「点描9人」の最終回で取り上げる3人は、日本の敗戦、毛沢東による共産党革命政府の成立、戦後の国交断絶、日中国交正常化から国交回復、LT貿易から円借款供与そして開放経済体制へと続く、戦後から今日までの日中経済交流の過程で活躍してきた人たちです。
田中角栄は言わずと知れた政治家です。
渡辺弥栄司さんは、9人の中では唯一、今なお元気で活躍している方です。元通産省通商政策局長の職をなげうって岡崎嘉平太(当時、全日空社長)を助けて北京連絡事務所の仕事を遂行した人です。
現在は、ついこの春先まで東京・青山の弁護士事務所代表としてお仕事をやっておられました。
佐野藤三郎は元亀田郷土地改良区理事長で、生粋の農民です。
この3人の方の簡単なプロフィールを、以下に紹介します。
まず、田中角栄・元首相です。大正7年(1918)、柏崎市(旧西山町)に生まれています。昭和47年(1972)7月に首相に就任後、80余日のスピードで訪中し、毛沢東、周恩来との首脳会談で国交正常化に向けた共同宣言を成功させたのです。
同じ年の2月に米国のニクソン大統領が電撃的に北京入りし、毛沢東との会談を実現させ、世界をあっと言わせた米中和解を成し遂げた後ではあったのですが、田中訪中には大きな障害がいくつもありました。それを、まるでブルドーザ―のように押しのけ実現させた功績は小さくありません。当時の自民党内には中国との国交回復に強硬に反対する岸信介元首相や党総裁選挙で接戦を演じた福田赳夫前幹事長など、いわゆる台湾ロビーといわれた無視できない大きな勢力がいたのです。
さらには、国交回復に際して毛沢東の中国がどのような厳しい条件を示すか、それによっては誕生したばかりの政権そのものが吹き飛んでもおかしくない緊張感がありました。
例えば、戦争中に日本軍が犯した様々な犯罪行為や侵略そのものに対して、相当に大変な戦時賠償を求めてくるだろうと予想されていました。また、蒋介石の台湾政府との国交を含むあらゆる関係断交なども条件として示される可能性があったのです。つまり障害となる壁は果てしなく高いものでした。
そうした大きな政治的リスクを抱えながらも、日中3000年の交流史に立ち返って、一日も早い国交回復を実現させようとした田中角栄の政治決断はどんなに高く評価されてもしすぎることはないと思います。田中角栄が所属した派閥の領袖で、前任首相だった佐藤栄作は、反共産陣営という東西冷戦下の一種思想的な呪縛に囚われていたというだけでなくて、中国との国交に伴う政治的なリスクに挑もうという心情もまったくなかった。むしろ、経済界や社会党、自民党内の松村謙三、藤山愛一郎、古井吉実などの親中派の高まる声を抑制していたのですから。
渡辺弥栄司さんは大正6年(1917)、胎内市(現・中条町)の生まれで、現在93歳で健在です。健康の秘訣が真向法です。
戦前の商工省(その後、通産省。現在の経済産業省)に入省して、通商畑を歩んだ人ですが、作家の城山三郎が「官僚たちの夏」で描いた官僚群像のひとりです。城山作品では自動車やコンピューターを巡って、国内産業の育成、擁護を主張する国内派と、米国など欧米先進国との協調を主張する国際派が鋭く路線対立するのですが、現実の渡辺さんもその渦中にいました。国内派の頭目が佐橋滋、国際派の頭目は今井善衛として城山三郎は描いています。いずれも相前後して通産省次官になったのですが、後ろ盾とする政治家も佐藤栄作と池田勇人というわけで、いわば当時の日本を二分していたのです。
