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【ふくしま便り】荒廃する鈴木安蔵の生家 9条ルーツ、規制区域に
憲法学者・鈴木安蔵の名を知る人は少ないだろう。日本国憲法の実質的な起草者とも言える存在だが、業績に比べて不当というほど顕彰されずにきた。その安蔵は福島県南相馬市小高区(旧小高町)で生まれ育った。世界にもまれな平和憲法のルーツは、自由民権運動の伝統が色濃く漂う、この古い町にあるともいえる。ところが安蔵の生家は今、居住が制限される区域の中にある。原発事故は九条の故郷も台無しにした。 小高区は事故後は警戒区域とされ、立ち入りが禁止された。三年前の再編成で避難指示解除準備区域となったが、今も夜間は立ち入りができない。 安蔵の生家は人けが絶えた町の中心部、商店街の中にあった。通りに面して「林薬局」と大きな看板があるが、シャッターは閉じられたままだ。裏手の古びた風格のある屋敷も、蔵が崩れ落ちて、荒れ始めている。 安蔵はこの家で一九〇四(明治三十七)年に生まれた。父・良雄は銀行員。俳号を持つような文化人であったが、結核のために二十七歳で亡くなった。母・ルイに育てられた安蔵は仙台にあった旧制二高に進学する十七歳までここで過ごした。両親はクリスチャンで、安蔵自身も日曜日は必ず近所の教会に通った。その教会は、やはり無人の状態で残っている。 家は安蔵の姉である鈴木瑛(てる)夫婦が薬局を営んで守った。原発事故が起きるまで、安蔵のおいの妻である鈴木千代さん(89)と長男一家が住んでいたが、今は千葉県松戸市に避難している。 千代さんが「(安蔵には)何度か会いました。お茶が大好きで急須まで持参して幾つものお茶を入れてくれるんです。優しい人でしたよ」と話してくれた。しかし、原発の話となると「私たち夫婦も建設反対の署名運動をしたんです。なぜ、こんなことに」と言葉をのんだ。 驚いたことがある。小高は人口一万人超の小さな城下町だが、この町をルーツとする反権力の巨人がほかにもいたのだ。 「死霊」で知られる思想家で小説家の埴谷雄高(はにやゆたか)。埴谷(本名は般若(はんにゃ))の家は代々奥州相馬家に仕えた武家だった。埴谷は小高で育ったわけではないが、安蔵の五歳年下にあたり、治安維持法で逮捕され、獄中で勉強に励んだ点が共通している。 戦前の農民運動家の平田良衛も、この町の出身で安蔵の親戚にあたる。こちらも獄を経験している。「死の棘(とげ)」の作家・島尾敏雄も小高に縁が深い。 東北の小さな町に、なぜこれほどのエネルギーが育ったか。 福島県九条の会代表の吉原泰助・元福島大学長は「福島は西の高知と並び自由民権運動の盛んな土地で、反軍平和思想を培ってきた。その底流には明治政府ができた時点で賊軍で、軍隊が薩長藩閥政府の手兵にすぎないという反発もあった。キリスト教が盛んで自由な考え方を教えた側面もある」と分析する。 安蔵の弟子である金子勝・立正大学名誉教授は「条文解釈だけだった憲法学をマルクス主義を基に社会科学に押し上げたのが先生でした。経済原則を突き詰めれば戦争が始まる。だから政府を憲法でしばる必要があると考えた」と解説する。 また「草案を作る過程で先生が強く主張したのは抵抗権でした。悪い政府は民衆が倒してもよいとする権利です。全会一致の原則から採用されなかったが、先生の精神はここにあった」とも話す。日本国憲法の幹には、虐げられた民衆の願いの結晶としての、反軍平和思想が横たわっていることになる。 静まり返る小高の町を歩いた。日本人は、この特別な土地を見捨ててはいけないとあらためて思った。 (福島特別支局長 坂本充孝) <鈴木安蔵(すずき・やすぞう)> 1904〜83年。京都帝国大哲学科に入学し、後に経済学部に転部。26年の治安維持法違反第1号「学連事件」で摘発され自主退学。在野の研究生活に入る。45年に「憲法研究会」の「憲法草案要綱」を起草。同要綱は連合国軍総司令部(GHQ)案の下敷きとなった。52年から静岡大、愛知大、立正大で教授。波乱の生涯は映画「日本の青空」の題材となった。 PR情報
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