民主主義――失敗した神
ハンス=ヘルマン・ホッペ著
理論と歴史
歴史を正確に理解するためにはいかに理論が不可欠かを、最も抽象的な水準で示したい。歴史――時間の中で展開する出来事の連続――は「盲目的」である。それは原因と結果について何も明らかにしない。たとえば、封建制ヨーロッパが貧しかったこと、君主制ヨーロッパがもっと豊かだったこと、および民主制ヨーロッパがさらにもっと豊かだったこと、そしてまた、低税率と少規制の十九世紀アメリカが貧しかったこと、かたや高税率と多規制の当代アメリカが豊かであること、以上について我々は同意するかもしれない。けれども、ヨーロッパは封建制ゆえに貧しかったのか、そして君主制と民主制ゆえにもっと豊かに成長したのか? または、ヨーロッパは君主制と民主制なのにもっと豊かに成長したのか? はたまた、これらの現象は関係ないのか?
同様に、当代アメリカがかつてより豊かなのは、高税率と多規制ゆえにか、それともそれなのにか。つまり、アメリカは課税と規制が十九世紀のままでもなお繁栄していたのだろうか? 歴史家は歴史家としてはそのような疑問には答えられないし、どれほどの統計データ操作もこの事実を変えられない。経験的出来事の連続はすべて競合的で相互に両立不可能などんな解釈とも両立する。
そのような両立不可能な解釈に関する決定を下すために、我々は理論を必要とする。私が理論で意味するのは、その妥当性がさらなる経験に依存せず、先験的に確立しうる命題のことである。これは人が理論的命題を確立する際にまったく経験なしでもそうできると言っているのではない。そうではなく、たとえ経験が必要であるとしても、理論的洞察は論理的に特定の歴史的経験を拡張し超越すると言っているのである。理論的命題は必然的な事実と関係に関わり、そしていわずもがな、不可能性に関わる。かくて経験は理論を例証するかもしれない。しかし歴史的経験は定理を確立することもそれに反論することもできないのである。
オーストリア学派
経済的および政治的な理論、わけてもオーストリア学派の理論は、そのような命題の宝庫である。たとえば、もっと多い量の財はもっと少ない量の同じ財よりも選好される。生産は消費に先行しなければならない。今消費されたものは将来に再び消費されることができない。市場生産価格以下で固定された価格は永続する不足に導くだろう。生産要素の私的所有なしでは要素価格がありえず、要素価格がなければ費用会計は不可能である。紙幣の供給増加は総社会富を増やすことができず、既存の富を再分配できるにすぎない。独占(自由参入の欠如)は競争よりもっと高い価格ともっと低い生産物の品質を導く。物や物の部分は同時に一人の当事者より多くの者に排他的に所有されることはできない。民主制(多数派支配)と私有財産は両立不可能である。
もちろん理論は歴史の代わりにならないが、理論のしっかりした把握がなければ歴史的データの解釈で深刻な誤りが避けられない。たとえば、傑出した歴史家キャロル・クイグリーは部分準備銀行の発明が産業革命と結びついた空前絶後の富の拡張の主要な原因だったと主張し、無数の歴史家がソビエト式の社会主義の経済的苦境を民主制の欠如に結び付てきた。
理論的な観点からは、そのような解釈は範疇的に拒絶されるべきだ。紙幣供給の増加はもっと大いなる繁栄を導くことができず、富の再分配を導くことしかできない。産業革命期の富の爆発は部分準備銀行なのにもかかわらず起こったのだ。同様に、社会主義の経済的苦境は民主制の欠如のせいではありえない。むしろ、それは生産要素の私有の欠如で引き起こされたのだ。「容認史観」はそのような誤解釈で満ちている。理論は一定の歴史的報告を、不可能であり、事物の本性と両立不可能であるとして我々に排除させてくれる。同様にして、それは歴史的な可能性として、たとえそれが試されなかったとしても、一定の他の物事を支持させてくれる。
修正史観
もっと面白いことに、私はこの本で、初歩的な経済的・政治的理論で武装して、現代西洋史の修正主義的再構成を提示する。国家弱き封建的秩序から絶対君主制国家の台頭、フランス革命で開始し第一次世界戦争で本質的に完成した、君主主義的から民主主義的な国家までの西洋世界の変形、そしてアメリカの「世界帝国」格までの台頭だ。フランシス・フクヤマのようなネオ保守主義的な著述家はこの発展を文明的進歩と解釈してきており、彼らは(民主制のための世界の安全を創造し)西洋――アメリカ――民主制とそのグローバリゼーションの勝利で到達した「歴史の終わり」を宣言した。
