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この作品「まだ生きることを始めたばかりさ」は「岸ひろ」「岸へろ」等のタグがつけられた作品です。

去年の六月に出した岸へろ本のweb再録です。初めての本。パソコンのデータ消えたの...

まだ生きることを始めたばかりさ

Melan no.28

2015年10月27日 08:44

去年の六月に出した岸へろ本のweb再録です。初めての本。パソコンのデータ消えたので、本にしたのと少し違うデータになってます。まだ本余ってるから、ほしい人いたら直通販するんで、声かけてやってください。/作品のイメージソングとして、フジファブリックの「徒然モノクローム」を聴いてました。

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一、

　その名を口にすれば、美酒を呑んだが如きの酩酊に襲われ、その名を耳にすれば、昂奮といくばくかの緊張が指先を震わせ、そして、その名をみつめれば、過去の栄華が目蓋にうかぶ。その名を知らぬ雀士など、いるのだろうか。だが、その名を冠する男と対峙できる者は、すでに誰一人としていない。
　神域と崇められた男の、本当の最後を看取った者はこの世に八人。自らの忘却に死を選択した男の潔さを知る人数。俺はそのうちの一人から、神域と八人の男たちの物語を聞き、小説よりも奇なりという安直な感想を持った。一方で、聞きかじった情報で、神域の偶像を組み立ててはいたが、まさに彼は神であったと納得させられた。かの男の存在を、伝説と片付けるには難しい。
　昔話が終わってから、話し手は神域の写真を見せてくれた。白髪、虎柄の白いスーツ。レンズに向けられた視線が、背筋を震わせる。生前撮られたというその姿は、一度見れば、忘れようにも忘れられない。
　その男の名を、赤木しげると綴る。全ての羨望、嫉妬、罵倒、崇拝、因果、幻想を背負って死んだ、神。しかし、神は死なない。彼は人間だった。
　赤木しげる。俺に神の死にざまを伝えた男は、彼の名を大切そうに口にしていた。かつて聞いたことがないほどの、滑らかな声だった。
　赤木しげる。その男は確かに、そう呼ばれていた。

二、

　骨は釣れるか骨はェ～という一節を思い出しながら、牌をぶった。落語「野ざらし」の一節だ。骨を題材にした噺のせいか、〈白〉をツモると時々思い出す。かつては牛骨、象牙で作られていたという麻雀牌は、今では樹脂で作られ、手に冷たくともそこに死への執着はみられない。それでもしばし錯覚する、この一三六枚ある牌全てが骨であったらと。それを混ぜる四十の指先。雀士はいつでも、死に触れている。
「リーヅモチートイツドラ２……」
　俺が牌を倒すと、周囲から岸辺だ岸辺が勝ったと声があがった。
　神奈川某所の料亭、ヤクザの接待麻雀での一席。オーラスぎりぎりのところで逆転し、トップへ返り咲いた。相手であった三人の代打ちたちが溜め息や舌打ちをするなか、俺は肩の荷がおりたと首をぐるりと回す。十三畳もある畳敷きの広い部屋。卓を囲む四人の他、代打ちを使って賭け事をしているヤクザの総長と、その腹心たち数人が一つの卓に見入っていた。
　昨日の夜十時から始まった席が、日をまたいで次の日の八時まで続いた。九月も中旬、夜の静寂のなか秋虫の声を聴いていたはずが、耳に届くは目を覚ました雀の鳴き声。
　誰が賭けに勝ったかは知らないが、今日の勝負で俺が目立ったことに変わりはない。最後に総長から「よくやった」と声をかけられた、それに愛想笑いを返しておく。
「岸辺忍といったな。どうだ、今日はここに泊まって行け、待遇するぞ」
「いえ、明後日にまた仕事があるので、今日のうちに東京へ帰らなければ……」
「そうか。しかし、お前の打ち筋は見事だった。もう少し、見ていたいものだったよ」
「はは、有難いお言葉です」
「今度、また一席もうけることがあれば、声をかける。ところで、お前は井川ひろゆきと知り合いだと聞いた。どうだ、あの神域の弟子も共に？」
「いえ、それは無理な相談です。きっと俺が声をかけたところで、首を縦にはふらないでしょう」
「ふむ、それは残念だ」
　総長に礼を述べてから、料亭を後にした。そして、近くの駐車場に止めておいた愛車へ乗りこみ、心の中がざわざわとうるさいので、一服しながらラジオをつける。本日の天気予報が終わると、知らないバンドの聴きなれない曲が流れだす。
「誰がちくったんだか……」
　井川ひろゆき。俺は井川さんと呼んでいる。麻雀講師、雀士、第一次・第二次東西戦の東の代表の一人。彼とは親しい間柄であるが、それを知っている人間は少ないはずだ。そりゃ、普段から彼と行動を共にしているからバレてしまったことも考えられる。しかし、自分から吹聴して回っているわけではない。知り合いの誰かが一緒にいる現場を目ざとく見つけ、ヤクザへ「面白い話がありまして」と話の種に使ったのかもしれない。胸糞が悪いし、腹が立つ。
　井川さんへの仕事の依頼を、自分伝いに頼まれたことを怒っているのではない。井川ひろゆきへの興味が、麻雀の強さではなく、「神域の弟子」という部分にしか向いていなかったことに、腹が立った。それでも、彼の打ち筋を見れば相手はその見方を改めるだろうが、もとから下心のある奴に井川さんを紹介する気はさらさらない。
　お前のようなやつに、誰が井川さんを紹介するものか。総長への愛想笑いの向こうでは、そんなことを思っていた。
　神奈川から東京へ戻るため高速に乗った。しかし、一夜寝ずの脳味噌は目蓋を重くしていくので、仕方なくパーキングエリアで三時間ほどの睡眠をとった。小腹も空いていたので、エリア内の売店でタコ焼きを買った。マヨネーズを多めにかけ、熱々のそれを頬張ると、上唇を火傷した。タコを舌で転がし、二つ目も口へと放る。鰹節とソースと粉物は、どうしてこうも合うのか。不思議なものだとしみじみしているところで、胸元の携帯電話が鳴った。口の中を呑みこんでから「はい」と電話にでる。
「もしもし、岸辺さんですか？」
　電話の相手は井川さんだった。
「あれ、井川さん。どうしました？」
「いえ、別に用事はないんです。お仕事の方、どうでしたか……？」
「なんとか最後に巻き返しましたよ。泊まっていけって言われたんですけど、もう帰りたいからって、今東京向かってます」
「そうですか」
「それだけですか……？」
「本当は、岸辺さんの声が聞きたくなったんですよ」
「……俺も、井川さんの声ききたいなって思ってました」
「でも、今日は疲れてるだろうから、ゆっくり休んでくださいね」
「はい」
　井川さんから電話を切るだろうと待っていたが、いつまでたっても切れない。二人で苦笑してから、「俺から切りますね」と断ってボタンを押した。しばらくの間、携帯を目の前にかざし、口元に浮かんだにやけを発散させる。
　井川さんとはたしかに知り合いであるが、誰も俺たちが恋人同士であることは知らない。天さんにも沢田さんにも、誰にもバラしていない。俺が好きだと言った。三回目の告白で、井川さんが俺を受け入れてくれた。恋人同士だ。男同士で可笑しいかもしれないが、それでも、好きで好きで諦めきれなかった。
　明後日に仕事があるといったのは嘘。ただ井川さんに会いに行きたいという、その一心しかない。
「井川さん、今日は家にいるかな……」
　曜日を指で数えると今日は水曜日、麻雀教室の日だから夕方には帰ってくるはずだ。彼が帰る時間と同じくらいに、俺も東京に着くだろう。少しだけ冷めたタコ焼きを食べ切り、エンジンをふかす。神奈川の一席の前には、千葉での仕事が三日あった。逢えない間、井川さんの呼吸や熱を思い出し、一人遊びをしていた。
　車のなかに自分しかいないときは、決まってラジオの音量を大きめにする。懐かしい曲や古い曲まで、知っていれば口ずさむ。名前も知らない流行りの曲で、「わたしがどうしてあなたを好きか、わたしにはわからない」というフレーズがあった。俺だって井川さんを好きになった理由は曖昧だが、好きになった瞬間は覚えている。ひょんなことから巻き込まれた事件で、井川さんが麻雀の勝負で視力を一時的に失った瞬間があった。勝負の合間、彼に肩を貸したとき、手の平に相手の汗を感じた。すると、誘拐された沢田さんと行方不明となった天さんを見つけるため、文句ひとつ言わずに戦っている井川さんに対して、無意識に泪がこぼれたのだ。あのときに、最後まで彼を支えようと誓っていた。きっとあの時に彼を好きになった。
　俺も人のことは云えないが、井川さんと実際に逢うまで、彼のことを神域の弟子としか認識していなかった。沢田さんから噂を聞いてからは、彼と打ってみたいと思った。打ったら打ったで、彼の強さに魅了された。どこをとっても、嫌いになる要素がなかった。嫌いになるには理由がいる、しかし好きに理由は必要ない。
　無意識に車を飛ばしていたようで、東京に到着したのは午後三時。井川さんに会いに行きたいが、彼はまだ帰っていない。仕方ないので一度家に帰り、重い体をベッドに預ける。次に意識が覚醒すると、外は夜の帳が落ちた十九時になっていた。急いで出かける準備をし、今度は電車で井川さんの自宅へと向かう。
　最寄り駅近くのコンビニで酒を買って行ったが、もしかして沢田さんや天さんと飲みに行っているかもしれないと途中で気付いた。そしたらこの酒は、ドアノブにかけておけばいい。井川さんの住んでいるアパート前、彼の部屋に灯りがついているのを見つけ、賭けに勝ったことにニヤけた。階段をあがり、二階角部屋のチャイムを鳴らす。合鍵は貰っているが、使わない。
「はい」
「こんばんは、井川さん。岸辺です」
「え、岸辺さん？」
　部屋からあわただしい音がして、ドアが開いた。スウェット姿でくつろいでいたらしい井川さんが、俺をみて「おぉ」と驚いた声をあげる。
「岸辺さん、どうしたんですか？」
「井川さん、もう夕飯食べましたか？」
「まだです、けど……すいません、今日の夕飯、カップラーメンなんです……」
「カップラーメンは控えてくださいって言いましたよね」
「すいません……」
「酒買ってきたんで、今日泊めてくれませんか？」
「お酒飲む相手がいないから、俺の家に来たんですか？」
「井川さんに会いたいから来たんですよ」
　井川さんは、ハハと短く笑って俺を中へ通してくれた。畳敷きの居間には卓袱台、そこにお湯を注ぐ前のカップ焼きそばが、蓋をあけられた状態で置かれていた。カップラーメンがいくつも入ったビニール袋を井川さんが持って、どれにするかを尋ねてきたので、同じカップ焼きそばを選んだ。
　そして、その二つを台所に持っていき、火にかけていたヤカンからお湯を注ぐ。完成するまで、井川さんと立ちんぼうをして待っていると、仕事についての話をふられた。
「いや、千葉の方は誰が勝っても良かったし、神奈川の方は接待麻雀だったせいか、手応えがありませんでしたね」
「駄目ですよ、どんな局面でも手を抜いちゃ」
「精進します」
「でも、人間だから仕方ないところもあるっていうのは分かります」
「井川さん相手だったら、手を抜いたら最後、頭から喰われちまう」
「お腹すいてるから、これから岸辺さんを食べるのもいいですね」
「俺なんか食べたら、腹ァ壊しますよ」
　三分経ったので、焼きそばの水を切って居間に戻り、卓袱台に向かいあって座る。麺にソースをからませ青のりをかけ、「いただきます」と同時に言ってから二人で焼きそばをすすった。安っぽいソースの香りと、麺の弱い弾力、カップ麺独特の味。だが、それが良い。
「久しぶりに食ったけど美味いですね、カップ焼きそば」
「カップラーメンもたまには良いでしょ？」
「井川さんは放っておけば毎日じゃないですか」
　二人でもくもくと麺をすすり、からになったプラスチックを台所のゴミ箱に片付ければ、後は酒とつまみで乾杯をする。テレビを見ながらどうでもいい話をして、何度も乾杯。暑いからと開け放っている窓からは、秋の乾いた風が吹いてくる。東京でも秋になれば虫が鳴く。紅葉はまだみられないが、すぐに吐く息が白くなるだろう。
　井川さんに一言断りをいれてから、トイレで用をたした。部屋に戻って来ると、井川さんは場所を移動して、窓際でビールを呑んでいる。彼の眼差しは外の景色に向けられている。まただ、と思った。また、井川さんはどこかを見ている、声をかけられない。
　井川さんと付き合う前から、彼はどこか遠くを見つめることが多かった。それは酒を呑んでいる時によく見られた。話が途切れたほんの一瞬で、彼は遠くを見つめる。窓から外を見ているときもあれば、手元を見つめているときもある。俺を見ているはずなのに、俺越しにどこかを見つめているときもあった。最初は気のせいだと思ったが、それが何度も続けば、彼の意識がこの場にないとすぐにわかった。好きな相手のことだ、すぐに気付く。
　そうして、「どこを見ているんですか」と訊ねたい口を、精一杯の矜持で閉ざしてきた。訊ねたところで、彼は答えない。いや、一度だけ訊ねた。だが、彼は笑顔で「なんでもありません」とごまかした。そのとき、自分と井川さんの間に、いまだ埋められぬ溝を見つけた。
　だから、彼が遠くを見つめているときの理由は聞かないようにしている。窓際にいる井川さんの隣に腰掛けると、彼の方へ顔を近づけ唇をのせた。焼きそばを食べたばかり、ソースと酒の味がするキス。女とキスをすると、いつも鼻先をくすぐった香水の匂いも、井川さんとでは煙草の匂い。だが、こちらの方が安心する。彼の手からビールを奪い、畳の上に押し倒す。
　井川さんは抵抗することなく、俺の首に腕をまわして口付けを返してきた。付き合ってもう三ケ月になるが、それでも井川さんのキスはたどたどしい。手の平で愛撫を続けながら、相手の服の下に手をいれ、熱に触れる。二人で腕を交差させながら、相手の雄を高めた。井川さんの手でイかされると、自分も彼をイかせた。
　ティッシュでもろもろを綺麗にしたところで眠気に襲われ、井川さんに擦りよりながら目をつぶる。
「やっぱり、まだ疲れてるみたいですね……」
「井川さんに逢えたから、安心して眠くなってるだけです……」
「岸辺さんはまっすぐだ。逢いたいってなったら、いつでも逢いに来る」
「井川さんだって、俺に逢いたくなったら逢いに来ていいんですよ」
「そしたら、今度は俺から逢いに行きますね……」
「……はい」
　睡魔に襲われ目を開けることができない。井川さんの右手が俺の頭を撫でている。彼は今、俺だけを見ているだろうか。それとも、遠くを見つめているのか。気になりはしたが、すでに体は深淵に引きずりこまれていた。
　それから何時間ほど寝ていたのかわからない。薄眼を開けて目を覚ましたとき、窓から太陽の光が差し込んでいた。もう起きる時間かとあくびをしてから隣にあるはずの温もりを探すが、腕はからっぽの畳の上をすべった。「あらら」と目やにまみれの目をこすりながら部屋の中を一見すると、角に置かれている箪笥の前に、スーツ姿の井川さんが立っている。そして、一番上の引き出しをあけ、その中を覗きこんでいた。
「あ……」
　小さく声を漏らしてしまった。引き出しの中を見つめていた井川さんの眼差しが、遠くを見つめている時のそれと同じだったからだ。しばらくの間、彼の横顔に見入っていたが、俺が起きたことに気付いた井川さんが「おはようございます」と挨拶をしてきた。反射的に「おはようございます」とかえしている間に、彼は何事もなかったように引き出しを閉じてしまった。
「井川さん、今日はお仕事ですか？」
「はい、今から出かけます。岸辺さんはゆっくりしていってください」
「あ、そしたら片付けとかしておきます」
「ありがとうございます。そしたら、いってきますね」
　二回の東西戦に名を残す井川ひろゆきが、どこにでもある麻雀教室で老人達に健康麻雀を教えているとヤクザたちに教えたら、どんな顔をするか。俺だって聞いたときは「あの井川ひろゆきが」と驚いたものだ。
　井川さんの背中が扉の向こうへ消えるまで手をふった。鍵が締められたと同時に立ちあがり、体を伸ばす。井川さんが掛けてくれた毛布を押入れにしまい、昨夜の宴の残骸をビニール袋に詰める。それから、もともと散らかっていた部屋を軽く片付け、掃除機をかける。今日一日は井川さんと予定があえばどこかにドライブと思っていたが、仕事だから一人ぼっちになってしまった。
「沢田さんのところに行くか……」
　昨夜会えただけでも、良しとしなければならない。重い腰を上げゴミ袋を持っていこうとしたとき、部屋の隅にある箪笥に目を向けてしまった。井川さんは、何を見ていたのだろうか。何をそんなに、悲しげに見つめていたのか。玄関に向いていた足が、自然と箪笥の方へ行っていた。一番上の引き出しに手を掛ける。後は引くだけとなるが、緊張で手が動かない。
　俺にだって秘密があるし、井川さんにだって秘密はある。それを許可もなく覗くことは、井川さんの心の中へ土足で入りこむようなものだ。
「駄目だろ、のぞいちゃ」
　自戒のつもりで右頬を強くつねり、井川さんの家を出た。戸締りをして、ゴミを捨てていく。外は気持ち悪いほどの快晴であるが、心はもやもやしている。足が重い、右足から、油をさしていない鉄のこすれる音が聴こえてくるようだった。

