フランス自由主義の中心性
ラルフ・レイコ『古典的自由主義とオーストリア学派』第六章
導入
マレー・ロスバードは彼の計り知れないほど貴重な経済思想史において、いくらか刺々しさをもって、経済理論がアダム・スミス――彼の「評判はほとんど太陽をも見えなくする」――とともに始まり、それからマルサス、リカード、ジョン・スチュアート・ミルによって意気揚々と引き継がれたという心得違いの説明について書き留めた。このほぼ普遍的なイギリス人著者の中心化は、イギリスよりはるかに実り豊かなスペインでの後期スコラ学派およびカンティリョンとテュルゴとジャン=バティスト・セーとフレデリック・バスティアのフランス学派に代表される大陸的伝統を消し去るものだ、とロスバードは主張する。[1]
このエッセーのテーゼは、経済史の発達とかなり緊密に結びついている政治経済学と政治哲学、ヨーロッパの自由主義史の研究でも似た意見を述べることができるというものである。少なくとも十九世紀に関するかぎり、普通、自由主義思想史でのイギリスの重要性は誇張されてきたが、他方で――しばしば今日的関心に著しく関連する――フランス人思想家の貢献は概して最小化されるか完全に看過されてきた。
これはとりわけ、十九世紀初期のジャーナル『ヨーロッパ監査官』の著者たるシャルル・コントとシャルル・デュノワイエとオーギュスタン・ティエリによく当てはまる。彼らは、略奪的な国家志向の社会層対生産的犠牲者層という数千年来の闘争についての最も詳細で分析的な論述を提供した。この主題は前章の「階級闘争:自由主義理論対マルクス主義理論」でも扱われている。
ハイエクの「真の個人主義と偽の個人主義」
あいにく、フランス自由主義研究に大混乱を導入してしまった要因は、F・A・ハイエクの著述のいくつか、主として彼の影響力あるエッセー『真の個人主義と偽の個人主義』から来ている。[2]このかなりわけが分からない作品で、ハイエクは個人主義(あるいは自由主義)の二つの伝統を区別しようと試みる。第一に、基本的にはイギリスと経験主義的思想系統が本物の自由主義に相当する。第二に、フランス的(および大陸的)な思想系統は真の自由主義的伝統ではなく、むしろ「不可避的に」集団主義へ導く理性主義的逸脱である。これは二つのアプローチの下にある対照的な社会理論から出てくる。第一のものは「自生的」に生成し発展する社会制度に関する真理を理解したが、第二のものはそれらを人間の故意の「発明や設計」の産物であると考えた。
ハイエクの論述には問題点が夥しく、それらの多くが本書本論で取り組まれる。ハイエクは後に――プリーストリー、プライス、ペイン、ジェファーソン含む――十八世紀自然権論者について注記するとき、彼らが理性主義的自由主義の伝統に「完全に属している」と断言している。彼がこの伝統の証と考えたとおりに、これらの思想家が社会は全知の立法者に「設計」されていると考えた証拠は提示されない。[3]奇妙にも、「全体主義的民主主義」に導いてきたのは、この自然権思想の要素だとされている。[4]
ハイエクは明らかな事実をも見えなくする不治のアングロフィリアを患っているのではないか、と幾人かは容赦なく疑うかもしれない。彼自身が記すには、「私はときに、……自由主義への最も際立った貢献は、他人の保護された領域に介入しないような品行の問題に関する道徳的信念は強要を正当化しないという見解であると感じる」(『自由の条件』原文402ページ)。しかし宗教的平等が確立されたのは、イギリスで「進化」する前にナポレオン法典をもったフランスにおいてであったし、イギリス政府が思い切ってウォルフェンデン報告書を発表する一世紀半前に、同法典は成人間の自発的な性的行為を非合法化していた。
よしハイエクの分析が正しかったとしたら、十九世紀中を通して二十世紀に入るまで、他所のいずこも恥入るほどに勢力と純粋性を保っていたのがフランスでの自由主義的知的伝統であるという事実は説明されかねるだろう。これは、英語圏の国々では普通「古典的自由主義」と形容されざるをえないものが、フランスでは今でも「自由主義」という用語で言い表されているということに示される。このエッセーでは十九世紀フランス自由主義の重要で示差的な洞察のいくつかが概説され、現行の多くの政治論争に対する注目に値する適切さが際立たせられる。
バンジャマン・コンスタンの居場所
バンジャマン・コンスタンは、フランスのみならず、ヨーロッパの十九世紀自由主義の代表人物である、と私は主張したい。[5]エミール・ファゲはコンスタンについて、彼が「自由主義を発明した」と言ったとき、ほんの少ししか誇張していなかった。[6]幸いにもコンスタンは、十九世紀自由主義思想家フランス人の嘆かわしい無視にあっての例外の一人である(もう一人はトクヴィルだ)。多元主義の哲学者たるアイザイア・バーリンはコンスタンを「自由とプライバシーの擁護者全員のなかで最も雄弁な人物」と称しつつ彼の重要性を支持してきた。[7]近頃コンスタン研究が花開くにつれてますます明らかになってきたことは、結局、コンスタンは近代性の政治哲学者であったということだ。
近代的世界の本質的特徴は何か、そしてこの示差的特徴にふさわしい政治システムは何か? コンスタンは大革命期の若者としての経験によってこの疑問を考えさせられた。あの革命は自由を追求するうちに生まれた。しかしコンスタンが見るところでは、革命は致命的な欠陥を露呈した。恐怖政治は単に環境の結果として説明されることができなかった。その背後には理論があり、コンスタンの考えでは、それは近代に誤適用された古代的自由の観念であった。
コンスタンの古代ポリスの、あるいは市民国家の議論は誉れ高い。マックス・ウェーバーは「コンスタンの輝かしい仮説」と称したものを「理念型」概念の完全な例であると取り上げた。[8]簡単に言えば、コンスタンによると、古代的自由とはギリシアとローマの古典的共和制の観念であって、近代ではルソーとマブリのような著者の観念であった。[9]それは自由が市民の政治的権力の行使で成立すると考えた。それは集団的自由の概念であり、個人の共同体への従属と両立――はおろか、これを要求さえ――する。各市民は全体に従属しつつ、共同体メンバーに対する完全な権力行使の分け前を持つだろう。
古代的自由は当時の社会、奴隷制と絶え間ない戦争の社会にその根があった。近代的自由も、自由労働と平和的商業に基づいたそれ自体に特有の社会に根を張っている。コンスタンは問う。「我々の時代において、イギリス人、フランス人、アメリカ合衆国の居住者が『自由』という言葉で理解しているものは何か?」
それは各人が法以外の何ものにも服さず、逮捕されず、投獄されず、殺されず、そして一人以上の個人の恣意的な意思の結果としてどんな仕方でも虐待されないことである。各人が自分の意見を述べ、自分の仕事を選択してこれを実行する権利であり、自分の財産を処分し、それを乱用さえする権利であり、許可を得ることや彼の動機や事業を説明することなく行ったり来たりする権利である。それは各人が他の個人と組む権利であり、彼の利害を協議してもしなくてもよく、あるいは彼と彼の仲間が好む宗教を告白してもしなくてもよく、あるいは単純に、彼の傾向と空想にもっと適うように過ごしてもしなくてもいい。最後に、各人が政府運営に影響する権利である……。[10]
ルソーとジャコバン派の致命的な過ちは古代的自由を近代的世界に復活させようとしたことであった。近代的世界は完全に異なる種類の人的パーソナリティー――古代人には未知の意味で、我々が「個人」として知っているものを――生み出してきたから、結果は大惨事でしかありえなかった。[11]
しかしジャコバンの企ては1794年には終わらなかった。実に、二十世紀の全体主義運動の本質は集団的自由を実現し、一様かつ集団的な人間の型(ソビエト的人間、ナチス人間など)を創造することが目標だった。コンスタンは極小多元主義の哲学者として、全体主義的自惚れという言葉ができる前にこれの大批判を行ったのである。
そのうえコンスタンの分析は今日の西洋諸国に直接関係がある。ここは先の数世紀の宗教戦争になぞらえて文化戦争と称されるもののアリーナになってしまっている。紛争する集団は彼ら自身の文化――宗教的、道徳的、倫理的、甚だしきは美的な価値観――を実現するために国家権力を行使しようと欲する。「右翼」は「伝統的」だの「家族」だのの価値を振興し、左翼は「進歩的」だの「平等」だの「啓蒙的」だのの観念を押し出して広めようとする。どちらも国家機構の重要な部分、結局は公教育の支配権をめぐり、また(ラジオとテレビが政府の一部である国々では)メディアもめぐって争っており、文化の国家出資にたかっている。闘争はしばしば熾烈であり、わけても賭けられているものが子供の心である公教育の場合には苛烈を極める。このすべてに関わっているのは、またも、フランス革命期ほど野蛮ではなくとも、国家の強要によって文化的および道徳的な価値の一様性を保証しようとする試みである。
コンスタンは、十九世紀と我々自身の時代の自由主義に典型的になった状況である知的二正面闘争を戦うよう強いられた最初の偉大な自由主義的思想家であった。彼の敵は、一方ではジャン=ジャック・ルソーの(ほとんどの場合)ジャコバン党と社会主義的末裔、他方ではド・メーストルとド・ボナールのような神権保守主義者であった。
