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2017.05.17

[書評] ミクロの窓から宇宙をさぐる (藤田貢崇)

 米国のハイスクールドラマやSFドラマが好きなのでよく見るが、どうも米国の高校ではアインシュタインの特殊相対性理論のE=mc2について、それがなんであるのかというレベルでは教えているように感じられる。もちろん、米国の初等教育というのは多様だし、理数系の初等教育全体としては日本のそれよりは低いだろうから、教えてないところもあるだろうし、ましてなぜE=mc2になるのかについてまでは教えてはいないだろう。まあそれでも、アインシュタインの特殊相対性理論と関連で、E=mc2かあ、くらいの知識は米人の高校生は少なくはないのではないか。
 対して、日本の初等教育ではどうなんだろう。義務教育で特殊相対性理論について、せめてそれがなんであるか、また、E=mc2というのは、雑駁に言えばどういう意味があるのか、ということについて、教えているのだろうか? どうも教えていないように思える。
 どう教えるかという問題はあるにせよ、それでも10代の内にきちんとE=mc2という公式に出会って、その基本的な意味を知っておくことはとても大切なことだし、これこそが20世紀以降に生きた人間にとって基本的な自然観というか宇宙観の基礎になるはずだ。ずっとそう思ってきた。
 空を見上げる。太陽が輝いている。古代人は太陽が燃えていると考えたし、現代でも比喩的に燃えていると言う。でも、燃焼しているわけではない。核融合反応をしている。そしてその核融合反応でなぜエネルギーが出るのかというと、E=mc2が基礎になっていて、つまり、質量がエネルギーに変換されているからである。まあ、それでいうなら、原発のエネルギーでも同じではあるし、そもそもエネルギー全体にも言えるだろう。それでも、太陽を見上げるとき、僕はよくE=mc2かあと思う。そして、そういう20世紀の人間の感覚をわかりやすく、初等教育レベルで語りかける教育というのはないものなのだろうかと思ってきた。たぶん、そういう本や講義はいろいろあると思うが、そうした書籍にありがちな上から目線というか、そういう臭みはできるだけないほうがいいなとも思っていた。
 例えば、「水から伝言」なんて非科学だという批判もあるが、こんなのは、オカルトとか、千の風になって大気を彷徨っていますとかの歌と似たようなもので、そもそも科学的に考える対象ですらないものに、上から目線的な批判に科学性を感じるすれば少し奇妙に思える。むしろ、科学的な感性で言うなら、現在の地球上に存在するすべての水が、どうやら地球ができた後になって宇宙からもたらされた可能性がある、といった現代科学の知見の驚きのほうが、現代人の自然観にとってとても重要だろう。そういうことをやさしく語る本はないんだろうか。

 あった。たまたまた偶然、NHKカルチャーラジオ「科学と人間 ミクロの窓から宇宙をさぐる」の「第4回 宇宙の「見えない物質」をさぐる」を聞いていたのだが、これがめっぽう面白い。この回はダークマターの説明なのだが、なぜそれが想定されるのかについて、30分という短い枠でとてもわかりやすく解説されていた。これはすごいなと思って、その次回の「第5回 正体不明のダークエネルギー」も聞いた。これも面白い。こりゃ面白いや。ということで、NHKのサイトを探ったら、ストリーミングでこれまでの放送分が全部聞けることになっているので、最初の三回分聞いてみた。ついでに、ガイドブックもあるというので、この分野の知識の手頃なまとめとして買った。まだ放送されていない分がどういうふうになっているのかという興味もあった。
 それにしても面白い。先の太陽の話で言えばこうある。

