階級紛争―自由主義的理論とマルクス主義的理論

Ralph Raico, “The Conflict of Classes; Liberal vs. Marxist Theories.”

階級と階級闘争の概念よりも、マルクス主義と緊密に結びつけられている観念は少ない。たとえばマルクス主義的哲学に革命の歴史と理論が欠如しているところは想像だにしえない。けれどもこれらの概念は、マルクス主義の他の多くのところでと同様に、曖昧で矛盾したままである。[1]一例を挙げれば、マルクス主義的学説はどうやら階級を生産過程に根拠づけているようだが、かたや『共産党宣言』がその有名な出だしで断言するには、

これまでの社会の歴史はすべて階級闘争の歴史である。自由民と奴隷、貴族と平民、領主と農奴、親方と職人、つまり抑圧する者と抑圧されるものは、つねに対立してきた……。[2]

しかしながら、調べてみると、これらの対立の組は完全または部分的に、経済的範疇ではなく法的範疇であることが明らかになる。[3]マルクスもエンゲルスもこの領域での彼らの理論の曖昧さと矛盾を解決することはなかった。マルクスの死後一八九四年に出版された彼の『資本論』第三最終巻は「階級」と題名づけられている。[4]ここで彼が述べるには、「答えられるべき最初の問題はこうだ。何が階級を構成するのか?」「一見したところでは、所得と所得源泉の同一性」であるように思われよう。マルクスはこれに不正確さを見出す。なぜならば、「この視座では、たとえば医者と職員が二つの階級を構成しているだろう」。また、次のものによっても別個の階級が生み出されるだろう。

社会的分業が資本家と領主と分断すると同様に労働者をも分断するところの――たとえば後者であれば、ブドウ園の所有者、農場所有者、森林の所有者、鉱山所有者と漁場所有者の――利益〔原文ママ〕と地位の無限の分裂。

この点にはエンゲルスの脚注があり、いわく「ここで手稿が打ち切られている」。しかしながらこれはマルクスの急死のせいではなかった。[5]エンゲルスの説明は「マルクスはそのような結論的な要約は最終稿まで、まさに、最新の歴史的発展が確かな規則性をもって彼の理論的命題に最も素晴らしい好時期の証明を与える、出版直前まで残しておくのが常であった」というものであった。この説明は、もしもマルクスが逝去の数年間前に彼の理論の他の部分と一貫する明晰な階級の定義を他のところで与えていたならば、もっと説得力があっただろう。[6]実際、マルクスとエンゲルスの作品のいたるところで現れる「階級」と「諸階級」という用語はすっかり混乱している。[7]

にもかかわらず、政治思想史の重要な章が実質的に忘れ去られてしまうほど、階級と階級闘争の観念がマルクス主義と緊密に同定されているということは実情のままである。

近代知性史の知識にかけて、アルバート・O・ハーシュマンほど頻りに高く称賛されている経済学者はわずかしかいない。けれどもハーシュマンも、ヴィルフレード・パレートの『経済学講義』(1896-97)の自由主義的階級闘争学説の明瞭な言明に直面するときはさっぱり分かっていない。パレートはここで、他人に生産された富を専有する闘争のことを「人間性の歴史全体を支配する一大事実」と語っている。これはハーシュマンの耳には「最初は奇妙にも――おそらく故意に――『共産党宣言』のように聞こえる」。しかしパレートは「強奪」〔スポリアシオン〕という言葉を用い、強奪あるいは略奪を有力階級の国家機構支配に帰することで、速やかに「彼自身をマルクスから引き離す」(ハーシュマン1991: 55)。パレートが少なくとも十九世紀最初の数十年に遡る幾世代も古くからの自由主義的な分析を慣習的な用語法で提示していたということに、ハーシュマンがこれっぽっちも気づいていなかったのは明らかだ。

階級闘争の概念はマルクスが執筆を始める以前からありふれていたし、それだけではなく、マルクスの観念の発生学でそれ自体をして主要な役割を担ったが、それとはまったく異なる階級闘争の理論が考案されていたのであった。

自由主義の学説に対するマルクス主義の負債

アドルフ・ブランキはジャン=バティスト・セーの被後見人であり、セーから工芸院の経済学の教授を受け継いだ。ブランキは一八三七年に出版されたおそらく史上初の経済思想史書に次のとおりに記す。

あらゆる革命には、互いに衝突するたった二つの当事者集団しかない。自分自身の労働で生きようと欲する人々のそれと、他人の労働で生きるつもりでいる人々のそれである……。貴族と平民、奴隷と自由民、教皇派と皇帝派、赤バラと白バラ、〔イギリスの〕王党員と議会党員、〔スペインの〕自由党員と奴隷者は、同じ類の単なる変種にすぎない(ブランキ1837: x、強調は原文ママ)。[8]

ブランキは、これらの社会的闘争で問題になっているものは何かについて彼自ら理解していところを速やかに明らかにする。

それで一方の国では、国家の福祉という口実の下で、労働の果実が労働者から課税で取り上げられており、他方では、労働を王室の認可であると宣言し、彼自身を労働に捧げる権利の代償を彼に支払わせながら、かかる果実をその特権で取り上げる。国家が関税という手段で非特権的階級に課された税の利益を特権的産業と共有するとき、間接性は高いが抑圧性は低くないような形で同じ濫用が再現されている。(ブランキ1837: x–xi)

ブランキは決してこの自由主義的階級闘争分析の創始者ではなかった。彼はむしろ、十九世紀最初の数十年で自由主義界隈に広く行き渡っていた物事の見方を引き合いに出したのである(以下を見よ)。マルクスとエンゲルスはこの古い見解の存在にとてもよく気づいていた。マルクスは自分の信奉者にしてアメリカ合衆国でのマルクス主義の最初の支持者である[9]ヨーゼフ・ワイデマイヤーへ一八五二年に書かれた手紙で次のとおり断言する。

現代社会の階級の存在やそれら階級間の闘争を発見した名誉は私に帰するものではない。私よりはるか前に、ブルジョワ歴史学者がこの階級闘争の歴史的発展を、そしてブルジョワ経済学者が諸階級の経済的解剖を記述していた。[10]

彼が名を挙げた最も著名な二人の「ブルジョワ歴史学者」はフランス人のフランソワ・ギゾーとオーギュスタン・ティエリであり、[11]十一年後、マルクスはティエリを「フランス歴史学における『階級闘争』の父」と称した。[12]

マルクス主義的階級闘争理論のこのブルジョワな系譜はマルクスの所期の信奉者によって憚りなく認められていた。エンゲルスは末期に際して、大きい底流の社会的な力に比すれば個人が歴史で振るう力は些細なので、たとえマルクス自身がいなかったとしても「唯物史観」は他の者に発見されていただろうと示唆した。その証拠は「ティエリとミニエとギゾー、それと一八五〇年までのイギリス人の歴史家全員」がこれを目指して戦っていたことというものである。[13]第二インターナショナル期のフランツ・メーリングとプレハーノフらマルクス主義的著述家はマルクス主義的階級闘争学説の起源が自由主義的フランス復古王政歴史学にあることを強調した。[14]レーニンもまた階級闘争理論を考案した功績をマルクスではなく「ブルジョワジー」に帰した。[15]奇妙なことに、社会主義的観念史のスターがこれほど長ったらしくずらりと連なる一時期も、著名な経済思想史家たるアルバート・O・ハーシュマン教授にとっては未知の未開拓地なのである。[16]

産業主義の源泉

マルクス主義的著述家に言及されたフランス人歴史家のうち、若い頃のオーギュスタン・ティエリこそがこの主題を深く掘り下げており、実際、彼こそが一貫した急進自由主義的な階級と階級闘争の分析を形成する仕事に加わっていた。本エッセーの目的は、この注目すべき分析の背景と内容を概説し、これに関連して生じる幾つかの点を議論し、後に他所で生まれたその幾つかの変種に注意を向けることである。それは社会的および政治的な歴史を解釈する助けになるものとしてマルクス主義よりかなり優れていると証明されるかもしれないという可能性もまた考察されよう。

自由主義的階級闘争理論は、ナポレオンの敗北と最終亡命に続くブルボン復古王政期に、フランスで洗練された形で発生した。一八一七年から一八一九年までにかけて、二人の若い自由主義者、シャルル・コントとシャルル・デュノワイエが『ヨーロッパ監査官』というジャーナルを編集しており、その第二巻(号)を編集し始めるときに、もう一人の若い自由主義者、オーギュスタン・ティエリが彼らと親密に共同作業を行った。『ヨーロッパ監査官』は自由主義の急進的変種を発展普及させ、これはハーバート・スペンサーと彼以降の時代まで自由主義思想に影響を及ぼし続けていた。それは真正自由主義の核心的要素――ゆえに、真正自由主義を歴史的に定義する要素の一つ――と見なされていい(本書の『真の自由主義と偽の自由主義』を見よ)。この意味で、『監査官』グループの世界観の考察は自由主義の千変万化の概念に形状と内容を与える役に立つので大いに重要である。そのうえ、それはアンリ・ド・サン=シモンと彼の信奉者および他の経路を通して社会主義思想にも衝撃を与えていたのだった。コントとデュノワイエは自分たちの学説を産業主義と称していた。[17]

産業主義には幾つかの重大な源泉があった。その一人はフランス自由主義者イデオローグ学派で最後の最も有名なアントワーヌ・デスチュ・ド・トラシーであり、彼の友達のトーマス・ジェファーソンはフランスでの発表に先駆けてアメリカでの彼の『経済論考』の翻訳と出版を手配した。[18]デスチュ・ド・トラシーの社会の定義(1970: 6)はきわめて重大である。

社会とは専ら純粋に一連の連続的な交換である。それは、最も未熟な開始段階からその最も偉大な完成に至るまで、その持続のどんな瞬間においても、決して他の何ものとはならない。そしてこれこそは我々が社会に与えうる最大の賛辞である。というのも交換とは契約する二当事者がつねにともに利を得るところの賞賛すべき取引であり、ゆえに社会はそのメンバー全員のために絶えず更新される、優位の不断の連続だからである。

