ケインズが自由主義者?
Ralph Raico, “Was Keynes a Liberal?,” in idem, Classical Liberalism and the Austrian School.
- ケインズと新重商主義
- ケインズのシステム
- 規則と「裁量」?
- ケインズのユートピア
- ケインズと全体主義的「実験」
- ソビエト共産主義
- 貨幣への憎しみ
- 参考図書
ケインズと新重商主義
ジョン・メイナード・ケインズを現代史の傑出した自由主義者の一人に格付けし、ジョン・ロックとアダム・スミス、およびトーマス・ジェファーソンの伝統における最近の「偉大」な人物と位置付けることは、いまやありふれた慣行である。[1]一般に思われているところでは、ケインズは彼らのように、自由社会の信奉者として誠実であり、実に模範的であった。もしも彼が「古典的」自由主義者とは明白だが重要な点でほんのわずかにでも異なっているとしたら、その理由は単純に、彼が自由主義の本質的アイディアを新時代の経済的条件に適するものに改めようとしたからにすぎない、と。
ケインズが生涯を通して、しばしば「自由主義的」と称されるところの寛容さや合理性のような多様で広範な文化的価値観を是認したことも、彼がつねに(イギリス自由党支持者および)自由主義者を自称していたことも疑いはない。しかしこの経歴のどれもケインズの政治思想を分類するときに重きをなさない。[2]
一見したところ、模範的自由主義者としてのケインズというものは、彼が重商主義的学説を信奉したせいですでに逆説的になっている。彼の主著『雇用、利子および貨幣の一般理論』(ケインズ1973a)が出版されたとき、W・H・ハットはまもなく『経済学者と公衆』を印刷所に送るところであった。ハットがケインズのシステムを詳細で人をすくみ上らせるような精査の対象にしたのはもっと後のことである(ハット1963, 1979)。しかしこの時点でできたことは、同書に幾つかの初期観察を急いで挿入することだけだった。その中で特にハットを驚かせたことは、この有名な経済学者が(ケインズが『一般理論』第二十三章で論述した立場)「重商主義が正しくて、その古典的〔自由主義の〕批評家〔すなわちアダム・スミス〕は間違っていたと、我々に信じさせてしまった」ことであった。
ハットは経済科学の立場から著していた。我々はここで、自由主義の完全な状態を社会哲学として扱っている。もしも、我々が他のところで論じてきたとおり、自由主義的学説は歴史的には絶対主義的福祉国家のパターナリズムに対する拒否によって特徴付けられるならば、これは十八世紀絶対主義の重商主義的構成要素に対する却下についてもやはり当てはまる。重商主義の名誉を回復しようと試みるような著述家がどうやったら偉大な自由主義者に数え入れられるんだ?[3]
モーリス・クランストン(19978: 111)はケインズを擁護する際に、ジョン・ロックが重商主義に執着していたからって彼を自由主義の一員から締め出したりはしないだろうという論陣を張った。これが実際にロックの立場であったか否かは異論の余地があり、そうではないと信ずべき根拠がカレン・ヴォーン(1980)に提出されている。しかし、たとえロックが重商主義者であったとしても、それがクランストンの議論に支持を添えることはない。ロックがいみじくも偉大な自由主義者と見なされているのは、彼の経済理論と経済政策の見解が何であれ、その見解ゆえにではなく、彼のリバタリアンな自然権の学説のゆえであり、そこから出てくるものを彼が信じたからである。[4]
ケインズのシステム
ケインズ自身と彼の支持者によると、ケインズの新重商主義への転向は彼が古典派経済学の根本的不備を発見したせいでやむなきことであった。彼らが主張するには、古典派の理論は一九二〇年代イギリスの慢性的な高失業率の原因や大恐慌の原因を説明するには無力であると判明したが、他方、ケインズは『一般理論』でこの両方をやってのけた。こうして彼は、無指導な市場経済に内在する目に余る欠陥を暴き立てることで、経済思想に「革命」をもたらしたのだった。
けれどもケインズが反応したこの独特の危機はそれ自体が心得違いの政府政策のせいで生み出されたものである。イギリスでの高失業率のしつこさはウィンストン・チャーチルの大蔵大臣として非現実的な戦前パリティで金に復帰する決定に一部起因し、一九二〇年後に利用可能になった(賃金に相対する)高失業利益に一部起因する。大恐慌の方は主として政府の金融不始末のせい、特にアメリカ合衆国の連邦準備のせいで生じた。どちらの危機も、理論的「革命」を要求しない「正統派」経済分析の説明に従う責任がある(ロスバード1963、ジョンソン1975、ブキャナンら1991、ベンジャミンとコーチンKochin1979)。[5]
ハットが書き留めたとおり、ケインズは『一般理論』で、ヒュームとスミスからメンガーとジェヴォンズとマーシャルをへてウィクセルとウィックスティードまでの世間公認の権威者全員に背を向けた。これらの思想家は、厳格レッセフェールに固執した程度がどうであれ、少なくとも市場経済には景気変動を一時的にする自己矯正の力が備わっていると考えていた。ケインズは正統派の先駆者(と同時代人)を切り捨てながら、主流派経済学者が奇人と切り捨ててきた者たち(フリードマン1997: 7)、シルヴィオ・ゲゼルとJ・A・ホブソン、その他の社会改革者と資本主義批判の社会主義者、つまりケインズが「勇敢なる異端者の群れ」と称したものに自らを加えた。
主著発表より二年前の通俗的なエッセーで、ケインズはすでに、「既存の経済システムはどんな重大な意味でも自己調節的であるという観念を拒絶する……。このシステムは自己調節的ではないし、果断な指導がなければ、我々の事実上の貧困を潜在的な豊富に移すことができない」と主張するこれら「異端者」の側に自らを連ねていた(ケインズ1973b: 487, 489, 491)。『一般理論』には、この立場に分析的枠組みを提供する意図があったのである。
ケインズによれば、価格と賃金と利子率の変化は、標準経済理論がこれらの変化に帰するような、完全雇用均衡を生成する傾向の機能を果たさない。賃金水準は大量雇用に実質的な効果をもたないし、利子率は貯蓄と投資を均衡するよう尽くさないし、集計需要は普通、完全雇用を生み出すには不十分である、など。偽の仮定、概念的な一貫性のなさ、これらの極端な主張を損なう無理な推論が、頻繁に暴露されている(たとえば、ハズリット1959、ロスバード1962, 2と随所、ハズリット1995、リースマン1998: 862-94)。[6]ジェームズ・ブキャナンが論争を要約するとおり(ブキャナンら1991: 109)、「市場経済がそもそも不安定であると示唆する証拠はまったくない」。
何にせよ、私有財産市場秩序の要素を幾つか保っている市場がすべて自由主義的であると見なされるわけではない。よく知られているとおり、初期現代史には、規制され制限されたあり方で、私有財産権を含み市場に営みを許したシステムがあった。しかしながらそれは国家の最も重要な役割がなければ経済的生活はアナキーに堕落するだろうと強弁した。経済自由主義はこのシステム、いわゆる重商主義に抗する反動として生じたのである。ファシズムはその経済的構想に関するかぎり、そのようなシステムのもう一つのものであった。
論争中の疑問について等しく決定的なことは、ケインズの誤りが自由市場の信頼をひそかに傷つけ、国家権力の膨大な成長への道を開いた方法であった。
マレー・ロスバードは次のとおり書き留めた。ケインズが仮定した世界は消費者が無知なロボットであり、投機家が体系的に非合理的で、彼らの盲目的な「アニマル・スピリット」に駆り立てられている世界である。その結論は、全般的な大量投資が「市場外部の階級……国家機構」に、つまりデウス・エクス・マキナに託されなければならない、というものだった(ロスバード1992: 189-91)。この過程はケインズが「投資の社会主義化」と称したものだ。彼が『一般理論』で言明するとおり、
私は、長期的見地において一般的社会的都合に基づき資本財の限界効率性を計算する立場にあるもの、投資の直接手配に一層大なる責任を負うもの、国家にお目に掛かることを期待する。(1973a: 164)
ケインズは国民投資委員会の創造に賛成を論じ、一九四三年後半には、彼はそのような権威が「総投資の三分の二ないし四分の三」に直接影響するだろうと見積もった(セッカレッチア1994: 377)。[7]
