右翼のための戦略

マレー・N・ロスバード 「右翼のための戦略」(1992年、『ロスバード=ロックウェル・レポート』)

オールド・ライトが出し抜けに帰ってきた! これのことは一九三三年から約一九五五年まで存在した右翼である「オリジナル」右翼と呼ぶことにしましょう。オールドとニューという用語は数年ごとに新しい「ニュー」があるせいで混乱が避けられないからです。このオールド・ライトはニューディールに対する反動の際にあのニューディールの本質だったリバイアサン国家大躍進に対する反動に際して形成されました。

この反ニューディール運動は三つの集団の連合でした。(一)H・L・メンケンとアルバート・ジェイ・ノックとローズ・ワイルダー・レインとガレット・ガレットのような「過激派」、個人主義者、リバタリアン、(二)メリーランドのアルバート・リッチー知事やミズーリのジャームズ・A・リード議員のような十九世紀民主党のレッセフェールの見解に耳を傾ける右翼民主党員、それと(三)穏健なニューディール派だがルーズベルトのニューディールは行き過ぎだと考えた人々、たとえばハーバート・フ-バー。面白いことは、たとえリバタリアンな知識人は少数派だったにせよ、彼らが討論の条件とレトリックを定めることを余儀なくされたことでした。なぜならばただ彼らのイデオロギーだけがニューディールと徹底的に対照的だったからです。

ニューディールについて最も急進的な見解を発したのは、リバタリアンなエッセー家かつ小説家にして『サタデー・イブニング・ポスト』の編集者たるガレット・ガレットでした。1938年に出版された彼の輝ける小さなパンフレット『革命があった』は次の鋭い言葉で始まりました――決して完全には右派に吸収されなかったろう言葉で。

彼らは道の上に来ている革命バスに逆らって通行権を握りしめているのだとなおも考える人たちがいる。しかしこの人たちは間違った方向を見つめている。革命は彼らの後ろにあるのだ。自由の歌を歌いながら、陰鬱の夜が過ぎていった。

革命はあった。ゆえに、ガレットが言ったとおり、国を元に戻すための反革命以上のものは必要ではありませんでした。ほら、「保守的」じゃなくて急進的な右翼です。

一九三〇年代後半には、この国内ニューディールへの反動に加えて、ニューディールの外交政策への反動が行われました。ヨーロッパとアジアでのしつこい戦争駆り立てに対する反動です。ゆえに、右翼は外国大政府への反動に加えて国内大政府への攻撃を行いました。一方が他方を養った。右翼は国内問題への不干渉と同様に外国への不干渉も要求しましたし、ウッドロー・ウィルソンの第一次世界大戦でかなりの破壊性が証明されたグローバル・クルーセイドがFDRによって採用されたことに対しても非難を発しました。オールド・ライトはウィルソンとルーズベルトのグローバリズムに対してアメリカ・ファースト政策で反撃しました。アメリカ外交政策は、――大英帝国のような――外国権力の利益に基づくべきではないし、また「世界の民主主義を保障する」や「あらゆる戦争を終結させるための戦争」のような抽象的なアイディアに仕えるべきでもない、と。どちらもチャールズ・A・ビアードの予言的な言葉でいう「永遠の平和のための永遠の戦争」に相当するだろうからです。

そしてオリジナル右派は国内問題でのリバイアサン国家との闘争を完成させました。それは福祉戦争国家に「NO!」と言ったのです。外交政策にこのリストを加えた結果は、メンバーの幾人かのリシャッフルでした。一方ではルイス・W・ダグラスのような、国内ニューディールに反対し、いまや国際主義者として復帰した前右翼が。他方ではベテラン孤立主義者の上院議員ボーラとナイまたビアードやハリー・エルマー・バーンズやジョン・T・フラインが、外国ニューディールに対する彼らの決然たる反対の道程で、徐々にだが着実に国内右翼になっていました。

オールド・ライトが反対していたものが分かりましたが、彼らが賛成していたものは何だったのか? 一般的な言い方では、彼らは私有財産権の防衛に厳格に制限された政府の、つまりオールド共和党の自由の回復に賛成していました。具体的な意見については、どの広い連合体でもそうなるように、この全般的枠組み内でも違いがありました。しかし我々はこの疑問に対するこれらの違いをこう煮詰めることができます。君は既存の政府をどれぐらい廃止したい? 政府をどこまで撤退させたい?

ほぼすべてのオールド・ライトが同意し、実質的にオールド・ライトを定義するところの最小限の要求は、ニューディール全廃、福祉国家の一切合財の廃止、ワグナー法と社会保障法の廃止、一九三三年の金貨持ち逃げの廃止、そして残りのすべても完全に廃止することでした。これ以上のところにはチャーミングな不同意がありました。幾人かはニューディールを廃止するところで終わるでしょう。他の人たちは引き続き、連邦準備制度と特に強力な暴政装置、所得税と国税庁を含めて、ウッドロー・ウィルソンのニューフリーダムの廃止まで突き詰めるでしょう。なおも他の人たち、というのは私自身のような過激派のことですが、彼らは一七八九年の連邦管轄法を撤回するまで止まらないでしょうし、おそらく古き良き連合規約の回復という考えられないものさえ考えます。

私はここで止まり、容認神話とは対照的にも、オリジナル右翼が第二次世界大戦への我々の参戦によって消滅などせず信用を傷つけられもしなかった、と言わなければなりません。対照的にも、一九四二年議会選挙――学者に無視される選挙――は保守主義的共和党員だけではなく孤立主義的共和党員にとっても同様に重大な勝利でした。たとえ知的右翼世論が書籍わけてもジャーナルで実質的に第二次世界大戦期間に汚されていたとしても、右翼はなおも政治や『ハースト』紙や『ニューヨーク・デイリー・ニュース』わけても『シカゴ・トリビューン』のような新聞で健全なままだったのです。第二次世界大戦後には右翼の知的復活がありましたし、オールド・ライトは一九五〇年代中頃まで健全なまま残っていました。

オールド・ライトの全般的なコンセンサスの中で、この枠組み内にも意見の相違が多かったのですが、この相違は注目に値するほど友好的で調和的なままでした。実に奇妙ですが、現行のパレオ運動内にもちょうどこの友好的な相違があります。自由貿易か保護関税か、移民政策はどうか、「孤立主義」政策内では、私自身のような「ドクトリネール」孤立主義であるべきか、それともアメリカ合衆国は常習的に西半球やラテンアメリカの近隣諸国へ干渉すべきか。あるいは、この国民主義的政策がこれら多様な代案の間で柔軟に用いられるべきか否か。

他の違いは、これもいまだ存在するものですが、もっと哲学的なものです。我々はロック主義者か、ボッブズ主義者か、バーク主義者か。自然権論者か、伝統主義者か、功利主義者か? 政治的な枠組みでは、君主主義者か、チェックアンドバランス連邦主義者か、急進分権主義者か? ハミルトン主義者か、ジェファーソン主義者か?

