オイゲン・リヒターとドイツ自由主義の終焉

Ralph Raico, Eugen Richter and the End of German Liberalism, https://mises.org/library/classical-liberalism-and-austrian-school-0

導入

社会主義対市場経済の大論点に関して、教養人のほぼ全員が抱いている見解を条件付けて形成したところの近代史解釈が、数世代にわたって存在してきた。

この解釈は大雑把には次のとおり進む。かつて或る階級があった――現代史初期の膨大な経済的かつ社会的な変動をもって突出した、「かの」ブルジョワ階級があった。自由主義とは、まあ限られた程度の人間解放を達成するのを助けたとは認めてやってもいいが、ブルジョワジーの自己利益的闘争のイデオロギー的表現なのだった。[1]

しかしながら他方でもう一つのもっと大きな階級が現れた。「かの」労働者階級が。勝ち誇れるブルジョワジーの犠牲者たちが。今度はこの階級が認知と優勢を目指して励み、ゆえに、彼ら自身のイデオロギーたる社会主義を発達させた。社会主義はもっと高次の、もっと広範な人間解放の変遷を目指していた。これら二つの――基本的には搾取者と被搾取者の――階級の、自然で不可避的な利害衝突が近代史を満たしており、ついには我々自身の時代の福祉国家で、ある種の便宜と妥協に至ったのである、と。

私が考えるところのこの歴史的パラダイムはすべて実に馴染み深い。

しかしながら、近頃では異なる解釈が根拠を得始めている。ベルリン自由大学の傑出した歴史家であるエルンスト・ノルテはその中心的な要点を表現してきた。

真の近代化革命とは自由主義的資本主義や経済的自由のそれであり、二百年前にイギリスで始まって、アメリカで初めて完成したものである。この個人主義の革命は早いころから革命的社会主義によって挑戦を受けていたが、その指針は最も包括的な反革命、すなわち、全体主義的集団主義への傾向としての、社会的条件を透かした時代遅れな共同体であった。[2]

資本主義は「相対的に短期間で影響を受けた者全員の生存条件を急進的に変化させて、それらを異様なほど、少なくとも物質的に改善した」けれども、「それは愛がどう喚起されるのか理解しなかった」。[3]偉大な資本主義革命は社会主義運動を呼び起こしたが、その運動は「ある意味で徹底的な反動主義、実に、急進的反動主義」であった。[4]

自由主義の在り処

このもっと最近の着想は自由主義の新解釈を示唆している。自由主義とは実は大衆の生活水準を桁外れに向上させた資本主義革命のイデオロギーであり、数世紀かけて次第に推敲された教義で、これが現代世界に唯一適した形の自由を含めた新しい社会秩序の概念を提出した。人間的活動の多様な部門が、実践と理論において一歩一歩、強要的権威の管轄から撤退して、自己規制的社会の自発的行為に委ねられていった。

事実上、西ヨーロッパと中央ヨーロッパの全人民(同様にしてアメリカ人)が、自由主義的観念と自由主義的運動を練り上げることに貢献してきた。オランダとフランスとスコットランドとスイスだけではなく、特に政治経済学の始まりの頃、たとえばスペインではサラマンカ学派の後期スコラ学派と他の学会センター[5]において、そしてイタリア人たちが。この進化に際し、ドイツもまたしばしば見過ごされてきた部分で役割を担っていた。[6]

ドイツ自由主義に関わってきた外国人にとって特に胸を打たれることは、当時経験された、歴史家の手元にある激しい敵愾心であって、これが冒頭の、上述の従来の近代史解釈に結びついている。ポール・ケネディーは「マンチェスタートゥム〔マンチェスター主義、すなわちレッセフェール〕に対するドイツでのかくも多くの攻撃の裏にあった純然たる悪意と盲目的な憎悪」について実に鋭く言及した。[7]

この敵愾心は特に、全文明的民族が信奉した自由主義運動のドイツにおいて二世代にわたり代表者だった男に対して向けられていた。彼こそはオイゲン・リヒターである。今では悪意は忘却に成り代わっている。去年の七月はリヒター生誕百五十周年であり、もしも私自身の非常に質素な貢献を別として、[8]どんな注意も連邦共和国での出来事に向いていなかったら、これが私の関心を引き寄せることはなかった。

しかしながら、これは驚くことではないはずだ。保守主義者と社会主義者の両方――概してドイツの歴史を著してきた二つの陣営が――リヒターを我慢ならないと考えたから、彼は普通、見くびられるか、さもなくば完全に無視されるような扱いを受けていたのである。もっと古い歴史解釈を鑑みれば、この環境は一定の意味をなすかもしれないが、これは決して新しい解釈とは一致しない。かくして、ドイツ自由主義とドイツ史にとってのリヒターの重大さを評価する試みが求められており、実際、立ち遅れてしまっている。

リヒターに関する意見の相違

オイゲン・リヒター[9]は、進歩党〔フォルトシュリッツパルタイ〕と後の自由主義者〔フライジン〕の、時に横柄すぎたにせよ素晴らしい指導者であって、三十年間をとおしてドイツ帝国議会とプロイセン下院におけるドイツ「左派自由主義」[10]乃至「断固たる」〔エントシーデン〕自由主義の政治的表現であった。そのうえ彼は、疲れ知らずのジャーナリスト兼出版社であった。[11]友達と政治的同僚の狭い集団の外部では、リヒター自身の時代と後の彼に対する態度と意見は概ね非常に否定的であった。[12]

当然、これは権威主義的保守主義的な側での主張である。ヴィルヘルム皇太子、後のドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は六人の下級役人でリヒターを「叩きのめす」計画を整えすらした(実現はされなかった)し、[13]リヒターの仇敵たるビスマルク皇子は後の皇帝ヴィルヘルム二世に「〔フランス革命〕国民公会の代理人としての人材がリヒターのような男たちのうちにいた」と打ち明けた。[14]リヒターの描写で後の著述家に影響を与えたハンス・デルブリュックはリヒターをアテネのデマゴーグたるクレオンと比較して、彼に対し、金のために最大の情熱を捧げる党の指導者という烙印を押し、[15]また、マルクス主義者のフランス・メーリングにとって、リヒターは単なる「大資本の下僕、助手」であった。[16]リヒターの「硬直性」、「教条主義」、そして「揚げ足取りのドクトリネール」が繰り返し攻撃されてきており、[17]現在のドイツ人の歴史家は彼をまとめて「永遠に反対ばっかり」[18]と特徴付けるとき、単純に彼の同僚のほぼ満場一致の見解を反映させていたのだった。

けれども、ビスマルクでさえ「リヒターは確かに我々が出会ったうちで最高の語り手だった。非常に精通しており誠実であって、行儀は不服従だったが人格者だった。今だって彼はからっぽな言葉では曲がらない……」と認めることを強いられた。[19]今回は自由主義陣営からのだが、もう一人の反対者たる連邦共和国初代大統領テオドール・ホイスは、リヒターが「『断固たる』(エントシーデン)自由主義の最も影響力ある指導者」で、「確かに枝葉末節の仕事〔原文ママ〕ではドイツ議会で最も物知りな代理人……」であったと認めた。[20]彼の主題に内心で近しい観察者は、これをもっと単純に表現した。すなわち、リヒターは「自由主義的教義の化身だった」のである。[21]

リヒターのキャリア

オイゲン・リヒターは軍医の息子であり、一八三八年七月三十日にデュッセルドルフで生まれた。実家の雰囲気は「敵対的」で、たとえばこの家族は『ケルン新聞』(『ケルニッシェ・ツァイトゥング』)を「熱心に」読んでいた――明らかに、当時としてはかなり大胆な行動であった。リヒターの「主として批判的合理的な性質」は若い頃から発達していた。[22]彼はフリードリヒ・クリストフ・ダールマンとロベルト・フォン・モールとともにハイデルベルクで政治科学を学び、ここはまた、後に財政の分野で最も著名な専門家となるカール・ハインリヒ・ラウとともに、彼が財政学を学んだところでもある。彼はまだ学生であったころにベルリンへ行っており、ここでのプロイセン下院の議事は大学の講義よりも彼を面白がらせた。彼はドイツ経済学者会議(コングレス・ドイチャー・フォルクスヴィアテ、自由主義的改革派組織)に出席し始め、新聞と会報の記事を通して、成長中の経済自由主義の運動に熱心に参加しており、また生活協同組合運動でも活動していた。

一八八四年までに、リヒターは連合した左派自由党、国家で百議席以上を誇ったドイツ自由志向党〔ドイチュフライジニゲ党〕を率いるようになった。ドイツでの自由主義の時代が到来したようだ。カイザー・ヴィルヘルム一世はかなり老いており、フリードリヒ皇太子はホーエンツォルレン家で最も自由主義的な人物であった。