デスチュ・ド・トラシーの立場は、「商業は社会そのものである。……それは人の特質である。……それはすべての人間的な善・財の源泉である……」[19]というものであった。商業は万能薬であり、彼の思想を学んだ生徒の言葉で言えば、それは「世界を文明化し、合理化し、平和化する力」[20]であった。

シャルル・コントとデュノワイエ、およびオーギュスタン・ティエリと彼の兄弟アメデは、パリの自由主義的社会生活の中心地たる、アンジュー通りのデスチュ・ド・トラシーのサロンによく来るゲストであった。ここで彼らは、スタンダール、バンジャマン・コンスタン、ラファイェットらと交際したのである。[21]

コンスタンの一八一三年に出版された作品『征服と簒奪の精神』は産業主義思想のもう一つの源泉である。近代文明と古代舟身を鋭く区別し、ゆえに近代に独特の目的とこの時代に相応しい組織の形態に関する疑問を切り出した第一人者は、デュノワイエによってコンスタンに帰せられる。[22]反動的著述家のモンロジエからは、貴族が平民より優勢であるわけについて征服の重要性に関する見解が引き出された。ナポレオン時代の軍国主義と専制政治に対する自由主義的反動も一部の役割を担った。[23]

ジャン=バティスト・セーの役割

しかしながら、産業主義への主たる知的影響源が、J・B・セーの『経済学論考』、一八一四年に出版された第二版と一八一七年の第三版であったことはほとんど疑いがない。[24]一八一五年春のナポレオン百日天下のころに、コントとデュノワイエは十中八九セーと私的な知り合いになっていた。彼らはティエリと一緒にセーのサロンの参加者であった。[25](コントは後にセーの養子になった。)セーの『論考』の第三版には『ヨーロッパ監査官』上で一二〇ページ以上の二部のレビューが捧げられた。[26]セーの考えでは、富を構成するのは価値あるものであり、価値は効用に基づく。

〔異なる生産方法は〕すべて、人が物の効用を創造したり増大したり、物の価値を増大したり、産業で勤労していたり、富を生産していたりする瞬間から、あれやこれやの方法で……或る状態の生産物を取り立てて、それをもっと効用と価値が大きい他の状態にすることから成り立つ。[27]

価値創造に貢献する社会のメンバーはみな生産的であると考えられるが、セーは企業家の場所に面目を施す。彼は創造的企業家に導かれた自由経済の無限の可能性に初めて気づいた一人であった。或る解説者が彼のメッセージを要約するとおり、

産業の生産的な力は無知と国家の悪政にしか制限されない。啓蒙を広めて政府を改善せよ、あるいはむしろ、彼らが仇なすことを妨げよ。そしたら富の増加に課されうる制限はなくなるだろう。[28]

しかしながら、富を生産するよりむしろひたすら消費する人物の範疇が存在する。非生産的階級は特に、軍、政府、国家後援の聖職者を含んでいる[29]――旧体制と連携する「反動的」階級と称することができよう。

しかしセーは、さもなくば生産的なはずの要素が、特権を得るために国家権力を利用するときに、反生産的かつ反社会的な活動が可能になることと、実はこの利用と活動がありふれているということにとても良く気づいていた。

しかし、諸々の個人的利益が互いに中和されるか統制されるがままにされてはいないならば、もはや一身上の利益は無難な基準ではない。もしも或る個人や或る階級が競争の結果を逃れるために権威の助力を求められるならば、それは共同体全体の擬制において特権を得ているし、ついで必ずしも生産的サービスを行わず、その私的利益のために消費者に課された一部事実上の税から成る利益を確保でき、その税は通例では権威と共有されており、ゆえに不正にその支持を添えている。立法機関がこの種の特権のしつこい要求に抵抗するのはとても難しい。その志願者はそれによって利益を得る生産者であり、彼らは大いなるもっともらしさをもって、彼ら自身の利得が勤勉で産業的な階級ひいては国民への利得であり、彼らの労働者と彼ら自身が産業的階級ひいては国民のメンバーであると述べることができる[30]

かくして、生産者間(たとえば雇用者と労働者の間)には利益の調和がある一方で、生産者と非生産者(後者は政府認可の特権を不当利用することを選んだ生産者階級のメンバーを含む)の間には自然な利益闘争が続発する。或る学者が言ったとおり、セーと彼の弟子の標語はこうなるだろう。「万国の生産者よ、団結せよ!」[31]

『ヨーロッパ監査官』の社会哲学

コントとデュノワイエとティエリの『ヨーロッパ監査官』での本質的業績は、セーと初期自由主義者の観念を祖述して、闘争的信条に鍛え上げたことであった。[32]

産業主義はそれ自体を社会の一般理論に配役する。それは自分の必要と願望を満足させようと励む行為者を開始点に取りたてて、社会の目的は人の必要と願望の満足に役立つ財とサービスという最広義の「効用」を創造することであると断定する。人はこれらを満たすために行為するとき、三つの手段を利用できる。すなわち彼は、自然が自生的に提供するものを利用する(これはかなり原始的な環境でしか発生しない)か、他人が生産した富を略奪するか、それとも彼が富を生産するために労働するか、以上のいずれかである。[33]

どの所与の社会においても、略奪で生計を立てる者と生産で生計を立てる者の間には鋭い区別を引くことができる。前者はコントとデュノワイエによって、「怠け者」「貪り手」「クマバチ」などと多様な仕方で特徴付けられている。後者は特に「勤勉」「ミツバチ」と称されている。生産することなく生きようと試みることは「野蛮人として」生きることである。[34]生産者は「文明化した」人々である。[35]

文化的進化とは、社会全体に指名されるのが、主として略奪と怠惰の人々であってよいか、それとも生産と勤勉の人々であってよいか、というようなことであった。かくして、産業主義は単なる社会動態の分析ではなく、また歴史的発展の理論でもある。実際に、産業主義的理論の多くは歴史進化の説明に埋め込まれているのである。

『産業党宣言』

これまでの社会の歴史はすべて、略奪階級と生産階級の間の闘争の歴史である。コンスタンに従えば、戦争での略奪は古代のギリシア人とローマ人に好まれた方法であったと言われるものだ。西洋でのローマ帝国の没落をもって、ゲルマン民族の野蛮人は征服によって土地の領主として自らを定着させた。とりわけフランク侵略後のフランスとノルマンコンクエスト後のイギリスで封建制が発展した。それは本質的に、「貴族」の兵士エリートが国内の百姓に対して強奪を行うためのシステムであった。[36]封建制の下にあったのは次のものである。

怠け者の貪り手が働き者を服従させる、或る種の上位関係。これが前者に対し、何も生産せずに存在する手段を、あるいは貴族として生存する手段を与えたのである。[37]

中世の間ずっと、貴族は自分の百姓だけではなく、特に自分の領土を通り過ぎる商人をも搾取していた。貴族の城とは盗賊の巣窟以外の何ものでもなかった。[38]十七世紀の町の台頭をもって、フランスの国土を共有する「二つの民族」、略奪的な封建エリートと町の生産的平民がいたと言ってもいいかもしれない。

強欲な上流階級は結局、同等に強欲な王に出世しており、彼の「暴力を伴う窃盗、貨幣制度の変更、破産、欧州、産業に対する妨害行為」はフランス史のありふれた題材である。[39]「領主が強いときほど、彼らは自分が引っ掴めるものすべてが自分に属すると考えていた。王が頂に立つとすぐに、彼らは同じ仕方で思考し行為した」。[40]平民に、あるいは第三身分に生産される富が増大するほど、追加的な富が寄生的階級の搾取のために使えるようになった。コントは国王の貨幣操作と法定貨幣法に対して特に厳しく、いかに「割引〔les escomptes〕が公衆の犠牲で投資家と財政家を金持ちにした」ことかに関して十七世紀の著述家を引用する。[41]

近代においては、怠惰な階級の主な類型は、専業的な兵士、修道士、貴族、爵位を授かったブルジョワ、そして政府であった。[42]

「平和と自由」

平和賛成派の立場は産業主義的な見地にとって中心的であった。実際、『ヨーロッパ監査官』の各号のタイトルページに掲載されたモットーは「ペ・エ・リベルテ」――平和と自由であった。

軍国主義と常備軍への産業主義者の攻撃は無慈悲で獰猛だった。デュノワイエはヨーロッパの常備軍の「生産」が「大虐殺、強姦、略奪、大火災、悪徳と犯罪、腐敗、荒廃、そして人民の奴隷化」から成り立っており、「彼らは文明の不名誉と災難であった」と述べる。特に呪詛を吐かれているのは、重商主義、あるいは「その産業の生産物の排他的支給、他の全員の排除を要求する、勤勉であるふり……独占の精神」に生み出された戦争であった。イギリスの帝国主義的政策に対する恨みごとの勢いで、デュノワイエが意味ありげに述べるには、

この勤勉ぶりっこの結果は、産業の精神が強奪の精神そのものよりもっと敵対的な原理になり、文明の敵がもっと多くなったことであった。

産業主義者の見解では、修道院生活は怠惰と無気力を促進する(しかし以下の私の批判を見よ)。近代では、貴族はもはや勤勉な者から物を直接奪って暮らしてはいけず、政府の地位を占め始め、「税の名において」新しい形の貢ぎ物で暮らし始めた。[43]貴族の地位を得たブルジョワジーのメンバーはもはや彼ら自身の商売には向かわず、ついには生計の手段をもたずに政府資金庫に与った。最終的に、政府は「統治の見返りに社会から受領した価値に等しいものを、極まれにしか社会に供給しなくなった」のである。[44]

