ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの『リベラリズム』、ファシズムと民主主義と帝国主義について

Ralph Raico, Classical Liberalism and the Austrian School, chap. 7.

ミーゼスの『リベラリズム』

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの自由主義的な経済哲学と政治哲学の解説、『リベラリズム』[1]は、幾つかの理由で注目に値する。

第一に、たとえ第一人者ではないとしても、ミーゼスが二十世紀第一級の自由主義的思想家のうちの一人であったことに疑いはありえない。[2]第二に、F・A・ハイエク(1992: 145)がこれを「かなり急いで書いた」[3]と特徴付けたとしても、『リベラリズム』はミーゼスの社会哲学の「本質的意味の簡明な言明を提示す」べく、当代世界に合わせて自由主義を述べ直すための、彼の最も体系的な試みとして残っている(ミーゼス1978a: 3)。そのうえ、後に分かるとおり、ミーゼスのプレゼンテーションには、彼の変種の自由主義的学説に関する非常に重要な論点が幾つか立てられているのである。

ミーゼスの起点はそれ自体かなり興味深い。

自由主義の綱領は、たった一つの言葉に凝縮するならば、財産、すなわち生産手段の私的所有と読み取られなければならない。……自由主義の他の要求はすべてこの根本的要求に由来する。(19、強調は原文ママ)

わざとであろうとなかろうと、ミーゼスの言明は、共産主義の綱領が「たった一つの表現で、私有財産の廃止と要約される」ことができるというマルクスとエンゲルスの『宣言』での声明(1848: 22)と平行している。ちょうどマルクス主義の二人の創始者が社会主義は社会の大多数のメンバーを利するだろうと考えたように、ミーゼスは財産権に基づく自由主義が一般大衆の利益になったと主張した。この点で、彼の立場はおよそ同じ時代に発表されたこの主題でもっと有名な他の二つの作品とは鋭い対照をなしている。

『リベラリズム』より二年早く初出した『ヨーロッパ自由主義史』で、グイド・デ・ルッジェーロは自由主義を「理想主義的」な仕方で扱うことを選び、彼の経済的側面の扱いは二、三個の無味乾燥で敵対的な所見に制限されていた。[4]もう一つの標準的な作品になった一九三六年の『自由主義の台頭』では、その作者ハロルド・ラスキは実に主題の経済的次元を強調した。しかしこの本の副題――『商業文明の哲学』――が示唆するとおり、ラスキは当時の意見の雰囲気を反映していた。彼は、自由主義は中流階級あるいは有産「ブルジョワ」階級の「生物」として専らこの階級の利益のみに奉仕する、と議論なしで単純に決めつけた。

英語圏においては、ミーゼスのアプローチはジョン・スチュアート・ミルの『自由論』に遡る古色蒼然たる一粒の伝統に逆らうことになる。ミルは、この厚かましい題名の作品で、議論と「生活の実験」の自由を強調しておきながら、人類の大多数にとって喫緊の関心事である領域の、経済的自由――労働および交換と契約の自由、財産所有など――の討論を明示的に禁止している。自由主義と社会民主主義の区別を実質的に抹消することで現在の概念的泥沼状態を生み出したのはミル以外の誰にも劣らず、マレー・ロスバード(1995: 277–95)に適切に名付けられたとおりの「ボケ頭のミル」[5]が幅を利かせたせいであった(本書のエッセー『真の自由主義と偽の自由主義』を見よ)。

自由主義的観念の解説者の多くがミルの足跡を辿り、財産権を事実上無視しながらこの主題を論じることが可能であると考えてきた。彼らは、自由主義者志望の者にさまざまな問題を引き起こしてしまうような、財産所有者の権利を擁護する仕事に巻き込まないという利点がある選択を、もっと高次の、もっと倫理的に高潔な道と見なしていた。そのようなものが、たとえばアイザイア・バーリンのような、その全盛期にイギリス一等の自由主義思想家として賞賛されていた人物の実態なのである。自由主義の批評家は、バーリンがいかに「コンスタンの財産権力〔原文ママ〕と完全に規制なき市場の企業関与を体良く看過なり過小評価なりしながら」、コンスタンの知的自由と人格的プライバシーの擁護に焦点を当てていることかについて、鋭く特筆されている(アルブラスター1984: 234と317 n. 29)。バーリンは他の無数の著述家と同じように、彼の自由主義の議論を「国家政策の価値中立性」と「人間的パーソナリティーの必要性」の観点で進めることを選り好む。大洋のこちら側で現在最も喝采を浴びている自由主義的著述家たるジョン・ロールズは、彼の主著(1971: 258)で、「私的財産経済と社会主義からの選択は未決定のままずっと残されている……」と言明することができている。[6]

ミーゼスとイタリアのファシズム

一九二五年、ソビエトの著述家はミーゼスに対してすでに「ファシズムの理論家」とレッテル張りしていた(カペルシュ2002)。『リベラリズム』の出版は彼の敵に相当多くの弾丸を与えた。奇妙なことに、近頃の数十年で言及されてきたこの作品の唯一の文脈は「ファシズムの議論」(47–51)についての短い章に関わっている。ここでミーゼスが宣言するには(51)、

独裁制の確立を目指す〔イタリアの〕ファシズムとこれに似た運動が最善の意図に満ちており、彼らの干渉が差し当たりヨーロッパ文明を救ったことは、否定できない。これによってファシズムが勝ち取った手柄は歴史のうちに永遠に生き続けるだろう。[7]

ファシズムがボルシェビズムから「ヨーロッパ文明を救った」ことは当時の反共産主義者の間にはありふれた見解であった。リベラリズムの初出と同年、ウィンストン・チャーチルはイタリアを訪れてムッソリーニと会い、「レーニン主義の獣じみた食欲と激情に対するファシズモの勝ち誇れる闘争」を公に称賛して、「それが共産主義の毒に対する必要な解毒剤であることを証明した」と主張した(ニューヨークタイムズ1927、ヒューズ1955: 119–23参照)。

にもかかわらず、ミーゼスの『自由主義』での所見と彼の他の著作物での似たような二、三節は、幾人かの社会主義的著述家からの厳しい批判のもとになった。ヘルベルト・マルクーゼ(1968: 10)は一九三四年と後に再版される記事で、自由主義とファシズムの根本的な合同を示すことを試みてこの一節を引用した。ペリー・アンダーソン(1992: 8)は二十世紀政治思想における「頑固な右翼」を討論するに際して、ファシズムに関するミーゼスの早期の立場に軽く触れた。

二十世紀のドイツ語圏での古典的自由主義の率直な擁護者は〔ミーゼスをおいて他には〕いなかった。けれども社会民主左翼と聖職右翼の闘争に牛耳られていたオーストリアの政治界にはこの考え方には少しも余地がなかった。ここでミーゼスは躊躇わず、労働運動に抗する闘争にあっては権威主義的支配が要求されると踏み切った。彼は国境の向こうにムッソリーニの優秀さを見ることができた。かの黒シャツ男は、さしあたっては、私有財産原理を守り、ヨーロッパ文明を救ったのだった。いわく、「これによってファシズムが勝ち取った手柄は歴史のうちに永遠に生き続けるだろう」。二十年代後半にオーストリアを指揮した高位聖職者、モンシニョールのザイペル氏のアドバイザーとして、ミーゼスはドルフュスのイタリアとの同盟に意義を唱えるに際の社会民主党員の愚挙の上に教権独裁制を設置した一九三四年の鎮圧を非難しながらも、彼の三十年代の労働と民主主義[8]粉砕に賛成した。[9]

この点でのミーゼスに対する最も攻撃的な批評家は二十世紀経済思想のドイツ人著述家たるクラウス=ディーター・クローンであった。クローンは或る英訳作品で、ミーゼスのイタリアファシズムへの共感は、「大衆の現代産業社会への参加要求と、潜在的社会紛争の集団主義的規制の必要」に対する彼の恐怖のせいだと断言する。上記で引用された『リベラリズム』からのかの節を引用しながら、クローン(1993: 47)は「一九二七年のころから、ミーゼスは進展する集団主義に対する防波堤をイタリアのファシズムに見出していた」と言明し、人を騙すために、それ以降もミーゼスがファシズムを支持し続けていたと示唆している。[10]

クローンはもっと早い頃の作品(クローン1981: 33–38, 111–17)において、ミーゼスに対するもっと詳細で悪意に満ちた批判を展開する。ここで彼が述べるには、ミーゼスは「いわゆる全体主義理論」を振興する集団に属していて、これは「非合理的な、守勢の言い逃れイデオロギー〔アプヴェーアイデオロギー〕よりも、分析力に欠ける理論」であったが、そのときミーゼスはアメリカでの後の「冷戦フェーズでの」影響力の最高潮に達していた、と述べる。クローンの見解では、ミーゼスは必ずしも、ドイツ人ブルジョワジーが「赤い共和国」への恐れから「権威主義的国家の大概の諸党派の下で頻りに保護を求めていた」ところの自由主義の伝統ほどには、この伝統の内部にいなかった。

彼の社会秩序の構想はその実現に必ず権威主義的補完物を要するところの私有財産の弁明に歓迎される。ちょうど三十年代の終わりから大〔特別〕利益集団がイタリア・コーポラティズムの増大中の利益を露呈したように、ミーゼスもまたこの期間にファシズムへの共感のみならざるものを実証した。(クローン1981: 37)

クローンはマルクーゼやアンダーソンとは違い、ミーゼスのファシズムへの喜びが当時知覚されていた共産主義の脅威への抵抗に基づいていたとは認める。しかしながら、それから続けて彼がすることは、ミーゼスの立場を言い換えで歪めることであった。

ミーゼスによれば、ドイツ[11]とイタリアでのファシスト運動だけが、伝統的な正義と道徳の制限を離れて「血なまぐさい相殺行為」を用意すべき状況の極端な緊急性において躍動を味わえるから、これらは将来の進歩的な力である。たとえ自由主義者の見地から幾つかの過剰が非難されなければならないとしても、これらは何にせよ単なる一時的な「反射行為」にすぎず、情熱の激しさで犯されている。初動の怒りがかき消えるにつれて、ファシストの政策は「もっと穏健な方針をとり、おそらく時代の経過で一層穏健になるだろう」、というのも「独裁制の確立を目指すファシズムとこれに似た運動が最善の意図に満ちており、彼らの干渉が差し当たりヨーロッパ文明を救った」ことは否定できないからだ。「これによってファシズムが勝ち取った手柄は歴史のうちに永遠に生き続けるだろう」、と。(クローン1981: 37–38)

申し立て上でのミーゼスがドイツとイタリアのファシスト運動を「将来の進歩的な力」と言及したというのは、純粋にクローン側での捏造である、ということはただちに指摘されてしかるべきだ。

また、ミーゼスからの抜粋がイタリアファシズムを攻撃する文脈に存在しているということも明白にされなければならない。ミーゼスはファシズムを幾つかの枢要な根拠で批判し拒絶したのである。その非自由主義的かつ干渉主義的な経済構想、その「果てしない一連の戦争を引き起こさずにはいられない」暴力に基づいた外交政策、それと、最も根本的には、究極的な勝利を勝ち取るための、合理的な議論に代わる、その「断固たる暴力的権力への完全な信頼」のかどで(49–51)。[12]

クローンは一九二〇年代初期の共産主義の脅威に関するミーゼスの信念に言及することで、少なくともミーゼスの理由付けを仄めかしてはいるが、彼はもちろんミーゼスの議論を公平に扱わない。これは、暴力的な急進右翼の巻き返しを生み出した国際共産主義の役割を無視する、当代の流行の習癖に倣っている。

半世紀後、偉大なイギリス人歴史家のハーバート・バターフィールド(1952: 50)はイデオロギー的なバイアスが戦間期の歴史を深刻な歪曲に至らしめていたことに不満を言った。

