*星空文庫

【金曜連載】 高千穂峡のすみれ草 (第2.1話)

万田 竜人(まんだ りゅうじん) 作

第二章

(一) 何を意味しているのか

 ニュージーランドのカンタベリー地方で、2011年2月22日に、大地震が発生。
クライストチャーチの大聖堂の塔が崩壊したというニュースは、テレビ報道によって
知らされた。啓介にとってこの地方は大いなる元気をいただいた都市のひとつであり、
あの仰ぎ見た大聖堂の尖塔が崩壊したというニュースには驚愕した。

 クライストチャーチ地震と呼ばれる大地震により被害を受けた家屋は4万から5万
戸に及んだと云われている。なかでも、地元テレビ局が入っていたビルの倒壊による
被害は甚大であり、同局の関係者やこのビルに入居していた語学学校の生徒や留学生
が被害に巻き込まれて、多数の死傷者が発生した。

 語学学校という性格から、死者185人の出身は15カ国に及び日本人も28名が
尊い命を失った。クライストチャーチ国際空港では管制塔の建物が崩れたため、一時、
空港は閉鎖された。

 ここに亡くなった方々のご冥福をお祈りして合掌する。

・・・・・・・・

 徒然草を思考の通路にして、「ワイワイガヤガヤ」の場を設け、意見交流して行く
というイメージは、啓介の頭の中では、具体化しているが、それを、目に見えるよう
にして起案書にした上で、実際に、メンバー募集をして行くときに、どのような説明
をして行けば、「分かりやすいのか」、それは難題でもあり、課題でもある。 

 しかも、最初の問題認識であったところの・・・

「政治の無策やスピード感のなさを正す」
「最近の新党結成の動きをどのようにとらえるか」
「われわれ国民一人ひとりが『ワイワイガヤガヤ』の精神で、『健全な意見』を交換
すること」が、果たして、容易に実現出来ることなのかどうかは、ある程度の目論み
を建てておくことが肝心である。

 その際のポイントは出来るだけ分かりやすい展開が出来るか否かにかかってくる。

 松尾芭蕉の言葉を借りれば「幼子にも分かる展開」ということになる。幼子を対象
にするには、話に無理があるとしても「中学生にも分かる」イメージというレベルが
落としどころになってくると考えている。

 そういえば、昨年暮の「徒然草を読み通す」の授業でも、受講生の中に、中学校の
先生が混じっていて、島内裕子教授に次のような受講の感想を述べていた。

「現在、徒然草の話を読み聞かせているのですが、島内先生の講座を受講することで、
生徒たちにより分かりやすい授業をしようと考えています。本日の徒然草を読み通す
講座は勉強になりました」という主旨の感想であった。

 中学生にも分かるという視座で考えたときに・・・

 それを可能にするためには、徒然草を「思考の通路」にするということを独り舞台
でも良いので、啓介が、実際に独りロールプレーをしてみて手応えを確かめ、その上
で、皆で共有して行くというプロセスが必要なのではないか。

 既に、放送大学の文京学習センター(茗荷谷)の新校舎の研修室において島内裕子
教授ご指導の下において、徒然草の序段から第百十八段までの前半部分を読み通して
いる。これを基盤にして、先ずは序段から第十段までを、啓介の独りロールプレーで
演習してみたら、起案書や募集案内を作成するヒントが得られるのではないか。

 これらの段には・・・
「身分」「教養」「政治」「恋愛」「仏教」「子孫」「人生」「色欲」「住居」など
について、兼好の「つれづれなる思い」と「問題意識」が書き連ねられている。

 啓介は、序段の本分と、島内裕子教授による訳文の助けを借りて、
「ワイワイガヤガヤ」のロールプレーを演じてみることにした。

 独りロールプレーで、どこまで「思考の通路」を飛翔して行けるだろうか。

【徒然草:序段(本文)】

 徒然なるままに、日暮らし、硯に向かひて、心にうつりゆく由無し事を、
そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。