三、

「そりゃお前、昔の恋人の写真とかじゃねぇか？」
　雀荘さわだへやって来ると、営業時間でありながら店内に客の姿は見られなかった。平日でも、授業をさぼってやってくる大学生や、仕事合間の息抜きでやってくるサラリーマンが打っていることが多い。沢田さん自身も暇そうに珈琲を呑んでいたので、挨拶をしてからここ数日の仕事の報告をした。自分から仕事を見つけることがほとんどだが、時々沢田さんから仕事を回してもらうこともある。そちらのツテでは、沢田さんの方が根深い。
　彼から珈琲を淹れてもらい報告もひと息ついたところで、少しだけ話をごまかしながら、沢田さんに今朝あったことを話してみた。すると、彼はあっけらかんとした様子で、こちらが不安になるようなことを言った。
「昔の恋人ですか……？」
「岸辺、お前女ができたのか。今度は続くといいな」
「止めてくださいよ。俺が悪い男みたいじゃないですか」
「悪いだろ。まぁ、昔は女に捨てられてばっかりだったけどな」
「若かったんです」
「はは、若いのひと言で全部が片付くと思うなよ。今度も捨てられる方か？」
「違います！　捨てられません！」
「吼えろ吼えろ」
　沢田さんが楽しそうに笑っているところへ、大学生四人の客がはいってきた。常連らしく、慣れた様子で窓際の卓に座り大学教授の悪口を言いあっている。そろそろ人も来るだろうからおいとましようかと席を立ったとき、「岸辺」と沢田さんに呼びとめられた。
「お前は赤木の墓参りに来るのか？」
「あ、そういえば、九月二十六日は命日でしたっけ？　あれ、今は十八日だから……」
「八日後だ。今年は何人かで集まって供養麻雀なんてのやるかって話になっててな。とっくにお陀仏してるだろうに、おかしいもんだ」
「いいんですか、俺なんかがお邪魔しても？」
「来いよ。おなじみのメンバーしかいない。岸辺は赤木しげると逢ったことは？」
「いえ、ないです。一応、井川さんから写真は見せてもらって、話は聞きましたけど……」
「赤木はお前のこと、少しは気にいったかもしれないな」
「それはないですよ。俺は天才じゃない」
「才能のことを言ってるんじゃない」
「でも、死んだ人だから、気に入られるかなんて一生わからないですよ」
　沢田さんに頭を下げて雀荘を出た。電車に乗って家に帰る途中、「赤木しげる」という男について、考えてみる。伝説の男、無敗の男、神域、彼と打ったことのある男数人と逢ったことがある。皆がこぞって神技だと言ってのけた。その話をするときの相手の瞳には、少年のような純粋な光が宿っており、どれだけ彼らを魅了したのかと、赤木しげるの雀力に畏怖を示した。
　井川さんから赤木さんの話をちゃんと聞いたのは、彼と付き合ってすぐのことだった。俺を伴って墓参りに行った際に、彼はぽつりぽつりと神域との出会いから別れまでを話してくれた。そうして、最後に彼は泣いた。その泪の意味を考えあぐね、俺は静かに話を聞くことしかできなかった。
「井川さんは、赤木さんが本当に好きだったんですね」
「そうですね、好きでした。でも、同時にあの人のことが嫌いでした」
「不器用な恋みたいだ……」
「恋じゃないですよ。俺にとってはただの憧れなんです。神様なんて呼ばれてるけど、あの人は俺にとっては人間でした。天さんに右手を引かれて、赤木さんに背中を押してもらった。今でも、あの人の言葉は俺の一部だし、それによって今の俺は作られているんです……」
「俺は逢ったことないから、やっぱり赤木さんは神様に思えます」
「神様だったら、死んだりしませんよ」
　赤木しげるという人間が、井川ひろゆきの中のどれほどを占めているのか、その大きさを知って絶望した。それでも、俺は彼の隣にいることを許されたのだから、それを良しとしなければならない。そう自分に言い聞かせた。
　嫉妬が、心の奥底で黒い泡をふいている。赤木しげる、その名は神と同等の意味合いを持つ。それに嫉妬している自分が愚かであり、この悩みを打ち明けて理解を示す人間がいるわけがないと、唇を噛んだ。
　どうして俺は、神に嫉妬しているだろうか。その嫉妬はいまだ心の中に残っている。
　自分の家の最寄り駅に着いて少し歩いたところで、井川さんに会いたくなった。沢田さんの言ったように昔の恋人の写真でもかまわない。俺の家にだって、いまだに昔の恋人が置いていった残骸が転がっている。いつか、井川さんがその写真を見ないでも済むように、俺が傍にいて支えてやればいい。
　コンビニの前で立ち止まり、井川さんへと電話をかけてみた。数コールあってから、聞き慣れた声が「はい」と電話にでた。
「井川さん、今大丈夫ですか？」
「はい、ちょうど十五分休み中だから、平気ですよ」
「よかった。そしたら、今日の夜ってあいてたりしますか……？」
「今日は夕方赤木さんのお墓参りに行くので、それからでよければ……」
「はい、大丈夫です。そしたら、俺も用事が終わってから、赤木さんの墓参りいくんで。何時くらいに、迎えに行きましょうか？」
「今日は三時に仕事が終わるから、たぶん向こうには四時に着いてると思います」
「そしたら、そのくらいに。すいません、忙しいのに電話しちゃって……」
「いいえ、俺は電話嬉しかったですよ。それじゃ」
　また井川さんから電話を切るだろうと待っていたが、やはり相手は切らない。まるで決まりきったひと芝居のようで、二人して笑ってから「俺が切りますね」と了解を得て、通話を終わらせた。
　なんだか、ここに来て急に赤木しげるという名前を聞くようになり、気分がおちつかない。代打ちとして駆け出して一年後に、赤木さんの葬式が新聞で報じられた。噂で知っていただけの男が死んだと聞いても、実感はわかなかった。しかし、年かさの男たちはこぞって喪服に身を包み参列していった。彼の死後一年経って、俺は一人で墓参りをしに行った。墓前に供えるにそぐわない麻雀牌や煙草、酒にチップ。一番笑ってしまったのが墓石に張られた冷湿布だった。彼の墓石の欠片をもっていると幸運になれるという噂によって、墓は削られて酷いことになっていた。俺は彼の吸っていた煙草を供えて手を合わせるだけで、石は削らなかった。俺はこの人を知らないし、石を持っていたところで意味はない、こちらの世界は運すらも実力だと知っていたからだ。
　一人で行ったのはその一回だけ。あとは、井川さんと二人で行くばかり。それに比べ、井川さんが一人で赤木さんに手を合わせに行く回数の多いこと。きっと、俺がいない間にも墓参りに行っている。勝つたびに、何かあるたびに、月参りに、命日に。俺はまだ大切な者を失う痛みを知らない。だが、その相手を井川さんと仮定するならば、俺も同じように暇を見つけては彼に会いに行くだろう。手を合わせ、最近あったあれこれを彼に伝える。そんなことを考えるときは決まって、鼻の奥がツンとする。
　自分の家に帰り、すっかり忘れていた郵便物の確認をした。いくつかは数週間前に終えた仕事の礼状、後は仕事の依頼が一件あった。今どき手紙で頼むのはどうかと思うが、ヤクザの中には昔ながらを好む人間が多い。
　手紙の依頼へは断りの手紙を書きながら、あとはメールでの依頼を整理して、スケジュールを立てる。どれも関東を中心とした仕事ばかり。しばらくは東京から離れたくない。赤木さんの命日には、供養麻雀とやらに参加させてもらおう。それまでは、こちらでの仕事を引き受ける。
　仕事の整理を終えたころには、家を出る時間となっていた。車のキーを持って家を飛び出し、車を飛ばした。赤木さんの墓へは何度か車で行ったことがあるので、道は覚えている。途中で交通事故の渋滞に十分ほど巻き込まれた。時計をみると四時まであと五分。ハンドルにおいた手をイラつかせながら、渋滞を抜けたところでさらにスピードを出した。井川さんが誰かに取られてしまうような、焦りがあった。
　寺内の駐車場に車を止めて、急いで赤木しげるの墓へ向かおうとする。しかし、何か持ってきた方が良かっただろうかとあたりを見渡し、寺の向かい側にあったコンビニで煙草を一つ買った。
　あらゆる名前が刻まれた墓石の間をぬって行ったところで、ようやく赤木しげるの墓前へやって来る。そこにはすでに井川さんが立って、手を合わせていた。
　静かに目を閉じ、背筋を正して一心に祈っているその姿を、俺はただ見つめるしかできない。生ぬるい風が吹き、赤木さんの墓のすぐ隣に生えている木の葉をさざめかせた。紅い彼岸花がところどころに生えている、その色に似た嫉妬が心臓を刺していった。声をかけられずに、井川さんのお参りが終わるまで、ずっと彼を見つめ続ける。その横顔が、遠くを見つめているときの井川さんの表情と、酷似していた。
　それから五分経って、井川さんがようやく顔をあげる。隣に置いていた手桶を持ってこちらを向いたときに、「あれ、岸辺さん」と驚いたように言った。
「いつからいたんですか？」
「はい、ついさっき」
「なんだ、そしたら声をかけてくれても良かったのに……」
「いえ、あそこまで真剣に手を合わせてるのみたら、邪魔なんて出来ませんよ」
「どうせ、ここ数日あったことを報告していただけですよ。岸辺さんのことも、伝えておきました」
「なんて云われてるか、ちょっと気になりますね。あ、俺も赤木さんに手を合わせても良いですか……？」
「どうぞ、待ってますから」
　ポケットから新品の煙草を取り出し、墓前に供えて手を合わせる。慣れない線香の匂いが、体中にまとわりついてくるようだ。目を閉じる、何を言えばいいのか分からない。ただ、心の思うままに死んだ彼に語りかけるとしたら、どうか井川さんを取らないでください、その一言につきる。心の狭い男だ。
　俺のお参りは十秒もしないで終わり、合わせた手をポケットに突っ込むと、墓に刻まれた赤木しげるという名を目でなぞる。角が削れてボロボロになった墓石、死してなお博徒たちを惹きつける男にふさわしい墓だ。　
「前より削られてますね、墓」
「仕方ないですよ。みんな、欲しいんですから」
「そういえば、井川さんって赤木さんの石もってるんですか？」
「あぁ、……実は」
「やっぱり。俺もそのうち貰いたいけど、怒られるかな」
「貰っても、赤木さんは怒らないと思いますよ」
「はは、今度ミノでも持ってきますね。それじゃ、行きましょうか」
　井川さんから手桶を奪い取って、元来た道を戻る。どこかで食べていきましょうかという提案に、井川さんが「焼き肉」といった。
「いいですね、焼き肉」
「あれ、もしかして岸辺さんは車ですか？」
「はい、車で来ました」
「いやぁ、悪いな。俺だけお酒飲んじゃうなんて」
「一緒に飲まないっていう優しさはないんですか？」
「俺は自分の欲求には正直でいようって決めてるんです」
　二人で軽口をたたきながら車に乗り込み、近くの焼き肉屋へ行った。タン、ハラミ、カルビ、等々。トングで肉を焼き、焼き上がったら井川さんの皿に運ぶ。野菜も焼いて食べさせる。ピーマンが苦手だと言う彼に、ビールを飲めない腹いせですよと返す。コーラで炭酸欲を満たしたが、やはり目の前で美味そうに酒を呑まれると飲みたくなった。
「いやぁ、美味しいですね」
「帰りに酒買ってくから、悔しくありません」
　それでも、井川さんが美味しい美味しいと言ってご飯を食べている姿に、自然と笑みが漏れていた。彼と出会ってすぐは、顔色が悪い人だと思っていた。食が細いというわけではないが、夕飯をぬいたりカップラーメンでの生活が長いせいだと、すぐに知れた。それからは、彼のために何かを作ったり、どこかへ食べに連れて行ったり。最初こそ井川さんのためと思っていたが、しだいに自分が彼と飯を食べることを楽しんでいた。一人で食事をすると、どこか心寒い。対面に座る人が欲しいわけではない、井川さんと飯が食いたいと思うようになっていた。おそらく、それは恋心の一種だろう。
「そういえば井川さん、二十六日は赤木さんの供養麻雀に行くんですか？」
「あれ、もしかして言ってませんでしたっけ？」
「聞いてませんよ」
「すいません、岸辺さんも一緒に行くって勝手に思ってました」
「俺、行ってもいいんですか？」
「はは、どうしてですか？　みんなもきっと喜びますよ」
「なんだか悪いですよ。俺は、赤木さんのこと何も知らないのに……」
「俺だって、赤木さんのこと、何も知らないですよ」
「知ってるじゃないですか」
「知りませんよ……」
　そうして、ビールを右手に持った井川さんが俺を見つめた。その目には俺が映っているが、遠くを見つめている。あの眼差しだ。俺ではない、どこかを見つめている。
「原田さんが言ってたんですけど……」
「はい」
しかしその日、井川さんは沈黙することなく、俺に話をしてきた。
「赤木さんはあの死んだ日、実はまだ生きたい気持ちがあったらしいんです」
「え……？」
「三パーセントだけ、生きたい気持ちが残っていたらしいんです」
「あの、神域がですか？」
「そうですよ、あの赤木さんがです。その三パーセントの生きたい気持ちがどういったものだったのか、時々考えるんです。考えても、まったく分かりませんけどね。もし、この話を、俺が赤木さんと対面する前に聞いていたら、彼に訊ねることもできた。あなたの三パーセントには、何が含まれているんですか、て。俺は、あの人に慰められて終わったから……」
「……」
「前にも話したと思うんですけど、俺はあの夜、赤木さんに賭けを申し込まれたんです。彼が助かるかもしれない賭けを。それを俺は最初から諦めた。たぶん、赤木さんもそれを知っていて、俺にその賭けを持ちかけたと思うんです。もしその勝負を受けてほしいなら、天さんに持ちかけるはずだ……」
「天さんなら、その賭けを受けましたね。絶対に」
「今なら俺だって受けます。けど、あの時の自分は受けられなかった。岸辺さん、俺は……」
　井川さんが手元のビールのグラスを見つめた。焼いていた肉が真っ黒に焦げている。しかし、指先ひとつ動かせない。彼が何か言うまで、自分は彼の声に耳をすませるしかない。人でにぎわっているはずの店内が、静寂の場と化していた。
「俺は……？」
「俺は……自分が赤木さんを殺したと思ってるんです」
「それは、……それは、賛同しかねます」
「岸辺さんならそう言うと思ってました」
「赤木さんは自分の意思で死んだはずだ。それが、どうして井川さんの責任になるんですか？」
「でも、罪を背負いたくなる。きっとそれは、あの場にいた他の七人も同じですよ」
「天さんもですか……？」
「どうかな。あのとき、それぞれが赤木さんとどんな話をしたか、あまり話したことがないんです。天さんからだって聞いたことがありません。でも、同じだと思ってます。みんなそれぞれに、罪を抱えてると思ってます。俺の思い込みかもしれないけど……」
「おかしな話だ。まるで、赤木さんが死ぬ罪を、八等分したように聞こえる」
「もしかしたら、そうだったのかもしれません」
「赤木さんはそんなこと、望んでいないと思います」
「分かりませんよ、死人に口はありませんから……」
　そして井川さんは黙ってビールを飲みほした。遠くを見つめていた眼差しは消えて、少し照れたように「供養麻雀には一緒に行きましょう」と笑う。俺は網で黒焦げになった肉や野菜を取り皿に移して、また違う肉を網に置いた。きっと、井川さんがこの話をした相手は、俺が初めてだろう。そうでなければ、あの夜にいたそのうちの一人が、答えを与えているはずだ。どうしてその話を、赤木しげるに縁もゆかりもない俺にしたのか。尋ねたくても、舌が凍っているようで、上手く発音できない。
　それから二時間後。二人で腹を満たしたところで、酔っぱらいを助手席に座らせ、車を走らせた。井川さんのアパートに着くと、足元のおぼつかない彼を引きずり、合鍵で部屋に入った。玄関でだらしなく眠ってしまった井川さんを放っておき、居間に布団を敷いていれば、酔っぱらいは一人風呂場でシャワーを浴び始める。そして、すぐに水浸しで戻ってきたので、彼の裸をバスタオルでふいてやると、敷いたばかりの布団に押し倒された。井川さんからのキス。彼の体は酒とシャワーのせいで、触れると熱くて冷たい。
「井川さん、酒臭いですよ……」
「岸辺さんはいつもより、落ち付いてますね……」
「井川さん、大丈夫ですか……？」
「大丈夫です。セックスしましょう、岸辺さん……」
　井川さんの体をまさぐると、彼の体が大きく揺れた。横向きになり、俺が彼の体に覆いかぶさるようになった。酒を呑んでいるから勃ちにくいかと思ったが、パンツの中の井川さんのペニスを口に含んでしゃぶれば、すぐに膨張した。井川さんの口から甘い声が漏れてくる、いつもより切なげに聞こえた。
　井川さんがイく前に雄を扱いていた手を止め、仰向けに寝ている彼の背中に枕を敷く。それから、ローションで彼の秘孔をほぐし、二本の指を三本にして己の欲望を挿入しやすくする。井川さんの眉間に皺が寄っているので、彼へとキスを落とした。肉壁がひくついている。充分にほぐしたところで指を抜いた。井川さんの体から力が抜けたので、彼の足を左右に大きく開いて、そこに自分の腰をすえた。挿入前にゴムを付けて、準備を済ませる。
「挿れますね……」
「……はい」
　酒に酔っているから、いつもより視線が定まっていない。それでも、必死にこちらへすがりつく腕の力は強く、酒焼けした声が耳元で名前を呼んでくる。それだけで、自分の下半身は勃起していた。
　雄を手で支えながらゆっくりと井川さんの中へ入っていく。ぐぐぐ、と先へ進めば進むほど、井川さんが悲鳴のような声をあげる。時間をかけて少しずつ少しずつ進み、奥に達してからも、時間を置いて腰を揺らした。
　男を好きになったのは、井川さんが初めてだ。井川さんも初めてだと言っていた。女であれば濡れるあそこも、排泄物を出す場所であるため、ローションで濡らさなければならない。汗をかきながら腰を揺らしていると、しだいに慣れてきた井川さんがうなり声とは違ったものを上げ始める。前立腺と呼ばれるチンコの裏側部分を亀頭でこすると、彼の背中が弓なりに反った。
「あっ、……ぐぁっ、ぁっ……んんっ……！」
「井川さん、痛い、ですか…？」
「だい、じょうぶ、きもちいい……ですっ……」
「よかった……」
　二人とも汗まみれだ。井川さんの首筋を舐めれば、内部が震えて締まった。キスをすればさらに締め付けてくる。自分の愛撫に答えてくれる井川さんが愛おしくなり、彼の感じる部分ばかり突きあげた。井川さんの足先が暴れ、声が大きくなる。お隣まで聞こえそうだと思いながらも、彼の声が聞きたくて黙っていた。
「岸辺さん……もう、イく……ん、んぅっ……！」
　井川さんが苦しそうに腰を擦りつけてきた。彼の雄をみれば、ぎちぎちに膨らんで先走りとローションで陰毛が濡れている。エロい光景に、内部にいる自分がさらに膨張した。自分がイく前に井川さんの雄を右手で上下に強めに扱いた。井川さんが何かを叫んだが、聞き取れず、イく瞬間に井川さんの体中が力強く俺に吸いついてきた。
「は、あぁ、あぁぁ……！　あっ……くっ……！」
　井川さんの内部が締まりにしまるので、俺もすぐに後を追うようにイってしまう。井川さんの頭を左手で抱えこみ、右手でシーツを握りしめる。下半身からの快感は背中を通って体中に分散する。ゴムの中に吐き出される欲望を、なおも井川さんが締め付けてくる。気持ち良くてさらに腰を振った。井川さんの体から力が抜けて布団に横たわる、俺もそんな彼の上に覆いかぶさり、息をついた。
「井川さんのなか……きもち、いい……」
「俺に挿れて気持ちいいなんて、……岸辺さんだけですよ……」
「井川さん、声かれてますね」
「明日は、一時から仕事です……ふふ、大変だ……」
　汗で濡れた彼の頭を撫でていると、井川さんが目をつぶり寝息をたてはじめた。しばらく相手の黒髪を弄ってから、情事後の後始末をする。チンコからゴムを抜いて捨てたり、井川さんの尻をティッシュで綺麗にしたり。すべてが片付いてから、ようやく彼の隣で寝ることができた。眠る前に時計をみると、すでに夜中の十二時を回っていた。十九日、赤木しげるの命日まであと七日だ、心の中にひたりと冷たいものが垂れてきた。嫉妬を抑えつけるように枕に顔を押しつけ、乱暴に目をつぶる。疲れた身体は、正直に眠りについた。
　そうして、浅い眠りから目覚めたのは、六時間後。外からの眩しい光に目を細めながら、顎ひげを撫でる。尿意をもよおしたせいで目が覚めたらしく、二度寝も上手くいかないので、諦めてトイレへ向かった。朝の小便欲を満たしてから井川さんの眠る布団に戻ろうとした。そのときに、部屋の隅でコトリッと何か軽いものがぶつかる音を聴いた。音のしたほうに目を向けると、それは例の秘密を隠した箪笥。布団を飛び越え、箪笥の前で立ち止まる。昨日までは開けようとは微塵も思わなかった引き出しに、手をかけていた。昔の恋人の写真かもしれない。それならまだいい。昔の人のことを、自分が忘れさせればいいだけの話だ。だが、違うという確信があった。この中に、それではない、もっと歪なものがしまってあると、どこからともなく確信がやってきた。秘密を覗くこの行為、果たして興味からなのか、嫉妬からなのか。きっと、二つの感情が混ざっていた。

　俺は引き出しを開けた。

「あ……」

　驚愕の声ではなく、拍子抜けして声が出た。引き出しの中は手帳やフィルム、何かが入っている封筒が雑多に並べられていた。しかしそのなかで、右端に転がる白い物が目を引いた。それを手にとってみると、軽いが硬い感触。鉄ではないし、木でもない。大きさは手の平で握りこめるほどの欠片、丸くはなく凹凸がある。手触りはさらりざらりとしている。なんだろうか、これは。なんだろうか、なんだろうか、なんだ……？
「なに、してるんですか……？」
　とつぜん声をかけられたので、手にしていたそれを落としそうになった。引き出しに集中していたせいで、井川さんが起きていることに気付かなかった。裸で立ちあがった井川さんの目が、大きく見開かれている。困惑と憤怒の色がうかんでいた。
「あ、井川さん、これは、あの……！」
　弁解をすることが無駄であると知りながら、何か云わなければならない使命感に駆られて口を開いた。しかし、井川さんがそれに聞く耳を持たずに、俺の腕を掴んでくると、右手に持っていた白いそれを奪い返してきた。本気で怒っている井川さんを見るのは初めてだったので、謝罪の言葉も出てこない。そんな俺にとって代わり、井川さんが怒鳴った。
「帰ってください……！」
　俯き、手の平のそれを力の限り両手で握りながら、井川さんの声は震えていた。俺が戸惑っていると、もう一度「帰ってください」と今度は小さく消え入るような声で突き離された。俺はようやく「すいません」と謝ってから、昨日脱ぎ散らかした服を着ると、玄関に向かった。井川さんはこちらに背を向けたままで、立ちつくしている。声をかけても無駄だと悟り、俺は彼の家を出た。
　気持ち悪い太陽の光に目を細める。駐車場まで行き、車に乗り込んでから頭を抱えた。
「なっにしてんだ、俺は！」
　そして、右拳でもって自分の頬を何度か殴った。俺は、井川さんの悲しい顔を見たいわけではない。では、何故あの隠されていた彼の秘密を見てしまったのか。醜い、自分の浅はかな本性が醜い。嫉妬だ、嫉妬。嫉妬だ、もしあれが写真であったところで、それをみたのは嫉妬でしかない。彼の過去に嫉妬した自分に、またも拳をいれた。
「あぁ～どうすんだよ……」
　一時間経っても、心がざわざわと落ちつかない。しばらくの間は彼に逢うことは叶わないだろう。時計をみればまだ朝の八時にもなっていない。舌打ちをした。
　謝るのは当分してからだ。きっとこちらから連絡をいれたところで、応じてはくれない。自分の神経が逆立っているので、一服をして気を落ち付かせる。そして、先端の火が限界まで燃えたときに麻雀を打つことに決め、眉間に皺を寄せたまま、高田馬場へ車で向かった。あそこなら、朝からやっている雀荘を知っている。
　コインパーキングに車を止めて、何度か行ったことのあるその雀荘に顔を出した。昨夜から打っていた数人の男たちが眠そうに目をこすっている。受付で一名だと告げれば、「兄ちゃんここはいんなよ」と早起きでやって来ていた老人三人の卓へ誘われた。
「緑の兄ちゃん、容赦はせんぞ」
　相手が強いか弱いかは関係ない。ただ麻雀によって気分が落ちつけばよかった。老人三人は知り合いらしく、話をしながら局は進んだ。最初こそ八つ当たりのように荒々しく打っていた俺も、老人たちののんびりとした雰囲気に呑まれて行き、しだいに自分のペースを取り戻していく。
「兄ちゃん、また上がりかいな」
「すいませんね」
「たく、あんたは年上を敬うってことを知らなきゃいけねぇぞ」
「はは…」
　軽口すら、今は気分がまぎれる。俺が親の番となり、ツモった牌は〈白〉。それを切ろうとしたとき、いつもの癖で骨は釣れるか骨はェ～と、「野ざらし」の一節を唱えていた。その瞬間に、俺は背筋が凍りつくのを感じた。

（あれは、骨じゃないか……？）

　切った〈白〉をいつまでも離さない俺に、老人達が「どうした」と心配そうに声をかけてくる。なんでもないですといいながら、その指先は震えていた。
「どうした兄ちゃん、昨日の飲み過ぎが今になってきたんか？」
「は、はは、そうかもしれません……」
「なんだい、酒に飲まれちゃいけねぇ。まぁだ、若いくせにあかんな。わしなんて、ほれ下もぎんぎんで元気でいかんわ」
　老人たちが下ネタで盛り上がっている声が遠くに聞こえる。自分の考えの馬鹿らしさを笑い飛ばしたいが、額に汗がにじんだ。
「あの、一つ、聞きたいことがあるんです……」
「あ、なんだい？」
「俺の麻雀打ってる友人が、白い小さな物を隠しもってたんです。白くて、ごつごつしてて、材質は木でもプラスチックでもなくて……あ、大きさは、これ、これくらいなんです……！」
　そういって、俺は切ったはずの〈白〉を手の平において、老人たちに見せた。
「それって、何だと思いますか……？」
　自分でも阿呆な質問をしていた。それでも、この答えを自分で見つけてしまった恐怖に、誰かを巻き込みたかった。そして、違う答えを与えてもらいたかった。しかし、老人たちは盛大に笑った後に言ってのけた。
「それは骨だろ」
「え……」
「悪鬼は骨に集まる。兄ちゃんだって、これに魅せられてはまったんだろう？　なら、そらぁ骨だ」
　老人の一人が俺の持っている〈白〉を指差し笑った。しかし、俺にとっては笑えない冗談だ。俺は「気分が悪いので」といって、〈白〉を卓に戻し席を立った。背中に「冗談だよ」という老人達の笑い声がきこえてきたが、それに振り返ることもできないくらいに、体が震えていた。車に戻ってから、またも頭を抱え込んだ。あれは本当に骨なのだろうか。そればかりが気になった。そして、もし骨だとしたら、どうして骨を井川さんが持っているのか。疑問が残る。
　昨夜の井川さんの言葉を思い返そうとするが、はっきりとは覚えていない。あそこに入っているのが、赤木さんの墓石ならよかった。それの方がまだつじつまが合う。そして、そこまで考えて、誰の骨であるかの答えに辿りついてしまった。
「赤木しげる……」
　あれはおそらく赤木しげるの骨。しかし、いやいやいやと頭を振った。どうして井川さんが赤木さんの骨を持ってるんだ。赤木さんはちゃんと成仏したんだから、それでいいじゃないか。その骨を持っている意味が、井川さんにあるのだろうか。
　どうどうめぐりの答えしか出てこない。車の中で悩みに悩んでいたとき、時計を見ればすでに十三時を過ぎていた。井川さんは一時から仕事だと言っていた。おそらく、確かめるには今しかない。俺は覚悟を決めて井川さんの家へ車を飛ばした。
　井川さんの家に着いたのは十四時過ぎ。彼の家へ勝手にお邪魔することは初めてだった。合鍵はもらってあるし、いつでもどうぞと言われているが、今日の下心満載の状況では、泥棒の心境であった。鍵のかけられたドアをあけて、中に入る。窓が閉め切られているので、部屋の空気はよどんでいた。靴を揃えて「お邪魔します」と無意味なことをした。
　居間には昨夜の布団が敷かれたままだ。それを横目に、あれがしまってある箪笥の前に立つと、今朝と同じように、右手で取手を掴む。しかし、そのときになって、井川さんが引き出しにあれをしまい直しているのか、という疑問がわいた。ここまで来たが、なかったらなかったで諦めるまでだと、引き出しを開けた。同じように、乱雑に物がしまわれている。そして、例の物も同じようにして引き出しの隅で息をひそめていた。
　今朝よりも落ち付いてそれと対峙する。見た瞬間に、これは骨だと直感している自分が不思議でならない。右手でそれを手にとり、硬さや大きさを確かめる。実物の骨を見たことはないが、博物館で動物の骨はみたことはある。骨はもっと硬くて重いものだと思っていた。たしかに硬いが、軽い。大きさのせいもあるかもしれない。これがかつては人間の形を作っていたそれなのだろうか。
「やっぱり、赤木さんの骨かな……」
　他に思いつく相手はいなかった。そのとたんに、胸の奥で熱い物がわきあがってくるのを感じた。嫉妬だ、嫉妬が心臓を鷲掴みにしてくる。嫉妬に駆り立てられるような人間ではなかったはずだ。雀士たるもの、いつだって感情に流されてはいけないと言われてきたし、自分でも自覚していた。自分は感情的になりやすい、だから落ちついてその場を受け流さなければならない。その悪い癖がでた。俺は、赤木さんの骨かもしれないそれを握りこむと、井川さんの家を飛び出した。鍵を閉めてから車に戻るまで、心臓の動悸が激しかった。運転席に腰をおろしてから、骨を握っていた手の平を開く。そこには骨があった、井川さんが大事にしていた骨があった。
　三カ月付き合った恋人が、骨を大事に隠し持っていたことを、気持ち悪いとは思わなかった。骨は冷たく、何も言わない。これを俺が勝手に見つけたことに加え、それを持ち去った事実を井川さんが知ったら、なんと思うだろうか。おそらく、しばらく口を聞いてくれなくなるどころか、別れようと言われるかもしれない。返しに行きたい、だが返しに行きたくない。これが赤木さんの骨だということで嫉妬しているところもあるが、何よりも嫌だったのは、これを見つめていたときの井川さんの眼差しだ。彼が遠くを見つめるとき、彼の目には悲哀が浮かぶ。彼の悲しみの元凶を、どうして返せるだろうか。しかし、今俺がしている行為は立派な盗みであり、自己満足だ。
「駄目だ。返しに行こう……」
　しばらく身もだえしてから、意を決して再び井川さんの家へ戻ろうと車から出た。そのとき、遠くからこちらへ歩いてくる井川さんの姿を見つけて、慌てて扉を閉め、窓から外の様子を覗く。仕事ではなかったのか、人影はやはり青いスーツ姿の井川さんだ。今から急いでも、彼より先に部屋に入って骨を返すことはできない。彼が二階への階段を上がっていき、部屋に入るのを見届けてから、車を出した。
「後戻り出来なくなった……」
　車を適当に走らせているうちに、絶望に背中を押されて泪が両目から溢れてきた。ガソリンがなくなりそうだったので、近くのガソリンスタンドへ行き「レギュラー満タン」と言って一万円札を店員に渡した。相手は俺が泣いていることに驚きつつも、黙って仕事をこなす。釣りを受取ってから、車をだした。行くあてもないから、海が見たくなってお台場へハンドルをまわした。
　今頃、井川さんは骨を探しているだろうか。そして、敏い人だから、「岸辺さんが盗んだのかもしれない」と、犯人を特定しているだろうか。すいません、井川さん。あなたを好きな岸辺忍は、あなたにとって最低な人間になり下がりました。
　お台場の海浜公園にやって来ると、駐車場に車を止めた。そして、少し歩いて砂浜に行き、海を眺める。砂がさっそく革靴の中にはいった。水平線を見つめれば、すでに日は沈みかけている。
　その場に腰をおろし煙草を口に咥え、火をつけ紫煙を吐き出す。井川さんと別れるイメージしか浮かばない。どうして俺は彼の大事な物を盗んでしまったのか。盗まなければ、きっと井川さんはこれが何であるか、後から教えてくれたのではないか。いや、なかったことにされたかもしれない。どちらにしろ、もう後には戻れない。
　右ポケットを探れば白くて硬い物に触れる。こいつのせいで悩んでいながら、それを握っていると、気分が次第に落ち着いていく。温もりはなかったが、手の平の温度が伝わって、優しい熱を帯び始めた。
「返そう、それでいい。それしか方法はないわけだ……」
　沈んでいく夕陽に感傷的になりながら、そう決意する。謝る以外に何ができる、それで彼に嫌われたところで自業自得だ。砂浜をけって車へ戻った。だが、井川さんの家へ戻る前に、これが赤木さんの骨ならばと一路を彼の墓地へ変更した。
　門をしめるぎりぎりの時間に、彼の骨が安置されている寺へ着いた。急いで車を止めて、目の前のコンビニで煙草を買って墓へと急ぐ。空は紫から藍色へと変わり、墓地内で人影をみつけることができない。彼の墓前へやってくると、まずは煙草を供えて、それから骨の欠片をその隣に置いた。手を合わせようとする前に、線香がないことに気付いて、仕方ないから自分の煙草に火をつけて、それを線香置きへおいた。
　鴉が鳴き交わしている、吹いて来る風が生ぬるい。彼岸花の赤が揺れているのを視界の端にとらえた。
「骨を盗んですいませんでした。それから、どうか井川さんと仲直りできますように……」
　神社でもあるまいに、何故か自分の願望を亡き人、赤木しげるにぶつけていた。閉じた目に力を入れ、重ねた手の平にも力をいれて念じる。生ぬるい風が吹いているせいで、背筋に嫌なものがはい上がって来る感覚がした。煙草の匂いがやけに鼻につく。それに混じって、潮の薫りがする。風の音がうなって聞こえるのに、実際に吹いている風は肌を撫でる程度。海の音に聴こえる、先ほど聴いてきたばかりの、海から吹く潮風の音にそれは似ていた。そうして、風の音は最初こそ強かったものの、しだいに弱まっていった。
　周囲が静寂を取り戻したとき、ようやく目を開けた。おそらく一分ほど念じていたようだ、墓地にある街灯の光ですら視界に眩しい。だからこそ、目の前にいる人間に対して、最初は目の錯覚だと思った。「赤木しげる」と彫られ、角は削られてぼろぼろの墓石の上で、優雅にあぐらをかいている男がいる。その男は愉快そうに笑いながら、墓石の上から俺を見下ろしていた。
「え……」
　目をこすり何度か瞬きもしたが、そいつは消えない。消えないとわかってから第一に思ったことは、変なところに座っている器用な男だなということ。第二に、どこかで見たことのある男だと思った。第三にしてようやく、人の墓石に座って失礼なやつだと思い、「おい、あんた！」と相手を指差した。
「それを誰の墓だと思ってる！」
「兄さん、名前は？」
「あん……？」
「名前はなんだって聞いてる。聞かせてみな……」
　その男は煙草を咥え、煙を美味そうに吸っては吐いている。たかが煙草ながら、ここまで様になる人間を、俺は知らない。白髪に不健康そうな肌の色。虎柄のシャツに、白いスーツ。口元に浮かべた笑みは温和そうに見えるが、鋭い眼光が全てを暴くように射ぬいてくる。不貞野郎だが、相手の無言の気迫に圧倒された。
「き、岸辺忍……」
「どっかで聞いたことのある名前だが、はて、どこだったか……」
「そ、そういうあんたは、どうなんだ！　あんたの名前は！」
「俺かい？」
「あんたしかいないだろう！」
「ククク……名を尋ねられたのは、久しいな。年ィくったら、みんながみんな、名前を勝手に覚えてやがる」
「は？」
　男は墓石の上で立ち上がり、さらに天上から俺を見下ろした。彼の背後には白い満月が浮かんでいる。夜の光に照らされた、男の見事なまでの白髪が、狂気を誘って呼吸を忘れさせる。
「遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見なァ。俺の名は、」
　その男が名乗る寸前、俺は相手が誰であるかと思い出した。あぁ、この男は。この男は。俺はあんたを、写真でみたことがある、あんたは、
「あんたは……っ！」
「兄さん、俺の名は赤木しげる。覚えておきな……」
　赤木しげる、その男は確かに自らをそう呼んだ。