一つの違いは、一枚岩のバックレー主義者がすべての討論をまんまともみ消しおおせてしまう以前に右翼を揺り動かしたもので、特に右翼の戦略に関連していました。マルクス主義者は彼らの運動の戦略に関する思考に多大な時間を費やしてきましたが、つねにこの疑問をもっています。社会的な変化の媒介は誰か? どの集団が社会での望ましい変化をもたらすと期待されうるか? 古典的なマルクス主義者は安易に答えを出しました。プロレタリアだ、と。そしたら物事はもっと複雑になります。農民か、抑圧された女性か、少数派か、などなど。

右翼に関連する疑問もこのコインの裏面にあります。誰を悪者と期待していいのか? 誰がネガティブな社会的変化の媒介か? あるいは、社会のどの集団が自由への最大の脅威を引き起こすのか? 基本的に、右翼の側には二つの答えがあります。(一)下々の大衆、そして(二)権力エリートです。私はこの疑問にすぐ立ち戻るつもりです。

オールド・ライトの多様性に関する疑問と彼らの意見の相違について、私はトム・フレミングが『クロニクル』で示した所見に心を打たれました。トムは、オールド・ライトには政党方針がなかったこと、異端を破門する人物や雑誌がなかったこと、感嘆すべき多様性と討論の自由があったということに感銘を受けたと記しました。アーメン! 言い換えれば『ナショナル・レビュー』がなかったんですよ。

文化に関するオールド・ライトの立場は何だったか? 特定の立場はありませんでした。みんな古い文化に染まっていたし、それを愛していたからです。文化はオールド・ライトの側でもどこでも問題として討論するものではありませんでした。もちろん彼らは、我々の文化で急激に取り沙汰されだした、認可されており広く認められる被害者学にはぞっとさせられてきましたし、これに疑い深かったでしょう。五十年後にはラテンアメリカ系が彼らの人口割り当て枠で選出されるために連邦裁判所が国中の選挙区になるだろうなんて一九五〇年のオールド・ライトに示唆するような者は誰であれ精神病院にぴったりの候補と見なされていたことでしょう。当然でしょう。

そしてこの話題が一九九二年に出てきたせいで私はこう言うよう魔が差しております。ご復唱お願いします。コロンブスが、アメリカを、発見した!

多様性狂であれ、私がこの話題に許す唯一の修正主義はアメリカを発見したのがコロンブスか、それともアメリゴ・ヴェスプッチか、です。

哀れなイタリア系アメリカ人よ! 彼らは被害者の地位にありと公認されるには間に合いませんでした。彼らが唯一勝ち得たものはコロンブス・デー。そして今もこれを持ち帰ろうとしているのです。

個人的な話をしてもよろしいでしょうか。私がオールド・ライトに加わったのは一九四六年のことでした。私は共産主義文化としか称しえないニューヨーク市のど真ん中で育ちました。私の親類、友達、学友、ご近所さんは、ニューヨーク中流階級ユダヤ人として、一生にたった一度の道徳的な大決断を迫られていました。彼らは共産党に加盟して、この大義に彼らの生涯を100パーセント捧げるべきか、それとも同調者に留まり彼らの生涯をちょっとだけ捧げるべきか。これが討論の大部分でした。

私には二組の叔父と叔母がおり、家のどちら側も共産党に入っていました。高齢な方の叔父は伝説的なモスクワ鉄道を建設するのを手伝ったエンジニアであって、若い方の叔父は共産主義者に支配された薬物労働者組合の編集者をやっており、有名なフォナー兄弟の一人に従っていました。しかしローザンヌ・バール・アーノルドやウィリアム・F・バックリー二世のように自分が児童虐待の被害者だったと主張するまねは私はしない、と急いで言い加えましょう。(バックリーの主張とは、父との夕食の席で彼が無関心型の反ユダヤ主義の大罪を犯していたというものです。)

対照的にも、私の父は個人主義者で、つねに力強い反共産主義者かつ反社会主義者でありました。彼は一九三八年にニューディールに反対しました。というのはそれが不況を矯正することに失敗してきたからでした――実に良いスタートですよね。私の高校と大学のキャリア、コロンビア大学で、私はあれほど強烈に右傾的だった共和党員に会ったことがまったくありません。

ところで、私がダニエル・ベルとアーヴィング・クリストルなどより数歳若いことは認めるとしても、当時、私は第二次世界大戦後に大学院に行くまでレフ・トロツキーましてやトロツキストのことなど聞いたことがまったくなかったと言わなければなりません。私はまあまあ政治的に意識が高い方でしたが、当時のニューヨークで「左翼」が意味していたのはかの共産党以外の何ものでもありませんでした。なので私は、クリストルたちがしていることとは、私立大学のカフェテリアのアルコーブでのトロツキー派とスターリン派のディベートの宇宙規模の重要性とかいう大層な伝説を作ることだと思っています。私に言わせれば、トロツキストは一握りの学会研究員しかいませんでした。ところで、ニューヨークの左派界隈には知覚鋭い格言がありました。トロツキー派はみな学会に行き、スターリン派は不動産業に入った。おそらくこういうわけでトロツキストが世界を駆けまわっているんだ、と。

コロンビア大学には共和党員は二人しかおらず、私がその一人で、もう一人は私とほとんど共通点のない文学専攻の人でした。それだけではなく、コロンビアのようなコスモポリタンな場所としては注目すべきことに、或る時、高名な政治家学者にしてコロンビア大学の学長であったローレンス・チェインバリンは共和党員にまったく出会わなかったと認めました。

私は一九四六年から政治的に活発になり、ニューヨーク青年共和党員に加入しました。あいにくにも、ニューヨークの共和党員は大した改善ではありませんでした。デューイ・ロックフェラーの力が党の極右を構成しており、彼らのほとんどがスタンリー・アイザックスのような元共産党員かジェイコブ・ジェイヴィッツのような社会民主主義者でした。しかしながら私は青年共和党員のために価格統制と地代統制を非難する記事を執筆するのを楽しんでいました。共和党の一九四六年議会の占領後、私は有頂天になっていました。私の初めての発表物は共和党優勢の第80議会がついに全ニューディールを撤廃するだろうと大喜びする『ニューヨーク・ワールド=テレグラム』の「ハレルヤ!」レターでした。一九四六年のころの私の戦略的明敏についてはこんなものでしょう。

とにかく、私はオールド・ライトに出会い、そこでの十年は幸せでした。私は『シカゴ・トリビューン』を数年間購読して喜んでいまして、そのニュース記事はすべて偉大なオールド・ライトの迫力と分析に満ちていました。ウィルソン派・ルーズベルト派のキメラに惚れ込んだI・F・ストーンと共産党を除けば、朝鮮戦争に対する唯一の組織的反対が左翼ではなく、いわゆる極右であったこと、特に衆議院の極右であったことは、今では忘れられています。

右翼の指導者の一人は私の友達のハワード・バフェットで、オマハからの議員であり、彼は純粋なリバタリアンで、化け物じみた一九五二年共和党大会でタフト党員議員の中西部選挙活動マネージャーを務めていました。当時はアイゼンハワー=ウォール・ストリート陰謀団がロバート・タフトから当選を掠め取っていました。その後私は共和党を去って、今年ブキャナンの選挙活動のためにようやく戻ってきたところです。私は一九五〇年代の頃に目に入った右翼第三党のすべてに加わりましたが、そのほとんどは第一回会合の後に腐敗しました。私はアンドリューズ・ワーデル公認立候補の、オールド・ライト最後の大統領選の推力を援助しましたが、残念ながら彼らはニューヨーク市でこれを束ねられませんでした。