コンスタンは、伝統わけても宗教を転覆しようと付け狙っていた平等主義者と社会主義者に抵抗する者として、社会自体の自由な活動によって生成された自発的伝統の真価を認めた。コンスタンはジョン・スチュアート・ミルよりはるかに優れており、逆に、人類の相続的なあり方をしたあらゆるものに対するミルの嫌悪は英米自由主義をひどく的外れな方向に誤り導いてしまっている(本書のエッセー「真の自由主義と偽の自由主義」を見よ)。コンスタンは国家権力に抗する闘争において、これらの古いあり方をしたものの価値を強調した。恐怖宗教とナポレオン独裁制をやり過ごしてきたことで、彼は現代国家の権力を理解した第一人者になったのである。その障害として機能してくれるかもしれないようなどんな社会生活の要素も、彼の見地では歓迎された。トクヴィルを先取りし、我々の世紀のベルトラン・ド・ジュヴネルとロバート・ニスベットのような思想家を先取りしつつ、コンスタンが記すには、
地方習俗のうちに生まれた関心と記憶の中には、当局には遺憾としか感じられず、当局が急いで根絶しようとするような、抵抗の芽が含まれている。それは諸個人がいればもっと容易にその道を得るのであり、その途方もない重みで難なく砂の上を転がってゆくのである。[12]
保守主義者について言えば、彼らはキリスト教の原罪の概念を圧制システムの理論的根拠にして圧制のシステムを創設しようと試み、強い国家が自然な人間を厳しく監視し続けなければならないと論じていた。コンスタンは人間本性の自然な堕落という概念にいくらかのもっともらしさを保証することも本意であった。しかしどうしてそれが権威主義的国家の正当な根拠になるんだ? 政治家は無原罪懐胎で生まれたとでも? コンスタンが記すには、
人は堕落しているから、これらにもっと多くの権力を彼らの幾人かに与える必要があるという主張には奇妙なところ〔がある〕……対照的だが、もっと少なくしか権力を与えてはならない。すなわち、人はうまく制度を組み合わせて、その中に、人の邪悪さと弱さに対する一定の釣り合いおもりを置かなければならない。[13]
国家権力は、かたやジャコバン党の下ではルソー的価値観に基づいた社会を生産するための要因として投じられており、かたや王政復古の下では保守主義者がカトリック的および神権政治的な価値観を注ぎ込むためにこれを行使しようと求められていたが、コンスタンにとってはどちらも負けず劣らず腹立たしかった。彼は述べる。「私は、暴力的で強制的な改良を拒絶するなら、観念の進歩が徐々に改良され改革される傾向を暴力によって維持することも等しく非難する」。[14]彼は近代世界で避けられない文化的価値観の衝突に際して必要な態度をまとめた。
正義に忠実なままであれ、これはあらゆる時代のものである。自由を尊重せよ、これがあらゆる良い物を用意する。あなたがいなくても多くの物事が発展するという事実に合意せよ。そして、過去にそれ自体の防御を、未来にそれ自体の達成を任せよ。[15]
すると、文化戦争の解決は宗教戦争の解決に似通っている。政府を問題に関わらせるな。社会に問題を調停させろ。
政治的集権
フランス人自由主義者に発展された主たるテーマは一極集中した権力の危険性である。国家の手中に莫大な権力を集中することの原因と帰結は、オルテガ・ホセ・イ・ガセトとベルトラン・ド・ジュヴネル(特に彼の古典、『権力論』)からロバート・ニスベットとマイケル・オークショットまでの最も深遠な現代社会研究者の多くによって没頭されている。この疑問に関する偉大なフランス的源泉が――実に、政治思想家全員の大源泉が――アレクシ・ド・トクヴィルである。
トクヴィルが歴史書で示したとおり、現代官僚制国家はフランスでは王によって打ち立てられ、革命とナポレオンによって引き続けられた。
トクヴィルは二十六歳ではじめてアメリカ合衆国に来たとき、国家の兆候の実質的な欠如に驚いた。アメリカは彼には政府なき国に見え、その点を褒め称えた。ここではトクヴィルも、啓蒙思想に始まり数世代受け継がれたアメリカ合衆国に対するフランス自由主義の熱狂を続けていた。(フランス人は州間戦争期のエイブラハム・リンカーンと連邦軍の大義へのお世辞のように、ときおりかなり無批判な崇拝者であったことが認められなければならない。[16])
『アメリカの民主政治』第一巻での「多数派の専制」に対するトクヴィルの関心については、おそらくジョン・スチュアート・ミルがこの第一部の熱狂的なレビューでこのモチーフに目を捕らえられたせいで、あまりにも大げさに扱われている。それ以上の絶えざる関心は、第二巻での、かつてなく増大した物質的満足をめぐる大衆の抗争が現代民主主義と結びつくときの国家集権の危険性に関する分析である。『アメリカの民主政治』の結論でトクヴィルが提示したものは、政治思想史全体で最もおぞましいイメージの一つであるに違いない。
世界に現れるかもしれない新しい専制の特色を透き写ししよう。最初に目を捕らえるのは、……みな等しくて似ている無数の人々からなる大衆である。この種の人々の上には巨大で後見人的な権力が聳えており、これは、彼らの満足感を確保してやり、彼らの運命を見守る責任を、もっぱら自分だけで引き受ける。この権力は絶対で、事細かで、規則正しく、準備良く、緩やかである。その目的が男に男らしさを与えてやるものであったとしたら親の権威のようなものだろうが、対照的にも、それは人々を永遠の子供にとどめておくことを狙っている。人々は喜ぶこと以外には何も考えていなければ喜ぶことで満足してしまう。そのような政府は彼らの幸福のために働くのが本意だが、しかしこの幸福の独占エージェントであり唯一の調停者であることを好む。そして彼らの安全保障を提供し、彼らの必需品を予見して供給し、彼らの楽しみを助成し、彼らの主要な関心事を管理し、産業を指導する……思考の手助けも生活の苦しみもすべてなしで済ます以外に何が残るんだ?[17]
ビスマルク政権ドイツでの現代福祉国家の誕生の五十年前に、トクヴィルがすでにこれを記述していた――そして批判していた――ことは驚くべきことだ。[18]
トクヴィルに続き、フランス人自由主義者はたえず国家集権の危険性に注意を当ててきた。実際、アンリ=ドミニク・ラコルデールがアカデミー・フランセーズでトクヴィルの後継者として選挙演説を行ったとき、フランス・カトリック自由主義者の著名な指導者たるモンタランベール(以降を見よ)に沿って、国家権力集中を促し唆しているかどでヨーロッパの急進的民主主義運動を激しく打ち叩いた。
ヨーロッパ人民主主義者、国家なるものの偶像崇拝者は、公的全能神への生け贄の犠牲者として人間をお供えするために彼を揺りかごから取り上げてしまう。彼は、子供とは家に属する前に市〔すなわち、政治的組織〕に属するものだと考えおり、そしてこの市、すなわち彼らを統治する代表者たちには一様の法的な模型に合わせて彼の心を形成する権利があると考えている。共同体が、県が、その他ありとらゆる結社が、最も中立的な人でさえが国家に依存しており、国家の干渉がなければ、そして国家が決定した範囲でなければ行為もできず、言論もできず、売ることも買うこともできないし、家族も存在しないというように、最も絶対的な市民的隷属を政治的自由の基礎にして入り口にする考え方をしているのである。[19]
「寛容」と現代世界の信念
自由主義の重要な部分が文化と価値観の問題に対する国家の中立性の考えであることは広く同意されている。自由主義的な見解では、国家は暴力による権利侵害から全個人を保証する手続き的問題に自身を制限しなければならず、さもなくば他人との自発的結社で具体的価値システムが発達するよう彼らを自由にして為すがままにしなければならない。
幾人かの自由主義批判家が非難するには、この国家中立性原理は道徳的および文化的な価値観が実はすべて「相対的」で、拘束力なく、どんな有意味な風にも存在すらしない(あるいはすべて等しく真であるか有効である)という考えに堕落する傾向があるらしい。しかし、価値システム、たとえば宗教にはすべて等しく、寛容だけでなく是認と受容の価値があると見られれば、これは具体的な価値観への堅強で切実な参与を必ずや蝕み、究極的には破壊するだろう。こうして精神的生活は貧困化させられ、重かれ軽かれ社会的および人格的な病理が蔓延るだろう。
しかしながら自由主義の道徳相対主義とのそのような結託は決して必然的ではない。少なくとも部分的には「リベラル」という語の曖昧性以外には遡れないように思われる。それはたとえば、あたかも(政治的)リベラルが必然的に「リベラル」教育に組していると、すなわち工学など実学に集中する教育を非難してきたと主張するかのようなものだ。
しかし道徳相対主義と称されるものの受容と自由主義がくっついているという見解はときに自称リベラルから支持を得ており、その中にはスティーヴン・マセドがいる。[20]マセドは彼が「リベラルな正義」と称するもの(他人の権利への尊重)は、異なるライフスタイルと倫理的選択などへの「寛容」を含意すると認める。しかしながら彼の見解ではこれは十分ではない。「単に『寛容』なだけの共同体は共同体として繁栄するものとして本当に浮かび上がりはしない」。「リベラルに独特な仕方で」共同体が繁栄するためには「またリベラルな美徳も要求される」。我々は異様な「以前には真剣に考えられたことのない、我々自身のキャリアとライフスタイルとは異なる選択、プロジェクトとコミットメント」に「共感」しなければならない。
非常に異なる生き方に共感する資質を得た自由主義的な市民は「生き方の選択肢」の範囲を得て変化に開放的になる。生き方の選択肢は自己調査、自己批判、実験を励ます。生き方の選択肢は、「一風変わった」キャリアと異なる性的志向の受容、ジェンダー・ベースのステレオタイプの崩壊、そして離婚と再婚の受容……を増やす。[21]