四、

「おい、あんた。大丈夫かね。おい、お～い」
　最初は優しげに頬を叩かれていたが、しだいにその力が強くなり、しまいには頬をつねられたので、「いてっ！」と悲鳴を上げながら目を覚ました。起きたとたんに、視界いっぱいに禿げたおっさん。そいつが俺を見下ろし、頬をつねっていた。白髪の男ではない、まずはそのことに驚いた。
「昨日からずっと駐車場に車止めてたのはあんたか。いかんよ、こんなところで居眠りは」
　相手は袈裟をつけている、このおっさんがどうやらこの寺の坊主のようだ。しかし、何故俺が赤木しげるの墓前で仰向けに倒れていたのか、それは俺にも分からない。石道で一夜を過ごした俺の体は、これでもかと凝りかたまっており、立ち上がるまでに時間を有した。枕が変わっても熟睡できる体質だが、さすがに石の上で長時間眠れたことは感心にあたいする。坊さんに頭を下げて車に戻り、暖房を最強にして体を温めた。今が冬ではなかったことが、不幸中の幸いか。鼻水が垂れて、くしゃみも飛び出た。
　目覚めたばかりでぼやけていた記憶も、しだいに鮮明になっていく。井川さんに許してほしいがために、奇妙な夢を見た。赤木しげると名乗る男が、墓のてっぺんに立って、俺に名乗りを上げていた。それからの記憶はないが、おそらくそれは夢の話だ。ストレス性なんとかってやつで、きっと手を合わせている時にでも倒れてしまったに違いない。体の節々が痛いだけで、頭は打っていなかった。
　しばらくすると、体がようやく温まってきた。指先を動かせるほどに回復したので、車を走らせる。しかし、一つ目の交差点を過ぎてから「あっ！」という悲鳴をあげた。井川さんに返すはずの赤木さんの骨を供えたままにしてしまった。ハンドルを切り、Ｕターンをした。
　寺へと戻ってきたはいいが、先ほどまで止めていた車がまたやってきたら、坊さんに何か小言を云われるかもしれない。渋面を作っていれば、寺の近くにコインパーキングがあることを思い出した。そこに止めれば文句もあるまい。それから坊さんに見つからないように、赤木さんの墓まで行けばいい。途中にある歩道橋を渡るのは面倒くさいが、致し方ない足労だ。
　目的のパーキングエリアに車を止めて、歩道橋を渡る。階段を上がって向こう岸への道すがら、携帯電話が鳴った。意外と人通りが多い橋なので立ち止まり、欄干に寄りかかりながら電話に出た。電話は明後日の仕事に関する、ヤクザからのものだった。
「はい、岸辺です。あぁ、はい……はい、そちらの件に関しては今日中に電話をしようと、」
　橋下をみれば、車の通りも多く、タンプカーの通り過ぎる震動が先ほどから歩道橋を揺らす。ここからおちたら一巻の終わりだろう。呑気にそんなことを考えていたとき、
「よう、兄さん」
「うわぁっ！」
　目の前に、人間の顔が逆さまに浮かんでいた。
　そして、驚いたひょうしに、右手にもっていた携帯を落としてしまった。やばいと思ったがすでに遅い。それは下の道路に落ちて、肉眼でも確認できるほどに、複数の車によって滅茶苦茶に踏みつぶされてしまった。
「あぁ、俺の携帯！」
「なんだ、携帯なんてもん持ってんのかい。あれのそばにいるとぴりぴりしていけねぇ」
「は、あ、え……？」
　携帯をつぶされた道路から、声のする右隣を見る。すると、昨夜の夢に出て来た「赤木しげる」と名乗った男が、欄干の手すりを綱渡りするかのように立っていた。靴は履いていない、裸足が今の季節では寒そうだ。
「あんた、そんなところにいたら危ないだろう！」
「あぶなくねぇよ。それより、あんまり騒ぐと変に思われるぞ」
「はぁ？　そんな所に立ってるあんたの方が変人だろうが！」
　俺は「赤木しげる」に手を差し出したが、相手は俺のことを無視して手すりをすいすい先へ先へ進んでいく。その後を追いかけながら、「降りろ」と命令するが相手は聞く耳を持たない。ここで不思議なことが起こった。欄干を伝って渡るこの男に、誰ひとりとしていぶかしげな視線をよこさない。その代わり、俺を遠巻きに見つめて去っていく。おいおい、おかしいのはこの派手な虎柄シャツのおっさんだろう。しかし、無言の訴えも視線があえば逸らされ、その間に謎のおっさんは足早に橋を渡っていく。
　「赤木しげる」がようやく欄干の端まで来たときに、俺は観念しろとばかりに再び手を差し出した。
「ほら、掴めよ、おっさん！」
「あ～いらねいらね。心配するだけ無駄だ」
「あのな、そんなとこいたら、落ちて死ぬぞ！」
「試してみるか」
　相手は悪戯好きの糞餓鬼のように笑うと、バンジージャンプの要領で勢いよく欄干から飛び降りた。人の自殺を目の前にして、脳しょう飛び散る死体なんかみたくないのに、勢いで橋の下を覗いてしまった。だが、俺の携帯は肉眼で見えた高さのはずが、白髪の男の死体は道路のどこにも見当たらない。
「な、なんだ……？」
　驚いて欄干から一歩退いた直後に、「だから言ったろ」とまたも逆さまになった顔が俺を覗きこんできた。声にならない悲鳴をあげてその場に尻もちをついた。今飛び降りたばかりの男が目の前で空中に浮いている、しかも重力を無視したかのように逆さまになって。相手は空中反回転をしてから、地面に着地した。
「おい、兄さん。珍しいもん見て、腰が抜けたか？」
　「赤木しげる」は、先ほど俺がしていたように、右手を差し出してくる。だが、俺は恐怖のあまり、歯の根が合わず、がちがちと音をたてる顎を抑えることしかできない。こちらの様子がおかしいと気付き、「おい」と男が声をかけてきたとき、俺のキャパシティは限界を超えた。震える足で立ち上がり、階段を転がるようにして駆け下りると、駐車場へ走って逃げた。
　車に辿りついてからも、ポケットから出した鍵をうまく挿せずに背後ばかりを振り返り、男が追ってきていないか確認をする。車に乗り込むと扉をロックし、荒い呼吸を鎮めるため深呼吸を繰り返す。逆立っていた神経がふだん通りになったころ、先ほどの非日常への疑問が次々に湧いてきた。いや、待て待て。俺は幽霊の類が見える人間ではないし、盲目的に信じているわけでもない。おそらく、おそらく、というか昨夜、俺は頭を打ったに違いない。それの後遺症だ、そうに違いない。それ以外に答えなんてないし、それが一番納得のいく答えだ。げんに吐き気もするし、寒気もするし、なんとなく頭が痛い、なんとなく。
「幽霊とかいるわけねぇだろ！　よし、俺は大丈夫、大丈夫だ！」
「なんだ、お前幽霊とか見える方だと思ったんだが」
　そのひょうひょうとした声は、先ほど聞いてきたばかりのもの。冷や汗をかきながら、おそるおそる助手席をみると、白髪の男は退屈そうに欠伸をしながらシートにもたれかかっていた。
「あ、あ、あ、……あんた、どっから……？」
「上から」
「ふ、ふぉ、不法侵入だぞ！」
「良い車乗ってるな」
「だ、だから、つまり、出ていけよ！」
　さすがにかっとなってしまい、俺は「赤木しげる」と名乗った男の肩を掴もうとした。しかし、その手はくうを切り、バランスを崩した俺の体は助手先に倒れ込んだ。その瞬間に、体が水の中にとびこんだような冷たさに覆われた。急いで起き上がり運転席の方へ戻って体に触れてみるが、どこも濡れていない。なんだったのかと隣に座る男を見れば、相手のつまらなそうな目とかち合った。
「あんた……何なんだ？」
「さっきからあんたあんた。あんたって名前じゃねぇな。昨日教えただろ、名前……」
「あ、……赤木しげる」
「そう、赤木しげるだ」
「あの、………もっかい触っていいですか？」
「好きにしな」
　相手に許可をとってから、もう一度彼の肩に触れようとした。しかし、右手は彼の体を通り過ぎていく。よくみれば、赤木さんの体は透けているせいで、向こう側がわずかに見通せた。自分のおかれた状況への理解が追いつかないせいで、顔が引きつったままだ。赤木さんにひと言断ってから、自動販売機で珈琲を二つ買ってきた。
「あの、これ飲みますか？」
「死んだやつが飲めるわけねぇだろ」
「で、ですよね……」
　俺だけが無糖の珈琲を呑みほして、気合をいれた。苦い味がして、無性に煙草が吸いたくなったが、いまだ一服の余裕がない。口元に拳を添えて二回ほど深呼吸をしてから、膝を叩く。
「あの、あなたは赤木しげるでよろしいんですよね？」
「ん、そうだな」
「一九九九年の九月二十六日に死んだ、あの赤木しげるさんで、よろしいんですよね？」
「だから、そうだって言ってるだろ」
「そしたら、単刀直入に聞きます」
「おう」
「なんで、俺に化けて出たんですか？」
「そんなことしらねぇよ。お前が呼んだんだろ？」
「俺は、赤木さんのこと呼んでません」
「そしたら分からん。気付いたらあそこにいたんだよ。見ものだったぜ、俺を見た瞬間にお前気絶したんだ。覚えてるか？」
　くくく、と口元を隠して笑う男が、自分にとっての「赤木しげる」のイメージを裏切っていく。たしかに、井川さんの見せてくれた「赤木しげる」と姿は瓜二つ。眼光の鋭さも、背後に漂う気迫も感じられるが、巷じゃ悪漢と呼ばれていた男だ。もっと、こちらを噛み殺すくらいの男かと思っていたのに、飄々としているせいで、ややガッカリしてしまう。
　しかし、まだ幽霊と決まったわけではない。俺の妄想の産物の「赤木しげる」かもしれない。が、結局のところ井川さんの悩み事に加えて、幻覚まで見える問題を抱えてしまったことになる。そこまで考えて、重要なことに気がついた。
「あ、骨……！」
「骨？」
「赤木さんのお墓に供えてたやつですよ、さっき取りに戻ろうとしてたんです！　いかねぇと！」
「そしたら、お前の右ポケットに入ってるぞ」
「え……」
　赤木さんに言われ確認してみると、指先に冷たい物がふれた。取り出してみれば、それは井川さんの持っていた骨だった。無くしていなかったことに安堵し、溜息をつく。
「良かったぁ～。井川さんを悲しませないですむ……」
「井川……お前、ひろの知り合いか？」
「え、はい」
「ほう。ひろは元気か？」
「あれ、井川さんがお参りしてるの、見てないんですか？」
「こちとら成仏してたんだ、こっちにいるわけねぇだろ」
「あ、そうですね」
「それは俺の骨だな。ひろが持ってたのか？」
「そうなんです。けど、俺が盗んじまって……。だから、井川さんにこれを返しに行くんです、今から」
「どうして返す必要がある？」
「だって、盗んじまったから……」
「どうして盗んだ？」
「そ、それより、赤木さんは成仏しなくていいんですか？」
「だから、俺は成仏してたんだよ。それをお前が呼んだんだろ？」
「俺は、別に呼んでませんって」
「そしたら、その骨と関連があるんじゃねぇか？　お前、ひろに謝ったところで、すっきり仲直りできるなんて顔してねぇよ」
「はは……」
「心のなかに未練がある。未練たらたらだ。案外、兄さんのその未練が俺を呼んだのかもな……」
　赤木さんがまたもくつくつ笑うので、俺はもう一つの缶珈琲も開けて呑んだ。朝から何も食べていない胃に珈琲だけは、結構辛いものがある。しかし、味を感じることで五感が冴えてきた。俺は「未練」という言葉に、気になっていたことを尋ねてみた。
「俺、井川さんから聞いた話で、そこまで知ってるってわけじゃないんですけど……赤木さんにも未練はありましたか？」
「あぁ、あったな」
「原田さんに、三パーセント生きたいって言ってたんですよね。あれって、赤木さんにも未練があったってことですよね？」
「はは、どんな潔い人間だって、死ぬ時には少しくらいは生きたいもんだ。だが、俺が原田にした話は、別に生きたい人間の話じゃない。ただの、俺の昔話をしただけだ」
「じゃ、赤木さんに未練はないんですか？」
「未練か……無念ではあったが、未練までは考えたことはなかったな……」
「はぁ……」
「兄さん、お前は生きてる。なら、どうせ暇だろう。俺が成仏する方法が見つかったかもしれねぇから、ちょいと付き合え」
「え……」
「なぁに、ちょっくら時間貸せっていってんだ。返せるかはわからねぇがな……」
「でも、俺仕事が……」
「俺に一生つきまとわれるのと、しばらくの付き合い。どっちを優先する？」
　彼とまだ出会って一時間も経っていないが、すでに主導権を握られていることは。ため息をついて、分かりましたよと頷く。携帯がないから、二件の仕事に断りをいれるため、いったん家に帰ることにした。携帯がないことを不便と思いながら、井川さんへ連絡を取る手段がなくなったことに、少しだけ救われている自分がいた。
　赤木さんは助手席に座って楽しそうに煙草を吸っている。彼の吸っている煙草もまた透明であり、煙も透明。しかし、匂いは漂い、車の中がヤニ臭くなった。
　「面白い話をしろ」と言ってくるので、自分が何者であるかの説明をした。井川さんとは知り合いで、彼の世話になっている者である。代打ちとしてまだ若輩であるが、その末端を担っている。俺が麻雀を打つと分かったとたんに、赤木さんは嬉しそうに紫煙を俺に吹きかけてきた。
「お前と打つのが楽しみだな」
「赤木さん幽霊だから、一緒に打つのは無理だと思いますけど……」
「はは、それもそうだ」
　彼がいまだに自分の作りだした幻ではないかと疑ってしまうが、ここまでおしゃべりな幻覚があっていいものか。しかし、幻と呼ぶには指先に感じた冷たさが、あまりに鮮明であった。隣に座る男は赤木しげるの幽霊。それなら、井川さんに逢わせたい。井川さんに逢わせて、彼が赤木さんに言いたかったあれやこれやを言ってほしい。
　しかし、残念ながら井川さんとは大変危険な状況となっているので、最後の最後、赤木さんの我儘が終わった最後に、彼に井川さんと会ってくれるよう頭を下げよう。井川さんにだって、きっと赤木さんが見えるはずだ。赤木さんをダシにして許してもらおうとは思わなかった、ただ、彼の悲しそうなあの眼差しに終わりがあるなら、終わらせたい。
　俺のマンションにやってきた赤木さんは物珍しそうに部屋を一周すると、すぐに飽きてしまった様子で、リビングにあるソファでまた煙草をふかしだした。あの煙草はどこから出てくるのか不思議に思いながら、こちらは用事を済ませてしまう。仕事先の電話番号は、用心して手帳にメモしてある。一件目はすんなりと断れたが、二件目はややご立腹で、代わりの者をよこせと言ってきた。仕方ないので、代打ち仲間のＡに電話をして仕事を回せるか頼んでみた。
「岸辺が仕事をまわすなんて、初めてだな」
「そうか？」
「お前が真面目だって褒めてんだ。わかった、その仕事受けさせてもらう」
　Ａに今度何かおごろうと言って、仕事先の怖いお兄さんに電話をかけ直し、代わりが見つかったことを報告する。「今度こんなことがあったら、ただじゃおかねぇぞ」と脅されてから電話は切れた。
「ケチな奴と付き合ってんな」
　電話をしている間に、赤木さんが背後に立っていた。聞かれて悪いこともないが、何故か後ろめたい気持ちになってごまかすように無意味にメモ帳をめくり、電話番号を探すふりをする。
「俺は赤木さんみたいに強くありませんから、こうやって仕事がまわってくるだけでもありがたいんですよ」
「お前、真面目だな」
　紙を繰っていた手が止まり、背後にいた幽霊をじろりと睨んだ。
「……麻雀できたら、それで幸せなんです」
　赤木さんは特に反応することなく、またもソファで煙草を吸い始めた。全ての連絡伝達を終えたころには、十四時を過ぎていた。時計を見ると同時に腹が鳴ったので、家にあったパスタを大量に茹でる。それにバターを溶かし混ぜ、醤油を自分好みにかけて鰹節と海苔をまぶせば完成。ソファは赤木さんに占領されているので、テーブルについてフォークに麺を巻きつけると、遅い昼食をとった。作るのに十分もかからないので、腹が減ったときによく作る。食べ始めてすぐに赤木さんが俺の対面にやってきた。そして、不服そうな顔で「もっと美味いもん食ったらどうだ」と、呆れたような溜息と共に小言を漏らした。
「意外と美味いですよ」
「今時のわけぇもんは、そんなのばっかり食ってんのか？」
「買いに行くのが面倒臭いんです」
「出前でも頼め」
　井川さんの話を事前に聞いていたせいか、それとも彼自身の人柄のせいなのか、彼の言葉に嫌味は含まれていないと感じた。しかし、安っちぃパスタを全部食べる俺と、夜中に河豚刺しが食べたいと言っていたくせに、いざ頼んだら一口でもういらないという赤木さんは、ある意味どっこいどっこいではないだろうか。思っていても本人には言えないことだが、本能のままというか我儘というか。
　我儘といえば、俺ばっかりが井川さんに我儘を言っていたような気がする。今から電話してもいいですか、今から逢えますか、今からキスしてもいいですか。付き合う以前、井川さんの印象は淡白でしっかりした人だった。しかし、それは井川さんのほんの一面でしかなく、彼の家に初めてお邪魔したときは、部屋の散らかり様に絶句したものだ。
彼を知れば知るほど、どこか抜けていることころを見つけたが、それに対して自分は一度も裏切られたとは思わなかった。むしろ、彼の知らない部分を知るたびに、さらに好きになっていった。麻雀をしている井川さんと、麻雀をしていない日常の井川さん。どちらも彼であるが、前者は追いついて触れようとすれば指先に火傷を負い、後者は触れることを自分からためらってしまう。
　付き合う前は俺が年下であり井川さんの性格も相まって、他人行儀にやきもきすることが多かった。だから、恋人同士になれた夜には、彼がもっと我儘を言ってくれると期待していたが、実際はどこか線引きされている距離に戸惑った。井川さんも俺を好きだと言ってくれた。しかし、それは俺の押しに負けたからではないだろうか。彼に自分の気持ちばかりを押しつけていた気がする。彼を慕い、彼を支えようと決め、彼を裏切り、彼に頭を下げ、また彼のそばにいる自分。井川さんの思いはここにあるが、時々が分からず恐ろしい。愛することは簡単だが、相手に愛してもらうことは難しくて臆病になる。
　パスタを全部食べきったはいいが、不味かった。
「兄さん、次はもっと美味いもん食えよ」
「俺のことはいいんです。それより、赤木さんの話をしましょう」
「俺の……？」
「赤木さんの未練とはなんですか？　天さんと麻雀対決ですか？　それとも、原田さんと打ちたいんですか？　いわずもがな、井川さんとはただいま大変な関係になっているので、井川さんと打つのはちょっと難しいところですから、しばらくお待ちください！」
「いや、あいつらとは確かに別れた。だからいい」
「そしたら、昔の女に会いたいってやつですか？」
「抱いた女はみんな、遠くに置いてきたよ。なに、明日でもいい。ひとつ、俺のいう居酒屋で酒を呑んでほしいだけだ……」
「え……それだけでいいんですか？」
「あぁ」
「そしたら、お言葉に甘えて、明日にさせて頂きます。さすがに色々あって、今日は疲れました」
「わけぇもんが、年よりみたいなこと言ってんな。まぁ、俺はいつでもいい。ゆっくり行こうぜ」
　時間にしてまだ昼間の十五時だが、何故か強い睡魔に襲われていた。一応、墓地で眠りこけていたはずなのに、あまりの眠気に耐えかね寝室に行きベッドで爆睡した。目をつぶり眠りに落ちる寸前、俺の枕もとに立っている赤木さんが、「つまらねぇ」とぼやいているのを最後に聞いた。