それはドイツ人にとって望ましかったかもしれないような在り方とは違ったことが判明した。ビスマルクはその政治的手腕でフライジニゲ党が次の二回の選挙で崩壊するように手配したし、一八八八年ようやくフリードリヒが王座に就いたときには、彼はすでに致命的なほど病んでいた。

しかしながら、これらの浮き沈みはリヒターの政治的な確信にとってはどうでもいいことだった。残りの二十年でも、彼は同じ原理を固く保っていたのだった。それはますます時代遅れで見当外れに見えるようになっていった。彼はヨーロッパ列強の議会における最後の真正自由主義的指導者であった。

社会哲学と二正面戦略

リヒターは最初期のジャーナリスト活動ですでに、古臭い重商主義的体制の経済的劣位だけでなく、これと結合した市民的自由と政治的自由の侵犯を強調していた。かくて彼は「宿屋・居酒屋業の自由について」というパンフレットにおいて、あらゆる取引と職業に対する広範なライセンスと規制の権威を政治的権威者に授ける資格制度に対し、攻撃を加えたのだった。

我々の国家の警察管理がそのような立法、司法及び行政権力と結びつくかぎり、プロイセンはまだ法治国家〔法の支配に基づく国家〕の名に値しない。[23]

このように、リヒターの社会哲学の要石は最初から政治的自由と経済的自由の結合であって、彼と左派自由主義一般を「国民自由党員」から区別したような着想なのであった。二十年後、リヒターはビスマルクの保護関税に反対する偉大な演説を次の言葉で締めくくった。

経済的自由は政治的自由がなければ安全ではないし、政治的自由はその安全を経済的自由にしか見出せない。[24]

この教理がリヒターの継続的な政治戦略を決定した。彼は一生涯をかけて、かたやビスマルクの「擬似立憲主義」と再燃した重商主義に対し、かたや台頭する社会主義運動に対して、「二正面戦争」を行った。[25]

リヒターら断固(エントシーデン)自由主義者はこの政策のため頻りに非難されていた。批評家は、左派自由党員は軍国主義的権威主義的第二帝国に抵抗する点で社会民主党員と共通しているから彼らと同盟した方がいいのにと主張するし、そのような統一戦線が生まれないという事実はリヒターの有名な「硬直性」と「教条主義」の責任が大きいと想定する。幾人かの歴史家は帝国ドイツでの社会民主主義に対する自由主義者の反対が「下層民」の「恐怖」の産物としてしか理解できないという印象すら与えている。[26]

しかしリヒターがそのような同盟を拒絶したことは到底驚くにはあたらない。彼は自分が直面している党派が、わざわざ究極的な狙いたる私有財産と市場経済のシステムの廃止を隠さない、「ブルジョワジーとプロレタリアートの階級闘争を『あらゆる革命的社会主義の枢軸』と」みなした社会主義的党派であったと見て取った。[27]一八七五年以降、ドイツ社会民主党(SPD)は公式にマルクス主義党になり、その修正主義的傾向にもかかわらず、ベーベルとリープクネヒトとカウツキーのような一般に認められている指導者は、正統派マルクス主義を支持していた。もちろんSPDは「手始めに」多様な民主的要求を提示したが、その究極的な目標は非プロレタリア全員の社会的除去のままであった。

リヒターに立ちはだかった社会民主的な見地は、マルクスの主要な理論家兼伝記作家たるフランツ・メーリングによって例証されるかもしれない。メーリングが一九〇三年に社会主義的な『ノイエ・ツァイト』誌でドイツ人「ブルジョワジー」(とその擁護者)のことを記すには、「労働階級の助けなしでは絶対主義と封建主義を打倒することはできないだろうと気づかれなければならなかったし、基本的には気づかれていた。さらに、勝利の瞬間に以前の同盟・相棒が敵となって立ちはだかるだろうということも気づかれなければならなかったし、また基本的に気づかれていた」。この点で、最終的な天下分け目の紛争では、ブルジョワジーがプロレタリアートの犠牲になるだろう。

メーリングはそれにもかまわず、この推定上の状況ではブルジョワジーは「許容可能な〔原文ママ〕条件についての労働階級との協定だけが唯一可能である」という結論を引き出すに違いないと強弁した。[28]しかしリヒターのような自由主義者にとって、マルクス主義的シナリオは決してそんな「許容可能」ではなかった。そうであるからには、「将来の社会民主的状況」は仮説的だから既存の軍国主義的権威主義的国家よりは危険ではないが、本質的にそれより「なお悪い」とリヒターが考えたのは理解できる話だ。[29]

「一八六九年から、ベルリンでの進歩党の会合が社会民主党員によって暴力的に妨害されていた」という事実を別にしても、[30]彼らとの同盟などいったどうしたら考えられるんだ? 自由主義者として、リヒターのような男たちは社会主義のことを現代の重大な反革命と見ており、社会主義的な目標の達成はおぞましい貧困と国家絶対主義の両方に導くだろうと信じていた。当時の社会主義的教義には、そうでないものを示唆するようなものは何もなかった。歴史家はドイツでの反軍国主義的な共通戦線が発生しなかったことへの非難が社会民主党員自身に生み出されたに違いないと認識するがよろしかろう。

社会民主主義的将来像

社会主義者は自由主義的経済秩序に対する厳しく容赦ない批判に従事した。しかしリヒターが指摘するには、

社会民主党員は現在の社会秩序を批判する際に非常にお喋りだが、その破壊を通して達成されるはずの目標を詳細に明確化してしまうことがないように気をつけている。[31]

リヒターは『社会民主的将来像』でこの遺漏を補おうと試みた。[32]当時、「ベーベルから遠慮なく」という皮肉な副題のこの小さな本は大評判だった。これは十二の言語に翻訳され、ドイツだけで二十五万部以上印刷されている。

リヒターの物語は幾つかの点で疑わしいと認められなければならない。大衆的な聴衆に向けられていたのでそう期待されざるをえなかったとしても、これは新社会主義政権下での家族問題の悲哀に傾きすぎている。ときおりこの作品は、おそらく社会主義下で続発すると思しき社会的平等関係に関して、たとえばリヒターの説明では、帝国宰相は自分の靴を磨かねばならず、自分の服を洗わねばならないなど、初めのうちは不条理に思われるものすれすれである。

しかしながらこの説明はリヒターが社会主義者の平等主義的約束をあまりにも文字通りに、あまりにも真剣に受け取っている点に求められる。彼は、特権的な高級官僚とその支持者の新階級に権力を与えようとするマルクス主義の取り組みに気づいていなかった。

それでもなお、リヒターは後にマルクス主義的国家が露呈した特徴を予期することができていた。マルクス主義的ドイツでは出国は規制される。なぜならば、「教育と訓練を国家に負う人物は、働く義務を負う年齢であるかぎり、、出国する権利を授かることができない」。[33]至る所で賄賂と腐敗が罷り通っており、[34]国有化された経済の産物は世界経済の競争の水準に匹敵することができない。[35]

しかし何よりも、リヒターはふたたび経済的自由と政治的自由の結合を強調したのだった。

すべての印刷機が政府に所持されたら、出版の自由の行使はどうなる? すべての集会場が政府に所属したら、結社の自由の利用はどうなる? ……人格的自由も経済的自由もないような社会では、最も自由な形態の国家でさえ政治的独立を可能にはできない。[36]

想像可能な最悪の事態が発生し、母国がフランスとロシアに侵略される際に社会主義国家がドイツ軍を用意できないと判明するとき、反革命が勃発し、自由社会を回復する。

マルクス主義者と保守主義者:助け合い

リヒターは、これは単なる二つの形態の国家パターナリズムの問題だったのだと論じながら、一つの同じ戦いの部分としての、二正面キャンペーンを展開する。この解釈は興味深いことに、リヒターの規範的な非難は支持されずとも、予想外の方向から支持を受けた。ドイツ社会主義の創始者フェルディナント・ラサールは政治犯と非難されて、裁判官に対し次のとおりに述べた。

あなたと私を互いに分け隔てる距離が遠いのと同じだけ、私たちは、〔自由主義陣営に脅かされている〕あらゆる道徳性の消滅からも遠く離れたところで肩を並べています! 私はあなたとともに、近代の野蛮人〔レッセフェール自由主義者〕から、あらゆる文明の純潔なる原初の炎、国家を守ります。[37]

リヒターは右翼党派――保守党員と反ユダヤ主義者――が「特に、移動資本に反対し、申し立て上の『搾取』に反対する扇動と、さらには特別な国家援助と国家支給を全職業階級に配るという無限の約束」で社会主義を助けたと繰り返し語っていた。[38]代わりに社会主義は、その革命的脅威と、中流階級を脅迫し、強い国家権力の武装に駆り立てることで、保守党員と反ユダヤ主義者を手助けした。[39]

