MUSIC TALK

クラシック好きの少年が、ロックバンド「くるり」を結成するまで 岸田 繁(前編)

  • 2017年5月19日

撮影/山田秀隆

1998年のメジャーデビュー以来、オルタナティブな存在として激動の音楽シーンを駆け抜けてきたバンド、くるり。フロントマンの岸田繁さんが語る、自らの音楽のルーツ、デビューまで。(文・中津海麻子)

    ◇

親の影響で聴いた、シンフォニックな音楽

――幼かったころはどんな少年でしたか? 音楽との触れ合いは?

 京都の北区で生まれ育ちました。今でこそ地下鉄の駅ビルが建っていますが、当時はまだ市電が走っていて。賀茂川が近く、よく一人でザリガニや小魚を捕りに行ってました。

 家にはステレオがあって、親父がいる日曜とかにはよくレコードがかかっていました。チャイコフスキーのピアノソナタとか、ベートーベンのシンフォニーとか。ロシア系の重めのクラシックが多かったですね。かと言って、親父がクラシックマニアかというとそんなことはなく、「子どもに聴かせるんやったらこういう曲」っていう感じだったんやと思います。そういうクラシックに混じって、ハワイアンやジャズなんかも流れていました。

 地元に京都市交響楽団という立派なオーケストラがあって、小学生のころはその定期演奏会や年末のベートーベンのシンフォニーを演奏するときに聴きに行きました。両親は映画も好きで、「スター・ウォーズ」「E.T.」「ラスト・エンペラー」といった話題作は全部映画館で見ました。そんなふうに、物心ついたころには大きなホールでシンフォニックな音楽を聴くのがわりと日常的でした。今思えば、自分の中の最初の音楽体験として、それはすごく大きかったですね。

――最初に買ったレコードは?

 キン肉マンのカセットテープが欲しくてねだったこともあったんですが、クリスマスプレゼントか何かでダブルデッキのラジカセをもらい、それで聴こうと自分で初めて買ったのは、カラヤンがベルリン・フィルで指揮したグリーグ「ペール・ギュント」と、ベートーベンの「第九」。やっぱりクラシックが好きやったんです。

 当時はやってた日本のロックやポップスも聴いたし、洋楽のハードロック、ブラックコンテンポラリーも好きやったけど、基本的にはお小遣いが少ないんで、普通にCDが買えなくて。年の近いいとこや学校の友達から借りたり、レンタル屋でレンタル落ちの100円で売ってるCDを買ったり、FMで流れてる曲をダブルデッキで録音もしたりしてました。そういういろんな音楽の中から好きな曲だけを集めた「俺だけのテープ」みたいな、今でいうプレイリストをダブルデッキで作って。そういうのVol.300ぐらいまであるんちゃうかな?(笑)。

高校時代、佐藤征史(くるりのメンバー)との出会い

――自分で音楽をやるようになったのは?

 中3のときにギターを買ってもらいました。進学校なのに成績は悪いし、クラブも途中でやめたし、やることがない。じゃあギターでもやってみるか、と。というか、一番はモテたかったからなんやけど(笑)。

 本当はエレキギターが欲しかったんですが、最初はアコースティックギターのほうが上達すると言われて、結局、ナイロン弦のガットギターに。ところが、「ギーン!」とか「ギャーン!」とか鳴らしたかったのに、「ポロン」としか鳴らない(笑)。アコースティックギターでギーン!と鳴らす研究をしましたね。高校に進学してから、ようやくエレキギターを手に入れました。

 高校ではコピーバンドを組み、ビートルズやディープ・パープルの曲をやっていました。そのバンドのベーシストが1年ぐらい練習に来なくて、名前は知ってたんやけど顔を見たことがなくて(笑)。で、別のベーシストを探しているときに、同級生がやったライブイベントで、佐藤(征史)がベースを弾いてるのを見たんです。

――その後、20年以上続くメンバーとの出会い。ビビビ! とくるものがあったのですか?

 いやいや、なんも考えてないですよ(笑)。「バンドやるんやけど」と声をかけたら、佐藤も「やろっか」みたいな。そんな軽い感じでした。高3の終わりごろだったと思います。コピーバンドに飽きていたので、オリジナルをやることにしました。

 僕は高校に入ったぐらいから宅録をやっていて、曲も作っていたんです。マルチトラックのテープレコーダーで、ラジオの音とか録ってぐちゃぐちゃに混ぜたやつとか、自分なりのカッコいい音楽を作るのに目覚めて。頭の中ではずっと訳のわからん音楽が鳴ってたんやけど、僕は音楽教育を受けてなかったんで、譜面にできなかったんです。それが、機材を手に入れたりバンドを組んだりして、ちょっとずつ「こんな感じかな、あんな感じかな」と具現化できていって、それはおもしろかったですね。地元のライブハウスに出入りするようになり、ステージにも立ち始めて。

京都と大阪でのライブ活動

――大学進学後は?

