右派リバタリアニズムとしての現実主義的リバタリアニズム
Hans-Hermann Hoppe, “Realistic Libertarianism as Right-Libertarianism” (PFS 2014), http://propertyandfreedom.org/2015/01/hoppe-realistic-libertarianism-as-right-libertarianism-pfs-2014/, https://www.lewrockwell.com/2014/09/hans-hermann-hoppe/smack-down/
〔章立ては訳者。〕
リバタリアニズムは文化や社会や宗教または道徳原理へのほとんどどんな態度とも論理的に一貫する。リバタリアン政治学説は厳密な論理では他のあらゆる考慮から切り離されることができるし、論理的には人は――そして実際にほとんどのリバタリアンが事実上は――快楽主義者、放蕩主義者、不道徳家、宗教一般および特にキリスト教に対する戦闘的な敵でありうる――それでもなおリバタリアン政治学の一貫した支持者でありうる。事実上、厳密な論理では、あまりにも多くのリバタリアンが皆で明らかにするとおり、政治的に財産権の一貫した献身家でありつつ、実践的には甘ったれ、ペテン師、つまらないイカサマ野郎、たかりやであることもできる。厳密に論理的には人はこんなこともできるが、しかし心理学的にも、社会学的にも、実践的にも、この方法では到底うまくいかない。〔私の強調、ハンス=ヘルマン・ホッペ〕
Murray Rothbard, “Big-Government Libertarians,” in: L. Rockwell, ed., The Irrepressible Rothbard, Auburn, Al: Ludwig von Mises Institute, 2000, p. 101
一
純粋に演繹的な理論としてのリバタリアニズムに関する数個の所見から始めよう。
世界に稀少性がなかったら、人間的な紛争は不可能である。個人間紛争とはいつでもどこでも稀少な物に関する紛争である。私は所与の物でXしたい、かつ、あなたは同じ物でYしたい。
そのような紛争のせいで――そして我々が互いに意思を伝達でき議論できるおかげで――我々はこれらの紛争を避けるために行動の規範を探し出すことができる。規範の目的は紛争回避である。もしも我々が紛争を避けようとしなかったら、品行の規範を探すことは意味がない。我々は単に戦い、争うにすぎまい。
あらゆる利益の完全な調和がないならば、稀少資源をめぐる紛争が避けられるのは、あらゆる稀少資源が或る特定の個人への私的な排他的財産として割り当てられる場合しかない。そのときにのみ、あなたと私が紛争を生じることなく、あなた自身の物をもつあなたから独立して、私は私自身の物をもって行為することができる。
しかし、誰が稀少資源を私有財産として所有して、誰がしないのか? 第一に、各人物は、他の誰でもなくただ彼だけが直接に支配するところの(私は初めに私の身体を直接支配することで間接的にしかあなたの身体を支配できず、逆もしかり)、かつ、手元の問題を討論し論争するときただ彼だけが直接的に支配するところの、自身の物理的身体を所有する。身体直接支配者は彼が生きているかぎり自己身体への彼の直接支配を放棄することができないから、もしも身体所有権が身体の間接支配者に割り当てられるならば紛争は不可避になるだろうし、わけても、議論し討論することは、擁護者と反対者の両者が自分たちの各々の身体への排他的支配をもつことと、戦闘なく(紛争フリーな個人間行為の形で)彼ら自身で正しい判断に至ることを先行前提するから、さもなくば、どんな二人の人物も、どんな財産論争での論争者としても、どちらの意思が優先すべきかの問題を議論し討論することは不可能であろう。
第二に、間接にのみ支配されうる(天与の、つまり未収用の我々自身の身体で収用しなければならない)稀少資源のことに関しては、当該の資源を最初に専有した人物に、または、それの以前の所有者から自発的(紛争フリー)な交換を通して取得した人物によって、排他的支配(財産)が取得され、これが割り当てられる。資源の原始専有者だけが、(それと自発的交換の連鎖を通して彼と結びつく遅参者全員が、)紛争なしで、つまり平和にそれを取得し、それへの支配を得ることができるからだ。そうではなく、もしも排他的支配が遅参者に割り当てられるならば、紛争は避けられず、むしろ紛争を避けられないものして永続化させてしまうので、規範の目的そのものに反してしまう。
私がこの理論を先験的な真理として本質的に反論不可能だと見なしていることを強調しよう。私の評価では、この理論は――最も偉大なものには当たらずとも――最も偉大な社会思想の業績の少なくとも一つに相当する。これは、平和に共生したい万人にとっての不変の根本規則を定式化し法典化する。
けれども、この理論は我々に現実の生活のことをあまり多くは教えない。確かに、あらゆる実際の社会は、平和的関係に特徴付けられるかぎり、意識的にであれ潜在意識的にあれこの規則を信奉しており、ゆえに合理的洞察に導かれるだろうということを我々に教えてくれる。しかしこれが事実である範囲を我々に教えない。また、たとえこれらの規則への信奉が完全であっても、実際に人々がどう一緒に暮らすかを我々に教えない。彼らの暮らしがお互いにどれほど近いか、それとも遠いかを教えないし、もし、いつ、いかに頻りに、そしていかに久しく、そして何のために彼らが出会い交際するのかなどを我々に教えない。ここで比喩を使おう。リバタリアン理論――平和的な相互行為の規則――を知ることは、論理――思考と推論の規則――を知るようなものである。しかしながら、ちょうど正しい思考のためには不可欠な論理の知識も、実際の人間の思考に関しては何も教えず、実際に使われ行われる言葉と概念と議論と推論と結論に関しては何も教えないように、平和的な相互行為(リバタリアニズム)も実際の人間的な生活と行為に関しては何も教えない。ゆえに、ちょうど自分の知識の良く使いたがる論理学者がみな自分の関心を現実的な思考と推理に向けるに違いないように、リバタリアン理論家も彼の関心を現実の人々の行為に向けなければならない。彼は単なる理論家なのではなく、また社会学者と心理学者にもなって、「経験的」な社会的現実を、すなわちそれが現実にかくあるとおりの世界を説明すべきなのである。
これが「右翼」と「左翼」の話をもたらす。
二
右派と左派の違いは、ポール・ゴットフリートが頻りに書き留めるとおり、経験的な問題に関わる根本的な不同意から来る。右派は事実の問題として個々の人間の相違と多様性を認識し、これらを自然なこととして尊重するが、他方で左派はそのような相違と多様性の違いを否定するか、これらを釈明しようとして、いずれにせよこれらのことを自然な人間的平等の状態を確立すべく矯正されるべき何か不自然なものであると見なす。
右派は人間的環境と個々の人間的身体(身長、体力、体重、年齢、性別、肌や髪や目の色、面構えなど)の物理的な立地と仕上がりに関する個々人の人間的違いだけを認識するのではない。もっと重要なことだが、右派はまた、人々の認知能力、才能、心理的傾向性、動機など、つまり人々の心的な仕上がりの違いの存在をも認識する。頭の聡さと鈍さの、スマートさと口の利けなさの、刹那的な近視眼と先見性の、勤勉さと怠惰さの、攻撃性と平和の、従順と創意の、衝動性と忍耐力の、几帳面さと無頓着の、それぞれの人々の存在を認識する。これらの心的な違いは物理的環境と物理的人間身体の相互作用の結果だが、環境的な要因と生理学的かつ生物学的な要因の両方の結果であることを認識する。右派はさらに、血(生物学的な共通性と関係性)によって、言語と宗教によって、同様に習慣と伝統によって、人々が紐付けられている(か、分け隔たれている)ことを認識する。そのうえ、右派はこれらの相違と多様性の存在を認識するだけではない。入力の違いは結果も異ならしめるだろう。人々の財産の多いか少ないか、人々の豊かか貧しいか、そして社会的地位や、階級や、影響力や、あるいは権威の高いか低いかに結果する。そして異なる入力によるこれらの異なる結果を、正常であり自然であると受け入れる。
他方で左派は、人の根本的な平等性、あらゆる人々が「平等に作られている」ことを確信する。もちろん、幾人かの人々が山に住み他の人々が海辺に住むことや、幾人かの人たちは背が高く他の人たちは背が低いこと、幾人かが白人で他が黒人、幾人かが男性で他が女性など、要するに環境的および心理的な違いがあることは一見して明白であり否定されない。しかし左派は心的な違いの存在を否定するか、丸ごと否定するには明白すぎるかぎりは、「偶然」として弁明しようとする。すなわち、左派は、そのような違いが単に環境的に決定されたものであり、そのような環境的状況の変化(たとえば山から海辺に移動することとその逆、または所与の各個人に同一の出産前後手当て)が平等な結果を生み出すだろうと説明することと、そしてこれらの違い(も)が何らかの――比較的加工しづらい――生物学的要因に起因することを否定することの両方を行う。もしくは、150cmの男がオリンピック100m走で金メダルを勝ち取れず、デブで醜い少女がミス・ユニバースにはなれないときのような、生物学的な要因が人生での成功か失敗(金や名声)を決定する際の因果的役割を演じることが否定できない場合には、左派はこれらの違いを純粋な運と見なし、個人的な成功や失敗の成果には値しないと見なしてしまう。そして、我々が山や海辺に移動できなかったり、背の高い人を低くしたり黒人を白くできないように、これが文字通りにはできないところでは、左派は、万人の自然な平等性に応じてすべての人が「等しい分際」を与えられるため、不相応にも「幸運な者」は「不運な者」に賠償しなければならないと強弁する。
右派と左派についてのこの手短な特徴づけを鑑みつつ、私はリバタリアニズムの主題に戻る。リバタリアン理論は右派の世界観と両立するか? そして、リバタリアニズムは左派の見解と両立するか?