我々の歴史作品のかくも多くの党派心が数十年前には世界に良く知られていた多くの重大な事実を葬り去るよう先導してきたことは不幸である。それら事実の中には、共産主義者が通りに暴徒を呼び出そうと繰り返した試みが、早期ワイマール共和国に絶望的な問題を生み出していたというものがある。実際、彼らの存在は、歴史の次の段階でヒトラーの目的をかくも援助した反革命的な武装団体の発達を説明する助けになる。同様に、第一次世界大戦後のイタリアでの共産主義の行き過ぎた言動とあくどい残虐行為は、それらの記憶をほどんと完全に消し去るほど熱心な反対運動を惹起するのに役立った――ここにおいて、ムッソリーニの指導についてゆく暴力団体が発生したのである。

ここでのバターフィールドは確かに正しい。第二次世界大戦に先行する数十年での出来事――それと大戦自体の出来事――がますますハリウッドのステレオタイプの集合に還元されてゆくにつれて、対話の過程で働いた意味がどれも薄らいでゆく。かくて、歴史的な早期の時期でファシストたちに対するミーゼスの賛同を引き起こした――しかも正当化した――情勢が、今日では事実上忘却されている。この理由ゆえに、しかもこれが自由主義的理論の根本的重要性について疑問を生じるがゆえに、この論点は広範囲の討論に値する。

ミーゼスは、イタリアファシズムは(ドイツでのフライコープスのような他の国々での似た運動の範囲で)ヨーロッパの数百万人が致命的な挑戦と知覚したものに対する反応として卓越性を得たと指摘することで話を始める。一九一九年、レーニンはあらゆる手段による世界革命を大っぴらに狙いながら、第三インターナショナル、あるいは共産党インターナショナル(コミンテルン)を形成し、世界中で共産党を構成した。ミーゼスが述べるとおり(47)、コミンテルン諸党は「敵対者を殲滅するという政策の率直な支持」に尻込みしなかった。[13]すでに「一九一七年十二月、レーニンは大衆に対し、法律を手中に収めるよう激励しながら、「『強盗から強奪』〔すなわち、土地所有者とブルジョワジーから略奪〕し、『路上の正義』〔すなわち、私刑の実施〕を犯し、『投資家』〔すなわち、闇商人〕に抗し、そして町と村の身内殺し階級の大虐殺に従事する」ためのテロ扇動キャンペーンを開始していた」(レジェット1981: 54)。コミンテルン議長グリゴリー・ジノヴィエフは一九一八年に、ボルシェビキがロシアの一千万人の人民を必要であれば絶滅させるだろうと宣言した(ノルテ1987: 558–59 n. 41)。挙句の果てには総力戦も上等になった。一九一八年のチェーカ創設――ソビエト秘密警察の最初の受肉――は赤軍テロをシステムに変換する始まりであった。これと、経済を歪めて大飢饉を生み出した経済的変形こそ、コミンテルンがヨーロッパの諸民族に約束し、ひいては世界に約束したものであった。[14]

共産主義者の暴動がドイツのさまざまな部分で勃発し、バイエルンとハンガリーで束の間ソビエト共和国が設立された。一九二〇年にレーニンは、ポーランド・ソビエト戦争を西方への更なる拡張の前奏として、ポーランド征服と共産化のキャンペーンに変えた(パイプス1993: 177–83, 187–93)。彼は「領主とクラーク〔豊かな農夫〕の無慈悲な清算」を要求し、「階級の敵」の殺人者に報奨金を支払う提案をした(パイプス1993: 188)。しかしながら、ポーランド人は踏みしばり、赤軍をワルシャワの門で食い止めたのだった。

イタリアでの共産主義革命の脅威

レーニンと他のボルシェビキ指導者はイタリアのことを特に革命が約束された地と考えられていた。イタリア社会党(PSI)は自身をレーニン主義者と見なしイデオロギー的な方向性としてコミンテルンに目を向ける「最大主義者」の支配に下っていた。

一九一九年八月ボローニャでの第十六回党会議で採決された綱領において、PSIは「ブルジョワジーの実力的鎮圧をもたらすための革命的闘争期間」の開始を宣言し、プロレタリア独裁に着手するために「プロレタリア大衆とプロレタリア兵士の武装的反乱」を呼びかけた(ピーターソン1982: 279から引用)。[15]社会党員たちは「プロレタリアはブルジョワジーに対する権力を征服するために暴力の行使に頼らなければならない……我々は労働者のソビエトような新しいプロレタリアの組織を使わなければならない、そして我々は第三インターナショナルを信奉しなければならない」と宣言した(スミス1959: 327–28から引用)。

一九一九年の総選挙でPSIは議会の最多党派になり、同様にして最良に組織されていた。[16]その広報者と扇動者はPSIが序曲に議会含む国家制度を不安定化すべく取り組むと同時に来るべき社会主義革命を予告した(モーガン1995: 11)。[17]党機関紙の『前へ!』(『アヴァンティ!』)は「すぐにすべての党が除去されるだろう」と述べるところまで行った(セッテンブリーニ1978: 125–26と125 n. 5)。左傾したフランチェスコ・ニッティが首相になったとき、党の指導的知識人たるアントニオ・グラムシは彼を迫りくるイタリア共産主義革命のケレンスキーとして歓迎した(スミス1959: 330)。

社会党員の暴力は長らくイタリアでの公共生活の特色になっていた。雇用者の財産に対し、また特にスト非参加労働者に対して向けられたそれは、労働争議の期間に労働組合によって体系的に実践されていた。一九〇六年には、イタリア随一の社会科学者ヴィルフレド・パレート(1974: 97–98)はストライキする権利が「働き続けたい労働者の脳みそをぶちのめし、大手を振って工場に放火するという、スト参加者にとっての自由」に変わってしまったと不満を述べた。十五年後になっても、この状況は改善されなかった。パレートは後の或るエッセーで再び、ストライキする権利が「そうする他人を束縛し、スト破りを罰する能力」を含むものとして理解されるようになってしまったと抗議した。あらゆる方法の圧力と暴力がスト参加者に許され、「ストライキを奨励し、労働に有利な条件を整え、『プロレタリアートの昇進』を、『近代性』に要求される変形を容易にするため」必要であるとして正当化された(パレート1981: 141)。全盛期に労働する自由を擁護したままの唯一の人々は、パレートが皮肉げに記すには、「反吐が出るマンチェスター主義者ども」〔レッセフェールの支持者〕だけであった(パレート1992: 328)。

もちろんイタリアに限られないが、労働組合に特有のこの暴力は、二十世紀一般の歴史の叙述からと同様にして、ファシズムの台頭の叙述からも消え失せてしまった。そのようなオーウェル的な歴史意識の溝の原因は、(主に他の労働者に対する)「労働」暴力の温厚な描写を生み出してきた知識人階級の調停に求められるものだ。彼らの調停はつねに、パレートが非難したものと同じ組合派の偏見に入れ込んできた。

イタリアでの組合暴力は産業センターに限られていた。体系的な強要はすねに社会党の農業組合によって田園地帯の大部分に導入されていた。これらの組合に共感的な或る著述家は、慢性的な労働過剰を仮定しつつ、ポー平原の土地について次のとおり記している。

社会党の百姓同盟はこの世紀の最初の二十年に注目すべき離れ業でこの困難を克服した。しかし彼らの達成には代償があった。失業者や移民労働者によるスト破り〔原文ママ〕の絶えざる脅威に直面して結束を守る必要から、きわめて残酷な規律の方法が必要とされた。「赤い」県ではボイコットと暴力的威嚇が頻繁であった。(リトルトン1982: 258)

一九一九年から一九二〇年までの期間は、ビエンニオ・ロッソ、あるいは「赤い二年」として知られている。狂ったようなレトリックと「救世主の革命的な予想」の雰囲気の中で、ストとデモが行われていた(モーガン1995: 21–34、リトルトン1982: 258)。イタリアはまったくの「ストライキ凶」(ショペロマニア)に襲われていて、経済的な修羅場を作り出すことの他にも多くの死傷者を要求するような、政治的に動機付けられたひっきりなしのストライキの連続によって打ちのめされていた(サルヴァトレッリとミラ1964: 127–35, 148–49)。北部と中部の田園地帯と都市における社会党員の過剰と、政府の適切な反応の欠如が、差し迫った革命的乗っ取りを多くの者に恐怖させた。

社会党農業組合、フェデルテッラの会員数が急増した。一九二〇年までに約百名のメンバーが入った。その究極的な目標はあらゆる農地を集産化することであって、これは労働者の組合によって働かされるだろうというものであった。トスカーナのほとんどの農場労働者に関わる一九二〇年七月の或るストライキは、地主が「商業化された小作システムの実行可能性そのものを破壊された」と感じるような契約で終わった。雇用者が特に憤慨したのはフェデルテッラの労働供給と雇用機会の統制要求であった。しまいには、雇用者は「労働供給の排他的源泉としてフェデルテッラに運営される職業紹介所を認知する」よう強いられ、「一年中の雇用割当ては大小すべての農家に〔押し付けられた〕」(モーガン25–26、またデ・グランド1982: 28–29も見よ)。或る歴史家が記すとおり、

絶対的労働独占は人口過剰な田園地帯ではかくも枢要であったがかくも不安定であって、労働の交換を妨げられ、ゆえに割当ての回避を妨げられなければならなかったような小百姓を含む、全農業部門の規律と統制によってしか維持されることができない。このシステムがちょっとでも機能するためには水も漏らさぬほど完全でなければならなかった。これは〔社会党〕同盟が労働独占を保証し維持する際の、非組合労働を雇用する農家と彼らのために働くことに同意する「スト破り」労働者に対して罰金を課し、ボイコットし、彼らの穀物、家畜、財産を破壊する試みの強要的な側面を説明する。(モーガン1995: 26)[18]

もう一人の歴史家が観察するには、雇用者とスト非参加者に対する暴力が「しばしば政治的または宗教的な反対派に対する不寛容へと拡張された。……〔社会党員の〕地方指導者が革新派の原則を公言するところでさえ、彼らの統制の方法はブルジョワ自由主義的秩序とは到底比較にならなかった」(リトルトン1982: 258–59、またジョー1982: 168–70も見よ)。

一九二〇年七月、イタリア労働総連合会(CGL)の代表者は社会革命と普遍的ソビエト共和国を支持しながらモスクワで或る協定に調印した。九月には、ミラノとトリノのジェノヴァが赤旗を掲げ、工場の管理を奪い、それらの運用に取り掛かった。「実験を保護するため、工場は紅衛兵による、また幾つかの場合では有刺鉄線と機関銃による防衛状態に置かれた」(サルヴァトッリとミラ1964: 152)。社会党組合は雇用統制を要求し、所有者の生産管理に反抗した。トリノでは労働者の評議会が形成され、グラムシら共産主義的知識人はこれをロシア評議会たるソビエトのイタリア版だと歓迎した(モーガン1995: 27)。

一九二〇年十一月の地方選挙で、コムーネ議会の約三分の一と県議会の約半分がPSIの手中に置かれた。南部での社会党員の影響力は最小であって、これは北部と中部での多くの地域、特にトスカーナ、ロンバルディ、エミリアおよびロマーニャでのアカの優勢に相当した。これらの町はときに革命的「共和国」を宣言し、地方の社会党員は「コムーネを革命の踏切板に使う意図を公言した」(リトルトン1982: 259)。「社会党の議会は彼らの権力を富と財産への増税に使用し、公共事業支出を増加し、市契約の労働者組合を贔屓し、私営の小売業と流通業を切り崩すため生活協同組合に助成金を出した」(モーガン1995: 27)。[19]

中流階級の数百万人は、ボルシェビズムが今まさに国を飲み込もうとしていると確信するようになった。今でこそ、この共産党の脅威はすべてハッタリと見せ掛けであり、単なる「口先革命」(ノックス2000: 34)[20]、「みんなで遠吠え、誰も噛まず」(スミス1959: 328)[21]、と主張することが慣例になっている。しかしながら、これは当時の人々の見解ではなかった。[22]ボルシェビキ・イタリアの現実の将来性について言えば、フィリップ・モーガンが記すとおり(1995: 27)、「一九二〇年の後期、資産持ち階級がイタリア北部と中部で破滅的な経済的・政治的敗北で地に塗れた後においては、これこそまさしく直近の出来事についての知覚となった。地方と県の水準で社会党の革命が着手されていたのであり、それはすでに進行中だったのである」。[23]