マセドによれば、自由主義は「自分のやり方を批判と選択と変化に開かれているものと見なすよう彼らを励ますことで自分の忠義とプロジェクトへの献身を抑えるか薄める」傾向がある。「もしも社会的実践と道徳的規範が自由を制約するよりむしろ振興するものであるならば、それらは一定の実質的特徴をもたなければならず、同調圧力よりはむしろ変化への〔広い意味での〕寛容とオープンネスの態度を体現しなければならない」から、これは歓迎されなければならない。「静寂なる恭順、相違、異論なき献身、謙遜は、自由主義的美徳には数え入れられない」と、マセドは述べる。[22]彼の自由主義の着想では、それは「カリフォルニアのような全世界を約束する、ないし脅迫する、ないし創造する」。[23]
最後に、マセドは「自由主義的観念はどう生きるべきかという大問題への最終的で決定的な答えを捜し求める人々には訴えられないだろう」[24]と宣言しつつ、自由主義の信奉が厳格な宗教的伝統の堅固な信仰と完全に両立する可能性をあらかじめ締め出す。
フランス自由主義的カトリック教徒、寛容と多元主義について
これも不当に無視されているがとても今日的な意義がある十九世紀フランスの思想学派、カトリック自由主義者によって処理された疑問であり、その最高の代表者はモンタランベール伯であった。[25]これらの思想家は自由主義の進化に新たな段階の導入を助けた。イデオローグのような以前の自由主義者は一般的には反宗教的であり、わけても反カトリック教であった。たとえば『ヨーロッパ監査官』はカトリック教会の論じ方が完全にヴォルテールみたいだったし、「再生した宗教的秩序と、新学校の再開、宗教的制度の拡張と、宣教師の活動に対する無慈悲な戦争」を行っており、特に「改宗と大叙階」をたえず中傷していた。[26]しかしバンジャマン・コンスタンの部分的影響の下で、自由主義の態度は変化し始めていた。
一八三〇年、カトリック自由主義者の集団は宗教的自由を提唱してカトリック信仰と自由主義を調和させるために『ラヴニール』〔未来〕というジャーナルを創刊した。これらの著者にとっての考慮すべき重要な事柄は、「その意見がかなり多様で矛盾しており、そのさまざまな信念、その果てしなき、仮借なき寛容と自由の必要性がある」[27]、十九世紀の社会の特徴であった――昨今では現代社会の「多元主義」と称されるものである。この現代多元主義の含意の一つは、カトリックのように他人の自由を切り詰めようと試みる宗派はどれも、彼らの適が権力を得たときに彼ら自身の自由が切り詰められずに済むか確かではないということだ。[28]
『ラヴニール』の編集者の一人、シャルル・フォルブ・ルネ・ド・トリオン・モンタランベール伯は、この運動の指導者になっていった。彼の見解の最も有名な披露は一八六三年にベルギーのメヘレンで行われた。[29]ベルギーは一八三一年の完全な宗教的自由の立憲の際にカトリック教徒が自由主義者と組んでいたから、モンタランベールと彼の仲間にとってとても重大な地であった。[30]
モンタランベールは彼の二つの演説で宗教的自由の嘆願を、コンスタンの古代的自由と近代的自由の分析を偲ばせる、歴史学派の枠組みに位置づけた。ちょうどコンスタンが古代的自由と想念されるものを「悪い」と示唆しなかったように、モンタランベールも以前の数世紀に実践された宗教的不寛容をはっきりと非難しなかった。むしろ、教会の過去の強要行使に関する彼の立場はややアンビバレントである。彼は「宗教に尽くし宗教を守るという口実で人類に対して行われてきた拷問と暴力すべてに克服不能な恐怖心」を感じるが、ヨーロッパがそのキリスト教的性格を教会の過去の国家との関係性に負っていることは事実である。けれども、ヨーロッパ社会はそのような関係性の必要を凌ぐほど成長しており、「……信仰の効力のシステムがかつて幾つかの荘厳な結果を生み出してきたことを認めてさえ、我々が生きる世紀においてはどうしようもなく無力であると思われることを否定するのは不可能である」。そのうえ教会が一時的支配者の共犯者や奉仕者として振舞うよう要求されて権力への特権的アクセス代を支払ってきたことは、かつてあまりにも頻繁であった。[31]
彼は理論的まして神学的な論争には携わらないと主張した。彼はもっぱら政治家と歴史家として語っている。「私は事実に訴えるし、純粋に実践的な教訓を引き出す」。近代世界の特徴を鑑みれば、「封建制や神権政の面影でさえ再確立することは不可能である」。教会にとって自由は絶対必須であり、これが彼の最も重要な関心である。実際、彼は自分のキャリアを「カトリック教信仰の自由と権利を擁護すべくすっかり捧げられ」ていたと記述する。しかし「教会はもはや一般的自由の内から免れることができない。共通の自由の保障の下では、特別な自由も、他の何にも劣らず教会の自由も、存在することができないのである。偉大なキリスト教史の数世紀ではそうではなかった」が、覆らないほど時代が変わったのだ。[32]
ジャコバンとナポレオンの独裁は近代国家の手中に大量の権力がわたる可能性をヨーロッパわけてもフランスの自由主義者にうすうす気づかせた。モンタランベールはアクトン卿の教師たるイグナツ・フォン・デリンガーから先見の明ある一節を引用しており、彼はローマ帝国の中央集権的専制が近代国家の絶対制以上には魂の自由とキリスト教の信仰を脅かさなかったことを主張した。最初のローマ皇帝には、検閲も機密もなく、常備警察や公教育や官僚制さえなく、文明がいま暴君に献呈している電報も鉄道も、莫大な資源もなかった。今日の宗教は、近代国家の圧倒的な権力に対する個人的・道徳的な防波堤として、同様に制度的な防波堤として必要である。他の何をして、「この激流で我々自身を持ちこたえるために我々がますます必要としてゆく道徳の力、雄々しい根気、不屈の堅忍、妥協なき独立で」個人を鼓舞することができるんだ? よし不正確だとしても、モンタランベールは皮肉げに書き留めるには「神を信じないときに財産を信じるためには資産所有者でなければならない」から、特にこの嫉妬深い民主主義の時代において私有財産を防衛するには宗教信仰が必要とされる。[33]
モンタランベールが無条件に断言するところの「すべての宗教が等しく真でありそれ自体で善であるとか、霊的権威が良心を束縛しないとかいう滑稽で有罪な学説」に基づく宗教的自由を擁護することを彼が拒んだことはとても重大である。
彼は「教条的不寛容」と「市民的寛容」を、「永遠の命に必要な一方と、近代社会に必要な他方」を鋭く区別する。フランソワ・ギゾーが引用するには、
宗教的自由の原理は、真のキリスト者がみな理解し実践するに違いないように、決して教会と無謬性、単一性には触れない……。それはもっぱら、良心の権利と神との関係ゆえに、人間〔すなわち国家〕の法令と処罰によっては統治さるべからざるこの人間良心の権利を認識することから成り立つ。[34]
近代社会は二つの陣営に分断されている。信徒と不信者だ。それぞれは自身の見解を主張する間にも、ともに暮らしてゆく生き方を見に付けなければならない。モンタランベールが断言するには、「私としては、ひとの信念は旗印が何であれ、彼自身の自由と同様に私の自由を望み、私が祈り、語り、記し、施し、付き合い、教えることを妨げることのない人は、みな私の盟友だと思っている。またも教条的水準と政治的水準を区別しながら述べるには、
われらが主は自らを語るときこう言われた。「私に与せぬ者は私に反する」。しかし主は自らの信徒に語るときこう言われた。「あなたに反せぬ者はあなたに与する」。霊的生活と同様に公的生活で従うには不可欠な規則である。
彼はメヘレンでの演説を「無謬の教会権威に私の意見を従わせ、同様に私の表現を従わせることで、カトリック教徒としての義務」を果たしながら、恭順と謙遜の一挙で締めくくる。[35]
数年後、一八六三年メヘレン会議に出席していたことが明白なグスターヴ・ド・モリナーリは、モンタランベールの演説をとても好意的なレビューで詳細に報告した。[36]彼は、カトリック集会がモンタランベールの所見の熱烈な歓迎に続き、モリナーリ自身「特に重大」とみたものも含めて一連の決議を採択したことを書き留めた。
国家の干渉と全能性を可能なかぎり創造的エネルギーと結社精神の拡張の原理に置き換えるべく誠実に自由を望むことは、全市民の利益であると同時にカトリック教徒の利益である。[37]
モリナーリはカトリック自由主義者が「宗教に適用される保護システム」を攻撃する件にコメントした。ちょうど保護主義が産業の能率と繁栄を掘り崩すと自由貿易商人が論じるように、宗教的「保護主義」は彼の時代のスペインでのように宗教に有害であったし、他方で宗教間の「競争」は有益であったと論じられることができる。モリナーリが言い加えるには、ベルギーの自由貿易運動の機関がモンタランベールの演説に触れて彼を祝い、彼を「宗教的自由のコブデン」と称したことは別に不思議ではない。モリナーリは「カトリック教と自由の同盟」が「実りある現実」になる時代を待ち望むことでコメントを締めくくった。[38]
モンタランベールの原理的な反国家主義
モンタランベールは単なる現代多元主義的社会内での宗教的自由の提唱者ではなかった。彼の反国家主義は多岐にわたっていたのである。彼は私有財産の強固な信奉者であり、社会主義への敵対者であった。[39]彼はトクヴィルの慎重な研究者として、十九世紀フランス人思想家と同じように、集権化と国家官僚制の敵でもあった。分権――アメリカ合衆国憲法の修正第十条の精神で、彼が「地方と人格の、市と州の自由」と定義するもの[40]――が、ありとあらゆる方法で促進されなければならない。現代社会の官僚制は「ウイルス」であり、国家は「世俗的偶像」になってしまった。「すべての県、ディストリクト、カントンの首都」に巣食い、「無能な先住民に考え、話し、行為する義務を負わせるヒンドゥスタンのイギリス人のような、或る種の支配的または征服的なカースト階級に相当する」パリから送られてきたこの「役人のコロニー」の後見から身を引くことを、フランス人は学ばなければならない。[41]