私のオールド・ライトでの個人的な活動への脱線から、戦略的な疑問の鍵に戻りましょう。主な悪者は誰だ。下々の大衆か、権力エリートか? すぐに結論しますが、大いなる脅威はエリートであって、大衆ではありません。というのは次の理由によります。

第一に、大衆とはありうるかぎりの最悪の存在であり、彼らは永遠に何としてでも誰がしかを街道でリンチしようと必死こいているということが一瞬でも保証されたとしても、大衆には単純に政治や政治的偽りのための時間がないのです。平均的な人物は時間のほとんどを人生の日々の仕事に費やさなければなりませんし、彼の家族とともにいたり、彼の友達と会ったりしています。彼は政治に関心をもつだけか、それにときどき参加できるにすぎないのです。

政治に時間を裂ける唯一の人々は専門家でして、官僚、政治家、政治支配に依存する利権集団です。彼らは政治で金を稼ぐので猛烈な利害があり、ロビー活動で一日二十四時間活動します。したがってこれら利権集団は利益なき大衆に勝つ傾向があります。これは公共選択経済学派の基本的な洞察です。政治にフルタイムで利害をもつ他の唯一の集団は我々のようなイデオロギストであり、またも人口のほとんど大きくない部分でしかありません。なので問題は支配エリート、専門家、彼らに依存する利権集団なのです。

第二の決定的な要点ですが、社会は支配エリートへ分割されており、彼らは必然的に人口の少数派であって、第二の集団を食らって暮らしてします――人口の残りを貪って、です。ここで私は政治哲学についてのこれまで書かれた中で最も輝かしいエッセーの一つ、ジョン・C・カルフーンの『政府論説』を指摘しましょう。

カルフーンは政府と課税というまさにその事実が二つの大階級間に固有の紛争を創出することを指摘します。すなわち、税を払う者たちと、彼らで生計を立てる者たち。純納税者対税消費者です。カルフーンが書き留めるには、政府がもっと大きいほど、これら2つの特別階級間での紛争がもっと大きくなり、もっと激しくなります。ところで、私はカリフォルニアのピート・ウィルソン下院議員のことを決して優れた理論家とは考えませんが、彼は或る日、どうもうっかりだったようですが、何か著しくカルフーン的なことを言ったものでした。ウィルソンはカリフォルニアの純税受領者納税者を数の上で上回り始めたと嘆きました。さあ、始まります。

もしもエリートの少数者が公共の多数派を支配し、彼らに課税し搾取するならば、政治理論の主問題がはっきりと立ち上がります。私はこれを市民隷従の謎と呼ぼうと思います。とにかく、なぜ公共の多数派がこれら役立たずに隷属するんでしょうか? 私が問題だと信じるこれは、三人の偉大な政治理論家に解決されました。エティエンヌ・ド・ラ・ブエティという十六世紀のフランス人リバタリアン理論家と、デイヴィッド・ヒュームと、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス。全員ではありませんが、ほぼリバタリアンです。彼らが指摘するに、支配者階級はまさしく実力自体では公衆を支配できないから少数派なのです。たとえ最も専制的な独裁制であっても、政府は多数派に支えられるときしか存続できない。長期的には、実力は支配せず、観念が支配する。どんな政府も公衆の心に正統性をもたなければならないのです。

この真理は去年のソビエト連合の腐敗ではっきりと論証されました。単純に言えば、戦車がイェルツィンを捕虜にすべく送られてきたとき、彼らは銃を納めてロシア議会ではなくイェルツィンを守るよう説得されました。もっと広く言えば、ソビエト政府が公衆の間で完全に支持と正統性を失っていたことは明らかです。国家の死が、わけてもソビエト連合のような化け物じみた国家の死が、ちょうど我々の目の前で展開されるところにまみえたことは、リバタリアンにとって特に素敵なことでした。ゴルバチョフは最後まで以前のように命令を発し続けましたが、今では誰も気にしません。かつて強大だったソビエト最高会議は会合を開き続けましたが、誰もわざわざ顔を見せませんでした。なんという栄光か!

しかし我々はまだ市民隷従の謎を解決していません。もしも支配エリートが公衆に課税をし、略奪をし、搾取をしているならば、なぜ公衆はこれを一瞬でも我慢するのか? なぜ彼らの合意を引き上げるのにこんなにも長くかかるのか?

ここで我々は解決に至ります。社会での世論作り階級、知識人の重大な役割です。もしも何が起こっているかを大衆が知るならば、彼らはただちに合意を引き上げます。彼らはすぐに皇帝が服を着ていないことを知覚し、それらは暴かれてしまうのです。知識人が登場するところはここです。

昔の君主であれ今の共産党であれ、支配階級は国家権力の弁明を編み出すため死に物狂いで知的エリートを必要としています。国家は神授の勅令によって支配する。国家は共通善や一般福祉を保証する。国家は我々を山の向こうの悪者から保護する。国家は完全雇用を確約する。国家は乗数効果を活性化させる。国家は社会正義を保障する。など、など、など。この弁明は幾世紀もの間ずっと変わっていますが、その効果はつねに同じです。カール・ヴィットフォーゲルが大作『東洋の専制政治』で示したとおり、アジアの帝国では知識人は天皇や皇帝が彼自身神聖であるという理論で済ませることができました。支配者が神であれば、彼の命令への不服従や疑義に唆される者は少ないでしょう。

国家支配者が知識人との同盟から得るものは分かりますが、知識人はそれで何を得るのでしょうか? 知識人は自由市場では自分たちの英知に見合うだけの支払いを受けられないと信じる人々であります。さて、国家権力を弁明したり、現代国家において規制的福祉国家機構で大量の職を配置したりする見返りに、彼らに給料を支払うことが国家にとっては本意です。

過去の数世紀においては、教会が社会での排他的世論形成階級を構成していました。それゆえ体制派教会が国家とその支配者にとって重要であり、国家が或る集団に世論形成職能の独占を授けることを許さないということを本当は意味する、教会と国家を分離するという概念がリバタリアンにとって重要であるのです。もちろん二十世紀ではかの教会はその世論形成の役割、あるいは「合意の工学」を、知識人、学界人、社会科学者、テクノクラート、政策科学者、社会労働者、ジャーナリスト、メディア一般などに取って代わられてしまっています。古い時代のために、いわば、主流派の教会からの社会福音の公使と参事の散布がしばしば含まれています。

なので要約すると、問題は悪者の支配階級が知識人とメディアエリートを集めてきたことでして、彼らは大衆を支配者に合意せしめるため教化するべく煙に巻くことができるのです。マルクス主義者が「虚偽意識」と言うとおり。右翼の我々対抗者がこれについて言いうることは何か?