これらの言明で、ケインズは中央政府としての国家を念頭に置いておらず、むしろ彼が一九二四年に「それ自体の領分内でのその行為の基準を、それ自体が理解するとおりの公共財に置き、その審議からは私的都合が排除されている本体」と語ったところの、「国家内部の半自治的本体」を念頭に置いていたのだ、とロバート・スキデルスキー(1988: 17-18)は強弁した。
しかしながらスキデルスキーにはこの仰々しい着想の問題点が明白なようである。ケインズは、そのような本体が「資本の限界効率性」(なんにせよ完全に混乱した概念である。ハズリット1959: 156-70、アンダーソン1995: 200-05を見よ)を計算する立場にあるだろうと信じるべき理由をまったく示さず、それが私的都合(一人格的イデオロギー的都合含む)に汚されないままであるためのどんな巧妙な手段も仄めかさず、そのような本体がどう活動するつもりなのか、その明細を決して述べなかった。[8]そのうえ、ケインズは「これらの自治的本体」が「最後の手段として議会に表現されるとおりの民主主義の主権に服する」と保証した以上、これが事実上中央政府のエージェンシーになってしまうのをどう予防できるのやら。
自由主義の核心的学説とは、生命と自由と財産への権利の制度的信奉を所与とおけば、市民社会はおおむね自ずと立ち行くことが信頼できるというものであり、自由主義的信念の絶好の例は無指導な市場経済が満足に機能する能力であるならば、「ケインズ革命」は自由主義の放棄の兆しだったのである。
ほんの数年のうちに、ケインズ主義は学会と政府で卓越した経済学者の間に勝利を収め、第二次世界大戦後、先進諸国の公式学説になった。それはマーシャルプランの行政官と彼らの国際連合欧州復興計画経済委員会の同盟に命じられていた。たとえば、イタリアは「これら両エージェンシーによってリフレート(通貨再膨張)するよう恒常的にせっつかれていた」(de Cecco, 1989: 219-21)。[9]西ドイツはヴィルヘルム・レプケのような経済学者に助言されてルートヴィヒ・エアハルトの指導の下でこれに抵抗したが、他方イギリスでは両党がもはや主たる目標たる完全雇用の手段としてのケインズ的需要管理を擁護した。アメリカでは一九四六年雇用法が財政活動によって最大雇用を保証することに主たる責任があるのは連邦政府であると認めた。
ケインズ以前には、少なくとも予算均衡は文明諸国の政府の目標であった。ケインズ主義がこの「財政憲法」を転覆させた。それは短視眼的な政治家が赤字を蓄積する傾向を無視しながら政府に「反周期的」財政政策の責任を負わせることで、第二次世界大戦以後数十年に未曽有の水準の課税と公債をお膳立てしたのだった(ブキャナン1987、ローリー1987、ブキャナンら1991)。
ときに、ケインズの信奉者たるケインジアンが彼の理論を適用することについて彼が責任をもつことはできないという意味で、ケインズは「ケインジアンではない」と主張されていた。けれども、他のどの「偉大」または「模範的」な自由主義者のせいで、彼をはっきりと反自由主義的な意味で解釈した非常に影響力ある彼の侍祭の同人集団がいるのやら。マイケル・ハイルペリン(1960: 125)が嘲笑的に観察したとおり、「もしも〔ケインズが〕自由主義者なのだったら、彼は実践的な助言で一貫して集団主義を推奨する異常な種類の自由主義者だったのである」。
規則と「裁量」?
先の絶対主義的イデオロギーと後の集団主義的イデオロギーとは対照的にも、自由主義は経済的生活と同様に政治的生活における、規則の支配へのこだわりに特徴付けられる(ハイエク1973: 56-59参照)。ジョン・スチュアート・ミルでさえ(難なく破ってよい)原理として(「要するに、レッセフェールが一般的原理である方がいい」と)リップサービスする義務を感じたレッセフェール教義のように、法治国家の根底としての法の支配はその最良の例である。最大の柔軟性と権力行使の余裕はそれ自体が自由主義者に勧められるような形質ではない。人の統治ではなく法の統治、がよく知られた自由主義のスローガンである。[10]
マレー・ロスバード(1992: 177)はケインズがいわば、原理に反対するという原理に基づいていたと書き留めた。[11]彼は体質的に規則を嫌っていた、あるいは彼が規則をそう称するとおり、「ドグマ」を嫌悪していたと言っても誇張にはならない。彼の生涯を通して、この態度がケインズの考え方を支配していた。彼が一九二三年に言明するとおり、
偉大な決定がなされるべきときは、その目的が全体の最大善を促進することである国家が主権的本体である。したがって、我々が国家行為の領域に入るときは、万事がそのメリットにおいて考慮され比較検討されなければならない。(ケインズ1971a: 56-57)
彼は晩年、国家が「ドグマの要請ではなく事例の理非に応じて……特定企業の所有や管理に介入する」だけの「主任企業家の空席に就く」べきだという命題に「多くの知恵」を見出した(ケインズ1980: 324)。ケインズは都合よくもハイエクの『隷属への道』が出版されたところで、ハイエクへの手紙において「正しく考え正しく感じる共同体でも危険な行為は難なく行われることができ、もしもこれらの行為が間違って考え間違って感じる人々によって実行されるならば、これが地獄への道であるだろう」ことに気づいていないと窘めた(1980: 387-88)。
これが(先のホブハウス学派の「新自由主義」に続く)ケインズの「自由主義の二度目の復興」の心髄である、とロバート・スキデルスキーは主張する。いわく、ケインズは「経営者の哲学に……ばらばらな思考に基づいたアドホックな干渉の哲学を上から押し付ける」ことを目指していたのである。アレク・ケアンクロス(1978: 47-48)が述べるとおり、「彼は規則の奴隷状態を憎んでいた。彼は裁量を得るために政府を欲しており、彼はこの裁量を行使するための助けになる経済学者を欲していた」。けれどもやはり、一抹の自由主義的学説に正面切って衝突してしまっているものは、奇妙にも分離した「ばらばらな思考」に対する信仰、原理的制限に妨げられない政府「裁量」に対する特別の嗜好、つまりまさにケインズのアプローチのアドホックな本性なのである。[12]
真正の自由主義は伝統的に、国家のエージェントには適性や超然性ないしこの両方が欠けているという理由で、彼らに対する深い不信を心に抱いてきた。その賢者の助言を自制的な政治家に実行させるような経済専門家に対するケインズの空虚な依存は、この完全に根拠ある嫌疑と、これを支持する歴史的および理論的な証拠とは真っ向から対立している。当代の用語で言えば、それは公共選択学派を連想させるところの教えとは矛盾するのである。[13]
ケインズのユートピア
ケインズはしばしば将来の社会の本性に関する沈思が任せられていた。彼の著述は一貫性のなさに満ちているから、[14]彼の信奉者の幾人かにとってはケインズが基本的には単に「古典的自由主義と完全雇用を結婚させ」たかったにすぎず、「彼のモデルは大部分が『資本主義プラス完全雇用』であって、彼はマクロ統制の実行可能性に関して比較的血色がよかった」と主張することが可能であった(コリー1978: 25, 28)。
しかしながら、ケインズの経歴を通して、彼の言葉で「ニュー・エルサレム」という、もっと急進的な社会秩序を熱望していたという明らかな兆候がある(オドネル1989: 294, 378 n. 27)。彼は心の中で、シドニー・ウェッブのようなフェビアン社会主義思想家の「現在の哲学に伴って生じるよりもっと大きな社会変化の可能性」を弄んでいたことを告白した。彼は「私の想像上の共和国は天上界の極左に位置する」と呟いた(1972: 309)。
数十年にわたってまき散らかされた膨大な言明によるこのやや曖昧な公言が脚光を浴びている。まとめると、これらの言明はジョゼフ・サレルノの議論を裏付けている。すなわち、ケインズは社会進化のことを、彼がハッピーエンドとして思い浮かべたものへ、つまりユートピアへと運命づけられた道を追求するものであると見なした思想家、千年王国説の信者(ミレニアリスト)だったのである(オドネル1989: 288-94)。