産業主義的著述家は社会が完成に近づくにつれて自分たちの大義の最終勝利が目撃されるだろうと期待していた。コントは「怠けて貪る階級の絶滅」を待ち望み、そして「各人の富が彼の長所に、つまり彼の効用に、ほとんど直接に比例するような、しかもほとんど例外なしで、残虐や無用ではないかぎり誰も極貧ではいないような」社会秩序の発生を楽しみにしていた。

搾取者としての国家職員

産業主義的著述家が最も緻密に調査した同時代の搾取者階級は政府官僚であった。コントが述べるには、

決して見失ってはならないことは、公職員がその職員としての資格において絶対的に何一つ生産しないこと、対照的にも、彼が勤勉階級の生産物の上にしか存在しないこと、そして、彼は生産者から受け取らなかったものは何一つ消費できないことである。[45]

産業主義者の「経済的」要素への傾注に忠実にも、デュノワイエは「公共職能の遂行に伴う給料が政府に及ぼす影響」を調査した。[46]アメリカ合衆国――いつもの模範的産業主義的国家(彼らは十九世紀初期に著述していた)――では、公務の給料は大統領のそれでさえ低い。典型的には、アメリカの職員はその仕事に対する「賠償金」〔インデムニティー〕を受け取っており、いわゆる「給料」〔サラリー〕は何一つ受け取っていない。[47]他方フランスでは、権力の行使が世論をぎょっとさせるような「儲かる職業」になってしまったというのは事実ではないが、単一の社会階級に独占されてしまっている。[48]

しかしながら、公共支出は政府の適切な機能とは逆関係にある。政府が年に四千万フランの費用をかけるアメリカ合衆国では、年に三十億円かけるイギリスよりも、財産が安全を保障されている。[49]公共雇用の特徴は私企業のそれとは逆である。たとえば、

普通の労働では幸福な多産に結果するはずの野心が、ここでは破滅の原理であり、公的職員が自らの請け負う職で進捗を願うほど、自然と彼の利益を増して高める傾向があり、彼は、彼に支払う社会の重荷になってゆく。[50]

政府の職を切望する個人の数が増加するにつれて、二つの傾向が現れる。政府権力が拡大することと、課税の負担と政府の歳出が増加することだ。公職あさりの新たな群れを満足させるために、政府はその活動範囲をあらゆる方向に拡張する。「すぐにどんな活動も、どんな思考も、〔人々の存在の〕どんな一部にも、その行為から逃れる手段がなるなる」まで、人々の教育、健康、知的生活、道徳に関わり始め、食料供給の十分さを見張り、産業を規制する。[51]職員は「他の全員の厚生に仇なす階級」になってしまっている。[52]

政府職の搾取は貴族階級の私的な独擅場であることを終えてしまっているから、それは社会の万人の目標になった。[53]フランスにはおそらく「最も巨大な行政機関が用立てられるより十倍多くの権力への熱望」があり、「ここでは十二の王国を統治する人員に容易に出会えるだろう」。[54]

国家職員を強調することで、産業主義的著述家によって、大革命の新しく驚くべき解釈が提出される。一七九一年の人間と市民の権利の宣言は自然権および市民権として政府職への就職を公言した。「フランス革命とは、〔政府の〕地位が誰に占められるかを決定すること、あるいはむしろ、民族を搾取するのが貴族カーストの人々であるべきか、それとも勤勉階級から来た人々であるべきかを決定する戦争でしかなかったと言うことができる」。[55]

マルクス主義との類似性

成長中の国家職員階級が生産的階級を貪欲に搾取することが『監査官』自由主義者によって焦点を当てられることで、マルクス主義とのもう一つの接点が生まれる。ときおり書き留めてきたとおり、[56]マルクス主義は二つのかなり異なる国家の見解を含んでいる。最も目立つのが、国家のことを、社会的生産過程での立場で定義される搾取階級、つまり資本家の優勢の手先と見るものだ。しかしながらマルクスはときに、国家自体のことを、独立的に搾取するエージェントとも特徴付けていた。かくして、彼は『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』において、実に産業主義的な精神で次のとおり記した。

この行政権力、すなわち、膨大な官僚制と軍事組織をもち、広い階層を抱き留める創意に満ちた国家機構をもち、数十万人の軍隊を別としてなお数十万に上る大勢の公務員をもって、フランス社会の本体を網のように絡み取り、その毛穴をすべて詰まらせる、このぞっとするような寄生的行政府は、絶対君主制の日に湧き出てきた。

マルクスによれば、あらゆる政権がこの巨大な寄生虫の成長を援助していた。彼が言い加えるには、

共通の利益はすべて、社会のメンバー自身の活動から物をかっぱって……村共同体の橋と校舎など自治的財産から鉄道と国府とフランス国立大学まで、政府活動の対象とされた……。ついで〔革命での〕優勢をめぐって争った諸党はこの莫大な国家建造物の所持を戦勝者の主な戦利品と見なした……。[57]

後の作品『フランスにおける市民戦争』で、マルクスは「社会の自由な運動を太らせて行き詰まらせる国家という寄生虫」のことを記す。[58]

かくして、「寄生虫・国家」の着想はマルクスが明瞭に表現しているものである。しかしながら分かっているとおり、マルクスの数十年前すでに『ヨーロッパ監査官』集団が、略奪し「貪る」精神の現代社会での代表例として国家を選び抜いていたのだから、現代社会のマルクスがこの着想を創出したと主張するのは不正確である。[59]

興味深いことに、産業主義とマルクス主義のもう一つの類似性は(マルクス主義的な意味での)イデオロギーの学説にある。産業主義的見解によると、生産的階級と搾取的階級それぞれの利益に奉仕する観念と価値観がある。コントは、かたや富むために汗水垂らす人々が卑しいと見なされ、かたや「同僚の血を流すことで富を得る」人々が尊いと見なされる封建時代に典型的な判断に触れて、そのような本質的に野蛮な観念は古典古代の文脈に置かれることで覆い隠されなければならなかったと断言する。[60]

コントは虚偽意識と称されるもの、すなわち、当人の利益に反し、対抗階級の利益に有用な観念である、或る階級のメンバーによって潜められるもののの存在すら仄めかす。彼が述べるには、

奴隷が自らの主人に対して行う戦争は我々の目には何か恥ずべきものに映る。自分たちの産業の生産物が、自分を奴隷にする者の戦利品であるはずはないとて戦う人々がおり、これは卑しい戦争である。ポンペイウスがカエサルに対して行った戦争は我々を魅了するが、その目標は誰が世界で暴威を振るう一味となるかを判定することであり、ともに自分自身の努力で生計を立てることができない人々の間で生じるものであり、これは尊い戦争である。我々の意見をその源泉に遡れば、その大部分が我々の敵に生産されてきたことに気づくだろう。[61]

初期ティエリと産業主義

オーギュスタン・ティエリ[62]は『ヨーロッパ監査官』での交流の期にコントとデュノワイエの産業主義的哲学を共有しており、おそらくこれを一層急進的に重視することすらしていた。デスチュ・ド・トラシーの『モンテスキューの法の精神の論評』に対するティエリのレビュー・エッセーはこの関連において特に重要である。彼はデスチュ・ド・トラシーの堅牢なレッセフェール信奉に賛成した。

政府は被治者の自由にとって良いものであるべきだし、それは政府が最小可能な程度に統治を行うときである。政府は民族の富にとって良いものであるべきだし、それは政府が富を生産する労働に基づいて可能なかぎり少なく行為するときであり、可能なかぎり少なく富を消費するときである。政府は公共の安全保障にとって良いものであるべきだし、保護が利益をもたらす以上に犠牲をもたらすことのないかぎり……、それは政府が可能なかぎり多く保護するときである。政府が改善されるとは、政府行為の権力が失われることである。被治者が余地を得るおりにふれて、進歩がある。[63]

ティエリはモンテスキューに反対して、デスチュ・ド・トラシーの側に就く。いわく、「商業は交換から成り立ち、それは社会そのものである」、そして「課税はつねに邪悪である」。[64]

ティエリはデスチュ・ド・トラシーの『論評』から称賛を引用するときに、市場経済参加者に対する多年生の誹謗中傷を打ち砕く。

商業を自らの社会的身分にする人々に対して活気を与える、正しく理解された商業の申し立て上の強欲さに関して言えば、それは曖昧な叱責であり、最も無味乾燥で無意味な喚き散らしに分類されるのが当然である。強欲さとは、征服者と廷臣という二つの貴族的な職業のように、暴力と悪巧みで他人の財を奪い取ることから成り立つものだ。しかし商人は他のすべての勤勉な男たちのように、自分の利益を自分の才能にしか求めず、信用と法律に訴えながら、自由に到達される同意にのみ求めるのである。[65]

政府の職能は、「外部からの危険にせよ、乱暴で怠惰な者が労働に必要な秩序と平和を乱そうと脅かすにせよ」、安全を保障することである。産業主義のレトリックとしての意味を埋め込んだ直喩法においてティエリが断言するには、これらの制限を超えたどんな政府も、適切に述べられる政府であることをやめてしまう。

その行為は、兵士に侵入された地の住民に対して働かれる行為に分類されることができる。それは支配へと堕落する。関与者の数にかかわらず、また彼らが自らに発する協定にも、彼らが得る権原が何であるかにもかまわず、支配へと堕落するのである……。[66]

ティエリは他の産業主義的著述家が軍国主義に抱く恐怖を共有しながら、「帝国と遠方植民地の排他的独占を維持するために頻りに行われてきた不条理で破滅的な戦争」に関して、賛成をもってデスチュ・ド・トラシーを引用する。彼が宣言するに、これは商業には当てはまらず、むしろ「支配狂」に当てはまるものだ。[67]

引き続き、ティエリは急進的自由主義の実に広い活動範囲の綱領を概説する。何よりもまず先に、略奪的上流階級と戦った、中世の自由コミューンの精神が復活しなければならない。この精神が「文明の連盟を支配者と怠け者の連盟に対立」させる。この知的運動が大きな社会運動と協力するだろう。