リバタリアンと古典的自由主義者に特有の戦略の一つは、我々がF・A・ハイエクにちなんで「ハイエキアン」モデルと呼びうるものか、あるいは私が「教育主義」と呼んできたものです。このモデルが宣言するには、観念こそが死活でありまして、観念は頂点の哲学者から始まり、ついで劣った哲学者へ漏れ出し、ついで学会に、そして最後にジャーナリストと政治家に、しかる後に大衆へと、そのヒエラルヒーをゆっくりと流れ落ちます。すべきことは頂点の哲学者を正しい観念に転向させることであり、そうやって「トリクルダウン」の類で、ついには大衆が転向し、自由が達成されるだろう、と。

第一に、このトリクルダウン戦略は非常に穏やかで上品ぶったものであり、知的な精神活動の質素な回廊における静かな仲裁と説得に頼っていることが注記されなければなりません。この戦略はとにかくハイエクのパーソナリティに適っています。というのもハイエクはちょうど知的ガッツファーターではない人として知られていますから。

もちろん観念と説得は重要ですが、ハイエク的戦略には幾つかの致命的な間違いがあります。第一にもちろん、この戦略はせいぜい数百年かかるだろうし、我々の幾人かにはちょっと耐えられないということです。しかし決してただ時間だけが問題なのではありません。たとえば多くの人々はトリクルの神秘的な妨害物を書き留めてきました。かくして、ほとんどの現実的な科学者は少数の左翼ヒステリーの見解とは非常に異なる化学薬品エイラーのような環境的問題の見解をもっていますけれども、どういうわけか、メディアにもっぱら引用されるのはつねに数少ない同一のヒステリー発作です。同じことが遺伝と知能指数テストの厄介な問題にも当てはまります。では、メディアはどうしていつも変わらずその結果を歪め、この分野で少数の左翼を選び抜くことになるのでしょうか? 明らかに、このメディア、特に上品ぶった影響力あるメディアが、左派リベラルなバイアスで事を始め、このバイアスで事を続けるからです。

もっと一般的にも、ハイエキアン・トリクルダウン・モデルは重篤な点を見過ごしています。すなわち、私はあなたにこれを知らせるのが嫌なのですが、知識人と学会とメディアはただ真理だけに動機付けられているのではありません。分かったとおり、知識人階級は解決策の一部でありませんかもしれないが、彼らはまた問題の大部分でもあるのです。というのも、分かっているとおり、知識人は支配階級の一部であり、そして彼らの経済的な利害関係は彼らの名声と権力と賞賛への利害と同様に現在の福祉戦争国家システムに包まれているからです。

したがって、右翼的な対抗のための適切な道は、知識人をこの大義に転向させることに加えて、必ずや厚かましさと挑戦の戦略、ダイナミズムとエキサイトの戦略をとるに違いありません。要するに、大衆をまどろみから寝覚めさせ、彼らを支配し統制し課税して彼らのものを剥ぎ取っている尊大なエリートのことを暴露する戦略です。

もう一つの代わりの右翼戦略は多くのリバタリアンや保守主義的なシンクタンクで普通に追及されてきたものです。学会ではなく権力回廊のワシントンDCにおける穏やかな説得のそれです。これは「フェビアン」戦略と呼ばれてきており、2パーセントの減税や規制の小減を求める報告書を発表するシンクタンクを置いています。この戦略の支持者はしばしばフェビアン協会の成功を指摘します。この協会は詳細なエンピリカル・リサーチによって紳士的にイギリス国家を社会主義権力の漸進的増大を推し進めてきた。

しかしながらここでの落ち度は、国家権力を増大するための働きは逆の場合には働かないことです。フェビアンはまさしく支配エリートが行きたかった方向へと肘打ちして支配エリートを紳士的に進ませていました。他の方向へ肘打ちすることは国家の気質に強く逆らうでしょうし、その結果はシンクタンクの国家コオプトとフェビアン化であるという方がはるかにありそうです。この種の戦略はもちろんシンクタンク研究員の人柄にとっては非常に心地よいかもしれませんし、政府からの気楽な仕事と契約で収益的であるかもしれません。しかしまさしくそれが問題なのです。

体制派は政治に興奮を欲しておらず、むしろ大衆をおねむにあやし続けたがっていると気づくことが重要です。それはもっと優しくて、もっと穏やかものを欲しています。あれは控えめで、思慮深そうで、弱々しいトーンと趣旨を欲し、ジェームズ・レストンや、デイヴィッド・ブローダーや、もしくは『ワシントン・ウィーク・イン・レビュー』のようなものを欲しています。あれはパット・ブキャナンを欲していないんですよ。彼のハードエッジな趣旨とその興奮だけでなく、また彼に似たトーンとスタイルともども欲していないんです。

そして右翼にとっての適切な戦略は我々が「右派大衆主義」と呼ぶものでなければなりません。すなわち、興奮、動態、強靭の、対決的で熱烈な戦略であり、大衆を鼓舞するだけでなく、しばしば戦争神経症的な右翼知識人の中核をも同時に鼓舞しなければなりません。そして知識人とメディアエリートが軒並み体制派自由保守主義者であり、深い意味でみな社会民主主義の変種であり、いずれも真性右翼に対する辛辣な敵であるこの時代においては、メディアエリートを短絡させ、大衆を直接にたたき起こす能力をもった、ダイナミックでカリスマティックなリーダーが必要です。我々には、大衆に届き、メディアエリートに撒き散らされた有害で歪んだ解釈学的な霧を晴らすことができるリーダーシップが必要なのです。

しかし我々はそのような戦略を「保守」と呼ぶことができるのか? 五十年にもわたって変化を求めて鈴を鳴らしてきた、保守主義運動への補助具として「保守主義」を定義する前提となっている自由主義戦略に対し、私は一人うんざりしております。自由主義者はニューディールやフェアディールを撤廃したがるハードエッジな廃止主義者に出くわしたとき、いつだって「でもそれって本物の保守主義ではないでしょう。それじゃ急進主義ですよ」と言います。その本物の保守主義者とやらは、これらのリベラルが引き続き語るところでは、何も廃止したがりませんし、何も撤廃したがりません。それは、左派リベラルが達成したものを保守しがたる優しくて穏やかな心の持ち主なのです。

そしたら、良い保守主義者に関する左翼リベラルの見解は次のようなものになります。第一に、権力の座の左翼自由主義者が集団主義へ大躍進する。第二に、政治循環の流れで四年か八年後に保守主義者が権力の座に着き、彼らはもちろん撤廃という観念そのものにも恐れ入って、国家主義の成長率を単純に緩やかにさせ、以前の左翼の利得を固め、次のリベラル大躍進のために羽休めの一時を差し上げる。このことを考えるならば、これこそまさに全共和党政権がニューディール以降やってきたことであると分かることでしょう。保守主義者は快くもリベラルの歴史像上で望ましきサンタクロースの役を果たしてきたんですよ。

お聞かせ願いたいんだが、我々はいつまでこんなおめでたい真似を続けるつもりなんだ? いつまで左翼ご指名の道化を演じ続けるつもりなんだ? いつになったら左翼のゲームを投げてテーブルをひっくり返すつもりでいるんだ?

