この月舟宗胡禅師(1618~96)というのは、江戸時代初期に、金沢大乗寺に於いて、非常に優れた宗風を挙揚した人であり、後の江戸宗学成立にも深く関わった学僧として知られています。しかも、当時の学僧というのは、ただ机の上で学ぶだけではなくて、清規などにも通じ、自ら修行をしているのが当たり前でしたが、月舟禅師もそれに漏れず、大乗寺を全国屈指の修行道場にしたとされています。さて、その月舟禅師は、様々な意味で、当時の曹洞宗をリードした人でしたが、弟子達に示した言葉が『月舟和尚夜話』として残されています。その中に「仏性」についての説示がありますので、見ていきましょう。
或る時示衆していわれるには「見仏の因縁とは『仏を見んと欲せば、身命を惜しまざれ』、これが誠に仏に相見することである。大雑把な修行では成りがたいことだ。しかし、一大事の種の内に、互いに仏果を満じた仏体を具えていることを決定すべきである。この不可思議を信じないのは、たとえば、帝王の太子として生まれながら、天下を知る因縁であっても、天子として立たない間は、自由な振る舞いも出来ないようなものである。また、大王のようには、人も思ってはくれない。天子人の位は、全く具わってはいるが、天子になっていない間には、(太子は)天子の作法を学ぶものである。10年、20年、或いは転輪聖王などは、8,000年、80,000年の間、太子として世間に生き、その間はさらに久しからざるものである。太子のことであれば、一念の間である。太子の間は、天子の勤めを修行するのである。仏法の修行もこのようなものである。
仏性の因縁とは、初発心の時に成じていても、果が満じるのは五十二位を通り過ぎ、修行が成就するときに自在を得るのだ。しかし、このようになるのは、ありがたい仏性を具え、奉っているからであり、だからこそかつて(仏性が具わっていることを)知らない間でも、今初めて法を聞く縁に依って、(法を)聞くことを得て、説かれた通りに修行し、阿弥陀仏や釈迦仏のような仏体を得ることが出来るのはありがたいことだと、一心に信仰すべきである。
『月舟和尚夜話』、拙僧ヘタレ訳
生まれながらに獲得されている仏性について、それを働かせなければ意味は無いという説示になっていますけれども・・・いつも思うのは、これって道元禅師の発想と同じなのかどうなのかが、よく分からないという感じでしょうか。いや、確かに『正法眼蔵』「仏性」巻では、こういう発想は、否定されているように見えます。一方で、『弁道話』では、まさにこの月舟禅師のような発想をしているようにも見えます。
・この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。
・又しるべし、われらは、もとより無上菩提かけたるにあらず、とこしなへに受用すといへども、承当することをえざるゆえに、みだりに知見をおこすことをならひとして、これを物とおもふによりて、大道いたづらに蹉過す。
ともに『弁道話』
仏法は豊かに具わっている、悟りは欠けていない、これらこそ、月舟禅師が修行僧に対して、自らに具わるものとして信ぜよといった対象になります。ところで、こういう説示をする際に、結構「王と王子」の話が出てくるような気がしまして、これも釈尊が王族の出身だったからなのか、分かりませんが、でも、結構ありますよね。
要するに、王子として生まれながらも、それだけでは王子のままであり王ではないわけです。つまり、帝王学を身に着け、そして実際に戴冠式などを経て王にならなければならない、月舟禅師はそう説き示します。そして、「王子として生まれ」というのが、我々のような「仏性を具えて生まれたる衆生」ということであり、「帝王学を身に着け」という部分が、我々自身の「修行」ということです。さらに、「戴冠式」とは、その修行の正しさ、そして身に着けた境涯などが、王に相応しいと認められる「印可証明・伝法式」を意味しているわけです。
そして、月舟禅師は我々自身が仏性を具えた仏体であるからこそ、その身体を用いた修行によって、阿弥陀仏や釈尊のような「如来」になることが出来るといいます。だから信じろと・・・確かに信じてみたいかも。というか、まぁ、拙僧自身はこの辺については、完全に信じ切っていますので、或る意味、月舟禅師の教えは素直に入ってきました。それは、道元禅師の『正法眼蔵』「葛藤」巻の説示に見える「蔵身」の論理を敷衍して得たわけですけど、これはあまりややこしく考える必要もないわけで、要するに、古来の聖人達を、妙に高めないということを意味しているわけです。高めて何の意味があるのでしょうか?