国家社会主義と社会政策

リヒターは、プロイセン鉄道の国有化およびタバコとブランデーの国家独占の確立を含むビスマルクの国家社会主義綱領と戦い、おのずと、かの大宰相と地主および「マンチェスターの財布野郎」嫌いが貧者への同情を表明することによって生活必需品の費用を高めるところのビスマルクの保護主義への転換と戦った。リヒターは関税障壁を「新カルテル形成の土台を育む理想」とみなし、これが実際に形成された。[40]

リヒターは、ルートヴィヒ・バンバーガーのような他の自由主義的な指導者とともに新たに形成された帝国での金本位の導入を支持したが、彼らとは違い、ライヒスバンクの創造による銀行システムの中央化には反対した。そのような中央銀行は「大資本と大産業」に特権を与える傾向があると彼は感じたのだ。[41]

おそらくこの分野でのリヒターの最も有名な攻撃は、ビスマルクの社会政策〔ゾツィアルポリティク、社会改革〕に向けられており、現代の福祉国家はこの社会政策をもって生まれたものである。リヒターはバンバーガーとともにこの構想に反対する主要な代弁者になった。この構想は一八八一年災害保険法案に始まり、他の自由主義的批評家が新アプローチに転向したときも、彼は長年にわたって彼の視点を貫いた。彼の見解の一つは特に悪名高く思われている。「我々〔進歩党員〕にとって特別な社会問題は存在しない。社会問題とは文化問題の総和である[42]――これによって彼が言おうとしていたのは、最終分析で、労働者の生活水準は更なる高生産性でのみ上昇することができるということであり、おそらく、あながち無感覚な見地ではない。

リヒターは特にこの反対理由で社会政策を責め咎めたのだった。[43]もしも世界の法廷としての世界史の立場から判断するならば、リヒターは確かに誤っていた。今では福祉国家は全世界を征服しており、誇大妄想的な社会主義のアイディアでさえ今まさに包括的な福祉構想の単なる一集合に還元されようとしている。それでもなお、リヒターが福祉国家の開始に反対して提出した理由の少なくとも一つには一定の説得力があった。

独立資金の発達を遅滞させたり制限したりすることで、人は国家援助の道ばかり押し進み、長期的にはどんな政治的システムも満足させられないような、国家に対する増加中の請求をここに呼び起こした[44]

(当時「世界で最も進歩的な社会国家」なる)「ワイマール社会国家の過剰緊張」の見出しの下に集まる問題の複雑さ、ワイマール共和国の腐敗、これらに付随した国民社会主義者の権力掌握を考えるとき、リヒターの言葉は人に再考を促すものだ。[45]また、今日でも十分にありえる次のような状況を思案するかもしれない。すなわち、資本主義のそんなに多くの致命的な「矛盾」が具体化に失敗してきた後で、結局は、本物の矛盾、システムを破壊するのも無理はないような矛盾、いわば、民主主義的秩序を機能させるために生じる無制限な国家福祉主義との資本主義の両立不可能性が現れている状況を。

市民的自由と法治国家

進歩党員の多数派が文化闘争を支持した――ドイツ・カトリック教会に対する十字軍を「文化の闘争」と称し始めたのはリヒターの友人にして著名な自由主義者たるルドルフ・フィルヒョーだった――かたわらで、リヒターは概してこの宿命的な紛争に反対しており、この闘争はドイツ・カトリック教会の反自由主義を頑なにさせるように大いに働いていた。[46]彼は――文化闘争には「特に興奮しなかった」わりには[47]――自分と親しい政治協力者をそれほど難詰しなかったけれども、彼自身の立場は基本的には真正自由主義のもので、フランス・カトリック自由主義者とジェファーソン主義者のものであり、私的教育の完全な自由を含む、国家と協会のはっきりとした分離、特にアメリカ人の場合としては、あらゆる宗教への国家援助の原理的な拒絶であった。[48]

これに関連して特に興味深いのは、リヒターにとって、「私学は最後の可能な避難所であった」というものだ。[49]当時のドイツ人(とフランス人および他の)自由主義者の多数派とは逆に、リヒターは彼自身の世俗的な世界観を奨励するために私立学校の道を邪魔しようとは思っていなかった。彼が表明するとおり、

たとえ公立学校よりも自由な私立学校システムを用いることで私の見解とはあまり同意できないものが生じるだろうというのが事実だったとしても、私は、なおカトリック教徒への恐れや社会主義者への恐れのせいで道を踏み外したり事をやめたりすることはないだろう。[50]

同様に、リヒターは発生中の反ユダヤ運動とも戦っていた。[51]自由主義者を腐らせるためのもう一つの努力として、ビスマルクが媚を売っていた運動だ。リヒターは反ユダヤ主義者に「非国民的」と烙印を押し、彼らのことを「我々の国民的栄誉を傷つけるこの運動」と称していた。今度は反ユダヤ主義者がリヒターの周りの左派自由党員を「ユダヤ護衛隊」とレッテル張りし、[52]社会民主党員のように、ベルリンでの自由主義的な会合を暴力で妨害しようと試みた。[53]リヒターのキャリアが終わるまで、教会と国家の分離という自由主義的な原理のための部分で、ドイツ人ユダヤ中流階級は自由主義的従者の重要な部分を形成していた。[54]

一般的に、リヒターは法治国家の偉大な理論家たるダールマンとモールから実によく学んでいた。彼は国家制度と結婚と私有財産への中傷と嘲弄を犯罪化する法案と戦った。[55]彼は社会民主党員自身の犯罪化の場合にも、ビスマルクがドイツ社会民主党を弾圧するために試みた、悪名高いし役に立たない社会主義法に対して反対をした。[56](しかしながらこの問題では、リヒターは議会の悪計の真っ只中においては或るとき原理的な自由主義者よりも政治家として振舞っていたように思われる。[57])ドイツの東方のポーランド人を弾圧する法案に対しても同様だった。観念と競合的な文化的価値観は、リヒターの見解では、実力をもって闘争されるべきものではなかった。[58]

プロイセンとドイツの財政に対するリヒターの精通は並ぶものがなかった。[59]彼の議会勤めの始まりから彼の注意は軍事予算に最も集中しており、この古くからの問題は一八六〇年代の立憲的大衝突を生み出し、ドイツの自由主義を幾度も分裂させてきたものであり、彼の全政治生命を通して彼に付きまとっていた。特に貧しい階級のための[60]低税率の支持者、リヒターは、軍事の膨大な財政的要求を緩和することに関心をもっており、この努力に際して、彼は敬うべきフォン・モルトケ伯爵と争うことすら躊躇わなかった。とりわけ、彼は人民代表者の権威たる議会が軍に優越すべきこと、市民が兵士に沈没せざるべきことに関心をよせていた。かくて彼は三年間よりむしろ二年間の兵役をと言い張ったのであり、これが一八九三年に自由党の更なる分裂を招いたのだった。[61]ありとあらゆる一つ一つの支出に対する彼の疲れ知らずの厳密な調査は一度、こんなやり方じゃ予算が終わらないだろとビスマルクに叫ばせることになった。[62]財政問題に関する大臣質疑について、リヒターは誇らしげな下線を引きながら、次のとおり記す。「しかし私は放任しない」。[63]公的貨幣の支出の領域では、これは彼の一生涯のモットーとなった可能性が高い。

偉大な社会理論家のマックス・ヴェーバーは、左派自由党員よりむしろ国民自由党員であったにもかかわらず、次のとおり宣言した。

オイゲン・リヒター自身の党内での彼のはっきりした不人気にもかかわらず、その比類なき予算知識のおかげで、彼は不動の権力の座を享受していた。彼はきっと、まったき最終の酒保まで、戦争大臣を相手取って、ありとあらゆる一銭ごとの支出を調べ上げられるこの上ない代表者であった。彼らが感じていた苛立ちにもかかわらず、この部の紳士たちが私にしばしば告白していたことは、少なくともこれだった。[64]

リヒターの活動のこの継続的な特色には、フレデリック・バスティアが平和と自由について、そしてこれらが「野卑な国家予算」の「幾つかの冷たい点」で結合することについて記したときに表現された観点の、議会自由主義の全史で最も重大な実例を見ることができる。

この結合は、可能なかぎりに緊密なものだ。戦争、戦争の脅威、戦争に導きうる交渉――これらのどれも、納税者の恐怖たる、この分厚い書類〔予算書〕に記入された小さな一条項のせいでなければ生じることはできない……何よりもまず政府に倹約を求めよう――平和と自由、これらはおまけで得るものだ。[65]

