異世界モノ

登録日 :2016/08/17 (水) 13:40:42
更新日 : 2017/04/24 Mon 23:40:06
所要時間 :約 8 分で読めます




異世界モノとは、狭義やアニヲタなどの認識上は「読者のいる地球とは別の世界に移行する主人公の物語」を指す。
字面に反して狭義の「異世界モノ」には「現代地球の視点を持つ人物が一切登場せず、別の常識が支配する日常をひたすら描く」作品は含まれない。
それは「ハイ・ファンタジー」という別分類に入るらしい。
ここでは広義の概念的意味も含めて記述する。

◆「異世界」とは?


実はこれ、ものすごく広く取れば「異なる環境」であるとも言えなくはない。

ALDNOAH.ZEROの元ネタである「火星のプリンセス」(1917)は
「南軍の騎兵隊大尉ジョン・カーターの意識が火星に転移して、現地の火星人と戦ったり、王女のデジャー・ソリスとラブロマンスしたりする」という物語。
場所は同じ太陽系内の惑星だが、性質はファンタジー異世界転移モノと極めて類似していると言える。
また「低重力惑星ゆえに無双できる」という、下記のMARやドラえもんのネタの祖先でもある。

ちなみにwikipedia本家では上記は「惑星冒険もの」と呼称されていると記載があり
剣と魔法のファンタジーとは細かく識別されている一方、初期の路線(つまり元来の惑星冒険もの)を模倣したものが
「剣と魔法」をもじった「剣と惑星もの」、「ホースオペラもの」をもじった、
「スペースオペラもの」というサブジャンルとして呼ばれるようになっていったなど、「剣と魔法のファンタジー」との類似性も指摘されている。

ソードアート・オンラインはゲームの世界で、この世界は現実の人間が作成したプログラムである。
だが「はてしない物語」やふしぎ遊戯は「現実に存在する本」の中に入る作品で、
ドラえもんにも「絵本入りこみぐつ」を用いたドラえもん のび太のドラビアンナイトが存在する。
(ちなみにSAOは無印1巻のアインクラッドでは「現地知性体」は1人なので微妙なところだが、
プログレッシブなどの派生においては高度な反応を持つNPC集団が存在している)

「本の中の世界」は「誰かが書いたもの」だから「異世界」ではないのか否か。本の住人の心とソースコードとの違いとは一体……。
こう考え始めると、案外識別は困難であることが分かるだろう。

きさらぎ駅も「異なる環境」には違いないと思われるのだが、
そう断定するには証拠が少なすぎるのに加えて文明・文化自体は現代日本と違わないことが少ない材料から推測できるのでここで言う「異世界」に分類することは少ない。


◆異世界=異環境≒活躍・無双


異なる環境であるという事は、それをネタにしてキャラクターを活躍させやすいという点はある。

例えば異世界モノのネタの一部には「現代知識無双」というものがある。
これはファンタジー系異世界に現代の技術などの知識を持ち込み、主人公が崇められるというもの。

なろう系に多く見られると言われており、元々ネット小説であったGATEの原作や、
ラノベではノーゲーム・ノーライフにネタにされている記述があったりする。


だが同じような設定のネタは、既に1889年にマーク・トウェインが「アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー」という作品に書いている。
本作は(小説が書かれた当時の)現代アメリカ人技師が昔のイギリスで知識無双という物語である。

最近の日本で言うと医者が幕末頃にタイムスリップする「JIN-仁-」や料理人が戦国に行く「信長のシェフ」も構造的には類似している。
まあ彼らは割とお上につかまったり無茶振りされたりするが……。
イギリスでは「アウトランダー」という作品も大体同じで、1945年に看護婦だった主人公が1743年スコットランドに転移する。
そして権力者に「能力利用したろ!」と軟禁食らったり。