ケインズは、平均的人物が直面する問題が「彼が賢く快くうまく生きるために科学と複合的利益が勝ち取ってきた、余暇の過ごし方」(1972: 328)となるところでの「万人の満足感の平等」(それが考えられるかぎりで何を意味にせよ)という状況を楽しみにしていた(1980: 369)。社会化した投資で煽られた技術的進歩が、万人のための適当な消費財を自動的に保証してゆく、と。深刻な問題が立ち上がるのはこの点においてである。
この自然な進化は万人のための社会通念上適当な消費水準に向けられるのが当然であり、これが十分に高いときは、我々の生活の非経済的な利益における我々のエネルギーの使い方に向けられるべきである。(1982a: 393)
消費水準が十分に高いと誰が決定するのかという問題を別にすれば、いったいケインズは、そのような社会の再構造をもたらすためにどんな技巧が存在すると想像したのか? 彼が自分にとって望ましい将来を考えるときはいつものことだが、その詳細は存在しない。[15]明らかなことは、将来のユートピアではこの国家が反論の余地なき指導者になっているということである。[16]「経済的アナキー」にけりをつけるため、この新「政権は、社会正義と社会安定の利益において、経済的な力を故意に支配し指導する」ものとなるだろう(1972: 305)。[17]
ケインズによると、この国家は最適人工水準の決定すら行うだろう。ケインズは優生学に関して、時に優柔不断の態を見せていた。「共同体が全体としてその将来のメンバーの単なる数と同様に生得的な質に注意を払わなければならない時代がもうすぐ到来するかもしれない」(1972: 292、サレルノ1992: 13-14)。また或る時は、奇妙にも同時代あたりのレフ・トロツキーを偲ばせる見解[18]に相当の確信をもっていた。「文明人が単なる支配的な生存の盲目的な本能から離れて彼自身の手で意識的な統制を引き受けようと努力するとき」に、「人類史の大変遷」が始まる[19]、と(1983: 859)。
そんな風に、この国家は――「文明的な」人のふりをして――人類の繁殖をも監督するだろう。
これらすべての問題において、この国家が今度はケインズ自身のような賢明で先見的な知識人によって導かれるだろう。[20]そうじゃなきゃどうすりゃいいんだ? 他のやつに任せるにせよ、人々の大多数は実質的に絶望的である。ケインズが明言するところでは、「また、自己利益は一般的には啓蒙されているというのは真実ではなく、自分自身の目的を促進するために別々に行為する諸個人はそれらすら達成するにはあまりにも無知であり、あまりにも弱いというのがもっと頻繁である」(1972: 288、強調は原文ママ)。彼は経済的問題では「正しい解決は多かれ少なかれリテラシーなき投票者である膨大な大衆の頭を超えている知的科学的要素を伴うだろう」と考えるのだから、はたしてケインズのユートピアに「民主主義の主権」がどれほど存在し続けられるのか訝しい。
十分自然なことだが、彼自身の嗜好を鑑みれば、彼の展望では芸術が中心的な役割を担う。彼は、「大蔵省のあの人間以下の居留民ども」によって弁護されていた、芸術への国家助成金の出し惜しみに対して不満を述べた。あのような政策はどんな高尚な「義務と目的、国家の栄光と名誉〔原文ママ〕」の高尚な着想とも相いれなかった。国家にとって芸術基金は「もっと美術的で、もっと天才的で、もっと壮麗で、もっと屈託がない」さまを自分で感じられるよう「平民」を導き格上げするという義務を果たす手段なのであった(モグリッジ1974: 34-35のケインズ)。戦争の期間、ケインズは後にアーツカウンシルとなるものの指導的スポークスマンとして仕えていた。「ハリウッドに死を」が彼のスローガンだった。彼は中部地方の戦前人のイギリス人工員がバレエの上演に「騒々しい歓喜」で反応したというもっともらしからぬ報告ができることを非常に喜んでいた(モグリッジ1974: 41, 48のケインズ)。将来的には、国家助成の他にも、学校での芸術鑑賞の教え込みがあるだろう。演劇に行ったりアートギャラリーを訪れたりすることは「万人の養育の生き生きとした要素になり、劇場とコンサートは組織的教育の一部になるだろう」(1982b: 371)。
ケインズのユートピアを実現する鍵となる、美的な意気軒昂のための国家後援クルーセイドというこのまったくの陳腐さは、精神を壊す退屈さでしか凌げない。
ケインズと全体主義的「実験」
ケインズの自由主義を疑う更なる根拠は、一九二〇年代と三〇年代に継続的な計画経済「実験」に対して彼が示した態度のうちに見受けられる。
かの時代、ケインズは模範的自由主義思想家であるはずが、驚くべきことに、ドイツ国民社会主義とイタリアファシズムの経済政策の考え方を呈していた。ここでは二つのテキストが論争の的になる。というのは、ドイツ版の『一般理論』の序文(Keynes 1973a: xxv–xxvii)と、『国民の自己充足』というエッセー(Keynes 1933; 1982: 233–46)だ。
この序文の方で、ケインズは自分が「イギリス古典派(あるいは正統派)の伝統」から逸脱しており、この伝統は彼が記すにはドイツ思想で完全に優勢となったことはなかったものだ、と述べる。
マンチェスター学派とマルクス主義のどちらも究極的にはリカードから導出されたものである。[21]……しかしドイツにはつねに前者も後者も信奉しない意見の大区画が存在した。……したがって、私は正統派の伝統から重要な点で逸脱している全体的な雇用と産出の理論を提出する際、おそらくイギリス人よりドイツ人の読者の方が抵抗は少ないものと期待してよいだろう。(1973a: xxv–xxvi)
ケインズはさらに自分の読者を国民社会主義ドイツに誘いながら、次のとおり言い加える。
本書の以降の多くの部分は主としてアングロサクソン諸国に存在する条件に言及することで例証され解明される。にもかかわらず、本書が以降で提出するものと主張するところの全体的産出の理論は、自由競争の条件と大部分でのレッセフェールの下において生産された所与の産出の生産と分配の理論よりも、全体主義的国家の条件においてずっと容易に採用されるものである。(1973a: xxvi)
ロイ・ハロッドは彼の早期の伝記(1951)でこの序文にまったく言及しなことを選んだ。[22]ロバート・スキデルスキーはこの序文を「不幸な言葉選び」と称し、それで終わりにする(1992: 581)。アラン・ピーコックがこの節について記すには、ケインズは「ドイツ(ナチス)政府がイギリス政府より公共事業の雇用創出効果という観念に共感的であろうということ」を示していた(1993: 7)。しかしながらそれはこのテキストの明白な意味とは正反対である。それはナチス指導者がたまたまケインズ独特の提案の一つに共感的であるということではなく、ケインズの見解において、彼の理論は「全体主義的国家の条件においてずっと容易に採用される」ということなのだ。ピーコックは「この序文が正確に翻訳されたものかに関して一部論争がある」と言い加える。しかし、この論点はケインズの英語の手稿からここに引用された抜粋には決して影響しない。[23]
ナチスの経済学思想家は国民社会主義の明白に反自由主義的な経済政策を支持するため時おりケインズへの参照を用いた。国家権力を握る前にナチスの経済研究部を統率していたオットー・ヴァーゲナーは、ヒトラーにケインズの貨幣論の本を渡した。なぜならばそれはこの著者が「我々のことと我々の視点を知らないのに、我々のはるか先を行っ」た意見を伝えていて「非常に興味深い論考」であったからだ(バルケイ1977: 55, 57, 156)。『一般理論』の出版は、一方ではナチス公式の経済的方針とはどうにか距離を保てた出版物からの批判的レビューを受けたが、他方でハイデルベルクのナチス護教論者はこの出版を「国民社会主義の弁護」として歓迎した。ケインズ自身はドイツの当局が「普通より良い紙で、その値段は普通よりそう高くない」出版を許可したと述べた(スキデルスキー1992: 581, 583)。
ケインズを自由主義者と分類することは難しいと示すもっと重い事例が彼の『国民の自己充足』(ケインズ1933, 1982: 233-46)である。[24]ここではレッセフェールと自由貿易がブルームズベリーに特徴的な愚弄でもって扱われている。陰鬱な過去においては、これらは「人の心が引きずり回した時代遅れの衣服の一纏まり」の構成要素として、「ほとんど道徳法則の一部と」見なされていた(ケインズ1933: 755)。しかしながら彼がこれを著すとき大流行していたこの学説に対してケインズが取った立場は非常に異なっていた。自由貿易が放棄される十九世紀の前提として、「世界が多様な政治経済的実験に着手していることは毎年一層明白になっている」。これら「実験」とは何のことか? これらはロシア、イタリア、アイルランド、ドイツで進行中のものである。イギリスとアメリカでさえ「新計画」に励んでいる。ケインズはこれら多様なプロジェクトの成功の見込みについて奇妙にも不可知であった。
