(前回→「『「これをお母様に」』が生む地獄の苦しみ」)
2015年の5月、公的介護の導入と並行して、私は韓国のソウルに1週間出張する準備を進めていた。World Conference of Science Journalists(WCSJ)という科学ジャーナリストの国際会議がソウルで開催されることになっており、私のところに宇宙開発関連のセッションでパネラーとして登壇してほしいというリクエストが来ていたのだ。
家庭のことを考えると、断るべきかとも考えた。
母の病状は徐々にではあるが進行していたためだ。
2014年12月には夕食を宅配に頼むだけで、ひとりで家に残して、種子島の取材に赴くことができた。しかし、半年を経た2015年6月には、自分で朝食、昼食を作ることができなくなっていた。
が、このまま介護が続くと、自分が取材をすることが、どんどん難しくなっていくことが容易に想像できた。私のようなノンフィクション系の物書きは、外に出て様々な情報に接することが、仕事を継続するにあたっての生命線である。取材ができなければ、文章というアウトプットを行えなくなり、商売あがったりになってしまう。それでは、母の介護を続けることも不可能になる。
ヘルパーさん導入のステップとして
「なんとかなります」と言ってくれたのは、ケアマネージャーのTさんだった。
「ちょうど要介護1の認定が出たところだし、6月の公的介護保険制度の点数は十分にあります。松浦さんのソウル出張に合わせて、ヘルパーさんに来てもらうようにしましょう。食事のタイミングで1日3回、それぞれ1時間ずつヘルパーさんに入ってもらえれば、お母さんもきちんと生活できるでしょう」
母は毎週金曜日に、リハビリテーション専門のデイサービスに通うようになっていた。前々回書いた(「『イヤ、行かない』母即答、施設通所初日の戦い」)ように、円滑な通所のために、朝の送り出しにヘルパーさんに入ってもらおうと話していたところだった。
今後どのような形になるにせよ、認知症老人の介護について心得を持つヘルパーさんが入ることは不可避だ。とするなら、この機会に、集中的にヘルパーさんに来てもらうようにして、母を慣れさせておくべきだろう。
大変ありがたいことに、私の出張の後半から、ドイツ滞在中の妹が1週間の休暇を取って一時帰国してくれることになった。滞在中に、私では手の回らない母の身辺諸々のことを片付けてくれるという。弟も仕事の合間に顔をだすとのことだ。
かくして準備を整えて、6月7日、私はソウルに旅立った。