産業に拍車を掛けられる、不可視で絶えず活発な力たる労働が、同時にヨーロッパの全人口をこの一般的な運動に投じるだろう。国民の生産力がその足枷をすべて引きちぎるだろう。……自由で正直な労働の方が奴隷を見張る奴隷業よりも利益を上げると気づいて、その衛星が逃亡することで、産業が武装を解除させるだろう。産業は警察が労働の享受と美徳を抑圧すると思い出させることで、その言い訳と口実の力を剥奪するだろう。産業はその力が人々に対価を支払わせるようなサービスをもっと低費用で提供することで、その所得の力を剥奪するだろう。権力がその事実上の力と外見上の効用を失うほど、自由が得られ、自由人は緊密に団結するだろう(強調は原文ママ)。[68]

上述の節で書体的に強調されている注目すべき文での見解において、適切にも、ティエリは完全なリバタリアン・アナキズムに傾きがちな自由主義のコスモポリタニズムを明白に表明する。国家とは「ヨーロッパの住民を分割する支離滅裂で無秩序な塊……征服や外交的寄贈で形成され増加した領土」にすぎない。結局、人々を国家に繋ぎ止める結束は絶たれるだろう。そしたら、

或る社会から他の社会への通行はほとんど感じられないだろう。連邦が国家に置き換わり、緩くともばらけない利益の繋がりが人間と法律の専制に置き換わり、政府への傾向、人類の最初の情熱が、自由共同体に道を譲るだろう。帝国の時代は終わり、結社の時代が始まる。[69]

ティエリは大闘争の補助を担う歴史的著作物の役割を際立たせる。「我々はこれら農奴の息子であり、これら貢納者の息子であり、征服者の欲しいままに貪られてきたブルジョアジーの息子であって、我々を我々たらしめるものすべては彼らに負っているのである」。この伝統の記憶を我々に伝えなければならなかったはずの歴史が、「我々の父の仇にこっそりと買収されてきた……。奴隷は明日しか解放せず、我々の記憶は家族のことと主人の行為のことしか我々に思い出させなかった」。[70]あたかも彼自身の中世チャーター街の作品を前触れするかのようにして彼が言い加えるには、

もしも自由主義的で巧みな筆が、我々の歴史を、すなわち町と結社の歴史を引き受けるものであったならば、我々はみなそこに社会秩序の意味を見ていただろう。すなわち、それを生み出し、それを滅ぼしたものが見えていただろう。[71]

産業主義批判

産業主義批判のために、多少の問題がここで指摘されてもいいだろう。

第一に、産業主義的著述家は――財産とは権利というより「事実」ないし「事物」とさえ称しうる、とコントが主張するように――権利の論点を横っ飛びでいなすことにより、彼らの理論に後者を含めにくくなるようお膳立てしたということがありそうだ。

第二に、正当な財産の交換よりも生産に集中することにより、彼らは虚偽の攻撃目標を創造する。かくして、「僧侶」――という言葉で実は彼らは宗教的秩序を丸ごと意味している――は「怠け者」と見なされて封建領主と山賊と同じ範疇に置かれるし、まったくの故意において、また自発的慈善で生きる貧者と国家援助で生きる貧者を区別しない。[72]産業主義者は「物質的」価値の存在と同様「非物質的」価値の存在に関する彼ら自身の強弁の含意を理解していなかったと思われよう。

最後に国家に関して言えば、またも自発的交換ではなく生産のことを無造作に語ることにより、産業主義者は「消費者」に強制される財――安全保障――の生産という油断のならない論点を避けようと試みているようだ。

ギゾーとミニエ

フランソワ・ギゾーは特にマルクス主義者によって、しばしば階級闘争の歴史家としてティエリと同じ範疇に置かれてきたけれども、彼の見解は決定的に異なっていた。ギゾーには『監査官』グループとのコネクションはなく、その代わりにドクトリネールなロワイエ=コラール氏のジュスト・ミリュー(大雑把に訳せば、黄金の中庸)な見解の支持者であった。(その名に値する思想学派はないと言われてきた)ドクトリネールの指導者として、ギゾーには歴史学的作品に適用する産業主義のような指針的理論が欠けていた。彼はつねに折衷派として、一八二〇年代のしばらくの間も、当時通俗的な言い回しであった階級と階級闘争のことを記していた。しかし彼は競争する諸階級のうち一つが勝利するだろうとか勝利するはずだとか考えることがなかった。対照的にも、ギゾーによれば、闘争は彼自身の日にはすでに貴族と第三身分が結合する「フランス国民」という大総合に結果していた。[73]

思想家として――そしてもちろん彼の政治的役割において――ギゾーは本質的に国家志向であった。彼のフランス史の説明の主たる目的は「ブルジョワジーと王権は同盟ではなかっただけでなく、互いに押しのけ合う力であった」と示すことだった。[74]彼は国王と第三身分の歴史的協力を裏書きしており、これはルイ=フィリップの七月革命(1830–48)で、特にギゾー自身の任期に、ある種の絶頂に達した。

ギゾーのティエリへの影響は年を追うごとに強まり、かの大いなる国民、ラ・グランド・ナシオンを創造するためのあらゆる階級の歴史的貢献を強調し、特に、王がその認知と優位によって第三身分に賜した援助を強調する方針がすべてになった。ティエリの作品のこの傾向は『第三階級の形成と進歩の歴史に関するエッセー』(以下の批判を見よ)で最高潮に達し、ギゾーに触発された出版物の文書集の紹介として発表された。

ティエリの友人であり同僚の歴史家であるフランソワ・ミニエもしばしばマルクス主義的階級紛争理論のもう一人の自由主義的先駆者として言及される。もちろんミニエは革命期の貴族と第三身分の闘争のことを著したけれども、計り知れない溝が本来の産業主義者の階級紛争分析から彼を引き離している。ミニエが一八三六年にフランス革命軍のことを記したとき、生産との結合にかかわらずブルジョワジーそのものを美化するある種の背理法が達せられた(強調付加)。

ヨーロッパの古い貴族軍はすべて、 これらのブルジョワに対し、  初めは軽蔑しながら、ついで恐怖しながら屈してきた。   剣を手に取って使うよう強いられて、 ブルジョワジーは英雄的な兵士と偉大な名将になり、彼らの考えの恐るべき力に軍事的栄光の威信と征服の権威を加えた。[75]

ミニエはシャルル・コントを歴史の「偉人」の軽視のかどで窘めもした。ここでのコントの見解は産業主義的な未遂の「あらゆる価値観の横断的評価」の一部のことであって、それによると、たとえば小さな製造会社や羊飼いの方がカエサルやポンペイウスのような破壊的征服者より高く価値付けられるものであった。しかしミニエはもっと、平凡ならざる意味で、ヘーゲル的な気質の男であった。彼によると、コントは

人間性の最も偉大な前進には、代表者と擁護者のように、ナポレオンの剣が十五年かけて全ヨーロッパを貫く近代的平等性の原理の先陣を切ったように……最も偉大な指揮者がいたことを忘れた。同様に、彼は人民を統治する難しい術に対して異議を唱えた。[76]

実質的に十九世紀フランスの汚職ブルジョア国家の体現であったアドルフ・ティエールの友人かつ共著者にして、ティエールのようにナポレオン讃美の徒であったミニエは単純に、セー、コント、デュノワイエ、若いティエリとは異なる知的世界に住んでいたのだった。

ティエリの寝返り

最終的に、ティエリは洗練された産業主義的な階級闘争分析をかなり粗野なものに交換した。同時に、彼は産業主義的見解があまりにも厳格で理論的な構図に歴史を服属させたせいで歴史を「改竄した」と信じるようになった。[77]

私がそれまで閉じこもっていた一般的で純粋に政治的な考察の類は、それから初めて、無味乾燥で制限されていると思われるようになった。抽象から具体へ降り立ち、あらゆる側面での国民の生活を思い描き、同じ社会の底にある人々の異なる階級の敵対関係の問題を解決するために出発しよう、原始的人種のことをその本来の多様性において研究しようという強い意向を感じた。[78]

もっと「科学」に専念するようになるにつれて、「政治じみたところが拭い去られた」、とティエリは説明する。[79]実のところ、彼は虐たげられ迫害された人々との歴史家として、初めにノルマンコンクエストの時代のサクソンのように苦しめられている敗北した「人種」、次にフランスで軽蔑されていた第三身分の権力と自尊心の向上の年代記編纂者として著述するのをまったくやめなかった。

しかしティエリのもっと有名な作品での階級紛争の論じ方には欠陥があり、結局は致命的な瑕疵があった。たとえば中世と近代初期のフランス史を扱うとき、社会の勤勉で創造的な要素が「第三身分」に、そして搾取的な怠け者と寄生虫が封建的貴族とその子孫のみに、限定形容詞なく同定される。かくして、セーがすでに暴いていた類の、第三身分あるいはブルジョワジーの内部に存在する重大な区別が除去された。市場で行為する人々と、結局は国家を通して実力行為する人々の間に引かれた、早期の分析的な境界線が消滅した。こうしてティエリは彼自身の方法論的原理に背いたのだった。「歴史家に与えられた偉大な戒律は混同する代わりに区別することである」(スタドラーの引用1955: 283)。

最終段階

ティエリ最後の主著たる『第三身分の形成と進歩の歴史に関するエッセー』には、原初の産業主義的学説は事実上何も残っていない。その代わりに、独り善がりで自己満足的なホイッグ史観でのケーススタディーに当たるものが我々に提示される。結局、フランス史の約七〇〇年分の出来事と人物はみな、確かに法の下の平等に基づくが権力と歴史的栄光にも富んだ近代フランス集権国家を成し遂げるため、いわば、いまやティエリの理想となったものの勝利を成し遂げるために共謀していたのだとなる。繰り返し繰り返し、フランス王が主に第三身分のメンバーに官僚の職を与えることで第三身分を持ち上げたかどと、伝統的な方法でフランスを「創造した」かどが褒め称えられる。リシュリューはその外交政策と国内政策の両方が「平民のために、官職を別としても、国家に名誉の場所を増やした」ため等しく称賛に値すると賛辞を送られる。[80]フランスの捕食的な重商主義の立案者たるコルベールは「フランスの産業再建」を計画した平民として美化され、その税資の気前良さを、著述家、学者、および「男の全階級」に分配したかどで称賛される。[81]続きも分かるだろう。