ある意味ではリベラルらが得点してきたことを認めなければならりません。「保守主義」なる言葉は不満足です。オリジナルの右翼は決して「保守主義」なんて用語は使いませんでした。我々は自身を個人主義者や「真の自由主義者」や右翼と呼んだのです。「保守主義」はラッセル・カークのとても影響力ある『保守の心』が一九五三年に、オリジナルの右翼の最後の年に出版された後にのみ瞬く間に広まったものでした。

「保守主義」という言葉には二つの大問題があります。第一に、それは実際に現状を保守することを共示しており、これこそまさにブレジネフ主義者がソビエト連合で「保守主義者」と呼ばれる所以なのです。おそらく一九一〇年には我々を「保守主義者」と呼ぶことに正当性がありましたが、今はもう確実にありません。いまや我々がしようとしていることは現状をひっくり返すことであり、その保守ではないのです。第二に、保守主義者という言葉は十九世紀ヨーロッパの闘争を呼び戻してしまいますし、アメリカでは条件と制度がこの言葉が深刻なほど紛らわしいものに異なってしまいました。ここでも他の領域でのように、「アメリカ例外主義」と称されてきたものには強い真相があります。

それでは我々が自分を何と呼べばいいのでしょうか? 容易な回答は出せませんでしたが、おそらく一九五〇年代に敵によって張られたレッテルで言えば、自分たちを急進的反動主義者、あるいは「急進右翼」と呼ぶことができるでしょう。あるいは、「急進」というおどろおどろしい言葉に対してあまりにも多くの異論があるのであれば、我々の集団の幾人かが自称する「ハード・ライト」に倣うこともできます。これらの名称のどれも「保守主義者」よりは好ましいですし、私がすぐ後に触れるとおり、我々の敵にほとんど引き受けられている公式保守運動から自分たちを分離する機能を果たすものです。

オリジナル右翼最後の数年に出現したダイナミックな指導者の、そして彼の到来がオリジナル右翼から新しいバックリー派の右翼への変遷を示しているところの、彼に率いられた傑出した事例の右派大衆主義に今注意を向けることが役に立ちます。急ぎましょう。今世紀のアメリカ政界で最も憎悪され、最も中傷された男、ナチやクー・クラックスでもないのに、デイヴィッド・デューク以上に憎まれ罵られた男は誰でしょう。彼はリバタリアンではなかったし、孤立主義者でもなかったし、保守主義者ですらありませんでしたが、事実として穏健な共和党員でした。けれども、彼はその名前自体が辞書で邪悪の総称的同義語になるほど普遍的に罵詈雑言を浴びていました。

私が言及するのはもちろんジョー・マッカーシーです。マッカーシー現象の鍵は政治文化全体が付した穏健左翼から穏健右翼へのコメントであった「私たちはマッカーシーの目標には同意します。同意しないのは彼の手段に対してだけです」にあります。もちろん、マッカーシーの目標は政治文化から普通に吸収されたものでした。ソビエト連合から触手を伸ばし地球全体に張り巡らされた国際共産主義者の陰謀に対して戦争を行うべしという申し立て上の必要性です。マッカーシーの問題と、究極的に彼の悲劇となったのは、彼がこの話をまじめに取ったことでした。もしも共産主義者と彼らの代理人と同調者がそこら中にいるならば、我々は冷戦の只中において、アメリカの政治界隈から追い出した方がよくないか、と。

マッカーシーに関する独特で輝かしいところは彼の目標や彼のイデオロギーではなく、まさに彼の急進主義的で大衆主義的な手段でありました。というのも、マッカーシーは数年にわたってアメリカ人の生活における全エリートの激しい反対を短絡させることができたのですから。アイゼンハウアー=ロックフェラー内閣からペンタゴンと軍事産業複合体より自由主義的および左翼的なメディアと学会までのエリート。かくもありとあらゆる抵抗に打ち勝ち、大衆に直接届き、大衆を直接に鼓舞したのが彼でした。そして彼は背後にどんな実際の運動もないのに、テレビを通してこれをやったのでした。彼には二、三人の助言者のゲリラ団しかおらず、オルガニゼーションもインフラストラクチャーもなかったのです。

非常に面白いことに、知識人エリートによるマッカーシー主義スペクトルへの反応はダニエル・ベルとシーモア・マーティン・リプセットのような自由主義者に引き起こされましたが、彼らはいまや卓越したネオ保守主義者です。というのも、ネオコンはこの時代にはトロツキズムから右派社民主義へ、そして最終的に保守主義運動の指導者の地位へと移ろう長征の真っ最中だったのです。この段階ではネオコンのヒジュラはトルーマン・ハンフリー・スクープ・ジャクソン・リベラルだったということです。

マッカーシズムに対する主な知的反応は、マッカーシズムがとっくに立ち消えており、新たな脅威たるジョン・バーチ協会に対して闘争を行う必要があったころに出版された、ダニエル・ベル編『アメリカ新右翼』(1955)であり、後に『急進右翼』(1963)に改訂され拡張されました。その基本メソッドは右翼のメッセージの内容から注意を逸らして右翼集団の人身攻撃に注目するというものでした。

古典的な、あるいはハードなマルクス主義者が社会主義や共産主義の反対者を中傷する方法は、彼らを独占資本やブルジョワジーの代理人として非難することでした。これらの非難は間違っていましたけれども、後の一九五〇年代と六〇年代のソフト・マルクス主義者と自由主義者の戦略に比べれば、少なくとも彼らは明晰さの美徳と一定の魅力をもっていました。後の彼らはマルクス・フロイド主義的な心理療法用語のたわ言によって、心理「科学」の名において、自らの敵対者を、やれやれ、精神病患者の類だと推論することに夢中でした。

この時代に好まれた方法はベルの本の寄稿者の一人が発明したものでして、私に言わせれば優れるところがほとんどないリチャード・ホフスタッター教授というアメリカ人歴史家によるものです。ホフスタッターの定式では、右翼であれ左翼であれ、現体制からのどんな急進的な反対者も「パラノイド」様式に夢中であり(もちろんパラノイドが何かは知っていることでしょう)、「ステータス不安」を患っているらしいのです。

論理的に、社会集団というものはいつであれただ三つだけありまして、しかも三つしかありません。ステータスが下降しているもの、ステータスが上昇しているもの、ステータスがおよそそのままであるもの。(この分析は批判しようがありません!)下降集団はもっと良い人をパラノイドで不合理にも非難させるステータス不安の神経症としてホフスタッターが焦点を当てたものでした。しかしもちろん上昇集団もまた高いステータスを保とうとする不安に苛まれうるし、定常集団も将来の下降に不安でありえます。彼のちんぷんかんぷんな呪いの成果は、現状に賛成しないあらゆる人物や集団をけなして並べるためにひけらかされる反証不可能で普遍的に妥当な理論です。結局、誰がパラノイドのステータス不安でありたがったり、そいつと関わりたがったりするのやら。

ベルの本に充満しているのは「怨恨の政治学」を患っているという恐ろしい急進主義者への反対です。ところで、左翼リベラルが政治的な怒りを扱う方法は面白いと思います。被害者集団を代表する良いやつの怒りは、激怒、「レイジ」と称され、なにか高貴なものを感じさせます。最近の例ではクラレンス・トーマス/ウィリー・スミス事件でオルグされたフェミニズムのレイジがありました。他方で、抑圧者集団による怒りは「レイジ」ではなく、怨恨、「ルサンチマン」です。邪でつまらない人物、優れた人への妬み、夜にこそこそ動き回っている者を思い起こします。