モンタランベールの攻撃に独特の標的は中等教育と大学教育の国家独占であった。[42]彼の考えでは、今の場合、子供たちは彼らの親の価値観と見解とは相容れないような価値観と見解に転向させるよう設計されている過程を経験する。効率学校教員の世界観はフランス人民全体の世界観とはラディカルに異なっている。教員は大学教授のように、宗教と家族と私有財産に依存する社会秩序を継続的に掘り崩す懐疑主義と腐食性の合理主義を説教する。若者、それと人民の大部分は、宗教を剥奪されており、その場所には社会主義以外の何も置かれていない。
モンタランベールは、資本主義を損なう知識人の役割に関するヨーゼフ・シュンペーターの分析を先取りする一節で、或る教育システムを攻撃する。それは「万事が似合うも万事が下手な」半知半解の卒業生の大衆を生産すべく過剰発達してしまった、彼らを不可避的に将来の公職あさりに化かし、ゆえに必ずや国家機能を大拡張させてしまう。彼らはそれから「獲物に飛びかかるかのように、公職に、つまり予算に飛びかかる」だろう。モンタランベールは、もしも彼次第であったならば、国家教育はぜんぜん行われていなかっただろうと明言する。「国家は責任過剰でしかありえないのに、そのような責任を負っているのである」。
フランスは公教育を提供するよう立憲的に要求されているから、集権化されてパリに指導される代わりに、彼は国土が分割されるところの県によって教育が組織されるべきだと提案する。支配権は普通選挙に応じて家族の父に選出されたメンバーを含む評議会に行使されるべきだ。こうすれば、国家よりむしろ「社会」が子供の教育を支持するだろう。可能なことはすべて、「彼ら〔子供たち〕を知的牢獄に閉じ込め、彼らの親元の信念の痕跡が彼らの魂から消し去られるまでそこに引き止めるべく」子を親から引き離す「国家の名前と性質での〔教育〕独占者」を挫くことでなされるに違いない。[43]
モンタランベールのようなカトリック自由主義者の立場はH・トリストラム・エンゲルハート二世の作品で見事に提示されたものと強く類似している。[44]ヘンゲルハートは生命倫理の主要問題を扱う際に、代替的価値システムに厳格さと不浸透性を要求する宗教的な考え方、あるいはその他の考え方に根ざした倫理システムが自由社会でどこに在り処を得るか、折にふれて考察するよう余儀なくされる。モンタランベールのように、エンゲルハートは「世俗的多元倫理のためのマニフェスト」を差し出しているのではなく、むしろ単純にその「不可避性」を認めているにすぎないと強く主張する。古代ギリシアのポリスや中世ヨーロッパ社会とは対照的にも、現代では「大規模国家が良い生き方についてのしばしば多様な見解を多数の共同体に架け渡すため、中立的な乗り物として振舞うに違いない」。[45]けれども、そのように薄く弱められた倫理的中立性は諸個人には相応しくない。
人は特殊な共同体に抱きいれてもらわなければ、世俗道徳的にしてもよいことをするために、何が正で何が邪か、何が財で何が害かを学ぶことができない。世俗倫理の領域は倫理的反省の議論領域では論じ尽くされない……。人が生き、十全かつ具体的な道徳的生き方……生き方の十全の意味を見出すところは、特殊な道徳的世界である。[46]
解決は「手続きとしての倫理と内容としての倫理」を識別することにある。これは、「(1)多数の多様な道徳共同体に架け橋する能力がある内容貧しき世俗倫理のそれと、(2)人が良い生き方の内容ある理解を達成することができる特殊道徳共同体、以上、二層式の道徳的な生き方」を生み出す。[47]
競争する道徳的見解は、「相互尊重の道徳性のうちで追求される」かぎり、「たとえ是認されず支持されないとしても、寛容に扱われる必要がある」。モンタランベールの精神でエンゲルハートが結論するには、「」
人は、平和的に確立された道徳的飛び地、たとえば共産主義的共同体やアーミッシュ共同体の敷地境界線を越えて自分の見解を押し付けることのないかぎり、この線を歩いていくことで、自由主義的社会の支配的な手続き的制約に十分な寛容を示す。[48]
グスターヴ・ド・モリナーリ:反動的無政府主義者
十九世紀最後の数十年、そして実質的に彼の没年たる一九一一年までのレッセフェール・フランス経済学者の長老は、ベルギー生まれのグスターヴ・ド・モリナーリであった。[49]モリナーリは彼の「競争政府」学説で最も有名であり――彼は「最初の無政府資本主義者」[50]と称されてきた――、後年に立場を修正したと申し立てるまで、彼がつねに頑固なレッセフェール提唱者であったことに疑いはない。この「ドクトリネール」はハイエクの「フランス理性主義者」の範疇に完全に当てはまるように見えるけれども、ある種のハードコアな保守主義の近くにいることが立証される。[51]
モリナーリの無政府資本主義の最初の最もよく知られている表明は一八四九年『経済学者ジャーナル』の記事であり、[52]これはその発端からすでにハイエクの類型学に問題を生じさせている。モリナーリは二つの社会哲学学派を識別する。第一の学派は人間社会結成が「太古の立法者によって純粋に人工的な仕方で組織」されるから、「社会科学の進歩と足並みを揃え、他の立法者により修正されるか改造される」ことができる。モリナーリは明らかに、ハイエクによれば「構成主義的理性主義」の本質であるはずのこの見解をナンセンスであると信じている。当然モリナーリが信奉している反対側の学派は、「社会は純粋に自然な事実」であり「既存の一般法則で動く」と主張する。
ありふれた観察は社会で満足されるべき必要のなかには安全保障――各個人の生命、自由、財産の保護――があることを確証する。「可能な最安値で安全保障を調達する」ことは明らかに社会のメンバーの関心である。物質的であれ非物質的であれ、あらゆる財に関して言えることだが、自由競争は消費者が最安値で財を獲得することを保証する。かくして、「安全の生産は、この無形商品の消費者利益のために、自由競争の法則の支配下に残すべきである。ここから続いて「どの政府も、他の政府が競争に参加することを妨げる権利、あるいは安全の消費者に対してこの商品が排他的に売られるよう要求する権利をもつべきではない」となる。
現体制下では、安全提供者は実力行使によって独占を確立し、「その価値以上」の商品価格を請求することで消費者に「追加料金」を課すことができる。政府産業は非常に収益的になり、その自然な帰結は独占政府に特徴的な、「依頼人」に対する「競争」、つまり戦争である。独占支給は、「正義は高く遅くなり、警察は人を苛立たせ、個人的自由は尊敬されなくなり、安全価格は濫用的に増やされ、不平等に課せられる」。対照的にも、「政府」間での競争は予想どおり商品の価格を低くし改善を刺激する恩恵がある。[53]
モリナーリは自然権と経済学(功利主義)の両議論を用いながら、他の経済学者、わけてもレッセフェールのパラゴンたるシャルル・デュノワイエに対し、このアプローチをきっぱり拒絶する際に一貫性がないかどで非難する(他方で、彼はアダム・スミスが法廷間競争の利益を認識していたと賞賛する[54])。実に、デュノワイエとバスティアを含む他のフランス自由主義者は、モリナーリの理論的な「独占政府」除去を批判したし、彼には当時フランスにはこの論点で自分には追随者がいなかったように思われた。
興味深いことに、モリナーリはこの早期のエッセーですでに、大衆支配より優先すべき特に財産権含む個人的権利を明示的に定めながら、そのような急進的思想家には相応しくないと幾人かに見なされるような民主主義への嫌悪感を見せていた。彼は社会主義的多数派が立法府に送り込まれ社会主義的大統領が選ばれる場合を考察する。「この多数派とこの大統領が主権的権威を与えられて、プルードン氏が要求したとおり、貧者の労働を組織するために、富者に三億円課税すると法令で定めたとしたら、この悪逆非道で不条理な――それでも合法的で合憲的な――強奪に対して少数派が平和的に服従することはありそうか? いいや、少数派は多数派の権威を無視し、その財産を防衛することを躊躇わないだろう」。[55]
モリナーリは彼の歴史的著述で、コンスタンとギゾーとトクヴィルのような(ハイエクの用語論で)もっと「イギリス的」な信条のフランス自由主義者とは対照的にも、一七八九年の革命に改善的な特色を見出さなかった。伝統的には、フランス人自由主義者は革命に、内的関税の廃止と宗教的自由の確立のような一定の改革の功績があると(特に、「一七九三年」より、早期のジャコバン以前の「一七八九年」の段階では)信じてきた。しかしモリナーリは「もしも革命が勃発しなかったら、これに帰せられた改革はその有益な性質ゆえ平和的に追求されていただろうし、これらの改革は決定的であっただろう」と主張する。[56]これは極右王党派集団アクション・フランセーズの知的権威であるピエール・ガソットによって後に提出されたものと重要な点で少ししか違わない革命と旧体制の見解である。[57]
革命はこの有機的進化に終止符を打ち、国家に権力を大量移動し始めた。「軍奴制」――テュルゴとコンドルセおよび他の革命前の経済学者ほぼ全員に激しく非難された非自発的兵役――はフランスではほとんど消滅していた。革命が徴兵を普遍化したのだ。「この〔軍事〕奴隷制政権の退化はそれ自体、慣習的には革命に帰せられている現実または想像上の進歩的改革すべてを優に凌ぐだろう」。上流と中流の階級は代替税を支払うことで容易に兵役免除を買い取ることができるから、革命のせいでこの「血税」が保たれたのである。ここにあるのはもう一つの階級立法の例であって、前雇用者名簿ないしリブレットと、労働者への命令と、労働者の組織化の禁止のようなものであった。革命の最終結果は「フランス人が享受していた自由の総和を減らし、フランス政府の勢力を少なくとも二倍にする」ことであった。[58]