五、

　枕元にあるデジタル時計を見て一瞬首を傾げた。俺が寝たのは二十日の十五時のはずだが、起きると時間がまったく進んでいない。時計は十五時を指している。おかしい、もしかして、赤木さんの幽霊と出会ったなんて非現実的なことは、やはり夢だったのだろうか。
「よう、起きたか」
　だが、寝がえりをうった俺を、宙に浮いている赤木さんが覗きこんできたことで、昨夜のことは夢ではない現実を突きつけられる。試しに右手を伸ばして彼の左肩に触れてみると、氷のように冷たい。背筋が震え、ようやく頭が覚醒した。
「あぁ……夢じゃなかった」
「相当疲れてたな、二十四時間寝っぱなしだ」
　二十四時間も自分が寝ていたことも驚きだが、さらに惰眠をむさぼろうとする自分の身体にも驚いた。二度寝でも三度寝だって出来そうなほどだが、起きて赤木さんの用事を済ませなければ。布団にとどまろうとする身体を奮起させ、風呂で熱湯にも近いシャワーを浴びて頭をすっきりさせた。
　風呂から出ると腹ごしらえにトーストを焼き、賞味期限が切れているチーズをのせて食べた。すると、赤木さんが思った以上に不機嫌そうな顔でこちらを睨んでくる。
「不味いもん食いやがって……」
「すぐに出かけるんだから、これくらいの軽いもんでいいんですよ」
「俺がお前の年のころには、もっとましなもん食ってたぞ……」
「放っておいてください」
　飯を食い終えると、仕事着である黒いシャツと緑のスーツに袖を通す。それから、右ポケットに入っている赤木さんの骨を握り、硬さを確かめた。目の前の幽霊は俺が骨に触ったところで、嫌がるそぶりを見せない。死んだら肉体と魂は別物になるようだ。
　右ポケットにいつも収まっている携帯をしばらくのあいだ探し、歩道橋から落としてしまったことを思い出すと、溜息をついた。どうりで、静かなわけだ。
「赤木さん、準備できましたよ」
「あぁ、行こうか」
　幽霊とはもっと恐ろしいものだと思っていたが、赤木さんの場合は、恐ろしいよりも貫禄があるといったところか。先に立って浮く赤木さんのあとに続き、駐車場まで行く。だが、彼が目的としている居酒屋の場所を訊ねると、電車で行った方がはやいという結論に至った。一度乗った運転席から降り、駅への五分間を歩いて黄色い電車に乗りこむ。
　夕方のせいか、車内には学生の姿が多く見受けられた。それでも空席は多く、野球部らしき坊主頭の三人組の隣に腰かける。赤木さんは俺の隣に座り、見えない煙草を吸い始めた。
「岸辺、お前なんか面白い話でもしろ」
「いや、そういわれても……井川さんの話でもしますか？」
「面白いのか？」
「いや、どうでしょ」
「お前、俺が江戸時代の殿様だったらどうすんだ。今ごろ切腹もんだぞ」
「すいません」
「ひろの話はいい。ひと目見たほうが早いだろうよ」
「赤木さんは、……その、天さんとか井川さんに逢いたいとは思わないんですか？」
「逢ってどうする？　俺には赤木さんの幽霊が見えているので、なんでも言ってくださいっていうのか？」
「お二人なら、赤木さんのこと、見えると思いますけど……」
「これは仮定なんだが、俺のことを知らないお前に、俺が見えてるってことは、お前と俺の何かしらが重なった証拠だ。それが未練にしろ、後悔にしろ、何かしらで繋がってる。だから、奴らに俺は見えねぇよ……」
　それはないと思った。井川さんだって未練を持っている。あなたを助けなかったこと、助けられなかったことを、いつだって悔やんでいるんですと言いかけたが、俺から伝えるものではないと口を閉じる。自分が赤木しげるの本当の葬式に参加していた一人だとしたら、もっと彼に突っかかることもできる。しかし、悲しいかな俺は他人でしかない。随分遠いところにいる他人だからこそ、自分の立場にやきもきした。隣に座っていた高校生たちが、部活のマネージャーの話で盛り上がっていた。赤木さんが面白そうにそちらへ耳を傾けてしまったので、俺は黙るしかなかった。
　目的の駅には一時間ほどで到着した。途中から荷物棚で寝ていた赤木さんを起こし、電車を降りる。駅名を見ると、初めて降り立つ駅だ。歓楽街というわけではないが、ビルが多いために、サラリーマンたちとすれ違うことが多い。真面目人間たちが通勤している地域らしく、俺みたいなチンピラ風情は悪目立ちをした。いかにも仕事一筋といったサラリーマン数人がこちらを睨んできたが、気にせず赤木さんの後をついて行く。お前らが赤木さん見たら腰抜かすぞってんだ。
「ここらへんに本当にあるんですか、居酒屋？」
「駅からは離れてる。それにしてもここも変わったな。たしか、あそこに美味い豆腐屋があった。それからあっちには、戦後に大きめな賭場があってな。懐かしいもんだ……」
「あぁ～……その居酒屋は知り合いの方がやってるんですか？」
「昔の同僚だ」
「同僚、て……赤木さん、仕事してたんですか！　あの、神域が！」
「俺だって、汗水たらして勤労に励んだ時期だってあるさ」
「まぁ……その人に逢いたい理由はなんとなくわかりました。けど、意外だ。赤木さんが、元同僚っていう人に未練持つなんて」
「あんたの予想では、誰に逢いに行くつもりだった？」
「もっと、なんかこう、永遠のライバルとか？」
　とたんに赤木さんが吹きだし、腹を抱えて笑いだした。
「……もういいです」
「ククク……永遠のライバルか、傑作だな。だが、期待を裏切って悪いな、同僚だ」
「その人に、どうして赤木さんは逢いたいんですか？」
「なに、そいつが俺のせいで賭け事に巻きこまれてな。最後はその勝ち金を渡して別れたんだが、その金で奴っこさんは居酒屋開いたみてぇでよ。そのことを、生前、馬鹿丁寧に葉書送って知らせてきやがって、酒を一杯でもどうですかと、そういうわけだ……」
「行かれなかったんですか？」
「縁があればと思っていたが、こんな形で縁が繋がるとはな……兄さん、酒は強いか？」
「まかせてください」
「風の噂で所帯を持って子供が二人いると聞いた。面白いやつだったよ、根性はあった」
「その人の名前は？」
「名は、治」
　治。その名前を呟く赤木さんの表情が懐かしさを孕んだ。
　駅から離れていくと、しだいに人影も少なくなり、通りに面した家々が昭和の趣に包まれる。赤木さんが指さした通りを右に曲がり、雀荘を一件通り過ぎ、さらに交差点を左に曲がったところで、その店を発見した。腕時計を確認すると、すでに夕方の五時を過ぎている。店には紅い暖簾が掛けられ、軒にひとつだけ吊るされている提灯には灯りがともされていた。
「ここですか？」
「あぁ」
　赤木さんは幽霊らしく引き戸を通りぬけ、先に暖簾をくぐってしまった。後を追うように自分は戸を開け、見知らぬ居酒屋にお邪魔する。
　店内は狭かった。カウンター席が五つ、四人掛けのテーブル席が二つ。時間がはやいせいか、客は俺たちしかいない。割烹料理の調理人によくみられる白い制服に身を包んだ男性が、カウンターの向こうから「いらっしゃいませ」と挨拶をしてきた。赤木さんの同僚というからもっと年を食っていると思っていたが、店主は俺とほぼ同じ年に見える。好青年、顔にはわずかにそばかすが浮かんでおり、それが彼の愛嬌になっている。優しげな眼差しで、「こちらにどうぞ」と店の奥に面したカウンター席を促す。
　席についてからすぐに、俺の隣の席に腰掛けた赤木さんに、小声で話しかける。
「ずいぶん若いお友達ですね？」
「ばァか、あんな若い同僚がいてたまるか。顔がそっくりだ、おそらく息子だろう」
「あぁ～なるほど」
　渡された温かいおしぼりで手をふき、ビールを頼んだところで、店主に話をふってみる。
「すいません、ここに治って方はいらっしゃいますか？」
「治？　あぁ、俺の父親ですけど、お知り合いですか？」
「いや、俺は知らないんです。知り合いの知り合いっていうか……」
「父は今出かけているんです。たぶん、七時ごろには戻ってくると思いますが？」
「それまで待たせてもらっても良いですか？」
「はは、もちろんですよ」
「良かった」
　古風な居酒屋だ。メニュー表もあるが、壁に木札がかけられ、くすんだそれには居酒屋の定番メニューが刻まれている。比較的新しいものには変わったメニューがみられた。クリームチーズの酒盗和え、クジラのベーコンなど。もしかしたら、新しい方は目の前で華麗な包丁さばきを披露している、彼が作ったメニューかもしれない。身ひとつの自分としては、誰かの意思を受け継ぐという真摯な姿勢を、つかの間であるが羨ましく思ってしまった。
　刺身の盛り合わせと枝豆を頼み、ビールと共に時間を潰した。赤木さんとおおっぴらに話すわけにもいかず、では息子と話をしようと試みたが、そちらは上手い方ではないらしく、すぐに黙ってしまう。それではと一人で沈黙と話しあっていると、興味深げにこちらへ視線をよこしてくるも、やはり話しかけてはこない。堅気に見えない派手な格好で、父親の年の半分にも満たない、知り合いの知り合いなんていう男が訪ねてきたら、さすがに好奇心がわくところだ。
　店は五時から夜中の一時まで。俺が入ってから少し後に、顔なじみらしきサラリーマン三人がやってきた。俺と同じようにビールと枝豆を注文し、それから仕事の愚痴を飛ばしあう。一人でやってきた初老の男性客はカウンター席に座ると、息子に「親父さんは」と声をかけた。
「今日は妹と姪と一緒に買い物に行ってるんです」
「あれ、お孫さんいくつになったんだっけ？」
「まだ三ケ月ですよ。もう親父ったら、目にいれても痛くないみたいに、デレデレですよ」
「仕方ない、初孫が女の子なら、男親はデレデレになるもんだ」
　治という人には、最近孫が生まれたらしい。孤高に生きる赤木しげるとは、反対の人生を歩んでいる。赤木さんと治という男の出会いや関係が気になるところだが、聞くにしても無粋だろう。赤木しげるに友人は一人もいないと決めつけていたが、彼にも彼なりの人間関係があったようで、驚きだ。
　六時ごろ、店内は人であふれかえった。赤木さんは隣の席に座ることができなくなったので、天井近くを暇そうに浮かんでいる。繁盛している店を息子が一人で切り盛りするのは大変だと心配していたところへ、五十代ほどの女性が店に入って来て、手伝い始めた。おそらく、治という人の奥さんだろう。ふくよかな体つきであるが、目もとの優しさでこちらの緊張が解け、目があえば俺の方が愛想笑いを返してしまう。
　店内を注文が飛び交い、酒を酌み交わす音が響く。タバコの煙に天井が白くなり、いつのまにか流れていたラジオから、明日から連日で雨だという予報が聴こえた。灰皿に三本目の煙草を押しつけたとき、カウンターのむこうにあるドアから人の声がした。まさかと思って待っていると、ドアがあいて一人の男が顔を出した。息子と顔がそっくりだが、その顔には皺が刻まれている。この人が治だと、すぐにわかった。隣へ降りてきた赤木さんを見れば、懐かしそうな笑みを浮かべている。
「赤木さん、あの人ですか？」
「あぁ、あいつだ」
　小声で相手に確認をとっている間に、息子が父親に耳打ちをして俺へと視線をよこした。治さんは俺の隣へ来ると「初めまして」と挨拶をする。息子と声までそっくりだ。
「あ、こちらこそ初めまして。治さんですか？」
「はい、私が治です。お知り合いのお知り合いという話ですが……どなたの？」
「赤木しげるを、あなたは赤木しげるを覚えていらっしゃいますか？」
「アカギさんの、お知り合いの方ですか？」
　治さんは驚いたという顔をして、俺の顔をまじまじと見て来た。おそらく、息子ではないかと疑われているようなので、「息子ではないです」と断っておく。
「アカギさんの……いやぁ、ビックリしました」
「はは、俺も赤木さんに行きたい居酒屋があったなんて知って、驚いてます」
「アカギさんが亡くなって、そろそろ四年になりますが、よくここがわかりましたね？」
「あ、いえ。ほら、昔の荷物を整理してたら、治さんが送ったはがきを見つけまして。生前に行きたいなんて言ってたなと思いまして、はい」
　雀士なんて嘘吐きばかりだ。嘘が後から後から溢れてくる。俺の嘘に、治という人間は少しも疑わずに頷き、嬉しそうに目を細めた。本当に、この人は俺達と人種が違うと感じた。この人は、俺達と違って明るい所に立つ人間だ。
「アカギさんは、何も持たない人でしたから。葉書を残していてくれたことが、私にとっては、この上ない幸せです……」
「あぁっと……あなたは、赤木さんのご友人だったんですか？」
「いえ。ただの仕事の同僚でした。でも、憧れでしたよ。まるで、ヒーローみたいだった」
「憧れ……」
　なんだか、井川さんと同じことを言っている。治さんは少しだけ井川さんに似ていた。外見的な意味ではなく、憧れに向ける眼差しが似ていた。俺としては赤木さんにいわれたとおりに酒を飲みに来たにすぎず、すでに条件は満たしたはずだ。隣に立っている赤木さんもすでに満足といった様子だ。治さんに礼を述べて席を立ったとき、彼の方から「あのぉ、」と俺を引き止めてきた。
「アカギさんのお知り合いということは、あなたも麻雀を打たれますか？」
「はい、一応。それで飯を食ってます」
「そしたら、少しだけお間を頂けませんか？　一時間だけでいいんです」
「俺は大丈夫ですけど……」
「ひとつ、麻雀を私と打ってください。すぐ近くに、雀荘があるので」
「はぁ……」
　治さんに連れられ、俺たちは先ほど通り過ぎた雀荘にやってきた。ビルの二階にある場末の雀荘だ、卓は四つしかなかった。そのうちの一つに俺たち二人が座って、残りの席を店員が埋めた。電動卓ではないから、自分たちで洗牌をする。手積みなんて久しぶりにしたなと思っていると、背後にいる赤木さんが牌を指さした。
「どれ、俺が打ってやろう」
「言うと思ってました。好きに打ってください」
　タンッとリズムよくぶたれる牌が、心地良く響く。そして、指示されるままに牌を切る際、赤木さんの代理として打っている自分の役目を恨めしく思った。俺の座っている場所に赤木さんが座り、俺は彼の対面に座って牌を打ちたい。それが叶わぬことを心底悔しく思い、唇を噛んだ。
　その日、赤木しげるの麻雀に初めて触れた。迷いも淀みもなく、彼が牌を選ぶとき、静寂の水面に波紋が一つだけ広がる。全てが勘で打っているかのように、しかしその実は先の先にある、ほそい勝利の糸を手繰り寄せている。赤木さんの指先がしめす牌を一打ぶっただけで、彼の麻雀を見てきた者たちと同じ気持ちになった。恐ろしい、だがこの男と打ちたい、と。緊張と快感、彼の麻雀を打つたびに、この二つを感じていた。
　一時間だけといわれた勝負は、結局朝まで続いてしまった。治さんと雀荘をでたときに、「俺の店で朝ごはんでも食べて行きなさい」と人なつっこい笑顔をむけられた。腹の虫が鳴ったので、ありがたいと裏口から店内に入った。居酒屋の店主だけあって、手際が良い。朝からおでんと野菜炒めを頂いた。おでんのダシ汁が美味い、大根を食べたときに辛子のせいではない泪が出そうになった。昨日、格好つけずにもっと色んなものを頼めばよかった。美味しい。
「岸辺くん、麻雀を一緒に打ってくれてありがとう」
「いえ、俺も楽しかったです」
「俺はね、これでようやくアカギさんを見送れた気分だよ」
「見送る……？」
「あの人が死んだと新聞で知ったが、俺は葬式にも墓参りにも行けなかった。あの人は、俺にとっての憧れだったから、彼の死を受けいれられなかったんだ。この年にもなってと思うかもしれないが、この年になったからこそ、俺は受け入れたくなかった。いつか、アカギさんがふらりとやってきて、来てやったぞと言いながら、一緒に酒を呑むのを、俺は楽しみにしてたんだ……」
「はは、まるで二人して意地を張ってたみたいですね」
「供養麻雀っていうのがあるでしょ。あれって、どうして麻雀なのか知ってる？」
「いえ」
「麻雀の牌は全部で一三六枚。それって地獄の数と同じなんだって。だから、麻雀をすることで、死んだ人が巡る一三六の地獄を、代わりに巡ってあげるんだ。牌は昔、骨で出来てたくらいだからね」
「赤木さんのこと、供養できましたか？」
「供養なんていっちゃいけない。俺が供養しなくても、アカギさんは自分から地獄で楽しむ人だ。だが、ようやくお別れをいえた気分だよ……あぁ、清々しいな……」
　美味しい朝食を食べ終わってから、治さんに礼を言って店を後にした。連れてきたい人がいるので、また来ますと約束をして。
　麻雀を打てたことに満足しているのか、治という男との交わしていない約束を守れたことに満足しているのか。赤木さんは俺より数歩先を、口笛を吹きながら歩いていた。裸足で歩く彼の足を、今では羨ましい自由の象徴として見てしまう。
「それ、なんの歌ですか？」
「しらねぇのか？」
「聴いたことないです」
「いいも悪いもリモコンしだいってなぁ」
　昔のはやり歌だろうか、一度も聴いたことがなかった。朝から見える上機嫌な幽霊に呆れながら、俺はポケットの中にある骨を右手で握った。
「骨は釣れたか骨はェ……」
　一人の男のために巡る地獄旅。雀士は常に、死に触れている。

六、

　麻雀で一夜を飛び越えたせいで、電車に乗って帰路についている間、何度も寝落ちてしまいそうになった。一晩打っただけで、ここまで眠くなるのも久しぶりだ。席に座るとそのまま眠って起きそうにないので、立ったまま吊り革を握り、ふらふらする体を支えた。誰かから連絡が来ているだろうかと携帯を探し、壊したままだったことを思い出す。携帯がないとこれほどまで静かなものか。誰とも繋がっていないことに一抹の不安がよぎるが、金網に寝そべって、乗客の顔を観察している赤木さんを見ると、この人がいる間は寂しいと感じる暇もないかと苦笑した。眠い目をこすりながら家に帰り、二十二日の朝十時に眠った。
　起きたときに、枕もとへ置いてあるはずの携帯を探したが、壊れたままだと、またも思い出して舌打ちする。時計を見れば夜の十九時だ。スーツのまま寝てしまったので、皺がついた、急いで私服に着替える。外からは雨の音がかすかに聴こえていた。
　ベッドから起き上がったと同時に腹が鳴ったので、今日こそは文句をいわれないように、店屋物でラーメンを頼んだ。しかし、赤木さんはまたも不服そうな顔で「寿司でも頼め」と、結局は文句を言ってくる。
「赤木さんって、井川さんたちと一緒に飯とかよく行ってたんですか？」
「いや、ひろとは行ったことねぇ。ハワイでなら、一緒にバナナ食ったぞ」
「ハワイ……あぁ、井川さんが追いかけて行ったていう、あれですか？」
「お前の井川って呼び方は慣れねぇな。ひろって呼べばいいだろ？」
「いえ、呼べませんよ」
「好き合ってんのにかい？」
「え……？」
　そのとき、玄関のチャイムが鳴ったので金を持って注文したチャーシュー麺と交換する。それをテーブルに置いてから、対面に座った赤木さんに「あの……」と話を切りだした。
「いつから？」
「いつからって？」
「俺と井川さんが、付き合ってるって、気付いたの……」
「お前、男同士の写真を部屋に堂々と飾ってる人間が、なぁ～に言ってんだ」
　ククク、と盛大に笑う赤木さんの言葉に思い出す。寝室には井川さんと初めてデートをしたときに撮った写真が、フォトフレームに入れて飾ってある。並んで撮ったその写真に写る井川さんのはにかんだ笑顔が好きだ。家にいるとき、彼を思い出して逢いたくなったら、その写真を見て気持ちを抑えこんでいる。自分としてはいつものことだったので、すっかり忘れていた。
　恋人の保護者に付き合っていることがバレた心境とはこれか、と顔が引きつった。
「す、すいません……」
「どうして謝る？」
「いえ、こんな不甲斐ない人間が井川さんと付き合っていて、すいません……」
「兄さん。あんたは不甲斐ない人間なのかい……？」
「不甲斐ないですよ。あの人を泣かせないって決めてたのに、それと反対のことをしてます……」
「ククク、ひろは女じゃない。そこまで丁寧に扱わなくていいさ。あいつだって、殴られたら殴り返すくらいの根性はあるし、粘り強い男だ」
「赤木さんは、井川さんが俺……ていうか、男と付き合ってて、嫌じゃないですか？」
「好きなものに理由をつけるようになったら、それは本当に好きなことなのか……どう思う？」
「へ……？」
「惹かれたものがそれだった。だからこそ、真っ正面からぶつかる。欲しいもんは、きちんと手に入れろ。でないとどっかに逃げてくぞ」
「はぁ……」
「俺がどうこう言っても仕方ねぇが、まぁ汗水たらして執着するこった。そうでもしないと、勝利の女神はそう簡単には微笑まない……」
「麻雀の話ですか、今の？」
「どっちにしろ同じだ。俺はお前でもないし、井川ひろゆきでもない。後は自分で考えろ」
「あ……はい」
　赤木さんの言葉は、静かに身体の芯まで染み込んでいった。これが違う人間の言葉であれば、ここまで浸透することはなかっただろう。彼の言葉を反芻しているうちに、赤木さんがいつもの透明の煙草を吸い始める。
「それよりわりぃが、あともう一人だけ逢いに行きたい奴がいる。それで俺の未練も終わりだ」
「その人とも、生前逢われなかったんですか？」
「治と同じだ。偶然逢えたらそれで良かった程度さ。礼が言いたいと、心ならずも思っていた」
　治という人間はただの一般人で、麻雀は打てるがその腕も一般的。赤木さんが逢いたいもう一人の人間は、今度こそ鬼か蛇か。赤木しげるに会いたいと言わせる人間が二人もいた。その事実は、きっと俺以外に知る者はいないだろう。
「赤木さんはその人に逢えたら、消えてしまうんですか？」
「たぶんな」
「それじゃ、一つだけお願いがあります。もし、その方に逢っても、しばらく消えずにいてほしいんです！」
「なんだ、俺に消えてほしくないのか？」
「井川さんに、ひと目で良いから逢っていってください。一瞬だけでいいんです、今の井川さんを見ていってください！」
「逢って会話もできやしないのにかい？」
「見るだけでいいんです。俺の自己満足でしかないんですけど、それだけでいいんです」
「……まぁ、見るだけならいいだろ」
「ありがとうございます！」
「兄さん、あんたは良い人間すぎて、損するタイプだな」
「はは、面目ないです……」
「褒めてんだよ」
　もう時間も遅いので、もう一人の相手には、明日逢いにいくことにした。
長い話しあいの後、伸びきったラーメンをすする。不味い。ふと、目の前に座る赤木さんが井川さんだったらと妄想し、すぐに止めた。彼は今頃カップラーメンでも食べているかもしれない。また、顔が青白くなっているだろうか。連絡したいが携帯がないからと自分に理由をつけて諦める。
　しかし、寝る前に留守電を調べたところ、井川さんからの一件を見つけてしまった。聞こうか聞くまいかで悩んだ結果、聞けなかった。「聞けばいいのによ」と楽しそうな赤木さんを無視して、「おやすみなさい」を言ってベッドにもぐりこんだ。赤木さんと出会ってから、睡魔の力に首根っこを掴まれている。もしかして、幽霊にとり憑かれると眠くなるのだろうか。テレビで幽霊にとり憑かれると衰弱する話は聞いたことはあるが、腹は減るし特にだるいということはない。ただ、眠いだけだ。
　目をつぶる前に、枕もとに飾っている井川さんとの写真を見た。彼はもう俺のことを嫌いになってしまっただろうか。俺は井川さんの笑った顔が好きです。だから、あなたの悲しそうな顔を見るのが嫌いでした。こんなことを、すでに嫌われている人間が言うのもなんだか、未練がましくて女々しい限りだ。
　虚しい気持ちを抱えたまま深い眠りにつく。井川さんの夢を見たいと思っていたが、そう世の中うまくいかない。起きた時に外は明るく、俺が起きたと知るや「よく寝てたな」と楽しそうに笑う幽霊。世界が俺に優しくないことに、少しだけ泣きたくなった。

七、

　二十三日、いつもの緑色のスーツに着替え、ポケットに骨をいれてから出かける。空は曇天、鳥の低空飛行に雨の予感を見る。昨夜のどしゃ降りで、コンクリートは黒く濡れていた。
　赤木さんの二人目の逢いたい人も、都内在住らしく、電車に揺られること一時間半。浅草駅の三駅前で降りる人間は俺を含めて六人ほどしかいなかった。名前は知りながら一度も降りたことのない閑散とした駅を出て、また赤木さんに言われるまま目的地へ向かう。
「赤木さんは、その方の家に行ったことがあるんですか？」
「いや、昔その住所へ手紙を送ったことがあるだけだ」
「え！　赤木さんが手紙……？」
「おいおい、馬鹿にするなよ。これでも自分の名前くらいは書ける」
「いえ、そこじゃなくて。赤木さんが手紙を書くほどの人って、やっぱりヤクザの元総長だったり？」
「ははは、ヤクザよりも誰よりも、俺にとっては恩人よ」
「恩人……？」
「俺に麻雀を教えてくれた人さ」
　その言葉に口が開きっぱなしになる。さすがに赤木しげるだって人の子だ。いきなり、木の根からおぎゃ～と産まれたわけではない。そして、産まれたからには麻雀を知らない期間があり、そして麻雀を教えた人間がいた。神域、悪漢と呼ばれているから、最初から麻雀を覚えていたような錯覚をおこしていた。この赤木しげるに麻雀を教えた人間。そりゃ、日本中のヤクザがそろったところで、その人にはかなうまい。
　赤木さんが連れてきてくれた一軒家は、植え込みで囲われたどこにでもある一軒家。表札に「南郷」と書かれている。
「その人、下の名前は？」
「あ～聞いたことがなかったな。ずっと名字で呼んでた」
「じゃ、本人がでてこなかったら、どうするんですか？」
「俺よりも年が上だったから、今頃は七十もいってる爺さんだろうよ」
「なんだか、怪しい目でみられそうだ……」
　電車をおりたころには十一時も近く、訪問に失礼な時間ではないと判断してチャイムを押した。しばらくして四十代ほどの女性が「どなた様ですか」とドアをあけた。
「あの、こちらに南郷とおっしゃる七十代の男性はいらっしゃいますか？」
「あら、うちの父かしら。どういった御用件で？」
　こんなことなら、黒いスーツで来るべきだった。俺の派手なスーツに対して、女性の視線に警戒の色がみられる。しかし、後悔先に立たず。俺は治さんの時と同じように嘘八丁で乗り切ることに決めた。
「わたくし、三年前に亡くなった父の遺言でここへやってまいりました。父は生前、南郷さんに大変お世話になったそうです。そのお礼をしたいと病床で何度も呟いていたのを聞いてきました。先日、父の遺品を整理していたら、ここの住所が出てまいりましたので、窺ったしだいです。南郷さんに一目だけでも、お会いできないでしょうか？」
「あら、それはそれは。それで、お父様のお名前は？」
「赤木しげるです」
「赤木しげる……どこかで聞いたことのある名前だわ。ちょっと待っていてくださいね」
　そういって女性は家の奥へと走っていった。俺はどうにか危機をのり超えたことにガッツポーズをしたが、隣にたつ幽霊は不服そうだった。
「俺はこんなデカい息子をこさえた覚えはないぞ……」
「言葉のあやですよ、あ、や。嘘でもつかないと、門前払いですって」
　しばらくすると、女性が電話の子機を耳に当てた状態で玄関に戻ってきた。誰かと電話しているらしく、「そうそう、赤木しげるさんの息子さん」と話している。しばらくしてから、「ちょっと待っててね」と電話口の相手にいって俺に向き直る。
「わざわざ来て頂いて悪いんだけど、父は今、母と一緒に旅行に出かけてるのよ」
「え！」
「三日後には帰ってくるの。今、父に電話してるんですけど、赤木さんの息子さんっていったら『ぜひ、逢いたい』て言ってるの。三日後以降にでも、また来て頂いてよろしいかしら？」
「そ、それは困ります！」
「あら？」
　三日後は二十六日の命日だ。それまでに赤木さんを成仏させて墓に押し込みたいし、井川さんとの仲をどうにかしたい。南郷さんと会う方法を作るため、脳みそを高速回転させたところ、良い嘘を思いついた。
「俺、じつは明後日に仕事の関係でしばらくハワイに行くんです。おそらく、三年は日本へ帰ってこられないと思います。父の心残りは、南郷さんにきちんとした礼を言えなかったことです。その恩を、息子である俺が返さないと……」
　そこで泪を拭うふりをして、右目に手を添えた。俺の演技を見た相手も同情してくれた様子だ。演技はこれで十分。
「お願いします。南郷さんがお泊まりになっている場所を教えてください。今日明日にでも、窺います。たった一言、お礼を言わせてください。五分でいいんです！」
「いいの？　遠いわよ？」
「かまいません！」
「そしたら、教えてあげるわ。ちょっと待って、父と話すから」
　女性は南郷さんと電話でしばらく話してから、メモ帳に宿の住所を書いて渡してくれた。宿の電話番号も書いてある。
「赤木しげるって方の名前、父に言われて思い出したわ。兄が産まれたときに電報をくれた人ね。幼いころ父に教えてもらったのよ」
「電報？」
「そう、電報。ニネキ　アカギシゲルて書いて寄こしてくれたって」
「ニネキ？」
「電報の略号で男子ご出産おめでとうございます、て意味よ」
　赤木さんが自分の名前ぐらい書けるといっていたが、電報ではそれが事実かは疑わしくなった。
　南郷さんの娘という方に、何度も礼を述べてから南郷宅を後にした。そして、歩きながらメモを見て顔をしかめる。
「南郷さんが旅行してる場所、京都ですね」
「おぉ、いいところに泊まってるな」
「遠すぎますよ。今から新幹線に乗れば、今日中に会えますかね？」
「さぁな。兄さんの好きにしろ」
「それじゃ、今から行きましょうか」
　東京駅へと向かい、そこで切符を買って新幹線に乗りこんだ。京都で何か井川さんにお土産でも買っていこうかと思いつつ、窓の景色に魅入る。居眠りするかと思っていたが、少しも眠くない。隣には誰も座ることなく、赤木さんがずっと腰掛けていた。車内販売の稲荷寿司と緑茶を買って腹を満たす。赤木さんは文句をいわないかわりに、「京都で河豚刺しを食え」と耳にタコが出来るほど、独り言のように呟いてきた。
「河豚好きでしたっけ？」
「普通だ」
「そういえば、井川さんから聞いた話で、河豚を一口で食べるの止めたとか？」
「そんな昔のこと忘れたよ」
「もったいない」
「気持ちが一番美味い。だから、一口だけでいい」
　京都駅に着いたのは、東京を離れて二時間後のことだった。駅でメモに書かれた宿を尋ねたところ、タクシーで一時間行ったところの山間だという。時計を見れば、夕方の十七時。今から行ってお礼をいって、それから東京に引き返せば、明日にでも井川さんに逢える。よし、これだと思って駅を出た瞬間に眩暈に襲われた。倒れそうになったので、近くのベンチに座り、眉間を指で揉んだ。眠い、かつてないほどの眠さに襲われていた。
「だったら……電車で寝ててもよかったのに……」
　自分の体を叱咤しながら、死に態でホテルを見つけて、そこに飛び込んだ。部屋に行ってべッドに体を横たえたとたんに、眠りが体中を犯していく。幸福だ。眠ることがこれほどまでに幸福であることを初めて知ったように、俺は眠った。泥のように眠るとはこれのことだ。
「おい、岸辺。お前、寝過ぎじゃねぇか？」
　赤木さんの声がして、その一言で目を覚ました。寝ている俺を赤木さんが見下ろしている。一瞬、自分がどこにいるのかわからずに当たりを見渡し、京都に来たことを思い出した。体を起こすと、体中が気だるい。備え付けの冷蔵庫からコーラをだして栓を抜くと、全部を一気に呑みほした。
「すいません、いきなり眠くなっちまって……」
「前からよく寝るやつだと思ってたが……」
「いえ、赤木さんと逢ってからです、こんなに眠いのは……」
「そしたら、お前は俺の分まで寝てるのかもしれないな」
「え…？」
「お前が寝てるから、俺が起きていられるのかもしれない」
「そんな話、聞いたことないんですけど……」
「当たり前だろ、俺が今自分で考えたことつじつま合わせだ」
「はは、適当……」
　俺が寝ているから、幽霊の赤木さんが起きていられる。不思議な話だが、今はそうつじつまをつけた方が納得する。人間は納得しないと前に進めないし、ぐじぐじと悩むことがある。
　赤木さんに言われて、今が二十四日の正午と知った。ホテルを出て近くの立ち喰い蕎麦屋に寄って行く。蕎麦を食べている俺に、赤木さんはすでにもう何も言わなくなったが、食事中は相変わらず険悪なムードになった。
　食後すぐにタクシーをつかまえ、宿の住所を告げた。一時間ほど車に揺られる。自分で運転することが多いせいか、誰かの運転する車に乗ることに慣れない。俺の隣に座る赤木さんが、退屈そうに欠伸をする。数日一緒にいたわけだが、あまりお互いのことで話をしていない。
　俺がこの人と逢った原因にもなる骨だが、これを盗まなければ彼に出会わなかったわけだ。嫉妬の相手が目の前にいるが、彼に対してこれっぽっちも心が騒がない。何故だろうか、俺はこの人を見つめている時の井川さんを見て、苦しいと思っていたのに。赤木さんを見ていると、振りまわされはするが、立派な柱の隣に立っているような気分になる。つまり、落ち着く。
「兄さん、あの人に逢えたらたった一言でいい、世話になったと伝えてくれ」
　赤木さんは車の窓から過ぎ去る景色を見ていた。
「はい……」
　運転手に聞こえないように小さく返事をした。
　山道を進んでいけば、観光地と知れる場所にでた。そこをしばらく走ったところでタクシーはブレーキをかけ、川を真下にみる宿の前で俺たちをおろしていった。
　目の前にはいかにも温泉宿といった宿屋が建っており、宿名はメモに書かれたそれと同じものだった。自動ドアを通って受付で「南郷という宿泊客に赤木しげるの息子が来たと知らせてください」と伝言する。フロント係は内線電話で南郷さんに連絡をとり、それから俺に広場で待つように言った。
　広間にはくつろげる椅子が用意されているので、そのひとつに腰掛けて、天井を見つめて、待ち人の来訪を待った。待ったといっても三分もしないで、南郷その人は杖をつきながら、しかし急いだ様子で俺の前に現れた。
「あなたが、赤木しげるの…？」
　そういって温和な笑顔を見せる男性は、七十も過ぎて頭髪は真っ白だ。赤木しげるに麻雀を教えた人間は鬼でも蛇でもない、ごくごくどこにでもいそうな、人の良さそうな老齢の男性だった。俺は彼に対して頭を下げ、「息子ではありません」と正直に打ち明けた。
「俺は岸辺忍と申します、彼の息子ではないんです」
「あぁ、やはり。あのアカギに息子がいると聞いて驚いたが、あなたをみればわかる、似ている様子がない」
「はは、ですが伝言を言付かっています」
「伝言？」
「『世話になった』、と。」
「……そうですか」
　俺の伝言を聞いた南郷さんが顔を伏せて、何か言おうと口を開いて、閉じた。彼は赤木さんが死んだことを知っているようだ。だからこそ、今さらになって赤木さんからの伝言に戸惑っているようにも見えた。この状態で「それでは」と帰れそうにないと思っていたら、相手が先に切りだした。
「岸辺さんは、昼はまだですか？」
「あぁ～……まだです」
「そしたら、美味しい店を知ってるんです。ここの宿の三件隣なんですが……」
「俺は赤木さんの最後を看取ったわけでも、彼と時間を長く共有したわけでもありません。ただ、伝言を頼まれただけなんです」
「かまいません。礼として、おごらせてください」
　断りきれない雰囲気に負けて、彼の後をついてホテルをでた。その三件隣に「のびる」という紺色の暖簾をさげた料亭があった。見た目は木造作りの古民家に見えるが、中にはいると洗練された雰囲気に包まれ、ここがお高い店であると知る。飯時を少し過ぎてはいるが、誰か客がいてもいいのに、誰もいない。南郷さんは俺を促し、窓近くの席に腰掛けた。着物姿の女性がこちらにやってきて「いつものですか？」と訊ねる。南郷は「彼にだけ菊のコースで頼むよ。それからビール二つ」と言った。
　よく冷えたビールが二つと、山菜で作られた付き出しが運ばれてくる。それを食べながら酒を呑む。誰かと飯を食うのが久しいせいか、いつもより美味しく感じられた。
「岸辺さん、すいませんね。老人の我儘に付き合ってもらって」
「この店には、よくこられるんですか？」
「年に二度ほど、先ほどの宿に泊まりに来るんです。そこで、妻と一緒にのんびり過ごして、そのときにここへ食べにくるんです。ここら周辺は余生を過ごすには、もってこいだ」
「はぁ……」
「秋になったら、あっという間に彼岸花が咲く。彼岸花にも白いやつがいると、知っていますか？」
「白い種類もあるんですか？」
「ほら、あそこ」
　南郷さんが窓の外を指さしたので、そちらに目を向けた。川の近くに燃えるような彼岸花をいくつか見つけることができた。そのなかに、時々白い花を見つける。それもまた彼岸花だと知って、「ほう」と声をもらす。
「白い彼岸花なんて初めて見ましたよ。自分は、花にはからっきしなもんで」
「岸辺さんも、麻雀を？」
「はい、それで飯を食っています」
「俺も昔は趣味の程度で打っていましたが、今はまったく打ちません」
「そのときに、赤木さんに出会ったんですか？」
「そうです。俺が命を賭けた麻雀をしているときに、まだ幼いアカギが偶然現れましてね。そのときに、あいつに麻雀を教えました。その時はまさか、伝説になるほどの男になるとは、思いませんでしたよ……」
　そこで料理が次から次へと運ばれてきた。豆腐がメインの店らしく、湯葉や湯豆腐が卓に並ぶ。ここ数日の食生活を反省するほどに、味付けは繊細、舌が洗いながされていくようだ。豆腐料理なので、ほどよく腹に溜まる。豆腐は醤油いらずで、そのままで充分に美味い。
　最後に締めとして運ばれてきた小さな土鍋は、黄色い菊の花びらが散らされた雑炊だった。それをさっそく椀に盛って食べようとしたが、熱くて口に含むまで時間を要した。しかし、味が気になり、ふぅと息を吹きかけ冷ましたひと口を、ようやく食べる。菊を天ぷらで食べることはあったが、雑炊は初めてだ。雑炊の味付けはさることながら、口に入れたときに優しい香りが鼻を抜けていく。俺が無言で食べ続けているのをみて、南郷さんが嬉しそうに言う。
「家内が好きなんですよ、その菊の雑炊」
「あ、すいません。俺ばっかり食べてしまって！」
「かまいませんよ。俺は今、アカギにしてやりたかったことを、あなたにしています」
「え……」
「俺はあいつに命を助けられた。だから、ずっとあいつに礼をしたかったんです。こうやって酒を酌み交わしながら、飯をおごりたかったが、機会に恵まれませんでした……」
「命の恩人が赤木しげるなんて、凄いもんですよ」
「はは、あいつは凄かった。今でも、時々夢に見るんです。あの目を……純粋なあの眼を。あれほど恐ろしいはずが、何故か惹かれてしまう。今になって思えば、海を見ているときと同じ気持ちでしたよ……」
「海？」
「アカギと初めて逢った時、あいつは海に落ちてあがってきた直後でした。まぁ、磯臭かったっていう理由もあるかもしれませんね」
「海に落ちた？」
「おや、知りませんか？」
　それが発端となり、南郷さんは彼が知る限りの赤木しげるの話をしてくれた。十三のときにチキンランをしていたことにも驚いたが、麻雀を覚えた次の瞬間にはイカサマをヤクザ相手に実行していた赤木さんの根性には白旗を振るしかない。ゆったりと話していた南郷さんだったが、話している姿は憧れのヒーローの話をする少年のようだった。俺は箸を動かしながらその話に聞き入っていた。
　同様に俺の隣に座している赤木さんもその話に耳を傾けている。その眼差しが、太陽の光に映えて、光っている。南郷さんの語る十三歳の赤木しげるの眼差しとは、きっとこんな感じだと、知るはずもないのに、ラムネの中にあるビー玉のような眼差しを、たびたび覗き見ていた。
　南郷さんの話が終わるころ、外は暗くなり街灯が夜の影を映し出していた。空が曇っているせいで、夜空を見上げても星は見えない。南郷さんが料理屋の前までタクシーを呼んでくれた。相手が礼を言ってくるなか、俺も相手に頭を下げる。
「しかし、アカギのことだから俺のことはすっかり忘れていると思ってましたよ。昔、長男が生まれた時に電報を貰いまして。ニネキ　アカギシゲルとね……」
「長男おめでとうございます、て意味ですよね」
「おぉ、若いのに博識ですね」
「いえ、南郷さん宅にお邪魔したときに、教えてもらっただけですよ」
「あのときの礼もできないままだったな。たくっ、誰かに伝言するくらいなら、死ぬ前に逢いにくればよかったのに。俺だって、言いたいことが沢山ありましたよ」
　そういって、南郷さんは盛大に笑った。俺にしか見えない赤木しげる。俺の隣に、あなたの逢いたい人はいます。しかし、説明したところでどうにもならない。その代わり、俺は赤木さんのいる方を手で示して、「もしかしたら」と言った。
「ここに赤木さんがいるかもしれませんよ」
「え？」
「ほら、幽霊とかになって、ここにいるかもしれませんよ。俺がちゃんと伝言を事付けるか心配で、見張ってるかもしれません」
「はは、岸辺さん。あなたは面白い人だな。そしたら、どれ」
　南郷さんとて、本気でそこに幽霊がいるとは思っていない。だが、そう信じることだって、そう悪いことではない。彼は俺ではなく、俺の隣にいる見えない男に優しく頬笑みかけながら言った。
「アカギ。お前のおかげで、良い人生だったよ……」
　そのとき、乾いた秋風が前髪を吹き散らかしていった。
　南郷さんの言葉の重みを知らぬ俺だが、その一言に含まれている南郷さんの人生に対して、少しだけ切なさを覚えた。赤木さんはただ黙って南郷さんを見つめていた。この二人の奇妙な繋がりを、どう例えたらいいのか分からないし、赤木さんにとってこの人は、どんな人間であったのか、本人しか知らない。一人の人生に、どれほどの人間が関わっているのか。自分の人生を、少しだけ振り返ってみたくなった。
　最後にもう一度だけ別れの挨拶をして、俺はタクシーに乗り込み、京都駅へ行ってくれるよう運転手へ告げた。隣の席には、すでに未練を終えたはずの赤木さんが座っている。
「やってくれたじゃねぇか、兄さん」
　赤木さんが口元に皮肉めいた笑みを浮かべていた。俺は頬杖をついて、得意げに鼻を鳴らした。
　行きも一時間なら、帰りも一時間。京都駅へ着いたころには体が疲れ切っており、今から新幹線に乗って帰るのは骨が折れるので、今日の朝まで泊まっていたホテルに行き、またも一泊することにした。あれほど御馳走になった飯だったが、十九時だとちょうど腹が減る。ホテルのカウンターでコンビニの在り処を聞いて、そこまで歩いて何か買うことにした。
　徒歩五分、行きがてらにぽつぽつと雨が降っていたが、弁当と煙草を買って帰るころには、どしゃぶりとなっていた。これはいけないと走ったが、ホテルへ帰り着くころには濡れ鼠となっていた。ともかく服を抜いで乾かし、それからシャワーを浴びよう。そう思って部屋に入ったと同時に、昨日と同じ眩暈に襲われ床に膝をつく。
「あ、あれ……？」
　手にもっていたコンビニの袋を落としてしまう。だが、拾いたくても、体に力が入らず、その場に倒れ込み、目をつぶっていた。赤木さんが「風邪をひくぞ」といっているのが聞こえたが、起きる気力がまったくわかない。ひたすらに眠い。濡れた服を着たまま、眠っていた。

