学年が変わると物理の授業がなくなり、学校でT先生に会う機会も減った。
私は少し寂しく思ったが、どうしても物理が好きになれなかったし、同級生達の反応に疲れてもいたので気楽になった。
そして制服が夏服に変わった頃、小さな事件は起きた。
お昼休み、生徒達が仲良しグループに分かれてお弁当を広げたちょうどその時に、窓から一羽のスズメが飛び込んで来た。
それはまだ上手く飛べないような、小さなスズメであった。
「わぁっ!何だ何だ」
「嫌だぁ、気持ち悪い。誰か捕まえてよ」
教室中が昼食どころではなく、大騒ぎになった。
スズメはあちこちにぶつかりながら飛んだり落ちたりして、教室の隅っこでやっと静かになった。
うずくまっているスズメを私が両手で捕まえた。まだ羽も生え揃っていないようなスズメの子は、手の中でピィと鳴いた。
「どうしようか?これ」
「外に放す?」
「でも、まだヒナだよ?」
私達は途方に暮れた。
「先生に相談してみようか?」
私の頭の中にはT先生の顔が浮かんでいた。私はスズメを持ったまま、数人の女子と職員室に行った。
T先生は自分の席に座り、他の先生方と雑談中だった。
私はT先生にいきさつを話し、スズメをどうしたらいいか尋ねた。
すると
「あのさ、そんな事を僕に言われても困るんだけど」
と不機嫌そうに言うので、驚いてしまった。
「スズメなんか、どうして僕の所に持ってくるの?」
「それは……」
私は(T先生ならきっと何とかしてくれると思ったから)という言葉を飲み込んだまま、何も言えなくなってしまった。
確かにT先生は生物の教師でもなければ担任でもないのだから、T先生を頼ろうとしたのが間違いだった。
私達は、すごすごと職員室を出ていくしかなかった。
「スズメ、どうしよう?」
スズメはもう少し成長してから放した方が良い気がした。
でも、私の家には連れて帰れない。
これまで親に黙って買ったヒヨコや、道端で拾ってきた子猫がどんな目にあったかを考えれば、家でこの子スズメの面倒がみれるとは到底思えなかった。
他の子達も、連れて帰れないと言った。
それに、あと2時間も授業がある。スズメを教室の隅に置いておくわけにもいかない。
午後の授業が始まる直前、私はスズメを窓から放す事に決めた。
巣がどこにあるのか解らないが、教室まで飛んで来られたのだからきっと戻ってくれるだろう。
「飛べ!」
私は窓から身を乗り出してスズメを放つと、バタバタと羽ばたいた。
「飛んだ!」
「良かったぁ!」
と、教室中がホッとした次の瞬間、黒いカラスがスーッと窓の外を横切った。
そして、不格好に飛ぶスズメを空中でくわえると、どこかに飛んで行ってしまった。
思いもよらない悲劇に、私達は絶句した。
そして私は午後の授業の間中、机に突っ伏して泣くしかなかった。
スズメを放すんじゃなかった。
職員室なんかに行かなきゃ良かった。
これは、罰だ。
スズメを口実にして、T先生に会いに行った罰だ。
何もかも私のせいで、あのスズメは死んだのだ。
同級生達も、授業をしている教科の先生も私を慰めようとはしなかった。
誰に慰められたとしても、私は泣き止むことが出来なかったと思う。
T先生なら少し困ったような顔をしながらも、何かスズメを入れておく物を探してくれるだろう。
スズメが無事に巣だつまでの、育て方を調べてくれるかも知れない。
私は馬鹿だ。
どうしてそんな風に思ったのだろう?
先生は酷く不機嫌で、とても迷惑そうだった。
私はスズメが可哀想なのと、自分が惨めでたまらなかった。いつまでも泣き続けた。
スズメのショックから立ち直りつつある頃だった。
その日は休日で、市内の大通りでは夏祭りが行われていた。
夏祭りといっても、商店街が販促のために行うような小さなものだったが、普段よりも人通りの多い道を私はひとりで歩いていた。
そして向こうから親子連れが歩いて来て、すれ違い様に
「やぁ、タンポポ」
と、明るく声をかけられた。
白衣ではないからすぐに解らなかったが、T先生だった。
真ん中にいて両親と手を繋いでいるのは、3才位の子供だった。
その子の顔が愛らしくて、髪はくるくるの巻き毛で、まるで天使のようだ。
奥さんの顔は見れなかったが、子供は母親似できっと美人なのだろう。
絵に描いたような、幸せ家族。
T先生は立ち止まって照れ臭そうに笑いながら、何かを私に話しかけた。
でも私はペコリとお辞儀をして、そのまま早足で立ち去った。
T先生が結婚をしているのも、子供がいるのも以前から知っている。
なのに私は、胸に杭でも打たれたような痛みを感じていた。
何が「やぁ、タンポポ」だ……
あれ?
ずっと下を向いて歩いていたら、大粒の涙がボロッと落ちたので驚いた。
私は慌てて目を擦った。
変なの。
どうして?
どうして涙なんかこぼさなきゃいけないの……
あの子、本当に可愛いらしい子供だった。
3人がとても、幸せそうだった。
他の子達が熱をあげている教師達にも、それぞれ家庭を持っていた。
女子生徒がどんなに捨て身で臨んだとしても、家族の幸せには太刀打ち出来ないだろう。
もし彼女達が、どうにかして恋を成就させたとしても、それは他人の幸せを壊して得たものだ。
誰かに悲しい思いをさせて、幸せな恋など成り立つだろうか?
ほんのちょっとT先生を好きになっただけでこんなに辛いのだから、妻子持ちを本気で好きになるのは絶対にやめておこう。
まだ本当の恋も知らない高校生の私は、この日、そう心に刻んだのだった。