【序段(訳)】 島内裕子教授による訳

 さしあたってしなければならないこともないという徒然な状態がこのところずっと
続いている。こんな時に一番よいのは、心に浮かんでは消え、消えては浮かぶ想念を
書き留めてみることであって、そうしてみて、初めて、みずからの心の奥にわだかま
っていた思いが、浮上してくる。

まるで一つ一つの言葉の尻尾に小さな釣針が付いているようで次々と言葉が連なって
出てくる。それは和歌という三十一文字からなる明確な輪郭を持つ形ではなく、どこ
までも連なり、揺らめくもの・・・

 そのことが我ながら不思議で、思わぬ感興におのずと筆も進んでゆく。自由に想念
を遊泳させながら、それに言葉という衣裳をまとわせてこそ、自分の心の実体と向き
合うことが可能となるのではなかろうか。

 面接授業では、この対極として樋口一葉の雑記が参考記事として紹介されていた。

「つれづれならぬ身は、日暮らし硯にも向かわず、おのが勤め、ろうがはしく走り
巡りて、日もやうやう暮れぬとて、足机など取り出しつつ・・・」
(明治二十二年初春の雑記より)

 兼好と一葉の違いは決定的であり、それは「閑と忙」である。しかし両者に共通
していることは清少納言の「枕草子」を精読しており、両者ともにその影響を強く
受けていることである。

 兼好は、徒然草「第十三段」に、「ひとり燈火のもとに文を広げて見ぬ世の人を
友とするぞ、こよなう慰むわざなる」と書いており、訳によれば「独り、燈火の下
に書物を展げて、見ぬ世の人を友とするくらい、無上の慰めはない」として、読書
人の感想を述べている。

 また第七十二段では清少納言の枕草子の「もの尽くし」の文体で筆を進めており、
枕草子を精読していたことが良く分かる。

 古典文学に関する深い教養を武器に、近代小説の傑作を書いた樋口一葉は紫式部
よりも、清少納言に親近感を抱いていたと・・・

 島内裕子教授が著書の「日本文学の読み方」で述べており、樋口一葉の随想記
「さおのしづく」の冒頭にある紫式部と清少納言の比較論を紹介している。

 世間の人々の多くは、紫式部を高く評価しているが、自分はそうは思わない。

 紫式部には、父親や兄、藤原道長の庇護があったのに対して、清少納言は頼る人
もなく、独力で文学人生を切り開くしかなかった。

 清少納言を「霜降る野辺」の「捨て子」に喩え、「女の境」を離れて文学に一生
を賭けたからこそ、枕草子の表面は、優雅で華麗に見えるが、深層には・・・

「あはれに、寂しき気」が籠もっていると、一葉は洞察している。

 島内裕子教授の言葉をお借りすれば・・・

 これは、一葉が自分自身の文学の本質を、清少納言に仮託して告白したものともい
える。清少納言の「優雅と辛辣」の奥底にあるものは「女としてこの世を生きること
の哀しみ」であると見抜いた一葉こそ、まさに清少納言の「見ぬ世の友」であったと
いえる。

 啓介は、放送大学の島内裕子教授の呼びかけで「徒然草を読み通す」ことを真正面
から受けとめて、先ずは、最集段から序段に向けて読み通してみた。そして、今度は
あらためて序段から最終段までを読み通してみた。

 そこで、啓介は「あること」に気付いた・・・

 兼好の徒然草を「思考の通路」にして思いを巡らすためには、日本文化の始発期の
「古事記」からはじめて「万葉集」「古今和歌集」「新古今和歌集」「枕草子」
「源氏物語」「和泉式部日記」「更級日記」「方丈記」「平家物語」などを、
「日本文学の読み方」島内裕子著のガイダンスに沿って、一気に読んだ上で、
「徒然草を読み通す」ことをしないと、徒然草の文脈の奥底に潜むものに辿りつかな
いのではないかと考えて啓介は自宅の蔵書(日本の古典:現代語訳)を一気読みした。