他方で、政府は揺れていた。一九一九年の政令は「未耕地の一次的占拠」を許可しており、これは更なる占拠を刺激するという予言可能な結果に帰着した。政府は労働争議で公式に「中立」の姿勢を気取っており、これは資産家とスト非参加労働者の財産権の不十分な保護を意味していた。工場が押収されるとき、政府は労働者を立ち退かせるための実力行使を拒否し、事実上彼らの工場経営共有権を支持したのである(リトルトン1973: 38、サルヴァトレッリとミラ1964: 40–41)。

中流階級の自助としてのファシストの反動

ビエンニオ・ロッソという出来事は、それまで焦点と支持が欠けていたファシスト運動に目を見張るような台頭の好機を与えた。かの社会党員の暴力の連発が、英語圏の現代イタリア史家たちの最高権威者たるオックスフォード大学オール・ソウルズ・カレッジのデニス・マック・スミスによるムッソリーニについての標準的な作品で言及されずに置かれていることは、驚愕すべき症例である。[24]

ファシストの隊員数と影響力の大きな増加は初めのうちは田舎で起こり、ここでファシスト分隊(スクアードラ、あるいは複数形で、スクアードレ)が形成された。(全般的なファシスト運動でのこの要素はスクワドリズモと言及され、スクアードレのメンバーはスクアドリスティと言及される。)

分隊は概ね中流階級の若者のギャングであって、彼らの多くは戦時には下級事務員として尽くしていた。彼らは社会主義に抗するファシズムの取り組みを支持し、これに共感したのは大学生と中学生、地方商人、事務員、実業家と農家であった(1995: 50)。

社会党の綱領は多くの小作人と小作農を疎外しており、彼らは他の農地改革論者と地方商人と一緒になってファシストのスクアードレに融資し武装を与えていた。特にポー平原では、スクアードレは、社会党員による日雇い労働者の動員と長期的な土地集産化の目標に対し、小事業主、借地人、小作農によって防衛的な措置として頻りに支持され加入された。[25]

農家と地方事業家は政府が彼らの財産を保護することに失敗したと憤然と訴えた。彼らにとって、スクアードレを支持することは、「中流階級のある種の自助」だったのである(モーガン1995: 56、またリトルトン1973: 37, 60–61も見よ)。カッラーラでは、地方の社会党当局が大理石採石場の搾取を公然と脅迫し、スクアドリスティは彼らの計画を暴力づくで妨害した。ジェノヴァでは、分隊は主に非組合労働者で構成されており、それまで排除されていた労働者からの賞賛を勝ち得ながら組合のドック独占を破った(リトルトン1973: 70–71)。

スクアードレの対抗行為はどんな狭い意味でも単なる防衛的な活動ではなかった。そうではなく、彼らはかの社会党の「インフラストラクチャー」を根絶するための上出来な暴力キャンペーンを請け負ったのである。ファシストは敵対者の力に見合わないほどの物理的暴力を用いながら、社会党員が運営する町役場を破壊し、組合本部を、新聞社を、「文化的中心地」を破壊した。

ファシストが、過剰暴力と究極的な国家主義的構想含め、幾つものかどで鋭く合法的に批判されうるのは言うまでもない。しかしながら、ファシストの政権掌握の標準的な歴史に、「スクアドリズモの背後の卑劣な事実」、言い換えれば、その「公職官憲の黙認と、実業家や農地改革論者からの資金への依存」を読み取るのはおかしい(リトルトン1973: 54)。財産所有者について彼らの権利を守るべく彼らに開かれていた唯一の手段に頼ることがまさに「卑劣」だったのかどうかと人は訝しむ。そのような叱責は――彼らのお決まりの手口であるが――フランスのことわざを思い出させる。

Cet animal est très méchant;

Quand on l’attaque il se defend.

この生き物は実に獰猛である。

攻撃されたら、自らを守るのだ。[26]

イタリア人経済学者と「ボルシェビキに抗する反乱」

社会秩序の基盤――結局、私有財産――を脅かす急進的社会主義運動に直面して、自由主義的な立憲秩序をどう維持すればよいのかは、十九世紀後半の中央ヨーロッパと東ヨーロッパの自由主義者たちを深く悩ませた。国会が普通男性選挙で選出されるドイツ帝国において台頭中の社会主義的党派に相対し、ドイツ自由貿易運動の創始者にして三十年以上にわたりその指導者を務めたジョン・プリンス=スミスは、軍事権威主義国家の提唱者として終わった(レイコ1999: 77–86)。[27]ロシアでは、法制史家と社会哲学者にして彼の時代の指導的なロシア人自由主義者であったボリス・チチェーリンは、「この共産主義運動の光景を目にしたら、誠実な自由主義者には〔ツァーリ〕絶対主義を支持する以外には何も残されていない……」と宣言した(レオントヴィッチ1957: 142)。イタリアで急進的社会主義が生み出した危機において、自由主義者――ベネデット・クローチェとルイジ・アルベルティーニのような名士を含む――は似たように反応し、程度の差はあれファシズムを歓迎していた(ベネデッティ1967、カニストラーロ(編)1982、リトルトン1973: 38)。[28]ファシスト運動の一層熱烈な支持者は、イタリア人自由主義経済学者のうちにいた。

ヨーゼフ・シュンペーター(1954: 855)が「経済分析の歴史」に記すには、

最も善意ある観察者が一八七〇年代初期のイタリア人経済学者に賛辞を送ったはずはないだろうし、最も悪意ある観察者はそれが一九一四年まで誰かに劣っていたことを否定したはずがないだろう。

シュンペーターが念頭に置いていた著名なイタリア人経済学者のほとんどは、政治的に言えば、古典的経済自由主義者たち、あるいはイタリアの用語で言えば、リベリスティであった。[29]

イタリアには一九世紀を通して小さいが信望のある経済自由主義運動が存在していた。この世紀の後半数十年にかけて、この陣営の著述家は、納税者と消費者の犠牲での腐敗的な資本家特別利益の支持を伴う干渉主義的イタリア国家と初期社会主義運動の両方の厳しい批評家であった。

第一次世界大戦後のPSIのレーニン主義的転向とファシスト運動の台頭を受けて、自由主義的経済学者は大っぴらに後者の側に就き始めた。この集団の特に優れたメンバーはマッフェオ・パンタレオーニであって、彼はハイエク(1991: 360)が「これまでに著されてきた経済理論の中で最も輝ける要約の一つ」と称したものの著者であった。[30]パンタレオーニはヴィルフレド・パレートの長年の友で、彼にワルラスの著作物を紹介した人物であり、最も早期のファシストにしてその最も熱烈な支持者の一人であった。彼は、「もしもファシズムの干渉主義がなかったとしたら、イタリアは単なる経済的かつ政治的な大惨事だけではなく、実にロシアとハンガリーのそれに匹敵する文明そのものの大惨事を蒙っていただろう」と記した(1922: vii)。[31]

ファシズムに対する最も有名な(もしくは悪名高い)自由主義的支持者たるパレート彼自身は決して最も深く関与した人々の一人ではなかった。けれども結局、彼はファシストの乗っ取りを是認し、亡くなる前年には、ムッソリーニに対して彼を上院に指名することを許した。経済学者としての彼のキャリアの初めのころは、パレートはイデオロギー的には聖戦的な自由主義的ドクトリネールであって、グスターヴ・ド・モリナーリのような『経済学者ジャーナル』著述家のイタリア人版であり、モリナーリと親密に連絡を取り、彼のことを師匠と呼んでいた。パレートはヨーロッパのレッセフェール観念のフラグシップたるパリジャンのジャーナルに頻りに寄稿しており、時にはベンジャミン・タッカー率いるアメリカ個人アナキスト運動のオルガンたる『リバティー』にすら寄稿していた。彼は友達のパンタレオーニの理想主義的動機を明らかにしていた(パレート1962, 1: 103)。いわく、「たとえ我々が経済科学を発展させるとして、その真理を知っているのが我々だけであり、我々のうち少ししかいないならば、それが何の役に立つんだ? それを他の人に知らせることも我々の義務ではないか? 我々を弾圧する腐敗と不正義を克服するにはそう努力すべきではないか?」彼の主たる憎しみは、盗人干渉主義者、「ビジネス支持派」の体制派に向けられており、他方で、社会主義への転向者になっていた若いイタリア人の勇気と誠実性に称賛の意を表明していた。一八九〇年代後半のイタリア政府による左翼迫害の期には、パンタレオーニがジュネーヴで行ったように、パレートはローザンヌの自宅で社会主義者の難民を助けていた(パレート1962, 1: 500; 2: 197)。[32]

しかしパレートはすぐ社会主義者の誠意について疑いを募らせ始めた。イタリア政府が社会主義者を虐げていた頃でさえ、ジュネーヴで社会主義者に率いられた多くのイタリア人含む労働者が、石工のストライキへの参加を拒否した労働者を物理的に強襲していたのである。「イタリアでの社会主義的紳士は自由のみを求めるが、ここ〔スイス〕では彼らにも自由があり、暴君になりつつこれを見ている。彼らは迫害者になるためだけに犠牲者であることをやめる……。ジュネーヴやフランスなどでの暴力行為はイタリアとドイツの政府〔の社会主義弾圧〕を正当化して終わるだろう」。一八九八年、彼はすでに、「実力に対して対抗するためには実力以外の何も残っていない」と結論していた(パレート1962, 2: 224–25)。[33]

続く数年で、パレートは苦しめられて完全に幻滅するに至った。イタリアでのマルクス主義の驚くばかりの通俗性が、彼に人事の不合理の重大さを強調するよう社会学的見解を作り直させた(ファイナー1966: 11、ファイナー1968: 447–48、ロスバード1995: 455–59)。社会理論と経済理論は政治闘争において、その「客観的価値」ではなく「むしろ主としてそれらが情緒を掻き立てるだろうという質のゆえに」展開される(パレート1974: 98)。

パレートが特に嫌悪感を覚えていたのは、組合労働の過剰はおろか、その犯罪的要素への「感傷的な躁病」にさえ同情を表明するような、ブルジョワジーの間で発達中の「人道主義」であった。資本主義は窃盗に基づいていると教えるような教育者と、すべてのまともな社会的価値観に泥を塗り社会の基礎そのものを蝕むような作家を支持することで、ブルジョワジーはその退廃を露にした(パレート1981: 90–95)。その権利のために男らしく戦う代わりに、ブルジョワジーは社会主義という敵に卑しくも降伏していたのである。「羊ごっこする人は肉屋に出会うだろう」、とジュネーヴのことわざを引用するのがパレートは好きだった。[34]

パレートによれば、イタリアのブルジョワジーの腐敗はその政治的表現たる自由党の変貌に遡ることができる。「カヴールの時代に、自ら自由を冠する党は、人自身の財を処分する自由を尊重することを目指していたが、それからますます自由を制限し、最終的には土地と工場の占有を許し、ビエンニオ1919–20のデマゴーグ的な横柄さでの際限なき振舞いを許可していた」(パレート1981: 157)。

実に、彼は自由主義のことを、彼自身の時代の「デマゴーグ的圧制」への道を舗装したものと見るようになった。たとえば、貧者のための課税の平等を要求した自由主義者は「彼らが富裕層の劣位で累進課税金を得るだろうとは想像していなかったし、非納税が投票した税制に終わるだろうとは想像していなかった」(パレート1974: 97–98)。