神話一
私の理論的解釈は全面的に異なる。それは三つの神話の破壊を含む。第一の最も根本的なものは、先行的な非国家主義的秩序からの国家の発生が以降の経済的かつ文明的な進歩を引き起こしたという神話である。理論は、実際には、どんな進歩も国家制度――のゆえにではなく――にもかかわらず起こったに違いないと書き取らせる。
国家は慣習的には意思決定(管轄)と課税の強制的領土的独占を行使するエージェンシーと定義される。定義によって、すべての国家はその特定の構成のかかわりなく経済的にも倫理的にも欠陥がある。すべての独占者は消費者の観点からすれば「悪い」。独占はここでは特定の生産ラインへの自由参入の欠如と理解される。たった一つのエージェンシーAだけがXを生産してよい、と。
どんな独占も生産ラインへの潜在的な新参入者を妨げて、その生産物の価格を自由参入の場合よりもっと高くし、品質をもっと低くするだろうから、消費者にとって「悪い」。そして究極的な意思決定権力をもつ独占者はとりわけ悪い。他の独占者が劣等財を生産する一方で、独占裁判官は、劣等財の生産を脇においても、すべての紛争事件での究極的裁判官である彼はまた彼自身が関わる各紛争にもけりをつけてしまうから、悪いものを、つまり害を生産するだろう。したがって、究極的意思決定の独占者は紛争を防止して解決する代わりに、彼自身の優位を固めるために紛争を誘発し挑発する。
そのような独占裁判支給を誰も受け入れないだろうというだけではなく、この裁判官の「サービス」に支払われるべき価格を一方的に決定することを彼に許すような独占支給に決して同意しないだろう。予想通りだが、そのような独占者はもっと少ない財を生産してもっと多くの悪を犯すために、かつてよりもっと多くの資源(税収)を使い果たす。これは保護のためではなく搾取と抑圧のための処方である。国家の結果は平和的協業と社会秩序ではなく、紛争、挑発、侵略、抑圧、貧困化、つまり脱文明化である。これこそ結局は国家史が描写するところだ。それは初めに、そして真っ先に、無数の無実の国家犠牲者の歴史である。
神話二
第二の神話は絶対君主制から民主制国家までの歴史的変遷に関わる。ネオ保守主義者がこの発達を進歩だと解釈するだけではなく、民主制は君主制に対する前進に相当し、その経済的かつ道徳的な進歩の原因であると解釈するほとんど普遍的な同意がある。この解釈は民主制があらゆる形態の社会主義の水源であったという事実に照らすと好奇心を呼ぶ。(ヨーロッパの)民主社会主義および(アメリカの)自由主義とネオ保守主義に同じく、(ソビエト連合の)インターナショナル社会主義と(イタリアの)ファシズムと(ナチスの)国家社会主義。しかしながら、もっと重要なことだが、理論はこの解釈には矛盾するのだ;君主制も民主制も国家として欠陥があるが、民主制は君主制よりもっと悪い。
理論的に言って、君主制から民主制までの変遷は相続的独占「所有者」――王子や王君――から一時的で交換可能な――独占「管理人」――大統領と首相と議員に置き換えられた存在以上のものを多かれ少なかれ含んでいる。王君も大統領も悪を生産するだろうが、それでも王君は、独占を「所有」しそれを販売なり遺贈なりするかもしれないから、彼の行為が資本価値に及ぼす影響を気にするだろう。「彼の」領土での資本ストックの所有者として、王君は比較的に将来志向であろう。彼は己の財産の価値を保存なり強化なりするために穏健かつ計算可能的にしか搾取しないだろう。対照的にも、一時的で交換可能な民主的管理人は国土を所有せず、彼は当局にいるかぎりのみ彼の優位を用いるよう許可される。彼はその資本ストックではなくその現在使用を所有する。これは搾取を除去しない。代わりに、近視眼的(現在志向的)かつ計算不可能な搾取を、すなわち、資本ストックの価値にかまわず行われる搾取をする。