 結果、兼好が「序段」に書いている名文は・・・

 自分自身が執筆家としての「ありたい姿」について、現役の六位蔵人の時代に構想
を描いていたのではないか(蔵人とは、天皇に仕えて日常の雑事や文書の管理を行う
役職である)。兼好は、神道の家柄に生まれており、若い頃は、堀川家の家司として、
事務をつかさどる職員であった。

 後宇多天皇と堀川基子の間に生まれた邦冶親王が、後二条天皇になったときに蔵人
として出仕している。三十歳以前には出家しており、出家して兼好御坊となったとい
われている。

 徒然草の完成は、登場人物の官位や記事からの推定で、兼好が五十歳頃までに書か
れたものとされているが詳細は不明である。

 兼好は、歌人としても知られており、和歌や記述文書などから、鎌倉に行ったこと
があり、晩年は「源氏物語」や「拾遺和歌集」などの書写も行っている。

 足利尊氏や高師直などの武家とも交流があり文化人として遇されていたことが推測
されている。

 啓介は、放送大学の大学院においても貴重な履修学習の体験をしている。

 ユング博士の心理学の考え方に共鳴した延長上で、大場登教授の存在を知って、
「臨床心理面接特論」大場登・小野けい子著に学ぶことにした。

 通常の教科は、二単位で編成されているが、この教科は四単位の編成になっており、
テキストにも厚みがある。啓介は、この教科の期末テストで百点満点を取っており、
いかに注力して学んだかの証と考えている。

 同時に、この臨床心理の考え方を学ぶことで、啓介はものごとに対する見方や取り
組み方に、奥行きともいえるような、余裕をもった考え方が出来るようになったこと
も確かである。

 ものごとを受け止めるときの基本的な姿勢として、「それは、何を意味するのか」
というアプローチを取るのである。

 これによって、一呼吸おくことが出来るために、慌てずに焦点を外すこともなく、
的確に対処できる。

 徒然草を「思考の通路」にするときにも、このアプローチの取り方は有効であると
考えている。兼好が序段でこんなことをいっているが、「それは何を意味するのか」
と、こんな具合である。

 同じく大学院の履修科目で岩永雅也教授から「生涯学習論(現代社会と生涯学習)」
を学んだときにも、啓介の心を揺さぶった学習経験があった。

 岩永教授は、啓介が卒業研究の論文をまとめたときの担当教授であり、岩永教授の
思考の特徴として、ものごとを多面的に、いろいろな視点から、見て行くということ
を日常生活の中で実践されている。

 兼好の徒然草の執筆と、同じような傾向が見られるところが面白い。

 岩永教授のテキストには書かれていないのだが、啓介は、次のようなことを本能的
に毛穴で感じ取った。

「表向きの話には、必ず裏の話がある。そしてそこには、さらに裏の話が隠されて
いることがある」

「ものごとを観る上で、多面的な見方は不可欠である」

「少なくとも、ものごとを対極的に両面から観る態度は、日常生活においても習慣化
したいものである」

 このようなことを感じ取ることになったきっかけは、「生涯学習論」のテキストの
中に、第二次世界大戦後のイギリスにおいて保守党と労働党の二大政党が交互に政権
を交代することになって、その度に生涯学習の全体的方向性が頻繁に重心を移動させ
られたという記事が紹介されていて、ある意味で不幸な状況が続いたことは、最近の
日本の与野党の交替劇にも似通っており、ねじれ国会の議案の推移などを見るに付け、
建前と本音と思惑が交錯して、まさにカオス(混沌)の状態を成している中で、政治
の正常化を望む啓介は、前述のようなことを本能的に毛穴で感じ取ったのである。

 徒然草を「思考の通路」として飛翔するときにも、このような多面的な見方は必須
であり、実は、徒然草に書かれていることをワイワイガヤガヤと意見交流することが、
自ずと多面的な見方に通じると考える。

(続 く)

『【金曜連載】 高千穂峡のすみれ草 (第2.1話)』

『【金曜連載】 高千穂峡のすみれ草 (第2.1話)』 万田 竜人(まんだ りゅうじん) 作

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-05-19
Copyrighted

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。