見通しのこの徹底的な移動はどう説明されるのか? 主な理由は一八四八年にティエリが六月幾日の暴力含む社会主義的扇動を経験し、社会革命の亡霊が終生彼に憑きまとったことに求められる。彼はフランス革命での階級の役割に関する自分の作品から社会主義的悶着屋が糧を引き出せないことを切望した。ティエリは一八五三年にエッセーの序文で、もはや階級の概念には更なる必要がないと仄めかす。いわく、「国民の大衆」は「今では一つであり同質である」。同質の国民を「相互に敵対的な階級」に「分割する傾向があるシステムによって広められた偏見」だけが、さもなくばの場合を示唆できるだろう。[82]幾人かが数世紀ほど遡ろうと望む今日のブルジョワジーと労働者の敵対関係は「公序のすべてにとって破壊的」である。かくて皮肉にも、社会主義的階級紛争概念の主なインスピレーションであった思想家の一人は近代世界のどんな階級紛争も範疇的に否認して終わったのだった。しかも部分的には、彼は社会主義者に作り変えられた階級の今の危険性に恐怖したせいでそうしたのであった。[83]彼はこれを、もはや第三身分の歴史はありえないという言明の形で述べる――アベ・シエイエスが一七八八年に計画どおり公知したように、いまや第三身分こそが「すべて」なのだ、と。[84]

自由主義者と七月王政

一八三〇年に権力を握ったルイ=フィリップの七月王政は、ブルジョワジーの腐敗、特に、大規模で露骨な利権あさりで悪名高い。(コルムナン・ド・ラ・エ1846を見よ)。これはアレクシ・ド・トクヴィルが次のとおり記した政権であった。

〔中流階級〕は空虚な政府職の塹壕に篭もり、そのような職の数を膨大に増やして、自身の産業で暮らすのと同じぐらい財務省に金を貰って暮らすことに慣れた。[85]

自由主義者の多くは主たる新政権の受益者であって、彼らがそれまでルイ=フィリップに与えてきた、そしてそのときも与え続けていた支持の見返りに、褒美を受け取っていた。デュノワイエはトリエステでムーラン及びステンダール執政の知事にされ、ドヌーは国立中央文書館の管理人に再任された。[86]王政復古下での自由党の他の人々も同等かそれ以上にされた。ギゾーはもちろん新秩序の主要人物の一人であった。彼はミニエとティエールとヴィルマンとともに「国家の最高部署、政権の最も輝かしい寵愛を共有した」。[87]しかしながらいまや盲目で貧困のうちにあるティエリ自身は援助を懇願するような立場へと変えられており、ついにはギゾーに少額の恩給を与えられるまでになっていた。[88]

かくして、一八三〇年後に多くのフランス人自由主義者が知らぬ間に保守主義に漂流していた理由の分析は、社会主義の増大中の脅威だけではなく、「自由主義的」ルイ=フィリップ政権が彼らに与えた権力と富の新しい結合によっても説明されなければならないだろう。

他の自由主義的階級闘争理論

産業主義的階級闘争学説は決して自由主義的理論史におけるこの疑問で取り扱う最初または唯一のものではない。理論的にもっと純粋なアプローチはおそらく、アメリカに併存した政治思想の伝統に見受けられるはずだ。アメリカ合衆国では、ジェファーソニアンとジャクソニアンの幾人かが政治的に関連ある意味でまた階級の問題に取り組んでおり、産業主義学派を偲ばせる結論に到達していた。カロラインのジョン・テイラー、ウィリアム・レジェット、それとジョン・C・カルフーンは、社会の残りの部分である生産者を搾取するために政治的権力を利用すると彼らが見るところの社会集団――階級――の鋭い観察者にして批評家であった。

ジョン・テイラーは、法定貨幣としての紙幣を発行する特権を得た銀行家と、「公共改善」と保護関税の受益者、「独立法定金利」に基づいた新貴族による革命の原理の裏切りに怒り狂った。アメリカ社会はこの「封建制度の実質的復活」による特権者と非特権者に分割されてしまった。[89]

二十年後の一八三〇年代に、北部急進主義者のウィリアム・レゲットは同一の搾取的階級を非難した。徹底的なジェファーソニアンにしてアダム・スミスとJ・B・セーの弟子であるレジェットは、政治経済の原理とはアメリカ共和国の原理と同一であると、つまりレッセフェール、統治しすぎるな、だと考えた。この平等権のシステムは、レジェットが攻撃のために選び抜いた国家縁故の銀行家のうち、特に新貴族によって転覆されつつあった。

我々の下にも特権階級がないだろうか? スクリップ上流階級は? 間接的にながら確実に国家権力を支配し、金がらみの最も豊かな源泉を独占し、骨折り仕事での働き手から一切れの乏しい堅パンをもぎ取る、特別免責を付与された貴族は? 要するに、我々の下には、ヨーロッパの憐れな農奴のごときが、傲慢な主人がいないだろうか? ……これらの疑問にどう答えた方がいいのか訝る者にはウォールストリートを歩かせてみればいい。[90]

アメリカ人貴族は銀行支配を含む強い政府に自然と賛成した。対照的にも、レジェットは「銀行と信用システムからの政府の絶対的分離」を要求した。[91]

ジョン・C・カルフーンは彼の『政治論』で国家の課税権力に焦点を当てた。「その必然的結果」は、

共同体を二大階級に分割することである。一方は、現実には税金を支払っており、もちろん専ら政府を援助する負担のみを負っている人々から成り立ている。他方は、この支払金を通した収益の受領者であり、事実上政府に扶養される人々から成り立っている。あるいは、もっと少ない言葉で言えば、納税者と税消費者に分割することなのである。しかしこれの結果は政府の財政行為とこれに関連する政策の全過程において彼らを敵対的関係に置くことである。[92]

自由主義的階級闘争のレトリックは十九世紀後半に頻繁に応用された。それはイギリスでは穀物法撤廃の扇動で繰り返されるテーマとしてコブデンとブライトたちに用いられた。それは、自分を裕福にするために市場よりも国家を用いる資本家、「金権家」に対するウィリアム・グラハム・サムナーの攻撃の土台になった。

国家が帰ってきた

昨今では階級と階級紛争の創造者としての国家の概念が復活中であるように見える。シーダ・スコチポルを含む学者集団は『国家が帰ってくる』という意味深長なタイトルのアンソロジーを出版した。[93]その序章でスコチポルは、一九五〇年代と六〇年代に通俗的であった「政治と政府活動を社会中心で説明する仕方」を逆転し、政府自体を「独立的な行為者」と見なす、発生中の「知的大変化」のことを語っている。

我々は「市民社会」の多様な集団から独立に行為する国家の能力を、マルクス主義的な「相対的自律性」の考え方に許されるよりもっと体系的に認識しなければならない、と彼女は論じる。特に他の国家との関係に関して言えば、或る国家はしばしばその私的利益はおろか集団的私的利益への配慮では説明できないような仕方で行為するかもしれない。スコチポルは、社会の長期的利益や多様な社会集団に発生する利益にとっての国家行為の適切性に言及することで国家活動が頻りに正当化されるのに、「自律的国家行為は普通、権威を増長し、政治的延命を確固とし、関連する政策や政策観念を作り出した現職者の国家組織が社会統制を強化するという形をとる」と書き留める。スコチポルはスザンヌ・バーガーを引用しつつ、社会的「利益」が政治を決定するという見解は他に理由がないかぎりは一面的で薄っぺらいものだと強調する。なぜならば、

「国家干渉の時期と特徴」が「組織的な戦術と戦略」だけでなく「利益自体の内容と定義」にも影響するからである。……幾人かの学者が率直に強調してきたとおり、国家のイニシアチブは、コーポラティストな形態、……利益集団と階級が重大な政策で国家それ自体の構造と活動に依存するような純粋に社会経済的な現象の形成を、そして言うまでもなく政治的能力を創造し、今度は社会的行為者が影響力を及ぼそうとする。[94]

マルクス主義体制における階級闘争

科学的見地から言えば、自由主義的理論――階級紛争の源泉を国家権力の行使に位置づけるもの――には従来のマルクス主義的分析に比べて著しい長所がもう一つある。自由主義的理論はマルクス主義的社会事態の構造と機能に脚光を当てられるのである。マルクスが記したところでは、「共産主義者の理論は、私有財産の廃止、という一語に総括することができる」。[95]けれども、本質的に私有財産を廃止してしまった共産主義的諸社会は、どう見たって階級廃止の道程ではなかった。これはマルクス主義的理論家に深い自己反省を促し、社会主義的諸国の経験的現実を説明するための純粋に「経済的な」階級紛争分析の不適切性に関する不満を正当化してしまった。[96]にもかかわらず、自由主義的階級紛争理論は富と特権と影響力へのアクセスが国家機構の支配で決定されるところの文脈におけるそのような問題を扱うのにやはり理想的なほど適している。

*参考図書

アリックス、Allix, Edgard (1910) “J.-B. Say et les origines d’industrialisme,” Revue d’Économie Politique 24: 304–13, 341–62.

オーギュスタン=ティエリ、Augustin-Thierry, A. (1922) Augustin Thierry (1795–1856), d’après sa correspondance et ses papiers de famille, Paris: Plon-Nourrit.

ベッテルハイム、Bettelheim, Charles (1985) “Reflections on Concepts of Class and Class Struggle in Marx’s Work,” Carole Biewener (tr.), in Stephen Resnick and Richard Wolff (eds.) Rethinking Marxism: Struggles in Marxist Theory. Essay for Harry Magdoff and Paul Sweezy, Brooklyn, N. Y.: Autonomedia.