 水素の原子核4個の質量とヘリウムの原子核1個の質量を比べると、反応後のヘリウム原子核のほうが0.7パーセントだけ軽くなる。この軽くなった分がエネルギーとして解放され、星の中心部から放たれる光や熱のエネルギーとなる。アインシュタインの述べた「質量とエネルギーは等価である」という実例が、恒星で起こっていたわけだ。アインシュタインがこのことを述べたのは20世紀初めのことだったが、実はそれまでの間、恒星がなぜエネルギーを放出できるのかは謎だった。ギリシア時代には、太陽は石炭で燃えるのだと考えられていた。その後、重力の理論が明らかになってくると、太陽が重力によって縮小するときに重力エネルギーから熱・光エネルギーへ変換されると考えるようになった。しかし、この説明では大要が輝き続ける年数は1600万年となり、すでに化石として発見されていた恐竜の年代や、そのほかの地質学的な考察から太陽よりも地球のほうが古くなってしまう。

 当たり前と言えば当たり前だが、太陽を見上げて、ああ、あれは核融合反応だ、E=mc2なのだと感じるのは、20世紀以降の人間の自然な自然観・宇宙観であるし、そうした感覚は、もしかすると、ただ自然や宇宙に対して感じるだけではなく、そもそも人間総体の感覚も変え、さらに市民社会や対人関係などにも影響はあるかもしれない。
 もちろん、初等教育を超えて、ある程度現代科学の知識のある人には本書はあまり発見というのはないかもしれない。それでもよくこんなに手短によくまとまっているなあと感心した。
 例えば、私たち日本の科学教育では、メンデレーエフの周期表とかよく教えられる。また、日本の名前を冠した新元素がさもお茶の間の話題とされる。しかし、こうした元素はあると言えば当然あるのだが、それがなぜ地球にあるのかというのは、そんなに簡単なことではない。
 太陽のような恒星が水素からヘリウムの核融合を続け、最後の時を迎える。これは恒星のサイズによって異なる結果になる。太陽のようなサイズでは、炭素や酸素までの核融合が進むが、それ以上の重たい元素までは進まない。太陽の8倍だと、最終で鉄までができる。問題は鉄より重い元素がどのようにしてできたが、これまでの恒星の終焉とは異なり、「超新星爆発」でできる。超新星元素合成である。ガイドブックではここまでは書かれているが、地球の組成となるこうした重たい元素の由来については、明確には書かれていない。ラジオでは「超新星爆発」として説明し、私たちの身体に含まれるこうした金属から、人間もまた「星の子」とやや詩的に語られていた。たしかに、セレニウムはセレノシステインとして生命に重要な働きをしているが、これらは超新星元素合成に由来する。ただし、鉄より重たい元素の由来については、理研などは中性子星合体が起源という説を出しているなど、定説まではなさそうだ。
 地球上の元素に関連した話だが、本書には「クラーク数」への言及もある。大辞泉などでは「地球表面下約16キロまでの元素の存在比を重量パーセントで示したもの。アメリカの地球化学者クラークにより算出された」とある。また、ちょっとネットを見たら、これを元にした話題などもあった。本書では、こう説明されている。

クラークが研究を行っていた時代には周期表の元素のほとんどが発見され、自然界にそれらの元素がそれぞれどの程度存在するのかということに関心が寄せられていた。研究が進んでくると、この当時は地球の内部構造がまだよくわかっていなかったことや、クラーク数を算出する際には考慮されていなかった海洋地域の岩石が鉄やマグネシウムに富んでいることなどが明らかとなり、科学的な意義が認められなくなったため、現在では科学史の中で過去の研究として扱われている。当時は最先端の研究であっても、研究の進展とともにより新しい事実が明らかになり、それが触れられなくなっていくという一例を示している。

 クラーク数のリストについては、僕が小学生のころ暗記したものだった。鉄と酸素の次がケイ素とアルミニウムかと思ったものだった。昭和の時代は、あれは「電気の缶詰」と呼ばれていた。父の吸うタバコの銀紙を大切に丸めてボールを作ったりもした。
 本書を読みながら、いろいろ思う。なにより、いまだ、自然界・宇宙にはいろいろわからないことがあるのだなと思う。20世紀に生まれた人間として太陽エネルギーの由来はわかっても、宇宙に満ちているダークエナジーなどはわからない。私が生きている内にわかるものでもないかもしれないなあと、今度は漆黒の夜空を見上げる。
 

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