自由主義の未来―新急進主義への嘆願

Hans-Hermann Hoppe, The Future of Liberalism: A Plea for A New Radicalism.

〔一九九七年バルセロナでのモンペルラン・ソサエティ会合で発表された。Polis, Vol. 3,1, 1998でも拡大版が発表されている。www.HansHoppe.com.〕

古典的自由主義は一世紀以上も衰退してしまっている。十九世紀の或るときから、公儀を形成する観念はますます社会主義的になってしまった。すなわち、共産主義になり、ファシズムになり、国民社会主義(ナチズム)になり、そして最も長続きしているところの、社会民主主義(アメリカ自由主義とネオ保守主義)になってしまったのである。

実際、今日の幾人かのネオ保守主義者が「歴史の終わり」と「最後の人間」の到来に増長してしまい、言い換えれば、アメリカ監督のグローバル社会民主主義の千年王国につけあがってしまったほど、社会主義の勝利はかくも完全になってきている。

この状況において、自由主義者がとれる反応は二通りある。彼らは、たとえ公衆が自由主義の真理を拒絶しようと、それでもなお自由主義は健全な学説なのである、と主張することができる。もしくは、この拒絶をその学説の誤りの示唆と考えることができる――これこそ私のするところだ。

自由主義の中心的な誤りはその政府論にある。

自由主義は――ロックに体現され、ジェファーソンの『独立宣言』に誇示されたとおり――普遍的人権として、自己所有、天与資源の原始専有、財産、契約に集中した。この権利の普遍性の強調は、王子と王に立ち向かい、自由主義をあらゆる既設政府への急進的敵対に位置づけた。自由主義者にとって、あらゆる人間は王君であれ農民であれ同一の普遍的正義の原理に服するものであったし、政府とはその正当化を私有財産所有者間の契約から導出できるか、それともまったく正当化できないかのどちらかであった。だが、できたのか?

自由主義的な答えは、人殺し、強盗、泥棒、チンピラ、詐欺師などがつねに存在するだろう、そして彼らを物理的刑罰で脅迫しなければ社会での生活は不可能であろう、という真なる命題から繰り出された。自由主義的秩序を維持するためには、暴力の脅迫か適用で、他人の生命と財産を尊重しない人々に強要をしなければならない。この前提から、自由主義者はこの仕事、法と秩序の維持が政府に独特の職務であると結論した。

この結論が正しいか否かは政府の定義にかかっている。もしも政府が意味するものが単純に、自発的に支払う顧客に対して保護サービスを提供する個人や企業であるならば、結論は正しい。しかしこれは自由主義者に採用された定義ではない。自由主義者にとって、政府とは専門化した企業ではない。それには二つの独特な特徴がある。というのは、管轄権(究極的意思決定権)の強制的領土的独占と、課税権である。けれども、もしも政府のこの定義を仮定したら、自由主義的な結論は明らかに虚偽である。

実際、保護と司法的意思決定を専ら政府に尋ねるよう所与の領土内の全員に強要していいという権原が代理人に与えられるような契約に、私有財産所有者が加入するところは思い浮かべようがない。そのような独占契約が含意することとは、私有財産の全所有者が自分の人格と財産に関する究極的意思決定権を誰か他人に放棄してしまったということであろう。事実上、彼は自分を奴隷にしてしまったのである。しかし彼の人格と財産を誰か他人の行為に対して永遠に無防備にすることに、正当に同意できる人や、本意にも同意しようとする人はいない。誰かが独占的保護者に課税権を授けるところも同様に思い浮かべようがない。被保護者が保護に支払う総額が被保護者の合意なく保護者によって片務的に決定されることを許可する契約に加入できる人や、加入しようとする人はいない。

自由主義者はこの内的矛盾を解決すべく、その場しのぎに「暗黙的」または「概念的」な同意や契約や立憲の俄かごしらえを試みてきた。けれどもこれらの試みはすべて、不可避の同じ結論を追加してきたにすぎない。すなわち、明示的契約から政府の正当化を引き出すことは不可能なのである、と。