この、フランスはおろか全ヨーロッパ自由主義者の最「過激派」(塁を摩するはイギリスのオーバーロン・ハーバート)は、伝統と「有機的」文化に暖かい共感の意を表し、州の多種多様の習俗を統一立法に置き換えてしまうことで革命の「改革」を強化したかどでナポレオン法典を批判するところまで行った。「数世紀にわたり、彼らが支配し経験で継続的に完成させた住民によって採用されてきた古い習俗の方が、多くの点で、個人的自由にもっと大きな領域を残していたし、もっと公正さをもって自由に結合する責任を確立していた」。モリナーリは「経験を侮り、交換に従事する人々を蔑みつつ、数学の教授に発明された度量衡のシステム」を強襲さえした。[59]
モリナーリの断然尊いところは、革命のことをフランス西部ヴァンデ地方のカトリック教徒と王党派の住民に対する「殲滅戦争」と告発したことである。[60]彼は未遂のジェノサイドが約九十万人の犠牲者の命を奪ったと見積もったが、なんにせよ、その人数は何十万であった。この恐ろしく血なまぐさいエピソードは早期の歯に衣着せぬフランス人自由主義者の報告からは(革命前からの歴史家のように)消し去られてしまっている。これらの自由主義者は敵の保守主義者に弱みを握られることを心配したのかもしれない。彼らの奇妙な沈黙のもっとありそうな理由としては、国家大量殺人の犠牲者が結局はカトリック教徒と王党派であったという事実のせいであろう。
モリナーリは革命の最も破壊的な結果が長期的にはブルジョワジーの「搾取欲」の堰を切ってしまったことであると主張した。これこそは有名な「法の下の平等」なる偉業の大部分が相当するところのものである。「革命は中流階級に場を残し、後者は貴族と聖職者の利害に適う特権を彼ら自身の利害に適う他の特権に置き換えることで状況が自分のためになるよう変える機を無視しなかった」。新階級が「法律と規制を調合する機構の所持に就いた」。世襲君主は少なくとも或る程度、国家を破滅から護持し、その繁栄を推進することに一人格的な利益がある。[61]
モリナーリは当時すでにフランス人自由主義的観念の要石になっていた階級紛争理論を利用したが、彼以前の思想家とは異なり、フランス政治において自由主義的であると見なされていた政権をこの理論の適用から免除しなかった。[62]「自由主義的」七月王政はブルジョワジーの創造物であったが、「今後彼ら自身の手に国家の搾取をしかと取り付けること」を狙っていた。自由党は「革命から生まれた統治階級の利益の表現であった」。中流階級は、関税、政府協定、鉄道など産業への国家助成金、国家後援銀行、かつてなく拡大した国家官僚から得られる仕事によって利益を得ていたのである。「連日に及び新分野に広がる膨張中の搾取的利益が、祝宴から排除された階級の嫉妬をますます刺激したので」、すぐに急進的な運動が発生した。男性普通選挙権で終局が到達されるし、これは全住民全体に配られなければならなくなる。[63]代議制政府と進歩的民主政治に対するモリナーリの情け容赦なく冷淡な分析は、彼の無政府資本主義が単なる経済学と自然権論の産物ではなく歴史解釈の産物でもあったことを示唆している。
「国民主権」は、モリナーリの見解では、「まったくの絵空事」である。現実には、国家権力を引き受けて利用する目的で組織されているものは政党である。政党もその下部組織も集団的利害関係に対応するのであり、彼らはこの利益から現れ、この利益に含まれるメンバーを採用する。モリナーリがイデオロギーを見て取るには、どこでも政治は階級利益の合理化という意味で機能している。かくして、ヨーロッパの「抑圧された国民」をフランスに守らせるナポレオン三世の政策は、皇帝の支持の支柱の一つたる軍の拡張的要求のためのイデオロギー的な口実であった。一般に、「政治市場」では、各集団が略奪行為に正当化を要求するので、さまざまな党派の使用のために「経済的な詭弁とユートピア」が蔓延る。モリナーリは彼の弟子であるパレートの「非合理主義的」な考え方の段階を先取りしつつ、この見え透いたお芝居が大衆を邪道に引き込みかねることはなく、つねに論理的反省よりは情緒と想像の方に開かれていると述べる。[64]
九十二歳のとき、モリナーリが「最後の言葉」と称したもので、彼は若いころの急進主義の大部分を発揮する。政治はなお本質的に階級紛争のアリーナであり、「国家の継続的な所有者」が課税する権利を得ようと競うところである。税とは、単に多様な形式的変形を経た、奴隷制の継続である。それが誰であれ、他人への権力を行為する者によって支払いを強要された貢ぎ物である。ここにあるのは早期の無政府資本主義の面影を超えている。
税はどうだ? これは消費と貯蓄の一部になるはずの生産物を、非生産的であるか破壊的でさえある目的に用いるために、しかもめったに貯蓄に用いず、生産者や消費者から多かれ少なかれかなりの分量取り上げる。
彼が述べるには、「その〔保護〕サービス提供を独占した政府による固定価格が、競争で確立されたはずの価格を不当に超えていないかどうか知ること」は不可能である。[65]しかし国家が遇するのは義務的な依頼人なので、「そのサービスの価格が上昇しても、品質が低下しても、その依頼人は彼らを拒めない。破滅的なほどの税を彼らに支払わせるために必要な権力が、国家にたっぷりと与えられる」。[66]
現代社会の風潮はモリナーリをひどく失望させる。十九世紀中盤までは、平和と自由貿易は「文明化した世界を支配している」ように見えた。いまでは「議会と憲法の政体が社会主義に終わってしまった」ことは明白である。モリナーリは「社会主義のマルディグラ」――資本主義に創造された富の没収――の到来と、富の消耗に続いて起こる「長い受難節」を恐れた。彼は、社会主義を宥めるために「一定の国家が博愛を頼みの綱にした」、つまり福祉国家に頼ったことを書き留めた。労働の自由は事実上消滅してしまった。労働者は組織する権利を勝ち取った後――「こういうものが人間の保護主義的な本性だ」――雇用者と労働組合未加入労働者に暴力を働いていった。このように、「組合に加入した労働者が未加入者に友愛を教え込んだ」。そして第一次世界大戦の間際には、モリナーリは「最も影響力のある階級利益」――軍人と文民の国家役員と軍需産業――が「戦争を推し進めている」と宣言した。[67]
この最後の作品で、モリナーリは十九世紀レッセフェール自由主義の慣例の横顔に似つかわしくない「保守主義的」ましては「反動的」でさえある見解を発し続けている。モリナーリはアメリカ市民戦争について他の多くのフランス人自由主義者よりかなり遠くを見つめつつも、北部の支持者ではなかった。[68]ここでもまた彼は階級利益が働いていることを見て取ったのである。この戦争は「州を荒廃させ征服せしめた」が、北部の産業資本家が保護主義的政策を課すことを可能にし、究極的には「トラスト体制〔に至らせて〕億万長者を生み出した」。[69]抽象理論では自然自由権に触れるときモリナーリは「絶対主義者」であったが、アメリカ合衆国での奴隷解放問題でのように、歴史的情勢が彼の立場を緩和できていたことは注目に値する。
実際は、北軍国家が黒人の所有者を破滅させながら黒人を解放したのは、彼ら自身の実践的で利己的な支配と保護主義の利益を人道的な感傷の覆いの下に隠しつつのことであった。彼らは解放奴隷には満たせない責任と要求とともに、一夜にして完全な自由を授け、滑稽な政治的権利のボーナスさえ付け加えることで、世界中でナイーブな廃止主義者の賞賛を勝ち取った。[70]
政治的指針としてのレッセフェール
ハイエクは、ドーバー海峡を横切る否定的なイメージから良いイギリス自由主義者を区別する際に、彼の類型学でのレッセフェールの在り処を評言した。彼がイギリス人のことを記すとおり、
彼らの議論は決して完全レッセフェール議論ではなかった。まさしくこの言葉そのものが示すとおり、レッセフェールはフランス理性主義的伝統の一部であり、その文字通りの意味では、決してイギリス古典派経済学者には擁護されなかった……。実に、彼らの議論は決して反国家や無政府的なものではなかった。そのようなものは理性主義的レッセフェール学説の論理的帰結なのである。[71]
ハイエクはイギリス人古典派経済学者の特徴付けに二つの資料を提示する。一人目のライオネル・ロビンズはナソー・シニアから次の明白な認可の一節を引用さえして彼らをレッセフェール信奉の嫌疑から解放しようと必死である。
政府の唯一の合理的基礎、統治する権利とこれに相関する従属する義務の基礎は、共同体の一般的利益、つまり便宜である。何であれ被治者の福祉に貢献することが政府の義務である。この義務の唯一の制限は権力である……。[72]
ハイエクの第二の資料たるD・H・マクグレガーはイギリス人経済学者を実質的に全員含めるため、わけてもアルフレッド・マーシャルを含めるためにこの防衛を拡張した。
マーシャルは「現代世代の全経済学者は社会主義者である」[73]という1907年の声明が引用され、さらに次の宣言が引用された。
レッセフェールという合言葉に新しい強調点が加えられた――万人を全力で働かせろ。そして不可欠な仕事をやるように、政府以外の誰も効率的にはできない仕事をやるように、誰よりも政府に自分を鼓舞させろ。なので私は叫び求める。レッセフェール、と。国家を起こせ。国家にやらせろ。[74]