パレートはファシスト運動の誕生を目撃しながら(彼は一九二三年に没した)、これをイタリア統治体の危機に対する健全な反応と見なしていた。

あらゆる政府の主目的の一つは人身と財産の保護であり、もしもこれを怠るのであれば、その不足分を果たすことができる軍隊が、人々の懐から現れる。……政府が私的個人だけで自分を守るよう放置し、政府が激化を許した「赤い暴君」に対しての、人々の側での幾らか無政府的な反応として、自生的に〔ファシズムは発生したのである〕。(パレート1981: 148)[35]

ファシズムはイタリア人ブルジョワジーに少なくとも一定の物理的勇気が欠如していなかったという歓迎すべき証であった。しかし、最後まで本質的に古典的自由主義者であったパレートは、彼の晩年の記事の一つでファシストの指導者に対し、権力乱用と外国軍の冒険との縺れ合いの危険性を警告した。そのような過ちを避けるために、彼は「十分な出版の自由」を準備するよう急き立てた(パレート1981: 160)。

もう一人の指導的な自由貿易経済学者はアントニオ・デ・ヴィティ・デ・マルコであった。デ・ヴィティ・デ・マルコは数十年後にビエンニオ・ロッソを振り返って、司法当局が「私集団の恣意的意思はおろか、スラムと全私集団の暴漢の破壊的本能にさえ」道を譲ってしまったときの「完全なアナキーの恐怖の期間」を記述した。鉄道と電報の労働者は自身を公共事業のボスと考えており、ストライキは公衆を脅かすために呼びかけられ、ホームレスが私的市民の家を占拠し、店は警察の目の前で略奪されており、行員は工場を乗っ取って、農業労働者が土地を乗っ取った(デ・ヴィティ・デ・マルコ1929: viii–ix)。

この混乱に対して、ファシズムが、私的な抵抗組織が、民族の活力の疑いなき証が立ち上がった。スクアドリズモをもって、人は内戦に典型的な現象を目の当たりにした。勝利を得た党が公序を再確立し、事実上消滅した国家の場所に収まり、自らのイメージで少しずつそれを形作った(デ・ヴィティ・デ・マルコ1929: ix)。

イタリア人自由貿易経済学者全員の中から、ルイジ・エイナウディが最も著名になり、最大の政治的影響力を獲得した。エイナウディは第二次世界大戦後のイタリア共和国初代大統領になり、おそらくヨーロッパで最もよく知られた自由主義者となった。彼は「教条的」な自由主義者ではなかったけれども、やはりイタリアの政治的および経済的な秩序の基本的な悪性と彼の国にとっての社会主義の危険性に関するリベリスティ学派の見解を共有していた。実業家と特権的組合労働者の寄生主義という不吉な同盟は彼の攻撃の別格の標的であった。エイナウディは他の経済学者とともにファシスト運動の発生とムッソリーニの権力昂進を歓迎した。「彼らの統制のせいで破滅しつつある産業の犠牲においてであろうとも、彼らのオーガナイザーのための経済情勢への影響力、資金と借金を手に入れながら、彼らの協同組合のために働き、彼らの協同組合を贔屓する」ことに没頭していた社会党員に対し反感を募らせながら、エイナウディは黒シャツ隊を「ボルシェビズムに対する反乱にイタリア人を奮い立たせた燃えるような若者たち」と絶賛した。ファシストと社会党員の闘争を、彼は、自由の精神と圧制の精神の衝突と特徴付けたのだった(デクレーヴァ1965: 218、ヴィヴァレッリ1981: 309–10)。[36]

かくして、ミーゼスは初期段階でのファシスト運動を称賛した自由主義思想家のうちで到底孤立していたわけではなかった。実は、彼は最善の知る立場において、イタリアでの彼らの見解を単純に繰り言していたのである。しかしながら彼に対する批評家は、単純な無知ゆえにか悪い不実ゆえにか、この事実に通じることを怠ってきた。

イタリアのレントシーキング国家の袋小路

イタリアの「自由主義的」国家に対する自由主義的経済学者の非難は彼らの根本的な社会哲学から生じていた。経済自由主義者は、ハーバート・スペンサーの思想を含む十九世紀自由主義の豊かな伝統を引き合いに出しながら、社会が創造的な人間の生産と交換を通して繁栄し進歩すると強調した。けれども歴史的には、この前進の多くがスポリャツィオーネあるいは強奪の過程のせいで――さまよう野蛮人の群れ、犯罪者、または自分自身の強欲な目的のために国家権力を利用する者によって――無効にされてしまった。彼らが信じるところでは、統一に続く数十年は、統治階級によって人民の多様な寄生的範疇の利益のために組織された、多方面にわたる強奪のシステムの創造として見られていた(ヴィヴァレッリ1981: 241–53および随所)。[37]

特別利益によるイタリア政治の支配は事実上イタリア立憲君主制の初期から明白であった。後に、ジョヴァンニ・ジョリッティの「自由主義的」政権の下で、代議員は恥知らずな準地代あさりたちと彼らの代理人の永遠のカーニバルに転換した。デ・ヴィティ・デ・マルコ(1929: vii)が素描するには、

〔イタリアでの〕自由主義的および民主主義的な観念の前進は、多数派集団から少数派へ、古い確立済みの集団から新しく確立された集団へ、土地持ちの事業家から、事業家へ、国家職員へ、労働者の生協へ、プロレタリア組織への、立法的贔屓の漸進的拡張から成り立っていた。そこには、大、中、小の特権階層があった。論理的に言って、議会は国家の大小の贔屓が駆け引きされる商業界になり、その費用は消費者と納税者の大多数によって支払われていた。後者の用語は議会のアリーナから追放された。

イタリア人経済学者の典型として、パレートはイタリアで優位を築いた「金権政治」乃至「金権民主主義」に対する猛烈な反対者であり、いっそ狂信的な反対者ですらあった(フェミア1998)。関税、政府契約、海軍と陸軍の支出、国有化産業、課税政策、社会福祉、労働組合への法的特権の付与は、多様な依頼人の利益のために公衆の大部分を搾取するような統治階級の勝手次第になる諸手段のうちの幾つかである。或る学者が書き留めたとおり、パレートの見解では、

議会は、……多様な依頼人同士のこれら取引と協定が「集計」されるフォーラムとして働き、また大衆が彼らに賛成するよう説得されることによってプラットフォームとして働くから、この協定に必要な部分である。(ファイナー1968: 447–48)

かくて、パレートのような自由主義者は最初っから「議会制民主主義」との大恋愛はしていなかったのである。

しばらくの間、ムッソリーニはほったらかしで糞まみれなイタリアの準地代あさり国家を浄化するつもりでいるという印象を与えていた。彼は、中等教育含む公共事業の私営化、支出、税率、官僚制の大幅な切り下げ、さらには国家を彼の言い回しで「マンチェスター派の着想」に減らすことを語っていた。沖合いではムッソリーニが政治階級と社会党の自治体官僚の「寄生虫」に対して闘争する「生産者」の新フロントを呼びかけており、「パレート派」の革命という示唆があった(スミス1959: 350–51、モーガン1995: 48, 51)。[38]

二人の経済自由主義者、オッタヴィオ・コルギーニとマッシモ・ロッカに推敲された一九一二年七月のファシスト経済綱領は、そのような革命を前触れしているように思われた(パーパ1970: 66)。エイナウディはこの綱領を「昔ながらの自由主義的伝統への……元のままの近代国家の源泉への」回帰と記述しながら熱烈に是認した(デクレーヴァ1965: 228)。ムッソリーニが経済自由主義者アルベルト・デ・ステファーニを財務大臣に任命したことは同じく歓迎の目つきで見られていた。[39]デ・ステファーニは彼の賞賛者に現代のテュルゴと見られたが、彼の自由化綱領が塹壕じみた特別利益政治の堅い現実と衝突したとき、残念ながら、彼はテュルゴが一七七〇年台にフランスで蒙ったのと同じ運命にあった。

エドアルド・ジレッティは、コブデンがまったく黙認もしなかったような立場たるヨーロッパ戦争への彼の国の破壊的な参戦を他の自由主義的経済学者のように支持したことには深く失望させられるけれども、おそらくイタリア人版のリチャード・コブデンに他の誰より近い存在となりそうなところにいた。[40]ジレッティは疲れ知らずの自由貿易十字軍に数十年かけながら、イタリアの平和運動での指導的な関与者、軍事拡張と植民地冒険、とりわけ一九一一年リビア戦争への激しい反対者になった(クーパー1986: 210–11)。彼は沈黙公ウィレムの「努力するために希望は必要ではないし、忍耐するために成功は必要ではない」という「崇高なモットー」が大好きだった。彼の死亡記事では、彼の友人のルイジ・エイナウディが、このモットーはジレッティの一生涯に完全に適用されると述べた(エイナウディ1941: 67。また、ジョゼフソン(編)[1985] s.v. “Giretti, Edoardo”も見よ)。

ジレッティのファシスト運動の初動的な支持は事情を大いに浮き彫りにしている。

経済的な自由がなければ、自由主義は、単なる選挙上の偽善と詐欺ではないとすれば、どんな現実的内容も欠けた抽象になってしまうと、私はかつて以上に確信している。もしもムッソリーニが彼の政治的独裁制で我々に対し、ここ百年で議会の有力マフィアから得てきたより大きな経済的自由を与えるならば、国が政府から引き出す善の総和は邪の総和をはるか上回るだろう。(パーパ1970: 67)[41]

かくて、この早いころにおいては、ジレッティは他の経済時湯主義者たちのように、或る学者がイタリアの最も影響力ある新聞紙『コッリエーレ・デラ・セラ』編集者ルイジ・アルベルティーニに帰するところのファシズム解釈を共有していたのであり、それは「一時は(国家権威の名において)反ボルシェビキで経済的に自由主義的な運動」で、イタリアでの自由主義的観念に「新たな活気を与えることができた」運動なのであった(デクレーヴァ1965: 233)。

経済的に自由主義者でもあった早期ファシストの主要人物はレアンドロ・アルピナーティであり、彼はボローニャのスクアドリスティの指導者であった。アルピナーティは後にムッソリーニのいや増す干渉主義的経済政策をめぐって後者と絶交し、ファシストの密接な監視の下に置かれた。彼は一九四五年の開放期に、共産主義者のパルチザンによって殺害された(イラーチ1970)。

民主主義の板挟み

ファシズムとこれが自由主義的経済学者から勝ち得た支持のエピソードは、民主主義的理論、わけてもミーゼスが『リベラリズム』説明した理論に対し一定の問題を示唆している。

ミーゼス(1978a: 39)によると、自由主義的国家は「私有財産を保護できるだけではなく、またその円滑かつ平和な発達の道が、決して内戦や革命や反乱によって遮られないよう構成されなければならない」。ミーゼスは「古典的共和国」や「市民的ヒューマニスト」の理想の信奉者ではなかった。彼はバンジャマン・コンスタンとは違い、特にアレクシ・ド・トクヴィルと異なり、たとえば、市民の性格を向上させてその完成に役立つものとしての民主主義的参加の価値に言及しない。ミーゼスの分析(41–42)では、民主主義の根本的正当化は、最も重大な局面では「多数派には実力づくでその望みを実行する力がある。……民主主義とは暴力的闘争なしで被治者の望みが政府に採用されることを可能にするような政治的構成の形態である……多数派の意に適う仕事をすることが本意である人々を公職に就かせるために、内戦は必要ではない」。[42]

イタリアでビエンニオ・ロッソの頃に社会党員たちが議会で多数派を享受しなかったことは真実だとしても、[43]彼らは多数の市と区域の選挙でやはり多数派になっていた。パレート(1981: 150)は勝ち誇った社会党員がどう振る舞ったか記述している。

市当局の征服は〔社会党員〕にとっては単に、略奪し、税金の産物を彼らに分け与え、それらを法外に増やし、慈善的な制度と病院の寄付金を無駄遣いするための好機にすぎなかった。ミラノとボローニャが中央権力から独立した小国家になった瞬間があった。[44]

幾つかの疑問が表れる。

いったい何の根拠で自由主義者がこの場合のような「多数派の意思」に従うことを要求されるんだ? 民主主義的に選出された社会党政権を崩壊させるというファシストのスクアードレに採用された方針の方が、望むままに政権の彼らが財産を強奪することを許すより好ましかった、ということは可能ではないか? かりに、イタリアの社会党員が国の大部分で多数派を獲得してしまい、議会的手段でレーニン主義的経済綱領を実行することに取り掛かってしまったと仮定せよ。はたして彼らの反対者はこれに同意する責務があったのだろうか?