しかも、公共の善・財に関心を寄せる賢明なるエリートの善良な支配を非合理的にも台無しにしようとする、不快で無教養なレッドネックのパラノイド、中心地のルサンチマンに満ちた権威主義的労働者タイプと中流階級タイプに直面した、高貴で聡明なアイヴィリーグの統治者エリートの率直な役どころの叙述が、実際にベルの本全体に充満しているのです。

しかしながら歴史はホフスタッター主義リベラリズムにちっとも優しくありませんでした。というのもホッフスタッターとその他は一貫していて、彼らがエリート支配の素晴らしき現状と見なしたものを、右であれ左であれ、なんにせよどんな急進主義者からも擁護していました。そしてホッフスターと彼の追随者は、進歩主義者、大衆主義者、内戦以前の北部廃止主義者のような集団も含め、現状への急進反対家全員に対してステータス不安だのパラノイドの小競り合いだの汚名を着せながらアメリカ史の後ろの方に流れていったのでした。

同様にベルは一九六〇年に一時な有名になった、『イデオロギーの終焉』を宣言する作品を出版しました。これより、コンセンサス・エリート主義リベラリズムが永遠に支配し、イデオロギーは消滅し、そしてあらゆる政治的問題は道を掃除するための機械はどれかのような単なる技術的なものになるだろう、と(似たような『歴史の終わり』のネオコン宣言、三十年前に予見しながら)。しかしその直後、部分的にはこれら驕慢なリベラル学説への反動だと私は確信しているのですが、反動として、急進的市民権と次の新左翼革命でもって、イデオロギーがどかんと立ち返ってきました。急進派を、少なくとも左翼の急進派を中傷することはもはや政治でも修史でも流行ではなりました。

他方で拙いマッカーシーは、部分的には運動インフラストラクチャーの欠如と中傷のせいで、そして部分的にはまた彼の大衆主義がダイナミックだったとしても共産主義者を根絶やしにするという非常に小さいものを除いてしまえば目標も計画も何もなかったせいで、もちろん事を成し遂げられはしませんでした。そしてまた部分的にはマッカーシーが実際に名声を浮かせたテレビ媒体には相応しくなかったせいでもあります。「冷たい」メディアに「ホット」な人物、彼のたるんだあご肉、五時のように重ったるい影(これはまたニクソンも破滅させた)、そして彼のユーモアのセンスの欠如。そしてまた、彼はリバタリアンでも実は急進右翼でもなかったせいで、マッカーシーの心は合衆国上院の、つまり彼が実際には愛していた制度からの酷評によって蝕まれてしまいました。

オリジナル右翼、急進右翼は一九六三年にベルの本の第二版が出る頃にはほぼ消滅してしまいました。一分後にはそのわけが分かるでしょう。しかし今パット・ブキャナンの大統領選エントリーで出し抜けに、おお、彼らが帰ってきたのです! かつてよりもっと逞しくもっと元気よくなった急進右翼があっちこっちで帰ってきた!

この歴史現象への反応は、体制派の正しい思考スペクトルの全面を見れば、それと、左翼から公式保守主義者とネオ保守主義者までの全エリートを見れば、古い映画でゴジラが帰ってくるときのリアクションに非常に良く似たものでした。彼らが偏見だの反ユダヤ主義だのフランコの亡霊だの他のすべての古い中傷とともに古いたわごと心理語法を持ち出すことを知っておこうじゃありませんか。パットへのすべてのインタビューが彼の「権威主義的カソリック教」の背景(ワーオ)と彼が子供のころいっぱい喧嘩したという(ほとんどのアメリカ人男性どおりの)事実をさらい出します。

また、パットはひどく怒っていた、と。おお、怒りだと! そしてもちろん、パットは右翼であるのみならず、ご指定の抑圧者集団(白人男性アイルランド人カトリック教徒)の出生なので、彼の怒りは正しいレイジではありえず、「怨恨」に満ちたパラノイドのステータス不安のパーソナリティでしかありえない、と。それで予想のとおり、今週一月一三日、我々の言葉とは違い、そのすべての言葉が印刷に適している、威厳ある『ニューヨーク・タイムズ』は社説で体制派の方針を持ち出しました。パット・ブキャナンに関する、定義からして確定済みの方針です。

パット・ブキャナンのハードエッジでゆえにポリティカル・インコレクトな語彙(ちっ!)を非難した後、初めからそうするだろうと分かりきっていたとおりですが、『ニューヨーク・タイムズ』はビル・バックリーの言葉を聖書かのごとくを厳粛に引用し(これについてはすぐ後で触れましょう)、それでブキャナンは実際には反ユダヤ的ではなかったとしても反ユダヤ的なことを言っていたのだと判決します。そしてタイムズは最後の落ちで、往年のベル=ホフスタッターを偲ばせる一言で結論をしました。「彼の立候補が伝えているように、彼の言葉が伝えていることは、怨恨の政治、危険な政治である」、と。

怨恨! なんで正気の人間が当代のアメリカを怨まなければならないのか? たとえばワシントンやニューヨークのストリートに出た人間がきっと自分の身に起こることを怨まなければならないのか?と。しかし、正気の人間のうち誰がこれを怨まないでいるんでしょうか。高貴なるレイジであれ、または恥ずべき怨恨であれ、あるいはあなたがこれを何と呼ぶにせよ、誰が怨まないでいるのやら。

私はようやく先の疑問に向かうことにしようと思います。とにかく、オリジナル右翼に何が起こったのか? そして保守運動はどうやって現在の混乱に陥ったのか? なぜそれが切り刻まれてばらばらにされなきゃならず、新急進右翼運動がその灰の上に生まれざるをえなくなったのか?

これらの見かけ上共通点のない疑問の答えは同じです。オリジナル右翼に起こったこと、現在の混乱の原因は、ビル・バックリーおよび『ナショナル・レビュー』による右翼の到来と支配でした。一九五〇年代後半にオールド・ライトの指導部の多くが亡くなったかリタイアしました。タフト上院議員とコーネル・マコーミックは亡くなっており、多くの右翼議員がリタイアしていました。

長きにわたり知的リーダーシップが不足していた保守主義者の集まりにはもはや政治的リーダーシップも同様に欠如していました。知識人と権力者の真空が右翼で発達していきました。これを満たそうと押し寄せたのが一九五五年、CIA勤務での数年からやってきた新風ビル・バックリーおよび、元共産主義者と元左翼たちを落伍させたソビエト神を粉砕するためのクルーセイドに向けて右翼を孤立主義運動から変貌せしめんと熱望する、彼らの聡明でうまく書かれた定期刊行物、『ナショナル・レビュー』でした。

また、バックリーの書きぶりは、あの頃にはしばしば機知に富んで煌きながら、読者に深い思想の印象を与えており、ビルのフランス語とラテン語の用語で輝く散文の癖によってその印象を強められた、華美なロココ調でありました。ナショナル・レビューは実に速やかに右翼で唯一ではなくとも優勢な権力の中心になったのです。