①自分が悟れないことの言い訳にする。
②ちょっとでも獲得したら、虎の威を借る狐の如く、自分を偉く見せられる。
まぁ、だいたいこのどっちかじゃないの?で、どっちも、ハッキリ言って愚劣としかいいようがないです。我々の修行というのは、人間だったゴータマが人間でありながら仏になるため、仏であるための法を見付けた、その伝統的世界観に帰入するだけなんだから「卑下するな、増長するな」、これはまさに「中道(道に中る)」じゃないか。以上。
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或る時示衆していわれるには「見仏の因縁とは『仏を見んと欲せば、身命を惜しまざれ』、これが誠に仏に相見することである。大雑把な修行では成りがたいことだ。しかし、一大事の種の内に、互いに仏果を満じた仏体を具えていることを決定すべきである。この不可思議を信じないのは、たとえば、帝王の太子として生まれながら、天下を知る因縁であっても、天子として立たない間は、自由な振る舞いも出来ないようなものである。また、大王のようには、人も思ってはくれない。天子人の位は、全く具わってはいるが、天子になっていない間には、(太子は)天子の作法を学ぶものである。10年、20年、或いは転輪聖王などは、8,000年、80,000年の間、太子として世間に生き、その間はさらに久しからざるものである。太子のことであれば、一念の間である。太子の間は、天子の勤めを修行するのである。仏法の修行もこのようなものである。
仏性の因縁とは、初発心の時に成じていても、果が満じるのは五十二位を通り過ぎ、修行が成就するときに自在を得るのだ。しかし、このようになるのは、ありがたい仏性を具え、奉っているからであり、だからこそかつて(仏性が具わっていることを)知らない間でも、今初めて法を聞く縁に依って、(法を)聞くことを得て、説かれた通りに修行し、阿弥陀仏や釈迦仏のような仏体を得ることが出来るのはありがたいことだと、一心に信仰すべきである。
『月舟和尚夜話』、拙僧ヘタレ訳
生まれながらに獲得されている仏性について、それを働かせなければ意味は無いという説示になっていますけれども・・・いつも思うのは、これって道元禅師の発想と同じなのかどうなのかが、よく分からないという感じでしょうか。いや、確かに『正法眼蔵』「仏性」巻では、こういう発想は、否定されているように見えます。一方で、『弁道話』では、まさにこの月舟禅師のような発想をしているようにも見えます。
・この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。
・又しるべし、われらは、もとより無上菩提かけたるにあらず、とこしなへに受用すといへども、承当することをえざるゆえに、みだりに知見をおこすことをならひとして、これを物とおもふによりて、大道いたづらに蹉過す。
ともに『弁道話』
仏法は豊かに具わっている、悟りは欠けていない、これらこそ、月舟禅師が修行僧に対して、自らに具わるものとして信ぜよといった対象になります。ところで、こういう説示をする際に、結構「王と王子」の話が出てくるような気がしまして、これも釈尊が王族の出身だったからなのか、分かりませんが、でも、結構ありますよね。
要するに、王子として生まれながらも、それだけでは王子のままであり王ではないわけです。つまり、帝王学を身に着け、そして実際に戴冠式などを経て王にならなければならない、月舟禅師はそう説き示します。そして、「王子として生まれ」というのが、我々のような「仏性を具えて生まれたる衆生」ということであり、「帝王学を身に着け」という部分が、我々自身の「修行」ということです。さらに、「戴冠式」とは、その修行の正しさ、そして身に着けた境涯などが、王に相応しいと認められる「印可証明・伝法式」を意味しているわけです。
そして、月舟禅師は我々自身が仏性を具えた仏体であるからこそ、その身体を用いた修行によって、阿弥陀仏や釈尊のような「如来」になることが出来るといいます。だから信じろと・・・確かに信じてみたいかも。というか、まぁ、拙僧自身はこの辺については、完全に信じ切っていますので、或る意味、月舟禅師の教えは素直に入ってきました。それは、道元禅師の『正法眼蔵』「葛藤」巻の説示に見える「蔵身」の論理を敷衍して得たわけですけど、これはあまりややこしく考える必要もないわけで、要するに、古来の聖人達を、妙に高めないということを意味しているわけです。高めて何の意味があるのでしょうか?
①自分が悟れないことの言い訳にする。
②ちょっとでも獲得したら、虎の威を借る狐の如く、自分を偉く見せられる。
まぁ、だいたいこのどっちかじゃないの?で、どっちも、ハッキリ言って愚劣としかいいようがないです。我々の修行というのは、人間だったゴータマが人間でありながら仏になるため、仏であるための法を見付けた、その伝統的世界観に帰入するだけなんだから「卑下するな、増長するな」、これはまさに「中道(道に中る)」じゃないか。以上。
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