転を習おうと心に誓ったのはその時である。
一週間後、阿川は奥さんを連れて、しょんぼり料理店Mで待っている私の前にあらわれた。そして食うこと、食うこと。夫婦してパクパク、パクパク、食べちらかしたのである。
おかげで私の息子はそのあとにあった運動会で運動靴も買ってもらえず、裸足で走らねばならなかった。
私は阿川文学の愛読者でもあるので、この光景が阿川弘之の、最後の最後まで旧字体と旧仮名遣いを貫いた文体の硬派ぶりからは見えないハチャメチャぶりと、遠藤の「やられた」感が滲み出てきて、涙が出たほど爆笑でした。同じ書くなら、これくらい読者を抱腹絶倒させる活字を書きたいと。
これが「過去のノーベル文学賞最有力候補」と、「旧帝国海軍の葬式を70年間一人でやってきた男」の素顔です。
もっとも、「どくとるマンボウ」によると、狐狸庵先生は割り箸を金の延べ棒にするエッセイの名手である「狸大王」「大げさ大明神」。果たして上の話がどこまで本当か。
3.宮脇俊三(1926-2003)
宮脇俊三は、上の二人に比べると知名度は、正直二段階ほど落ちます。
しかし、この人の真髄は「乗り鉄」ということ。筋金入りの乗り鉄、生粋の鉄オタなのですが、それを文学にまで高めた「鉄オタの最高神」です。彼が亡くなった時の葬儀には、鉄道マニアが大勢駆けつけました。
鉄道マニアは何かとバカにされますが、バカにされたくなければ宮脇俊三を目指せ!と叱咤激励しています。
実は、文学者には「鉄オタ」が多かったりします。夏目漱石の愛弟子内田百閒(ひゃっけん)は、陸軍・海軍の語学教官をやっていたこともあり、「軍人割引」(一般人の2割引~半額)という特権を悪用して鉄道旅行をしまくり。『阿房列車』という鉄道紀行シリーズも書いています。
谷崎潤一郎も、「鉄分濃度」は薄いものの、これがなかなかの鉄道好き。鉄道旅行の愉しみを書いたエッセイも残しています。
遠藤周作のところで書いた阿川弘之も、「鉄道マニア」という言葉が流行り、定着し始めた頃の鉄オタで、「元祖鉄オタ文学者」と言われています(実際は内田や谷崎が先輩なのですが、その時は「鉄道マニア」という言葉すらなかった)。遠藤が書く「乗り物狂」とは鉄道も含まれます。
阿川作品と言えば、『山本五十六』『軍艦長門の生涯』などの旧帝国海軍ものや、戦争へ行き死んでゆく若者の心を描いた戦争ものを思い浮かべる人が多いですが、「鉄もの」エッセイもけっこう書いています。
阿川の「鉄オタ文学者ぶり」は、今我々がなにげに使っているものにもあらわれています。
東海道新幹線に、「ひかり」「こだま」に次ぐ新しい列車を走らせようという計画があり、名前をどうしようということになりました。
JR東海の社内では「きぼう」という名前で決まっていたのですが、選考委員だった阿川佐和子さんが、父の弘之の
「日本の列車の名前はみんな『やまと言葉』だった」
というアドバイスを思い出し、
「『きぼう』をやまと言葉にしたら『のぞみ』ですよね」
JR東海も正式に認めている、新幹線『のぞみ』誕生の瞬間です。
阿川弘之は、友達の遠藤周作や北杜夫、吉行淳之介などの文学仲間を誘い、よく鉄道の旅をしていたそうですが、彼らは阿川の強引なプランに敵前、いや敵中逃亡。
彼らのハチャメチャ旅行を横で楽しそうに見、阿川に唯一ついて行った出版社の編集者が、宮脇俊三でした。阿川氏の昭和20~30年代の「鉄道もの」にも、ペーペー編集者時代の彼が出てきます。
出版社を退職後、宮脇は「鉄道作家」として一本立ちし、世間に「乗り鉄」「旅鉄」という愉しみがあると知らしめました。
お笑い芸人の中川家の礼二がハマっている「鉄道廃線跡めぐり」や、タモリがそうである「時刻表鉄」は、この人が切り開いた分野です。
個人的な宮脇の最高傑作は、『時刻表昭和史』という作品。
鉄道を軸に、戦前の昭和史と自身の幼少期・青年期を語る自伝的小説なのですが、日本では数少ない「教養小説」というジャンルです。
司馬遼太郎などの玄人には大絶賛されたのですが、馴染みがほとんどない教養小説ということもあったか、一般にはほとんどウケず売上も散々。いったんお蔵入りの絶版になってしまいました。
しかしこの本、昭和史・鉄道史の歴史面で再評価されるようになり、復刻版として再出版されました。
鉄オタの本では済まないような、一国民から見た昭和の生活史を垣間見れる作品ですが、
「これって、我々が学んできた昭和史の観点を、180度変えるものではないか?」
という事柄を、サラッと書いています。本人はそんなこと意識していなかったと思いますが。それがどこかは読んでのお楽しみ。
残念ながら、「鉄道文学」に関しては宮脇の後に続く人はいません。今現在、後継者が途絶えている状態です。
私もいっぱしの「乗り鉄」でもあるので、宮脇が築き上げた「鉄道文学株式会社」のレールを引き継ぎ、「平成の宮脇俊三」を名乗ろうという野心は持っています。そんな奴が今鉄道がない淡路島に住んでいるのは、誰かの嫌がらせでしょうか。
宮脇さんには申し訳ないですが、大文豪司馬・遠藤と比べたら、まだこの人の文章の水準には追いつけるかな!?というハードルの低さもあります。
しかし、私は「鉄オタ」であっても、どうも「歴史鉄」っぽい。
司馬遼太郎の歴史への深い洞察
+
遠藤周作のユーモアエッセイ
+
宮脇俊三の「オタクを極める」文学
これをコラボさせたら、天下無敵じゃないかと。
まさに「BEのぶ無双」。
彼らのエッセンスをすべて吸収した完全体になれば、そこらのYoutuberなんぞ指先一つでダウンです(笑
最後に
これだけ書いて、まだ書いていないことがあります。
それは、不肖BEのぶがどこを目指すのかということ。
ちゃんと目標、誰に何を訴えたいのかという、長期的な指針は持っています。
じゃあそれを書けって?
フフフフ・・・それはまたの機会に。
書きたいことを書きたい放題書いておいて、おいしいところは何も書かない。
それもこれもすべて、禁断症状のせいです。
☆☆最後までご覧いただき、ありがとうございます。
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