この疑問はすでに、パレートの教師たるギュスターヴ・ド・モリナーリによって、かの有名な小論にして、アナルコ資本主義的議論の初の解説書たる『安全保障生産』において立てられており、しかも答えられている。モリナーリは、財産所有者には社会民主主義的多数派の没収政策に受動的に同意する義務があるという考え方を頑強に拒絶する。この点は本書の「フランス自由主義の中心性」についてのエッセーで議論されている。

今日では、国民財産の一層大なる割合と、彼らの自由の一層深い水準への請求権が国家に主張されるにつれて、民主政権の正統性という――民主主義的国家がその国民を隷従させる道徳的権利に関する――疑問はますます切迫したものになっている。国家が市民の富を再配分的な目的で搾取するのに対し、――もしくは、彼ら自身や彼らの子供たちの心と性格に対するかつてより大なる統制の引き受けを掌握するのに対して、――彼ら市民が実力で応じることは、いつの時点で道徳的に正当化されるのか? 民主主義的国家がたとえば私人の手からすべての小火器を没収すると決定したら、市民の下には最後の頼みとして何が正統に残されているのか?

ミーゼスは「もしも分別ある人々が彼らの民族を……破滅の道の上にありと見るならば」、彼らは全般的な惨事を避けるために実力的な手段を用いたがって当然だろう、と認める(45)。しかしこの啓蒙的な少数派が多数派を説得するまで力を保つことはできないだろうと彼は考える。けれども、必ずそうなるだろうか? ここではすべての事情が事態の特殊な情勢に依存し、ひいては多数派の相対的受動性と、その権利を脅かされた少数派の毅然とした決断に依存していないか?[45]

イタリア人経済学者の心に関する第二の考察に関して同様の疑問が生じる。準地代あさり国家の袋小路を突破するためにファシズムを使用する可能性についてだ。現実にはこれは起こらず、その代わりにムッソリーニの下で、イタリアを不条理で破滅的な軍事的冒険に巻き込んだことを別にしても、国家が一層干渉主義的になり、以前より重荷となったものだ。しかしながら異なる歴史的条件を所与とおけば、そのような結果が不可避的であるようには思われない。

そしたら、ミーゼスのような考え方をする自由主義者はムッソリーニの権力掌握後に述べられたパレートの命題(1981: 154)によって答えを頂戴しているようだ。いわく、「クーデターはそれによって獲得された権力の行使の仕方に依存して、国に益することも国を害することもありうる。今のところ、それはイタリアでは本道を行っているように見える」。

しかしどうすれば自由主義的秩序が維持されるのか

ミーゼスは回顧録で政治の大問題を書き記した(1978c: 68)。

人々は決断しなければならない。経済学者は同胞に情報を知らせる義務をもつ。しかしこれら経済学者が対話的な任務に適わず、デマゴーグによって追いやられてしまったら? あるいは、経済学者の教えを理解するための知能が大衆に欠けていたら? 特にジョン・メイナード・ケインズや、バートランド・ラッセルや、ハロルド・ラスキや、アルバート・アインシュタインのような人々には、経済問題を把握することができないだろうと我々が認識するとき、人々を正しい道に導く試みは絶望的ではないか?

これは第一次世界大戦時にミーゼスを襲った失望の表明であった。どんな手段によれば、私有財産と自由市場の原理のために、民主主義的社会で大衆を勝ち取ることができるのか。それはフランスでは少なくとも一八〇〇年あたりのイデオローグたちの時代から自由主義者の関心を集めていた問題であった。リチャード・コブデンとドイツ人自由主義指導者のオイゲン・リヒターは、大衆に健全な経済原理を教え込むための公教育の使用を提案したフランス人著述家に倣った人々であった。[46]もっと一般的に言えば、破滅的な経済政策と社会政策の大衆的受容を阻止するために「公衆啓蒙」を促進することは真の自由主義者全員の任務であると想定されていた。ミーゼス(1978c: 69、強調は原文ママ)はこの選択肢を考慮する。

問題は公衆の教育と情報にあると言われてきた。しかし悪いことに、我々は、学校と講義が多いほど、もしくは書籍と会報の大衆化が多いほど、正しい学説を勝利に推し進めることができるだろうと信じるように騙されている。実際には、虚偽の学説も同じ方法で信奉者を募ることができる。邪悪とは望ましい目標へ至る手段を選択することにかけての人民の知的欠格によって成り立っている。人民に軽薄な意思決定を押し付けることができるという事実は、彼らには独立的な判断ができないということを実証している。これこそまさしく大いなる危険である。

ミーゼスは、彼に個人的に関係するかぎり、この見解の論理的含意を率直に認めた。「かくて私はヨーロッパの最高の頭脳を長らく悩ませてきたこの絶望的な悲観論に到達した」。この悲観論から逃れるすべはあるだろうか? 彼はギムナジウムでの日々に自身の個人的なモットーとしてウェルギリウスの散文から抜き出した一句を我々に教えてくれる。トゥー・ネー・ケーデ・マリース、セド・コントラー・アウデンティオル・イートー(悪に屈するなかれ、あえて立ち向かってゆけ)。彼は決意する。「経済学者にできることすべてをなす。私は自ら正しいと知ったことを不断に公言する」、と。彼は社会主義に関する大作を著する計画に取り掛かり(ミーゼス1978c: 69–70)、これは実際にかなり良く成し遂げられた(ミーゼス1981: xixへのハイエクの序文を見よ)。

それでもなお、疑問は残る。民主政権のうちに自由と財産が存在できると長期的に保証するものは何か?

ミーゼスは、イデオロギーの将来と、優越するためになさねばならぬことを語って、『リベラリズム』(193)を締めくくる。彼が考えるところでは、自由主義はその敵対者とはラディカルに異なる立場にある。

人々の感覚に訴えて自らの大義を推し進めることを控える余裕ありと信じる教派や政党はなかった。修辞的な大言壮語や音楽と歌が鳴り響き、旗がはためき、花と色が象徴に仕え、指導者は自らの追随者たちに彼自身の人格を貼り付けるよう求める。自由主義は、これらのすべてと関わらない。それには党も花も色もないし、党歌も偶像もないし、象徴も標語もない。それにあるのは実質と議論である。これらがそれを勝利に導くに相違いない。

かくて、ミーゼスは一個人的な悲観論をイデオロギー的闘争での合理的議論の価値信仰というある種の実存的飛躍で乗り越えながら、この緊縮的な立場を自由主義全体に帰する。残念ながら、これは満足であるようには見えない。

ヨーゼフ・シュンペーターは『資本主義・社会主義・民主主義』(1950: 144)でちょうどここでのこの疑問に取り組んだ。

なぜ資本主義的秩序が超資本主義的な権力や超理性的な忠誠による保護を必要とすべきなのか? それは旗を振りかざして法廷から出てくることはできないのか? 我々自身の以前の議論は提示すべき功利主義的信任状がたくさんあると十分に示してはいなかったか? そのための完全に良い主張はできないのか?

これらの疑問に対するシュンペーターの彼らしい答えは、「イエス――きっと、こういうものだけではどれもまったくの的外れなのだ」。

彼はこの否定的な反応のために幾つかの理由を挙げる。大衆は実質的に歴史の知識も関心もないので、資本主義下での彼らの未曽有の高生活水準を単純に当然のことと考える。そのうえ、日々の生活で生じる不可避的な小さい怨恨はしばしば資本主義的システムに向けられる。なぜならば、「社会秩序への情緒的な愛着」とは、何か、資本主義が「組織上生産できない」ものであるからだ(1950: 145、強調は原文ママ)。

シュンペーターの更なる二つの理由はミーゼスが裏書きしたであろうものだった。第一に、資本主義への攻撃はしばしば「超理性的」根拠から生じ、そのように超理性的な行為の根拠は「功利主義的な理由」では敵わない。ミーゼス自身も『リベラリズム』の「反自由主義の心理的根源」の節で、「フーリエ・コンプレックス」を詳述するところで同じだけ認めている。このコンプレックスで「苦しむ人々の数はあまりにも多すぎる」から、ここでは精神分析療法は役立たない。ミーゼスが提案する解決策(17)はまたもや純粋に理性主義的な案である。「〔苦しむ個人は、〕不満を押し付けてもいいようなスケープゴートを探すことなく自分の人生の運命に耐えることを自己知識によって学ばなければならないし、社会的協調の根本法則を把握するために努力しなければならない。バートランド・ラッセルとアルバート・アインシュタインのような人物に触れずとも、そのような理解は平均的で「ノイローゼ」に罹っていない個人の知を超えているように思われるから、これで自由主義的秩序が持ちこたえられるだろうという期待はどこから来るのか謎である。

シュンペーターはおそらくもっと現実主義的に、少しも解決策を目に入れない。「資本主義は懐にその死刑判決を入れた判事の前で裁判を受けている」という有名な判決が彼に下されるのはこの文脈である。さらに、市場経済に奨励されるエートスは、伝統的で宗教的な束縛を覆すことで優位を得るための反合理主義的で反資本主義的な衝動を引き起こすから、これが問題を悪化させる。

シュンペーターは続けて資本主義の擁護が「決して単純には行えない」ことを観察してゆく。ここで(1950: 144)、彼はミーゼスの最も陰鬱なところに共鳴する。

その身をすっかり超えているような洞察力と分析力を 人々の大多数が備えていなければならないだろう。なんともはや、資本主義について語られてきた事実上すべてのナンセンスが自称経済学者に擁護されてきた。

これに関連するのは、「資本家支持派のどんな議論も長期的な考慮によらなければならない……今日の失業者は彼の一個人的な運命を完全に忘れなければならないし、今日の政治家は彼の一個人的な野心を完全に忘れなければならない……大衆にとって、彼らが合理的だと感じればそれで完全に合理的となるような個人主義的功利主義の立場から……考えに入れられるものは、短期的見解なのである」という事実である(1950: 144–45)。[47]

ウォルター・スルツバッハの批判

同じ言い分は、共感的なオーストリア派経済学者のウォルター・スルツバッハ(1928)によるミーゼスの『リベラリズム』の最も広範なレビューですでに述べられていた。スルツバッハは、自由主義の基本的要求としての私有財産、自由主義の階級中立的性質、国家の本性のような重要な論点で、ミーゼスに広く同意を表明する。「自由主義の最も重要な根本テーゼは論駁のないまま残っているのが事実である」。しかしながら、その明白な成功にもかかわらず、つらい時代になってしまった。「自由主義はいったん専断したが、自発的に放棄された」。スルツバッハによればこれには多様な理由があるが、彼が提示した理由はミーゼス的システムの正当性を最も真剣に疑っている。彼が問うに、「全個人の利益は本当に最終分析と同一なのか? これが自由主義の中心的な疑問である」(383, 385, 389)。

この疑問に対する肯定的な答えは、『リベラリズム』に行き渡る主旋律である。ミーゼスは、「我々〔自由主義者〕は、隷従は『主人』に優位であるという事実にもかかわらず、主人を含む人間社会の全メンバーの利益を害すると最終分析で確信するがゆえに、非自発的隷従を攻撃する」とすら断定する(1962: 22)。同じことが、組合労働者、移民の競争から守られた労働者、「保護」された実業家など、特別な特権を享受する者全員にも当てはまる。

けれどもこれらの集団が彼らの多様な特権から重要な意味で利益を得ていることは否定不可能である。ミーゼスの主張はこれらの優位の克己がひたすら「摂理」であり、「もっと高い、長続きする利得によって、実に速やかに補償される」というものである。しかしスルツバッハ(390)によれば、これはうまくいかないだろう。