ドラえもん本編にはのび太が「マッチやラジオを原始時代に持ち込んで崇められよう」と「過去に戻る」エピソードがあり、
仮想戦記にも「戦争の推移の知識を持ち込んで〜」といったものがある。
これらは過去改変モノやタイムスリップモノと識別されるが、前述のように「異世界での現代知識無双」との相違点は?と言えばガワの部分が結構大きく、
前述の「火星のプリンセス」にも野蛮な火星人に主人公が知性で優位に立つシーンがある。

こうしたものは映画の世界では「白人酋長モノ」と称されるらしい。
これは技術レベルが低い(という設定の)「ジャングル奥地などの未開の蛮族」に銃など「文明の利器」を見せて神や偉人と崇められ酋長に……という物語である。


知識や技術を用いないパターンとしては、安西信行の漫画MARには「メルヘン世界の方が低重力なので主人公が強い」という描写が序盤にある。
(前述の通り「火星のプリンセス」に同じ)
同じネタはドラ本編にもあり、「宇宙救命ボート」で行った先の星では低重力での開発品ゆえ銃弾がポップコーン並にもろく、ドラえもんやのび太の肉体描写はスーパーマン状態である(もっとも、129.3馬力という怪力を誇るドラえもんは本来なら地球上でも同様の活躍が出来るはずだが)。
また劇場版の「宇宙開拓史」や、その元となった「ベソとこたつと宇宙船」という話も同じく「行った先の遠くの星の方が低重力なので〜」である。

また『魔法騎士レイアース』・『ブレイブ・ストーリー』等の様に「異世界から来た人間しか使えない力がある」とされることもよくある。
但し上に例として挙げた作品等では背景にとんでもない裏事情があり、単なる「無双」・「勇者もの」にはなっていないが。
(「火星のプリンセス」でも重力の違いのみでなく、火星人の間で使われている読心術に関して、
 「主人公は火星人から学んだ読心術で他人の心を読めるが、他の火星人は地球人である主人公の心をうまく読めない」という優位性を持っていた)

変則的な例では『魔法使いハウルと火の悪魔』のハウルとサリマンがおり、彼らは魔法のない「ウェールズ」の出身ながら異世界で魔術師をしていた。
そのため主人公のソフィーが「ウェールズ」を訪れる逆パターンが描かれた。


また『魔法少女リリカルなのは』シリーズの高町なのは八神はやては、
「現代日本に来た異世界人に魔法を学び高い適性を発揮、スキルを活かして異世界移住・就職」という経緯を辿っている。
但し舞台が異世界ミッドチルダの『魔法少女リリカルなのはStrikerS』以降の作品では、強い地球人がいてもメインが異世界出身者なためあまり「異世界モノ」とは扱われていないし、実際の描写も魔法関係を除けば「月が二つあるのが当然」「成人年齢が違う」など、なのはやはやてがいた世界との違いが軽く説明された程度であった(この辺は後に後続作品・番外作品で掘り下げられた)。

また新井素子の『扉をあけて』の様に「現代人ながら異能者」なんてキャラが異世界に移動するケースもある。

こうして見ると「異世界モノ」と「無双(活躍)」はジャンルとしての関連性が古くからあり、小さくないものであると言える。


もっとも異なる環境で主人公のスキルが活かされる場があるからといって、それは主人公無双を簡単に許すという意味でもない。

前述の作品で言うと、主人公はユニークスキルを持ち活躍はするがSAOで一番チート(文字通り)なのはカヤバーンだし、
ドラえもんでは本編の実銃弾こそポップコーン扱いだったが、宇宙開拓史で光線銃を用いるプロの殺し屋ギラーミンには一切雑魚描写がない。
平和な現代日本では役に立たない銃スキルを活用するのび太も、ドリームガンとドラミの補助があった本編における西部の話と違ってこのシーンは無双ではなくガチの撃ち合いである。
現代兵器を持ち込んで・・・の場合は補給問題が触れられることも多くなってきただろうか。
白人酋長モノにも「日食を予言して太陽を神と見る蛮族をビビらせる」というネタに「え?日食?知ってるけど」(マヤ文明並の計算力)という作品もあるとか。