また、(君主制下では参入が王君の判断で制限される一方、)国家のすべての立場への自由参入が存在することは民主制の優位ではない。対照的だが、財の生産での競争だけが良いものである。害の生産での競争は良いものではない。実際には、完全な邪悪である。王君は生まれでその立場に収まっており、無害な半可通の文化人気取りや上品な男たちであるかもしれない(そして彼らは「気違い」であれば速やかに活動を制限されるだろうし、必要なら、王朝の所持品に関心をもつ近親者によって殺されるだろう。)鋭くも対照的ながら、大衆選挙による政府支配者の選択は無害や上品な人物にとって頂点に上り詰めることを本質的に不可能にする。大統領と首相は道徳的な遠慮を欠いた扇動家としての彼らの効率性の結果として彼らの立場に収まる。ゆえに民主制は危険な人々しか政府の頂点に上り詰めないだろうということを実質的に保障する。
特に、民主制は社会的時間選好率(現在志向)や社会的「幼児扱い」の増加を促進するように思われる。継続的な増税、紙幣と紙幣インフレ、果てしなき立法の洪水、および着実に層化する「公的」負債に終わる。同じ理由で、民主制はもっと低い貯蓄、増加する法的不安定性、道徳相対主義、無法性、犯罪へ導く。さらには、民主制は富と収入の没収と再分配の道具である。それは立法的に誰か――持てる者――の財産を「取ること」と他人――持たざる者――へのそれの「与えること」を含む。おそらく持てる者が持ちすぎており持たざる者が持たざりすぎている何か価値あるものが再配分されるのだから、どんなそのような再配分も、価値ある人でいようとしたり、何か価値あるものを生産しようとするインセンティブがシステマチックに減少することを含意する。言い換えれば、そんなに良くない人々とそんなに良くない人格的特徴、習慣、品行と身嗜みの比率が増加するだろうし、社会での生活はますます不快なものになるだろう。
最後だが疎かにできないこととして、民主制は戦争行為の抜本的な変化に終わると評される。王君も大統領も自分たちの侵略の費用を(課税で)他人に外部化できるから、彼らはもっと「普段から」侵略的かつ好戦的になる。しかしながら、王君の戦争への動機は典型的には所有・相続の抗争である。彼の戦争目標は有形かつ領土的であり、いくつかの不動産とその居住者への支配を得ることである。彼はこの目標に達するためには戦闘員(敵と攻撃の標的)と非戦闘員とその財産(戦争から除いて無被害で残すべきもの)を識別することに関心がある。民主制は王君の制限戦争を総力戦に変形してしまった。戦争への動機はイデオロギー的なもの――民主主義、自由、文明、人道――になった。目標は無形で掴みどころがない。それは、敗者の「無条件」降伏で進むイデオロギー的な「転向」なのである。(文民の大量虐殺にそのような手段が要求されるのは、人は転向の誠実さを決して確信できないからかもしれない。)そして民主制下では戦闘員と非戦闘員の区別は曖昧になって究極的には消滅し、大衆の戦争参加――徴兵と人民戦争のラリー――は「コラテラル・ダメージ」と同様に戦争戦略の部分になる。
神話三
最後に、破壊される第三の神話はアメリカ風の西洋福祉民主制は代替が効かないという信念である。またもや理論はさもなくばの場合を論証する。第一に、現代福祉国家は「安定的な」経済システムではないからこの信念は虚偽である。ロシア式の社会主義が十年前に内破したのと完全に同様にも、それ自身の寄生的な重みの下で崩壊を運命付けられているのである。しかしもっと重要なことだが、民主制の経済的に安定な代替案は存在する。私がこの代替案に提案する用語は「自然秩序」である。
自然秩序では、あらゆる土地を含むすべての稀少資源が私的に所有され、すべての企業が自発的に支払う消費者や私的なドナーに出資され、財産保護と紛争仲裁と平和創造のラインを含むすべての生産ラインへの参入は自由である。私の本の大部分は自然秩序の機能――論理――について、および民主制から自然秩序への変形の要件についての説明に関わる。