我々はその結果が何になるかを知らない。我々は――私が思うに、我々みなが――多くの間違いを犯す。新システムのどれがそれ自体最善と判明するかは誰にも見分けられない……。我々は各々の空想をもっている。我々がすでに救われているとは信じないのならば〔原文ママ〕、我々は各々の救済がうまくゆくよう自分で試みたがるのも当然である。(761-62)
彼は「経済的な細部の問題では、中央統制とはまったく異なり、可能なかぎり多くの私的な判断とイニシアチブと企業を保つこと」を好むと認める(762)。しかし、
将来の理想の社会的共和国に向けた我々自身の好ましい実験を行うため、他所での経済的変化に干渉されることを可能なかぎり免れる必要がある……。(763)
ケインズがこの記事を書いていた当時、彼が説いた「国民の自己充足」の学説はしばしば国民社会主義とイタリアファシズムに同定されていた。フランクリン・ルーズヴェルトが一九三三年六月のロンドン経済会議を「ぶちこわし」にしたとき、帝国銀行総裁のヒャルマル・シャハトは独りよがりにも、『フェルキッシャー・ベオバハター』(ナチ党公式機関紙)に対し、アメリカの指導者がヒトラーとムッソリーニの経済哲学を採用したと告げた。いわく、「あなたの経済的命運をあなた自身の手に取れ、そうすればあなたはあなた自身だけではなく世界全体を助けることになるだろう」(ガラティー1973: 922)。
ケインズは当代の計画の試みで多くの誤りが犯されていることを認める。ムッソリーニは物心がついているかもしれないが、かたや「ドイツはくびきを脱した無責任のなすがままである――とはいえ、ドイツが裁かれるのはすぐだ」。[25]ケインズは最も辛辣な批判をスターリンのロシアに用いた。「スターリンのことは、実験しようとする者全員にとっての恐ろしい戒めにしよう」、とケインズは宣言する(769)。
けれども、彼のスターリン批判――ホロドモールで何百万人もを死に追いやり、レーニンのグラクを追加的な数百万人満たした者への批判――はおかしなことに、直視というものをしておらず、的外れである。いわく、ソビエトなどの社会経済実験が必要とするものは結局、「大胆で、自由で、容赦ない批判」である。しかし、
スターリンは独立した批判的な心の者全員を、一般的な意見としては共感的な者まで除去してしまった。彼は心を持つ人が委縮する環境を生み出した。脳の柔らかい渦巻きが木になっている。喧しいロバの鳴き声が柔らかい人の声の抑揚に取って代わっている。愚痴っぽいヤギのプロパガンダが野原の鳥と獣すら昏倒するほどうんざりさせる。(769)
「木でできた頭……脳が木になる……昏倒するほど……うんざりさせる」。この批判――ジョン・スチュアート・ミルの終わりなき議論と討論の最重要性の琴びきを偲ばせるもの――が一九三三年のヨシフ・スターリンとソビエト権力の行いについて適切であるかは読者が自分で判断してよかろう。
最後に、このエッセーには、『ケインズ全集』[26]からは除去されたが、第一版『エール・レビュー』で発表されたとおりの一節がある。
しかし私はその心が当代の世界の絶望的実験に友好的かつ共感的であり、それらがうまくいくことを願い、成功することを好み、自身の考慮中の実験があり、財務報告書が「ウォールストリートでの最善の意見」と称するのをつねとするものより地上の何かを頼みの綱として選好する者として、自分の批判に注意を注ぐ。[27](ケインズ1933: 766)
このエッセーに対するスキデルスキーのコメント(1992: 483)は簡素で薄味だ。「ケインズが〔『新しい為政者と国民』に二部で掲載されたエッセーの〕『国民の自己充足』に書き留めたところでは、社会実験が流行中であり、それは政治的な出所がどこであれ、すべて、政府のかなり拡大した役割と、自由商業の大いに規制された役割を思い描いている」。これは到底十分に見えない。
この点にまつわる疑問はこうだ。ナチス、ファシスト、スターリン共産主義者の「実験」に対して物欲しそうな共感を表明し、その古臭いブルームズベリー風の嘲りを自由に機能するレッセフェール社会に向ける者のうち、いったい誰を、自由主義者のクリアカットな模範と見なすことが、あるいはほんの少しでも何らかの自由主義者と見なすことができるのやら。[28]
ソビエト共産主義
ソビエト共産主義に対するケインズのもっと広範な幾つかの所見のトーンと内容によってもまた疑問が生じる。一九二五年ソビエト連合への旅行に続いて、彼は『ロシアの短い所見』を出版した(1972: 253-71)。スキデルスキーはこれのことを、愕然とするほど信じがたいことに、「ソビエト共産主義に対してこれまで著されてきた最も激しい攻撃の一つ」(1994: 235)と称する。
ソビエト政権の幾つかの深刻な欠陥、わけても反対派の迫害と一般人の抑圧が、ケインズに知覚されていることは真実である。しかし彼はこれらを「ロシアの――あるいはいまや同盟したロシア人とユダヤ人の――本性の幾らかの獣っぽさ」と革命の果実と考える。それは「赤いロシアの見事な真剣さ」の「一事実」であるらしい。そのような真剣さは、気難しく、「不作法で、愚かで、極度に退屈」でありうるとメソジスト(270)が――ブルームズベリーのもう一つの筆致で――証言する。ケインズはあの専制が、ボルシェビキがロシアで実行したような、国家へのあのような権力集中の自然な帰結であり、完全に予言可能な結果であるかもしれないという兆候を示さない。権力集中の欠陥の見解は、少なくともモンテスキューとマディソンの時代からミーゼスとハイエクを経て現代にいたるまでの自由主義思想の大黒柱であった。人は自由主義者にはこの点を際立たせることを期待するだろう。
ケインズはそうはせず、大胆な社会工学「実験」に従事するソビエトの意思をまくしたてることに夢中になっていた。ロシアでは「試行錯誤の方法が躊躇なく利用されている」。レーニン以上に率直な実験主義者はいない」。「戦時共産主義」から新経済政策(ネップ)への移行を強いたボルシェビキ支配初年度の破滅的に失敗した「実験」に関して言えば、ケインズはこれらを最も当たり障りのない用語で記述した。すなわち、以前の「錯誤」は修正され、「混乱」は消滅した、と(262)。[29]ケインズは「人生の実験」としてのこの政権の特徴に目がくらんでおり、ソビエト共産主義には成功の「チャンス」があると結論する。さらに、彼はこの「激しい攻撃」で、「チャンスは、(たとえば)アメリカ合衆国で起こっていることよりも、ロシアで起こっていることの方に重要性を与える」(270)と断言した。[30]
ケインズのソビエト実験への共感の根には何があったのか? ヒントは彼のエッセーの始まりにあり、ケインズはふざけてカンタベリーの大主教が「神権に福音の教えを真剣に追求するならば」彼は「ボルシェビスト」と呼ぶに値すると示唆した。(キリストは最初のチェキストだったとでも?)ケインズを最も深く動かしたものはレーニン主義の「宗教的な」要素であり、彼の「情緒的および倫理的な本質は貨幣愛に対する個人と共同体の態度に関して中心を占めている」(259、強調は原文ママ)。共産主義者は「物質主義的利己主義」を超越しており、「貨幣に対する優勢の真の変化」をもたらした……「これが部分的にでも当てはまる社会はとてつもない革新である」。
野党なり、偽造や横領の技術を身につけることを紳士の経歴と思うことはないように、将来のロシアでは、立派な若者が可能な出だしとしてふと金稼ぎの経歴を思い浮かべることにはどうしてもならないように予定されている。……誰もが共同体のために働くはずで、――この新しい信条が広まり――彼が彼の義務を果たすならば、彼のことを共同体が持ち上げるだろう。
この感動的な宗教性に比べて、「現代資本主義は徹底的に非宗教的」であり、どんな意味でも団結と公共精神を欠かしている。