戦争、平和、および帝国主義

リヒターは戦争と平和の問題に関して、戦争に敵対的で大軍事体制派と植民地冒険の賛成議論にひどく懐疑的な十九世紀の急進自由主義者、あるいは「マンチェスター人」の見解を共有していた。[66]これはイギリスではリチャード・コブデンとジョン・ブライトの立場であり、後のハーバート・スペンサーの立場であった。フランスでは、バンジャマン・コンスタン、ジャン=バティスト・セー、および他の多くの人々のものであった。ドイツ人自由主義者も(彼らの態度は民族統一では若干歪められていたが)また平和に高い価値を置いており、ジョン・プリンス=スミスと彼の信奉者は「自由貿易を通した平和」という理想の代弁者であった。[67]

リヒターはドイツの軍事力の強度増加が「実質的に、しかる後のフランスとロシアの仕返し的な増加の一因」になってきたとあからさまに指摘しながらこれらを批判した。[68]フォン・ティルピッツ元帥の艦隊法は、ドイツをイギリスとの衝突の道に置くことによってかくも運命を分けるものだったと判明したものだったが、これはリヒターに拒絶されており、非難されていた。[69]彼はヴィルヘルム二世の「世界政策」にはまったく了解がなかった。「『世界政策』とは何か?」という疑問に対してリヒターが答えるには、「どこであれ、何かが間違っているようなところがあってほしいと望むこと」だった。[70]彼の指導力の下で、フライジニゲ・フォルクス党はこれをはねつけ続けた。イギリスとドイツの間で増えつつある敵意、そして予感される戦争が、危うく彼を絶望させるところだった。[71]

リヒターは帝国主義時代を経験しており、これはドイツにとってはビスマルクの一八八四年から八五年までのアフリカと南洋でのイニシアチブから始まった。彼はこれら初期のイニシアチブを拒否したが、彼の態度は最終的には若干あいまいであり、これに関しては調査を要する。

一八八四年七月に表明されたリヒターの初期の立場は「植民地政策は非常に金がかかる」というものであり、

植民地の形成への責任と同様に、その物質的発展への責任は、船乗りと取引に努める我々の同胞市民の活動と企業家精神に任せられるべきであり、準拠される手続きは、イギリスの国王勅許をモデルにして勅許を与えるという形よりも、ドイツ帝国への海外行政区の併合という形を控えた方がいい……同時に、植民地に利害関係がある党にぜひともその統治が任せられるべきだし、彼らに許されるのはそこに常駐軍を置かずとも供給できるヨーロッパの管轄とその保護の可能性だけであるべきだ。残りについて我々が望むのは、木を植える庭師の活動で通常どおりにその木が成長することであり、そうしないならばその植物は発育不全のものであり、我々が要する費用はその仕事で間違いを犯していた企業家の費用より重大ではないから、その損害は帝国にはさほど害を及ぼさない。[72]

全面的「ドグマティズム」ではなく臨機応変「プラグマティズム」がリヒターの失敗

リヒター批評家にしてワイマールの影響力ある急進民主主義的歴史家たるエッケルト・ケーアは、リヒターが単なる艦隊法と世界政策を「資本家の動機」で、単に収益的でないというだけで拒絶したと主張した。[73]リヒターはつねのとおり、自らの立場を全種の統計と「プラグマティック」な理由で支持したというのが真実である。しかしこのとき、ケーアでさえ、リヒターには関与した一定の原理があったと認めざるをえなかったのである。彼がそれを述べるには、リヒターの立場とは、国家は輸出業者と産業と商人を放っておいて彼らに輸出させなければならず、国家自体を輸出階級の利益と同一視してはならない……というものであった。もしも……産業が戦艦に生み出された保護を評価するならば、彼らにやらせろ、そうして彼ら自身のために巡洋艦を建設するため彼らが得た余剰収益の一部を彼らに払わせろ。[74]

言い換えれば、リヒターはこの問題でも社会政策と保護関税の問題と同じ原理を墨守した。国家は共通善のために存在し、特別利益団体の道具に堕してはならない。この態度はナイーブかもしれないが、同時に、シュタイン・ハルデンベルク型の市民的人文主義あるいは古典的共和主義と称しうるものの形質がリヒターに表れていたことを実証している。[75]

帝国主義に対するリヒターのアプローチの本当の失敗は、彼が、「誰にとって収益的なのか?」と体系的に問題点を設定しなかったことである。ビルマルクらの核心が「相対的有産者に優位になるよう相対的無産者に重荷を負わせること」にあると確信して、リヒターが彼らの植民地計画に反対したというのは事実だ。[76]けれども次の十年でドイツが中国の膠州を占領し、山東鉄道建設を請け負ったとき、リヒターは以前より快い態度を示した。[77]彼は次のとおり宣言する。

我々〔フライジン〕は〔膠州〕湾の取得を、他とは違い、以前のアフリカとオーストリア〔すなわち、ニューギニアと南洋〕での旗揚げより好ましく見ている。我々にとっての違いとは……中国が古来の文明的な国であり……特に日中戦争で中国に導入されたその変貌は、我々の利益を守るためあそこに基地を所持することを望ましいと思わせることができるだろう、という点にある。[78]

けれども、一九〇四年の帝国議会とプロシア下院でのリヒター最後の議会演説は、植民地問題を鋭く否定的な仕方で扱った。彼はふたたび、何より「全階級の代表者、納税者の代表者」として出馬し、「見当違いの植民地政策の要求を理由とした、国内政策での喫緊の必要に対する無視」に抗議したのである。[79]

この領域でのリヒターの支離滅裂を説明する際にはロター・アルベルティンのコメントが適切であり、いわく、「リヒターは帝国主義に関して無理論なままだった」。[80]たとえば、国家の手段で支持された経済拡張がつねに一定の利益集団の優位を高め、納税者と少数派劣位を増すというリチャード・コブデンの帝国主義解釈は、彼には決して提示できなかった。かくてリヒターはこの論点において、ヴォルフガング・モムセンの示唆的な類型でいう、「プリンシプルド」な(節操ある)急進自由主義者よりはむしろ「プラグマティック」な断固自由主義者に属していたのだった。[81]

自由主義、降伏す

ドイツ自由主義の最終的な降伏は、今では連邦共和国での自由主義にとって主義界隈ある種の世俗聖人で通っていると見なされる、フリードリヒ・ナウマン[82]によって着手された。

ナウマンは野心的で、並外れた気力を授かっており、そのうえ政治的な洞察力にも富んでいた。彼は政治ゲームの規則がどう変化してきたか認識した。

自由主義を根本から破壊したのは、現代政治への階級運動の参加、農地改革論者と産業プロレタリアの運動の参加であった……。古い自由主義には階級運動の代表者がなく、階級と社会秩序の違いを釣り合わせたような世界観があった。[83]

ナウマンは現代民主主義の発達を記述するとき、幾つかの点で公共選択学派の中心的洞察を先取りしていた。

経済的階級は新しい議会主義の手段を何のために使えばよいのか沈思した……彼らは少しずつ、政治とは根本的に大商売であり、立法機構に投じられた報酬を最も多くかき集める者となるための、優位をめぐる争いと値切りであると学んでいった[未]。[84]

リヒターもこのことを理解した。[85]しかしながら、日和見主義者のナウマンはゲームの新規則を是認し、復興した自由主義運動に全身全霊でこれを採用しよう望んだところが小さな違いであった。[86]ナウマンは近しい友人のマックス・ヴェーバーとともに、二十世紀の環境にもっと「適した」自由主義を作ろうと試み、彼の戦略のためにテオドール・バルトのような自由主義的指導者を勝ち取ろうとした。絶望的に単調なリヒターとは対照的にも、ナウマンは、政治的展望の作り方と、それを古典的自由主義的観念から阻害された新世代に差し出す方法を知っていた。[87]

ナウマンの着想では、自由主義は社会政策と他の労働「要求」の大義を取り入れて、社会民主主義と和解しなければならなかった。同時に、それは世界政策と帝国主義の最も熱烈な提唱者となり、ドイツの世界での権威と威信への疾走(ウェルトゲルトゥング)を評価することで、保守主義者から民族的大義を引っ張りいれなければならなかった。自由主義は両方の「国家社会主義的要素を吸収」[88]しなければならず、「民族の権力闘争への理解」[89]を発達させなければならない。要するに、自由主義は「民族的社会的」、「国民的社会的」にならなければならない、と。当然ナウマンは海軍増強に熱中した。彼は一九〇〇年のときすでに対イギリス戦争が「確実」だったと幸せそうに確信していた。[90]

ドイツでの自由主義の将来のためには、オイゲン・リヒターとは「確実に戦われ」なければならなかった。[91]左翼自由主義の古き偉大な男たるリヒターに対して、ナウマンはある種の気立て良き軽蔑の念を抱いていた。彼は国民社会主義者の聴衆者のうち一人に対し、次のとおり宣言した。

オイゲン・リヒターは変わらない、それが彼の偉大さです(笑)。しかし――彼のことを変な化石だと見なす人々さえ賞賛するに違いない――彼特有の仕事と意思での粘り強さがあるこの男の下には、会合でにせよプライベートでにせよ、こういうことを言う一連の非常に多くの人々がいるんです。もちろん我々は艦隊に賛成だが、リヒターが生きているかぎり、確かにあの男にはあの偉大さがあるのだ、と(笑)……[92]