この権力は、大学知識人にISIを、キャンパス活動家にヤング・アメリカン・フォー・フリーダムを、という風に前衛集団を作る(おそらくマルクス主義中核戦術で訓練された『ナショナル・レビュー』編集者に指導された)輝ける上出来な戦略によって補強されました。そのうえ、ナショナル・レビュー複合体はベテラン共和党員の政治屋と『ナショナル・レビュー』出版者ビル・ラッシャーに導かれてカレッジ・ヤング・レパブリカンをすばやく上出来に引き受けることができ、それからナショナル・ヤング・レパブリカンを、ついには一九六〇年と以降のゴールドウォーター運動を作り出すことができるようになりました。

そうして、ほとんど電撃戦的な素早さで、一九六〇年代初期より、ビル・バックリーに変形されて率いられた新グローバル・クルーセイド保守運動がアメリカでほとんど権力を握る用意ができていました。しかし今一つでした。なぜならばまず、右翼の多様な異端のすべて、オリジナル右翼から生き残った幾人か、それと、とにかく急進的であった集団や、もしくはリベラルと中道エリートの目でかなり望ましい世間体を新保守運動から奪いかねない集団すべて、これらすべてが放り出されてしまいました。権力にとっては、そのように変性した、体裁のよい、非急進的な保守する右翼にこそ価値があったのです。

なので粛清が始まりました。バックリーと『ナショナル・レビュー』は、急進派全員を、体裁の悪き全員を、次々と粛清し追放していったのです。(ジョン・T・フラインのような)孤立主義者、反シオニスト、リバタリアン、アイン・ランディアン、ジョン・バーチ協会、初期『ナショナル・レビュー』のような、バックリーがマーティン・ルター・キングと市民権革命の帰依に転向した後もこれに反対し続ける人々全員。今の点呼のことを考えてみてください。しかしもしも、一九六〇年中期と後期以降に、バックリーが真正右翼の保守運動を粛清してしまったとくれば、彼はまたハードな反共産主義を宣言し、あるいはむしろ、反ソビエト主義や反スターリン主義を宣言したどんな集団も急いで抱きとめにいきました。

そしてもちろん最初の反スターリン主義者は殉教共産主義者レフ・トロツキーの献身者たちでした。そんな風に保守主義運動も、真正右翼から自身を粛清しながら、誰も彼もを、どんな変種のマルクス主義者をも抱き留めて嬉しがっていました。トロツキストたち、シャハトマン主義者たち、メンシェビキたち、(『ニュー・リーダー』紙周辺に集まったような)社会民主主義者たち、アメリカ労働連盟のラヴストーン派理論家たち、愛しのシドニー・フックのような極右マルクス主義者たち。反社会主義者ではないが適切な反ソビエト・反スターリニスト証明書を提示できた者全員です。

それからこの道は最後の致命的な殺到へと舗装されました。元トロツキストたち、右派社会民主主義者たち、民主資本主義者たちの殺到、それと、我々がよく見知っている、フェミニストで脱構築中の人数割り当て大好きな進歩的被害者学の左翼、狂気の左翼によって民主党のホームから追放された、トルーマン・ハンフリー・スクープ・ジャクソン自由主義者たちの殺到です。そしてまた、我々は少なくとも半孤立主義的で半反戦の追放左翼も指摘しなければなりません。これらの追放された人々はもちろん有名なネオ保守主義者であり、名目上の党首としてビル・バックリーを頂く小さいのにどこにでもいる集団であり、今では保守主義運動を支配しています。三十五人のネオ保守主義者のうち三十四人はシンジケート・コラムニストであるようです。

そういうわけで、左翼代わりの唯一の右翼として、ネオコンがまんまと自分たちを確立しおおせたのでした。ネオコンはいまやイデオロギー的スペクトルの右翼の端を構成しています。つまり、体裁の良く、責任の重い右翼を。というのも、ネオコンは彼らより右にいるような人は誰であれ定義により、とにもかくにも、混沌、[未]old night、人種差別、反ユダヤ主義の力の代表者であるという考えをまんまと確立しおおせたからです。

我々の現行の政治ゲームでいかに牌の積み込みが行われたかといえばこういうことでした。そして実質的に唯一の大メディアでの例外、ネオコンの破門を逃れてみせた唯一の本物の右翼スポークスマンが、パット・ブキャナンなのでした。

時は来ました。古い主人、破門の王子、保守運動での自薦の教皇、ウィリアム・F・バックリー二世を持ち出すときがきました。ビルが彼自身のイメージに作り直した運動を救うために、古い真似事をするときがきました。ネオコンのエリック・ブラインデルに新聞のコラム(New York Post, Jan. 16)で「アメリカ右翼の権威的な声」と迎え入れられた男を扱うときがきました。ビル・バックリーの教皇教書、保守主義運動への彼の四万語のクリスマス回勅、「反ユダヤ主義の調査」、『ニューヨーク・タイムズ』の反ブキャナンの社説で厳粛に援用された長談義を扱うときがきました。

バックリーのエッセーに関して最初に言うべきことは、それが事実上読解不可能であることです。かの機智と生気は失せました、すべて失せたのです。バックリーのロココ癖が尺を超えて伸びきっています。彼の散文は実質的に意味のすべてが失われるまで蛇状に曲がりくねり、絡まり、こんがらがり、捻り倒され、飾り立てられています。全体を読み通すことは贖罪の苦行に努めることに相当し、歯を食いしばって腫れ上がった山と要領を得ない生徒の期末レポートのあちこちを鋤き返すような厳格な義務感をもっていなければこの任務は達成できません――実際、これがバックリーのエッセーの内容と学習とスタイルに相応しいのです。

過去と現在の右翼でのバックリーと『ナショナル・レビュー』の役割に関する私の見解は単に私自身の「パラノイド・スタイル」を反映しているにすぎないと考えることのないように、我々は、彼の侍祭であるとはいえ少なくともまだ統一の取れた文を書くことはできるジョン・オサリヴァンによる紹介、ビルの記事の暴露に最適な技巧に向かいましょう。

『ナショナル・レビュー』の自己イメージに関するジョンの注目すべき暴露があります。「その創設以来、『ナショナル・レビュー』は右翼の良心の役割を静かに演じてきた」。オサリヴァンは――孤立主義者、ランディアン、リバタリアン、市民権右派を無視していますけれども――バックリーの粛清を少しリスト化した後、反ユダヤ主義者に至り、この論点での賢い判断の必要性に及びます。それからビルの教皇的な役割を啓示するところに達します。「我々は〔判決を〕宣告する前に確信をもちたい」。それから彼が語り続けるところでは、この告発には根拠が何かあったか?「それは、破門に値する深刻な罪、父性の叱責を招く過ち、あるいはこの両方の何かではなかったか?」私は被告席の全被告人が「父性」への言及をありがたがると確信しています。パパなるビル。賢くて、厳しくて、でも優しい、判決を言い渡す僕たちみんなのお父さん。このオサリヴァンの言明は、彼の雇用者の論文が「偉大な読み物」であると紹介する際の彼の他の断言の厚かましさとも一致しています。恥を知れ、ジョン。恥を。

粛清について注目に値する他の唯一の点はまさになぜジョン・バーチ協会を破門する必要を見出したのかに関するバックリー自身の一節です。(オサリヴァンは彼らが「気難しい」からだと言いました。)バックリーは脚注で「バーチ教会は決して反ユダヤではなかった」が「それは正しく推論するには気が散る危険な存在であり、追放されなければならなかった」。ビルは語り続けます。『ナショナル・レビュー』はまさしくこれを完了した」と。

ほーう、おやおや! そっぽのシベリアへ追放だ! しかも教皇ウィリアムの習慣たる純粋理性の瞑想から「気を散らす」という高等犯罪のかどで。彼がジョン・ケネス・ガルブレイスやエイブ・ローゼンソールとスキーしたりヨット乗ったりして親しく交わるときには決して患わなかったような気の散りのかどで! なんて不思議な働きの心だ!