マクグレガーは同じ趣旨でケインズを引用し、彼の立場をまとめている。「かくしてレッセフェールの終わりは『レッセフェール・レター』、すなわち『国家の為すに任せよ』であり、この原理はもっと高い領域に移された」。[75]
とはいえ、これらの威厳ある権威者たちを引き合いに出すことでは、レッセフェール学説の望ましさに関する問題は到底解決しない。ハイエクとロビンズと他の人々がぶっきらぼうに棄却する際に無視してしまうが大切である要点は、イギリス人法制史家のA・V・ダイシーによって解明された。
国家干渉、わけても立法の形での干渉の有益な効果は、直接、即座、そしていわば可視的であることだが、他方でその邪悪な効果は漸進的で間接的で、見えないところに潜んでいる……国家干渉のこれら良い結果は容易に気づくことができる……邪悪な結果は……間接的であり注目を逃れる……国家の助けが自助を殺すという否定不可能な真理に気づく者は少ない。それゆえ人類の多数派はほとんどやむなく政府干渉に不相応な賛意を示してしまう。この自然なバイアスは、一八三〇年から一八六〇年までのイギリスでのように所与の社会において、個人的自由に賛成する推定や偏見、つまりレッセフェールの存在によってしか相殺されることができない。[76]
ミルトン・フリードマンは『資本主義と自由』でこの節を引用し、ダイシーへの同意を表明する。[77]
レッセフェール学説が本質的にフランス的であるというハイエクの主張についていえば、これは確かに真実である。フランス人がこのスローガンを造語し、多くの言語でもつねにフランス語の形で使われている。レッセフェールの概念は18世紀以来フランス自由主義思想に充満している。バンジャマン・コンスタンの名は普通経済問題には結びつけられないが、彼はこの原理の常習的提唱者であった。このことは彼の経済学に関する唯一の主著、『フィランジェーリの作品に関する論評』に最も明白に表されている。
いつであれ絶対的必要性がなく、立法が社会を崩壊させずには干渉できないかもしれず、そして最後に、それがいくつかの仮説的改善の可能性にすぎないときは、この法は控えられるべきであり、物事をそのままにしておくべきであり、おとなしくしていなければならない。[78]
コンスタンはこの作品をレッセフェール、レッセパッセで締めくくる。すなわち、為すに任せよ、成るに任せよ。
他所で流行が廃れても、フランス人経済学者はレッセフェールに忠実なままであった。思想史においては、この不屈の忠誠心はしばしば、空想上のフランス人経済学者の時代遅れ、薄っぺらさ、一般的劣等に突き詰められる。
けれども、ヨーゼフ・シュンペーターは違う話を伝えている。彼は19世紀最後の数十年と20世紀最初の数十年に、彼が「レッセフェ-ル・ウルトラ」と称する人々――ポール・ルロワ=ボーリュー、エミール・ルヴァスール、「不屈」のグスターヴ・ド・モリナーリ、イヴ・ギュイヨ、レオン・セー、および他の人々――と討論することになったときのことを書き留めるには、彼らは
パリ・グループとして知られていた。なぜならば彼らはほとんどのパブリシティと同様に、『経済学者ジャーナル』、新辞書、パリの中心的専門組織たるコレージュ・ド・フランスおよび他の制度を支配していたからだ……彼らは無条件自由貿易とレッセフェールの垂れ旗を頑強に掲げていた。[79]
彼らはシュンペーターの言葉で「テルモピュライ戦でのレオニダス王率いるスパルタ軍のように」[80]持ちこたえていたのである。彼はワルラス的標準によれば彼らが「非科学的」であると認めるが、「有力理論家と反自由主義者の両人がこのグループを扱う際の明け透けな侮蔑は……正当化されない」。[81]というのも、これらの人々が実践的問題について記すとき、彼らは
彼ら自身が書いていた事柄を知っていた。いうなれば、彼らは商売と政治的実践の近くで暮らし、考えていたのであり、そのほとんどを新聞からではなく経験から知っていた。彼らの作品に関していえば、科学的インスピレーションの欠如を部分的に補う現実主義と抜け目なさの雰囲気があった。(強調は原文ママ)[82]
これはフランス人自由主義者のレッセフェール関与の基礎を示唆している。ダイシーにとって、そして彼と連れ立つフリードマンにとっては、支配の主な価値とは、、即時で明白だが劣等な財が、長期的であまり明白でないが優れた財に取って代わることを妨げるところにある。フランス人思想家にとって、中心的関心は強奪、あるいは国家に仲介された略奪であった。少なくともデュノワイエとシャルル・コントの時代から、フランス人経済学者は財産権の全般的侵害に利用される公共政策の問題に没頭してきた。保護主義、社会主義、あらゆる種類の国家贔屓と競争制限、官僚制と利権あさりの増殖は、特別利益集団が消費者と納税者の大衆、公衆から搾取する手段であった。シュンペーターが言及した「パリ・グループ」の商売と政治的実践の知識――「新聞」からは得られない、すなわち利害当事者のイデオロギー的合理化によって曲げられていない知識――は、レッセフェール学説のような確実なバリアだけが公共を搾取志望者のひっきりない猛攻から保護することができることを確証した。[83]
同じ考察がイタリア経済思想で優勢である。ここはフランス自由主義的経済学者に強く影響されており、数十年にわたってフランスでのようにほぼレッセフェールに専念していた。[84]十九世紀イタリア人経済学者の長老、シチリアのフランチェスコ・フェッラーラは、「特権、秘密利益、政治的優位、無闇に他人の物を欲しがる力すべて」対、その「自然な敵」であり「レッセフェール・レッセパッセがその誕生時以来のエンブレムであった」科学の戦いについて記した。[85]この節が含意することは、フェッラーラがレッセフェール原理を結局は今日レントシーカーと称されるものの攻撃に対して必要なバリアと考えていたことである。これは1920年あたりまでのヴィルフレド・パレートとマッフェオ・パンタレオーニを含むイタリア人経済学者の主流派の立場であった。[86]
以降の世代では、イタリアでのレッセフェールの伝統は事実上死滅した。おそらくこの期間の最も著名な経済学者であり、後にイタリア共和国初代大統領になるルイージ・エイナウディは、自由市場政策に疑問をもち、厳格レッセフェールを拒絶して「プラグマティック」なアプローチを採用した。
彼はいみじくも十九世紀経済学者に対し、レッセフェールに熱狂して規範的命題と科学的命題の区別を廃しているかどで窘めた。エイナウディは経済自由主義の多様な意味を分析することになったとき、これらのうち「宗教的」なものを区別している。「経済学者が個別的で具体的な問題に自由市場的〔リベリスティッシュ〕な解決を推薦しがちであることの頻度から、私が『宗教的』と称する経済自由主義的準則の第三の意味が生じている」。エイナウディがこの「宗教的」着想にはどんな科学的地位も認めないつもりでこう言っているのは明らかである。にもかかわらず彼は次のとおり言い加える。
けれども、宗教的な経済自由主義〔リベリズモ〕の着想が実践的価値を欠かしていると言うつもりはない。対照的にも、その価値は非常に大きいものでありうる。国家に万事を頼み、集産的行為に万事を期待するような実践に直面すると、経済自由主義者は干渉主義者の怠惰と保護主義者の強欲を起訴すべく立ち上がるから極度に有益である。科学を別にしても、実践的および政治的な生活で一等道徳的な人物は、彼の敵対者より千尺高く聳え立つ。彼がいなければ、国家は相応しい仕事を履行し個人的行為を補うことができないだけではく、泥棒と道化を唆して経済問題に干渉しつつ、社会全体に害をなすだろう。[87]
ジェイムズ・ブキャナンは周知のとおり、イタリア人自由主義的経済学者に強く影響された。後年、彼は民主的選挙側に「政治化された介入の外側で、事物をあるがままに任せよう、経済をそれ自体で立ち行かせよう、という一般化された本意」が欠如していることを話すときエイナウディと似たことを主張した。社会主義への信仰を失っても、「古典的経済学者のレッセフェール原理への信仰を回復することからかけ離れている」。ブキャナンは政治経済学でレッセフェールの取り組みが欠如した場合の帰結を詳しく説明する。それは、
利益集団に対して特異に高い準地代や利潤を生むよう設計された彼ら自身の出来合いのアジェンダをもっている集団による搾取。外見上明白な問題の市場的解決を支持する信念に基づいて行為するのは公衆にとって不本意であることを利用し、これらの利益集団は自発的交換への恣意的規制を獲得し、この過程において、国内国外で他の経済的に結合したメンバーの自由と経済福利両方を減らしながら、彼らのメンバーに準地代を確保する。
ブキャナンは、差し迫った保護主義的・重商主義的な政権を阻止するために要求されるものは、「立憲的構造に組み込まれることができる原理、普通の政治が市場交換に侵入するのを防ぐための制約を課すよう命ずる原理」(強調は原文ママ)であると結論する。[88]
いまや、あらゆる西洋諸国で、一年毎ではなくとも十年毎に、国家行為の領域は妨げがたく成長している。1852年にはすでにカール・マルクスが称するとおり、国家は「社会に網をかけ、そのすべての毛穴を窒息させる」
寄生虫であったのならば、我々は今のこれをなんと称すべきやら。これが我々に疑問をよこす。バスティアとアルフレッド・マーシャルの二人は、――決着済みと広く想定されている、テクニカルな意味での
経済学者
ではなくて
――どちらが良い
政治経済学者
なんだ? 国家拡張のダイナミクスについて、どちらが良く理解していたんだ? しつこくレッセフェール原理の支配を主張したバスティアらフランス人か? それとも、その哲人が「国家を起こせ、国家にやらせろ!」と助言する、マーシャルらイギリス人か?
