松戸様へ 投稿者:一人のSGI 投稿日:2017年 5月18日(木)19時44分17秒
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・・・ 忙しい中でも思索の時間を見つけ、相手を理解し、かつ自分の考えを整理することで教学を研鑽する貴女に、敬意を表します。
1 「「久遠元初の仏とその魂である法はすでに「人即法」として完成しており・・・」「人即法」の「人」つまり、「仏」という具体的な人物的(又は人とは限らずとも、生命具象的)概念には否定的な見解でしょうか。帰命するべきは「仏界」や「宇宙生命」という、形のない「法」だけが普遍的で真実だということでしょうか。
・・・ 久遠元初に「人」の要素が入ると、神話の世界に入ります。キリスト教の神は「人格神」ですから、同じように久遠元初の仏、宇宙の初めに悟りを開いた人がいた、と言うことでしょうか?それと、仏界や宇宙生命は帰命の対象と言うより、私たち十界の生命の構成要素、基礎だと思っています。ここですでに思想的には大きな差異が生じます。前者は特定の人、超越者や宗祖が衆生を救済する信仰形態へ向かい、崇拝される対象へ。御すがり信仰、おまかせ信仰に傾きます。後者は信仰実践する誰もが自己責任において自己実現・仏界湧現の人生を歩む個人の自立への信仰形態になります。
2 三因仏性や法報応の三身などの概念で説明したら松戸様は受け入れますか。それとも、その様な概念には同意しませんか。
・・・ 三身即一や三身相即などの理屈を言い始めると複雑になりますが、簡単に分かり易く言えば、私が唱題すること(唱題は智慧を表しますので報身の観点に相当します)で内心の普遍的な法身(仏界)を薫発すると、慈悲と智慧が具体的に顕れる(応身)。これを私たちは日常生活で活用させていただくことで、宿命転換・諸願満足の人生を歩める。これが基本で、何も新しい説ではなく、大勢の方が納得してくれると思いますが。
3 松戸様は私達が、帰命するのは「法」である「妙法蓮華経」であって、根本の修行は唱題行(基本的には御本尊は要らない)という立場でしょうか。
・・・ 妙法を衆生本有の妙理みたいに抽象的な理法と理解すると誤解を招きやすいですね。私は『凡夫即身成仏論』でより具体的に、妙法は「十界互具・一念三千・即身成仏の三大原理」を意味することを一貫して検証しています。この場合、九界即仏界・仏界即九界というのは私たち自身の生命の構造ですし、唱題行で仏界を湧現すれば、それは一念三千・即身成仏の世界です。ですから妙法(サッダルマ)は、少なくとも生命現象とその法則性の二義があるでしょうね。
ここに、「法に帰命する=唱題する」とは、法と人が一体になることを意味します。その姿が御本尊に示されています。私は常に実践上、御本尊に大聖人と共に自分の成仏の姿を観るという点を強調しています。また、自分自身で、そのように唱題しています。その場合、私自身が御本尊と一体になり、境智冥合します。その時、大聖人にも先生にも直結し、皆様とも一体です。一緒に虚空会の儀式に参列します。個人的エゴを超えた次元の世界ですから。
3・2 「大聖人は末法の初めに、初めて御本尊を現して、私達の唱題行の形を整えた信心の模範の人であり、そういう意味ではその作品には魂が入っているといえるし、ただのツールとは見たくないが、その御本尊に入っている「魂」といっても、大聖人の生命に顕現した「久遠元初の仏」=「無作三身の自受用報身如来」の生命を通した、大聖人の生命そのものだという意味ではない、という見解でよろしいでしょうか。」
・・・ 基本的に、これも『凡夫即身成仏論』で強調している重要な点ですが、「題目(妙法)」即「唱題行」です。大聖人が広めたのは妙法と言う理法ではなく、「題目をあげる」という成仏のための実践だと理解しています。曼荼羅本尊はその実践する姿、十界互具・一念三千・即身成仏の三大原理が成就している姿を現している。これは唱題する人全員に適用される原理です。一切衆生・皆成仏道が大聖人の心ですよね。自分を敬えなんて、そんなエゴを満足させるだけのケチな考えはしていなかった。
また、「妙法蓮華経という法である御本尊の前では」とか、「久遠元初の仏」とか、静的・実体論的に固定して考えてはいけないと思います。もっとダイナミックに、「法の前」ではなく、「一緒にその法を実践している」という観点を、私は強調したい。だって、私たちは人生をダイナミックに生きたいですよね。
