歴史ある四日市港 | |||
長い歴史を誇る伊勢の地で、いち早く海外への扉を開いた四日市港 |
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四日市港は水深と波静かな入り江に恵まれた天然の良港として、15世紀ころには港としての姿が形作られたといわれています。 幕末から明治にかけて、四日市が海上交通面で、江戸と上方の中間に位置するという地の利もあったことから、四日市港は伊勢湾内における最大の商業港として、船舶の出入りや旅客の往来、物資の集散が盛んでした。 また、文明開化の意気上がる明治3年(1870年)には、四日市〜東京間で初めての汽船による貨客定期輸送が始まりました。 ところが、安政の大地震による堤防決壊で、土砂が流入して港口が徐々に浅くなり、船の入港も次第に困難になってきました。この状況を憂えたのが、当時、廻船問屋を営んでいた稲葉三右衛門でした。 三右衛門は私財を投げうち、明治6年(1873年)から10年以上の歳月をかけて修築に取り組み、今日の四日市港の基礎を築いたのです。 |
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稲 葉 翁 稲葉三右衛門は、1837年(天保8年)美濃 (岐阜県)高須の吉田家に生まれ、中納屋町 の廻船問屋・稲葉家の6代目を継ぎ、港の修 築に心血を注いだ。 1914年(大正3年)没、 享年85歳 ← 四日市港の図 明治中期〈神宮文庫蔵〉 |
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その後、明治32年(1899年)に、四日市港は国から開港場の指定を受け、国際貿易港として新たな第1歩を記すことになりました。また、大正時代にはいると、後背地に繊維産業が発達し、我が国の羊毛、綿花の代表的な輸入港となったのです。 |
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戦後はその重要性から特定重要港に指定され、さらに石油化学コンビナートの立地を契機に、工業港としての性格を強めながら、大きく発展していきました。 昭和40年代に入ると、霞ヶ浦沖の広大な海面を埋め立てた霞ヶ浦埠頭が誕生し、ここを拠点として本格的なコンテナ貨物の取り扱いが始まりました。国際海上輸送のコンテナ化に対応するとともに四日市港の輸出の主力となる自動車の輸出も始まったのです。 現在、四日市港は原油、LNGのほか、原塩、家具装備品、綿花のわが国の主要な輸入港であり、また、自動車、石油化学製品などの輸出港として確固たる地位を築いています。 |
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霞 ガントリークレーン |
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平成11年8月に開港100年を迎え、世界に広がる日本の玄関として中部圏の産業を支え続けてきた四日市港 日々変化する社会経済情勢の中で、21世紀の四日市港は霞ヶ浦北埠頭の整備を柱として、高度 な物流空間と親水性の高い交流空間の形成を図り、新たな飛躍を目指しています。 【四日市市のあらまし;発行四日市市より】 |