[1] Murray N. Rothbard, An Austrian Perspective on the History of Economic Thought, 1, Economic Thought before Adam Smith, 345, 435, 441–48。またジョゼフ・T・サレルノ“Joseph T. Salerno”の重要なエッセー“The Neglect of the French Liberal School in Anglo-American Economics: A Critique of Received Explanations,” Review of Austrian Economics, 2 (1988), 113–56も見よ。
[2] F.A. Hayek, Individualism and Economic Order (Chicago: University of Chicago Press, 1948), 1–32。また、“Freedom, Reason, and Tradition,” in idem, The Constitution of Liberty (Chicago: University of Chicago Press, 1960), 54–70も見よ。『真の個人主義と偽の個人主義』での混乱はハイエクがエッセーの始まりに設えたアレクシ・ド・トクヴィルのモットー、「十八世紀と革命以来、共通の源泉から二つの流れが湧き出てきた。第一のものは人を自由な制度に連れてゆくが、第二のものは人を絶対権力の下へ連れてゆく」とともに始まる。トクヴィルの区別がハイエクの発達させた区別と対応すると考えるべき理由はないように見える。
[3] バスティアは周知のエッセー『法』で、「人類は単なる不活性な物質にすぎず、政府から生命と組織と道徳と富を受け取っている」という観念がいかに「我々の国に強く根付いている」かと不満を述べた。彼は立法者の実質上の万能性を語るフランス人著者をリスト化して批判する。しかしながら彼らのうち、一般的には自由主義的な伝統に含まれている者は二人しかおらず、それはコンディヤックと――ハイエクのお気に入りの――モンテスキューである。Frédéric Bastiat, Selected Essays on Political Economy, George B. de Huszar, (ed.), Seymour Cain (tr.) (Irvington, N.Y.: Foundation for Economic Education, 1964) 70–83。レナード・リッジョは“Evolution of French Liberal Thought: From the 1760s to the 1840s,” Journal des Économistes et des Études Humaines, 1, No. 1 (Winter 1989), 145–46で、フランスの政治的集権化の批評家がこれをじかに経験した最も辛辣な分析家であったフランス人自由主義思想家に多くを負っていたことを書き留めた。
[4] 同上。十分奇妙なことに、ほんの数ページ後(『自由の条件』原文60ページ)で、ハイエクは「合理的レッセフェール学説の論理的帰結」を全体主義や集団主義ではなくアナキズムと断定する。ハイエクはJ・L・タルモンThe Origins of Totalitarian Democracy (London: Secker and Warburg, 1955)〔『フランス革命と左翼全体主義の源流』〕を彼のテーゼの支持に呼び出すとき間違っていると指摘されなければならない。この著者は主にルソーとマブリ、およびジャコバン派、特にロズピエールとサン=ジュストを扱っている。これらの誰一人自由主義者と見なされることはできない。タルモンが重農主義者に捧げたほんの数ページ(原文44–45)の議論は、彼らが「経済自由主義と政治的絶対主義の驚くべき総合」を差し出したというものと、後者はどんな王政の「合法的専制」の希釈も反社会的な特別利益団体の勝利に至るのではないかという彼らの恐怖に由来するというものである。
[5] ハイエクはこの名誉をトクヴィルとアクトン卿に贈るが、両者の著述は他の面で大いに優れているとはいえ経済自由主義の理解に欠陥がある。
[6] Émile Faguet, Politiques et moralistes du XIXe siècle (Paris: Boiven, 1891) 255.
[7] “Two Concepts of Liberty,” in Isaiah Berlin, Four Essays on Liberty (Oxford: Oxford University Press, 1969) 126を見よ。
[8] Max Weber, The Methodology of the Social Sciences, Edward A. Shils and Henry A. Finch (trs.) (Glencoe, Ill.: Free Press, 1949) 104.
[9] Benjamin Constant, “De la Liberté des Anciens comparée à celle des Modernes,” Cours de Politique Constitutionnelle, Édouard Laboulaye (ed.) (Paris: Guillaumin, 1872) 2, 537–60.
[10] 同上540–41。ジョン・グレイは彼のLiberalism (Minneapolis: University of Minnesota Press, 1986), 20で本節を引用するが、財産権への言及をどれも除去するが、これはグイド・デ・ルッジェーロのこのコンスタンのテキストの欠陥ある翻訳へのグレイのHistory of European Liberalismへの依拠に起因する誤りである。残念だが、グレイのうっかりはこの本に依拠した彼以降の著者によっても繰り返されている。
[11] コンスタンのフランス革命分析の重要性は偉大な総合作品François Furet and Mona Ozouf (eds.) A Critical Dictionary of the French Revolution, Arthur Goldhammer (tr.) (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1989)で認識されてきている。コンスタンと彼の頻繁な共著者スタール夫人の思想がこの作品には行き渡っている。
[12] Benjamin Constant, Cours de Politique Constitutionnelle, 2, 170–71.
[13] Benjamin Consant, Commentaire sur l’ouvrage de Filangieri (Paris: Dufart, 1824) 27.
[14] Benjamin Constant, Cours de Politique Constitutionnelle, 2, 172n.
[15] Benjamin Constant, “De l’esprit de conquête et de l’usurpation,” Oeuvres, Alfred Roulin, (ed.) Pléiade edition (Paris: Gallimard, 1957) 1580.
[16] Serge Gavronsky, The French Liberal Opposition and the American Civil War (New York: Humanities Press, 1968)を見よ。
[17] Alexis de Tocqueville, De la Démocratie en Amérique, II, bk. 4, ch. vi.
[18] Stephen Holmes, “Constant and Tocqueville: An Unexplored Relationship,” Annales Benjamin Constant, no. 12 (1991) 39がトクヴィルの将来の専制政治の叙述について記すには、それは「リバタリアンが思い浮かべてはあざ笑っているような福祉国家のとおり」であるように思われる。ホームズが信じるところではトクヴィルのビジョンが現代福祉国家の本質的な特徴と傾向においてどの点でその現実と異なっているかを知ってみると面白いだろう。
[19] Henri-Dominique Lacordaire, Notices et Panégyriques (1886) (Paris: Poussielgue), 345.
[20] Stephen Macedo, Liberal Virtues. Citizenship, Virtue and Community in Liberal Constitutionalism (Oxford: Clarendon Press, 1990).
[21] Ibid. 266–67.
[22] マセドはこれを形容詞での制限なく断言するから、おそらく自分の親への恭順も、自分の家族へ、神の下の人間性への献身も含め、これらの形質がどういうわけか自由主義のアンチテーゼであり、あらゆる場合で場違いであると含意しているようだ。
[23] Ibid. 267, 270, 278.
[24] Ibid. 280。このオープンネス、実験の本意、異質ライフスタイルの是認などはすべて個人の成長を刺激するものと前提されているから、マセドが同時に「伝統に与して在郷することや慣習を確立することと、自分の個性を発達することの間に緊張関係はない」(Ibid. 270)と考えていることは注目に値する。
[25] C. Constantin, “Libéralisme catholique,” in A.Vacant, et al. (eds.), Dictionnaire de la Théologie Catholique (Paris: Letouzey, 1926), 9, cols. 506–629と、George Armstrong Kelly, The Humane Comedy: Constant, Tocqueville and French Liberalism (Cambridge: Cambridge University Press, 1992), 114–133を見よ。私はレナード・リッジョ教授が偉大な功労でこの集団の重要性に注意を向けさせてくれたことに感謝している。
[26] Ephraïm Harpaz, “Le Censeur Européen: Histoire d’un journal quotidien,” 147–49.
[27] C. Constantin, “Libéralisme catholique,” col. 530から引用。同じ節で「労働と産業の自由」を要求している。
[28] Ibid. cols. 536–37。権力はつねに諸刃の剣であるというこの着想は、宗教的および文化的な問題での国家干渉に反対するコンスタンに用いられた論法である。
[29] 彼の二つの演説はCharles Forbes René de Tryon, Comte de Montalembert, L’Église libre dans l’état libre (Brussels: La revue belge et étrangère, 1863)に再版されている。また、C. Constantin, “Libéralisme catholique,” cols. 585–90も見よ。
[30] Ibid. cols. 522–24。とはいえ、この憲法は宗教集団に国家助成金を提供した。
[31] Montalembert, L’Église libre dans l’ état libre 47, 52, 63–65.
[32] Ibid. 7, 12–15.
[33] Ibid. 26, 30–31.
[34] Ibid. 44–45。C. Constantin, “Libéralisme catholique,” cols. 506, 509, 531の、モンタランベールに提唱された意味でのカトリック自由主義の立場を自由主義的プロテスタントの考え方と同定することは誤りであると著者が指摘するところと比較せよ。前者は「その根本的な権利が個人的理性の絶対的主権である教条的自由主義を決して望まない」。そうではなく、カトリック自由主義運動は「もっぱら政治的および社会的」であったし、今もそうである。カトリック自由主義は宗教的教条の問題では教会内での最も頑固な敵対者と同じだけ正統派であった。運動会報『ラヴニール』は「完全な市民的寛容」が少しも「教条的寛容」を含意しないと強く主張する。教会は他の信仰に同じ権利を認識しながらも、「説教し、擁護し、布教するその教義を一片たりとも放棄しない」。
[35] Montalembert, L’Église libre dans l’ état libre 84–85.
[36] Gustave de Molinari, “Les Congrès Catholiques,” Revue des Deux Mondes, 3rd series, 11 (1875), 411–30.
[37] Ibid. 420–21。モリナーリは会議が翌年のメヘレンでの会合で強行に経済学の教えの導入や発展を推薦したと書き留める。
[38] Ibid. 427–28, 430。イギリス人著述家が良心の自由に自由貿易アナロジーを使用するケースとして、George H. Smith, Atheism, Ayn Rand, and Other Heresies (Buffalo: Prometheus, 1991) 122–26を見よ。
[39] これはモンタランベールが経済問題で徹底的で一貫した自由主義者であったことを示唆するものではない。たとえばバスティアのワイン税廃止の提案に反対して立法議会で打った演説December 13, 1849, “Impôt des boissons,” Montalembert, Discours (Paris: Jacques Lecoffre, 1860), 3, 1848–1852, 296–339を見よ。
[40] La décentralisation,” in Montalembert, Oeuvres polémiques et diverses, (Paris: Jacques Lecoffre, 1868) 3, 385.
[41] Ibid. 388–90.
[42] たとえば、Montalembert, Discours, 3, 1848–1852: 340–85, 385–89, 390–417のJanuary 17, 1850, February 4, 1850, February 12, 1850の演説参照。
[43] Montalembert, L’Eglise libre dans l’ état libre 25.
[44] H. Tristram Engelhardt, Jr., The Foundations of Bioethics (New York: Oxford University Press, 1986).
[45] Ibid. viii, 48.
[46] Ibid. 49–50.
[47] Ibid. 53–54.
[48] Ibid. 385–86.