ブランキ、Blanqui, Jérôme-Adolphe (1837) Histoire de l’Économie Politique en Europe depuis les anciens jusqu’ à nos jours, Paris: Guillaumin.

カルフーン、Calhoun, John C., (1953) A Disquisition on Government and Selections from the Discourse, C. Gordon Post (ed.) Indianapolis: Bobbs-Merrill.

キャロル、Carroll, Kieran Joseph (1951) Augustin Thierry (1795–1856), Washington, D.C.: Catholic University of America Press.

コンウェイ、Conway, David (1987) A Farewell to Marx: An Outline and Appraisal

of his Theories, Harmondsworth, Eng.: Penguin.

コルムナン・ド・ラ・エ、Cormenin de la Haye, Louis-Marie “Timon” (1846) Ordre du Jour sur la Corruption Électorale, 7th ed., Paris: Pagnerre.

デスチュ・ド・トラシー、Destutt de Tracy, Antoine Louis Claude (1970 [1817]) A Treatise on Political Economy, Thomas Jefferson (tr.), New York: Augustus M. Kelley.

デュノワイエ、Dunoyer, Charles (1880) “Notice Historique sur l’Industrialisme,” in Oeuvres 3 Notices de l’Économie Sociale, Paris: Guillaumin.

ユーゼントとマーティン、Euzent, Patricia J. and Martin, Thomas L. (1984) “Classical Roots of the Emerging Theory of Rent Seeking: the Contribution of Jean-Baptiste Say,” History of Political Economy 16 (2) (Summer).

ゲアハルト、Gerhard, Dietrich, (1960) “Guizot, Augustin Thierry, und die Rolle des Tiers État in der französischen Geschichte,” Historische Zeitschrift, 190, 2.

ゴスマン、Gossman, Lionel (1976) Augustin Thierry and Liberal Historiography, Beiheft 15, Theory and History.

グルナー、Gruner, Shirley M. (1973) Economic Materialism and Social Moralism,The Hague/Paris: Mouton.

アレヴィ、Halévy, Élie (1965 [1907]) “The Economic Doctrine of Saint-Simon,” in idem, The Era of Tyrannies: Essays on Socialism and War, R. K. Webb (tr.), Garden City, N.Y.: Anchor/Doubleday.

アルパ、Harpaz, Ephraïm (1959) “‘Le Censeur Européen’: Histoire d’un Journal Industrialiste,” Revue d’Histoire Économique et Sociale, 37 (2): 185–218, (3) 328: 57.

ハーシュマン、Hirschman, Albert O. (1991) The Rhetoric of Reaction: Perversity, Futility, Jeopardy, Cambridge, Mass.: Harvard University Press.

ハント、Hunt, Richard N. (1974) The Political Ideas of Marx and Engels: I Marxism and Totalitarian Democracy, 1818–1850, Pittsburgh: University of Pittsburgh Press.

ジェームズ、James, Michael, “Pierre-Louis Roederer, Jean-Baptiste Say, and the Concept of Industry,” History of Political Economy 9 (4) (Winter 1977).

ケネディー、Kennedy, Emmet (1978) A Philosophe in the Age of Revolution: Destutt de Tracy and the Origins of “Ideology,” Philadelphia: American Philosophical Society.

コンラートとセレンニー、Konrad, George and Szelényi, Ivan (1979) The Intellectuals on the Road to Class Power, Andrew Arato and Richard E. Allen (trs.), New York: Harcourt Brace Jovanovich.

レジェット、Leggett, William (1984) Democratick Editorials: Essays in Jacksonian Political Economy, Lawrence H. White (ed.), Indianapolis: Liberty Press.

レーニン、Lenin, V. I. (1943 [1917]) State and Revolution, New York: International Publishers.

リッジョ、Liggio, Leonard P. (1977) “Charles Dunoyer and French Classical Liberalism,” Journal of Libertarian Studies 1 (3) 153–78

リッジョ、Liggio, Leonard P. (1990) “The Concept of Liberty in Eighteenth and Nineteenth Century France,” Journal des Économistes et des Études Humaines 1 (1) (Spring).

マルクス、Marx, Karl and Friedrich Engels (1963 [1930]) The Communist Manifesto, D. Ryazanoff (ed.) New York: Russell and Russell.

マクレラン、McLellan, David (1973) Karl Marx: His Life and Thought, New York: Harper and Row.

メーリング、Mehring, Franz (1962 [1918]) Karl Marx: The Story of His Life, Edward Fitzgerald (tr.), Ann Arbor: University of Michigan Press.

ミニエ、Mignet, François “Le comte Sieyès: Notice,” Notices et portraits historiques et littéraires, I (Paris: Charpentier, 1854), 88.

ミニエ、Mignet, François “Charles Comte: Notice,” Notices et portraits historiques et littéraires, II (Paris: Charpentier, 1854), II, 102.

ミーゼス、Mises, Ludwig von (1957) Theory and History: An Interpretation of Social and Economic Evolution, New Haven: Yale University Press.

マッジ、Mudge, Eugene Tenbroeck (1968 [1939]) The Social Philosophy of John Taylor of Caroline: A Study in Jeffersonian Democracy, New York: AMS Press.

ノルテ、Nolte, Ernst (1983) Marxismus und Industrielle Revolution, Stuttgart: Klett-Cotta.

オッペンハイマー、Oppenheimer, Franz (1975 [1907]) The State, John Gitterman (tr.), New York: Free Life.

ロスバード、Rothbard, Murray N. (1970) Power and Market: Government and the Economy, Menlo Park, Cal.: Institute for Humane Studies.

セー、Say, Jean-Baptiste (1964 [1880]) A Treatise on Political Economy, or the Production, Distribution, and Consumption of Wealth, from the 4th ed., C. R. Prinsep (tr.), New York: Augustus M. Kelley.

セー、Say, Jean-Baptiste (1815) Cathéchisme d’Économie Politique, ou Instruction Familière, Paris: Crapelet

スコチポル、Skocpol, Theda (1985) Bringing the State Back In, Cambridge, Eng.: Cambridge University Press.

スミスソン、Smithson, Rulon Nephi (1973) Augustin Thierry: Social and Political Consciousness in the Evolution of Historial Method, Geneva: Droz.

ソローキン、Sorokin, Pitirim (1947) “Qu’est-ce qu’une classe sociale?” Cahiers Internationaux de Sociologie, 2: 68–71.

シュトゥーケ、Stuke, Horst (1976), “Bedeutung und Problematik des Klassenbegriffs: Begriffs- und sozialgeschichtliche Überlegungen im Umkreis einer historischen Klassentheorie,” in Ulrich Engelhardt, Volker Sellin, and Horst Stuke (eds.) Soziale Bewegung und politische Verfassung: Beiträge zur Geschichte der modernen Welt. Stuttgart: Ernst Klett.

ティエリ、Thierry, Augustin (1851) Dix Ans d’Études Historiques, Paris: Furne.

ティエリ、Thierry, Augustin, (1859 [1853]) Essai sur l’Histoire de la Formation et des Progrès du Tiers État Paris: Firman-Didot.

トクヴィル、Tocqueville, Alexis de (1959), Recollections, Alexander Teixeira de Mattos (tr.). J. P. Mayer, ed., New York: Meridian.

ウェルチ、Welch, Cheryl B. (1984) Liberty and Utility: The French Idéologues and the Transformation of Liberalism, New York: Columbia University Press.

ホワイト、White, Lawrence H. (1986) “William Leggett: Jacksonian Editorialist as Classical Liberal Political Economist,”

History of Political Economy

18 (2) (Summer): 307–24.

[1] 当代マルクス主義的理論家のシャルル・ベッテルハイム1985 22参照、彼はマルクスが「階級と階級紛争の独特で整合的な着想に到達しなかった」ことを認める。

[2] Karl Marx and Friedrich Engels, Selected Works in Three Volumes (Moscow: Progress Publishers, 1983), 1, 108–09.

[3] ピティリム・ソローキン(1947)によると、マルクスは社会階級の一貫的な着想を提出したことがなく、たとえば『宣言』の出だしで言及される集団は「カースト、封建的秩序、あらゆる種類の抑圧者と被抑圧者、中世企業のヒエラルヒー」を含んでいる。ソローキンの見解では、マルクスは自分の理論のこの基本的な欠陥によく気づいており、突然終わった『資本論』最終章はこれに対処しようとして失敗した試みであった。階級の意味に関するマルクス主義者の永続的な混乱はまたマルクス自身の知的混乱に起因するかもしれないと、ソローキンは考えた。ミーゼス1957: 113参照、「マルクスは階級とカーストの概念を混乱させることで問題をうやむやにした」。

[4] Karl Marx, Capital: A Critique of Political Economy, 3, The Process of Capitalist Production as a Whole, Friedrich Engels (ed.) (New York: International Publishers, 1967), 885–86.

[5] 同。Friedrich Engels, “Preface,” 3.

[6] 同7。

[7] ホルスト・シュトゥーケ1976。シュトゥーケは、マルクス主義創始作における約五十の相異なり相互に矛盾した用語の使用をリスト化した(70–71)。

[8] ノルテ1983: 599 n. 79参照、彼は、エンゲルスが『共産主義の諸原理』を執筆するわずか前に、彼がブランキの「卑しむべき経済史」と称したものを自ら新聞で攻撃したことを観察する。

[9] Marx to J. Weydemeyer, March 5, 1852, Karl Marx and Friedrich Engels, Selected Correspondence (Moscow: Progress Publishers, 1965), 67–70.