自由主義を破滅に追い込んだのは、自己所有、私有財産、契約の原理と両立する政府という、この大義自体の誤着想なのである。

第一に、この最初の誤りから出てくるのは、自由主義的な安全保障問題の解決――立憲的制限政府――が矛盾理念であるということだ。

ひとたび政府の原理が認められたら、自制する政府というどんな概念も幻覚である。たとえ自由主義者が提案してきたとおり、政府がその活動を既存私有財産権の保護に限定したとしても、どれほど安全を生産すべきかという疑問が生じる。政府代理人の答えは、自己利益と労働不効用に動機付けられつつ、しかも課税権力をもって、一定不変に同一である。支出を最大化すべし、かつ、生産を最小化すべし。支出できる貨幣が多いほど、かつ、すべき労働が少ないほど、彼らは良い暮らしになるのである。

そのうえ、司法的独占は保護品質を低下させてゆく。誰も政府以外には正義を訴えられないならば、正義は憲法にかまわず、政府贔屓に歪められてゆく。憲法と最高裁は政府の憲法と政府の最高裁なのであり、彼らが牽制し判決するその制限は何であれちょうどこの当該制度の代理人によって決定されるのである。予想どおり、財産と保護の定義は変更されてゆき、管轄の範囲は政府の優位に拡大されてゆく。

第二に、政府の道徳的身分に関する誤りから出てくるものは、地方政府――分権化した小さい政府――を選り好む古い自由主義的選好が支離滅裂であるということだ。

ひとたび二人の個人AとBの間に平和的協調を施行するために司法独占者Xをおくことが正当化されると認めたら、二重の結論が続いてくる。もしも二人以上の独占者XとYとZが存在したら、ちょうどXがいなければAとBの間には平和がありえないように、独占者XとYとZが「アナキー」にとどまるかぎり、彼らの間に平和はありえない。それゆえ、普遍的平和という自由主義的切望が満たされるためには、あらゆる政治的集権化が、究極的には単一世界政府が必要とされる。

最後に、政府を受け入れるという誤りから出てくるものは、人権の普遍性という古代的観念が混乱させられており、「法の下の平等」の台頭の下で、平等主義の媒介に変貌させられたということだ。

ひとたび政府が正当と仮定されつつも、世襲王子が普遍的人権観念と両立しないかどで排除されるならば、政府を人権の普遍性の観念とどう調和させるのかという疑問が生じる。自由主義的な答えは、民主主義を通して、万人に平等な条件で政府への参加を開放することだ。世襲的貴族階級だけではなく――万人があらゆる政府職務を執行することが許される。けれどもこの民主主義的平等は、いつでもどこでも万人に対して平等に適用可能な一つの普遍法という観念とは非常に異なっている。実は、王の上級法と一般臣民の下級法という古く疑わしい構図は、民主制下でも公法対私法と私法に対する公法の優越で維持されているのである。民主制下では人格的特権や特権的人格は存在しない。しかしながら、職務的特権と特権的職務が存在するのである。彼らが公的資格で行為するかぎり、公務員は公法に統治され保護されるし、それにより、私法の権威の下で行為する人々に相対して特権的地位を占めている。特権と法的差別は消滅しないだろう。逆だ。特権と保護主義と法的差別は、王子と貴族に対して規制されるというよりは、むしろ万人が利用できるようになるだろう。

予想どおり、民主主義的条件下ではあらゆる独占の傾向――価格上昇と品質低下――がもっと色濃くなってゆくばかりである。国を自分の私有財産を見なす王子の代わりに、一時的世話人が国を担当させられる。彼は国を所有しないが、公務に就くかぎり、国を彼自身と彼の子分の有利に使うことが許される。彼はその現行使用――用益――権を所有するが、その資本ストックを補修しない。これは搾取を除去しない。逆に、あまり計算せず、ほとんどまたはまったく資本ストックを気にせず、つまり近視眼的に搾取してゆくのである。そのうえ、正義の曲解が一層早く進んでゆく。民主的政府は既存の私有財産権を保護する代わりに、幻想的「社会保障」の名において既存の財産権を再配分するための機構になる。