八、

　体がやけに熱く、指先のどこにも力が入らない。ようやく目を覚ますと、外の雨音が五月蠅いのか、自分の耳鳴りが五月蠅いのかの判断がつきかねるほどに、耳の中がわんわんと唸っている。起き上がろうとするが、手を動かすことすら困難だ。赤木さんの「風邪を引いたな」という声がきこえた。寒いと思ったら、濡れた服を着たまま寝ていた。もたつく体で服を全部脱いで裸になると、ベッドにもぐりこみ布団にくるまる。だが寒い。寒くて仕方ない。
「人を呼んで来るにしても、俺じゃ無理だからな……」
　赤木さんに話しかけられても、重力が逆転したかのように世界がぐるぐる回って、気持ち悪さに口を開くことができないし、咳も出る。寒いはずなのに、熱い。風邪を引いたのが久しいせいで、こんなときにまず何をすればいいのかわからない。携帯がないから救急車も呼べない。孤独感にもさいなまれ、泪が溢れた。井川さんに逢いたい。井川さんに逢いたい。
「ククク……こりゃ、久々に人が死ぬところを拝めるかもしれねぇな」
　赤木さんが枕元にいる、頭の方がやけに涼しい。目をひらくことすら億劫で、体を丸めて風邪が治るのを待つが、熱はさらに上がる一方だ。俺はここで死ぬのか。ここで死ねば、誰かが泣いてくれるだろうか。むしろ、井川さんは泣いてくれるのだろうか。好きなんて錯覚から目覚めた井川さんが、俺の位牌の前で「ざまぁない」と言っている姿が浮かんだ。
俺は自分が死んだら井川さんに悲しんでほしかった。墓前の前で大泣きして、毎日なんて贅沢は言わないから、月に一回墓参りに来てほしかった。しかし、いまや悲しんでくれる相手はいない。なんだか虚しい。この手はまだ掴んだばかりなんだ。まだ、俺は手放したくない。俺は、あなたを手放したくない。井川さんが、誰かのものになるなんて、俺は嫌だ。
「兄さん、死ぬのかい……？」
　死。赤木さんにそう言われたとたん、俺は一瞬だけ目を開き、赤木さんを睨みつけた。
「死にません！　俺は、井川さんを一人にして死なない！」
　全部言いきった直後に咳き込み、ベッドに倒れた。死ぬもんか、誰が死ぬもんか。俺はまだ井川さんに謝ってない。しかも俺が先に死んでどうする。井川さんに悲しんでもらうなんて、ご都合主義もいいところだ。俺は嫌だ、俺は、井川さんに笑っていてほしい、あんな顔をしてほしくない。あなたが笑うと、俺も幸せなんです。それを今すぐ彼に伝えたくて泪が流れた。井川さんに我儘を言ってほしいといいながら、俺もまた言葉足らずだ。もっと、彼への気持ちを伝えていればよかった。俺は、あなたが好きです、だからあなたの尊敬する人にすら嫉妬する。醜く貪欲で汚い男だ。それでも、あなたが好きなんです。好きで好きで、死んでしまいそうだ。
「うぅ……井川さん……」
「おいおい、男が泣いて病気が治るか。死ぬ時は死ぬんだ、まぁ頑張りな」
「死にたくない……」
「みっともねぇなぁ………たくっ、人の看病なんて、あんたが初めてだよ、兄さん」
　毛布を握っていた右手に、硬い何かが触れた。触って確かめてみると、井川さんが大事にしていた骨だった。「握ってろ」と赤木さんに言われて、素直に握りしめる。冷たかった骨がしだいに熱くなり、手の平から体中に熱を与えてきた。布団だけでは震えてばかりの体から、力が抜ける。そして、額に何か冷たい者が触れた。赤木さんの手だと思い、それにまた安心して眠っていた。

体が冷たい海底の奥へ奥へと沈んでいる。深い闇の方に沈んでいく。南郷さんから聞いた話の、海から生還した赤木さんもこうして冷たい海に体を翻弄されて沈んだのだろうか。もがきたいがもがけない。泪を海で流したところで、解けて消えるだけだ。俺がどれほど井川さんを好きか言葉にしたところで、泡になるだけ。後悔ばかりだ、井川さんという名前も呼ぶことさえかなわない。
　だが、そんな俺の体中にぬるりと絡みつくものがあった。それは閉じている目蓋を撫で、こちらの身体をあますことなくぬるりぬるりと撫でていく。それは魚だった。手の甲に触れるそれには鱗があったからだ。耳元を泳いでいるときには、鱗がこすれ合うさらさらという音もする。俺は今、魚によって身体検査を受けていた。もしかして、俺のことを餌かどうか調べているのだろうか、俺は最期の最期に魚の餌になって死ぬのか、なんだかさらに悲しい。
　だが、俺が海のなかで泪を一筋流した直後、その魚の尻尾が俺の右手首に絡みつき、上へ上へとひっぱりあげてきた。何をするんだと思っている間もなく、息苦しい海中から、突如、海上に顔がでた。
「ぶはぁっ！」
　息を大きく吸って目を開くと、天上には青空、眩しい太陽が肌を焼いてきた。自分がどこにいるのか分からずに、茫然と空ばかり見つめていれば、遠くから「お～い」と聞きなれた声がする。そちらに目をやれば、海のなかにぽつんと小島が浮かんでいる。そして、そこに赤木さんが立っていた。見慣れたスーツ姿ではなく、派手な色合いのアロハシャツを着ていた。
「お～い、こっちだこっち」
　手を振っている赤木さんに答えるようにして、俺の身体を何かの力でひっぱられる。それは先ほどの魚であった。海上に顔を出していても、水中にいる魚の正体はわからない。だが、それにひっぱられる形で、俺は赤木さんの待っている小島に辿りつくことができた。浜に上がればスーツはびしょびしょで、革靴は両足とも海底でなくしてしまった。風邪で重い身体を、さらに重く感じる。全身から水滴を垂らしながら赤木さんの前にやってくれば、相手は死にぞこないを前に、呑気に煙草を吹かしていた。
「よう、濡れ鼠」
「あの、ここどこですか？」
「お前の夢の中だからどこかは知らねぇが、ハワイかどっかじゃねぇか？」
「ハワイって……」
　ハワイといえば、赤木さんの方が思い入れは強いはずだ。もしかして、赤木さんの脳味噌に、自分の意識が紛れこんでしまったのだろうか。そこでくしゃみがひとつもれた。
「おいおい、そんな格好じゃ夢の中でも風邪っぴきだろう？」
「だって、気付いたら海のなかにいたんですよ」
「ばっか、夢のなかだ。好きな格好してな」
赤木さんが指先を鳴らすと、濡れていたスーツが緑色のアロハシャツへと姿を変えた。足には歩きやすいサンダル、首にはピンク色の花輪。いかにもハワイといった風勢になってしまった。
「ははは、結構似合うな」
「その褒め言葉、あんまり嬉しくないです。というか、なんで赤木さんが俺の夢のなかにいるんですか？　ハワイって、絶対に赤木さんの思い出でしょ？」
「おいおい、命に恩人になるかもしれない男に、強気なもんだな」
「え？」
「兄さん、お前が助かるチャンスをやろう」
「え？」
　すると、先ほどまであたりを照らしていた太陽が消え、青空も消えた。代わりに天上には麻雀の柄が広がり、黒く変色した海の水平線ではサイコロが転がり、花札やトランプが風に吹かれて頭上を通り過ぎていく。浮かれた世界が、突然の賭場と化したことに驚いていれば、島の中央にテーブルがひとつ出現し、赤木さんがそこへ来るように促してくる。椅子も二つ。赤木さんの座った対面に椅子を持って来て、腰をおろした。
　卓を見れば、イ―ピン牌が二枚と、白が一枚。
「麻雀でも良かったが、その間にお前が死ぬ可能性もあるから、てっとりばやく行こう」
「な、なにするんですか？」
「賭けをしよう。お前が勝てば、お前は助かる。だが、負ければ死ぬ。簡単だろ」
「え、簡単って、かなりやばい賭けじゃないですか！」
「勝てば、まだお前の死ぬときではなく、負ければ、お前は今死ぬことが決まっていたってことだ。諦めろ」
「で、でも、」
「別にこのギャンブルにのる必要はない。強制力もない。だが、乗らなければお前は、死ぬ」
　枕元で気だるげに吐かれた「死ぬ」とは違い、今回の「死ぬ」には頭をぶち抜くような殺傷能力があった。夢の中のはずだが、指先が冷たくなっていき、足先も自分の意思ではうまく動かせない。もしかして、現実世界の身体が死にかけているのだろうか。対面の赤木さんはいつものふざけた態度など露とも見せずに、まっすぐに俺だけを見つめている。
　彼の気迫に押されたからではない、自分の意思で頷いたのだ。生きながらえ井川さんと再び逢いまみえるチャンスがあるのならば、身を焼かれる賭けだとしても、胸をはってベットする。俺が頷いたことに赤木さんが怪しく笑い、そして卓上のイ―ピンを一枚つまんだ。
「ここにイ―ピンが二枚、そして白が一枚。この三枚を混ぜる、イカサマはない。イ―ピンが一枚になることも、白が二枚になることもないし、他の牌が混ざることもない。この絵が描かれた方を伏せ、その状態で兄さんがイ―ピンを二枚ひく。そしたら、勝ちだ。だが、もし白を引いてしまったら、負け」
「つまり、二回牌をひっくり返して、二枚ともイ―ピンだったら良いんですね？」
「そういうことだ」
「……ギャンブルじゃない、これはただの運試しだ」
「運も実力のうちだろ。時間がない、これが一番てっとりばやい。さぁ、もう始まってる。あとは、お前が好きに引けばいいだけさ」
　赤木さんが三枚の牌の柄を伏せた状態で、どれがどの柄か分からないように、華麗な手つきでかき混ぜる。判断がつくように、じぃっと見つめていたが、彼の手がそれを許さない。一枚消え、二枚消え、三枚目が消えたと思った次の瞬間に、赤木さんが右手を横に降れば、そこに消えていた三枚の牌が並んでいた。マジックを観賞している気分だが、楽しい気分で見ていられるものではない。自分の命がかかっている。
「さぁ、どれにする？」
「赤木さんはどれだと思いますか？」
「ちなみに、俺と心理戦をしたところで無駄だ。いったろ、時間がないって」
　赤木さんが足元を指差した。先ほどまで穏やかに寄せては返すを繰り返していた海水が、俺の足首まで浸水していた。島が沈もうとしている。
「え、これ、あとどれくらいで沈みますか？」
「三分」
「えぇ～！」
「ほれ、さっさと引け。そして生きるか死ぬかしろ」
　こちらは命がけでどの牌を引こうか右手を右に左にとさまよわせているのに対し、彼方は煙草を吸って煙を卓上に吹きかけている。咳はでない、自分が吸っていないぶん、いくらか落ち付いた。しかし、落ち付いたところで、どれを引けばいいのか。思考回路はまさにショート寸前だった。
　先ほど、赤木さんが牌を混ぜる前に、牌にからくりがないか調べさせてもらえばよかった。そのときに、何か痕をつけるとかして、イカサマをすることもできたが、きっと赤木さんのことだから、さっさと見抜いてしまっただろう。彼がイカサマをしないと言ったからには、こちらもイカサマなどできやしない。これは麻雀ではない、まさにロシアンルーレットに近しい賭けだった。
「あと二分」
　海水が膝まで届いたとき、赤木さんにタイムリミットを告げられ、ままよと最初の一枚を引いた。真ん中、触った瞬間にこれだと思って牌をひっくり返すと、そこには望んでいたイ―ピンの柄。ほっと息をついたはいいが、まだ最後の一枚が残っている。右か、左か。どちらの牌の上に手をかざしても、これだという直感は降りてこない。赤木さんがいうように、彼に答えを求めたところで教えてはくれないだろうし、そもそも答えを知らない可能性もある。波がとうとう腰のあたりまで上昇してきて、波が寄せてくるたんびに、水滴が顔にかかった。もう下半身は動かせないし、動くは右腕だけ。海に浸かっているはずの身体が、熱を発している。眩暈がぶり返し、卓につっぷしそうになるのを、奥歯を噛んで必死に耐える。
「ほれ、時間がねぇぞ」
　赤木さんが急かすように紫煙を卓に吹きかけた。右手にかかった煙が、さらに薄く霞んで見える。意識が飛びそうだ。俺も煙草が吸いたい、そうだ井川さんの吸っている煙草の匂いを嗅ぎたい。彼の吸っている煙草、井川さん、そう、井川さん。彼の名が脳裏に浮かんだとき、あることも同時に思い出しだ。以前、井川さんに話してもらった思い出話。それが、今の自分の置かれている状況に近いので、少しだけおかしくて小さく笑ってしまった。
「あぁ……そうだ、思い出した」
「何を？」
「いや、井川さんから聞いた話。井川さんが、赤木さんから持ちかけられた、賭けの話……あなたの命を賭けた話を……思い出した……」
「そんなこともしたな」
「あれ……井川さん、ずっと背負ってるんですよ……」
「あんなくだらないお遊びをか？」
「赤木さんは、知ってたんでしょ？　あのときの井川ひろゆきが賭けにのらないと……」
「知ってさ。だから、持ちかけた」
「酷い人だ。本当に酷い……」
「お前は酷いと思うのか？」
「俺にとって、あなたは俺の一部じゃない。けど、井川さんにとってあなたは、……げふっ！」
　そこで海水が顎にまで上昇し、口のなかが塩辛くなる。口から海水を吐き出すも、水はとうとう鼻にまで到達してしまった。先ほどの続きを赤木さんにぶつけてしまいたかったが、声が出せないのでは仕方ない。こうなったら、息を止めてどちらをとるか、決める方が先だった。首を伸ばして口を出すと、大きく息を吸ってから海中に顔を付け卓を睨みつけた。水中で必死に右か左かを選んでいる俺とは反対に、赤木さんは微動だにせず椅子に座ったままだ。その視線は、俺と同じく卓の上にあった。
　右か、左か。本当にどちらか分からない。溜めていた息が口端から泡となって漏れていく。やけくそになって右にするかと決めた俺の耳に、水中であるにも関わらず、赤木さんの声がした。
「左だ」
　その言葉に、俺はある確信を持って右を選んだ。だが、そのとき大きな波が押し寄せて、卓も椅子に座っていた俺たちも海中でもみくちゃにされる。選んだ牌を必死に右手に握っていたが、それがイーピンであるかの確認ができない。だが、再び海へのみ込まれた。身体は、最初のときと同じように、海底深くに引きこまれて行く。もしかしてハズれだったのだろうか、最後に思い出す人を井川さんに決めて、俺は静かに目を閉じる。
「常に人生とは選択だ。賭けにのるかのらないかもまた、選択のひとつ。ひろは賭けにのることをしなかった。しかし、それが不正解だと誰がいえる。だが、正解でもない。ひろはただ、のらないことを選んだ……それだけだ……」
　俺に話しかけてくる人間なんて、赤木さんしかいない。薄眼を開けると、海上から射しこむ光と、そのなかで揺れている人影をみつけた。
「死神みてぇ……」
「世話がやける。どうして俺を信じなかった？」
「言ったでしょ、俺はあんたを酷い人間だと思ってる……あんたを尊敬こそすれ、信じることはしない……」
「ひろなら、左を選んだだろうな」
「そうですね……けど、それがあの人だ……」
　死神は俺に笑いかけながら、こちらの右手をとり、握られていた牌を取りだした。それを見て、俺は首を傾げる。握られていたものは牌ではなく、いつもポケットにしまっていた赤木さんの骨だった。
「お前さん、死ぬには早いが、生きるにもまだ遅い。なら、もっと走るように生きてみな……」
　今度は魚ではなく、赤木さんに右手を引かれて上へ上へと昇っていく。彼の言葉なんて信じないといったくせに、その手の平の温かさを自分は心から信じた。目を開く、自分からも彼の手を握り返した、明るい、光だ。握っている手を見れば、それを神の手であった。
「素直に、助けてやるって、いえばいいのに……」
　暗闇の中で触れた神の手は、麻雀牌のようにつややかな手の平をしていた。

　体が大きく震えた直後、ベッドから落ちた。「いてっ」と叫んで起き上がろうとして、頭のうえに枕が落ちてくる。災難続きにあいながら頭を振って床から起き上がると、雨上がりの晴天が窓の外に広がっていた。鼻水が垂れてくるのですすり、首筋に触れてみる。熱は下がったようだが、鼻水が次から次へと流れてくる。
　備え付けのティッシュに手を伸ばした時、右手に赤木さんの骨を握ったままであることに気付いた。それは火葬場で焼いた後ではないかと思うほどに熱く、手の平で熱を発していた。そういえば赤木さん本人はどこだろうと探せば、部屋にある椅子に腰かけて、天井を見つめていた。
「あ、赤木さん」
「ん……？」
「あ、いえ、なんでもありません」
「体長は良くなったか？」
「はい」
「もう大丈夫なら、東京に帰るか」
「……はい」
　礼を述べようとしたが、無粋だと気付いて感謝の言葉を呑みこみ、心の中にとどめておく。言葉にすると、その気持ちが安っぽくなりそうで嫌だった。礼の代わりに、右手にあった骨を握って、感謝を唱えた。
　赤木さんの潔さに感心していると、彼がいつもの煙草を咥える。ライターもなく火がついた先端、そして煙がゆっくりと天井に昇っていく。その匂いは、夢のなかで嗅いだそれと、同じものだった。　