右派について言えば、答えは力強い「イエス」である。社会的な現実に曖昧でも通じているリバタリアンは皆、右派的な世界観の根本的な真理を認めることに困難がない。彼は認められるし、人の身体的のみならず心的な不平等に関する右派の経験的主張に実際同意すべきであり;とりわけ彼は「レッセフェール」という右派の規範的な主張にも同意できる、すなわち、この自然な人間的不平等性が不可避的に不平等な結果を生じると、そしてこれに関してはできることもすべきこともない、とも同意できる。
しかしながら一つだけ重要な但し書きがある。開始点であれ結果であれ、右派が人間的不平等をすべて自然なこととして受け入れるかもしれないかたわらで、リバタリアンは、ただこれらの不平等だけが自然であり、始めに言及された人間の平和的な交際という根本規範に従うことで生じたものに干渉すべきではないと主張する。これらの規則への違反の成果である不平等には、矯正行為が要求されるのであり、除去されねばならない。そしてそのうえ、リバタリアンは経験的事実の問題として、勤勉な労働や予見性や企業家的才能や自発的な贈物や相続ではなく、強盗や詐欺や国家に保障された特選的特権で資産を築いた豊かな人々のように、そのような規則違反の結果である数え切れないほど多くの観察可能な人間的不平等が相当数存在することを強く主張するだろう。しかしながら、そのような場合に要求される矯正行為は平等主義にではなく賠償の欲望に動機付けられる。自分は強奪されたか詐欺に合ったか法的に不利にされていたのだと示すことができる人が(そしてただその人だけが)、彼や彼の財産に対して犯罪をおかした人々に(そしてただその人々だけに)全部を要求されなければならない。これはまた、(貧者が富者に詐欺を働いて賠償を負うときのように)賠償が一層大きな不平等に結果するだろう場合をも含む。
他方、左派について言えば、答えは同じように力強い「ノー」である。左派の経験的主張は、個人間の、ゆえに人々の多様な集団間には著しい心的違いが存在しないことと、そのような違いであるように見えるものは単に環境的要因のせいであり、そのような違いは環境が平等化されるだけで消滅するだろうというものであり、これはありとあらゆる日々の体験と経験的社会調査の山々に矛盾する。人々は平等に作られてはおらず、作られることはできず、何であれ人がこれを試みるとき、不平等はつねに再発生する。しかしながら、これには左派をリバタリアニズムと両立不可能にする規範的な主張と活動アジェンダが特に含意されている。万人を平等化するか万人の「分際」を平等化するという左派の目標は、身体であれ体外物であれ、私有財産と両立できない。それは平和的な協調の代わりに果てしなき紛争をもたらし、平等化さるべき我が「材料」としての他人に対して威張り散らす永遠の支配階級の決然たる非平等主義体制派に導いてしまう。「したがって」、マレー・ロスバードが定式化したとおり、「どんな二人の人々も、自然においてはどんな意味でも一様ではなく「平等」ではないし、自発的な社会の結果において、そのような平等性をもたらし維持するためには、破壊的な強圧権力で武装した権力エリートの永遠の押し付けを必然的に要求する」。[1]
個体的人間には無数の違いが存在するし、各個人は無数の異なる集団に合致しうるから、異なる集団にはさらに多くの違いが存在する。個人にせよ集団にせよ、これらの違いのどれが有利で幸運なものに数え入れられるべきか、また不利で不運なもの(もしくはそういうもの)に数え入れられるべきかを決定するのは権力エリートである。平等を達成するために何をどれほど幸運な者から「取り上げて」不運な者に「与える」か、つまり幸運と不運を「平等化」するために――無数の可能な方法から――実際にどうするか決定するのも権力エリートである。とりわけ、それ自体を不運と定義することで、幸運な人から何をどれほど取り上げ、何をどれほど自分の取り分にするべきかを決定するのは、権力エリートである。そしたら何であれ平等化は達成される。無数の新たな違いと不平等が恒常的に再発生するから、権力エリートの平等化家業は決して自然な目標には至らず、むしろ永遠に、終わりなく続けられざるをえない。
しかしながら左派の平等主義的世界観はただリバタリアニズムとのみ相容れないのではない。誰がそんなものを真面目にとりうるのかと訝らざるをえないほど、現実認識もが欠けているのだ。普通の人が万人の平等性を信じていないのは確実である。平易な常識と健全な偏見がそのようなことを妨げるのだ。そして私は、平等主義的教義の実際の支持者が彼自身の宣言を本当に心の中で信じているのだということをさらに確信している。それにもかかわらず、どうして左派的な世界観が我々の支配的なイデオロギーになってしまったんだ?
少なくともリバタリアンにとっては答えが明らかであるはずだ。平等主義的教義は、真だからではなく、支配エリートによる全体主義的社会支配に向けたドライブのための完全な知的包み紙を提供するからこの地位を達成したのである。したがって、支配エリートは「インテリゲンチャ」(または「お喋り階級」)の助けで支持を得る。彼らは名簿に載るか、さもなくば、望ましい平等主義的メッセージ(間違っていると分かっているが彼ら自身の雇用の見通しには非常に有益なメッセージ)を撒き散らす見返りに助成金を支給される。そして、平等主義的なナンセンスの最も熱心な提議者は知的階級で見つかる。[2]
左派に宣言される平等主義はリバタリアニズムとは明白に相容れないということを鑑みれば、今日自らをリバタリアンと呼びかつ見なす者の多くが左派の一部であることには仰天させられるに違いない――そしてこれは支配エリートと御用知識人の巨大なイデオロギー的権力の証言となる。どうしたらこんなことがありうるんだ?