コネチカット・ヤンキーなど黎明期の作品が普通に無双している(マーリンが敵になったりはするが)事を考えると、
むしろ近年こそ「単純に活躍させるだけじゃなあ」という意見を持つ読者と、それに対応したギミックや反応を考える作者が増えた時代ではないだろうかと思われる。


◆異世界≒だいたい「人」がいるっぽい


異世界モノらしさ、を定義づけるファクターとしてもう一つあるのは、
恐らく「友好的で、かつ主人公グループではない集団などが存在する」ことであろうと思われる。
これは逆説的に無人島モノを見てみると分かる。

アニメ「無人惑星サヴァイヴ」は上述のように「別の惑星で高度技術を用いる」要素がある話だが「火星のプリンセス」のような異世界モノらしさは薄い。

これはなぜかと言えば、個体では現地宇宙人もいるが集落レベルの知性体は現地にいないからである。
このため「神のように崇められる」どころか「集団の一部として称賛される」という要素すらなく、物語の大半は漂流した学校の身内の描写になっている。
また三悪人的な連中は出てくるが、こいつらもやはりただの漂流者でしかも敵である。
これの類似例としては小説『突変』があり、「地域レベルで異世界『裏地球』との転移・交換が頻発する地球」という設定ながら、
「裏地球」に知的生命体がいないため、登場人物たちが出会うのは「先に転移していた元の世界の人々」と「異世界の動植物」だけというサバイバルものに近い作りになっている。


これを置き換えて考えてみると


主人公はファンタジーの世界へ転移してしまった! 言葉の通じるエルフ? ドワーフ? いないよ。偶然近くにいた強盗はどっかにいるはず。
ウガウガ言うゴブリンとかトロールとかオンリーの世界で、モンスターを殺して剥いで食べながら強盗を警戒するだけのサバイバルが、今始まる……!


舞台設定だけは紛れもない異世界である。が、こんな作品が世にいくつもあるだろうか?
少なくとも火星のプリンセス≒宇宙開拓史≒MARのように、SFや宇宙モノと一定の共通性や互換性のあるファンタジー作品の例は少ないと考えられる。


楳図かずおの漂流教室は十五少年漂流記などのサバイバルものに近いと言われるが、集団を持ち知性や文化もある「未来人」と称する生物が出る。
が、彼らは敵対的であるし、また学校にいた大人の関係者の中には子供たちを支配しようとしたり、殺しに来る「敵」もいる。
一方「学校単位で転移する」という設定だけは同じ長谷川裕一のファンタジー異世界モノである「ダイ・ソード」では、明確に友好的な現地の住人が登場する。

最近映画化された小説「火星の人」はハードSFのサバイバルもので、ほとんどが主人公の一人称で綴られる。
これに対してNHKアニメのバーチャル三部作は、SF設定こそガチで太陽系内が舞台だが、爬虫人類や「エウロパ人」などの知性体がおり、中には友好的な種族もいる。
そのため性質的には異世界モノに近い面がある。
(「ジーンダイバー」のティル・二ー・ノグなどはレギュラーメンバーの獣人騎士キャラである。設定はカッチリとあるが)

「サハラ 死の砂漠を脱出せよ」は、広大な砂漠に墜落した飛行機に乗っていた者たちが脱出を試みる様を描いたサバイバルものである。
漫画「王家の紋章」は、古代エジプト文明の学者を父に持つ少女が古代エジプトにタイムスリップさせられ、
その知識を用いて現地の王などに保護やら恨みやらを受けつつ生き残っていく物語。

映画「アナコンダ」などは巨大蛇の出るジャングルで狩りやジャングル・クルーズに来た客が蛇と戦うパニックものでありサバイバル系だが、
これがジャングル奥地の部族に対して銃を用いて云々し始めると前述の「白人酋長もの」となる。


このように比較してみると、全般的に「主人公(ら単一グループ)vs敵対的な周囲」というだけでは根本的に「サバイバルもの」の性質が強くなりすぎるのだろうと思われる。
トウェインやバロウズの描いた「異世界(環境)での無双・活躍」のようなイメージを「異世界でサバイバルしている」作品に対して読者も作者も共有している感じは見受けにくい。

要するに「主人公に対して友好的なものと敵対的なもの」の両者を以て「世界」があるとでも言うべきだろうか?