自由主義の進化か、それとも破局か

リヒター自身の党の若い指導者からすら、彼の植民地と海軍増強の立場に対する批判が増加しつつあった。一九〇二年に議会で、リヒター自身の子分の一人たるリヒャルト・アイクホフは新軍備契約について、さらに多くの契約を要請する機会を得て、(「食事で食欲が沸く」)と冗談を言いながら、有権者に代わって戦争大臣に感謝した。[93]一九〇六年のリヒターの死とともに、軍事問題での古い自由主義的な否定性と粗探しじみた批判――およびドイツ・マンチェスター主義の歴史――は終わった。ドイツ左派自由主義には帝国軍事予算への更なる批判はなかった。八年後はあの一九一四年の夏となり、リヒターが恐れて警告していた強力で敵対的な連合との対立が生じた。これはドイツにとって途方もない災害だったと判明する。

リヒターの死後数年で、それ以降著名になった民族主義的歴史家のエーリヒ・マル+クスは、「古い自由主義との交代」を語った。確かにこの自由主義は近代民族の全生涯に充満し飽和していたし、その結果はあらゆるところに残り続けていた。これは破壊できなかった。しかし、ビスマルクの伝記作家兼追従者が言い加えるには、

それはいまや、それ自体の最も示差的な政治的原理とともども食されてしまっている。増大中の国家軍隊の観念、権力の概念が、それに入れ替わっている。そしてこの観念こそが、指導者に満ちたところすべてにおいて、彼らを力強く決定的に支配しているのである。我々は、ロシアはさておき、〔セオドア〕ルーズベルトと〔ジョゼフ〕チェンバレンの中から消えることなく、ビスマルクと皇帝ヴィルヘルム二世の内に認識されるところの、これと同じ疾走に出くわしてきた。[94]

「イギリス人の貿易精神」としてのドイツ人の自由主義

リヒターがかくも激しく戦ってきたイギリスとドイツの敵対は、最終的にはかの大戦の勃発に大いに寄与したのだった――この敵対が経済的競争ではなかったことは注目されるはずだ、というのもイギリスとアメリカもこの意味では競争者であった(し、もちろん得意先でもあった)からで、争いに結果しない状況にあったからだ。ドイツ人の対イギリス憎悪[95]はその極致にあり、その背理法は、おそらく世界で最も有名な経済史家であった学者、干渉主義的な社会政策協会の指導者、ヴェルナー・ゾンバルトの作品に見受けられる。二十世紀初期のドイツ反自由主義が何を意味していたか理解するために調べるべき最善の作品はゾンバルトの『商人と英雄』であり、[96]戦時の一九一五年に出版された。

その下敷きのテーゼは、永遠の争いで世界史を構成する二つの「精神」、商人精神と英雄精神が存在し、今日ではこれらのそれぞれを体現する二つの人民が存在するというものである。当然、イギリス人が商人で、ドイツ人が英雄だ。ゾンバルトの作品は、戦と死を称える聖歌でない範囲では、たとえば「イギリス的なものすべての基礎はきっとこの人民の計り知れない精神的な有限性である」と断言するところや、[97]アイザック・ニュートンに言及すらせずイギリスの科学に一章を割くとき、[98]シェークスピアの時代以降イギリス人が文化的価値を生産してこなかったと主張するときなど、[99]しばしばコミカルですらある。

この場当たりな出任せよりもっと真剣で、この時代に特徴的だったのは、単なる「夜警国家」という自由主義的な理想を却下する際のフェルディナント・ラサールに対するゾンバルトの賛成である。[100]ゾンバルトがドイツ自由主義の黄金時代と衰退を記述するや、次の二世代の多くの人々は彼の判決をオウム返ししたものだ。

しかしそしたら一八六〇年代と一八七〇年代にいわゆるマンチェスター学派の代表者が実に恥知らずにもドイツ製のドイツ通りで輸入イギリス輸入品を売り歩いていたとき、ドイツにとって再び寒々しい時代がやってきた。……そしてこの「マンチェスター理論」が完全に間違っており役に立たないと、今ではいかにドイツの理論家と実務家によって軽蔑的に押し退けられてしまっているかはよく知られている。

しかしながら、この節を締めくくる二つの文は疑問符で終わる。

なのでおそらく我々は、国家の着想に関し、ドイツで単独支配を達成したのはドイツ人の精神であると言ってもよいのではないか? それともイギリス人の商人精神がいまだに幾人かの頭を悩ませているのか?[101]

リヒターに関して言えば、件の「貿易精神」、あるいはむしろ、中流階級のメンタリティーの空気がつねに彼を取り巻いていたことを否定するのは要領を得ない話だっただろう。リヒターの「不朽の卑しいブルジョワ的性格」に対するテオドール・ホイスの非難には確かに幾らかの真理があった。[102]彼は外国語を知らなかったし、彼が外国に二、三回旅したときもスイスでの休暇旅行だった。リヒターは外国事情はおろか、そこで自由主義運動の盛衰にすらほとんど関心がなかったようだ。大銀行と輸出販売業者連盟と交際していた左派自由主義のスポークスマンたるテオドール・バルトは、リヒターと彼自身の党を区別するものは何かという疑問にふざけてこう返答した。モーゼスワインとラインワインを味利きできたらバルト党員で、できなければリヒター党員だ、と。[103]

しかしリヒターの「卑しいブルジョワ的性格」とは、ドイツ中流階級、自由主義的同業者集団と中小企業、特に大都市わけてもベルリンでの彼の信奉者が感じており、理解しており、そして良い反応を示していたような何かであった。[104]年ふるごとに薄らぐ名残りをもって、彼らはウィリアム・グラハム・サムナーの「忘れられた人」のドイツ版に相当した。[105]サムナーの古典的記述がアメリカ合衆国で出版された六年後に、ジャーナリストのアレクサンダー・マイヤーはリヒターのフライジニゲ新聞で次のとおり記した。いわく、自由主義者は

小人の党であって、彼自身と自分の力に依存し、国家からの贈り物を要求せず、彼の能力の最善を尽くして彼の立場を改善し、彼自身よりも彼の子供にもっと良い運命を残すよう努力するのを妨げられないことしか求めない。[106]

そのようなドイツ版の「忘れられた人」は著名な指揮者のブルーノ・ヴァルターが彼の父親のベルリンユダヤ人を感動的に描写したとき珍しく垣間見られることとなった。

彼が働いていたのはシルク産業の大きな会社の会計士で、五十年間かけて次第に昇進し、所得も上昇した。彼は静かな男で、厳格な義務感と完全な信頼性があり、彼の職業の他にはただ家族のことだけを知っていた……彼は、自由主義的であり尊敬に値するルドルフ・フォン・ヴィルヒョーとオイゲン・リヒターに投票した。[107]

否めないほど徹底的に「卑しいブルジョワ的」なので、そのような人々は世界政策と爽快な戦争をほとんど愛さなかったし、あるいはマルクス主義的な夢に誓ってすべての既存の社会的条件の転覆を好まなかった。そして最後までリヒターに寄り添っていたのだった。[108]

「リヒターがいまなお我々にとって意味しうること」

一九三一年、リヒターの二十五忌において、社会自由主義的な歴史家のエーリヒ・アイクは、オイゲン・リヒターが「いまなお我々にとって何かを意味する」ことはできるだろうかという疑問を立てた。[109]なにぶんドイツ人はリヒターの時代を通り過ぎてきたので、彼の重大さがどこにあったのかを確かめることは容易である。ドイツにつき、彼は近代史の意味を構成する自由主義的な世界革命の主要な提唱者であった。彼は政治家兼出版者として、ヴェルナー・ゾンバルトが「イギリス人の商人精神」と嘲ったもの、すなわち、平和、市場経済と自由貿易による全階級のまともな生活、世界観と文化的価値観の暴力的衝突よりむしろ平穏さと多元主義、奴隷根性の代わりの市民らしい自尊心のために、四十年かけて戦った。あらゆる保守的な叱責に反して、彼はつねに誇らしげな愛国者であった。しかし彼は、個人的権利を享受すべからざる人々がなぜ――全人類のうち――ドイツ人だったのかを決して理解できなかった。

フレデリック・バスティアの事例について、フローリン・アフサリオンは次のとおり論評した。

大部分の彼の知的敵対者、停滞と窮乏化の預言者、間違っていた者たちがまだ年公民権を有していたかたわらで、大部分の先進工業国が彼らの公式教義を自由貿易にする一世紀前から自由貿易のために戦っていた男、脱植民地化の一世紀前から植民地主義を非難していた男……とりわけ、社会の全階級の経済的進歩と富裕化の時代を宣言していた男が忘れられなければならないということについて、我々はどう説明すればいいのか?[110]

オイゲン・リヒターの事例も似通っており、しかもおそらく言語道断の域ですらある。確かにリヒターは彼自身の時代において「失敗した」。しかしこれをドイツ真正自由主義の最も重要な政治的指導者を無視する根拠に持ち出すならば、手っ取り早い応答はこうなるだろう。アデナウアーとエアハルト以前の近代ドイツ史の政治家で、誰か遅かれ早かれ失敗せずにいたか? 