理性主義志向の自由主義が最後まで信じていたとおり、特殊な集団にとってこのように行動することは「全体」にとって有益であること、要求されるのは啓蒙ではなく彼らの良心に訴えることである……問題は、将来のための現在の犠牲というよりは、もっと大きな社会集団のための一人格的な犠牲であり、ゆえに、啓蒙された理解の問題というよりは一人格的な克己の決意の問題である。……自由主義はせいぜいのところ、もしも人類の利益が守られるべきであるならば、自由競争がこの目標への正しい道筋である、と論理的に有無を言わせない仕方で示すことができるだけであろう。しかし個人や小集団が自身を人類のために犠牲にすべきであるという要請は――その正当化を宗教的領域や形而上学に見出してはならないならば――どこから来るのやら。

かくて、スルツバッハが説得力をもって論じるには(391)、科学の岩盤に申し立て上で基礎付けられたミーゼスの自由主義は蜃気楼である。実際のところ、「それは、自由主義的かつ民主主義的な啓蒙に生きる人間の魂の特別な選択という古いキリスト教神学の教義であり、その起源を忘れたせいで、それ自体を『科学』の成果と見なしているのである」。

無限移民の問題

またも民主主義国家に関するところで、ミーゼスには無制限移民の疑問について深刻な問題が生じている。彼の『リベラリズム』(130–34)での立場は、国際分業を伴う自由交易は自由主義にとってほんの始まりにすぎなかったというものである。自由主義の究極的理想は、財だけではなくまた資本と特に労働が最高に生産的な領域へ自由に移動する世界である。自由主義的な要求とは、「すべての人はどこであれ彼が生きたいところで生きる権利をもつこと」(137)である。[48]

ミーゼスは、国境を開放すれば移民がたとえば「もはや同化を期待できないような大勢でやってくるだろう」ところのオーストラリアとアメリカ合衆国に殺到するだろうという「国益」での反論を考慮した。

アメリカに関して彼が言うには、そのような恐怖は(どうやらそのとても多い人口ゆえに)「おそらく誇張されている」。[49]しかしミーゼスが著した当時のオーストリアと同じくらいの人々がいるオーストラリアについて言えば、事情は非常に異なっている。「もしもオーストラリアが移民に解放されたら、その人口はほんの数年後にはおおむね日本人、中国人、マレー人から構成されるだろうと、大きな公算をもって想定されてよい」(139–40)。この見通しに反対するのは労働組合だけではなく、「……民族全体が満場一致で外人の反乱を恐れる」。他の民族、とりわけ他の人種のメンバーに対する「嫌悪」が起こる(140–41)。

けれども、ミーゼスは問題の存在に関する唯一の非難を干渉主義的国家に向けているように見える(142)。[50]これらの恐れが正当化されることは否定できない。今日の国家の指揮権のうえに聳える膨大な権力ゆえに、国民の少数派は異なる国民性には最悪の事態を予想しなければならない。現在有しており、世論が正当と認めるような、巨大な権力が国家に与えられるかぎり、その政府が外国籍メンバーの手中にあるような国家で暮らさなければならないという考えは、確かにぞっとさせてくれる。

ミーゼスの解決策(142)は経済的および社会的な生活でのレッセフェールの採択である――政府職能を生命と財産の保護に削減することだ――そしたらすぐに、自由移民にまつわる問題はいずれも「完全に消滅する」だろう。「自由主義的原理に応じて統治されるオーストリアにおいて、大陸の一部では日本人が多数派であったし他の部分ではイギリス人が多数派であったという事実から、いったいどんな苦難が生じうるんだ?」

このレトリカルな反問は奇妙な構成のされ方をしているように思われる。ひっきりなしの合理的経済的論議を別とすれば――ミーゼスには自由主義的社会を創造し維持する傾向がある力に関しての理論がないから、或る時点で自由主義的原理に応じて統治されているオーストラリアがそのように統治され続けるだろうと推定する理由は彼にはなかった。しかし、もし万が一にもオーストラリアが干渉主義に陥るとしたら、日本人とマレーシア人らの多数派から、「民族的少数派〔今日のヨーロッパ系のオーストラリア人〕は最悪を予期しなければならない」。にもかかわらずミーゼスは、或る国の自由移民での政治的多数派の創造で、動態的に、何がどうなるかについて考察しない。後年、彼は「世界征服を目指す全体主義的諸民族に対しての移民障壁の維持は政治的および軍事的な防衛にとって不可欠である」と認めた(1944: 244)。しかし、歴史と文化のせいでこの秩序を支持しそうにない移民が流れ込むことにより自由主義的社会秩序が脅かされる場合についてはどうなのやら。

その帰結が、これらの決定を行う権威と想定されているところの民主的政治組織を未来永劫ラディカルに変更するという点で、自由移民は他の政策決定とは異なる範疇にあるようだ。自由主義的秩序というものは、いつどれほど存在するにせよ、非常に複雑な文化的発達の産物である。新移民がオーストラリアとアメリカ合衆国のようなホスト側の諸国の文化に同化する必要性をミーゼスが仄めかしたことは、彼がこの事実によく気づいていたことを示唆している。

けれども、今日の自由移民の提案者は受入国の痛手な構造的変動の恐れに注意を払っていないように思われる。たとえばスイスの比較的自由主義的な社会が「解放国境」政権の下でどうなるかは怪しいものだ。

ミーゼスが帝国主義者?

『自由主義』で、ミーゼス(125)はヨーロッパの植民地権力の行使に対し、厳しい言葉を用いた(「植民地主義の歴史よりも血で染まっている歴史の章はない」)。彼が著述していた当時は西洋植民地主義が、数十年後にはぼろぼろ崩れる運命にあったとしても、いまだ真っ盛りであった。大英帝国だけでも地球の四分の一を覆い尽くしており、そのかたわら、フランス帝国がアフリカの広大な領土と他の保有地を抱え込み、オランダ、ポルトガルなどが小さな植民地領域を支配していた。

帝国主義の残虐な記録にもかまわず、ミーゼスは西洋権力の海外領土からの引き上げなどもっての他だと論じにかかる(127–28)。いわく、「ヨーロッパの経済は今では大いなる範囲で世界経済におけるあらゆる種類の原材料の供給者としてのアフリカの包含とアジアの大部分の包含に基づいている。……ヨーロッパの公務員および軍隊と警察は、彼らのプレゼンスが国際貿易での植民地的領土の参加を保険に入れるための法的条件と政治的条件を維持するという目的にとって必要であるかぎり、これらの領域に留まらなければならない」。

ミーゼスはもっと早い頃から帝国主義的支配への賛成をもっと説得力をもって表明していた。『社会主義』(1981: 207)では、彼はイギリス帝国主義に対して華奢な称賛の言葉を尽くした。いわく、「自由主義の時代において、イギリスによって行われた、植民地帝国を拡張し、外国貿易を認めようとしない領土を開国させるための戦争は、近代世界経済の基礎を築いた。これらの戦争の真の重大さを推し量るためには、インドと中国とその奥地が世界の通商に対して閉ざされていたままであったら何が起こっていただろうかと想像するだけでいい」。彼が言い張るには(1981: 208)、

自由主義は貿易に対して閉ざされたドアをすべてオープンしようと努力している……。その敵対心は、貿易に禁止と他の制限を押し付けることで、自らの臣民を世界商業に加わる優位から排除するところの政府に限定される。

実は、イギリス帝国主義はその名で公正に称することすらできないだろう。「自由党の政策に帝国主義と共通するものは何もない。それは対照的にも、帝国主義を覆し、これを国際貿易の領域から排除するよう設計されている」。これは、ミーゼスの個人的な用語法では、「帝国主義」がその慣例的な意味を保っていないことを意味しており、むしろ植民地領土に適用される保護主義のような何かを意味している。

ミーゼスはこれが歴史的に言って古典的自由主義の立場であったと主張する。けれども、最も有名な十九世紀自由貿易派――マンチェスター学派の指導者たるリチャード・コブデンとジョン・ブライトや、フランスでのバスティア――は通商拡張のための国家権力の使用に対する頑強な反対者であった。コブデンによって最も汚らわしい帝国主義の例として激しく強襲されたイギリスの対清アヘン戦争をミーゼスが擁護したことは皮肉である(1981: 207 n. 2)。

全般的には、これらの問題に関するミーゼスの見解は、国際貿易へのどんな政府関与も正統ではないとするコブデンと彼の学派に代表される伝統的な自由主義者の見晴らしとは鋭い対照をなしていると言わなければならない(ホブソン1968とドーソン1927)。さらに、ミーゼスは「自由貿易」帝国主義者に対する標準的異論にも開かれていた。イギリスは十九世紀後半において、アメリカ合衆国に対して保護主義を放棄させ、その市場を外国製品に開かせるべく、その外交的圧力はおろか軍事的圧力まで用いることを正当化されていなかったか? そのような仮説上のイギリス外交政策に対する異論が、かたやアメリカ合衆国はそのような軍略を成功させるには強すぎたが、かたや清国は申し分なく弱かったという事実しかなかったら?

ここでの、そしてときには他のところでのミーゼスの問題の大部分は、消毒された国家の着想にある。彼にとっては国家とは単純に「強制と強要の機構」である。彼は「国家はあらゆる冷たい怪物のうち最も冷たい怪物である」というニーチェの格言を軽蔑的に拒む(57)。いわく、「国家は冷たくも温かくもない。……すべての国家活動は人間活動」であり、その目標は「社会の維持」である。

しかし国家機構にはそれ自体のダイナミズムがあるとしたら? 生み出される帝国主義および軍人と文民の官僚制が単なる自由貿易の保証を超えた国家活動主義に行き着くとしたら? シュンペーターが帝国主義の進化について記したとおり(1951: 25強調は原文ママ)、「戦争のために創造された機械がいまや機械のために戦争を創造していた」。けれども、このいずれもミーゼスの経済計算に勘定されているようには見えない。

また、イギリス帝国主義が余所の諸民族にモデルとされて、アメリカ合衆国とその他、わけてもドイツで拡張主義的な争いに拍車がかかった結果、悪意に満ちた帰結をすべて伴った歴史についても、彼は考慮をしていない。

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[1] グスタフ・フィッシャーによってイェーナで一九二七年に『リベラリスムス』として初出版され、ドイツで一九九七年にハンス=ヘルマン・ホッペによる重要な導入を付けて再出版された。私に翻訳された英語での第一版(ミーゼス1962)は、ミーゼスの示唆の基づき、『自由で繁栄した共和国』と題名付けられた。英語版の第二編(1978a)では、『リベラリズム―社会・経済的解説』と題名付けられ、ルイス・M・スパダーロに前書きを付された。第三編(1985)はベッティーナ・ビエン・グリーヴスによる序文をもって、『リベラリズム.古典的伝統において』と題付けられた。このテキストでの引用は一九七八年の編から。

[2] たとえばF・A・ハイエク1992: 127は、ミーゼスが一九二二年『社会主義』の出版をもってすでに「自由企業システムの指導的な解釈者兼擁護者」と目されていたことを書き留めた。

[3] ハイエクはこれが『社会主義』よりは「成功しなかった」とも述べるが、これは到底主要な批判ではない。

[4] イタリア語の初版は一九二五年に遡る。経済自由主義に対するルッジェーロの一貫した敵対的な態度は彼がフレデリック・バスティアを強襲したところに反映されている。ルッジェーロ1951: 187によると、かの偉大なフランス人自由主義者の作品は「実に適切なことに社会党員の風刺の的になった」、というのも、それらに見られる「もっと早い頃の自由主義を特徴付ける国家への反抗心は……際立って無作法でグロテスクな表現だと感じられる」からだ、と。