[49] モリナーリについて、David M. Hart, “Gustave de Molinari and the Antistatist Liberal Tradition,” Journal of Libertarian Studies, Part I, 5, No. 3 (Summer 1981): 263–90と、Part II, 5, No. 4 (Fall 1981): 399–434と、Part III, No. 1 (Winter 1982): 83–104、それとMurray N. Rothbard, Classical Economics, 453–55を見よ。モリナーリの最も影響力ある弟子について、idem., “Vilfredo Pareto, Pessimistic Follower of Molinari,” in ibid. 455–59を見よ。
[50] Ibid. 453。Pierre Lemieux, L’anarcho-capitalisme (Paris: Presses Universitaires de France, 1988), 23–24の参考図書を見よ。
[51] モリナーリのLes soirées de la rue Saint-Lazare. Entretiens sur les lois économique et défense de la propriété, in the Journal des Économistes, 24, No. 104 (November 15, 1849) 368–69のレビュアーは彼が典型的社会主義者を「このピグミーはのぼせあがって得意がり、創造主の作品を彼自身のものに取り替えようとしてばかりいる」と批判し、社会主義の原理を「無謀な傲慢さ」と特徴付けたため彼を賞賛する。これはハイエクよりはるかに攻撃的な言い回しであることを除けば、ハイエク自身の「致命的な思い上がり」としての社会主義の着想にかなり近いように思われる。
[52] Gustave de Molinari, “De la production de la securité,” Journal des Économistes, 22, No. 95 (February 15, 1849) 277–90.
[53] Ibid. 281–282, 289。「競争政府」システムがどう機能するかという議論の余地ある疑問に関連して、モリナーリは彼のシステムにおける安全の供給者と消費者の両者にとっての幾つかの要件を概説した。後者は自ら選んだ政府が人格と財産の侵害に課した罰則に自ら服し、同様に、政府の犯罪者逮捕を容易にするため「一定の不便」に従う義務を負うだろう。Ibid. 288。
[54] In The Wealth of Nations, Bk. 5, chap. 1.
[55] Molinari, “De la production de la securité,” 287。モリナーリの弟子であるヴィルフレド・パレートは、これが実際の歴史的状況になったとき、すなわちファシストが権力を握る前のイタリアでの社会主義的地方政府の略奪的品行が生じたときは、この原理に応じて行為することを提唱した。Ralph Raico, “Mises on Fascism, Democracy, and Other Questions,” Journal of Libertarian Studies, 12, 1 (Spring 1996), 19–20を見よ。これの修正版は本書の“Mises’s Liberalism on Fascism, Democracy, and Imperialism”に載っている。
[56] Gustav de Molinari, L’évolution politique et la Révolution (Paris: C. Reinwald, 1884) 271–74.
[57] Pierre Gaxotte, La révolution française (Paris: Plon, 1936), 2 vols.
[58] Molinari, L’évolution politique et la Révolution, 280–81, 285, n. 1, 287, n. 1, 289–90.
[59] Ibid. 272。デイヴィッド・ゴードン博士が私に指摘してくれたとおり、ハーバート・スペンサーも国に押し付けられる度量衡の行動基準に反対した。
[60] Ibid. 333, n. 1
[61] Ibid. 278–79, 290, 295–97.
[62] Ceri Crossley, French Historians and Romanticism, 53, 65の、たとえばティエリがブルジョワジー自体を「永久的な理性と正義と人間性の原理」の歴史的体現として美化し、一八三〇年のこの階級の勝利をフランス史の絶頂と見なしたという指摘を見よ。本書のエッセー“The Conflict of Classes: Liberal vs. Marxist Theories”を見よ。
[63] Molinari, L’évolution politique et la Révolution, 307, 311–12, 317.
[64] Ibid. 314–15, 319–20, 322, 327–29.
[65] Gustave de Molinari, Ultima Verba: Mon Dernier Ouvrage (Paris: Giard and Brière, 1911) 39–44.
[66] Ibid. i, x, 61–62, 64, 175, 261.
[67] Molinari, L’ évolution politique et la Révolution, 307, 311–12, 317.
[68] たとえばMontalembert, “La victoire du Nord aux États-Unis,” in idem, Oeuvres polémiques et diverses, (Paris: Jacques Lecoffre, 1868) 3: 297–367、特に308–09の、驚くべきことに、モンタランベールが「真の奇跡と至高の勝利」は北部が自由を侵さずに勝利したことだったと述べるところを見よ。「自由は抑圧されなかった。法は違反されなかった。声明は弾圧されなかった。保証は中止されなかった……」と、リンカーンと多岐にわたる市民的自由違反、反対派新聞弾圧、反対者投獄、人身保護停止などに直面しながら述べるところを。
[69] Molinari, Ultima Verba, iii-iv.
[70] Ibid. 37–38.
[71] F.A. Hayek, The Constitution of Liberty, 60.
[72] Lionel Robbins, The Theory of Economic Policy in English Classical Political Economy (London: Macmillan,1953), 45。彼が挙げる「夜警国家」の立場なる「過激個人主義」の三人の代表者は、(彼がパロディーする)重農主義者メルシエ・ド・ラ・リヴィエールと、ハーバート・スペンサーと、バスティアである。
[73] D.H. Macgregor, Economic Thought and Policy (Oxford: Oxford University Press, 1949), 69.
[74] Ibid.
[75] Ibid.
[76] A.V. Dicey, Lectures on the Relation of Law and Public Opinion in England during the Nineteenth Century, 2nd. ed. (London: Macmillan, 1963 [1914]) 257–58.
[77] Milton Friedman, Capitalism and Freedom (Chicago: University of Chicago Press, 1962) 201。典型的には、John Gray, Limited Government: A Positive Agenda (London: Institute for Economic Affairs, 1989) 20–21はこの原理を「妄想」と攻撃する際に、ダイシーとフリードマンによる周知の作品で提示されたレッセフェールに賛成するこの議論に言及しないし、ましてや反論など試みもしない。
[78] Benjamin Constant, Commentaire sur l’ouvrage de Filangieri, 70。面白いことに、コンスタンの国家行為の拒絶はおおむね国家活動に固有の誤りを矯正し失敗を除去することの難しさによっている。Ralph Raico, “Benjamin Constant,” New Individualist Review, 3, No. 2 (1964) (repr. Indianapolis: Liberty Press, 1981) 499–508を見よ。
[79] Joseph A. Schumpeter, History of Economic Analysis, Elizabeth Boody Schumpeter (ed.) (New York: Oxford University Press, 1954), 841.
[80] Ibid. 843.
[81] Ibid. 842, n.5.
[82] Ibid.
[83] そのような理解の仕方はJ.E. Cairnes, “Political Economy and Laissez-Faire,” in idem, Essays in Political Economy. Theoretical and Applied (London, Macmillan, 1873), 232–64の議論からは抜け落ちている。ケアンズは「実践的問題として、私はレッセフェールが〔国家統制の原理と比べて〕比類なく安全な指針であると思う。それは実践的な規則であって科学の学説ではないこと、他のほとんどの健全な実践的規則のように多数の例外を免れない主音としての規則であること、結局、社会的および産業的な改革のための前途有望な提案の公正な考慮を一時たりとも妨げてはならない規則であること、だけ覚えておこう」(251、強調は原文ママ)と述べる。難なく解除できるケアンズの「規則」で反社会的政策に対しどんな保護ができるのかは分かりかねる。
[84] Salerno, “The Neglect of the French Liberal School”とRothbard, Classical Economics, 448–49 and 455–59を見よ。
[85] Francesco Ferrara, “G. B. Say,” in Prefazioni alla Biblioteca dell’Economista, Part 1 of idem, Opere Complete, Bruno Rozzi Ragazzi (ed.) (Rome: Associazione Bancaria Italiana/Banca d’Italia, 1955) 2, 567.
[86] イタリア人自由主義的経済学者と準地代あさり国家について、本書のエッセー“Mises on Fascism, Democracy, and Imperialism”を見よ。
[87] Luigi Einaudi, “Liberismo e liberalismo,” in Benedetto Croce and Luigi Einaudi, Liberismo e liberalismo, Paolo Solari, ed. (Milan/Naples: Riccardo Ricciardi, 1957), 125–26。ケインズの小冊子“The End of Laissez-Faire”のレビューで、エイナウディはケインズに次のとおり問う。いったいなぜケインズは「レッセフェール規則を科学的原理としての戦闘不能に位置づけた〔あとで〕、実践的品行規範としてのこの規則の現在の重要性を調査すべく追加的なページを加えなかったんだ? 人々の品行に対するレッセフェール規則の実践的重要性が本当に傷つけられたのか? 国家干渉が量的に一層頻繁になってきたことは正しい命題であるかもしれないが、その真理はレッセフェール規則の衰退を証明しない。というのも、住民運動の拡張といくつかの経済生活の部門への介入が起こったのと同時期に、古いレッセフェール規則がまさにその価値を失わないような新しい種類の運動が非常に増加していたとしても無理はないからだ」。Luigi Einaudi, “La fine del ‘laissez-aire’” La Riforma Sociale, 3rd series, 37, Nos. 11–12 (November-December, 1926) 572–73。ついでながら、エイナウディはケインズの小冊子に何の独創性も特別の重大さも見出さなかった。強奪〔スポリャツィオーネ〕の問題に対するエイナウディの継続的な没頭はLa condotta economica e gli effetti sociali della guerra italiana (Bari: Laterza, 1933) 397–416「結語」でのコメントの、彼が「根源的な義務〔人格と自由と財産の保護〕を果たさず、それ自体をして陰謀と贔屓と富の移転の中心地になる国家、不道徳な国家」(415)を酷評するところで仄めかされている。
[88] James Buchanan, “The Potential and Limits of Socially Organized Humanity,” in idem, The Economics and Ethics of Constitutional Order (Ann Arbor, Mich.: University of Michigan Press, 1991) 248–49.
[89] Karl Marx, “The Eighteenth Brumaire of Louis Bonaparte,” in Karl Marx and Friedrich Engels, Selected Works in Three Volumes (Moscow: Progress Publishers, 1983) 1, 477.
[90] しかしJörg Guido Hülsmannの精通したエッセー“Bastiat’s Legacy in Economics,” Quarterly Journal of Austrian Economics, 4, No. 4の、フルスマンが彼を史上「最も偉大な経済学者」と称するところを、Mises Daily, February 17, 2006でのもっと簡潔な扱いとともに見よ。
freeman1003がこの投稿を「スキ!」と言っています
weeklylibertyの投稿です