彼が何者であったかについて、そして――この偉大な男が「どんな政府のことも全然信用しなかった」[111]という単なる事実からこう言ってもいいのであれば――彼が代表したもののために、かつてのかの荒々しいラインラント自由主義者は、歴史家によって、そしてドイツ人によって、完全な忘却ではなく、もっと良い扱いを受けるに値する。


これはThe Review of Austrian Economics, 4, 1990, 3–25に初出したエッセーの修正版である。

[1] たとえばTheo Schiller, Liberalismus in Europa (Baden-Baden: Nomos, 1979), 19を見よ、いわく「我々の開始点はブルジョワジーの社会的利益の状況が古典的自由主義の基礎であったという普遍的に受け入れられた〔原文ママ〕結論である」。

[2] Ernst Nolte, “Between Myth and Revisionism, The Third Reich in the Perspective of the 1980s,” in H.W. Koch (ed.) Aspects of the Third Reich (London: Macmillan, 1985) 24. ノルテは彼が提示した見解がピサ大学のドメニコ・セッテンブリーニのものであると書き留める。

[3] Ernst Nolte, Marxism, Fascism, Cold War, Lawrence Krader (tr.) (Atlantic Highlands, N.J.: Humanities Press, 1982) 79.

[4] Ibid. viii. 実際、自由主義的資本主義に関する保守主義と社会主義の告発の類似性と歴史的結合は注目に値する。たとえばibid. 23–30を見よ。

[5] Alejandro A. Chaufen, Christians for Freedom: Late Scholastic Economics (San Francisco: Ignatius Press, 1986).

[6] Ralph Raico, “Der deutsche Liberalismus und die deutsche Freihandelsbewegung: Eine Rückschau,” Zeitschrift fur Wirtschaftspolitik 36, no. 3 (1987) 263–81を見よ。

[7] Paul M. Kennedy, The Rise of the Anglo-German Antagonism, 1860–1914 (London: Allen and Unwin, 1980) 152.

[8] Ralph Raico, “Eugen Richter: Ein unerbittlicher Liberaler,” Orientierungen zur Wirtschafts und Gesellschaftspolitik 37 (September 1988) 77–80.

[9] リヒターに関する文献は非常に乏しい。主としてFelix Rachfahl, “Eugen Richter und der Linksliberalismus im Neuen Reich,” Zeitschrift für Politik 5, Nos. 2–3 (1912) 261–374を見よ。またEugen Richter, Jugenderinnerungen (Berlin: Verlag “Fortschritt,” 1893)と、同、Im alten Reichstag: Erinnerungen, 2 vols. (Berlin: Verlag Fortschritt,” (1894–1896)と、Oskar Klein-Hattingen, Geschichte des deutschen Liberalismus, 2: Von 1871 bis zur Gegenwart (Berlin-Schoneberg: Fortschritt-Buchverlag der “Hilfe,” 1912)と、Leopold Ullstein, Eugen Richter als Publizist und Herausgeber: Ein Beitrag zum Thema “Parteipresse” (Leipzig: Reinicke, 1930)と、Jesse Rohfleisch, Eugen Richter: Opponent of Bismarck, unpubl. diss., history, University of California, Berkeley, 1946も見よ。リヒターに関する最近の作品Ina Suzanne Lorenz, Eugen Richter: Der entschiedene Liberalismus in wilhelminischer Zeit 1871 bis 1906 (Husum: Matthiesen, 1980)は、とりわけその主題に対する彼女の無尽蔵の嫌悪感と、ドイツと全世界の古典的自由主義に関する彼女の理解の完全欠如のため注目に値する。

[10] 「左派自由主義」はLinksliberalismus〔リンクスリベラリスムス〕の直訳であり、政権志向の国民自由党員に反対する十九世紀中期・後期ドイツの政治運動に言及している。現在しばしば「左派自由主義」と称されるものとは何の結合もない。

[11] Kurt Koszyk and Karl H. Pruys, Wörterbuch zur Publizistik (Munich-Pullach/Berlin: Verlag Dokumentation, 1970), 223–25.

[12] またRalph Raico, “Der deutsche Liberalismus,” 275も見よ。

[13] Brigette Hamann, Rudolf: Kronprinz und Rebell (Munich/Zurich: Piper, 1978), 333の、オーストロ・ハンガリー皇太子ルドルフの報告書による。

[14] Otto von Bismarck, Werke in Auswahl, 8, A, Erinnerungen und Gedanken, Rudolf Buchner (ed.), with Georg Engel (Stuttgart: W. Kohlhammer, 1975) 732.

[15] Hans Delbrück, Vor und nach dem Weltkrieg. Politische und historische Aufsätze 1902–1925 (Berlin: Stollberg, 1926) 136–48; Annelise Thimme, Hans Delbrück als Kritiker der wilhelminischen Epoche (Düsseldorf: Droste, 1955) 31–32.

[16] Franz Mehring, Gesammelte Schriften, Thomas Höhle, Hans Koch, and Josef Schleifstein, (eds.), 14, Politische Publizistik, 1891 bis 1914 ([East] Berlin: Dietz, 1964) 35. まぜまさに「大資本」なのか、それがメーリングの急進的マルクス主義の見地に合致することを除けば、わけがわからない。たとえば、リヒターはドイツ植民地主義を促進した大銀行と輸出業者に対して火炎のように反対した。

[17] See, among innumerable others, 膨大な数の他のものの中でも、Thomas Nipperdey, “Über einige Grundzüge der deutschen Parteigeschichte,” in Moderne deutsche Verfassungsgeschichte (1815–1918), Emst-Wolfgang Böckenforde (ed.), with Rainer Wahl (Cologne: Kiepenheuer and Witsch, 1972), 238の、この著者が自由主義の理論的志向性に関するリヒターの強調を「硬直的な教条主義の非常に過激なもの」と記すところを見よ。多くの非ドイツ人の歴史家の典型は、Kenneth D. Barkin, The Controversy over German Industrialization, 1890–1902 (Chicago: University of Chicago Press, 1970), 239であり、彼はリヒターが「不干渉の教条的な自由主義的原理を脱ぎ捨てなかった」と不満を述べる。

[18] Winfried Baumgart, Deutschland im Zeitalter des Imperialismus, 1890–1914. Grundkräfte, Thesen, und Strukturen, 5th ed. (Stuttgart: W. Kohlhammer, 1986) 135.バウムガルトは奇妙にも、リヒターの死で可能になった、ヴィルヘルム二世の侵害的軍備政策支持への左派自由主義の転向に関連してこの表決を下す。

[19] Rachfahl, “Eugen Richter,” 371. リヒターに対する多くの自由主義的反対者の一人、テオドール・バルトが宣言するには、「ビスマルクは対話ではリヒターに敵わなかったし、反対派の容赦ない男に対するビスマルク派の頻繁な癇癪の爆発は全能の宰相が論議ではリヒターには及ばないという感情から頻りに湧き出ていた」。Politische Porträts, new ed. (Berlin: Schneider, 1923) 84において。

[20] Theodor Heuss, Friedrich Naumann: Der Mann, das Werk, die Zeit, 2nd ed. (Stuttgart/ Tübingen: Rainer Wunderlich, 1949) 180.

[21] Rachfahl, “Eugen Richter,” 372.

[22] Ibid. 262–63.

[23] Ibid. 266.

[24] Richter, Im alten Reichstag, 2, 114.

[25] ドイツ社会主義の指導者たるアウグスト・ベーベルはリヒターとの早期の遭遇を「彼の冷淡で、よそよそしい性質が、そのときでさえ私に印象付けられた。リヒターは至上の軽蔑をもって我々全員を見ていたという印象を与えた」と記述する。August Bebel, Aus Meinem Leben (1910; reprint, Frankfurt a. M., Europäische Verlaganstalt, n.d.), 92. リヒターの性格と周知の原理を鑑みれば、なぜ社会主義の指導者がこれにほんの少しでも驚いたのか訝しい。

[26] たとえばKonstanze Wegner, Theodor Barth und die Freisinnige Vereinigung. Studien zur Geschichte des Linksliberalismus im wilhelminischen Deutschland (1893–1910) (Tübingen: J.C.B. Mohr [Paul Siebeck] 1968) 138を見よ。

[27] Ernst Engelberg, “Das Verhältnis zwischen kleinbürglicher Dernokratie und Sozialdemokratie in den 80er Jahren des 19. Jahrhunderts,” in Otto Pflange (ed.), with Elisabeth Müller-Luckner, Innenpolitische Probleme des Bismarck-Reiches (Munich/Vienna: Oldenberg, 1983) 26. かの東ドイツ史家は言い加える。「この着想はアウグスト・ベーベル周辺の最も影響力ある指導者だけでなく、また多数のメンバーと共感者にも受け入れられた」。

[28] Franz Mehring, Gesammelte Schriften, 14, 553.