これらの左派リバタリアンにイデオロギー的に統合されたものは、多様な「反差別」政策の活動的な促進と、「自由で非差別的な」移民政策の提唱である。[3]
ロスバードが書き留めるには、これらの「リバタリアンは、各個人が他の全員と平等ではなくてもいい一方で、考えられるすべての集団、エスニック集団、人種、性差、あるいはいくつかの場合では、種が実際に『平等』に作られており、しかも作られるべきであり、各人はどんな形の『差別』の抑圧にも服すべからざる『権利』を有する、という概念に熱情的に傾倒している」。[4]
しかし、私有財産は、リバタリアン哲学の要石としてあらゆるリバタリアンに支持されるものであって、結局は排他的財産を意味し、ゆえに論理的には差別を含意するものだが、これがどうしてその反差別の立場と調和させられるんだ?
もちろん伝統的な左派にはこの問題はない。彼らは私有財産のことを考えないし気にもしない。誰もが他の誰もと等しいのだから、世界とその万物は等しく皆に属しており――あらゆる財産は「共有」財産であり――世界の等しい共同所有者として、もちろん誰もがどこにでもどれにでも平等に「アクセスする権利」をもつ。しかしながら、あらゆる利益の完全な調和がなければ、あなたは、永続的な紛争を引き起こさずには、誰も彼もに等しい財産を持たせ、どこにでもどれにでも等しくアクセスさせることはできない。かくして、この苦境を避けるためには、国家を、すなわち究極的な意思決定の領土的独占者を設立する必要があるという。要するに、「共有財産」は国家を要求し、「国有財産」にならねばならない、と。国家が究極的に決定するのは誰が何を所有するかだけではなく、また、誰がどこで暮らすべきか、そして誰に会っていいか、誰にアクセスすべきかを決定するのも国家であり、つまり、あらゆる人々の空間的な割り当てを決定するのも国家である――私有財産は非難される。国家を支配するだろう人々は結局、彼ら、左派である。
三
しかしこの逃げ道は自身をリバタリアンと呼ぶ者には開かれていない。彼は私有財産を真剣に取るべきだ。
心理学的または社会学的には、リバタリアンにとっての非差別政策の魅力は、異様なほど大多数のリバタリアンが社会不適合者であり、単純に奇人――あるいはロスバードの記述を使えば、「快楽主義者、放蕩主義者、不道徳家、宗教一般および特にキリスト教に対する戦闘的な敵……甘ったれ、ペテン師、つまらないイカサマ野郎、たかりや」――であって、彼らは不適合者と周縁者に対するその申し立て上の「寛容さ」ゆえにリバタリアニズムに魅了されるようになったのだし、彼らは典型的にはいまや日々の生活で彼らの好みを爪弾きにするすべての差別から自分を自由にするための乗り物としてこれを使いたがっているという事実によって説明することができる。しかし彼らはどうすれば論理的でありうるんだ? 左派リバタリアンと大げさ同情派リバタリアンと人道主義的コスモポリタン・リバタリアンは単なる左派ではない。彼らは私有財産の核心的重要性を知っている。だというのに、いったいどうやって反差別政策の促進を、わけても差別フリーな移民政策のプロパガンダを、彼らは見かけ上でも私有財産の概念と論理的に調和させられるんだ?
短い答えは、現在のすべての私有財産と別個の人々の間でのその分配に道徳的容疑をかけることだ。この主張をもって、左派リバタリアンは非リバタリアンな右派が犯すものとは正反対の過ちに陥る。仄めかしたとおり、非リバタリアン右派はすべての(または少なくともほぼすべての)財産保有を、特にまた国家の財産保有を、自然かつ公正と見なす過ちを犯す。はっきりと反対して、リバタリアンは、いくつかの現在の財産保有と、すべての(または少なくともほとんどの)国家保有が、論証可能な形で不自然かつ不正義であり、賠償か補償を必要とすると認識し、そのように強く主張するだろう。逆に、左派リバタリアンはすべてのまたはほとんどの国家保有が不自然かつ不公正である(彼らの「リバタリアン」の肩書きはこの了承に由来する)と主張が、それだけではなくまた、すべてのまたはほとんどの私有財産保有が不自然であり不公正であるとも主張する。そして彼らはこの後者の主張を支持する際に、現在のすべての私有財産保有とさまざまな人々の間のその配分は先だつ国家の行為と立法に影響を受けており、変更され、歪められたことと、そのような先立つ国家介入がなかったらすべてが異なっているだろうし誰も現在と同じ場所と立場にいないだろうという事実を指摘する。
この観察はどんな疑いもなく正しい。国家はその長く久しい歴史において、或る人々をさもなくばの場合よりも豊かにし、他の人々を貧しくしてきた。或る人々を殺して他の人々を生き延びさせた。あちこちで或る場所から他の場所へと人々を移動させた。それは幾つかの職業や産業や宗教を奨励し、他の発達を遅滞させて変化させた。それは幾人かの人々に特権と独占を与え、他の人々を法的に差別し不利を課した、などなどなど。勝者と敗者の、犯罪者と犠牲者の、過去の不正義のリストには終わりがない。
しかしこの論争の余地なき事実からは、あらゆるまたはほとんどの現在財産余裕が道徳的に疑惑をかけられ、しかも実際に修正される必要があるということにはならないのだ。確かに国家財産は不正に取得されたから賠償されなければならない。それは、彼ら自身の私有財産の一部を国家に明け渡すことでそのような「公共」財産に「出資」するよう強要された人々(または彼の相続者)、つまりその自然所有者に返還されなければならない。しかしながら、私はここでこの特殊な「私有化」争点に関わるつもりはない。[5]それはむしろ、ここからはそうはならないような、過去の不正義はまた全現行私有財産保有に道徳的疑惑をかけるほど一層広範に及ぶ請求であり、この疑惑は確実に真実ではない。事実の問題として、ほとんどの私的保有はその歴史とは無関係に正当でありそうだ――そうではないことを特定の請求者が証明できないかぎり、かつ証明できる場合を除いて。しかしながら証明責任は誰であれ現行財産の保有と分配に意義を唱える側にある。彼は当該財産のもっと古い権原をその現行所有者よりも自分こそが所持していると示さなければならない。そうではなく、もしも請求者がこれを証明できないならば、すべての物はそれが現在そうであるままに残されなければならない。
まは、もっと特定的で現実的なこととして、ピーターあるいはポールあるいは彼らの親が、どんな考えられる集団のメンバーとして、殺されたか、追い出されたか、奪われたか、襲われたか、あるいは過去に法的に差別され、そしてもしもそのような過去の不正義がなかったならば彼らの現行財産保有と社会的立場が異なっていたという事実からは、この集団のどの現在メンバーも他の誰か(内部でも彼の集団の外部からでもない誰か)の現行財産に対して(補償のための)正当な請求権をもつということにはならない。むしろ、ピーターあるいはポールは各ケースにおいて、或るケースから他のケースに移るたびに、何らかの財産の特定化された一つに対して、現行の告訴され同定された所有者および申し立てられた犯罪者よりもっと古い権原をもつから、彼こそが個人的にもっと良い権利をもつ、と示さなければならない。確実に、これをなすことができ、そして賠償や補償が負われるところの事例は相当数存在する。しかしちょうど同じように確実に、現行財産分配のどんな異議申し立て人のこの証明責任をもっても、どんな非差別平等主義アジェンダのためのマイレージも得ることはできない。対照的にも、多様な「被保護集団」への法的特権を、他の多様な相対的に保護されず差別される集団の支出で授ける「アファーマティブ・アクション」法が充満した当代西洋世界では、もしも正義が要求するとおり、事実としてこの被害に関するそのような個人化された証明を提出できる万人が実際に国家によってそうすることを許され、訴訟を起こし、彼の加害者に補償を求めるならば、――少なくではなく――もっと多くの差別と不平等が結果する。