[10] 同69。マルクスはここで、彼自身の貢献とは、階級が人間社会の永久的特色ではなく、階級闘争がプロレタリア独裁ひいては階級なき社会に達すると示したことに限られると述べる。シャルル・ベッテルハイム1985: 69はこの点でマルクスに同意する。「これらの要素〔「プロレタリア化、歴史的傾向、最終段階〕を欠かせば、我々は階級闘争の存在と歴史過程上での彼らの行為を認識する膨大な数の歴史家にすでに長らく擁護されていた着想に直面する」。

[11] 三人目はそれほど重大ではないイギリス人の著述家、ジョン・ウェイドである。マルクスは後に手紙で経済学者のリカード、マルサス、ミルらに言及しており、彼らは「異なる階級の経済的基盤が必ずや彼らの必然的で増大中の敵対を生み出す」のはいかにしてかを解明した。同じ手紙で「実に馬鹿げた〔カール・〕ハイツェン」の「階級の存在〔が〕政治的な特権独占の存在と結合している」(強調は原文ママ)という見解をマルクスが嘲弄していることは注目に値する。

[12] Marx to Engels, July 27, 1854. Selected Correspondence, 87.

[13] Engels to H. Starkenburg, January 25, 1894. Karl Marx and Friedrich Engels, Selected Correspondence, 468.

[14] マルクスの古典的伝記で、フランツ・メーリング1962, 75はこの着想を一八四三年から四四年までのマルクスがフランス革命の修史に没頭していたパリ滞在期に遡る。いわく、「フランス革命の研究は、平民の階級の歴史的存在を十七世紀まで追跡してフランス史を間断なき階級闘争として提示した偉大な歴史的俊才がブルボン王政復古下で始めて発展させた『第三身分』の歴史文献へと彼を案内した。マルクスはこれらの歴史家に歴史的な階級の本性と彼らの闘争の知識を負っている……。マルクスは常に階級闘争理論の創始を否認していた」。デイヴィッド・マクレラン1973: 95がメーリングに記述された過程を圧縮していわく、「社会発展での階級闘争の役割をマルクスに示したのは一八四三年夏のフランス革命の歴史書の読書であった」。ギゾーもティエリも自身の分析をかの革命に集中していないが、いずれにせよ、彼らが中世史と近代史を幾世紀にも及ぶ絶え間ない階級闘争として強調したことがマルクスに階級闘争を印象付けたということは実にありそうなことだ。

[15] レーニン1943: 30参照、「階級闘争の理論はマルクスではなくマルクス以前のブルジョワジーに創造されたものあり、一般的に言って、ブルジョワジーに受け入れられている」(強調は原文ママ)。レーニンの言明の第二の部分には、しかしながら問題がある。

[16] 言うまでもないが、ハーシュマン教授は同様にして軽率にも、フランス人ともどもイタリア人のレッセフェール自由主義者にありふれていた「強奪」の概念の使用にも無知である。ここでは数人の例を。フランチェスコ・フェッラーラFrancesco Ferraraは “Introduzione” [1851], Federico Bastiat, Armonie Economiche (Turin: Unione Tipografico, 1945), 53で、バスティアを次のとおり易しく言い換える。「社会主義と保護主義は同じ顔の二つのほほでしかない。ティエールとプルードン、オディエとブラン〔保守主義者と社会主義者〕にはたった一つの源泉しかないし、たった一つの同じ意図しかない。強奪〔スポリャツィオーネ〕の精神が彼らの両方を生み出したのだ……」。著名な経済学者にしてパレートの近しい友達であるマッフェオ・パンタレオーニは“Il secolo ventesimo secondo un individualista” [1900], in idem, Scritti varii di economia (Milan/Palermo/Naples: Remo Sandron, 1909), 2に次のとおり記す。「公権力は、歴史的には最も実用的な強奪の器具であって、初めは上流階級の手に、ついで有産階級の手にあったが、いまや人民のパンとサーカスを斡旋する手段となるだろう」。アントニオ・デ・ヴィティ・デ・マルコがDue Commemorazioni: Angelo Messedaglia, Maffeo Pantaleoni (Rome: Attilio Sampaolesi, 1927), 49に記すには、第一次世界大戦後のイタリア政治界の「富裕者と貯蓄者と自由〔すなわち非組合員〕労働者を――つまり、生産者を――もっと迅速に強奪するべく寄生的な全集団の同盟によって組織された課税デマゴギー〔ラ・デマゴージャ・トリブタリア〕」(強調は原文ママ)を含む集産主義的かつ干渉主義的な特色にむかっ腹を立てていた。一八八九年、イタリアの自由貿易ジャーナル『エコノミスタ』は旗に「納税者と消費者の擁護」というスローガンを載せた運動の支持を宣言したとき、明らかに同一の概念的枠組みで動いていた。エミリオ・ファンツィーナ、“La ‘buona stampa’ liberista e le premesse ideologisce del liberismo di sinistra agli inizi del periodo crispino (1887–1890), Critica Storica, new series, 11, No. 2 (June 1974), 84.

[17] レナード・P・リッジョ教授は産業主義的著述家の重大さを認識しており、彼らの思想の現代的研究を先駆けたという大きな功績がある。彼の非常に重要な記事1977と、同1990の後注に引用された関連的な作品を見よ。また、デュノワイエ1880、アルパ1959、アレヴィ1965、アリックス1910も見よ。

[18] ジェファーソンにとって魅力的だったのは、彼自身の反ハミルトニアンな見解に似通っていた、公債と課税と銀行独占と公共支出で社会の富を無駄遣いする政府に対するデスチュ・ド・トラシーの非難であった。ケネディー1978: 228参照。

[19] 同180。どういうわけかは知らないが、これがケネディーにデスチュ・ド・トラシーの立場を「経済的決定論」と言及させる。

[20] 同183。

[21] 同270–72。後に、ケネディーはオーギュスタン・ティエリとデュノワイエをデスチュ・ド・トラシーの「古い友達」と言及する(同290)。またシェリル・B・ウェルチLiberty and Utility: The French Idéologues and the Transformation of Liberalism (New York: Columbia University Press, 1984), 157–58も見よ。オーギュスタン・ティエリがデスチュ・ド・トラシーの『モンテスキューの法の精神の論評』のレビューで「『論評』の原理はまた我々の原理でもある」と述べる。『ヨーロッパ監査官』7 (1818), 220。

[22] デュノワイエ1880, 175–76、エフライム・アルパ “Le Censeur Européen,” 197。

[23] アリックス “J-B. Say et les origines de l’industrialisme,” 305。

[24] 同。マイケル・ジェームズ “Pierre-Louis Roederer, Jean-Baptiste Say, and the Concept of Industry,” History of Political Economy, 9, No. 4 (Winter 1977), 455–75は、セーは幾つかの重要な概念に関してイデオローグのロデレールに恩義があるという線に賛成を論じるが、『ヨーロッパ監査官』集団に直接強力な影響を及ぼしたのはやはりセーであったと認める。

[25] アルパ “Le Censeur Européen,” 204–05.

[26] 『ヨーロッパ監査官』I (1817), 159–227, II (1817), 169–221.

[27] ジャン=バティスト・セーCathéchisme d’Économie Politique, ou Instruction Familière (Paris: Crapelet, 1815), 14。イギリスの労働価値説とは対照的であった、大陸派の思想家に典型的な、効用の強調に注目せよ。

[28] アリックス “J.-B. Say et les origines de l’industrialisme,” 309。アルパ356参照、「現代の物質文明の莫大な進歩は『ヨーロッパ監査官』の十二冊で素描されている、ないし、少なくとも示唆されている」。

[29] アリックス “J.-B. Say et les origines de l’industrialisme, 341–44。

[30] ジャン=バティスト・セーA Treatise on Political Economy, or the Production, Distribution, and Consumption of Wealth, tr. from the 4th ed., C. R. Prinsep ([1880] New York: Augustus M. Kelley, 1964), 147。セーが現代の「レントシーキング」論の重要な源泉であったことは、パトリシア・ユーゼントとトーマス・L・マーティン “Classical Roots of the Emerging Theory of Rent Seeking: the Contribution of Jean-Baptiste Say,” History of Political Economy, 16, No. 2 (Summer 1984): 255–62で説得的に論じられている。彼らが指摘するとおり、why「those engaged in any particular branch of trade are so anxious to have themselves made the subject of regulation …」について、セーは非常によく通じていた。Treatise, 176–77参照。

[31] アリックス “J.-B. Say et les origines de l’industrialisme,” 312。

[32] デュノワイエ1880: 179が言うには、「もしもこれらの著述家は産業に関する彼らの観察の政治的帰結を知覚したということが疑わしいならば、それらの観察はその進歩にきわめて好ましかったという政治に新たな光を浴びせていることになる。彼らの著述はこの科学を専門職にしていた幾人かの人々の手に渡り、彼らの観念に革命を起こした。そのようなものは特に、『監査官』の著者に生み出されたこれらの著述の効果であった」。

[33] シャルル・コント “Considérations sur l’état moral de la nation française et sur les causes de l’instabilité de ses institutions,” Censeur européen, I, 1–2, 9。フランツ・オッペンハイマーの分析との類似性は明らかである。彼のThe State, John Gitterman (tr.), C. Hamilton (intr.) New York: Free Life, 1975を見よ。

[34] シャルル・コント “Considérations sur l’état moral,” 11。

[35] 同19。

[36] 同9。

[37] シャルル・コント “De l’organisation sociale considérée dans ses rapports avec les moyens de subsistance des peuples,” Censeur Européen, 2 (1817), 22。

[38] Charles Comte, “Considérations sur l’état moral,” 14. Thierry’s famous work on the Norman Conquest is already foreshadowed in this early essay of Comte’s, in his attack on William the Conqueror. 同. 19–20.