九、

　起きてまずしたことは、裸のまま浴室へ行きシャワーで身体を綺麗にすることだった。熱いシャワーで凍っていた足先や指先が溶けて行く。頭がさっぱりしたところで、スーツに着替えようとしだが、床に脱ぎすてたままの濡れたそれはしわくちゃで、クリーニングにでもださなければ着ることができないあり様だった。しかし、今この部屋で着ることのできるものはこれくらいしかないし、赤木さんに代わりの服を買ってきてくださいとも頼めない。仕方なくしわくちゃのスーツに袖を通し、駅近くの服飾店に寄って、黒いネックのセーターとＧパンを買った。店でそのまま着替えてしまい、スーツの方は店員に紙袋へもいれてもらった。
　私服姿で新幹線に乗ったのは十二時ちょうど。帰りの車内にも人影は少なく、隣の空席には赤木さんが座った。
「これから帰ってどうする気だ？」
「井川さんに会いに行って、赤木さんの骨を返して、謝ります。殴られる覚悟で……」
「どこで謝る？」
「え、それは、まぁ……井川さんの家まで行くとかして……」
「そしたらお前、海に行くぞ」
「俺の話聞いてました……？」
「久しぶりに海が見たくなった。そこにひろを呼べばいい。辛気臭い部屋で話すよりも、海が見える方が、まだいいだろう」
「我儘……」
「おいおい、年上は敬うもんだぜ……」
　海と言っても、あまりに遠くへ行っては井川さんと待ち合わせするのに不便となる。どこかいいところはないかと腕を組めば、赤木さんと出会う前に、自分が落ち込みに行った場所を思い出す。大海原が見えるわけではないが、あれもれっきとした海だろう。
「海、行きましょうか」
　海と口にしただけで、やむことのないさざ波が聴こえてくるようだった。
　新幹線を新宿駅で降り、乗り換えで新橋駅へ。そこからはバスで海浜公園を目指す。海に近づけば近づくほどに、海の匂いが鼻をついた。バスを降りてからまず向かったのは海ではなく、公園近くに設置されていた公衆電話。緑色のそれにテレフォンカードをいれ、深呼吸を一度してから井川さんの携帯電話の番号を押す。井川さんの番号はそらで言える。彼と番号を交換した日は嬉しくて、何度も口にだしては、目で左から右へと数字をなぞっていた。
　緊張の一瞬、井川さんが電話に出なければいいのにと願いながら、コールを数えていたときに「はい」と懐かしい声がした。たった一週間きいていなかっただけなのに、泣きそうになった。泣いて許してくださいと懇願したい。だが、俺にその資格はない。覚悟を決め、受話器の向こうで黙っている井川さんの名前を呼んだ。
「井川、さん……お、お久しぶりです」
　それだけをようやく絞りだした。第一声は罵声か怒声か。しかし、電話をかけてきた相手が俺だと気付いた井川さんは、悲鳴のような声をあげて、「岸辺さん！」と名前を呼んでくれた。
「岸辺さん、今までどこ行ってたんですか！」
「え～と……京都まで……」
「京都？　仕事じゃないですよね？」
「はぁ、まぁ……」
「携帯かけても通じないし、留守電残してもかかってこないし！　沢田さんに電話かけてもらっても通じないし、心配してたんですよ！」
「すいません、携帯壊れちゃいまして……」
「家には車がおきっぱなし、数日前から帰った形跡もなかったし……」
「え、井川さん、俺の家にきたんですか？」
「昨日、一昨日は通いづめでした。あなたが帰ってくると思って、待ってたんですよ。合鍵使わせてもらいました……」
「すいません……」
「ご飯食べてましたか？　怪我はしてませんか？　事故に巻き込まれたとかじゃ、ないんですよね？」
「大丈夫です、俺は大丈夫です」
「……今、どこにいるんですか？」
「今はお台場近くの海浜公園にいます」
「俺は今、新橋にいます。今からそっち向かいますから、絶対に動かないでくださいね！」
「え、いいですよ。俺がそっちに行きますから」
「いいから、公園の砂浜にでも座っててください！　少しでも動いたら、二度と自分で部屋の掃除しませんからね！」
　乱暴に切られた電話に「もしもし」と問いかけるが、ツゥーという単調な電子音しか聴こえてこなかった。もっと、拒絶されるかと思っていただけに、相手の反応にたいして、強張っていた身体から力がぬける。しかし、骨を盗んだ犯人が俺だと知れば、井川さんの態度だって一変するかもしれない。大きなため息をついて受話器を戻し、公園の方へと向かう。新橋からここまで、俺と同じようにバスに乗ってくるのかもしれない。おそらく三十分ほどで、井川さんがここへやってくる。海辺で別れ話とは面白いが、一生の思い出になりそうで、海を二度と見たいとは思わないだろう。
　少し歩けば公園で、そこを抜けると小さな砂浜が見える。その日の海風は穏やかで、生ぬるい風にのって、夕焼けで紅くなった水滴が、きらきらと光りながら顔にかかった。
　隣に浮かんでいる赤木さんを見ると、つまらなさそうに水平線を見つめていた。俺は彼に「失礼します」と言って、煙草を吸った。それから二人で何も言わずにしばらく海を見つめぼうっとした。煙草が短くなったところで、携帯灰皿にそれを押しつける。生ぬるい風、嵐の日に赤木しげるが同じ海を泳いだのかと思うと笑いがこみあげてきた。
「なに笑ってんだ……?」
「フられる前の男のやけっぱちですよ、はは……」
「男の惚気を聞く趣味はねぇぞ」
　赤木さんがこちらをからからかいながら、吸っていた煙草を海に捨てた。それはゴミになることなく、寄せてきた水面に着水するまえに消えてなくなった。
　そうして、赤木さんは一服後の気持ちよさそうな風体で、俺より数歩前にでると、裸足を波に浸した。赤木さんの白い足首が、砂にまみれ、海水に洗われていく。そんな彼を羨ましいなんて思ってしまい、自分も靴を脱ぎ砂浜におくと、波へ足を浸してみる。夢の中の海とは違い、若々しい小さな波と泡は、生温かく指の間をくすぐっていった。
「入水自殺か？」
「死にませんよ。そこまで悲観的じゃありません」
「悲観的になって崖から飛び降りるのもいい。あぁ、でもお前の場合は自殺になるか」
「だから、自殺しませんって。赤木さんは俺を殺したいんですか？」
「殺してどうする？　お前みたいな羨ましい人生、もうしばらく楽しんでから死にな」
「それ、本気で言ってます？」
「羨ましいさ、お前はこれからも天とひろと打つ。他の麻雀馬鹿共とも打つだろう、それが何より羨ましい……」
「あなただって、打ってきたじゃないですか。いろんな人たちと……」
「足りねぇよ……どれだけ打っても足りねぇ……。打ったときに感じるあの乾き、渇望する生。生きていると思う、牌を倒した瞬間。それこそが最もの快感だと、俺達は知っている。だから、またあの骨に触れる。触れてまた生を感じる。そうだろう、兄さん……？」
　初めて牌に触れたのはいつだったのか、そしていつからあれに魅了されていたのか、記憶は定かではない。しかし、赤木さんの言う言葉の全てが、自分の思考とあてはまり、それが分かるのは、乾いた勝利の世界に生きる馬鹿共だと、俺もその一人だと、赤木さんの問いかけに俺は頷いた。
「赤木さん。そういえば俺、あなたと一緒にいて分からないことがあったんですけど、その答えが今わかりました」
「なんだ？」
「大したことじゃないんです。俺はあなたの骨に嫉妬はしても、あなた本人を前にしては嫉妬するとか苛立つといったことがなかった。どうしてだろうと、思い出しては答えを探していました。でも、今ならわかる。赤木さんは海みたいな人なんだ」
　骨を彼の墓前に供え手を合わせたとき、風の轟音が耳を襲い、鼓膜を震わせた。今、海から吹く風が、そのときと同じように耳の中へ入ってきて、ごうごうと奇妙な音をたてる。開いた口の中が塩辛くなった。
「海？」
「そう、海。海には嫉妬しないでしょ。赤木さんのたった指先しか俺は知りませんが、それだけであなたの大きさはなんとなくだけど、わかったような気がします。あなたあってこその、井川ひろゆきなんだ。ようやく、自分のなかで整理がつきました……」
　どれほど頭をひねったところで完成しなかったジグソーパズルの、ようやく外枠を組むことができた気持ちだった。まだそれだけだが、これから中身を埋めていけばいい。ここまで来るのに、たくさんの心を擦り減らしてきた。だが、それは無駄ではなかったのだ。
　水平線に沈もうとしている夕日が眩しくて、目を細めていれば、それを遮るように赤木さんが俺の前に立ちふさがる。彼の白い髪が、燃えているように、赤くなった。
「兄さん、俺はもう未練はないといったが、もう一つだけ未練ができたみてぇだ」
「えぇ、まだあるんですか？」
「それに関しては、俺が自分でどうにかしよう。しかし、お前みたいな甘い野郎にひろを預けるのは、どうにも心もとない」
「え……！」
「俺を海だなんだと、詩人よろしく感傷にひたってるようなひ弱なやつに、ひろを預けるのは、どうにもなァ。これじゃ、心配で成仏してる場合じゃなくなった……」
「それは、困り、ます。すごく！」
「お前に一生とり憑いて、ひろに近づくたびに死んだ方がましだっていう苦痛を与えるのもいいし、ひろにもっとましな女を用意するのもいいだろう。兄さん、あんたはどっちがいい？」
「止めてください、俺はどちらも選ぶことはしません！　俺が井川さんを幸せにするんです！　赤木さんがどうしても邪魔をするなら、お祓いでもなんでもして、あなたを追っ払いますから！」
「その威勢がいつまでもつかな。お前、本当にひろが好きなのかい？」
　最後のその一言が頭にきて、「馬鹿いわないでください！」と目の前の赤木さんに向かって怒鳴っていた。周囲にいる観光客の目なんて気にしない。俺はこの数日で溜まりに溜まっていた気持ちを吐きだすために、叫んだ。

「好きに決まってるじゃないですか！　好きですよ、　大好きだから、あの人にフられる覚悟で告白したんです！　大好きなんですよ、好きなんだ、あんたには分からない！　俺は、あの人を誰にも渡したくない！　でも、俺は井川さんには少しも見あわないって知ってます……みっともないってのも知ってる……！　あんたみたいに、麻雀だって強くない……！　でも、この気持ちだけは、誰にも譲れない、これだけは、ほんもんだ！」

　鼻がつまっているのに、ひと息に言いきったせいで呼吸が苦しくなった。それでも、俺は泪目で赤木さんを睨みつける。対照的に、赤木さんはどうだといわんばかりに口角を皮肉げにつり上げていた。これで彼が消えてくれるかは知らないが、これが俺の思いの全てだった。もし、これでとり憑かれるにしろ、井川さんに他の運命の相手が用意されるにしろ、もう止められない。井川さんにどれだけ嫌われたところで、決して離せない。すがりついて、俺が嫌われているぶんを補うように、井川さんを好きでいればいい。そう決心をして、鼻水をすすったときだった。

「俺のこと好きなら、死ぬなんて許しませんから！」

　背後から井川さんの声を聞いたと同時に、耳元で赤木さんが囁いた。
「あぁ、楽しそうな人生を歩いてるみてぇだな……」
　俺がどういうことですかと赤木さんに訊ねる前に、後ろからタックルをくらい、海へと前のめりに倒れ込んだ。海水から急いで顔をあげ腰にしがみつく相手をみれば、それは見慣れた姿の見慣れた顔、井川さんだった。
「あれ、井川さん？」
「入水自殺なんて俺、許しませんよ！」
「いや、死にませんから！　大丈夫ですから！」
「本当ですか？」
「本当ですから！」
　浜辺で騒いでいる男二人を、周囲の人間が遠巻きに見つめている。俺の言葉を信じていないらしく、右腕につかまる井川さんの力は少しもゆるまない。彼を連れて海から上がれば、二人とも海水でびしょびしょになっていた。タオルもないしハンカチもない。水難の相が出ているのだろうか。井川さんにスーツの上着を脱いでもらい風邪を引かせないようにする。それから近くのベンチに彼を座らせたが、それでも井川さんの両手は、俺の右腕を掴んだままだ。
「井川さん、風邪ひきますよ。今からどっかの店で服買いましょう」
「それよりも、岸辺さんに話すことがあります」
「………別れ話ですか？」
「違います……あの日は、すいませんでした。まさかあれを、岸辺さんが見つけてしまうとは思わなかったんです……すいません……」
「それをいったら、俺の方が謝るべきなんですよ、井川さん」
　俺は右ポケットから礼の白い欠片を取り出し、それを井川さんに渡した。俺の右手を離し、彼はその欠片を驚いた様子で受取った。俺が盗んだという考えには至っていなかったようで、いまだ瞳に怒りはまざっていない。
「俺があなたの部屋から盗みました」
「ずっと、持っていたんですか……？」
「はい」
「無くしたと思ってました。岸辺さんにあんなことした俺への天罰だと、思ってました……」
「天罰なんかじゃありません、どうぞ殴ってください」
　相手へ顔を差し出せば、殴る代わりに頬をつねられた。力の限りのそれは、本当に肉がちぎれるのではないかという痛さで、ようやく離してもらったときには、奥歯の方が痺れていた。あまりの痛みに泪が一筋流れる、それを井川さんが指先で拭ってくれた。
「俺は盗んだことに怒ってるんじゃありません。俺を不安にさせたことで怒ってるんです。でも、これですっきりしました」
「殴ってください。そうじゃないと、俺のけじめがつきません」
「岸辺さん、これが何か分かりますか？」
「………骨ですか？」
「よくわかりましたね。これ、赤木さんの骨なんです。骨壷にしまう時に、ひと欠片をポケットにしまいました」
「どうして……？」
「岸辺さん、以前俺は赤木さんを助けられなかったことを、悔やんでいると言いましたね。きっと、その気持ちは影のようについてまわる。赤木さんが許すとか許さないの問題じゃないんです。自分で背負いたいと思った罪なんです。あの日、俺はその罪の証を見つけて、ポケットに忍ばせました」
「馬鹿な人だ」
「えぇ、大馬鹿ですよ。これを見るたびに勝手に悲しんだし、勝手に後悔してばかりでした。でも、あの日、岸辺さんがこれをみつけたときに、俺は怒りよりも恐れであなたからこれを奪い取りました」
　井川さんが骨を手の平で遊ばせる。自分が触りなれたそれが、他人の手の上で踊っていると、ずいぶん奇妙だった。井川さんの手にいるとき、それはいっそう白く輝いた。
「俺は、あの時に井川さんが怒っていると思ってました。人の秘密を勝手にみたわけだし……」
「いいえ、俺は自分の醜い部分や弱い部分を、岸辺さんにみられたくなかったんです……」
「……その一言、だいぶ傷つきますね」
「でも、だからこそあの日、俺はあなたが心底恐ろしいと思ったんです……」
「恐ろしい？」
　そのとき、井川さんがまた俺の右手を握った。彼の目から溢れた泪が、俺の手の平におちて、水面を作る。
「俺、凄く岸辺さんが好きなんだって、気付いて、恐ろしかった……」
　最後の部分は聞き取れずに、泣き声に消えた。どうしていいのか分からずに、井川さんの腕を握り返す。人を好きになるのは人それぞれで、自分は井川さんのことを考えて泣くことが幾度もあった。今、井川さんは俺のために泣いている。俺は井川さんに笑ってほしいのに、泣かせてばかりだと、鼻の奥が冷たくなる。
「俺は、井川さんを泣かせてばかりかもしれませんね」
「幸せで泣いてるんです。岸辺さんが好きで泣いてるんです。だから、謝る必要はありませんからね……」
「井川さん、俺はデカい男になります。井川さんが罪を背負っていくなら、俺も背負います。赤木さんのこともっと教えてください。そうやって少しずつでいいからあなたの半分を俺にください。俺の半分も、井川さんにあげますから」
　井川さんはおかしそうに「半分だけですよ」と泣きながら笑った。
　井川さんがくしゃみをしたので、浜辺を後にしようとベンチを立ったとき、彼が波打ち際へと走りだす。そして、靴を濡らしながら、右手にもっていた骨を海へと放り投げた。俺が悲鳴をあげてその骨を追おうとしたが、「いいんですよ」と引きとめられた。
「本当は、もう返そうと思ってたんです」
「え、誰に？」
「赤木さんにですよ」
「でも、ここ海、ですけど……」
「あの人は、風みたいで海みたいな人なんです」
「赤木さんですか？」
「そう、赤木さん。海みたいに荒々しく、風のように壮大で、そして自由な人だった……」
　赤木さんのあの囁きは、きっと消える間際のそれだったに違いない。すでにどこにも姿はなく、海へと帰っていった、赤木しげる。嵐の日に海から生まれなおし、神の名をほしいままにした男。墓に眠る赤木しげるとはまた別に、十三歳の姿をした白い髪の少年が、海底深くを泳いでいる姿が、目蓋に浮かぶ。彼に羨ましがられた人生であるが、俺はあなたと打てない人生を歩む、それが少しの悔しさとなって、胸を焦がした。
「そういえば、井川さん。面白い話があるんです。俺が一週間旅してきた話なんですけどね……」
「へぇ、どんな話ですか？」
「話せば長いんですけど……」
「いいですよ、話してください。夜はこれからなんですから…」
　神の手に触れた右手で、井川さんの左手に触れる。たとえ、世界が許さずとも、神がすでに許している。人間が勝手に罪を作り、罰を作る。きっと神がいたら、そんなことよりもっと楽しいことをしろというだろう。それでも背負うことを選択するならば、彼と一緒に背負える幸福を取ろう。
「偶然行った場所で、赤木さんを知ってる人たちと逢ったんです。治さんと、南郷さんっていうんですけど……」
　俺の話が終わるまで、井川さんは一切口を挟むことなく、耳を傾けてくれた。

十、

「お前ら、本当に仲良いよな」
　天さんに指摘され、二人でくしゃみをしながらマスクの下で苦笑いをする。昨日、海に濡れてすぐに着替えることをしなかったせいで、朝から二人して咳と鼻水が止まらない。それとも、俺の風邪が井川さんに移ったのかもしれない。具合は悪いが、だかといって今日の予定だけは外せない。
　井川さんと仲直りをした次の日の二十六日。日本中の雀士がどこか浮足立ち、近き者も遠き者も赤木しげるの墓参りにやってくる。昼間に井川さんと共に墓前で手を合わせた。昨日別れたばかりの相手に報告することは特にないが、「ありがとうございました」と深いお辞儀をした。墓の周囲に咲いていた彼岸花は、一週間ですっかり枯れていた。
「彼岸花、枯れちゃいましたね」
「岸辺さん、知ってますか？　その花って咲いて一週間で枯れちゃうんですよ」
「へぇ……一週間……」
　そういえば、赤木さんと出会って別れたのも一週間だった。白い彼岸花を移し身にして、この世に咲いていたのだろうか。いや、それはさすがにロマンチストの考えだな。あの人を花にたとえる趣味はない。
　墓参りが終わってから向かったのは雀荘さわだ。その日は貸し切り状態で、一番乗りは俺たちだった。
「沢田さん、今日は誰が来るんですか？」
　井川さんが訊ねたところ、「天、原田、健、金光」の四人と聞いた。三人で雑談をしていたところで、天さんがやってくる。線香の香りがするから、墓参りを終えたばかりだろう。沢田さんをいれて四人で打とうとしたが、沢田さんに「おめぇらと打ったらカモになる」といって断られてしまった。サンマでもするかと話していたところで、原田さんがやってきた。こちらも線香の匂いが漂っていた。みんなして線香臭い。
「どれ、それじゃ四人で打とうぜ」
「それよか、そこの二人は帰らせンで大丈夫かい？　ゴホゴホさっきからうるさくてしャ～ない」
「すいません、昨日岸辺さんと海を見に行ったら風邪引いちゃいまして。でも、打てないほど酷いってわけじゃありませんから」
「原田、こう見えてひろは頑丈だから、だ～いじょうぶ」
　四人で宅を囲んだところで、東西のかつての大将二人と井川さんの三人というメンバーだということに気付き、今さらながら武者ぶるいをする。なるほど、こういうことか。赤木さんの言った羨ましいという言葉を実感した。
　親を決め、牌が並ぶ。一三六の地獄が巡る、八本の手が牌をきる。死に触れる四人の雀士。一局二局と進んでいくうちに、流れが見えてくる。どれ、ここでリーチと言って、井川さんの切った牌でロンと倒す。井川さんが悔しそうにしながら点棒を渡してきた。それを受取り、また牌をツモる。
　ふと、沢田さんが「線香臭いな」といって窓を開けた。部屋に乾いた秋風が吹いて、鼻先に彼岸花の匂いを散らす。そのときに聴いたのはごうごうという風にしては激しい、岩礁に叩きつける波音のようなそれ。それが聞こえて思わず後ろを振り返ったが、そこには誰もいない。自分の勘違いを隠すように咳をしてから、前を向く。その左肩に、一度だけ握ったことのある、あの右手がおかれる。そして、首筋にタバコの煙が吹きかけられた。

「岸辺、お前とも打ってみたかったよ……」

　驚いて椅子から転げ落ちそうになったのを、天さんや原田さんに笑われる。耳の裏をかきながら背後を見るが、すでに相手は風となって消えていた。最後の最後まで、掴みどころのない人だった。顔が赤けりゃ、耳も赤い。俺も、あなたと打ってみたかったですよ、赤木さん。すでに風の音は聞こえない。きっと、もう二度と聞くことはないだろう。
　タンッと牌を打つ、ポンと井川さんが鳴いた。
　呼吸ができる。その息の美味いこと。死人にゃこの気持ちは分かるまい。
「骨は釣れるか骨はェ……」
　〈白〉をひき、あの一節を思い出し口にした。一三六の地獄を巡る、いくらでも彼のために地獄を巡ろう。雀士は常に、死に触れているのだから。
　その神は、赤木しげると名乗っていた。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　

終

一、

その名を口にすれば、美酒を呑んだが如きの酩酊に襲われ、その名を耳にすれば、昂奮といくばくかの緊張が指先を震わせ、そして、その名をみつめれば、過去の栄華が目蓋にうかぶ。その名を知らぬ雀士など、いるのだろうか。だが、その名を冠する男と対峙できる者は、すでに誰一人としていない。
　神域と崇められた男の、本当の最後を看取った者はこの世に八人。自らの忘却に死を選択した男の潔さを知る人数。俺はそのうちの一人から、神域と八人の男たちの物語を聞き、小説よりも奇なりという安直な感想を持った。一方で、聞きかじった情報で、神域の偶像を組み立ててはいたが、まさに彼は神であったと納得させられた。かの男の存在を、伝説と片付けるには難しい。
　昔話が終わってから、話し手は神域の写真を見せてくれた。白髪、虎柄の白いスーツ。レンズに向けられた視線が、背筋を震わせる。生前撮られたというその姿は、一度見れば、忘れようにも忘れられない。
　その男の名を、赤木しげると綴る。全ての羨望、嫉妬、罵倒、崇拝、因果、幻想を背負って死んだ、神。しかし、神は死なない。彼は人間だった。
　赤木しげる。俺に神の死にざまを伝えた男は、彼の名を大切そうに口にしていた。かつて聞いたことがないほどの、滑らかな声だった。
　赤木しげる。その男は確かに、そう呼ばれていた。