バックリーのエッセーを単にまとめようとするだけでも明快さという過剰な信用を与えてしまうはずです。しかしこのリスクを犯してでも、私にできる最善のものをここに示しましょう。

1       彼の長年の弟子でNR編集者のジョー・ソブランは(a)確かに反ユダヤ主義者ではないが、しかし(b)イスラエルが「気になって仕方ない」しそれを「馬鹿の一つ覚えみたいに唱えている」ので、(c)ゆえに、どんな意味であれ「文脈的に反ユダヤ主義者」であり、最悪の場合(d)彼は「自責の念がない」ままである。

2       パット・ブキャナンは反ユダヤ主義者ではないが、彼は容認できない反ユダヤ的なことを言っており、「おそらく」「偶像破壊的な気質」から、しかも好奇心で、ブキャナンも自責の念がないままである。

3       ゴア・ヴィダルは反ユダヤ主義者であり、『ネーション』は厚かましくもノーマン・ポドレツに批判的なヴィダルの記事(爆笑するような記事、閑話休題)を掲載することで左翼の増加中の反ユダヤ的性癖を露呈してしまっている。

4       『ダートマウス・レビュー』のバックリー暴力団員はちっとも反ユダヤ主義者ではないのに、素晴らしい子供たちが悪質な左翼のせいで不公平を感じている。

5       ノーマン・ポドレツとアーヴィング・クリストルは素晴らしくて優秀な人たちであり、反ユダヤの動機以外でなぜ彼らを批判したがらねばならなかったのか「明らかではない」。

ビルの記事で不条理に扱われたゴア・ヴィダルと『ネーション』はその一月の六・十三号での痛撃な反撃をもって自分たちの面倒を見れますし見ています。ブキャナンとソブランに関して言えば、新しいものは何もありません。同じで古くて薄っぺらいゴミ、つまらない焼き直し。

しかしながら、二十年間かけて師をほぼ崇め奉ってきた、人格的かつイデオロギー的な弟子たるソブランに対するバックリーの悪意のこもった取扱いについては何かが言われてもいいはずでしょう。ポドレツらの心を鎮めるために自らの友人かつ弟子をこんなやり方で公然と叩きのめすことは、疎ましく、厭わしく、少なくともきわめてみっともないと言うことができます。

もっと重要なことに、バックリーの最新の回勅は『ニューヨーク・タイムズ』でも良いプレーをしたかもしれませんが、あまりよく保守主義運動に行き届いていません。いまや世界は異なっており、もはや一九五八年ではないのです。『ナショナル・レビュー』はもはや右派の権力の中心を独占していません。あっちこっちで立ち現れる新しい人々がおり、若い人々がいる。パット・ブキャナンがその一人で、パレオのみながその他でして、彼らはぶっちゃけバックリー教皇の宣言にこれっぽっちも興味がありません。オリジナル・ライトとその異端がすべて帰ってきました!

実際ビル・バックレーは保守運動のミハイル・ゴルバチョフなのです。ビルはゴルバチョフのように古い振舞いを続けていますが、ゴルバチョフのようにもはや誰にも気を揉まれず、誰にも頭を下げられず、もはや誰も追放の身になりません。もはや誰も気にしないのです。古き良き『ニューヨーク・タイムズ』を除いて、誰も。ビル・バックレーは宴会を受け入れてリタイアしたままであるべきでした。まあ彼の復活はモハメド・アリぐらいには成功するでしょう。

私は子供の頃、レッセフェールに反対し社会主義に賛成する主要な論法は社会主義と共産主義が不可避であるというものだったことに気づいていました。「時計の針は戻せないんだよ!」と。彼らは「時計の針は戻らない」とシュプレヒコールしました。しかし一時は強力だったソビエト連合、マルクス主義・レーニン主義の時計の針、一時は世界の半分を屈服させた信条は、もう直らずに、その死体を寝そべらせ、永遠に敗れてしまっています。それでも我々はこの勝利の満足に浸ってはいられません。たとえマルクス主義・ボルシェビズムが永遠に立ち消えたとしても、いたるところで我々を煩わせるあの邪悪の従兄弟どもがいまだに残っているからです。それは「ソフト・マルクス主義」だの「マルクス主義・ヒューマニズム」だの「マルクス主義・ベルンシュタイン主義」だの「マルクス主義・トロツキー主義」だの「マルクス主義・フロイト主義」だのと呼ばれています。やれやれ、単に「メンシェビズム」あるいは「社会民主主義」と呼びましょう。

ここにはいまだにありとあらゆる社会民主主義の変種があり、左派の側での余計に発達した被害者学とフェミニズムから右派の側でのネオ保守主義まで、世間体良き政治スペクトル全体を定義しています。我々は今のアメリカで、メンシェビキのファンタジーの内側で、多様なマルクス主義ブランドによる世間体の良い討論セットの狭い境界線で罠に嵌められております。これらの拘束を破ること、その仕事にとどめを刺すこと、マルクス主義に永遠のとどめを刺すことが、いまや蘇った右翼の任務なのです。これがパレオ運動の、我々の任務なのです。

ダニエル・ベルの本の或る著者は急進右翼が二十世紀を撤廃するつもりでいると恐怖と驚愕まじりに語ります。とんでもない!と。誰が二十世紀を撤廃したがるんだ。恐怖の世紀を、集団主義の世紀を、大量破壊と虐殺の世紀を。いったい誰が撤廃したがるんだ! まさに我々が撤廃するつもりだ。

我々の眼の前でソビエト連合が死んでくれたことの感動をもって、我々はいまやこれができることなのだと知っている。我々が社会民主主義の時計の針を止めよう。我々がグレート・ソサエティの針を止めよう。我々が福祉国家の針を止めよう。我々がニューディールの針を止めよう。我々がウッドロー・ウィルソンのニューフリーダムと永遠の戦争を止めよう。我々が二十世紀を撤廃しよう

我々の時代において最も我々を感動させてくれた素晴らしい光景の一つは、去年、激しく憤りながらレーニン像をなぎ倒し、レーニン主義者の名残を完全に取り除くべく、ソビエト連合で立ち上がった人々にお目にかかったことでした。我々もまた、フランクリン・D・ルーズベルトの像を引き倒そう。ハリー・トルーマンの像を押し倒そう。ウッドロー・ウィルソンの胸像も全部引き摺り下ろしてやろう。あれを煮溶かして鋤の歯と刈り込み鎌に叩き直してしまおう。平和、自由、繁栄の二十世紀の到来を告げよう。

(出典: archive.lewrockwell.com)