 付属校だったので佐藤も僕も同じ大学に進み、バンドサークルに入部しました。で、高校時代のバンドを続けてたんやけど、なんか立ちいかなくなってきて。メンバーの入れ替わりとかいろいろある中で、もっとシンプルな編成でやりたいことをやろう、こびない音楽、スタイルにこだわらない音楽をやろう、と思うようになりました。

それまで僕は曲作りとギターだけだったんですが、詞も書き、歌うようになって。佐藤と、サークルで出会ったドラムの森(信行)と3人でスタジオに入って、賞金目当てでコンテストに出て優勝もしました。それが1996年。実質「くるり」が結成した年です。

――具体的にはどんな音楽を?

 音が大きくて演奏が下手で、ただ叫んでるっていう音楽(笑)。勢いだけで拍子が普通じゃなくて。そういう大学生にありがちなバンドやったけど、「どこにもないオリジナルの音を出せた」みたいな手応えは感じていましたね。

――ちなみに「くるり」のバンド名の由来は?

 地下鉄の駅に「Uターンしろ」みたいなマークがあって、それを見た当時の彼女が「『くるり』ってバンド名がいいよ」って言ったんです。僕、バンド名ってのは英語で「なんとかズ」やと思ってたから、この人なに言うてんのやろ、と(笑)。でも、考えてみればオノマトペのバンド名ってほかにない。それで「くるり」にしました。名は体を表すと言うけれど、今になってみればこのバンド名にしたからこんなバンドになったようにも思います。

――地元京都だけでなく、大阪のライブハウスにも出るように。隣り合わせる二つの街ですが、ライブハウス文化に違いがあったとか?

 似てるところもあるんですが、基本的な考え方が違うんです。大阪は、ライブハウスからチケットを20枚渡されて「はい、ノルマね」。それが当たり前の世界。大阪でライブをすると必ず赤字でしんどかった。でも人が多くて活気があって、いいイベントがあると新しいお客さんがたくさん集まってくる。それにあやかることができたのは大きかったですね。

 対して京都は、チケットのノルマもない店が多かったし、お客さん一人ずつからチャージバックがあった。ただ、そういう甘えた制度だとバンドがお客さんを呼ばないから、7人ぐらいの前で演奏なんてザラ。くるりの前のバンドのときには、観客が2人だったこともありました。僕の彼女と佐藤くんの彼女の二人(笑)。

デビューは、大人のマーケティングだった

――ライブでの活動が業界内でも徐々に話題になっていきます。

 ライブに来てくれたお客さんにDMを出したりデモテープを売ったり、そのテープを東京や福岡のライブハウスに送ったり。僕らはそれでどうしようとか、どうなろうとかは全然考えてなかったけど、そのテープが人づてに業界の人たちに渡り、ライブを見にきてくれるようになったみたいです。

 当時はインディーズがブームで、僕らもインディーズのレコード会社と契約したんですが、ほぼ同時にメジャーのレコード会社からも声がかかったんです。すると、両社のスタッフが結託してある計画が立てられました。あらかじめインディーズバンドとして活躍するであろうという時期を与え、その後、メジャーレーベルからデビューする――と。そういうマーケティングのもと、97年にインディーズでファーストアルバム「もしもし」をリリース。そのときには半年後にセカンドアルバムを出し、すぐにメジャーデビューするという道筋がすでに決まっていたんです。

 僕らは相変わらず何も考えてなかった。でも、裏では大人たちが着々と動き始めていたんです。

(後編は5月23日配信予定です)

  ◇

岸田 繁(きしだ・しげる)

1976生まれ、京都府出身。立命館大学の音楽サークルで「くるり」結成、ボーカル、ギター、作曲を多く手がけている。98年にシングル「東京」でメジャーデビュー。特徴である多彩な音楽性には変わらぬ叙情性があり、多くのファンを持つ。
映画のサントラ制作、CMやアーティストへの楽曲提供も多数。2016年4月から、京都精華大学の客員教授をつとめている。
自身初の交響曲作品「交響曲第一番」が、2016年12月に京都で初演。その模様をおさめたアルバム「岸田繁『交響曲第一番』初演」が、2017年5月24日にリリース。

岸田 繁オフィシャルサイト:http://www.shigerukishida.com/

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