二、

骨は釣れるか骨はェ～という一節を思い出しながら、牌をぶった。落語「野ざらし」の一節だ。骨を題材にした噺のせいか、〈白〉をツモると時々思い出す。かつては牛骨、象牙で作られていたという麻雀牌は、今では樹脂で作られ、手に冷たくともそこに死への執着はみられない。それでもしばし錯覚する、この一三六枚ある牌全てが骨であったらと。それを混ぜる四十の指先。雀士はいつでも、死に触れている。
「リーヅモチートイツドラ２……」
　俺が牌を倒すと、周囲から岸辺だ岸辺が勝ったと声があがった。
　神奈川某所の料亭、ヤクザの接待麻雀での一席。オーラスぎりぎりのところで逆転し、トップへ返り咲いた。相手であった三人の代打ちたちが溜め息や舌打ちをするなか、俺は肩の荷がおりたと首をぐるりと回す。十三畳もある畳敷きの広い部屋。卓を囲む四人の他、代打ちを使って賭け事をしているヤクザの総長と、その腹心たち数人が一つの卓に見入っていた。
　昨日の夜十時から始まった席が、日をまたいで次の日の八時まで続いた。九月も中旬、夜の静寂のなか秋虫の声を聴いていたはずが、耳に届くは目を覚ました雀の鳴き声。
　誰が賭けに勝ったかは知らないが、今日の勝負で俺が目立ったことに変わりはない。最後に総長から「よくやった」と声をかけられた、それに愛想笑いを返しておく。
「岸辺忍といったな。どうだ、今日はここに泊まって行け、待遇するぞ」
「いえ、明後日にまた仕事があるので、今日のうちに東京へ帰らなければ……」
「そうか。しかし、お前の打ち筋は見事だった。もう少し、見ていたいものだったよ」
「はは、有難いお言葉です」
「今度、また一席もうけることがあれば、声をかける。ところで、お前は井川ひろゆきと知り合いだと聞いた。どうだ、あの神域の弟子も共に？」
「いえ、それは無理な相談です。きっと俺が声をかけたところで、首を縦にはふらないでしょう」
「ふむ、それは残念だ」
　総長に礼を述べてから、料亭を後にした。そして、近くの駐車場に止めておいた愛車へ乗りこみ、心の中がざわざわとうるさいので、一服しながらラジオをつける。本日の天気予報が終わると、知らないバンドの聴きなれない曲が流れだす。
「誰がちくったんだか……」
　井川ひろゆき。俺は井川さんと呼んでいる。麻雀講師、雀士、第一次・第二次東西戦の東の代表の一人。彼とは親しい間柄であるが、それを知っている人間は少ないはずだ。そりゃ、普段から彼と行動を共にしているからバレてしまったことも考えられる。しかし、自分から吹聴して回っているわけではない。知り合いの誰かが一緒にいる現場を目ざとく見つけ、ヤクザへ「面白い話がありまして」と話の種に使ったのかもしれない。胸糞が悪いし、腹が立つ。
　井川さんへの仕事の依頼を、自分伝いに頼まれたことを怒っているのではない。井川ひろゆきへの興味が、麻雀の強さではなく、「神域の弟子」という部分にしか向いていなかったことに、腹が立った。それでも、彼の打ち筋を見れば相手はその見方を改めるだろうが、もとから下心のある奴に井川さんを紹介する気はさらさらない。
　お前のようなやつに、誰が井川さんを紹介するものか。総長への愛想笑いの向こうでは、そんなことを思っていた。
　神奈川から東京へ戻るため高速に乗った。しかし、一夜寝ずの脳味噌は目蓋を重くしていくので、仕方なくパーキングエリアで三時間ほどの睡眠をとった。小腹も空いていたので、エリア内の売店でタコ焼きを買った。マヨネーズを多めにかけ、熱々のそれを頬張ると、上唇を火傷した。タコを舌で転がし、二つ目も口へと放る。鰹節とソースと粉物は、どうしてこうも合うのか。不思議なものだとしみじみしているところで、胸元の携帯電話が鳴った。口の中を呑みこんでから「はい」と電話にでる。
「もしもし、岸辺さんですか？」
　電話の相手は井川さんだった。
「あれ、井川さん。どうしました？」
「いえ、別に用事はないんです。お仕事の方、どうでしたか……？」
「なんとか最後に巻き返しましたよ。泊まっていけって言われたんですけど、もう帰りたいからって、今東京向かってます」
「そうですか」
「それだけですか……？」
「本当は、岸辺さんの声が聞きたくなったんですよ」
「……俺も、井川さんの声ききたいなって思ってました」
「でも、今日は疲れてるだろうから、ゆっくり休んでくださいね」
「はい」
　井川さんから電話を切るだろうと待っていたが、いつまでたっても切れない。二人で苦笑してから、「俺から切りますね」と断ってボタンを押した。しばらくの間、携帯を目の前にかざし、口元に浮かんだにやけを発散させる。
　井川さんとはたしかに知り合いであるが、誰も俺たちが恋人同士であることは知らない。天さんにも沢田さんにも、誰にもバラしていない。俺が好きだと言った。三回目の告白で、井川さんが俺を受け入れてくれた。恋人同士だ。男同士で可笑しいかもしれないが、それでも、好きで好きで諦めきれなかった。
　明後日に仕事があるといったのは嘘。ただ井川さんに会いに行きたいという、その一心しかない。
「井川さん、今日は家にいるかな……」
　曜日を指で数えると今日は水曜日、麻雀教室の日だから夕方には帰ってくるはずだ。彼が帰る時間と同じくらいに、俺も東京に着くだろう。少しだけ冷めたタコ焼きを食べ切り、エンジンをふかす。神奈川の一席の前には、千葉での仕事が三日あった。逢えない間、井川さんの呼吸や熱を思い出し、一人遊びをしていた。
　車のなかに自分しかいないときは、決まってラジオの音量を大きめにする。懐かしい曲や古い曲まで、知っていれば口ずさむ。名前も知らない流行りの曲で、「わたしがどうしてあなたを好きか、わたしにはわからない」というフレーズがあった。俺だって井川さんを好きになった理由は曖昧だが、好きになった瞬間は覚えている。ひょんなことから巻き込まれた事件で、井川さんが麻雀の勝負で視力を一時的に失った瞬間があった。勝負の合間、彼に肩を貸したとき、手の平に相手の汗を感じた。すると、誘拐された沢田さんと行方不明となった天さんを見つけるため、文句ひとつ言わずに戦っている井川さんに対して、無意識に泪がこぼれたのだ。あのときに、最後まで彼を支えようと誓っていた。きっとあの時に彼を好きになった。
　俺も人のことは云えないが、井川さんと実際に逢うまで、彼のことを神域の弟子としか認識していなかった。沢田さんから噂を聞いてからは、彼と打ってみたいと思った。打ったら打ったで、彼の強さに魅了された。どこをとっても、嫌いになる要素がなかった。嫌いになるには理由がいる、しかし好きに理由は必要ない。
　無意識に車を飛ばしていたようで、東京に到着したのは午後三時。井川さんに会いに行きたいが、彼はまだ帰っていない。仕方ないので一度家に帰り、重い体をベッドに預ける。次に意識が覚醒すると、外は夜の帳が落ちた十九時になっていた。急いで出かける準備をし、今度は電車で井川さんの自宅へと向かう。
　最寄り駅近くのコンビニで酒を買って行ったが、もしかして沢田さんや天さんと飲みに行っているかもしれないと途中で気付いた。そしたらこの酒は、ドアノブにかけておけばいい。井川さんの住んでいるアパート前、彼の部屋に灯りがついているのを見つけ、賭けに勝ったことにニヤけた。階段をあがり、二階角部屋のチャイムを鳴らす。合鍵は貰っているが、使わない。
「はい」
「こんばんは、井川さん。岸辺です」
「え、岸辺さん？」
　部屋からあわただしい音がして、ドアが開いた。スウェット姿でくつろいでいたらしい井川さんが、俺をみて「おぉ」と驚いた声をあげる。
「岸辺さん、どうしたんですか？」
「井川さん、もう夕飯食べましたか？」
「まだです、けど……すいません、今日の夕飯、カップラーメンなんです……」
「カップラーメンは控えてくださいって言いましたよね」
「すいません……」
「酒買ってきたんで、今日泊めてくれませんか？」
「お酒飲む相手がいないから、俺の家に来たんですか？」
「井川さんに会いたいから来たんですよ」
　井川さんは、ハハと短く笑って俺を中へ通してくれた。畳敷きの居間には卓袱台、そこにお湯を注ぐ前のカップ焼きそばが、蓋をあけられた状態で置かれていた。カップラーメンがいくつも入ったビニール袋を井川さんが持って、どれにするかを尋ねてきたので、同じカップ焼きそばを選んだ。
　そして、その二つを台所に持っていき、火にかけていたヤカンからお湯を注ぐ。完成するまで、井川さんと立ちんぼうをして待っていると、仕事についての話をふられた。
「いや、千葉の方は誰が勝っても良かったし、神奈川の方は接待麻雀だったせいか、手応えがありませんでしたね」
「駄目ですよ、どんな局面でも手を抜いちゃ」
「精進します」
「でも、人間だから仕方ないところもあるっていうのは分かります」
「井川さん相手だったら、手を抜いたら最後、頭から喰われちまう」
「お腹すいてるから、これから岸辺さんを食べるのもいいですね」
「俺なんか食べたら、腹ァ壊しますよ」
　三分経ったので、焼きそばの水を切って居間に戻り、卓袱台に向かいあって座る。麺にソースをからませ青のりをかけ、「いただきます」と同時に言ってから二人で焼きそばをすすった。安っぽいソースの香りと、麺の弱い弾力、カップ麺独特の味。だが、それが良い。
「久しぶりに食ったけど美味いですね、カップ焼きそば」
「カップラーメンもたまには良いでしょ？」
「井川さんは放っておけば毎日じゃないですか」
　二人でもくもくと麺をすすり、からになったプラスチックを台所のゴミ箱に片付ければ、後は酒とつまみで乾杯をする。テレビを見ながらどうでもいい話をして、何度も乾杯。暑いからと開け放っている窓からは、秋の乾いた風が吹いてくる。東京でも秋になれば虫が鳴く。紅葉はまだみられないが、すぐに吐く息が白くなるだろう。
　井川さんに一言断りをいれてから、トイレで用をたした。部屋に戻って来ると、井川さんは場所を移動して、窓際でビールを呑んでいる。彼の眼差しは外の景色に向けられている。まただ、と思った。また、井川さんはどこかを見ている、声をかけられない。
　井川さんと付き合う前から、彼はどこか遠くを見つめることが多かった。それは酒を呑んでいる時によく見られた。話が途切れたほんの一瞬で、彼は遠くを見つめる。窓から外を見ているときもあれば、手元を見つめているときもある。俺を見ているはずなのに、俺越しにどこかを見つめているときもあった。最初は気のせいだと思ったが、それが何度も続けば、彼の意識がこの場にないとすぐにわかった。好きな相手のことだ、すぐに気付く。
　そうして、「どこを見ているんですか」と訊ねたい口を、精一杯の矜持で閉ざしてきた。訊ねたところで、彼は答えない。いや、一度だけ訊ねた。だが、彼は笑顔で「なんでもありません」とごまかした。そのとき、自分と井川さんの間に、いまだ埋められぬ溝を見つけた。
　だから、彼が遠くを見つめているときの理由は聞かないようにしている。窓際にいる井川さんの隣に腰掛けると、彼の方へ顔を近づけ唇をのせた。焼きそばを食べたばかり、ソースと酒の味がするキス。女とキスをすると、いつも鼻先をくすぐった香水の匂いも、井川さんとでは煙草の匂い。だが、こちらの方が安心する。彼の手からビールを奪い、畳の上に押し倒す。
　井川さんは抵抗することなく、俺の首に腕をまわして口付けを返してきた。付き合ってもう三ケ月になるが、それでも井川さんのキスはたどたどしい。手の平で愛撫を続けながら、相手の服の下に手をいれ、熱に触れる。二人で腕を交差させながら、相手の雄を高めた。井川さんの手でイかされると、自分も彼をイかせた。
　ティッシュでもろもろを綺麗にしたところで眠気に襲われ、井川さんに擦りよりながら目をつぶる。
「やっぱり、まだ疲れてるみたいですね……」
「井川さんに逢えたから、安心して眠くなってるだけです……」
「岸辺さんはまっすぐだ。逢いたいってなったら、いつでも逢いに来る」
「井川さんだって、俺に逢いたくなったら逢いに来ていいんですよ」
「そしたら、今度は俺から逢いに行きますね……」
「……はい」
　睡魔に襲われ目を開けることができない。井川さんの右手が俺の頭を撫でている。彼は今、俺だけを見ているだろうか。それとも、遠くを見つめているのか。気になりはしたが、すでに体は深淵に引きずりこまれていた。
　それから何時間ほど寝ていたのかわからない。薄眼を開けて目を覚ましたとき、窓から太陽の光が差し込んでいた。もう起きる時間かとあくびをしてから隣にあるはずの温もりを探すが、腕はからっぽの畳の上をすべった。「あらら」と目やにまみれの目をこすりながら部屋の中を一見すると、角に置かれている箪笥の前に、スーツ姿の井川さんが立っている。そして、一番上の引き出しをあけ、その中を覗きこんでいた。
「あ……」
　小さく声を漏らしてしまった。引き出しの中を見つめていた井川さんの眼差しが、遠くを見つめている時のそれと同じだったからだ。しばらくの間、彼の横顔に見入っていたが、俺が起きたことに気付いた井川さんが「おはようございます」と挨拶をしてきた。反射的に「おはようございます」とかえしている間に、彼は何事もなかったように引き出しを閉じてしまった。
「井川さん、今日はお仕事ですか？」
「はい、今から出かけます。岸辺さんはゆっくりしていってください」
「あ、そしたら片付けとかしておきます」
「ありがとうございます。そしたら、いってきますね」
　二回の東西戦に名を残す井川ひろゆきが、どこにでもある麻雀教室で老人達に健康麻雀を教えているとヤクザたちに教えたら、どんな顔をするか。俺だって聞いたときは「あの井川ひろゆきが」と驚いたものだ。
　井川さんの背中が扉の向こうへ消えるまで手をふった。鍵が締められたと同時に立ちあがり、体を伸ばす。井川さんが掛けてくれた毛布を押入れにしまい、昨夜の宴の残骸をビニール袋に詰める。それから、もともと散らかっていた部屋を軽く片付け、掃除機をかける。今日一日は井川さんと予定があえばどこかにドライブと思っていたが、仕事だから一人ぼっちになってしまった。
「沢田さんのところに行くか……」
　昨夜会えただけでも、良しとしなければならない。重い腰を上げゴミ袋を持っていこうとしたとき、部屋の隅にある箪笥に目を向けてしまった。井川さんは、何を見ていたのだろうか。何をそんなに、悲しげに見つめていたのか。玄関に向いていた足が、自然と箪笥の方へ行っていた。一番上の引き出しに手を掛ける。後は引くだけとなるが、緊張で手が動かない。
　俺にだって秘密があるし、井川さんにだって秘密はある。それを許可もなく覗くことは、井川さんの心の中へ土足で入りこむようなものだ。
「駄目だろ、のぞいちゃ」
　自戒のつもりで右頬を強くつねり、井川さんの家を出た。戸締りをして、ゴミを捨てていく。外は気持ち悪いほどの快晴であるが、心はもやもやしている。足が重い、右足から、油をさしていない鉄のこすれる音が聴こえてくるようだった。

三、

「そりゃお前、昔の恋人の写真とかじゃねぇか？」
　雀荘さわだへやって来ると、営業時間でありながら店内に客の姿は見られなかった。平日でも、授業をさぼってやってくる大学生や、仕事合間の息抜きでやってくるサラリーマンが打っていることが多い。沢田さん自身も暇そうに珈琲を呑んでいたので、挨拶をしてからここ数日の仕事の報告をした。自分から仕事を見つけることがほとんどだが、時々沢田さんから仕事を回してもらうこともある。そちらのツテでは、沢田さんの方が根深い。
　彼から珈琲を淹れてもらい報告もひと息ついたところで、少しだけ話をごまかしながら、沢田さんに今朝あったことを話してみた。すると、彼はあっけらかんとした様子で、こちらが不安になるようなことを言った。
「昔の恋人ですか……？」
「岸辺、お前女ができたのか。今度は続くといいな」
「止めてくださいよ。俺が悪い男みたいじゃないですか」
「悪いだろ。まぁ、昔は女に捨てられてばっかりだったけどな」
「若かったんです」
「はは、若いのひと言で全部が片付くと思うなよ。今度も捨てられる方か？」
「違います！　捨てられません！」
「吼えろ吼えろ」
　沢田さんが楽しそうに笑っているところへ、大学生四人の客がはいってきた。常連らしく、慣れた様子で窓際の卓に座り大学教授の悪口を言いあっている。そろそろ人も来るだろうからおいとましようかと席を立ったとき、「岸辺」と沢田さんに呼びとめられた。
「お前は赤木の墓参りに来るのか？」
「あ、そういえば、九月二十六日は命日でしたっけ？　あれ、今は十八日だから……」
「八日後だ。今年は何人かで集まって供養麻雀なんてのやるかって話になっててな。とっくにお陀仏してるだろうに、おかしいもんだ」
「いいんですか、俺なんかがお邪魔しても？」
「来いよ。おなじみのメンバーしかいない。岸辺は赤木しげると逢ったことは？」
「いえ、ないです。一応、井川さんから写真は見せてもらって、話は聞きましたけど……」
「赤木はお前のこと、少しは気にいったかもしれないな」
「それはないですよ。俺は天才じゃない」
「才能のことを言ってるんじゃない」
「でも、死んだ人だから、気に入られるかなんて一生わからないですよ」
　沢田さんに頭を下げて雀荘を出た。電車に乗って家に帰る途中、「赤木しげる」という男について、考えてみる。伝説の男、無敗の男、神域、彼と打ったことのある男数人と逢ったことがある。皆がこぞって神技だと言ってのけた。その話をするときの相手の瞳には、少年のような純粋な光が宿っており、どれだけ彼らを魅了したのかと、赤木しげるの雀力に畏怖を示した。
　井川さんから赤木さんの話をちゃんと聞いたのは、彼と付き合ってすぐのことだった。俺を伴って墓参りに行った際に、彼はぽつりぽつりと神域との出会いから別れまでを話してくれた。そうして、最後に彼は泣いた。その泪の意味を考えあぐね、俺は静かに話を聞くことしかできなかった。
「井川さんは、赤木さんが本当に好きだったんですね」
「そうですね、好きでした。でも、同時にあの人のことが嫌いでした」
「不器用な恋みたいだ……」
「恋じゃないですよ。俺にとってはただの憧れなんです。神様なんて呼ばれてるけど、あの人は俺にとっては人間でした。天さんに右手を引かれて、赤木さんに背中を押してもらった。今でも、あの人の言葉は俺の一部だし、それによって今の俺は作られているんです……」
「俺は逢ったことないから、やっぱり赤木さんは神様に思えます」
「神様だったら、死んだりしませんよ」
　赤木しげるという人間が、井川ひろゆきの中のどれほどを占めているのか、その大きさを知って絶望した。それでも、俺は彼の隣にいることを許されたのだから、それを良しとしなければならない。そう自分に言い聞かせた。
　嫉妬が、心の奥底で黒い泡をふいている。赤木しげる、その名は神と同等の意味合いを持つ。それに嫉妬している自分が愚かであり、この悩みを打ち明けて理解を示す人間がいるわけがないと、唇を噛んだ。
　どうして俺は、神に嫉妬しているだろうか。その嫉妬はいまだ心の中に残っている。
　自分の家の最寄り駅に着いて少し歩いたところで、井川さんに会いたくなった。沢田さんの言ったように昔の恋人の写真でもかまわない。俺の家にだって、いまだに昔の恋人が置いていった残骸が転がっている。いつか、井川さんがその写真を見ないでも済むように、俺が傍にいて支えてやればいい。
　コンビニの前で立ち止まり、井川さんへと電話をかけてみた。数コールあってから、聞き慣れた声が「はい」と電話にでた。
「井川さん、今大丈夫ですか？」
「はい、ちょうど十五分休み中だから、平気ですよ」
「よかった。そしたら、今日の夜ってあいてたりしますか……？」
「今日は夕方赤木さんのお墓参りに行くので、それからでよければ……」
「はい、大丈夫です。そしたら、俺も用事が終わってから、赤木さんの墓参りいくんで。何時くらいに、迎えに行きましょうか？」
「今日は三時に仕事が終わるから、たぶん向こうには四時に着いてると思います」
「そしたら、そのくらいに。すいません、忙しいのに電話しちゃって……」
「いいえ、俺は電話嬉しかったですよ。それじゃ」
　また井川さんから電話を切るだろうと待っていたが、やはり相手は切らない。まるで決まりきったひと芝居のようで、二人して笑ってから「俺が切りますね」と了解を得て、通話を終わらせた。
　なんだか、ここに来て急に赤木しげるという名前を聞くようになり、気分がおちつかない。代打ちとして駆け出して一年後に、赤木さんの葬式が新聞で報じられた。噂で知っていただけの男が死んだと聞いても、実感はわかなかった。しかし、年かさの男たちはこぞって喪服に身を包み参列していった。彼の死後一年経って、俺は一人で墓参りをしに行った。墓前に供えるにそぐわない麻雀牌や煙草、酒にチップ。一番笑ってしまったのが墓石に張られた冷湿布だった。彼の墓石の欠片をもっていると幸運になれるという噂によって、墓は削られて酷いことになっていた。俺は彼の吸っていた煙草を供えて手を合わせるだけで、石は削らなかった。俺はこの人を知らないし、石を持っていたところで意味はない、こちらの世界は運すらも実力だと知っていたからだ。
　一人で行ったのはその一回だけ。あとは、井川さんと二人で行くばかり。それに比べ、井川さんが一人で赤木さんに手を合わせに行く回数の多いこと。きっと、俺がいない間にも墓参りに行っている。勝つたびに、何かあるたびに、月参りに、命日に。俺はまだ大切な者を失う痛みを知らない。だが、その相手を井川さんと仮定するならば、俺も同じように暇を見つけては彼に会いに行くだろう。手を合わせ、最近あったあれこれを彼に伝える。そんなことを考えるときは決まって、鼻の奥がツンとする。
　自分の家に帰り、すっかり忘れていた郵便物の確認をした。いくつかは数週間前に終えた仕事の礼状、後は仕事の依頼が一件あった。今どき手紙で頼むのはどうかと思うが、ヤクザの中には昔ながらを好む人間が多い。
　手紙の依頼へは断りの手紙を書きながら、あとはメールでの依頼を整理して、スケジュールを立てる。どれも関東を中心とした仕事ばかり。しばらくは東京から離れたくない。赤木さんの命日には、供養麻雀とやらに参加させてもらおう。それまでは、こちらでの仕事を引き受ける。
　仕事の整理を終えたころには、家を出る時間となっていた。車のキーを持って家を飛び出し、車を飛ばした。赤木さんの墓へは何度か車で行ったことがあるので、道は覚えている。途中で交通事故の渋滞に十分ほど巻き込まれた。時計をみると四時まであと五分。ハンドルにおいた手をイラつかせながら、渋滞を抜けたところでさらにスピードを出した。井川さんが誰かに取られてしまうような、焦りがあった。
　寺内の駐車場に車を止めて、急いで赤木しげるの墓へ向かおうとする。しかし、何か持ってきた方が良かっただろうかとあたりを見渡し、寺の向かい側にあったコンビニで煙草を一つ買った。
　あらゆる名前が刻まれた墓石の間をぬって行ったところで、ようやく赤木しげるの墓前へやって来る。そこにはすでに井川さんが立って、手を合わせていた。
　静かに目を閉じ、背筋を正して一心に祈っているその姿を、俺はただ見つめるしかできない。生ぬるい風が吹き、赤木さんの墓のすぐ隣に生えている木の葉をさざめかせた。紅い彼岸花がところどころに生えている、その色に似た嫉妬が心臓を刺していった。声をかけられずに、井川さんのお参りが終わるまで、ずっと彼を見つめ続ける。その横顔が、遠くを見つめているときの井川さんの表情と、酷似していた。
　それから五分経って、井川さんがようやく顔をあげる。隣に置いていた手桶を持ってこちらを向いたときに、「あれ、岸辺さん」と驚いたように言った。
「いつからいたんですか？」
「はい、ついさっき」
「なんだ、そしたら声をかけてくれても良かったのに……」
「いえ、あそこまで真剣に手を合わせてるのみたら、邪魔なんて出来ませんよ」
「どうせ、ここ数日あったことを報告していただけですよ。岸辺さんのことも、伝えておきました」
「なんて云われてるか、ちょっと気になりますね。あ、俺も赤木さんに手を合わせても良いですか……？」
「どうぞ、待ってますから」
　ポケットから新品の煙草を取り出し、墓前に供えて手を合わせる。慣れない線香の匂いが、体中にまとわりついてくるようだ。目を閉じる、何を言えばいいのか分からない。ただ、心の思うままに死んだ彼に語りかけるとしたら、どうか井川さんを取らないでください、その一言につきる。心の狭い男だ。
　俺のお参りは十秒もしないで終わり、合わせた手をポケットに突っ込むと、墓に刻まれた赤木しげるという名を目でなぞる。角が削れてボロボロになった墓石、死してなお博徒たちを惹きつける男にふさわしい墓だ。　
「前より削られてますね、墓」
「仕方ないですよ。みんな、欲しいんですから」
「そういえば、井川さんって赤木さんの石もってるんですか？」
「あぁ、……実は」
「やっぱり。俺もそのうち貰いたいけど、怒られるかな」
「貰っても、赤木さんは怒らないと思いますよ」
「はは、今度ミノでも持ってきますね。それじゃ、行きましょうか」
　井川さんから手桶を奪い取って、元来た道を戻る。どこかで食べていきましょうかという提案に、井川さんが「焼き肉」といった。
「いいですね、焼き肉」
「あれ、もしかして岸辺さんは車ですか？」
「はい、車で来ました」
「いやぁ、悪いな。俺だけお酒飲んじゃうなんて」
「一緒に飲まないっていう優しさはないんですか？」
「俺は自分の欲求には正直でいようって決めてるんです」
　二人で軽口をたたきながら車に乗り込み、近くの焼き肉屋へ行った。タン、ハラミ、カルビ、等々。トングで肉を焼き、焼き上がったら井川さんの皿に運ぶ。野菜も焼いて食べさせる。ピーマンが苦手だと言う彼に、ビールを飲めない腹いせですよと返す。コーラで炭酸欲を満たしたが、やはり目の前で美味そうに酒を呑まれると飲みたくなった。
「いやぁ、美味しいですね」
「帰りに酒買ってくから、悔しくありません」
　それでも、井川さんが美味しい美味しいと言ってご飯を食べている姿に、自然と笑みが漏れていた。彼と出会ってすぐは、顔色が悪い人だと思っていた。食が細いというわけではないが、夕飯をぬいたりカップラーメンでの生活が長いせいだと、すぐに知れた。それからは、彼のために何かを作ったり、どこかへ食べに連れて行ったり。最初こそ井川さんのためと思っていたが、しだいに自分が彼と飯を食べることを楽しんでいた。一人で食事をすると、どこか心寒い。対面に座る人が欲しいわけではない、井川さんと飯が食いたいと思うようになっていた。おそらく、それは恋心の一種だろう。
「そういえば井川さん、二十六日は赤木さんの供養麻雀に行くんですか？」
「あれ、もしかして言ってませんでしたっけ？」
「聞いてませんよ」
「すいません、岸辺さんも一緒に行くって勝手に思ってました」
「俺、行ってもいいんですか？」
「はは、どうしてですか？　みんなもきっと喜びますよ」
「なんだか悪いですよ。俺は、赤木さんのこと何も知らないのに……」
「俺だって、赤木さんのこと、何も知らないですよ」
「知ってるじゃないですか」
「知りませんよ……」
　そうして、ビールを右手に持った井川さんが俺を見つめた。その目には俺が映っているが、遠くを見つめている。あの眼差しだ。俺ではない、どこかを見つめている。
「原田さんが言ってたんですけど……」
「はい」
しかしその日、井川さんは沈黙することなく、俺に話をしてきた。
「赤木さんはあの死んだ日、実はまだ生きたい気持ちがあったらしいんです」
「え……？」
「三パーセントだけ、生きたい気持ちが残っていたらしいんです」
「あの、神域がですか？」
「そうですよ、あの赤木さんがです。その三パーセントの生きたい気持ちがどういったものだったのか、時々考えるんです。考えても、まったく分かりませんけどね。もし、この話を、俺が赤木さんと対面する前に聞いていたら、彼に訊ねることもできた。あなたの三パーセントには、何が含まれているんですか、て。俺は、あの人に慰められて終わったから……」
「……」
「前にも話したと思うんですけど、俺はあの夜、赤木さんに賭けを申し込まれたんです。彼が助かるかもしれない賭けを。それを俺は最初から諦めた。たぶん、赤木さんもそれを知っていて、俺にその賭けを持ちかけたと思うんです。もしその勝負を受けてほしいなら、天さんに持ちかけるはずだ……」
「天さんなら、その賭けを受けましたね。絶対に」
「今なら俺だって受けます。けど、あの時の自分は受けられなかった。岸辺さん、俺は……」
　井川さんが手元のビールのグラスを見つめた。焼いていた肉が真っ黒に焦げている。しかし、指先ひとつ動かせない。彼が何か言うまで、自分は彼の声に耳をすませるしかない。人でにぎわっているはずの店内が、静寂の場と化していた。
「俺は……？」
「俺は……自分が赤木さんを殺したと思ってるんです」
「それは、……それは、賛同しかねます」
「岸辺さんならそう言うと思ってました」
「赤木さんは自分の意思で死んだはずだ。それが、どうして井川さんの責任になるんですか？」
「でも、罪を背負いたくなる。きっとそれは、あの場にいた他の七人も同じですよ」
「天さんもですか……？」
「どうかな。あのとき、それぞれが赤木さんとどんな話をしたか、あまり話したことがないんです。天さんからだって聞いたことがありません。でも、同じだと思ってます。みんなそれぞれに、罪を抱えてると思ってます。俺の思い込みかもしれないけど……」
「おかしな話だ。まるで、赤木さんが死ぬ罪を、八等分したように聞こえる」
「もしかしたら、そうだったのかもしれません」
「赤木さんはそんなこと、望んでいないと思います」
「分かりませんよ、死人に口はありませんから……」
　そして井川さんは黙ってビールを飲みほした。遠くを見つめていた眼差しは消えて、少し照れたように「供養麻雀には一緒に行きましょう」と笑う。俺は網で黒焦げになった肉や野菜を取り皿に移して、また違う肉を網に置いた。きっと、井川さんがこの話をした相手は、俺が初めてだろう。そうでなければ、あの夜にいたそのうちの一人が、答えを与えているはずだ。どうしてその話を、赤木しげるに縁もゆかりもない俺にしたのか。尋ねたくても、舌が凍っているようで、上手く発音できない。
　それから二時間後。二人で腹を満たしたところで、酔っぱらいを助手席に座らせ、車を走らせた。井川さんのアパートに着くと、足元のおぼつかない彼を引きずり、合鍵で部屋に入った。玄関でだらしなく眠ってしまった井川さんを放っておき、居間に布団を敷いていれば、酔っぱらいは一人風呂場でシャワーを浴び始める。そして、すぐに水浸しで戻ってきたので、彼の裸をバスタオルでふいてやると、敷いたばかりの布団に押し倒された。井川さんからのキス。彼の体は酒とシャワーのせいで、触れると熱くて冷たい。
「井川さん、酒臭いですよ……」
「岸辺さんはいつもより、落ち付いてますね……」
「井川さん、大丈夫ですか……？」
「大丈夫です。セックスしましょう、岸辺さん……」
　井川さんの体をまさぐると、彼の体が大きく揺れた。横向きになり、俺が彼の体に覆いかぶさるようになった。酒を呑んでいるから勃ちにくいかと思ったが、パンツの中の井川さんのペニスを口に含んでしゃぶれば、すぐに膨張した。井川さんの口から甘い声が漏れてくる、いつもより切なげに聞こえた。
　井川さんがイく前に雄を扱いていた手を止め、仰向けに寝ている彼の背中に枕を敷く。それから、ローションで彼の秘孔をほぐし、二本の指を三本にして己の欲望を挿入しやすくする。井川さんの眉間に皺が寄っているので、彼へとキスを落とした。肉壁がひくついている。充分にほぐしたところで指を抜いた。井川さんの体から力が抜けたので、彼の足を左右に大きく開いて、そこに自分の腰をすえた。挿入前にゴムを付けて、準備を済ませる。
「挿れますね……」
「……はい」
　酒に酔っているから、いつもより視線が定まっていない。それでも、必死にこちらへすがりつく腕の力は強く、酒焼けした声が耳元で名前を呼んでくる。それだけで、自分の下半身は勃起していた。
　雄を手で支えながらゆっくりと井川さんの中へ入っていく。ぐぐぐ、と先へ進めば進むほど、井川さんが悲鳴のような声をあげる。時間をかけて少しずつ少しずつ進み、奥に達してからも、時間を置いて腰を揺らした。
　男を好きになったのは、井川さんが初めてだ。井川さんも初めてだと言っていた。女であれば濡れるあそこも、排泄物を出す場所であるため、ローションで濡らさなければならない。汗をかきながら腰を揺らしていると、しだいに慣れてきた井川さんがうなり声とは違ったものを上げ始める。前立腺と呼ばれるチンコの裏側部分を亀頭でこすると、彼の背中が弓なりに反った。
「あっ、……ぐぁっ、ぁっ……んんっ……！」
「井川さん、痛い、ですか…？」
「だい、じょうぶ、きもちいい……ですっ……」
「よかった……」
　二人とも汗まみれだ。井川さんの首筋を舐めれば、内部が震えて締まった。キスをすればさらに締め付けてくる。自分の愛撫に答えてくれる井川さんが愛おしくなり、彼の感じる部分ばかり突きあげた。井川さんの足先が暴れ、声が大きくなる。お隣まで聞こえそうだと思いながらも、彼の声が聞きたくて黙っていた。
「岸辺さん……もう、イく……ん、んぅっ……！」
　井川さんが苦しそうに腰を擦りつけてきた。彼の雄をみれば、ぎちぎちに膨らんで先走りとローションで陰毛が濡れている。エロい光景に、内部にいる自分がさらに膨張した。自分がイく前に井川さんの雄を右手で上下に強めに扱いた。井川さんが何かを叫んだが、聞き取れず、イく瞬間に井川さんの体中が力強く俺に吸いついてきた。
「は、あぁ、あぁぁ……！　あっ……くっ……！」
　井川さんの内部が締まりにしまるので、俺もすぐに後を追うようにイってしまう。井川さんの頭を左手で抱えこみ、右手でシーツを握りしめる。下半身からの快感は背中を通って体中に分散する。ゴムの中に吐き出される欲望を、なおも井川さんが締め付けてくる。気持ち良くてさらに腰を振った。井川さんの体から力が抜けて布団に横たわる、俺もそんな彼の上に覆いかぶさり、息をついた。
「井川さんのなか……きもち、いい……」
「俺に挿れて気持ちいいなんて、……岸辺さんだけですよ……」
「井川さん、声かれてますね」
「明日は、一時から仕事です……ふふ、大変だ……」
　汗で濡れた彼の頭を撫でていると、井川さんが目をつぶり寝息をたてはじめた。しばらく相手の黒髪を弄ってから、情事後の後始末をする。チンコからゴムを抜いて捨てたり、井川さんの尻をティッシュで綺麗にしたり。すべてが片付いてから、ようやく彼の隣で寝ることができた。眠る前に時計をみると、すでに夜中の十二時を回っていた。十九日、赤木しげるの命日まであと七日だ、心の中にひたりと冷たいものが垂れてきた。嫉妬を抑えつけるように枕に顔を押しつけ、乱暴に目をつぶる。疲れた身体は、正直に眠りについた。
　そうして、浅い眠りから目覚めたのは、六時間後。外からの眩しい光に目を細めながら、顎ひげを撫でる。尿意をもよおしたせいで目が覚めたらしく、二度寝も上手くいかないので、諦めてトイレへ向かった。朝の小便欲を満たしてから井川さんの眠る布団に戻ろうとした。そのときに、部屋の隅でコトリッと何か軽いものがぶつかる音を聴いた。音のしたほうに目を向けると、それは例の秘密を隠した箪笥。布団を飛び越え、箪笥の前で立ち止まる。昨日までは開けようとは微塵も思わなかった引き出しに、手をかけていた。昔の恋人の写真かもしれない。それならまだいい。昔の人のことを、自分が忘れさせればいいだけの話だ。だが、違うという確信があった。この中に、それではない、もっと歪なものがしまってあると、どこからともなく確信がやってきた。秘密を覗くこの行為、果たして興味からなのか、嫉妬からなのか。きっと、二つの感情が混ざっていた。