しかし、左派リバタリアン――大げさ同情派と人道主義的コスモポリタン派のリバタリアン――が「アファーマティブ・アクション」に反対する「戦士」として知られるのは正確ではない。非常に対照的だが、彼らは達したがる結論に達するために、むしろ、個人化された被害証明を提出するべきところの被害を主張する誰かが、被害を主張するための個人化された被害証明の提出の要件を、まるごと緩めるか欠かすのである。リバタリアンとしての知的地位を維持するために、左派リバタリアンは典型的には静かに、こっそりと、または自覚なしでさえそうするのだが、実質的には、彼らは正義のこの根本的な要件を放棄する際に、私有財産と財産権と権利違反を、「市民権」と「市民権違反」および「集団的権利」を伴う個人的権利の混乱した概念と置き換え、かくてクローゼット社会主義者になる。国家がすべての私有財産の保有と配分を乱して歪めてきたことを鑑みても、被害についての個人化された証明なしでは、すべての人が、そしてすべての考えられる集団が、とにかく、ほとんど知的な努力なしで、他の誰に対しても、また他のどの集団に対しても容易に「被害者性」を主張できてしまう。[6]
被害者性についての個人化された証明責任を緩めることで、左派リバタリアンは彼ら自身の前提たる平等主義的仮定に応じた新たな「被害者」と「加害者」の「発見」に際して本質的に無制約になる。彼らが偉いのは、国家を私有財産権の制度的な加害者であり侵略者であると認識しているところだ。(繰り返すが、彼らが「リバタリアン」であるという主張はここに由来する。)彼らはしかし、国家に犯され引き起こされた、国家保有と機能をすべて縮小し、究極的には分解して私有化することで解消され矯正されるべきこれらの不正義と歪曲だけではなく、はるかに多くの制度的かつ構造的な不正義と社会的な歪曲を見つめ、はるかに多くの被害者と加害者を見つめ、はるかに多くの補償と賠償と現行世界に付随する財産再配分の必要を見つめる。たとえ国家が分解されたとしても、先の久しい国家の存在と一定の前国家的な条件の後に残る効果として、他の制度的な歪曲が公正な社会を創造するための必要な矯正の余地を残すだろうと彼らは考える。
この点で左派リバタリアンに取られた見解は全体としては一様ではないが、それらは典型的には文化マルクス主義者に奨励されたものとわずかにしか異ならない。彼らは、どんな経験的な支持もなく、実際圧倒的な証拠に反しながら、「自然」な社会のことをとても「フラット」で「水平的」な「平等」の社会だと、すなわち本質的には普遍的かつ世界規模で同質であり、似たような心性と才能の人々の、多かれ少なかれ似たような社会的および経済的な身分と立場の社会だと想定し、そして彼らはこのモデルからのあらゆるシステマチックな逸脱を差別の結果であり何らかの形の補償と賠償の理由になると見なす。したがって、伝統的家庭の、性役割の、そして男性と女性の仕事割りのヒエラルヒー的構造が不自然であると見なされる。権威のヒエラルヒー、死刑執行人と族長の、貴族と王君のパトロンの、司祭と枢機卿の、「上司」一般の、そして各々の手下と部下の、あらゆる社会的ヒエラルヒーと垂直的階層秩序が実際に容疑をかけられている。同じように、所得と富の――いわゆる「経済的権力」の――大きいまたは「過剰な」格差のすべてが、そして抑圧された下流階級はもちろん超裕福な人々と家庭からなる上流階級もが不自然だとされる。同じく、大きく産業的かつ金融的な会社と複合企業は国家の人工的産物だと見なされる。そしてまた、排他的な結社、協会、集会、教会、クラブ、そしてあらゆる領土的な隔離、分離、脱退はどれも、階級や性差や人種やエスニシティや家柄や言語や宗教や職業や利害や習慣や伝統が何であれ、疑惑がかかり、不自然で修正の必要があるのだ、と。
この視点からは「被害者」集団とその「加害者」は容易に同定される。結局、人類の大多数が「被害者」に仕立て上げられるのだ。すべての人が、そしてすべての考えられる集団が「被害者」である、ただし伝統的ブルジョワ家族人生を生きる白人(北アジア含む)異性愛男性からなる人類の小集団を除いて。彼らは、わけても彼らの中でもっとも創造的かつ成功した人たちは、(興味深いことだが、スポーツやエンターテイメントでの豊かなセレブリティだけは除いて)、他の全員への「加害者」である、と。
人類史のこの見解はちょうどこの少数「加害者」集団から生じた驚くべき文明的業績の光に照らせば奇妙なものという印象を与える一方で、これは文化マルクス主義者にもプロパガンダされた被害者学とほぼ完全に同時発生している。どちらの集団もこの同じように同定され記述され遺憾がられた「構造的被害状態」の原因に関してしか異ならない。文化マルクス主義者にとって、この状態の原因は私有財産であり、私有財産権に基づく制約なき資本主義である。彼らにとって、このダメージをどう直すかの答えは明白であり簡単である。彼らが支配するはずの国家によって、あらゆる必要な補償、賠償、再配分がなされなければならない。
左派リバタリアンにとって、この答えは役に立たない。彼らは私有財産と国家財産私有化に賛成するものと思われている。彼らはリバタリアンとして国家を分解し究極的には廃止すると思われているから、国家に賠償させることができない。けれども彼らはいわゆる公共財産の私有化から生じるよりもっと多くの賠償が欲しい。国家を廃止することは彼らにとって正当な社会を創造するためには十分ではない。ちょうど言及された膨大な被害者の大多数を補償するにはもっと多くのものが必要とされるのだ。
だがどうやって? どんな根拠で? いつであれ個人化された被害証明があるとき、すなわち、もしも或る人物Aが他の人物BにAの財産を侵略なり収奪なりされたと論証できるか、逆ができるならば問題はない! この場合ははっきりしている。しかし、そのような証明がなければ「加害者」は「被害者」にどんな根拠で他に何を負うんだ? 誰が誰に何をどれほど負うかをどう決めるんだ? そしてこの賠償計画を国家によらず、他の誰かの私有財産権を踏みにじらずにどう実施するんだ? これは左派リバタリアンの自称者にとって中心的な知的問題を提出する。
驚くべきことではないが、彼らがこの問題に与えた答えは曖昧で責任逃れだと分かる。私が集められたすべてのもので、説教以上のものに当たることはなかった。知的界隈の鋭い観察者がこれをまとめた。「優しくしてやれ!」もっと正確に言えばこうだ。小さな「加害者」集団たちよ、お前たちは、膨大な多数派「被害者」の全員に、すなわち白人の異性愛の男性を除いた長くて馴染み深いリストの全メンバーに対して、つねに特別「優しく」してやり、大目に見てやり、温かく迎えてやらなければならない! そしてその施行として、何らかの被害者階級のメンバーに適当な敬意を払わない全「加害者」、すなわち、彼らに対して「不快」であり、容赦なく、または排他的である、あるいは彼らに「不快だ」だのと軽蔑的なことを言う「加害者」は、公衆の面前で遠巻きにされ、辱められ、恥じ入って隷従にしなければならない!