余談ですが、今井善衛は新潟と縁がある人です。実父は今井善蔵という人で、大正から昭和の初めにかけて新潟米穀証券取引所の米穀取引員で、米の先物取引で活躍した大相場師です。現在では、相場師という呼称に“悪玉”のイメージがまとわりついてしまうので、トレーダーと言い換えたがよいかもしれません。投機や先物相場も含めてですが、経済行為に対して社会悪といったイメージがまとわりついて回る環境は少しおかしいと思っていますが、今それはおくとして、今井善蔵は相場観が人並み優れて、才覚の人だったようです。その名も新潟はもちろん東京・深川や大阪・堂島の取引所でも知らぬ者がいないほど有名だったようです。今井善衛は善蔵の長男で、末子が敬、つまり元経団連会長で新日鉄会長だった今井敬さんです。そんな思わぬ縁なのですが、話が脇道にそれました。
渡辺さんは通産省でも海外勤務もあり、考え方としては今井善衛さんに近いと思いますが、心情的には佐橋滋に近い感じで、つまり圏外中立といった立ち位置にいたようです。
その渡辺さんに注目したのが、日中経済の復興に執念を燃やして動いていた岡崎嘉平太という人です。元々は日本銀行にいたのですが、戦争中に中国・上海で勤務した縁で中国との深い人脈ができ、戦後も高碕達之助や松村謙三、宇都宮徳馬などと連携して中国と日本との貿易再開に奔走していました。
渡辺さんは通産省官房長のとき、たまたま大原総一郎が経営する倉敷レイヨンがビニロン・プラントを中国に輸出する計画が浮上して、周恩来が派遣した寥承志や孫平化などとの秘密交渉にも関わることになったのです。プラント輸出には当時の輸出入銀行の融資が発動されることが不可欠なのですが、対中国貿易にはその輸銀ローンの承認が政治的には非常に難しい状況だったのです。しかし、結論からいえば輸銀ローンが承認されたわけで、岡崎嘉平太がなんとしても渡辺さんを右腕にと要請することにつながるのです。このとき、もう一人岡崎さんがスカウトしたのが、やはり通産省OBの河合良一(後の小松製作所社長)です。この渡辺と河合のコンビで後の日中経済委員会が経団連に組織されて、その後の日中経済交流の司令塔になってゆくのです。
佐野藤三郎さんは大正12年(1923)、旧石山村(現・新潟市)の農家に生まれました。旧国鉄の鉄道専門教習所を出て、国鉄機関区に働いたのですが、戦争で海軍水兵となり、戦後は実家の農業を手伝う傍ら、青年団活動を経て昭和30年(1955)5月、32歳の若さで亀田郷土地改良区理事長になったのです。
佐野さんが理事長になった時、亀田郷土地改良区は24億円の巨額の債務を抱えて組織瓦解する寸前でした。その経営再建のために霞が関や永田町を必死になって日夜奔走したことで、佐野さんは大変身を遂げました。青年団を基盤に一度だけ市会議員選挙に出馬して惨敗を喫した佐野さんでしたが、それまでの農民運動の闘士から一回りも二回りも住む世界を大きく広げてしまったのです。
破綻した土地改良区の救済を農水大臣の河野一郎、赤城宗徳などの政治家と掛け合い、大蔵省主計局に乗り込んで主計官の相沢英之(後に衆院議員、経企庁長官)や主査の福島譲二(後に衆院議員、熊本県知事)らから財源を引き出す知恵を授かり、農水省構造改善局では会津っぽで頑固一徹な伊東正義局長(後に衆院議員、官房長官、外相)に怒鳴られながらも、駅前の屋台に呼び出し、酒酌み交わしつつ農水省の支援約束を取り付けた。こうした人々との裸の親交を礎に佐野さんは農水省と大蔵省(現・財務省)に壮大な人脈を形成したのです。それがまた、佐野さんが日中交流で大きな事業を構想し、推し進める助けとなっていました。
亀田郷の水田は信濃川と阿賀野川やその支流に囲われたいわば輪中地帯で、多くが海抜ゼロメートル。そのため湿田は田植えの人が腰まで泥に埋まってしまうほどで、遠く江戸期から延々と続いた水防と灌漑排水の苦難の歴史こそが亀田郷農民を鍛え上げたのですが、佐野さんの個性もそうした歴史が生み出したものでしょう。昭和20年代末の亀田郷の田植え、稲刈りの農作業や水防、土地改良事業などを撮影したフイルムが記録映画「芦沼」として編集され、それを周恩来が偶然にみたことから、亀田郷と中国との交流が始まることになったのです。