敵対的性質オンリーの場合、知性体がいてもそれは「動く障害物」であり「生きるために対策すべき邪魔者」となる。
その中で主人公グループの方針対立による内ゲバが起きたり、その解決のために交渉を試みたり・・・(この辺はだいたい漂流教室に見られる)
こういうひたすら生きるための努力にフォーカスされると「異世界性」というものがどうしても希薄になるのだろうと思われる。


とはいえ異世界を旅するという作品もなくはないし、藤子Fの短編「みどりの守り神」では、
知性体ではないが動物の治療や食事に役立つようになっている植物が出て異世界感を持っていると言えなくもない。
この辺りはやはり描写の重心の問題もあるのだろう。


「人」がいない作品もなくはないけど関係はあんまり無い


「主人公が異郷に独り生き、そして異物であると気づいたり変質して低い地位で生きる」といった物語もなくはない。
ただしこれらは前述したような、明らかに「火星のプリンセス」のフォロワーであると思われる設定を含んだ作品等と違い、
異世界モノとの互換性が薄かったりフォロワー数が多くないという面がある。


小説「家畜人ヤプー」は未来の白人至上主義社会に連れ去られた主人公が、庶民階級の白人や奴隷である黒人といった「ヒト」以下の「ヤプー」として扱われ、
一緒に浚われた白人の恋人に捨てられたリ、去勢されたりして、最後にはその社会の最底辺を支え元恋人に使われる家畜として馴致される事を選ぶ物語である。

が、本作は作者が戦争体験によって覚醒した強烈なマゾヒズムを根底に置いている。
そのため「ガリヴァー旅行記」の用語を元に「ヤプー」等の名を作りをネタにはしているし、物語構造的な類似性もある。
またタイムマシンが絡むため、時間移動系の異世界寄り作品に近い面はある。だが異世界モノへの揶揄や皮肉と思われる性質は見受けにくい。

例えば主人公が一度は勇者的な地位や力を手に入れたと思ったら・・・といったような上げて落とす事がない。主人公はひたすら畜生へと落ちていくのみである。
ちなみに、本作のあだ名は「戦後最大の奇書」(ドグラ・マグラ等の三大奇書は戦前の本) フォロワー……?。


リチャード・マシスンの「地球最後の男」(1964)は、原作及びその忠実なフォロワー作品である藤子Fの短編「流血鬼」においては
主人公が「自身が新しい世界の構造においては異端で、自身の攻撃してきた者は自身に恐怖していた普通の民であると気づく」という描写がある。
要するにモンスターだと思って殴ってたの、その世界のただの”一般人”なんだよね……という。
そして、主人公絡みのオチ等は違うが「価値観の変容」といった主題はそのままである。
(一応どちらの作品でも友好的なヒロインはいるが、受け手の価値観において賞賛すべき活躍と言えるものはない)

しかし71年版や2007年の映画での一般公開版などでは「旧人類にとっての英雄として死ぬ」という活躍と言える要素がある。
このためこの作品もやはり、あまり原作に忠実な面も含んだフォロワーと言える作品はない。
バイオハザード等にシチュエーションが似ている点はあるが、主人公の立ち位置含め近いのは2007年の映画「アイ・アム・レジェンド」の公開版の内容であろう。
(本来のテーマに沿ってバイオで言えば「ゾンビキルしてたら善良なゾンビたちがマジビビリして”友達を殺すな!”と攻撃してきている」ような環境)