[29] Peter Gilg, Die Erneuerung des demokratischen Denkens im wilhelminischen Deutschland. Eine ideengeschichtliche Studie zur Wende vom 19. zum 20. Jahrhundert (Wiesbaden: Franz Steiner, 1965) 135–36から引用。至極もっともなことに、ギルクが言い加えるとおり、〔リヒターの〕「この反対にとって、独裁支配を勝ち取る手段としての協力のみを許した社会民主党の綱領の革命理論は、自ずと、都市部で投票する大衆をめぐる闘争に際しての社会民主主義の上出来な競争の一因にもなった」。Ibid. 135.

[30] Richter, Im alten Reichstag, 2, 63, 178. リヒターによると、「これは内務省の許可をもって発生した」。イギリスではこれ以前にチャーチストが反穀物法運動の会合に対して似たような実力づくの方法を用いていた。Wendy Hinde, Richard Cobden: A Victorian Outsider (New Haven, Conn.: Yale University Press, 1987) 65を見よ。

[31] Richter, Politisches ABC-Buch: Ein Lexikon parlamentarischer Zeit- und Streitfragen, 9th ed. (Berlin: Fortschritt Verlag, 1898), 307.

[32] Richter, Sozialdemokratische Zukunftsbilder Frei nach Bebel. Berlin: Verlagsanstalt Deutsche Presse, 1907 [1891]). 一九二二年に、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスが『社会主義』で同じ仕事を、しかし厳密に科学的な水準で引き受けた。

[33] Richter, Zukunftsbilder, 32.

[34] Ibid. 42–43.

[35] Ibid. 48.

[36] Ibid. 50, 52.

[37] Werner Sombart, Händler und Helden: Patriotische Besinnungen (Munich/ Leipzig: Duncker und Humblot, 1915) 77から引用。

[38] Richter, Politisches ABC-Buch, 306. リヒターと左派自由党員の経済自由主義ゆえの彼らに対するビスマルクの敵意は、たとえば「進歩党とマンチェスター政治家の徒党、無慈悲な財布野郎の代表者は、貧民に対してつねに不公平であって、彼らはつねに、国家が彼らを助けるのを邪魔するために、その能力の限界まで働いていた。レッセフェール、最大可能な自己統治、無制約、小事業が大資本に吸収される機会を、利口で狡猾な者による無知な者と未熟な者の搾取のために。国家は警察として、特に搾取者の警察としてしか行為すべきではないということになっている」という彼のデマゴーグらしい言及のように、激烈であった。Willy Andreas and K.F. Reinking, Bismarcks Gespräche: Von der Reichsgründung bis zur Entlassung (Bremen: Carl Schünemann, 1965), 339.

[39] Richter, Politisches ABC-Buch, 322.

[40] Fritz Blaich, Kartell- und Monopolpolitik im kaiserlichen Deutschland. Das Problem der Marktmacht im deutschen Reichstag zwischen 1870 und 1914 (Düsseldorf: Droste, 1973) 230, 259.

[41] Richter, Im alten Reichstag, 1, 112.

[42] Ibid. 2, 86. (強調は原文ママ)

[43] 他の多くのものの中でも、Dieter Langewiesche, Liberalismus in Deutschland (Frankfurt a.M Suhrkamp, 1981) 195–96の、この問題での左派自由党の反対活動が或る程度「マンチェスター派の盲目」に帰せられているところを見よ。Oskar Stillich, Die politischen Parteien in Deutschland. 2, Der Liberalismus (Leipzig: Klinkhardt, 1911) 125は、労働者の問題の「領域で氷のように冷たいレッセフェール」に言及し、「自由主義は広い大衆の利益には無関心であり感情をもたない」とさえ主張した。Erich Eyck, Bismarck, (Erlenbach-Zurich: Rentsch, 1941) 3, 372は、左派自由党的な立場への限定的ながら貴重な理解が表れており、いわく、「このすべてにもかかわらず、この反対活動は内的な正当化がないものではなかった。というのもそれは、一人格的な責任感、自分の運命に対する個人的な市民の感情が、人民の健全な発達には不可欠であり、国家の全能性は長期的には個人の自由と両立しないという観念に依拠しているからだ」。しかしながらアイクもまた私が調べた現代のドイツ人歴史家全員のようにビスマルクの政策を好んでいた。しかし、この綱領の経済的効果の問題でさえ普通想定されているほど単純ではないことも、ビスマルクの社会政策が労賃からの(直接間接の)演繹において最終分析で依拠していた純粋な仮説では解決できないことも、明白であるはずだ。W.H. Hutt, The Strike-Threat System: The Economic Effects of Collective Bargaining (New Rochelle, N.Y.: Arlington House, 1973), 206–15参照。

[44] Richter, Politisches ABC-Buch, 173 (empahsis in original).

[45] Jurgen von Kruedener, “Die Überforderung der Weimarer Republik als Sozialstaat,” Geschichte und Gesellschaft 11, No. 3 (1985) Kontroversen uber die Wirtschaflspolitik in der Weimarer Republik, Heinrich August Winkler (ed.) 358–76参照。

[46] Richter, Im alten Reichslag, 1, 54–55.

[47] Ibid.78.

[48] Rohfleisch, Eugen Richter: Opponent of Bismarck, 37–40と、Rachfahl, “Eugen Richter,” 278.

[49] Urs Müller-Plantenberg, Der Freisinn nach Bismarcks Sturz: Ein Versuch über die Schwierigkeiten des liberalen Bürgertums, im wilhelminischen Deutschland um zu Macht und politischem Einfluss zu gelangen (unpubl.diss.; Free University of Berlin, 1971) 201.

[50] Ibid.

[51] See Richter, Im alten Reichstag, 2, 176–83, 200–03を、そしてABC-Buch, 17–23と174–79の記事“Anti-Semiten”と “Juden”、またAlfred D.Low, Jews in the Eyes of the Germans: From the Enlightenment to Imperial Germany (Philadelphia: Institute for the Study of Human Issues, 1979) 392–94を見よ。

[52] Fritz Stern, Gold and Iron: Bismarck, Bleichröder, and the Building of the German Empire (New York: Viking/Penguin, 1987), 524.

[53] 反ユダヤ主義者の強襲から集会を守るために、自由主義者はある種の私的警察代理機関に頼っていた。Richter, Im alten Reichstag 2, 203.

[54] Low, Jews in the Eyes of the Germans, 389–90.

[55] Richter, Im alten Reichstag, 2, 128–29.

[56] Ibid. 81–84; Wolfgang Pack, Das Parlamentarische Ringen um das Sozialistengesetz Bismarcks 1878–1890 (Düsseldorf: Droste, 1961) 81–82.

[57] Ibid. 153–60.

[58] 法治国家と議会優勢のためのリヒターの一生涯の戦いはレナード・クリーガーThe German Idea of Freedom (Boston: Beacon Press, 1957) 397の「彼の急進的自由主義は経済的自由の教条に完全に吸収される傾向がある」という断言が単細胞な政治的バイアスとしか説明できないほどよく知られている。

[59] Rachfahl, “Eugen Richter,” 274–75.

[60] たとえばRichter, Im alten Reichstag, 1, 103, 127; 2, 58, 68–69を見よ。

[61] Müller-Plantenberg, Der Freisinn nach Blsmarcks Sturz.

[62] Rohfleisch, Eugen Richter: Opponent of Bismarck, 103.

[63] Richter, Im allen Reichstag, 1, 68.

[64] Max Weber, Gesammelte Politische Schriften, Johannes Wickelmann (ed.) (Tübingen J.C.B. Mohr [Paul Siebeck], 1958) 333. リヒターの不人気に関するウェーバーのあてつけは、普通の自由主義的な投票者ではなく、自由主義的な指導力とは他のものに言及している。

[65] Frédéric Bastiat, “Paix et liberte, ou le budget républicain,” Oeuvres complètes, 5 (Paris: Guillaumin, 1854) 410–11. ローレンツでさえ、彼女のリヒターについての彼女の軽蔑的な作品の235ページにおいて、軍事支出に関するリヒターの押し問答すべてに多くの点で「金を貯めることを超えて、人々を軍国主義から救いたかったという無条件の反対の精神」をも感じられると認めざるをえない形を強いられている。

[66] E.K. Bramsted and K.J. Melhuish, Western Liberalism. A History in Documents from Locke to Croce (London/New York: Longman, 1978) 278–84参照。しかしながらリヒターはつねに、彼の従兄弟のアドルフ・リヒターと近しい政治的協力者のマックス・ハーシュが指導者にいたのに、組織的ドイツ平和運動とは距離を保っていた。Roger Chickering, Imperial Germany and a World Without War. The Peace Movement and German Society, 1892–1914 (Princeton: Princeton University Press, 1975) 252, 254.