我々の時代の道徳的問題が、貨幣愛に関わり、人生の活動の十分の九における習癖的な貨幣動機の魅力に関わり、努力の主要目標としての個人の経済的保障のための普遍的な闘いに関わり、建設的成功の尺度としての貨幣の社会的な賞賛に関わり、家族と将来のための必需備蓄の基礎としての退蔵本能の社会的な魅力に関わることは、一層明白な毎日であるように思われる。(268-29)
この、資本主義的道徳性に対する共産主義的道徳性の選好はケインズに数年間残り続けるのであった。
ケインズは一九二八年に二度目のロシア訪問を行い、これがもっと好意の低い評価を生み出した。スキデルスキー(1992: 235-36)は「ロマンスははっきりと終わった」と請け負って我々を安心させるが、しかしこれは彼のもう一つの逆情報活動である。ロマンスは少なくとも、彼の友人のシドニーとベアトリス・ウェッブによる『ソビエト共産主義』をケインズがレビューした一九三六年まで継続した。『ブックス・アンド・オーサーズ』シリーズでBBCに一九三六年六月に届けられた短いラジオトークも含めて(1982: 333-34)、彼のまったく誤解の余地なき声明[31]に向かい合う者は、ケインズの自由主義に賛成を論じる者のうちには誰一人いない。
ケインズが或る程度の長さで取り扱った唯一の作品は、ウェッブ夫妻のこのころ出版された大冊、『ソビエト共産主義』だけである(第一版には『新しい文明?』という副題が付いており、後の版では疑問符が消された。)ウェッブ夫妻はフェビアン協会の指導者として、数十年にわたりイギリスに社会主義者をもたらすべく精を出していた。彼らは一九三〇年代に共産制ロシアの新政権の熱烈なプロパガンディストに転向した――ベアトリスの作品において、彼らは「ソビエト共産主義と恋に落ちて」いたのだった(マガリッジ1968: 245)。彼女が「恋」と称したものを、配偶者の甥であるマルコム・マガリッジ1973: 72は「夢中のお世辞」と称した。彼らが「新しい種類の王族」のようにもてなされたとシドニーが誇るロシアへの三週間の訪問期間に、ソビエト局員は彼らの書籍のために仮想の事実と人物を提供した(コール1946: 194、マガリッジ1964: 245)。スターリニスト機関員はその最終結果に実に満足した。ロシアその地では、当の政権によって『ソビエト共産主義』が翻訳され、出版され、奨励されたのだった。ベアトリスが気取って宣言したとおり、「シドニーとわたくしは、ソビエト連合の偶像になったのです」。[32]
『ソビエト共産主義』は初出版以来、文筆業の同行者によるスターリニストのテロ国家への惜しみない助けと慰めの主要な好例として見られるようになったくらいである。もしもケインズが自由主義者であり自由社会の愛好者であったとするならば、人は彼のレビューがこれらの著者との友好にもかまわず手厳しい非難であることを期待するだろう。しかしその反対が実情である。ベアトリスが喜んで脚注に加えたとおり、メイナードは「近頃のラジオトークで、我々の本を彼の魅力的な方法で景気づかせた」(ウェッブ1985: 370)。
実際、ケインズはイギリス人の公衆に対し、『ソビエト共産主義』が「真面目な市民全員が読むといいだろう」作品であったと勧めたのである。
近年の事件まで、ロシアはあまりにも早く動いており、紙上の公言と実際の業績のギャップは、可能性の適切な説明にとってはあまりにも広すぎた。しかし今では新しいシステムがレビューを受けるには十分に具体化されている。その結果は印象的だ。ロシア人の改革者は革命段階だけではなく空論段階をも突破したのである。マルクス以外の社会主義の諸システムと区別されるような、マルクスとマルクス主義の特別な関係を担うものは、ほとんど、またはまったく残っていない。彼らは世界の地表の六分の一を覆うほど広い領土で完全に新しい社会経済制度の集合を順調かつ成功裏に機能させる膨大な行政的課題に従事している。
またしてもソビエトの「実験作業」に対する度を越した称賛がある。
方法は今も実験結果に応じて変えられている。利害関係なき行政官によって、かつて試みられることのなかった最大規模の経験主義と実験主義が実行中である。他方でかのウェッブ夫妻は、事態が移動している方向はどちらかと、事態がどれほど遠くに行き着くかを、我々に示すことができた。
ケインズは、イギリスにはウェッブ夫妻の作品から学ぶべきことが多いと感じる。
本国の我々が、感情と行為の全部門における伝統主義とある種の慎重な保守主義を維持しながらも、伝統の背後に人体実験があるものすべての繁盛、無制限な実験準備を政治的・経済的な方法と制度の変化と組み合わせる仕方を発見してもよいのではないかと、私に強い希望と願望を残した。(334)
人は当然、ケインズの社会哲学の思索に典型的な、考えずくの前言翻しと基本的な混乱に注目するはずだ――どういうわけか、「無制限な実験準備」が「伝統主義」と「慎重な保守主義」に組み合わせられなければならない。
一九三六年までには、スターリンのシステムの情報に関するウェッブ夫妻の嘘吐きプロパガンダに依存せざるをえないような人はいなくなった。ユージン・ライオンズ、ウィリアム・ヘンリー・チャンバーリン、マルコム・マガリッジ自身、世界の保守的、社会民主的、カトリック、左派アナキスト機関紙が、ケインズの「革新者」と「利害関係なき行政官」に統率された納骨堂の真相を暴露していた。[33]それを聞くことが本意である人は誰でも、一九三〇年代早期のホロドモール、巨大な奴隷労働収容所のシステム、私有財産廃止に続くほぼ万人の窮乏に関する事実を学ぶことができた。「愛」で盲目になることのなかった人にとって、スターリンが二十世紀の模範的殺戮国家を完成しつつあるという証拠は間違えようのないものになっていた。
貨幣への憎しみ
ケインズがウェッブ夫妻の作品とソビエトシステムを称賛したことは何で説明されるのか? その主たる理由がまたしても、かのフェビアンのカップルにも共有されていた態度であり、利潤追求と金儲けに対する彼の根深い嫌悪感であるということは、ほとんど疑問の余地がありえない。
ウェッブ夫妻の友達であり仲間のフェビアンであるマーガレット・コールによると、彼らはソビエトロシアのことを、道徳的にも精神的にも「世界の希望」と見なしていた(コール1946: 198)。彼らにとって、すべての物事のうちで「最もわくわくする」のは共産党の役割であり、これはベアトリスの考えでは「宗教的秩序」であって、「共産党の両親」を創造することに従事していた。一九三二年からは、ベアトリスは「私が共産党員である理由は、この日が利己主義と――人間的生活の原動力たる――利他主義の切り替えに到達した日であると信じるからである」と公表することができた(ノード1985: 242-44から引用)。一九四三年、彼女の生涯の末期に至るまで、ベアトリスは依然としてソビエト連合の「その多様な形態の民主政、その性的、階級的、および人種的な平等性、その共同体の消費のための計画的な生産、とどのつまり、その利潤追求の動機の罰則制定」を称賛していた(ウェッブ1948: 491)。彼女の死後、ケインズは彼女のことを「今過ぎ去った世代で最も偉大な女性」と褒めたたえていた。[34]
ケインズはウェッブ夫妻のように、共同体の善のための個人の自己犠牲を宗教性と同定していた。これは経済的な用語では非貨幣的報酬のための労働と翻訳され、そうすることで、資本主義社会における「人生の活動の十分の九」の意地汚い動機付けを超越するものにされた。これはケインズにとってはウェッブ夫妻にとってと同様に、かの共産主義に見出され、これに賛辞を呈したよしの、「宗教的」および「道徳的」な要素の本質であった。
ケインズは、有害なる金儲けへの激情でもって、その支持のために精神分析の職業にすら訴えた。ブルームズベリー界隈のほとんどの者のようにシグムント・フロイトの作品に魅了されて、ケインズは結局、特に貨幣の意義に関してそれが自身の「直観」と類似しているから高く評価した。ケインズは彼の『貨幣論』でフロイトの一九〇八年の論文の一節に言及しており、この論文で彼は「貨幣利益と排便の間に存在する結合」と「金と糞便の同一性」について記している(フロイト1924: 49-50、ケインズ1971b: 258とn. 1、スキデルスキー1992: 188, 234, 237, 414)。[35]この――いみじくもウラジミール・ナボコフにウィーン人フロイトと同定される男による――精神分析的「発見」は、貨幣愛は宗教だけでなく科学にも弾劾されたと断言することをケインズに許した。かくして、かの精神鑑定医にとっては、「現代社会の中心的な倫理問題」(オドネル1989: 277, n. 14から引用)を構成すること以外に、お金に夢中になることも適切な題材なのであった。
