むのたけじさんが8月21日、101歳で亡くなった。
朝日新聞によると「戦争絶滅を訴えたジャーナリスト」。
元朝日新聞の記者で(従軍記者だったことも)、終戦の年、「負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切った」と辞表を提出。故郷秋田に帰って、週刊新聞『たいまつ』を創刊、反戦を訴え続けた。
朝日は早速、翌8月22日朝刊、「社説」「天声人語」で反戦ジャーナリストとしての、むのさんの功績を讃えた。
社説の書き出しはこうだ。
〈よりよい社会と世界を目指すには、あの戦争と、その後の日本の歩みを、絶えず検証し、発言し続けなければならない。
むのさんは、そのことを身をもって示しながら、戦後71年の日々を生きた〉
そして5月の憲法集会でのむのさんお言葉を引いたうえで、こう書く。
〈治安維持法で言論の自由が封殺された。そういう時代に報道機関はどうなるか。
むのさんはかつて、戦時中の朝日新聞社の空気をこう振り返っている。検閲官が社に来た記憶はない。軍部におもねる記者は1割に満たなかった。残る9割は自己規制で筆を曲げた〉
そして結論はこうだ。
〈報道が真実を伝えることをためらい、民衆がものを言いにくくなった時、戦争は静かに始まる。
だから、権力の過ちを見逃さない目と、抑圧される者の声を聞き逃さない耳を持ち、時代の空気に抗して声を上げ続けねばならない〉
まったく仰せの通りだ。むのさんは立派な反戦ジャーナリストだろう。それに異論はない。
しかしだ。むのさんは戦争中の朝日記者としての自らを恥じて社を辞めた。
ならば、「検閲官が社に来たこともなかった」のに「自己規制で筆を曲げた」ほかの大多数の朝日記者、あるいは朝日新聞自身は、どう反省し、どう責任をとったのか。
そのことに対する言及が一行もない。自らの過ちを反省する、ひと言もない。
この点は「天声人語」も全く同様で、むのさんが〈反骨のジャーナリストと慕われたが、「反骨はジャーナリズムの基本性質だ」と原点を見失いがちな後輩たちを戒めた〉とか〈彼の残した言葉の良薬は昨今とりわけ口に苦い〉〈沸き立つときも沈むときも集団に流されやすい日本社会で、揺れのないその言葉は何より頼もしかった〉。
むのさんを称揚するばかりで、戦時中の朝日新聞の報道に対しての反省の言葉はひと言もない。
「社説」も、「天声人語」もむのさんを讃えると同時に書くべきことがあるのではないか、詫びることがあるのではないか。
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