国家がその市民からもっと確実に奪えるようにするために彼らを武装解除する(それによって彼らをもっと犯罪とテロリストの攻撃に傷つきやすくもする)一方で、自然秩序は武装市民に特徴付けられる。この特徴は保険企業によって深められ、これらは自然秩序における安全と保護の提供者として顕著な役割を演じる。保険業者は武装した(武器を訓練した)顧客にもっと低い保険料を申し出ることで銃の所有を促進するだろう。保険業者は彼の本性からして防衛的エージェンシーである。ただ「事故的」な――自ら招いたのではなく、起こしたのでも挑発したのでもない――損害だけが「保険可能」である。侵害者と挑発者は保険担保範囲を拒否され、ゆえに弱いだろう。そして保険業者は顧客に補償をしなければならないから、彼らはつねに犯罪的侵害の予防に関心をもたなければならず、着服された財産の回復、当該損害に法的責任がある者の逮捕に関心をもたなければならない。
さらには、保険業者と顧客の関係性は契約的である。この信念はgameの支配は相互に受け入れられ固定される。保険業者は「立法」できず、契約の条件を片務的に変化できない。とりわけ、もしも保険業者が自発的に支払う依頼人を魅了したいならば、自分の顧客だけではなく特に他の保険業者の顧客との契約上の紛争の予見可能なコンティンジェンシーを提供しなければならない。後者のコンティンジェンシーを満足にカバーする唯一の規定は保険業者が自身を独立的第三者の仲裁に契約的に拘束することである。しかしながら、どんな仲裁でもいいわけではない。紛争する保険業者は仲裁者や仲裁エージェンシーと同意して協定を結ぶに違いないし、それが保険業者にとって同意可能であるために、仲裁者は保険業者と顧客間で同等に最も広い可能な道徳的合意を体現する(裁判手続と実質的判決の)生産物を生産するに違いないかくて、国家主義的条件とは対照的にも、自然秩序は安定的かつ予言可能な法律と増加する法的調和に特徴付けられる。
さらには、保険会社は他の「安全特徴」の発達を促進する。国家はその市民から武器を取り上げることで彼らをまさに武装解除させてしまい、特に民主制国家は彼らから排除する権利を剥ぎ取ることでそうしてしまい、代わりに――多様な非差別、アファーマティブ・アクション――強制統合を促進する。自然秩序では、まさしく私有財産の観念そのものに本来のものである、排除する権利が私的財産所有者に回復される。
したがって、安全保障の生産費用を低くしてその品質を改善するために、自然秩序は差別、隔離、空間的分離、単文化主義(文化的同一性)、排他性、および排除に特徴付けられる。くわえて、国家が平等で孤立的な個人に対する自身の権力を増加するために中間社会制度(家庭的家計と教会と約款と共同体とクラブ)および権威の階級と階層の結びつきを掘り崩す一方で、自然秩序は明確に不平等主義、すなわち、「エリート主義的」、「ヒエラルキー的」、「財産主義的」、「家父長的」、「権威主義的」であり、その安定性は本質的に自然な――自発的に認められた――貴族の自意識の存在に依存する。
戦略
最後に、私は戦略的な問題と疑問を議論する。自然秩序は民主制の外部でどう生じることができるのか? 私は国家権力の正統化と脱正統化における観念と、知識人とエリートと世論の役割を説明する。とりわけ、私は自然秩序のゴールに向かう重要なステップとして脱退――独立的な政治的統一体の蔓延――の役割を議論し、「社会主義化」され「公有化」された財産の適切な私有化の仕方を説明する。
この本は私が一九九〇年代にミーゼス研究所とCLS会議でさまざまに提示したスピーチから生まれた。これらの会議はルー・ロックウェルとバート・ブルマートおよび一九九五年逝去までのマレー・ロスバードに組織され、抽象的なリバタリアン理論を歴史的、社会学的および文化的に位置づけて定着させることでリバタリアニズムを前進させる目的を有しており、それによってその間に(左派対抗文化リバタリアニズムと冷・熱戦争「ニュー」・「ネオ」保守主義とは対照的な)パレオリバタリアニズムとして知られていたものを創造した。ルーロックウェル・コムの先駆的存在の『ロスバード=ロックウェル・レポート』はこの知的運動の最初にして最も即時の表現であり反映であった。他には『戦争の費用』“The Costs of War”と『大統領制を再評価』“Reassessing the Presidency”と『元気あふれるロスバード』“The Irrepressible Rothbard”を含む。『民主主義―失敗した神』はパレオリバタリアン運動を定義しその説明を与える私の試みである。
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