ケインズは、単なる所持としての貨幣愛が「幾分か不愉快な不健全さ、人が身震いしながら精神病の専門家に引き渡す半犯罪的で半病理的な性癖の一つであると認識されることになる」時代を心待ちにしていた(ケインズ1972: 329)。悲しいかな、ケインズはこの妄言すべてにおいて、精神的病根からの苦悩として診断された狂人に対し、そのような専門家が与える治療法について推敲を行うための余白がなかった。
ケインズのソビエト支持派的な所見と、彼の信者がこれらへの関心を欠いている点について、またもや我々はほとんど普遍的に続けられているグロテスクなダブルスタンダードを発見する(アップルバウム1997、マライア1999、クルトワ1999)。もしも有名な著述家が一九三〇年代中葉に、ケインズがソビエト連合に用いたようなときに慈悲深い用語でナチスドイツへの自分の思いを表現するならば、彼は物笑いの的になっただろうし、今日に至るまで彼の名前は強烈な悪臭を漂わせていただろう。けれども、ナチスが邪悪になるのと同様、一九三六年におけるナチスの犠牲者はソビエト政権の全犠牲者と比べてほんの少人数にしか達しない。[36]
実はケインズの主張は、失業問題の解決やドイツ人自尊心の回復といった申し立て上の成功や、国民社会主義が主張した「業績」のためにヒトラーを称賛したにすぎない人たちよりもずっと酷かった。本物のケインズ類似物とは、ソビエト共産主義への批判と共感の綯交ぜのように、ナチスの下で思想の自由の迫害と弾圧を非難しながらも、それらのことを、将来への希望を引き出すかもしれないような「人種問題」の「気づき」のために称賛した著述家であろう。なぜならば、ケインズがソビエトロシアの称賛に値する点として見出したもの――金稼ぎと利潤動機を抑制するという鉄の意思――こそが、恐怖の主源泉であったからだ。
レーニンと彼の後のスターリンは、マルクス主義の変種の信奉者として、マルクスの貨幣への憎しみを共有していた。あの共産主義が目指していたことは、貨幣が可能にする利潤追求と私的交換――市場システム全体――とともに、貨幣を廃止することであった。ソビエト共産主義はその餌食を、主として、貨幣と利潤への愛に特徴付けられる人々のなかから選別した。というのは、旧体制のブルジョワジーと地主、「戦時共産主義」と「第一次赤色テロ」の時代の「投機家」と「退蔵家」、集産化と諸計画導入の期間の新経済計画者と「クラーク」だ(レゲット1981、コンクエスト1986、マライア1994: 129-33)。特に、彼がラジオ講演でレビューした本において、「階級としてのクラークの清算」(ウェッブとウェッブ1936: 561-72)に取り掛かるというスターリンの決定をこの著者たちが美化していることを鑑みるに、ケインズはいったいどうしてソビエトロシアの支配であった国家の拷問と個人の富追求の結びつきを見逃すことができたんだ?
ケインズがここそこでソビエトシステムに付した称賛的なコメントの注目すべき特色はどんな経済分析も完全に欠如していることである。ケインズはのんきにも、社会主義下においては合理的経済計算の問題が存在するかもしれないということに気づかなかった。これはすでに幾年もかけて大陸の学者に取り組まれていた疑問であり、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスでの活発な討論の焦点になっていた。
ケインズのラジオ講演の一年前に、F・A・ハイエクが編集した『集産主義計画経済の理論』(ハイエク1935)が英語で出版され、これはルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの種子的な1920年エッセー『社会主義的共同体における経済計算』の英訳を売り物にしていた。ハイエクはロンドン・スクールですでに一九三三~三四年に始められた「集産主義的経済の問題」課程を設けていた。ハイエク、ライオネル・ロビンズ、アーノルド・プラントに指導された、主として同じ手段に専念するセミナーが、一九三二年~三三年に提供されていた(モグリッジ2004)。
ケインズには、この討論にほんのわずかにでも気づいていたとか、もしくはこの疑問にほんの少しでも関心があったとかいう気配はない。[37]その代わりに、ケインズにとって問題だったのは、ソビエト実験の興奮――社会システムを判断する基準としてかくも頻りに「興奮」と「退屈」に訴える、経済学者ないし自由主義思想家と称される者が、はたしてこれまで彼以外にいたものか――「利害関係なき行政官」に指導された荘厳な社会変動の範囲であり、利潤動機を廃止する先駆的な倫理上の進歩なのであった。
これはケインズがかつていずれかの時点で共産党員であったことを意味するのか? もちろん、意味しない。しかし彼は、ソビエトシステムへの共感を明白に表明していた(それよりはるか少ない程度で、他の全体主義的諸国家に対しても同様である)。ケインズを「二十世紀の模範的自由主義者」と――もしくはほんの少しでも何らかの自由主義者と――見なすことは、絶対不可欠な歴史的概念を支離滅裂なものにしないかぎりは不可能である。
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[1] このエッセーはThe Independent Review, Fall, 2008に初めて掲載されたものの修正版である。
バロックとショック1956によるアンソロジー参照。E.K. BramstedとK.J. Melhuish 1978のような他の膨大な学者はケインズを、レヴェラーズやロックに始まる一連の人々のうちで二十世紀の主要な(ゆえにどうやら一層関連的な)代表者として扱っている。ロックの伝記家たるモーリス・クランストン(1978: 101)はケインズをロックのように自由主義者に範疇化する。B・コリーはさらに、ケインズを「専ら失業期間にのみ特定の非自由主義的政策に賛成を論じる、本質的には経済的自由主義者」と称するところまでいく。ダグラス・デン・アイルとスチュアート・ワーナー(1897: 263)はケインズを、アダム・スミスとテュルゴとバンジャマン・コンスタンらに連なる「クリアカット」な自由主義者のリストに含める。ジョン・グレイ(1986: xi)が言い張るには、ケインズの立場は自由主義の信条を定義する際に融通されなければならないものであると言い張る。論理的なことに、グレイの自由主義の定義は私有財産の信念へのどんな言及をも除去する。しかしながらアンソニー・アルブラスター(1984: 292)は、ケインズが「信心深い自由主義者」であったと同時に「彼の思想の遺産を継承したのは結局は社会民主主義であった」と述べる。
[2] カール・ブルンナーの結論(1987: 28)参照、彼の論理的に厳密な用語論的図式では、ケインズの「自由主義的解決の拒絶」は難なく発見可能である。なぜならば「彼は政府に対して課された厳しい制限を容認不可能と考えた。彼の判断では、この問題は徹底的に新鮮なアプローチを要する」からだ。
[3] ローリー1987: 154参照、彼はケインズが「混沌に退化しないためには継続的に政府の干渉が必要な、根本的に欠陥を孕んでいる、非自己矯正的な市場経済という信念」を振興し、「スミス以前のイギリスでのように、新重商主義が見えざる手に対して再び戦争を行った」と記す。
[4] クランストン(1978: 113)はその脚注162に引用された言明にもかまわず、ケインズの根本が自由主義かという疑問に暗黙裡に身を任せた。「ケインズは実は、フランシス・ベーコンとフィロゾフと功利主義とフェビアンとともに、知識人が支配した方がいいと信じる知識人階級に属していた」。多かれ少なかれ古典的な自由主義者の幾人かもまた、ケインズが自由主義者の称号を否定されることはないだろうと考える。たとえばゴットフリート・ハーバラーを見よ。