[67] Julius Paul Kohler, Staat und Gesellschaft in der deutschen Theorie der auswärtigen Wirtschaftspolitik und des internationalen Handels von Schlettwein bis auf Fr. List und Prince-Smith (Stuttgart: Kohlhammer, 1926) 22–42.

[68] Richter, Im alten Reichstag, 1, 93.

[69] Richter, ABC-Buch, “Die deutsche Flotte,” 416–90.

[70] Müller-Plantenberg, Der Freisinn nach Bismarcks Sturz, 284による引用。この著者の意見では、「オイゲン・リヒターほど鋭く、精力的に、しかも一貫してヴィルヘルム・ドイツの陸軍・海軍政策と植民地政策と戦ったブルジョワ政治家はいない」。

[71] Paul Kennedy, The Rise of the Anglo-German Antagonism, 1860–1914, 150–51.

[72] Hans Spellmayer, Deutsche Kolonialpolitik im Reichstag (Stuttgart: Kohlhammer, 1931) 15–16の引用。

[73] Eckart Kehr, Schlachtflottenbau und Parteipolitik, 1894–1901 (Berlin: Ebering, 1930) 293.

[74] Ibid. 297–98.

[75] 自由主義的というよりは市民的人文主義的な見地は徴兵で集められるリヒターの「市民軍」の提唱にも明白である。支配者の統御よりも概して人民の支配下に軍を置き換えることを狙っており、一八六〇年代の立憲闘争での中心的議題であった。

[76] Hans-Ulrich Wehler, Bismarck und der Imperialismus (Cologne/Berlin: Kiepenheuer und Witsch, 1969) 444.

[77] Spellmayer, Deutsche Kolonialpolitik im Reichstag, 81, 89.

[78] Dieter Fricke, et al. (eds.), Die bürgerlichen Partien in Deutschland ([East]Berlin: Das europäische Buch, 1970) 2のLudwig Elm, “Freisinnige Volkspartei,” 84の引用。

[79] Rachfahl, “Eugen Richter,” 369–70.

[80] Lothar Albertin, “Das Friedensthema bei den Linksliberalen vor 1914: Die Schwäche Ihrer Argumente und Aktivitaten,” in Karl Holl und Günther List (eds.), Liberalismus und Imperialistischer Staat. Der Imperialismus als Problem liberaler Parteien in Deutschland, 1890–1914 (Gottingen: Vandenhoeck and Ruprecht, 1975) 92–93.

[81] Wolfgang Mommsen, “Wandlungen der liberalen Idee im Zeitalter des Imperialismus,” in ibid. 122.

[82] Peter Theiner, Sozialer Liberalismus und deutsche Weltpolitik: Friedrich Naumann im Wilhelminischen Deutschland (1860–1919), (Baden-Baden: Nomos, 1983)とWilliam 0. Shanahan, “Liberalism and Foreign Affairs: Naumann and the Prewar German View,” The Review of Politics, 21, No. 1 (January 1959)を見よ。

[83] Friedrich Naumann, “Der Niedergang des Liberalismus,” Werke, 4 (Opladen: Westdeutscher Verlag, 1964), 218.

[84] Ibid. 220.

[85] たとえば、Raico, “Der deutsche Liberalismus,” 279に引用されたビスマルクの立法に関する彼の所見(商業界に似た議会のロビー)を見よ。

[86] Friedrich Naumann, “Klassenpolitik des Liberalismus,” Werke, 4, 257–58.

[87] Urs Müller-Plantenberg, Der Freisinn nach Bismarcks Sturz, 89はリヒターについて非常に正しく記している。「自由主義的投票者のための彼の『アーベーツェー本』は、大量の統計、データ、事実、立法パラグラフを、そのすべてを明るみに出した全体像がなければ決して十分な効果が生まれないような、合理的な議論に入れて処理した」。

[88] Friedrich Naumann, “Liberalismus als Prinzip,” Werke, 4, 252.

[89] Friedrich Naumann, “Niedergang des Liberalismus,” ibid. 224.

[90] Paul M. Kennedy, The Rise of the Anglo-German Antagonism, 1860–1914, 340. リヒター対ナウマン二分法の歴史的取り扱いの典型として、Winfried Baumgart, Deutschland im Zeitalter des Imperialismus, 1890–1914, 160は、国内政策と同様に外交政策での「早期の〔自由主義的〕教条主義の緩和」が「フリードリヒ・ナウマンの作品に帰せられる」と記す。しかしながら結局のところ、所与の外交政策の立場が「教条的」であったか否かよりはるかに重要なのはそれが平和を促したかそれとも戦争を促したかであるという意見があるのも当然だ。それに、「教条主義」の概念自体に論争的とは対照的な意味での発見的な価値があるか否かも疑われるかもしれない。

[91] Friedrich Naumann, “Niedergang des Liberalismus,” Werke, 4, 234.

[92] Ibid. 232. テオドール・ホイスはリヒターについて、彼が「権力国家の目標を軍国主義の歪曲のみに」見たと記すとき、彼の師たるナウマンに敬虔に従っている。Friedrich

Naumann: Der Mann, das Werk, die Zeit, 242.

[93] Roger Chickering, Imperial Germany and a World Without War. The Peace Movement and German Society, 1892–1914, 255.

[94] Erich Marcks, Männer und Zeiten: Aufsätze und Reden zur neueren Geschichte 4th rev. ed. (Leipzig: Quelle und Meyer, 1916) 260.

[95] 等しく運命分け目となった、ドイツに対するイギリスの憎悪に関しては、私の寄稿たる“The Politics of Hunger: A Review,” The Review of Austrian Economics (1988), 253–59を見よ、これは私の論集Great Wars and Great Leaders: A Libertarian Rebuttalに再版されている。

[96] Werner Sombart, Händler und Helden: Patriotische Besinnnngen (Munich/Leipzig: Duncker und Humblot, 1915).

[97] Ibid. 9.

[98] Ibid. 17–34.

[99] Ibid. 48.

[100] Ibid. 25.

[101] Ibid. 75.

[102] Heuss, Friedrich Naumann: Der Mann, das Werk, die Zeit, 180.

[103] Konstanze Wegner, Theodor Barth und die Freisinnige Vereinigung. Studien zur Geschichte des Linksliberalismus im wilhelminischen Deutschland (1893–1910) 100.

[104] Ibid. 99–101.

[105] William Graham Sumner, War and Other Essays, Albert Galloway Keller (ed.), (New Haven, Conn.: Yale University Press, 1911) 247–68の“On the case of a Certain Man Who is Never Thought Of”と“The Case of the Forgotten Man Further Considered” (1884), in idem, War and Other Essays, Albert Galloway Keller (ed.), (New Haven, Conn.: Yale University Press, 1911) 247–68を見よ。

〔訳注:ほとんどのフィランソロピーと人道主義の図式の典型と定式はこうだ。AとBが頭を集めて、CがDのために何をすべきか決定する。社会学的な見地からすれば、これらの図式すべての根源的な邪悪とは、Cには彼の立場、性格、利益に関して声を上げることが許されないことであり、同様にして、Cの利益を通した社会への結果が全面的に看過されることである。私はCのことを忘れられた人と呼んでいる。〕

[106] Müller-Plantenberg, Der Freisinn nach Bismarcks Sturz, 146の引用。

[107] Bruno Walter, Thema und Variationen; Erinnerungen und Gedanken (Stockholm Bermann-Fischer, 1947) 16と21.

[108] フランツ・メーリングの、衆目どおり冷笑的な、「フライジニゲ党を彼自身のイメージでは作らなかったが、彼らメンバーが自分たちに最も適するイメージを彼に見出したから、彼らは彼を指導者に選んだ」という見解を参照。Gesammelte Schriflen, Thomas Höhle, Hans Kock, and Josef Schleifstein (eds.), 15, Politische Publizistik 1905 bis 1918 ([East]Berlin: Dietz, 1966) 165.

[109] Erich Eyck, Auf Deutschlands Politischem Forum (Erlenbach-Zurich: Rentsch, 1963)の “Eugen Richter,” 47.

[110] Florin Afthalion, “Introduction,” in Frédéric Bastiat, Oeuvres économiques (Paris: Presses Universitaires de France, 1983) 8.

[111] Müller-Plantenberg, Der Freisinn nach Bismarcks Sturz, 200.

(出典: mises.org)

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