最初に見聞きしたときは、どう賠償するかについてのこの提案が――「優しい」人々に生み出されたと推定されうるとおり――とても、とても意義深く無害で簡単な「優しい」ものに思われるかもしれない。しかしながら事実上これは「優しい」無害な助言ではなく、間違っており、危険である。
何よりもまず、一定の特定化された物理的手段(財)への各人の私有財産権を尊重することは別としても――なぜ誰かが他の誰もに特に優しいなければならないんだ? 優しくすることはあらゆる行為をするのと同じく慎重な行為であり努力を要する。そこには機会費用がある。同じほどの努力で他の結果に至ることもできたのだ。実際、我々が食事を用意したり、車を運転したり、読んだり書いたりするように、ほとんどではなくとも多くの我々の活動がどんな他人との直接交際もなく独りで静かに行われる。「他人への優しさ」に捧げられる時間は他のもっと価値がありうる事をするためには失われる時間である。そのうえ、優しさは保証をされなければならない。しかしなぜ私にとって不快な人々に対して私が優しくするべきなんだ? 無差別な優しさは褒むべき品行と咎むべき品行の区別を逓減させ、最終的には消滅させる。過剰な優しさというものは優しさに値しない人々に与えられ、値する人々にはわずかにしか与えられないだろうし、したがって、不快さの全体的な水準が上昇し、公共の生活はますます不快になるだろう。
そのうえ、現実の私有財産所有者に現実に邪悪なことをする真性の邪悪な人々もおり、もっと重要ながら、全リバタリアンが認めてきたとおり国家機構を担当する支配エリートがいる。あいつらに優しくする義理などない! にもかかわらず、「被害者」に余分の愛と配慮と注意を恵む際、まさにこれを成し遂げなければならない。実際には最も時間と努力を捧げるに値する人々へ向けてそういうものが少なくしか捧げられず、彼らに対して不快な行動を呈することになる。国家の権力は普遍的な「優しさ」によっては弱められず、そのときむしろ強められるだろう。
そして、他のあらゆる膨大な多数派に余分の優しさを負っているのが、なんで特に白人の異性愛的な男性の少数派で、わけてもその最も成功したメンバーなんだ? なんで逆じゃだめなんだ? 結局、現在どこでもかしこでも使われている技術的な発明も機械も道具もガジェットも、我々の現在の生活水準と快適さが大いにかつ決定的に依存しているものは、すべてではなくともほとんどが彼らに発明されたのだ。他の人々は概ねみな彼らが最初に発明し構成したものをただ真似たにすぎない。他人はみな発明者の生産物に具体化された知識をただで受け継いだのだ。そしてそれは、最大の資本財(富)の蓄積と最高の平均的生活水準をもって、かつて世界で見られたもののうち経済的に最も上出来な社会組織モデルである、父と母と彼ら共通の子供と将来相続者の典型的な白人階層的家族家計、および彼らの「ブルジョワ」的品行と生活様式、すなわち左派が見くびりけなすものじゃなかったか? そして、順調に増えつつある「被害者」の数が統合されて世界規模の分業ネットワークの利点に与かれるのは、「加害者」なるこの少数派の大いなる経済的達成でしか説明できないんじゃないのか? そして、いわゆる「代替的生活様式」が少しでも発生でき、時を経ても持続させられるのも、伝統的な白人ブルジョワ家族モデルの存在でしか説明できないんじゃないのか? 今日の「被害者」のほとんどはそしたら文字通り彼らの生活と彼らの現在の生活を彼らの申し立て上の「加害者」の業績に負っているんじゃないのか?
なぜ「被害者」が彼らの「加害者」に特別な尊敬を施さない? なぜ失敗の代わりの経済的な達成と成功に特別な名誉を授けない? いったいなぜ、「正常」な生き方の「正常」な人々の優勢な社会が先に周囲に存在することを自分の持続的存在の十分条件として要求するような異常で代替的な暮らし方と振舞い方ではなく、むしろ伝統的で「正常」な生活様式と品行に特別な賛美を申さない?
私は手短にこれらのレトリカルな疑問への明らかな答えを出すつもりだ。しかしながらその前に、「歴史的被害者」への特別な優しさという左派リバタリアンな助言における第二の――戦略的な――過ちが手短に焦点を当てられるべきである。
興味深いことに、左派リバタリアンと文化マルクス主義者の両方に同定される「被害者」集団は、「恵まれない」人々であり国家に補償される必要があるものと同定される集団とほとんど違いがない。これは文化マルクス主義者にとっては問題にならず、彼らがすでに獲得した国家機構の支配範囲の指標として解釈されることができるが、左派リバタリアンにとってこの一致は知的な懸念の原因であるはずだ。なぜ彼らが達したがる「加害者」による「被害者」の「非差別」という同じか似た目的を、たとえ手段が異なるとしても、国家もまた追及しているんだ? 左派リバタリアンは典型的にはこの疑問を忘れ去っている。けれども、ほんのいくらかの常識をもってれば誰にとっても答えが明らかであるに違いない。
各個人の人格に対する完全支配に達するために、国家は分割統治政策を追求するに違いない。それは他のあらゆる競争的な社会権威の中心を弱め、掘り崩し、究極的には破壊する。最も重要なことだが、伝統的で家父長的な家庭の家計を、わけても、妻と夫の、親と子の、女と男の間に紛争を誘発し立法することで、自治的な意思決定の中心としての独立した豊かな家庭の家計を弱めるに違いない。同じく――特定の家庭、エスニシティ、部族、民族、人種、言語、宗教、習慣、あるいは伝統に対しての――あらゆるヒエラルヒー的秩序と社会権威の階級、あらゆる排他的結社、あらゆる個人的な忠誠と愛着が、市民‐国民およびパスポート所持者としての所与の国家に対する愛着を例外として、どれも弱められるに違いなく、究極的には破壊されるに違いない。
そしてこれにとって反差別法を可決するより良い方法はない! 事実上、性差、性的志向、年齢、人種、宗教、民族的起源などなどに基づくあらゆる差別を禁止することによって、多くの人々は国家が保証した「被害者」であると宣言される。そしたら反差別法とは全「被害者」に対し彼ら自身の「お気に入り」の「抑圧者」をあら捜しして国家に不満を言うよう公式に要求するもので、わけても彼らのうちでもっと豊かな人々と彼らの「抑圧的な」策謀、すなわち彼らの「性差別」や「同性愛差別」主義、同属を偏愛する「ショーヴィニズム」、反移民的な「先住民保護主義」、「レイシズム」、「外人嫌い」もしくは他の何がしかを告発せよという正式な要求であり、国家がそのような不満に反応して「抑圧者」をやっつける。すなわち、国家が彼らから彼らの財産と権威をうまく取り上げつつ、それに応じてそれ自身の独占的な権力を拡張、強化し、相対的に、ますます社会を弱らせ、ばらばらに断片化して脱同質化することによって不満に反応する。
皮肉だが、奇妙な平等主義的被害者学を手にした左派リバタリアンは、国家を縮小したいし除去さえしたいという自己宣言的なゴールとは対照的にも、国家とグルになってその権力の増大に効果的な貢献をする。実際、左派リバタリアンの差別フリーで多文化的な社会のビジョンは、ピーター・ブライムローの言葉を使えば、国家のバイアグラなのである。
四
これが最後のテーマをもたらす。
左派リバタリアンが国家のバイアグラとして果たす役割は、移民についてのますます猛毒な問題に関する彼らの立場を考えるとき一層明白になる。左派リバタリアンは典型的には特に「自由で非差別的な」移民入国政策の熱烈な提唱者だ。もしも彼らが国家の移民入国政策を批判するならば、その入国制限が悪い制限だという事実のためではなく、すなわち、それらが自国市民の財産権を保護することに仕えないという事実のためではなく、それが何か少しでも移民制限を課すという事実のためである。