[5] 交換比率の誤りの破滅的な帰結について、ハリー・ジョンソン(1975: 100, 122)を見よ。彼が述べるには、「正統派経済理論に完全に応じた提案どおり――ポンドの交換価値が一九二〇年代の実質に固定されたら、大量失業の必要はなかっただろうし、ゆえにそれを説明するための革命的真理論の必要も、それに引き続くイギリスの政治史と経済史の引き金の力もなかっただろう……イギリスはケインズ革命という束の間の栄光のために、経済学での科学的研究の水準の堕落、十分な経済学的利口さがあれば経済政策が経済法則を超えられるという政治過程の信念への耽溺の激励、以上の二点で重い長期的な対価を支払った……」。失業利益に関してベンジャミンとコーチン(1979: 468-72)が指摘するには、(ハイエクに大いに賞賛された経済学者の)エドウィン・カナンは過剰失業を創造する失業手当が役割を担う一部を理解した数少ない当代人の一人であった。彼にとって悲しいことに、カナンはドナルド・ウィンチのようなケインズ派の著述家に冷酷で同情に欠けると非難され続けている(ibid. 468, n. 40)。
[6] 重要な誤りの幾つか、たとえば勝手気ままな市場経済は異時間協調を達成できないという彼の結論は、ケインズの方法論に巣食っている。ロジャー・ギャリソン1985の見解では、実際には市場過程でもたらされるような協調による機構がケインズのもっと高次水準での集計操作で隠されてしまっており、他方で真の協調過程はハイエクによってきちんと説明されていた。ハイエク自身1995: 246-47はケインズの最も基礎的な間違いが方法論的であり、外見上は測定可能な大きさの「疑似精密性」を追求しながらも経済システムの実質的な内的結合を無視していたことだと信じていた。ケインズのアプローチは総需要と投資と産出などに恒常的機能的関係が存在するという仮定に依存していた。こうして、それは「本当に問題になっていることをほぼすべて隠す傾向」があって、「我々がすでに成し遂げていた多くの重要な洞察を、骨を折って取り戻さなければならないような完全破壊」に導いていた。
[7] またSeccareccia1993の、自称や実際の資本主義の救い主としてのケインズというありふれた見解に対して著者が反駁するところを見よ。
[8] ブルンナー1987: 47参照、「〔ケインズの〕小論には、ほんのわずかにでもこの〔投資を社会主義化するという〕提案を推敲しているものはない。どんな形で社会主義化が実施されるべきなのか、我々は知らない。制度的選択は決して調査されていない……そのような社会主義化の帰結を評価する〔方法が我々にはない〕」。
[9] この著者は、数十年にわたるキリスト教民主党員の役割に関して次のとおり言い加える。いわく、彼らは「テクノクラートが経済への掌握を維持することを助けていた。彼らはIRIの筆頭擁護者になり」、イタリア最大の企業によりはるか巨大な国家持株企業になった。
[10]自由主義のこれらの目標が、独占権力と課税権威、つまり国家に基づく制度の継続的存在と両立できたのか否かは、もう一つの、理論的にはおそらくもっと重要な疑問である。この疑問について、ハンス=ヘルマン・ホッペ2001の先駆的な作品を、特に229-34を見よ。
[11] ブルース・コールドウェル1995: 41参照、「ケインズは経済学者だけではなく人間一般のなかでも心変わりで有名な人物であった。実際、変異は彼の公的ペルソナの眼目であった」。
[12] The Economist 1993: 110はケインズの評価に際して倒錯的にも「彼の作品に何度も登場するテーマは、経済政策における裁量に対する規則の選好(彼がその作品を賞賛したハイエクに共鳴する選好)である……」と宣言する。
[13] ローリー1987a: 119, 123の、著者がケインズを「現代公共選択アプローチから、想像上で離れられるのと同じだけはるか遠く離れている」と記述し、「彼の理論が得票あさりの政治家の手に委ねてきた危険な裁量」の無視を叱責するところを参照。国家主義の非難に対してケインズの擁護するドナルド・ウィンチ1989: 124は、ケインジアン思考の論理が国家主義的方向に通じていることを認めているように見える。いわく、「ケインズ自身に結びつけられたテクノクラート的な国家能力の解釈が政治と混交するとき、ケインズ自身の最小主義的〔原文ママ〕な立場が維持されることはできるのか? 左派ケインジアン(と、この問題でのマネタリストの反対派)はケインジアニズムの論理がもっと大なる干渉に通じており、マクロ経済管理として始められてきたかもしれないものが、成功を確保するためにマクロ経済干渉に拡張することを要求するというようなことと信じるのは正しくないのか?」
[14] トーマス・バロー1978: 67によるケインズについての奇妙な判断を見よ、いわく「彼の強さと無限だがじれったい魅力は見解(と人々)を見捨てることができる」。これはロスバードがケインズを知的「山師」と特徴づけるのと遠く離れていないように思われる。
[15] ここでのケインズのアプローチは市場経済批評家に特徴的である。ロジャー・ギャリソン1993: 478が観察するとおり、「この理想的システムがまさにどう機能するかを説明することの彼の失敗は社会主義思想一般と一致しており、それらはつねに、想像上のシステムの申し立て上の優越的な機能よりむしろ実際のシステムの知覚上の欠点に焦点を当ててきた」。
[16] オドネル1989: 299-300参照、「ケインズの処方箋は根底においては、国家が文明社会の守護者、監督者、発起人として行為すべきであるというものであった……それはゲームの規則の修正を含む倫理的に指導された漸進的進化的変化のプログラムをもった活発な監督者であった」。
[17] これと同じ有名なエッセー『私はリベラルか?』で、話が社会哲学に至るときいつもどおり頭を混乱させながら、ケインズも次のとおり断言している。彼は「資本主義を守るための斬新な政策」のために奮闘しているにすぎないのだと。
[18] ボルシェビキの指導者レフ・トロツキー1960: 254-55は、もっと「プロメテウス的な」精神でとはいえ、将来のユートピアへの「大変遷」について似たような優生学的見解を表明した。いわく、「ホモ・サピエンスに凝固した人類はもう一度急進的変遷段階に入り、彼〔原文ママ〕自身の手によって最も複雑な人工淘汰と精神身体的訓練の方法の対象になるだろう……。人類は、暗黒の法と遺伝と盲目的な性淘汰の前でみすぼらしく屈服するために、神、王、資本の前で這いずり回ることをやめてしまっているだろう!」(私の作品集『大戦争と大指導者―リバタリアンの反駁』のエッセー「レフ・トロツキー―無知と邪悪」を見よ)。
[19] ケインズは別の機会でも、「個人としての人々が盲目的な本能の代わりに行為の源泉として道徳的および合理的な動機を代用し始めてからは多くの世代があった」と述べながら、「本能と個人的優位の非設計的結果の代わりに心で考え付いた事業計画の」過剰生産の問題に立ち向かう必要性を繰り言した(ケインズ1977: 453)。
[20] アーナード・コリーのコメント(1993: 37-38)を見よ、いわく「政治家はブルームズベリーによって、落ち着きのない馬鹿と日和見主義者とならず者の混成と見なされていたが、それでは国を操舵するために我々に何が残されているのか? 冷静な専門的助言と統制を行える学会(あるいはむしろ、ケンブリッジに根を張る小さな一部分!)と緊密に協力する、ある種の知的体制派である……ケインズは出来事について助言と統制をするインテリゲンチャの権力と義務というブルームズベリー的な信念をもっていた」。
[21] これは経済思想史に対するケインズの無知で粗略なあり方の典型例である。リカード派経済学はマンチェスター学派の指導者たるコブデンとブライトに影響を及ぼしていない、グランプ1960: 7, 106–07を見よ。ケインズの彼自身の立場の先駆者としてのマルサスの歪曲について、ロスバードを1995: 105–06見よ。ケインズの彼自身の理論の先駆者に対する無知どころか関心の欠如について、ガーヴィー1975を見よ。
[22] マイケル・ハイルペリンは長い脚注(1960: 127, n. 48)で、当時ケインズの主要な伝記であったハロッドの作品のこの序文にはどんな参照も欠けているとコメントした。ナチドイツでの学問と他の自由の抑圧に関する見解において、ハイルペリンはケインズのいかにもゴマをするようなテキストを「自由主義者としての彼の経歴の拭い去れない汚点」と称する。
[23] 論争はドイツ語版には掲載されているがケインズの手稿にはない幾つかの文に関わるが、好意的共示をもった「力強い国民的指導〔Führung〕」という句の使用を除けば、これらの文にケインズにさらなる罪を負わせるものはないように思われる。いずれにせよ、ケインズはおそらくこの追加に承認をしたように見える。ベルトラム・シェフォールト1980: 175–76を見よ。