[5] ロスバード(277)はミルをこき下ろすために彼の「多様で矛盾した命題の広大な貝塚」を生み出す知的「総合」での有名な機敏さの例を選び抜いた。ミルのこの形質の良い例は、「役人の技巧的かつ能率的な組織――結局、最初に改善を行うことができ、改善を採用する本意がある組織を永遠に所持する」〔こと〕の望ましさに関する彼の断言(1977: 308)である――国家官僚制の多くの危険性を警告するページの後にこれだ。

[6] ロールズのシステムのぞっとするような反個人主義的含意はアントニー・フルー1989によって説得的に論証されている。

[7] 私が一九五〇年代後半に『リベラリスムス』の英訳を引き受けたとき、ミーゼスは一度、イタリアのファシズムのこれらや似たような所見の歴史的文脈を説明するための訳注を収めてはどうかと私に持ちかけた。私の返事は、振り返ってみれば間違っていたが、彼が一九二七年に表明した見解の背景は明白だからそのような注釈は余計だというものであった。残念ながら、英語版の翻訳はそのような説明が何もなしで出版された。私はミーゼスの社会主義的批評家の歴史学上での手がかり知らずを途方もなく過小評価していた。

[8] 近代史の著述家の倣いどおり、アンダーソンは「労働」と「労働運動」で強要的労働組合主義を意味している。彼は「民主主義」で念頭に置いているのは、財産所有者から略奪をする強要的権威を行使した当時のウィーンの社会主義者優勢政権であるようだ。リチャード・M・エベリング脚注403以下の所見を見よ。

[9] またアンダーソン1993: 17–18も見よ。これは脚注が加えられた英語エッセーの翻訳版である(この参照について、私はアンダーソン教授に感謝している)。アンダーソンは引き続き、ミーゼスはナチスの実行におけるドイツのみを有罪と訴えることでまた「オーストリアの無罪証明」をも試みていたと主張する。彼は、オーストリア人が「ヨーロッパ大陸で唯一――護国団の日に――ヒトラーに対し真剣に抵抗した人々」であったというミーゼスの主張(ミーゼス1978c: 142参照)を引用する。この公平に言って取るに足らない点において、おそらくミーゼスはそのオーストリア愛国主義を許されていい。ミーゼスは社会民主主義を弾圧するオーストリア政府を暗に支持するにあたって、いみじくも、ムッソリーニ政権は一九三四年の「ナチの乗っ取りに対する戦いでオーストリアを支持する用意がある唯一の政府であった」し、ムッソリーニとの同盟に対する社会民主党員の暴力的反対がナチのオーストリア併合に繋がる恐れがあり、最終的にこれが実現してしまった、と考えていた(1978c: 140–41)ことは注目されてしかるべきだ。

[10] いずれにせよ、クローンの言明は彼らしいことに人を誤解させるものだ。というのも、ミーゼスの所見はファシスト政権樹立前の一九一九年から二二年までに関わっているからである。

[11] これはクローンの見え透いた不誠実さを示す多くの例のうちたった一つにすぎない。今日では「ドイツファシズム」の共通理解とは、特にドイツにおいては、国民社会主義、あるいはナチズムのことだ。もちろんミーゼスはつねにあらゆる面でナチズムを激しく拒絶していた。彼が共産主義への攻撃的な反対という点でイタリアのファシズムに似たドイツの運動に言及したとき念頭に置いていたのは(48)、第一次世界大戦後の最初の一年での「軍国主義者と民族主義者」、特にドイツ義勇軍(フライコープス)であった。彼が『全能政府』で状況を示したとおり(1944: 198–200, 206–07)、一九一九年一月ボルシェビズムのドイツ征服の危険性はまさしく本物であった。ドイツ人共産主義者は武装蜂起に立ち上がり、他の中心地を別にしても、ベルリンのほぼ全域を支配下に置いた。「しかし民族主義者の一味と一団および旧軍の遺物にとっては彼らがドイツ全域で権力を握ったと言ってもいいくらいだった。しかし彼らの強襲を止められるかもしれないような要因が一つあり、それが実際にこれを止めたのだった。右翼の軍隊がそうだ」(1944: 200–01)。またドイツ義勇軍に対する彼の批判とともに彼の賞賛も見よ(1944: 206–07)。一九一九年の共産主義者の暴動を鎮める際の右派軍隊の役割に関するミーゼスの解釈は、ワイマールの歴史家ハーゲン・シュルツェ1982: 180–82に支持されている。

[12] またこの論点でのマルクーゼに対するミーゼスの擁護のために、マレー・N・ロスバード1981: 251, n. 3も見よ。ミーゼスに対するもっとよくバランスの取れた批評家、ジェラルド・モゼティチ(1992: 33–34と36 n. 22と33)は、ドイツでのファシズムと似た運動は背景に千年ものの文明がある国で発達したから決してボルシェビズムほど残忍にはなりえなかったというミーゼスの断言に言及する。モゼティチが述べるとおり、これは「あいにくと予知される惨事」であったが、「ミーゼスは、同様にドイツ人の先進的文化がファシズムにとって打ち勝ちがたい障害となると考えたカール・レンナー〔オーストリア社会民主党指導者〕ら多くの同時代人とこの意見を共有した」と書き留める。

[13] レーニン主義とコミンテルンの特徴に対するミーゼスの分析はスタンレー・G・ペイン(1995: 77–78)に裏付けられており、彼は、レーニンがヨーロッパの政治的均衡に導入した多くの圧政的政策のうちには「政治犯に対する制度化された永遠の強制収容所を伴い、清算主義的政策と組み合わせられた大規模強制労働を特色とする、体系的な大衆テロと大衆虐殺」と「人民の全階級と全範疇の清算乃至除去」があり、「〔共産主義〕「インターナショナルはそれまで存在しなかった過激な革命的左翼からの頑固な挑戦と危機を創造した。……その反応は、単なるもっと厳格で弾圧的な政策ではなく、お返しで次に暴力を行使する用意がある新右派反共集団の形成であった」と記す。

[14] 一九一九年の夏に、ジノヴィエフ(後にスターリンに殺害される人物)は次のとおり述べた(パイプス1993: 174–75から引用)。「運動はここだけで言えるような目を見張る速さで進展している。一年で……全ヨーロッパが共産党になるだろう。そして共産主義のための闘争はアメリカへ移り、おそらくアジアと世界の他の部分へ移るだろう」。

[15] しかしながらピーターソンは「計画し行為する確固たる基礎をこの革命と暴力のレトリックに与えるものは事実上何も起こらなかった」と強調する。またサルヴァトレッリとミラ1964: 103–04も見よ。

[16] ボルシェビキが一九一八年一月ペトログラード立憲会議で約二五%しか得票しなかったことは書き留めるに値する。

[17] カトリック党左翼には「クリスチャン・プロレタリアート」の側でレーニン主義的闘争に加わった者たちがいた(モーガン1995: 19)。

[18] 社会党の組合に共感的なもう一人の歴史家たるリトルトン1973: 62–63参照、〔社会党〕「同盟の規律は、スト破りを避けるために〔原文ママ〕、きわめて過酷なものとなり、個々の多くの労働者が被害を受けた」。セッテンブリーニ1978: 154参照、「社会党同盟は実は彼らの権力を肉体労働の独占に依存し、大小の土地所有者、物納小作農、小作農、または労働者自身など、誰に対してにせよ、嫌がらせによってこの力を行使していた」。

[19] マッフェオ・パンタレオーニ(1922: xxxvi)は、「納税者の将来の歳入さえ貪り尽くすために」、ミラノの社会党政権がアメリカ合衆国でローンを上昇すらさせたと書き留めた。面白いことに、リチャード・M・エベリングが指摘するには(2002: xxix–xxxi)、第一次世界大戦後にウィーンを支配した社会民主党員も似た構想を追求しており、さまざまな福祉制度および地代統制などの規制を通して彼らの依頼人に大量に援助していた。新税などの政策の重い負担は比較的豊かと見なされた人々に対する大規模な略奪に相当した。自然と、ミーゼスはこれらの出来事の間近での観察者になり、社会主義者に対して頑強に戦うことになったが、最終的に自ら認めたとおり、これはあまり役に立たなかった。またホッペ1993: 21も見よ。

[20] ヴィヴァレッリ1991: 40参照、「一九一八年から二二年までの期間の社会主義性格の一般的側面および地方の状況に関する大量のモノグラフはどんな疑いもなく、革命的社会主義がイタリア議会政権を混乱させ全国に内戦の恐怖を蔓延させたことがいかに致命的な損害であったかを証明してきた。この恐怖がどれほどファシストの思う壺にはまったかはよく知られている」。

[21] スミスは後の作品(1982: 41)でも、「イタリア貿易組合員と社会党員はレーニンと同類ではなかったし、決して国家を掌握しなかっただろう。彼らは名ばかりの革命派であって、ファシストの武装分隊が彼らに抗しに行ったら無防備だっただろう」ことは明白であるはずだと主張し続けている。加えて(55)、一九二二年ムッソリーニの権力掌握に対する広く行き渡った公的支持に関しては「共産主義の脅威はなかったのだから共産主義の恐怖は小さな動機でしかありえなかった」と言う。彼のような有名な歴史家がこんな不条理に陥るとは仰天だ。共産党の脅威の現実性に関する疑問を脇に置いても、人々の行為が単なる「客観的」状況ではなくて彼らの知覚と主観的評価に条件付けられることより明白であることとは何のことだ?

[22] セッテンブリーニ(1978: 125–29)は、イタリアでの社会党員の本当の立場を理解していた唯一の同時代人は――ムッソリーニ、元社会党員であって、彼は元同士が直面している政治的現実の洗練された分析を執筆したと述べる。

[23] フィリップ・モーガンが記すには(1995: 34)、「社会主義はファシズムの対抗的反動のプラットフォームを提供した。これが、ファシズムの成長への恐怖を作り出し、ほとんど文字通りにファシズムをお膳立てした」。カールステン1967: 55参照、「かくて中流階級の恐怖を正当化されず誇張されたものと考えるのは幾分か皮相的である。振り返ってみれば確かにそうだが、当時の中流階級の存在は危機に瀕しており、ボルシェビキの危険性はまさに現実に思われたのである」。また、ファシズムが共産党の乗っ取りを防いだという早期の自由主義的ファシスト、レアンドロ・アルピナーティの議論(イラーチ1970: 41–45)も見よ。

[24] 彼の『ムッソリーニ』1982: 35–56を見よ、社会党員は「本質的に平和主義者」だったという彼の異様な言明(36)が含まれている。もっと早い頃の作品1959: 348では、スミスは「社会党員の田園地帯での反暴力〔原文ママ〕はともに恐ろしかったし許しがたかった……恐怖政治を始めたのが誰であれ、ファシストは確かに良く組織され、良く武装し、多くの金を持っていた……」と断言した。とにかく二十年経って、スミスは「恐ろしかったし許しがたかった」社会党員の「平和主義者」の「反暴力」を見失っていた。ジャン・ピーターソンの結論1982: 278は非常に適切に見える、いわく「左翼と右翼の暴力はどちらも連続的かつ同時に存在し、その原因と正当化は解きがたいほど縺れ合っているという事実は、これまで適切に研究されていなかった他に類のない特徴を構成している……」。驚くほど無知な記事で、オックスフォードのドンたるジョン・グレイ(1996: 14)には、一九二〇年代と三〇年代のどこであれ共産党の脅威にちっとも言及せず、コミンテルンに何一つ言及せずに、ヨーロッパのファシズムを扱うことができる。その代わり、彼のレビューには今日の民主儀にとっての脅威としてハーバート・スペンサーとアルバート・ジェイ・ノックの追随者を酷評する余地があった。