◆異世界と活躍の関係性


恐らくは前述の性質がゆえに「異世界モノ」には「活躍モノ」のファクターが混じりやすいのだろうと思われる。
それは異世界の友好的存在との交流を描くものであり、故に異世界モノを異世界モノたらしめるための不可欠な一面であるからだ。


ネットでは「異世界に行ったのにすぐ言葉が通じるのはなあ」という否定意見がある。
しかしこれもまた、前述のように考えてみれば読者の理解が求められる部分である。

言語学ガチ勢などが本気で言葉を習得するまでの物語、カタコトが通じるようになり徐々に友人などが出来て・・・
という作品があれば、それは立派な異世界モノだろう。だがそればかり掘り下げようとしたら異世界モノ=言語学モノになってしまう。
そうなれば「トールキン得にしかならないだろ!いい加減にしろ!」と他の読者がキレ出すのは間違いない。
故に言語の超速理解や翻訳前提が多いことにも「仕方ないね」「突っ込んではいけない」「こまけぇことはいいんだよ」の精神がある程度は必要なのだ。
文字は読めなくて何かのネタになる、という展開などもあるので作者たちも考えていないばかりではないはずである。

具体例としてはTRPG『異界戦記カオスフレア』で、「異世界からの来訪者がやたら多い世界なので、世界を覆う『結界』に自動翻訳機能がついている」として言語問題を解決、
また「『結界』がおかしくなると言葉が大変だよ?」(翻訳機ある来訪者も多いけどね)と言う話もしたことがある。

他には、漫画「ドリフターズ」では『先に来訪していた人物が日本語↔現地語のほんやくコンニャク的なのを作っていた』という形で解決が図られている。
…もっともこの作品では「なんとか現地の言葉を覚えた」方式で意思疎通していた人もいるけど。


「異環境での活躍」は「俺TUEEE」的になりかねない要素を孕んでいるところがある。
「白人酋長モノ」は正にそうした点を批判されているものであり、オタ文化に限った事ではない宿痾である。
しかしこれらの作品全てがそのような性質を持つと見るのも早計である。

岩明均の漫画「ヒストリエ」では、主人公が文化を教え指揮する村に攻め入った敵将が、
「貴様ら蛮族はこのような詩も知らんのだろう!」と言うと「知ってるよ、○○だろ?」と作者名を言い返されて驚愕するシーンがある。
前述の「日食? 知ってる知ってる(マヤ並感)」のようなもので、本当に知性や文化性が低レベルなら覚えようとすらしない、
覚えられないだろうが村人はごく普通に返答でき、知らんだろうと言った側の傲慢さと間抜けさが浮き彫りになっているシーンである。
また先発作品な『船乗りクプクプの冒険』で、ある人物が「これが現代の技術だ!」とやったら、
「いや、自分ら科学力有るけどあえて原始的に暮らしてるだけなんで」とそれ以上の技術でやりこめられた。

上述したノーゲーム・ノーライフでも(内政/NAISEIするのが主眼の作品ではないとはいえ)、
知識は供与するが具体的なところは元からいる官僚に任せた方がいいだろうと言っていたりする。

部活モノなどの文脈に近いが、ガールズ&パンツァーでは転校先で戦車道の強者は西住みほだけである。
が、裏を返せば操縦手としての才能を見せた冷泉麻子は「戦車に関する興味・関心・努力等と一切関係がない」のに「有能な者」であり、
主人公の教えによって開花した弟子とか、そういう上下の性質が全くないと言える。

このように、渡来者の主人公が現地の「無能な」「蛮族の」人間に何かを与えて「すげー!」と言われるだけで、さすが主人公というような描写の作品ばかりではないとは言える。