[24] 全集の版は一九三三年七月八日と十五日の「新為政者と国民」から。しかしながらエッセーは『エール・レビュー』で初出した。ここでの引用はケインズ1933のこの版から。ハイルペリン(1960: 111)はこのエッセーが「その簡潔さにもかかわらず、ケインズの最も重大な著作物」と言明し、ケインズが自分で議論した体制の全体主義的性格を控えめに見せていると観察した。「彼らはそれに関する素晴らしいものを実験していたのだ!」ここでハイルペリン はこの一作品と数年にわたるケインズの思考の本質的な精神に惹きつけられる。
[25] ナチドイツに対するこれとこれ類似の批判はエッセーのドイツ語訳からは、明らかにケインズの許可を得て除外されている、ボルヒャルト1988を見よ。ボルヒャルトは『エール・レビュー』版に気づいているけれども、全集からエッセーを引用し、ゆえにその自由主義的テノールを過剰評価している。
[26] それは「今日政界で経済国民主義の名においてなされていることすべてを私が是認していると想定されてはらならないからだ。とんでもない。」の後、ケインズ1982: 244に掲載するはずであった。『全集版』でも同様に、『エール・レビュー』では掲載されたが些細な重要性しかない他の数節を除去している。この本の編集者は、この版が『エール・レビュー』で掲載されたものと異なるとは決して仄めかさないし、そのうえ彼は不正確にも当該『エール・レビュー』の号を「一九三三年夏」と記している。
[27] 社会工学「実験」の素晴らしさに関するケインズの一九二〇年代と三〇年代の繰り言は最終的にはほとんど笑えるものになる。もう一つの例として、『自由放任主義の終焉』([1926] 1972: 290強調付加)で彼が記すには、「私はドクトリネールな国家社会主義を批判する。その理由は、それが人々の社会貢献での利他的衝動に没頭することを求めるからではないし、それが自由放任から距離を置くからではないし、あるいはそれが百万ドル稼ぐための人の自然な自由を取り除くからではないし、あるいはそれが大胆な実験の勇気をもっているからではない。これらのすべては私が拍手を送るところだ。
[28] ケインズはもちろん彼の経歴を通してレッセフェール原理の無慈悲な批評家であった。『自由放任主義の終焉』(ケインズ1972: 272–94)はおそらく彼の最も有名な論争的エッセーであった。これは当時イタリア人の(決して「ドクトリネール」ではない自由主義的経済学者ルイージ・エイナウディ(1926)にレビューされた。エイナウディのケインズ批判とレッセフェールの実践的価値の再肯定は本書のエッセー『フランス自由主義の中心性』の章の「政治的指針としてのレッセフェール」の節で議論される。
[29] 「錯誤」と「混乱」は近年のソビエト共産主義の歴史家がこれらの年月の数百万人の死を伴う「混沌への強烈な堕落」と批判してきたものに関する用語としてはとても適当ではないように見える。マライア1994: 109–39の「戦時共産主義―政権誕生す」の章を見よ。また、ロバート1971: 20–47の「『戦時共産主義』―マルクス主義的アイディアの産物」での啓蒙的な分析も見よ。
[30] ケインズは「決して何も現れることができなかった」ツァーリ・ロシアよりソビエト・ロシアの方がはるかに選好されるべきだと言い加える(271)。これは、特にケインズの芸術愛の見解においては、信じがたいほど馬鹿げた判断だ。ご存じのとおり、古いロシアは音楽と舞踏と何より文芸を含む多くの分野でソビエトの後継者とは比べ物にならない偉大な業績を誇ることができる。
[31] 論理的には、これは一九三七年までをカバーするスキデルスキーの二巻の伝記で議論されてもよかったはずだ。しかしスキデルスキー1994: 488はウェッブ夫妻の『ソビエト共産主義』には言及するのにケインズのラジオレビューには触れない。彼の膨大な三巻のケインズ伝記でスキデルスキーがこの非常に有罪追及的な一齣に言及する場所すら見つけられなかったというのは奇妙を通り越している。またケインズとフェビアンたちに関する彼の小論(1999)にもこれが欠けている。このトークはオドネル1989: 377, n. 13で言及されている。
[32] ベアトリスの友達であり伝記家であるマーガレット・コール(コール1946: 199)はこの本が幾つかの批判を含んでいながらも「ある意味で途方もないプロパガンダ・パンフレットであり、ソビエト連合を擁護し称賛している」と述べる。これは批判としては意図されていなかった、というのも彼女の伝記から明らかであるとおり、コールはウェッブのスターリニズム賛美を分かち合っていたからである。
[33] 他の多くの大量殺人の中でも特に「クラーク清算実行者の「強い信仰」と「固い意志」を賛美するウェッブ夫妻に対してのユージン・ライオンズのコメントがライオンズ1937: 284に見受けられる。またロバート・コンクエスト1986: 317–18, 321の所見も見よ。マガリッジは彼の『モスクワの冬』という小説で、ソビエト連合を訪れた外国旅行同行者の世界を記述したが、彼が観察したところでは、それはソビエト政権に騙された非共産党員の社会主義者よりも、「新自由主義者」とフェビアンであること頻りだった。
[34] ジョージ・バーナード・ショウへの手紙において(スキデルスキー2001: 168)。スキデルスキーがやや隠し事している感じで言い加えるには、ケインズはベアトリスの称賛的死亡記事を手配したけれども、彼は「なおも彼女の経済学の騰貴を切望していた」(同527, n. 76)。この馬鹿女の経済思想がいったい何から成り立つことができたのかを考えるのは楽しい。
[35] もしも人がケインズのように話を進めるべきであるならば、彼の専門的職業中での貨幣の主題の関与と、貨幣動機に対する彼の激烈で情動的な拒絶、以上両方の如何わしい源泉として、ケインズ自身の無意識な心を徹底精査しなければならないことは明らかであろう。
[36] H・L・メンケンは一般的にも機智に富んでいたように政治的にもしばしば鋭かったが、彼が一九三六年五月二日の手紙(1961, 403)に記すには、「私はあなたと同様にしてヒトラーとムッソリーニによる市民権の侵害に反対するし、このことはあなたもよく知っている。……あなたはヒトラーが反対者を投獄するたびに正義をもって抗議するが、スターリンと彼の一団が千倍多くの人々を投獄し殺害することを忘れる。モスクワの山賊と刺客と比べるとき、ヒトラーなど一般クー・クラックス・クランの一般会員ぐらいであり、ムッソリーニなど博愛主義者も同然であると私には思われるし、実際その証拠は明白である」。
[37] つい最近の一九四四年にも、ケインズはハイエクへの手紙で『隷属への道』にコメントしながら、「あなた自身が考えている議論の方向は計画が一層の効率性はないという非常に疑わしい仮定に依存している。純粋に経済的な視点からはそれが効率的でらうことは実にありそうなことだ」と述べた(ケインズ1980: 386)。ケインズはこれを「仮定」と言及することができてしまったことは、彼が社会主義下での経済計算をめぐる大討論にまったく気づいていなかった――もしくは考えるのを拒否していた――ことを示唆している。彼のソビエトロシアからの報告書での経済分析の完全な欠如はケインズの社会改革の考えに関するカール・ブルンナーの結論(1987: 47)を思い出させる。すなわち、「社会科学者ましてや経済学者が〔これを〕著したのだと小論の情報から言い当てられはしないだろう。どんなインテリゲンチャの社会夢想家でもこんなものは生み出せただろう。……枢要な疑問は決して直視されないし、または研究されない。彼の良き友ベアトリス・ウェッブ(1985: 371)の一九三六年の判断にも真理があるかもしれない。「ケインズは経済学の問題には真剣ではなく、余暇の時間にそれで遊んでいるのである。彼にとって唯一真剣な対象は美学なのだ……」。彼の理論の科学的含意を別としても、ケインズの「無類の芸術家」としての評価として、ブキャナン(1987)を見よ。
(出典: mises.org)
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