[25] リトルトン1982: 267参照、「ここで社会党員の暴力が農地改革論的スクアドリズモの発生に寄与したことを見過ごすことはできない。それは少なくともフェッラーラでは最も命を危険に晒されていた小さな〔反社会党の〕借地人であった……」。社会党員はカトリック教徒の野百姓組織のメンバーさえ頻りに攻撃した。サルヴァトレッリとミラ(1964: 171)は、ポー平原での多くの老いた土地所有者が社会党員に恐怖しながら借地人と物納小作人に土地を売り払ったと指摘する。いわく、「彼らがようやく得た財産を守り、またこの財産に付随した権利と利益を守る際に、新所有主は前任者には見られなかったような好戦性を呈していた」。

[26] サルヴァトレッリとミラ1964: 177参照、「ブルジョワジーの多く、わけても若者と退役軍人」は、「階級紛争での政府の中立性は……今では法の尊重と立憲的な秩序を保証できな」くなったと信じるようになり、「ファシズムに転向した」。一九二一年まで、パンタレオーニは、「〔イタリアの〕ブルジョワジーは一七八九年のフランス貴族のようにギロチンを運ぶ車に自ら乗り入るだろうという理論が〔いかに〕評判を落とした」かをファシストの反撃が証明したと大喜びしていた。

[27] 社会主義の脅威を知覚した際に権威主義国家の支持者に発展した最初の重要な自由主義思想家はたぶんシャルル・デュノワイエだろう。エドガー・アリックス1911と本書のエッセー「階級紛争:自由主義的理論対マルクス主義的理論」を見よ。

[28] デニス・マック・スミス1959: 360–61はイタリア人自由主義者によるこの一般的な早期ファシスト運動支持で訳が分からなくなったと告白する。これは彼らが「富を得て自由の前で安逸を貪っている」ことを示すと彼は主張する。イタリアは今まさにレーニン主義革命――あらゆるテロ、迫害、大量殺人、飢饉――の間際にあると自由主義者が信じていたことを所与と鑑みれば、スミスのナイーブな「分析」で露呈された、イタリア人自由主義者の動機に関する彼の歴史理解がいかに貧しいには驚かされる。

[29] イタリア語は、かたやリベラーレとリベラリズモ(自由主義者と自由主義)、かたやリベリスタとリベリズモ(経済自由主義者と経済自由主義)を区別する唯一の言語であるようだ。

[30] ハイエクはパンタレオーニの『純粋経済原理』(1889)を念頭に置いていた。シュンペーター(1954: 857とn. 4)もこの作品をパンタレオーニの科学的貢献一般として高く買っていた。彼は、Principiが「宝石」であったというエッジワースの判断を裏書きし、パンタレオーニが「かつてわずかな人しか理解していなかったような『純粋理論』を理解していた」と記した。しかしながらパンタレオーニの方法論は本質的にワルラシアンであり決してオーストリア学派の伝統にはないと注記されなければならない。

[31] パンタレオーニは次のとおり言い加える(1922: viii, xxxi、強調は原文ママ)。「私は、ロシアやハンガリーの類の大惨事だと言おう。なぜならば、それは我々とともに並外れた人口密度のせいで一層深刻になってきたからである」。イタリアは「ファシズムによって、そしてわが国のために内戦を戦うファシストの英雄主義によってのみ」、ボルシェビズムの「破壊的台風」から救われた。パンタレオーニの政治については、Enciclopedia Italianaとリッチ1939: 15–16, 25の、パンタレオーニが「ムッソリーニとファシズムの友」と称されるところを見よ。パンタレオーニの立場はミーゼスのと似ていた。たとえば、このイタリア人経済学者が1922: 131–32で述べるには、「行為としての社会主義に関して言えば、実力には実力で対抗する以外に対策はなかった。現在の情勢で我々の国の文明を救済するためにはファシズムの働きが最も有用な働きであるというのはこの点においてである。ボルシェビキの強襲――我々は彼らの多年にわたる準備を許してしまった――がやんだとき、現在のとは異なる感傷を形成し、論理的行為が影響する領域を拡大するにあたって、我々の教育とプロパガンダと警戒の働きは有効になることができる」。

[32] またパレート1980: 108も見よ。この作品は彼の生涯の多様な段階で本質的に自由主義的だったパレートの卓抜な選集である。

[33] パレートの後のファシスト支持的立場に関するもう一つの疑念は、社会主義誌『前へ!』でスト参加者の暴力を是認する或る記事の著者がバーヴァ・ベッカリス将軍に庇護を受けているはずだという彼の示唆である。この将軍はちょうどミラノで暴力的に抗議する社会主義者の大虐殺を指揮していた。

[34] パレートの言明1991: 93参照、「自分を守るのに必要な勇気を欠かすこと、どんな抵抗も諦め、勝者の寛大さに甘んじ、あまつさえ、かの勝者を支持し彼の勝利を容易にするほどの臆病に身を任せることは、貧弱で堕落した男の特徴である。そのような個人に値するものは軽蔑以外にはないし、社会のためには彼ができるだけ早く消え失せることが助けになる」。

[35] フェミア1998: 160参照、彼はさほど不思議でもないこととして次のとおり記す。パレートは「彼が愛しげに抱いた価値観――健全な貨幣、公的な高潔さ、市場の規律、個人の責任――の唯一可能な救い手としてファシズムを歓迎した。かくてパレートは欠席ファシストになった。……ファシズムの全体主義的な本性はこれらの胚芽段階では自明ではなかった」。

[36] エイナウディら他の経済学者含むほとんどの自由主義者は、ほとんどの場合にかなり急いでファシスト政権と決別した。彼らは独裁的方法に、そして経済学者の場合は、新政権下での寄生主義の継続とその一層の増大によって、幻滅させられていた。デ・ヴィティ・デ・マルコ1929: ixはリベリスティのファシズムとの関係の二つの側面を明瞭に区別する。「二つのまったく異なった段階がある。第一に、ボルシェビズムに堕落した社会主義とファシズムが対決した段階。第二に、個人の自由を国家の基礎に置く人々にファシズムが対立した段階。我々は、旧体制への批判と闘争というファシズムと共通する一点から始まった」。

[37] これらの自由主義的経済学者の幾人かが「財政科学」(シエンツァ・デッレ・フィナンツェ)先駆者であって、彼らがジェームズ・ブキャナンの公共選択の方向性に影響を与えたと彼が考えたことは、もちろん偶然ではなかった。しかしながらブキャナン(32–33)は、彼の早期のエッセーでイタリア人経済学者の「支配階級の理論」を議論する際に、デュノワイエとシャルル・コントからバスティアとモリナーリを経てフランチェスコ・フェッラーラへ受け継がれたこのアプローチからの重大な逸脱に気を留めない。ここでのキー概念は強奪だったのだ。また、ブキャナンは民主的意思決定がイタリアの理論で支配階級の政府の問題に解決を提供するだろうと示唆することで論点を取り違えている。一例として、そのせいで幕開けされる、下流階級が経済的成功者に強奪を行うところの計り知れない光景ゆえにこそ、パンタレオーニは普通選挙権に対しての憎しみのこもった反対者だったのである。

[38] ムッソリーニのこの方向での主な声明は一九二一年六月二十一日の議会演説であり、驚くことではないが、パンタレオーニ1922: 211–13はこれをたっぷりと賞賛した。興味深いことに、彼は国家が「郵便と学校〔の支配〕で思想の独占者兼検閲者」として振舞うことをやめよというムッソリーニの要求を裏書した(212)。パンタレオーニはまたムッソリーニが一九二一年十一月八日の演説で「経済問題において、我々は、言葉の最も古典的な意味での自由主義者です」と述べたことを幸せそうに報告した(249)。

[39] 産業の利害関係者はデ・ステファーニの関税と助成金への反対を嫌い、彼を一九二五年に政権から追放させた。カニストラーロ(編)1982、s.v. “De Stefani, Alberto”を見よ。

[40] イタリア人自由主義者は戦争賛成の立場をとる際に、悲劇的にも、ドイツの国家主義との同一視およびイギリスとフランスの「自由主義」との同一視によって邪道に引き入られていた。この場合では、彼らは国家の戦争への動員のダイナミクスだけでなく、政治を支配する「非意図的帰結の法則」をも忘れていたのである。

[41] ジレッティに使われたここで「マフィア」と翻訳されている言葉はカモッラ(の複数形)であり、シチリア・マフィアのナポリタン版を指す。

[42] 幾つかのミーゼスの早期の著作物と『リベラリズム』の「自決権」(108–10)の節に基づいて、ハンス=ヘルマン・ホッペ(2001: 79–80)が述べるには、ミーゼスの実質的に無制限な(「単一の村、区域全体、または隣接した区域の連続」までへの)脱退権の宣言は、従来の意味での民主的支配が引き起こす自由と繁栄への脅威を取り除くだろう。しかしミーゼスはまた彼の意味での自決が「単一国籍で構成される国家の形成」へ至るだろうとも断言している(110)。そのうえ、彼は自決の実現が「革命および市民戦争と国際戦争を防ぐ唯一の実行可能で効果的な方法である」と記している(109)。これが第一次世界大戦後のイタリアにどう適用されるのだろうか。ミラノとボローニャの豊かな区域が社会主義的な地方の管轄から脱退することで自由主義的秩序が維持されることはできたのだろうか? 彼らの脱退はこれらの地域で市民戦争を防いだのだろうか?

[43] 一九一九年ドイツで共産党員が人口の多数派の支持を勝ち取っていなかったのは確実である。

[44] パレートは、社会党員がイタリアで権力を握ることに取り掛かるかわりに、彼らのぶんどった戦利品をすぐ分けることで忙しかったのだと考えた。

[45] ミーゼス(1978a: 45–46)は少数派支配の試みの無益さにボルシェビキを挙げる。彼らはその意思に反して、百姓の抗いがたい要求ゆえに私的土地所有権を認めるよう強いられた。しかしミーゼスはこれを著したのは一九二七年であり、ほんの数年後にソビエトが土地の問題に関する彼らの政策を完全に逆転させ、未曾有のテロリズムと百姓の大量虐殺を実行し、六十年間支配を続けた。

[46] 西洋諸国での公教育の方向性は最終的に自由主義的観念に対して敵対的な力に握られたから、この方針は失敗した。バンジャマン・コンスタンは十九世紀初期にすでに、まさしくこの意味での諸刃の剣であるという理由そのもので、望ましいイデオロギーを普及する目的での――教育システム含む――国家権力の使用を警告していた。十九世紀中葉のフランス自由主義カトリック教徒の指導者たるモンタランベールはなぜ国家教育と国家教員が宗教と財産権の両方を掘り崩したのか理解していた。本書のエッセー「フランス自由主義の中心性」を見よ。

[47] シュンペーターは補助的ながら非常に重大なことを主張した。いわく、「社会の長期的な利益は、これをブルジョワ階級だけの利益と見なす人々にとって完全に自然なことに、ブルジョワ階級の上層に丸ごと預けられる」。

[48] ミーゼスがこう断言する際に念頭に置いていたのが、、一人格の人種、民族などでの差別を「市民権」法の具足一式で廃止し、社会的分業に参加せず暮らしたがる移民の群集を気前の良い福祉国家が魅了する、全西洋諸国での現行の状況ではなかったことは疑いない。

[49] ミーゼスはこの議論を当時のアメリカ合衆国の非常に大きな人口(一九二〇年人口調査によれば、一億人超)と潜在的移民の相対的に制限された人数に基づけているようだ。移民に比してのアメリカ現地人の低出生率と、アメリカに移住するリオ・グランデ南部の数千万人の熱意(ブライムロー1996を見よ)を含む現在の状況を、ミーゼスがどう扱っていたのだろうかは未解決の疑問である。

[50] ミルトン・フリードマンの所見(フォーブス1997)参照、『ウォールストリート・ジャーナル』の「国境開放」の立場に「固定観念」と反発しながらいわく、同時に「自由移民と福祉国家をもつことができないのはまったく明白である」。自由市場の支持者が必ず自由移民をも支持しなければならないという考えは移民賛成陣営にも反対陣営にも溢れているが、それでもやはり間違っている。たとえばホッペ1998とこの論点での他のThe Journal of Libertarian Studies寄稿者を見よ。

(出典: mises.org)