しかしどんな理由で無制限な「自由」入移民“immigration”への権利があるべきなんだ? すでに誰かに占領された場所へ移動する権利は、現在の占領者に招待されていないかぎり、他の誰にもない。そしてもしもあらゆる場所がすでに占領されているならば、あらゆる移民がもっぱら招待による移民でしかない。「自由」入移民への権利は処女地にしか、オープンフロンティアにしか存在しない。
この結論を得て、なおも「自由」入移民の概念を救おうとするには、二つの方法しかない。一つ目は、現在のあらゆる場所占領者と占領に道徳的疑惑をかけることである。この目的のために、現在のあらゆる場所占領が、先立つ国家行為、戦争と征服に影響されてきたという事実から、多くの話が作り出される。そのとおり、国家境界は引かれ、引き直されてきたし、人々は追い出され、他界し、殺され、そして再殖民されてきたし、国家出資インフラ事業(道路や公共輸送施設など)はほとんどすべての立地の価値と相対価格に影響し、それらの間の移動距離と費用を変更してきた。しかしながらわずかに異なる文脈ですでに説明されているとおり、この異論の余地なき事実からは、あらゆる現在場所占有者が(もちろん彼がその場所を所有するか、その現行所有者からの許可証をもっているとき以外、)あらゆる他の場所へ移住する権利をもっているとはならない。世界は誰にも属していない、とはならないのだ。
二つ目の可能な方法はいわゆる公共政策――地方か地域か中央の政府に支配された財産――が自由で無制限のアクセスを伴うオープンフロンティアと同類であると主張することである。けれどもこれはまったく誤っている。政府財産が先行搾取に基づいているから正統ではない事実からは、それが未所有であり万人に対して自由である、という話は出てこない。それは地方や地域や民族や連邦への納税で出資されてきたから、全公共財産の正統な所有者である人は他でもないこれらの税の支払人である。彼らは権利を行使できない――この権利は国家に横領されている――が、しかし彼らこそが正当な所有者である。
あらゆる場所が私的に所有された世界では、入移民問題は消滅する。そこには入移民する権利は存在しない。そこには取り引きし、買い取り、また借り入れる権利だけが存在する。けれども公共財産が地方や地域や中央の国家‐政府に管理される現実世界での入移民についてはどうなのか?
何よりもまず、もしも国家が想定どおりに納税者所有者の公共財産の信託者として行為するならば、移民政策はどのようなものだろうか? もしも国家が、家計結社やゲート共同体のメンバーに共同で所有され出資された共同体財産の管理人のように行為するならば、入移民はどうなるのか?
少なくとも原理的には答えは明らかだ。入移民に関する信託者のガイドラインは「完全費用」原理であろう。すなわち、移民、または彼を招待した居住者は、移民の在留期間に彼が使用するすべての公共財や施設に完全費用を支払うべきだ。居住納税者に出資された共同体財産の費用は上げられるべきではないし、またはその品質が移民の在留のせいで落とされるべきではない。対照的だが、移民の在留はできれば居住者所有者に対してもっと低い税や共同体料もしくは共同体財産のもっと高い品質(および、ゆえに全般的なもっと高い財産価値)などの形で利益を生むべきである。
完全費用原理の適用が詳細において含むものは、歴史的環境、特に移民圧力に依存する。もしも圧力が低いならば、公道への初入場は「外人」に対して全体的に無規制であるかもしれず、移民に関するかぎり全費用は国内居住者によって国内利益の期待に完全に吸収される。あらゆる更なる差別は個別の居住者‐所有者に残されるだろう。(これは偶然にも西洋世界で第一次世界大戦まで実に多く存在した状態である。)しかしそれから、移民が公的な病院や学校や大学や家屋やプールや公園などを使用するところまで同じ寛容さが拡張されることはほとんどありそうにない。そのような施設への入場は移民に「自由」ではないだろう。対照的にも、国内税負担を下げるために、移民はその使用に際してそれらの施設に出資してきた国内居住者‐所有者より高い価格を徴収されるだろう。そしてもしも一時的な訪問者‐移民が永久居住者になりたいならば、彼らには、共同体財産の余分使用の補償として現行所有者に送るべき入場許可料を支払うことが期待されていい。
他方、もしも――西洋白人異性愛男性が優勢な世界での現況のように――移民圧力が高いならば、国内居住所有者の私的かつ共有的な財産を保護するという同じ目的のためにもっと制限的な対策が用いられてよい。既知の犯罪者や望ましからぬ人間のくずを入れないために、身元照合“identity controls”は通関だけにあるかもしれないし、地方水準にもあるかもしれない。個人的居住者‐所有者の私有財産の使用に関して彼らが訪問者に課す特別規制は別として、またもっと一般的な地方入場制限が存在していい。幾つかの特別に魅力的な共同体は居住者‐所有者に送るべき(居住者が招待したゲストを除いた)全訪問者に入場料を請求するかもしれないし、全共同体財産に関する一定の品行コードを要求するかもしれない。そして幾つかの共同体への永久所有‐居住の要件は非常に規制的であり、今日も幾つかのスイス共同体で実例があるように、徹底的なスクリーニングと並外れた入場料を含むかもしれない。
しかしもちろん、これは国家がすることではない。入移民の最高圧力に直面するアメリカと西ヨーロッパの国家移民政策は信託者の行為にはほとんど似ていない。彼らは完全費用原理に従わない。彼らは移民に対して「払い切るか出て行け」と本質的に告げることがない。対照的にも、彼らは彼に「いったん入ったら、たとえ支払い切らなくても滞在することができるし、しかも、すべての道路だけではなく、すべての種類の公共施設とサービスを自由にか割引価格で使用することができる」と告げる。つまり、彼らは移民を援助する――あるいはむしろ:彼らは国内納税者に彼らを援助するよう強いる。とりわけ、彼らはまた格安外国人労働者を輸入する国内雇用者をも援助する。なぜならばそのような雇用者は彼らの雇用に関わる総費用――彼の外人被雇用者による居住者公共財産と施設すべての自由使用――の一部を他の国内納税者に外部化できるからだ。そして彼らはなお、全内的地方入場制限だけではなく、また全国内私有財産の入場と使用に関する増加中の全制限をも――非差別法の手段で――禁止する際に、居住者‐納税者の費用で移民(内的移民)をさらに援助する。
そして訪問者としてでも居住者としてでも、移民初入国について、(信託者が、そして私財所有者の皆が彼自身の財産に関して個人的特徴を差別する一方で、)国家が差別するのは個人の特徴ではなく、人々の集団や階級に基づいて、すなわち、国籍やエスニシティなどに基づいて差別する。移民の身元確認や、借金のような行動確認や、可能な入場料徴収のような一様な入国基準は彼らは適用しない。その代わり、彼らは幾つかの外国人階級にどんなビザも要求せず、まるで彼らが帰国した居住者であるかのようにただで入国を許す。かくしてたとえばルーマニア人やブルガリア人はみな彼らの個人的特徴にかかわらず自由にドイツやオランダに移住することができ、彼らには支払いきれず、ドイツ人やオランダ人の納税者に支出で暮らす形になってでも、公共の財と施設をすべて使用することができる。アメリカ合衆国と合衆国納税者に対するプエルトリコ人にとっても、またメキシコ人にとっても同様であり、彼らは事実上招かれざる身元知れずの侵犯者としてアメリカ合衆国へ非合法に入国することを許されている。他方で他の外国人階級は面倒なビザ規制の服している。かくしてたとえばトルコ人は、またもや彼らの個人的特徴にかかわらず、脅しのビザ手続きで不愉快な経験をせざるをえず、たとえ彼らが招かれており、彼らの在留にかかる全費用を支払うに十分な資金をほしいままにできたとしても、ドイツやオランダに旅行することを妨げられる。