逆になろう系などネット界隈では「召喚勇者に適当にモノを与えて魔王に特攻させよう」といった悪辣な王なども結構出ていたりする。
彼らが敵として無能なまま狩られる(カタルシスの道具でしかない)ケースもあるが「惰弱な現地人にただ崇拝される強者」という所へのメタではあると言える。

聖戦士ダンバインのアの国のドレイクなどは、こうした「渡来した者=頼ったり崇めるべき力ではなく道具」という立場をとった者の古い例。
ふしぎ遊戯でも、主人公の友人は本来従う者であるはずの七星士のひとりに「レイプ(実際は未遂)され見捨てられた」と思い込まされ、異世界から来た巫女としての力を利用される。
この「召喚・渡来存在を利用」した上の二人は描写的にも能力的にも普通に有能な部類の悪役であったりする。

ダンバイン(1983)より後になるが、悪党による召喚ネタは海外の例が関係性の項にもある「ランドオーヴァー」シリーズ(1986)に見受けられる。

悪い宮廷魔術師「国からはモノを持ちだせない……そうだ! 金持ちで王に合わないやつに王位売って追い出してまた売って無限ループだ!」

クリスマスカタログ「魔法の王国売ります!」 (1巻タイトル、某TRPGでは「売国奴」のスキル名)

主人公「辣腕弁護士だったんだが、妻に死なれてしまってな……新しい事にも挑戦してみるか、と思い買ってしまった。今ではこの国の窮状を救いたいと思っている」
魔術師「ええ……なんでこんな有能な上に適応できるやつ来てるんですかね……追い出さなきゃ」
つまり悪の魔術師が金儲けループコンボしてたら、条件に合わない王候補を引いてグワーッ!が物語のスタート地点である。


本来の主題と違う活躍要素


「異世界で主人公が活躍するのいいよね……」は、本来それが主題ではない作品をモチーフに制作されているケースも存在する。

スウィフトの「ガリヴァー旅行記」は、本来は当時のイギリス社会等を元に描いた風刺小説。結構な長編で、○○の国編が複数存在している。
が、「小人の国に流れついた主人公が敵艦隊相手に無双」という序盤のシナリオがネタにされるケースが結構ある。

ドラえもんでのび太が上のエピソードを読んで「そういう(小人のいる)星に行こう!」と言い出してドラえもんとのび太が現地小人の迷惑になる話
「めいわくガリバー」は、ある意味ではモロに異世界モノの揶揄・風刺とも取れる。
藤子Fは同じように巨大宇宙人が第二次大戦期の地球は日本に来て、米国艦隊相手に無双するという話もSF短編として描いている。

2010年にもアメリカで1章が映画「ガリバー旅行記」として制作され、この映画では異世界から主人公が(一回捕まってたりはするが)後で英雄として迎えられる。
また、スター・ウォーズなどを自分のオリジナル作品として語って称賛される(後でバレたけど)という、
「自分のものでもない知識などで利益を得る」というシーンがある。
興業的には米国ではヒットせず、海外展開で製作費以上には儲けた。評論家の評価的には余り高くないようである。


「オズの魔法使い」はドロシーと仲間たちが体の特徴などによって互いに助けとなる話だが、
2013年の「オズ はじまりの戦い」はサーカスの魔術師が「オズの国」へ飛ばされ、手品のトリックや彼のいた当時のアメリカでの技術知識を現地の住民に伝え
協力を得ることで戦いに勝利している。単純に主人公を称賛する話ではなく、ドリフターズのドワーフのように多くの現地職人らが働く感じであるが。
こちらは米国で興業的に製作費を上回っており、評価もまあまあくらい。

他には前述した「アイ・アム・レジェンド」もややこのような傾向があると考えられる。


上は「異世界などで主人公の知識等が活かされる事は主題ではない」作品の派生でありながら、主人公が活躍したりそれを望むという特徴がある。
このような例は、やっぱ受け手も作り手もこういうの好きなんすね〜的な、需要というか普遍性のようなものの存在を感じさせるところがある。