以上に照らせば、自由主義の未来に関する疑問は答えを求めることができる。政府の道徳的身分に関する誤りのせいで、自由主義は実際には、維持し保護すると言ったはずの万物の破壊に、つまり、自由と財産の破壊に貢献した。かくして、自由主義はその現在の形態には未来がない。あるいはむしろ、その未来は社会民主主義である。

もしも自由主義に何か未来があるべきならば、その誤りは正さなければならない。自由主義者は、政府が契約的には正当化できないことと、あらゆる政府は彼らが維持したものにとって破壊的であることを認識すべきである。すなわち、自由主義は約百五十年前ギュスターヴ・ド・モリナーリに概説され、我々の時代ではマレー・ロスバードに推敲されたとおり、私財アナキズム(あるいは私法社会)に変貌しなければならないのである。

この変貌には二重の効果がある。かたや、自由主義運動の純粋化を導くだろう。自由主義的衣装に身を包んだ社会民主主義者と多くの政府職員はこの新運動とは絶縁するだろう。かたや、この運動の急進化を導くだろう。いまだに古典的な普遍的人権の概念を抱いており、自己所有と私有財産を政府に優先すると考えている古い自由主義者にとっては、この変遷はほんの小さな一歩にすぎない。私財アナキズムは単純に自由主義を貫徹しただけである。あるいは、自由主義がその本来の意図を回復しただけなのである。けれども、この小さい一歩の含意は甚大だ。

これを語る際、自由主義者は民主的政府を非合法と弾劾し、自衛権を再主張するだろう。政治的には、彼らは自由主義の革命的信条としての始まりに立ち返るだろう。古典的自由主義者は世襲特権の妥当性を否認することで、全既設政府に対する根源的反対派に位置づけられた。自由主義最大の勝利――アメリカ革命――は脱退戦争の結果であった。そしてジェファーソンは『独立宣言』で、「どんな形態の政府も、生命、自由、および幸福追求にとって破壊的になるのであれば、いつであれ、この政府を変更または廃止することは人民の権利である」と肯定した。私財アナキストは「そのような政府を投げ捨て、彼らの将来の安全保障のために新たな番人を提供する」古典的自由主義的権利を再肯定するにすぎない。

もちろん、自由主義運動の更新型急進主義それ自体はほとんど重大ではない。そうではなく、現在の秩序に代わる、人を鼓舞するような代案のビジョンこそが重大なのであり、このビジョンが流れ出てくるみなもとこそこの新急進主義であって、この急進主義が社会民主主義機構を破るのである。超民族的で政治的な統合、世界政府、憲法、裁判所、銀行、貨幣の代わりに、アナキスト・自由主義者は国民国家の解体を提案する。新しい自由主義者は古典的先祖と同じように、政府乗っ取りを狙わない。彼らは政府を無視するし、政府には放置されることしか望まない。そして彼ら自身の保護を組織すべく、政府管轄から脱退するのである。大きな政府をもっと小さな政府に置き換えることしか求めなかった先駆者とは異なり、新しい自由主義者は脱退の論理をその究極まで追及する。彼らは無限の脱退を提案する。すなわち、国家の管轄領がついには消え失せるまで、独立自由領土の無規制な蔓延を。彼らはこのために――国家主義的な「ヨーロッパ統合」と「新世界秩序」のプロジェクトとは完全な対照において――数万の自由な国土、地域、州、数十万の自由都市の――現代では奇異なモナコ、アンドラ、サンマリノ、リヒテンシュタイン、(かつての)ホンコンとシンガポールの――、そしてもっと自由な地区と近隣の、自由貿易(領土が小さいほど自由貿易を採用する経済的圧力は大きい!)と国際金商品貨幣本位で経済的に統合された世界の展望を促進する。

もしもこの展望が世論に名声を獲得するならば、そのときこそ、社会民主主義的な「歴史の終わり」の終わりと、自由主義的なルネッサンスが始まるだろう。

(出典: hanshoppe.com)