かくて居住する所有者納税者は二度損ねられる:まず、支払うことができない移民階級を無差別に包括することによって。そして、支払うことができる他の移民階級を無差別に排除することによって。
しかしながら左派リバタリアンはこの移民政策のことを、究極的には私的国内納税者‐所有者に所有された公共財産の信託者のものとは対照的であると批判しない。すなわち、完全費用原理を適用しないせいで間違った差別をしているからではなく、そもそも差別することを批判する。彼らにとっては自由な非差別入移民とはビザなき入場と永遠の居住が滞在の完全費用を支払う個人的な特徴や能力にかかわらず等しい条件で各潜在的移住者、つまり万人にできることを意味する。誰もがたとえばドイツやオランダやスイスやアメリカ合衆国に留まるよう招待され、誰もが国内公共施設とサービスのすべてを自由に使用するのだ。
左派リバタリアンが偉いのは、この政策が現在の世界に来たす帰結のいくつかを認識しているところである。もしも国内の公共の財産とサービスの使用に関する他の内的または地方的な入国制限がなく、また(無数の反差別法のおかげで)国内私有財産の使用に関するすべての入国制限がますますなくなるならば、予言可能な結果は第三・第二世界からアメリカと西ヨーロッパへの移民の大量流入であろうし、現在の国内「公共福祉」システムの速やかな腐敗であろう。税金は(生産的経済のさらに縮小させながら)厳しく増やされざるをえないだろうし、公共の財産とサービスは劇的に品質を低下させられるだろう。空前絶後の大規模な財政危機が結果となるだろう。
それにもかかわらず、なぜこれが自身をリバタリアンと呼ぶ者にとって望ましいゴールなのだろうか? そのとおり、税出資の公共福祉システムは根から葉まで除去されるべきだ。しかし「自由」移民政策がもたらすだろう不可避の危機はこの結果を生み出さない。対照的だが:何となく歴史に通じている誰もが知っておりとおり、危機は典型的には国家に利用され、自身の権力をさらに増加するため、目的をもって頻りに捏造される。そして「自由」移民政策で生み出された危機が途方もないものであろうことは確かだ。
左派リバタリアンがその無頓着において、または予言可能な危機に共感的ですらあるその評価において典型的に無視することは、腐敗の原因になった移民が腐敗の発生時に物理的に存在しているという事実である。左派リバタリアンにとっては、その平等主義的な先入観のせいで、この事実が問題を含意しない。彼らにとっては、あらゆる人々が多かれ少なかれ平等であり、ゆえに移民数の増加は高出生率での国内人口の増加以上のインパクトはない。しかしながら、社会的な現実主義者全員にとって、実際、常識的な判断力を備えた者全員にとっては、この前提は明らかに偽であり潜在的に危険である。ドイツに住む百万人以上のナイジェリア人やアラブ人、また、アメリカ合衆国に住む百万人以上のメキシコ人やフツ人やツチ人は、数百万人以上の国産のドイツ人やアメリカ人とは非常に異なっている。第三、第二世界の移民数百万人のプレゼントで危機が起こり、小切手が入ってくるのがやむときに、平和な結果が生じ、自然な私有財産に基づく自然な社会秩序が発生することは、まるでありそうにはない。むしろ、内戦と略奪、公共物の破壊、および部族的またはエスニックな暴力団抗争が始まり、有力な国家への要求がますます間違いないものになることの方がはるかにありそうであり、実際ほとんど確実である。
では、国家はなぜ左派リバタリアンの「自由」移民政策を採用せず、自身の権力をさらに強化するはずの予言可能な危機に提供される機会を掴み取らないのか? と人は問うかもしれない。国家はその内的非差別政策とまたその現在の移民政策をとおして、すでに国内人口をばらばらにしてしまっており、それで自身の権力を増加させている。「自由移民」政策は非差別的「多文化主義」というもう一つの甚大な服毒物を加えるだろう。それは社会的な脱同質化と分割と分断の傾向をさらに強めるだろうし、伝統的な、白人の、異性愛的な、男性優勢の、「ブルジョア」社会秩序と「西洋」に関わる文化をさらに弱めるだろう。
「いいんじゃない?」のような答えは頭がおめでたい。支配エリートは左派リバタリアンとは対照的であり、予言可能な危機が国家成長への大きな機会に加えてまたいくつかの計算不可能なリスクをも含意することと、彼ら自身が権力を掃き払われて、権力を他の「外国の」エリートに挿げ替えられるような釣り合いの社会的激動へと導きうることを認識できる程度にはまだ十分現実的なのだ。したがって、支配エリートは「非差別的多文化主義」への道を一歩ずつ段階的にしか進まない。けれども彼らは左派リバタリアン「自由移民」プロパガンダに関しては喜んでいる。なぜならば、それは現在の分割統治の道に留まるだけではなくこれを加速的なペースで進めるように国家を助けるからだ。
奇妙な左派リバタリアン被害者学と、潜在的入移民としての全外人を含む長くて馴染み深い歴史的「被害者」リストに関する、その無差別的な親切さと包括性への要求は、彼ら自身の反国家主義的な宣言や見せ掛けとは対照的にも、実際には国家権力の更なる成長のための処方だと判明する。文化マルクス主義者はこれを知っており、そういうわけで彼らはちょうど同じ被害者学を採用しているのだ。左派リバタリアンは明らかにこれを知らず、かくて文化マルクス主義者の全体主義的社会統制への行軍における使えるバカをやっている。
五
結論に至ろう。リバタリアニズムに、そして左派と右派の話に戻ろう――それによって、ついには左派の奇妙な被害者学とその重大さに関わるさきのレトリカルな質問に答えよう。
あなたは一貫した左派リバタリアンではありえない。なぜならば、左派リバタリアンな学説は、たとえ非意図的だとしても、国家主義的な、すなわち非リバタリアンな目的を促進するからだ。ここから、多くのリバタリアンがリバタリアニズムとは左派でも右派でもないという結論を引き出してきた。これは「薄い」リバタリアニズムだと。私はこの結論を受け入れない。またマレー・ロスバードも「しかし心理学的にも、社会学的にも、実践的にも、この方法では到底うまくいかない」と最初に引用した発言で締めくくったとき明らかに受け入れていなかった。実際、私は己を右翼のリバタリアンだと――あるいは、もっと魅力的に聞こえるなら、現実的な、または常識的なリバタリアンだと――、そしてこの点で一貫したものだと見なしている。
そのとおり、リバタリアンな学説は純粋に先験的かつ演繹的な理論であり、そのようなものは、人間的不平等の範囲と原因に、つまり存在に関する右翼と左翼の競争的な主張については何も言わないし何も含意しない。これは経験的な問題だ。しかしこの問題で左派は大いに非現実的であり、間違っており、どんな常識も欠いている一方で、右派は現実的であり本質的に正しく、分別がある。したがって、現実的な、すなわち、根本的に右翼的な世界記述に対して、いかに平和な人間的協調がありうるかに関する先験的で正しい理論を適用することは何も間違っていないということは可能である。人についての正しい経験的な仮定に基づくだけで、リバタリアン社会秩序の実際の実行と持続可能性に関する正しい評価に至ることが可能だからだ。