[39] 同20–21。

[40] 同21。

[41] 同22。

[42] シャルル・デユノワイエ “Du système de l’équilibre des puissances européenes,” Censeur Européen, 1, 119–26。

[43] シャルル・コント “De l’organisation sociale,” 33。

[44] シャルル・デュノワイエ “Du système de l’équilibre,” 123。引き続きデュノワイエが述べるには(124)、「もしも、まさしくこのサービス〔社会メンバーの自由と財産の保護〕を行う際に、彼らにその価値以上の対価を支払わせ、彼らが自分で手に入れられるものより高い価格を支払わせるならば、それが追加的に得るものはすべて実に彼らから控除された何かであり、この点で、それは収奪の精神に応じて行為している」。政府の課税権力の独占を承諾するかぎり、デュノワイエがここで問題に直面することは注目されるだろう。政府が安全保障を提供する際には、「自然にかかるより多くの費用を支払う義務を彼ら〔市民〕に負わせるべきではなかった」という彼の断言(125)にも同じことが当てはまる。これは自由市場アナキストのギュスターヴ・ド・モリナーリがすぐに暴露した産業主義的論理のひびである。

[45] “De l’organisation sociale,” 29–30.

[46] “De l’influence qu’exercent sur le gouvernement les salaires attachés à l’exercice des fonctions publiques,” Censeur européen, XI, 75–118.

[47] 同77。

[48] 同78。

[49] 同80。

[50] 同81–82。

[51] 同86。

[52] 同88。

[53] 同89。

[54] 同103。

[55] “De l’organisation sociale,” pp. 34–35。これはまたギュスターヴ・ド・モリナーリに採用された一七八九年の革命解釈でもあった。本書の「フランス自由主義の中心性」を見よ。デュノワイエが記した数年後、一八四八年二月の第二共和政宣言に続く日に、モリナーリがフレデリック・バスティアに同伴してパリ市庁舎に赴いたとき、彼は熱狂的な公職あさりを直接目の当たりにした。バスティアは彼が出版を計画したジャーナルの出版が新政府に承認されるか確認することを望んでいた。市庁舎でモリナーリが「急いで勝利の果実を採取している征服者の群集」のことを思い出していわく、「彼〔バスティア〕が目にした人々は荒れ狂う群衆の最も込んでいるところに果敢に突っ込んでいって、政府職の新分配者が任に就いた至聖院に手を差し入れようと驚くばかりの努力をする。おそらく何らかの重要な地位をねだりに行ったのだと思われる。なぜならば彼らはあの日あえて甚大な革命のお祭り騒ぎのど真ん中に入っていって、大使ないし少なくとも長官になることを期待していたに違いないからだ。しかしバスティアは同胞市民の支出で生きるための贔屓を乞いには行かなかった。彼は単純に、彼らを啓蒙する許可を要請しにいったのである。バスティアはその超人的な努力にもかかわらず、ひれ伏す懇願者の分厚い壁を完全に突破することができなかったので、〔彼の新しい雑誌である〕『フランス共和国』は認可なしで出版されたのだった」。Georges de Nouvion, Frédéric Bastiat: sa vie, ses oeuvres, ses doctrines, Paris: Guillaumin, 1905から引用。

[56] リチャード・N・ハントThe Political Ideas of Marx and Engels: I, Marxism and Totalitarian Democracy, 1818–1850 (Pittsburgh: University of Pittsburgh Press, 1974), 124–31、デイヴィッド・コンウェリA Farewell to Marx: An Outline and Appraisal of his Theories (Harmondsworth: Penguin, 1987), 162–64.

[57] “The Eighteenth Brumaire of Louis Bonaparte,” in Marx and Engels, Selected Works, 170–71.

[58] “The Civil War in France,” in 同293.

[59] ハントThe Political Ideas of Marx and Engels, 124.

[60] コント “De l’organisation sociale,” 29–30.

[61] 同36–37n.

[62] ティエリについて、オーギュスタン=ティエリ1922と、キャロル1951と、スミスソン1973と、ゴスマン1976を見よ。

[63] オーギュスタン・ティエリ “Commentaire sure L’Esprit des Lois de Montesquieu,” Censeur européen, 7 (1818), 228, 230。

[64] 同205–06。

[65] 同217。

[66] 同244。

[67] 同218。

[68] 同256–57。

[69] 同257–58。

[70] 同251–52。

[71] 同255。

[72] シャルル・コント “De la multiplication des pauvres, des gens à places, et des gens à pensions,” Censeur Européen, 7, 1n。

[73] シャーリー・M・グルナーEconomic Materialism and Social Moralism, The Hague/Paris: Mouton, 1973, 108–10は、ギゾーの立場を次のとおり適切に要約する。「彼は有名になりたかったのであり、ゆえに自分のアイディアを最新式と見なされたかったのである。彼は「非科学的」に見えることを欲しなかった。したがって、彼は何かを率直に否定することは決してせず、ここそこで些細なことを修正しようとするので、最終的にそこからは何も残らなくなる。真っ向からの反対はない……。彼の優柔不断な果断さ――これこそ実にギゾーの問題の全体であり、歴史だけでなく政治でも、基本的には立憲な保守主義者がときに急進的自由主義者を捕まえることを頻りに望むように見える」。グルナーが辛辣に言い加えるには、「ギゾーと他の『ブルジョワ』自由主義者の間には大した違いがなかったと示唆することは、一定の集団、たとえば一八四八年のかの〔おそらくマルクスとエンゲルスを含む〕共産主義者の利益でもあった」。

[74] ゲアハルト (1960), 305。

[75] フランソワ・ミニエ “Le comte Sieyès: Notice,” Notices et portraits historiques et littéraires, I (Paris: Charpentier, 1854), 88。

[76] フランソワ・ミニエ “Charles Comte: Notice,” 同II, 102。

[77] 「作り物の成果を得る際に失われた多くの時間と労働の後、私は完全に異なる諸期間に同じ定式を押し付けることで自分が歴史を改竄していたことに気づいた」。オーギュスタン・ティエリ、Dix Ans d’Études Historiques (Paris: Furne, 1851 [1834]), 3。『ヨーロッパ監査官』での彼の最初のイギリス史の小論で、それぞれの時期にその独自性を残す必要を感じ始めたと言い加える。いわく、「私はスタイルとマナーを変えた。私の以前の厳密さはもっと柔軟になった……」、同6–7。彼の早期の急進的・自由主義的な見解について、彼は同7で「私は私自身明瞭なアイディアをもっていなかったような将来を熱烈に切望していた」と言う。

[78] 同8。

[79] 同12。

[80] ティエリ Essai sur l’Histoire de la Formation et des Progrès du Tiers État (1894 [1853]) Paris: Calmann Lévy), 172.

[81] 同195。

[82] 同1–2。

[83] マルクスは脚注211に引用されたエンゲルスへの手紙でティエリの『エッセー』のことを話し合う。興味深いことに、彼はティエリを称賛している。「関連した全体としてではなくとも、(1)いかに最初から、または少なくとも町の台頭の後に、フランスのブルジョワジーは、イギリスでの商業と産業のあちこちでとは異なり、自身を議会や官僚制などに任命することで大きすぎる影響力を得たことか。これは確かに今日のフランスでも特徴的なままである」。Selected Corr. 88。

[84] オーギュスタン・ティエリ “Preface,” Essai sur l’Histoire de la Formation det des Progrès du Tiers État

[85] アレクシ・ド・トクヴィル Recollections, Alexander Teixeira de Matos (tr.) J.P. Mayer (ed.), New York: Meridian, 1959. 2–3.

[86] アリックス 318–19。

[87] A・オーギュスタン=ティエリAugustin Thierry, 1795–1856 (Paris: Librairie Plon, 1922) 114。

[88] 同112f。

[89] ユージーン・テンブルーク・マッジThe Social Philosophy of John Taylor of Caroline: A Study in Jeffersonian Democracy (New York: AMS Press, 1968 [1939]), 151–204、随所。

[90] ウィリアム・レジェットDemocratick Editorials: Essays in Jacksonian Political Economy, Lawrence H. White (ed.) (Indianapolis: Liberty Press, 1984), 250–51.またローレンス・H・ホワイト “William Leggett: Jacksonian Editorialist as Classical Liberal Political Economist,” History of Political Economy, 18, No. 2 (Summer 1986), 307–24も見よ。

[91] ウィリアム・レジェットDemocratick Editorials, 142.

[92] ジョン・C・カルフーンA Disquisition on Government and Selections from the Discourse, C. Gordon Post (ed.) Indianapolis: Bobbs-Merrill, 1953, 17–19。

[93] シーダ・スコチポルBringing the State Back In (1985), Cambridge, Eng.: Cambridge University Press。タイトルはスコチポルの早期の小論に由来する。

[94] コーポラティストな形態を創造し、ゆえに(彼は「階級」より「カースト」の語を好んだとはいえ、)「階級利益」を作り出す際の国家の役割を強調した学者は、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスである。彼のTheory and History: An Interpretation of Social and Economic Evolution (New Haven: Yale University Press, 1957), 113–15を見よ。ミーゼスはこの主題を三十年前に調査したが、スコチポルに言及されていない。また、マレー・N・ロスバードのPower and Market: Government and the Economy (Menlo Park: Institute for Humane Studies, 1970), 12–13で、彼が「ジョン・C・カルフーンのような『保守主義者』はマルクス主義的な階級搾取の学説を『先取り』していたと断言することが流行になってきた。しかしマルクス主義的な学説は錯誤的にも、自由市場上にその利益が衝突し紛争する「階級」があると考えている。カルフーンの洞察はあべこべも同然である。カルフーンは『階級』と紛争を創造するものが国家の干渉それ自体であったと見て取ったのである」と記すところも見よ。ロスバードもまた「カースト」という用語を好む。いわく、「カーストは国家が作る集団であり、それぞれがそれ自体の既定の特権と任務の集合をもっている」、同198, note 5。

[95] “Manifesto of the Communist Party,” in Karl Marx and Friedrich Engels, Selected Works, 47.

[96] ジョルジュ・コンラートとイワン・セレンニーThe Intellectuals on the Road to Class Power, Andrew Arato and Richard E. Allen (trs.) (New York/London: Harcourt Brace Jovanovich, 1979) xiv-xvi, 39–44、および随所。

(出典: mises.org)

  1. weeklylibertyの投稿です