◆異世界と主人公の関係性


「異世界」とは基本的に「主人公の世界」とは違う・関係のない世界として描かれる。
だが「異世界」と「主人公」ないし「主人公の世界」に最初から関係性を持たせ、異世界転移に必然性を持たせるケースも多く存在する。

例えば『リダーロイス・シリーズ』(コバルト文庫)は序幕こそ現代日本が舞台だが、
主人公が異世界の王子と言う『貴種流離譚』なので主役と彼女以外現代的要素は少なかった。

古い例だと『ナルニア国物語』では、舞台となる「ナルニア」と主人公達のいる「20世紀の英国」は同じ『皇帝』の作った世界であり、
ゆえに聖書に登場する「アダムとイブの子孫(たる人間)」が物語のキーポイントになりえた。

ダイアナ・ウィン・ジョーンズの『クレストマンシー』シリーズでは『異世界が認知された魔法世界』と『異世界や魔法を知らない世界』が入り混じっていた。
テリー・ブルックスの『ランドオーヴァー』シリーズでは、主人公が異世界の国「ランドオーヴァー」の王位を「買う」ことで王となっている。
それゆけ!宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコ』における「現代」と「未来」は、厳密にいうと「互いにタイムパラドックスが起こらない世界」で、並行世界移動に近い。

これらの例だと「異世界を行き来する手段」や「並行世界の仕組み」等がある程度解明されており、それゆえに世界観の関係性が必要とされている。
また『魔法騎士レイアース』原作版では、「何で異世界なのに『マジックナイト』なんて英語があったんだ?」と言う疑問をキャラが抱き、終盤で「作り手が同じ」な事が明かされている。
このように「2つの世界」の類似性から、世界の謎に迫るという作品も存在する。


◆異世界への行き方

ではどうやって異世界へと登場人物たちが誘われるのか?というものも各種異なる。

『火星のプリンセス』では「臨死状態の時意識だけが遥々火星へと転移する」という、それこそ「夢物語」のような生き方であった。

対して『ナルニア国物語』の「ライオンと魔女」では「居候していた家のクローゼットが世界間を繋ぐ通路だった」という、より「違う場所へ行く」雰囲気が強いものとなり、
他のナルニア作品では「異世界から強制的に召喚される」・「絵が門の代わりになる」・「アスランを呼んでいたら近くの扉が門になる」・「魔法の指輪を使う」と各種パターンを取りそろえ、
「クローゼット」に関しても「実はナルニアからの種で生えた木で制作」として「通路」となった必然性を理由付け、最終巻では 現実世界で死んだから渡れた という『火星のプリンセス』に近いものになっていた。

このように異世界への行き方には大きく分けて
1:異世界へのゲートをくぐる
2:意識不明状態で幽体離脱の如く異世界へ行く
3:異世界へ行ける道具・乗り物等を使う
4:異世界の住人から呼び出される

の4パターンがある。
このうち2の変種及び「貴種流離譚」・「転生もの」の要素を合わせて生まれたのが、「異世界転生モノ」と思われる。

また変則的な例としてはしては外国文学『ネシャン・サーガ』がある。
同作では「異世界に棲む主人公」の冒険を「主人公と同じ名を持つ地球の病弱な少年」が夢を通じて体験し、時に主人公に対して助言するという形式で進行していた。
ところが後半になって「病弱な少年」が突然異世界に転移し知らぬ間に主人公と同化、以降「主人公」は「病弱な少年の記憶を持った異世界人」となった(「病弱な少年」は地球では行方不明扱い)。
「病弱な少年」が異世界に降り立った時や地球での扱い等の描写は「異世界転移」とも取れなくもないが、異世界の住人たちは皆「病弱な少年」を普通に「主人公」として扱っており、「異世界転生」とも取れる。
だったら元の(「病弱な少年」を他人として認識していた)「主人公」の人格はどうなったのかという疑問が残るが。









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