右翼のリバタリアンは現実的にも、物理的かつ心的な能力が各社会の内側の多様な個人に不平等に分配されており、したがって各社会は社会的な満足と多くの業績と権威の階級に関して無数の不平等に特徴付けられるだろうと認識するだけではない。彼はまた、そのような能力が世界に共存する多くの異なる社会の間でも不平等に分配されており、したがって全体としての世界もまた地域的かつ地方的な不平等と不等価と階層化と階級秩序に特徴付けられるだろうことを認識する。個人についてと同じく、すべての社会は平等でも互いに同等なわけでもない。彼はさらに、任意の所与の社会と異なる社会間の両方の内部で、これらの不平等に分配された能力には、また、平和的協調の要件と利益を認識する心的能力があることにも気づく。そして彼は、多様な地域的または地方的な国家と、異なる社会から生じたそれぞれの権力エリートが、そのような社会でのリバタリアン原理の認識からの多様な逸脱の程度の良い指数として用いることができるとも気づく。
もっと具体的に言えば、彼は現実的にも、リバタリアニズムが知的システムとして、西洋世界において、白人男性によって、白人男性が占めた社会で最初に発達させられて、もっとも精巧に練り上げられたことに気づいている。リバタリアン原理の固持が最も高潔であり、(比較的に邪悪でなく強奪的でない国家政策に示されるとおり)そこからの逸脱が最も深刻でないところの、白人の異性愛者の男性が占めた社会においてであることにも。もっとも偉大な創意と産業と経済的な勇気を実演してきた、白人の異性愛者の男性であることにも。そして白人の異性愛的な男性によって、わけても、最大量の資本財を生産して蓄積し、最高の生活水準を達成した、彼らの間でもっとも成功した人々によって占められた社会であることにも気づいている。
この灯火において、右派リバタリアンとして、私が私の子供たちと生徒たちに最初に言うことはもちろんこうだ。つねに他人の私有財産権を尊重し、侵害するな、そして国家を敵だと認識しろ、実に私有財産テーゼの反定立そのものと認識しろ。しかしそこで終わりにはしない。いったんあなたがこの要件を満たせば「何だってまかり通る」のだとは私は言わない(し、黙って仄めかしもしない)。これこそまさに「薄い」リバタリアンが言っていそうなことだ! 私はほんとんどの「薄派」リバタリアンが少なくとも暗にそうであるような文化相対主義者ではない。代わりに、私は(最低でも)次のとおり言い加えよう。なんであれあなたを幸せにするものであれ、そして幸せにすることをせよ、ただし、あなたが世界分業の統合的部分であるかぎり、あなたの存在と福利は他人の継続的存在に決定的に依存しており、わけても、白人異性愛男性の支配的な社会、彼らの家父長的家庭構造、および彼らの有産的または貴族的な生活習慣と品行に依存していることを、つねに覚えておけ。ゆえに、たとえあなたがこのどこにも加わりたくなくても、それにもかかわらず、あなたがこの標準的な「西洋的」社会組織モデルの受益者であることを認識しろ、ゆえに、あなた自身のために、それを蝕むようなことはせず、むしろ、尊敬され保護される何かとしてのそれの支えとなれ。
そして「被害者」の長いリストについて私が言うことは、あなた自身の事をせよ、あなた自身の人生を生きろ、ただし、あなたがそれを、他人の私有財産権を侵害せず、平和的になすかぎり、である。あなたが国際分業に統合されるかぎり、あなたは誰にも賠償を負わないし、誰もあなたに賠償を負わない。人を「加害者」だとあなたが思っている者とのあなたの共存は相互に有益である。しかし、人を「加害者」はあなたなしで生きて事をなすことができるだろう一方で、たとえもっと低い生活水準であろうさえ、逆は真ならず、と覚えておけ。「加害者」の消滅はあなた自身の存在そのものを危うくするだろう。ゆえに、たとえあなたは白人男性文化に差し出される例を自分のモデルにしたくなくても、あらゆる代替的文化が現在の生活水準に維持されうるのはこのモデルの継続的存在のおかげでしかないことと、世界的に効果的な主導文化“Leitkultur”としての「西洋」モデルが消滅することをもって、あなたの仲間の「被害者」は、全員ではなくとも多くが危険に晒されるだろうことは、承知しておけ。
これはあなたが白人男性優勢世界たる「西洋」に無批判になるべきだということを意味しない。結局、このモデルにもっとも緊密に従うこれらの社会にさえ、それ自体の国内財産所有者に対する侵害だけではなく外人に対する侵害という非難すべき侵略行為に責任を負うさまざまな国家がある。しかしあなたが住むところであれ他のどこであれ、国家を「人民」と混同してはならない。あなたの尊敬に値し、そしてあなたが受益者であるところのものは、「西洋」国家ではなく、全体主義的社会支配に向かって疾走するまさに彼ら「自身」の国家支配者によるますます激しい攻撃の下にすでにある、西洋「人民」の「伝統的」(正常、標準的など)な生活様式と品行である。
[1] Egalitarianism and the Elites, Review of Austrian Economics, 8, 2, 1995, p. 45.
[2] マレー・ロスバードは彼らをリストにしていた:。「学会の研究者、世論の作り手、ジャーナリスト、著述家、メディアエリート、ソーシャルワーカー、官僚、カウンセラー、心理学者、人事コンサルタント。わけても、かつてなく加速する新平等主義集団、『セラピスト』とセンシビティ訓練者とかいう紛れもなく軍隊である集団。くわえてもちろん、平等化する必要のある新集団を考え出して発明するイデオローグと研究者」。(Ibid, p. 51)
[3] 今日のいわゆるリバタリアンで左翼に数え入れられるべき者に関するかぎり、リトマス試験が存在する。国民的はおろか国際的な注目と認知さえ得た、最も純粋なリバタリアンであることに疑問の余地なきロン・ポール先生の近頃の大統領選期間に、各人がとった立場がそれだ。ケイトーとジョージ・メイソンとリーゾンなどのさまざまな「コクトパス」一団あたりのベルトウェイ・リバタリアンはロン・ポールを却下し、あるいことか彼を「レイシスト」だの社会的「感受性」や「寛容さ」の欠如だのと攻撃した。すなわち、際立った「右翼ブルジョワ」であり、人格的にも職業的にも模範的な人生を送っている、と。
[4] Ibidem, p. 102
[5] この主題について、Hans-Hermann Hoppe, “Of Private, Common and Public Property and the Rationale for Total Privatization,” Libertarian Papers, Vol. 3., No.1, 2011. http://libertarianpapers.org/articles/2011/lp-3-1.pdf[ハンス=ハーマン・ホップ『私有、共有、公有財産および総私有化のラショナールについて』]を見よ。
[6] リバタリアニズムから「市民権」の混乱した概念をとおしてクローゼット社会主義へのこのステルスな変形は、らしいことだが、数十年前にすでにマレー・ロスバードによって確認されている。彼を引用すると。「〔左派リバタリアンたちの〕公式リバタリアン運動のあちこちで『市民権』が異論なしで信奉されてきており、真正の私有財産権を完全に圧倒している。いくつかの場合には、『差別されない権利』の信奉が明示的であった。他の場合では、リバタリアンが新発明をもっと古い原理に一致させたがって、しかも屁理屈や不条理に何の反感もないとき、“American Civil Liberties Union”に照らされた卑劣な道を通る:もしも、ほんのわずかでも政府の関与があるはずならば、それが少しでも納税者の出資や公道の使用であれ、いわゆる『平等なアクセス』の『権利』が私有財産を圧倒し、また実にあらゆる種類の良識を圧倒すべきなのだ、と」。 Ibid, pp. 102/03.
(出典: propertyandfreedom.org)