それで、敢えて御本尊の魂ということについては、まさにこの即身成仏の姿でしょうね。これは上行所伝で大聖人の境涯。大聖人が私たちのその法理と実践を確立してくださいました。曼荼羅本尊は「観心の本尊」ですよね。それは大聖人の湧きいずる仏界でもあるし、私たちの仏界でもあります。敢えて御書は引用しませんが、大聖人は「日蓮が弟子旦那」という表現を頻繁に使用しています。大聖人を先頭に、皆が横並びになります。同心円かもしれませんが。
5 「菩薩仏」「ちなみに私が言う「仏」の定義は、私達の生命に等しく秘されている仏の智慧とその体(三身即一身)を、その生涯において内実共に顕現された仏法の主、師、親 三徳具備の人物です。
・・・段々、貴女の考えが分かってきました。正宗教義を内面化すると、どうしても大聖人を排他的な意味で特別視するようになりますね。この場合、「地涌の菩薩」は「仏界から湧き上がる菩薩」、つまり「本質においては仏である凡夫」。これがモデルなので、日蓮仏法は九界から仏界を目指すのではなく、仏界を凡身に薫発する従果向因型成仏観になります。そして、唱題行はまさにその成仏観を実現する修行なので、私たちも大聖人と同じ地涌の菩薩となります。使命も能力も境涯もそれぞれ違いますが、原則的には桜梅桃李の地涌の菩薩です。この自覚は大切です。自分を卑下しては絶対ダメですね。ちなみに、欧米のメンバーはキリスト教の影響が残っていて、罪悪感とか自己卑下の傾向が強いです。自分の生命・仏界の尊さを認めないことこそが、「謗法」だと理解しています。
6 「御本尊」の事が書かれていませんが、日蓮を「末法の本仏」と呼ぶのは、特に「御本尊」(必ずしも大御本尊ではないにしても)を顕されたという事ではない、という見解という事でよろしいでしょうか。
・・・・大聖人が凡夫即仏・菩薩仏の意味で「末法の本仏」であるのは、大御本尊とまったく無関係に、「曼荼羅本尊の前で唱題する」という成仏の法を確立されたからです。また、現実にそれが何を意味するのかをご自身の体と行動で示された。私の女房はよく感動しながら話します(NB3.0で彼女の体験とか想いが書かれています)。イエス・キリストは磔になって殺されてしまったけど、誰も日蓮を殺すことはできなかった、と。実証です。
7 「理=法」だけの段階では、釈迦仏法ではないかと思いますが。
それが「事の一念三千」「人法一箇」の御本尊、つまり、「法」を修行してその結果「仏智」を得た「仏」その人に帰命する事によって、その「法」の功徳も同時に得るという修行ではないでしょうか。
大聖人は、ご自身に拓かれた「仏」そのものの命を、私達の仏界を湧現する縁となる一幅の曼荼羅としてあらわされたのではないのでしょうか。
ご本尊に題目を唱える事によって「即身成仏」を得るというのは、この「人法一箇」の本義によるのであって、「法」だけでは、その力は及ばないというのが私の考えです。
・・・ 唱題行を実践する人は全員が即身成仏の相を示し、「横並びに」なります。その現成の姿が御本尊にも表わされている「事の一念三千」です。題目をあげることが事実として成仏三大原理を現成させるので「事」です。「須弥山に近づく鳥は金色となる」ように「御本尊に縁して」という面もあるでしょうが、再度強調しますと、人法一箇は大聖人だけに限定される特殊な差別用語です。私たちも唱題行で人法一如となって大聖人に連なる地涌の菩薩であるというメッセージこそ、普遍性を持ちます。でも、私たちはずっとこれを実践してきていますよね。何も新しいことではない。余計なもの・贅肉を取り除いて、スマートになろうということですかね。
結論的には、貴方は大変真面目に中近世の正宗教義を内面化しています。それで、『凡夫即身成仏論』によって、ぜひ1.0から2.0へバージョンアップを!!!
補注ですが、私は日寛教学を全面否定しているわけではありません。「久遠元初」の用語は正宗相伝書とされる『本因妙抄』と『百六箇抄』だけに使用されています(『凡夫即身成仏論』73頁前後参照)。この(日蓮・日興の後の時代に制作された)偽書の上に大御本尊信仰と日蓮久遠本仏論が構築されており、思想的にも日蓮仏法とは認められないので否定します。が、御書の解釈をする際の文上・文底や種脱相対の視点は継承しています。ただし、その視座によって明らかにされるのは、日蓮久遠本仏論でなく、十界互具の凡夫本仏論です。
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