俺は引き出しを開けた。

「あ……」

驚愕の声ではなく、拍子抜けして声が出た。引き出しの中は手帳やフィルム、何かが入っている封筒が雑多に並べられていた。しかしそのなかで、右端に転がる白い物が目を引いた。それを手にとってみると、軽いが硬い感触。鉄ではないし、木でもない。大きさは手の平で握りこめるほどの欠片、丸くはなく凹凸がある。手触りはさらりざらりとしている。なんだろうか、これは。なんだろうか、なんだろうか、なんだ……？
「なに、してるんですか……？」
　とつぜん声をかけられたので、手にしていたそれを落としそうになった。引き出しに集中していたせいで、井川さんが起きていることに気付かなかった。裸で立ちあがった井川さんの目が、大きく見開かれている。困惑と憤怒の色がうかんでいた。
「あ、井川さん、これは、あの……！」
　弁解をすることが無駄であると知りながら、何か云わなければならない使命感に駆られて口を開いた。しかし、井川さんがそれに聞く耳を持たずに、俺の腕を掴んでくると、右手に持っていた白いそれを奪い返してきた。本気で怒っている井川さんを見るのは初めてだったので、謝罪の言葉も出てこない。そんな俺にとって代わり、井川さんが怒鳴った。
「帰ってください……！」
　俯き、手の平のそれを力の限り両手で握りながら、井川さんの声は震えていた。俺が戸惑っていると、もう一度「帰ってください」と今度は小さく消え入るような声で突き離された。俺はようやく「すいません」と謝ってから、昨日脱ぎ散らかした服を着ると、玄関に向かった。井川さんはこちらに背を向けたままで、立ちつくしている。声をかけても無駄だと悟り、俺は彼の家を出た。
　気持ち悪い太陽の光に目を細める。駐車場まで行き、車に乗り込んでから頭を抱えた。
「なっにしてんだ、俺は！」
　そして、右拳でもって自分の頬を何度か殴った。俺は、井川さんの悲しい顔を見たいわけではない。では、何故あの隠されていた彼の秘密を見てしまったのか。醜い、自分の浅はかな本性が醜い。嫉妬だ、嫉妬。嫉妬だ、もしあれが写真であったところで、それをみたのは嫉妬でしかない。彼の過去に嫉妬した自分に、またも拳をいれた。
「あぁ～どうすんだよ……」
　一時間経っても、心がざわざわと落ちつかない。しばらくの間は彼に逢うことは叶わないだろう。時計をみればまだ朝の八時にもなっていない。舌打ちをした。
　謝るのは当分してからだ。きっとこちらから連絡をいれたところで、応じてはくれない。自分の神経が逆立っているので、一服をして気を落ち付かせる。そして、先端の火が限界まで燃えたときに麻雀を打つことに決め、眉間に皺を寄せたまま、高田馬場へ車で向かった。あそこなら、朝からやっている雀荘を知っている。
　コインパーキングに車を止めて、何度か行ったことのあるその雀荘に顔を出した。昨夜から打っていた数人の男たちが眠そうに目をこすっている。受付で一名だと告げれば、「兄ちゃんここはいんなよ」と早起きでやって来ていた老人三人の卓へ誘われた。
「緑の兄ちゃん、容赦はせんぞ」
　相手が強いか弱いかは関係ない。ただ麻雀によって気分が落ちつけばよかった。老人三人は知り合いらしく、話をしながら局は進んだ。最初こそ八つ当たりのように荒々しく打っていた俺も、老人たちののんびりとした雰囲気に呑まれて行き、しだいに自分のペースを取り戻していく。
「兄ちゃん、また上がりかいな」
「すいませんね」
「たく、あんたは年上を敬うってことを知らなきゃいけねぇぞ」
「はは…」
　軽口すら、今は気分がまぎれる。俺が親の番となり、ツモった牌は〈白〉。それを切ろうとしたとき、いつもの癖で骨は釣れるか骨はェ～と、「野ざらし」の一節を唱えていた。その瞬間に、俺は背筋が凍りつくのを感じた。

（あれは、骨じゃないか……？）

切った〈白〉をいつまでも離さない俺に、老人達が「どうした」と心配そうに声をかけてくる。なんでもないですといいながら、その指先は震えていた。
「どうした兄ちゃん、昨日の飲み過ぎが今になってきたんか？」
「は、はは、そうかもしれません……」
「なんだい、酒に飲まれちゃいけねぇ。まぁだ、若いくせにあかんな。わしなんて、ほれ下もぎんぎんで元気でいかんわ」
　老人たちが下ネタで盛り上がっている声が遠くに聞こえる。自分の考えの馬鹿らしさを笑い飛ばしたいが、額に汗がにじんだ。
「あの、一つ、聞きたいことがあるんです……」
「あ、なんだい？」
「俺の麻雀打ってる友人が、白い小さな物を隠しもってたんです。白くて、ごつごつしてて、材質は木でもプラスチックでもなくて……あ、大きさは、これ、これくらいなんです……！」
　そういって、俺は切ったはずの〈白〉を手の平において、老人たちに見せた。
「それって、何だと思いますか……？」
　自分でも阿呆な質問をしていた。それでも、この答えを自分で見つけてしまった恐怖に、誰かを巻き込みたかった。そして、違う答えを与えてもらいたかった。しかし、老人たちは盛大に笑った後に言ってのけた。
「それは骨だろ」
「え……」
「悪鬼は骨に集まる。兄ちゃんだって、これに魅せられてはまったんだろう？　なら、そらぁ骨だ」
　老人の一人が俺の持っている〈白〉を指差し笑った。しかし、俺にとっては笑えない冗談だ。俺は「気分が悪いので」といって、〈白〉を卓に戻し席を立った。背中に「冗談だよ」という老人達の笑い声がきこえてきたが、それに振り返ることもできないくらいに、体が震えていた。車に戻ってから、またも頭を抱え込んだ。あれは本当に骨なのだろうか。そればかりが気になった。そして、もし骨だとしたら、どうして骨を井川さんが持っているのか。疑問が残る。
　昨夜の井川さんの言葉を思い返そうとするが、はっきりとは覚えていない。あそこに入っているのが、赤木さんの墓石ならよかった。それの方がまだつじつまが合う。そして、そこまで考えて、誰の骨であるかの答えに辿りついてしまった。
「赤木しげる……」
　あれはおそらく赤木しげるの骨。しかし、いやいやいやと頭を振った。どうして井川さんが赤木さんの骨を持ってるんだ。赤木さんはちゃんと成仏したんだから、それでいいじゃないか。その骨を持っている意味が、井川さんにあるのだろうか。
　どうどうめぐりの答えしか出てこない。車の中で悩みに悩んでいたとき、時計を見ればすでに十三時を過ぎていた。井川さんは一時から仕事だと言っていた。おそらく、確かめるには今しかない。俺は覚悟を決めて井川さんの家へ車を飛ばした。
　井川さんの家に着いたのは十四時過ぎ。彼の家へ勝手にお邪魔することは初めてだった。合鍵はもらってあるし、いつでもどうぞと言われているが、今日の下心満載の状況では、泥棒の心境であった。鍵のかけられたドアをあけて、中に入る。窓が閉め切られているので、部屋の空気はよどんでいた。靴を揃えて「お邪魔します」と無意味なことをした。
　居間には昨夜の布団が敷かれたままだ。それを横目に、あれがしまってある箪笥の前に立つと、今朝と同じように、右手で取手を掴む。しかし、そのときになって、井川さんが引き出しにあれをしまい直しているのか、という疑問がわいた。ここまで来たが、なかったらなかったで諦めるまでだと、引き出しを開けた。同じように、乱雑に物がしまわれている。そして、例の物も同じようにして引き出しの隅で息をひそめていた。
　今朝よりも落ち付いてそれと対峙する。見た瞬間に、これは骨だと直感している自分が不思議でならない。右手でそれを手にとり、硬さや大きさを確かめる。実物の骨を見たことはないが、博物館で動物の骨はみたことはある。骨はもっと硬くて重いものだと思っていた。たしかに硬いが、軽い。大きさのせいもあるかもしれない。これがかつては人間の形を作っていたそれなのだろうか。
「やっぱり、赤木さんの骨かな……」
　他に思いつく相手はいなかった。そのとたんに、胸の奥で熱い物がわきあがってくるのを感じた。嫉妬だ、嫉妬が心臓を鷲掴みにしてくる。嫉妬に駆り立てられるような人間ではなかったはずだ。雀士たるもの、いつだって感情に流されてはいけないと言われてきたし、自分でも自覚していた。自分は感情的になりやすい、だから落ちついてその場を受け流さなければならない。その悪い癖がでた。俺は、赤木さんの骨かもしれないそれを握りこむと、井川さんの家を飛び出した。鍵を閉めてから車に戻るまで、心臓の動悸が激しかった。運転席に腰をおろしてから、骨を握っていた手の平を開く。そこには骨があった、井川さんが大事にしていた骨があった。
　三カ月付き合った恋人が、骨を大事に隠し持っていたことを、気持ち悪いとは思わなかった。骨は冷たく、何も言わない。これを俺が勝手に見つけたことに加え、それを持ち去った事実を井川さんが知ったら、なんと思うだろうか。おそらく、しばらく口を聞いてくれなくなるどころか、別れようと言われるかもしれない。返しに行きたい、だが返しに行きたくない。これが赤木さんの骨だということで嫉妬しているところもあるが、何よりも嫌だったのは、これを見つめていたときの井川さんの眼差しだ。彼が遠くを見つめるとき、彼の目には悲哀が浮かぶ。彼の悲しみの元凶を、どうして返せるだろうか。しかし、今俺がしている行為は立派な盗みであり、自己満足だ。
「駄目だ。返しに行こう……」
　しばらく身もだえしてから、意を決して再び井川さんの家へ戻ろうと車から出た。そのとき、遠くからこちらへ歩いてくる井川さんの姿を見つけて、慌てて扉を閉め、窓から外の様子を覗く。仕事ではなかったのか、人影はやはり青いスーツ姿の井川さんだ。今から急いでも、彼より先に部屋に入って骨を返すことはできない。彼が二階への階段を上がっていき、部屋に入るのを見届けてから、車を出した。
「後戻り出来なくなった……」
　車を適当に走らせているうちに、絶望に背中を押されて泪が両目から溢れてきた。ガソリンがなくなりそうだったので、近くのガソリンスタンドへ行き「レギュラー満タン」と言って一万円札を店員に渡した。相手は俺が泣いていることに驚きつつも、黙って仕事をこなす。釣りを受取ってから、車をだした。行くあてもないから、海が見たくなってお台場へハンドルをまわした。
　今頃、井川さんは骨を探しているだろうか。そして、敏い人だから、「岸辺さんが盗んだのかもしれない」と、犯人を特定しているだろうか。すいません、井川さん。あなたを好きな岸辺忍は、あなたにとって最低な人間になり下がりました。
　お台場の海浜公園にやって来ると、駐車場に車を止めた。そして、少し歩いて砂浜に行き、海を眺める。砂がさっそく革靴の中にはいった。水平線を見つめれば、すでに日は沈みかけている。
　その場に腰をおろし煙草を口に咥え、火をつけ紫煙を吐き出す。井川さんと別れるイメージしか浮かばない。どうして俺は彼の大事な物を盗んでしまったのか。盗まなければ、きっと井川さんはこれが何であるか、後から教えてくれたのではないか。いや、なかったことにされたかもしれない。どちらにしろ、もう後には戻れない。
　右ポケットを探れば白くて硬い物に触れる。こいつのせいで悩んでいながら、それを握っていると、気分が次第に落ち着いていく。温もりはなかったが、手の平の温度が伝わって、優しい熱を帯び始めた。
「返そう、それでいい。それしか方法はないわけだ……」
　沈んでいく夕陽に感傷的になりながら、そう決意する。謝る以外に何ができる、それで彼に嫌われたところで自業自得だ。砂浜をけって車へ戻った。だが、井川さんの家へ戻る前に、これが赤木さんの骨ならばと一路を彼の墓地へ変更した。
　門をしめるぎりぎりの時間に、彼の骨が安置されている寺へ着いた。急いで車を止めて、目の前のコンビニで煙草を買って墓へと急ぐ。空は紫から藍色へと変わり、墓地内で人影をみつけることができない。彼の墓前へやってくると、まずは煙草を供えて、それから骨の欠片をその隣に置いた。手を合わせようとする前に、線香がないことに気付いて、仕方ないから自分の煙草に火をつけて、それを線香置きへおいた。
　鴉が鳴き交わしている、吹いて来る風が生ぬるい。彼岸花の赤が揺れているのを視界の端にとらえた。
「骨を盗んですいませんでした。それから、どうか井川さんと仲直りできますように……」
　神社でもあるまいに、何故か自分の願望を亡き人、赤木しげるにぶつけていた。閉じた目に力を入れ、重ねた手の平にも力をいれて念じる。生ぬるい風が吹いているせいで、背筋に嫌なものがはい上がって来る感覚がした。煙草の匂いがやけに鼻につく。それに混じって、潮の薫りがする。風の音がうなって聞こえるのに、実際に吹いている風は肌を撫でる程度。海の音に聴こえる、先ほど聴いてきたばかりの、海から吹く潮風の音にそれは似ていた。そうして、風の音は最初こそ強かったものの、しだいに弱まっていった。
　周囲が静寂を取り戻したとき、ようやく目を開けた。おそらく一分ほど念じていたようだ、墓地にある街灯の光ですら視界に眩しい。だからこそ、目の前にいる人間に対して、最初は目の錯覚だと思った。「赤木しげる」と彫られ、角は削られてぼろぼろの墓石の上で、優雅にあぐらをかいている男がいる。その男は愉快そうに笑いながら、墓石の上から俺を見下ろしていた。
「え……」
　目をこすり何度か瞬きもしたが、そいつは消えない。消えないとわかってから第一に思ったことは、変なところに座っている器用な男だなということ。第二に、どこかで見たことのある男だと思った。第三にしてようやく、人の墓石に座って失礼なやつだと思い、「おい、あんた！」と相手を指差した。
「それを誰の墓だと思ってる！」
「兄さん、名前は？」
「あん……？」
「名前はなんだって聞いてる。聞かせてみな……」
　その男は煙草を咥え、煙を美味そうに吸っては吐いている。たかが煙草ながら、ここまで様になる人間を、俺は知らない。白髪に不健康そうな肌の色。虎柄のシャツに、白いスーツ。口元に浮かべた笑みは温和そうに見えるが、鋭い眼光が全てを暴くように射ぬいてくる。不貞野郎だが、相手の無言の気迫に圧倒された。
「き、岸辺忍……」
「どっかで聞いたことのある名前だが、はて、どこだったか……」
「そ、そういうあんたは、どうなんだ！　あんたの名前は！」
「俺かい？」
「あんたしかいないだろう！」
「ククク……名を尋ねられたのは、久しいな。年ィくったら、みんながみんな、名前を勝手に覚えてやがる」
「は？」
　男は墓石の上で立ち上がり、さらに天上から俺を見下ろした。彼の背後には白い満月が浮かんでいる。夜の光に照らされた、男の見事なまでの白髪が、狂気を誘って呼吸を忘れさせる。
「遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見なァ。俺の名は、」
　その男が名乗る寸前、俺は相手が誰であるかと思い出した。あぁ、この男は。この男は。俺はあんたを、写真でみたことがある、あんたは、
「あんたは……っ！」
「兄さん、俺の名は赤木しげる。覚えておきな……」
　赤木しげる、その男は確かに自らをそう呼んだ。

四、

「おい、あんた。大丈夫かね。おい、お～い」
　最初は優しげに頬を叩かれていたが、しだいにその力が強くなり、しまいには頬をつねられたので、「いてっ！」と悲鳴を上げながら目を覚ました。起きたとたんに、視界いっぱいに禿げたおっさん。そいつが俺を見下ろし、頬をつねっていた。白髪の男ではない、まずはそのことに驚いた。
「昨日からずっと駐車場に車止めてたのはあんたか。いかんよ、こんなところで居眠りは」
　相手は袈裟をつけている、このおっさんがどうやらこの寺の坊主のようだ。しかし、何故俺が赤木しげるの墓前で仰向けに倒れていたのか、それは俺にも分からない。石道で一夜を過ごした俺の体は、これでもかと凝りかたまっており、立ち上がるまでに時間を有した。枕が変わっても熟睡できる体質だが、さすがに石の上で長時間眠れたことは感心にあたいする。坊さんに頭を下げて車に戻り、暖房を最強にして体を温めた。今が冬ではなかったことが、不幸中の幸いか。鼻水が垂れて、くしゃみも飛び出た。
　目覚めたばかりでぼやけていた記憶も、しだいに鮮明になっていく。井川さんに許してほしいがために、奇妙な夢を見た。赤木しげると名乗る男が、墓のてっぺんに立って、俺に名乗りを上げていた。それからの記憶はないが、おそらくそれは夢の話だ。ストレス性なんとかってやつで、きっと手を合わせている時にでも倒れてしまったに違いない。体の節々が痛いだけで、頭は打っていなかった。
　しばらくすると、体がようやく温まってきた。指先を動かせるほどに回復したので、車を走らせる。しかし、一つ目の交差点を過ぎてから「あっ！」という悲鳴をあげた。井川さんに返すはずの赤木さんの骨を供えたままにしてしまった。ハンドルを切り、Ｕターンをした。
　寺へと戻ってきたはいいが、先ほどまで止めていた車がまたやってきたら、坊さんに何か小言を云われるかもしれない。渋面を作っていれば、寺の近くにコインパーキングがあることを思い出した。そこに止めれば文句もあるまい。それから坊さんに見つからないように、赤木さんの墓まで行けばいい。途中にある歩道橋を渡るのは面倒くさいが、致し方ない足労だ。
　目的のパーキングエリアに車を止めて、歩道橋を渡る。階段を上がって向こう岸への道すがら、携帯電話が鳴った。意外と人通りが多い橋なので立ち止まり、欄干に寄りかかりながら電話に出た。電話は明後日の仕事に関する、ヤクザからのものだった。
「はい、岸辺です。あぁ、はい……はい、そちらの件に関しては今日中に電話をしようと、」
　橋下をみれば、車の通りも多く、タンプカーの通り過ぎる震動が先ほどから歩道橋を揺らす。ここからおちたら一巻の終わりだろう。呑気にそんなことを考えていたとき、
「よう、兄さん」
「うわぁっ！」
　目の前に、人間の顔が逆さまに浮かんでいた。
　そして、驚いたひょうしに、右手にもっていた携帯を落としてしまった。やばいと思ったがすでに遅い。それは下の道路に落ちて、肉眼でも確認できるほどに、複数の車によって滅茶苦茶に踏みつぶされてしまった。
「あぁ、俺の携帯！」
「なんだ、携帯なんてもん持ってんのかい。あれのそばにいるとぴりぴりしていけねぇ」
「は、あ、え……？」
　携帯をつぶされた道路から、声のする右隣を見る。すると、昨夜の夢に出て来た「赤木しげる」と名乗った男が、欄干の手すりを綱渡りするかのように立っていた。靴は履いていない、裸足が今の季節では寒そうだ。
「あんた、そんなところにいたら危ないだろう！」
「あぶなくねぇよ。それより、あんまり騒ぐと変に思われるぞ」
「はぁ？　そんな所に立ってるあんたの方が変人だろうが！」
　俺は「赤木しげる」に手を差し出したが、相手は俺のことを無視して手すりをすいすい先へ先へ進んでいく。その後を追いかけながら、「降りろ」と命令するが相手は聞く耳を持たない。ここで不思議なことが起こった。欄干を伝って渡るこの男に、誰ひとりとしていぶかしげな視線をよこさない。その代わり、俺を遠巻きに見つめて去っていく。おいおい、おかしいのはこの派手な虎柄シャツのおっさんだろう。しかし、無言の訴えも視線があえば逸らされ、その間に謎のおっさんは足早に橋を渡っていく。
　「赤木しげる」がようやく欄干の端まで来たときに、俺は観念しろとばかりに再び手を差し出した。
「ほら、掴めよ、おっさん！」
「あ～いらねいらね。心配するだけ無駄だ」
「あのな、そんなとこいたら、落ちて死ぬぞ！」
「試してみるか」
　相手は悪戯好きの糞餓鬼のように笑うと、バンジージャンプの要領で勢いよく欄干から飛び降りた。人の自殺を目の前にして、脳しょう飛び散る死体なんかみたくないのに、勢いで橋の下を覗いてしまった。だが、俺の携帯は肉眼で見えた高さのはずが、白髪の男の死体は道路のどこにも見当たらない。
「な、なんだ……？」
　驚いて欄干から一歩退いた直後に、「だから言ったろ」とまたも逆さまになった顔が俺を覗きこんできた。声にならない悲鳴をあげてその場に尻もちをついた。今飛び降りたばかりの男が目の前で空中に浮いている、しかも重力を無視したかのように逆さまになって。相手は空中反回転をしてから、地面に着地した。
「おい、兄さん。珍しいもん見て、腰が抜けたか？」
　「赤木しげる」は、先ほど俺がしていたように、右手を差し出してくる。だが、俺は恐怖のあまり、歯の根が合わず、がちがちと音をたてる顎を抑えることしかできない。こちらの様子がおかしいと気付き、「おい」と男が声をかけてきたとき、俺のキャパシティは限界を超えた。震える足で立ち上がり、階段を転がるようにして駆け下りると、駐車場へ走って逃げた。
　車に辿りついてからも、ポケットから出した鍵をうまく挿せずに背後ばかりを振り返り、男が追ってきていないか確認をする。車に乗り込むと扉をロックし、荒い呼吸を鎮めるため深呼吸を繰り返す。逆立っていた神経がふだん通りになったころ、先ほどの非日常への疑問が次々に湧いてきた。いや、待て待て。俺は幽霊の類が見える人間ではないし、盲目的に信じているわけでもない。おそらく、おそらく、というか昨夜、俺は頭を打ったに違いない。それの後遺症だ、そうに違いない。それ以外に答えなんてないし、それが一番納得のいく答えだ。げんに吐き気もするし、寒気もするし、なんとなく頭が痛い、なんとなく。
「幽霊とかいるわけねぇだろ！　 よし、俺は大丈夫、大丈夫だ！」
「なんだ、お前幽霊とか見える方だと思ったんだが」
　そのひょうひょうとした声は、先ほど聞いてきたばかりのもの。冷や汗をかきながら、おそるおそる助手席をみると、白髪の男は退屈そうに欠伸をしながらシートにもたれかかっていた。
「あ、あ、あ、……あんた、どっから……？」
「上から」
「ふ、ふぉ、不法侵入だぞ！」
「良い車乗ってるな」
「だ、だから、つまり、出ていけよ！」
　さすがにかっとなってしまい、俺は「赤木しげる」と名乗った男の肩を掴もうとした。しかし、その手はくうを切り、バランスを崩した俺の体は助手先に倒れ込んだ。その瞬間に、体が水の中にとびこんだような冷たさに覆われた。急いで起き上がり運転席の方へ戻って体に触れてみるが、どこも濡れていない。なんだったのかと隣に座る男を見れば、相手のつまらなそうな目とかち合った。
「あんた……何なんだ？」
「さっきからあんたあんた。あんたって名前じゃねぇな。昨日教えただろ、名前……」
「あ、……赤木しげる」
「そう、赤木しげるだ」
「あの、………もっかい触っていいですか？」
「好きにしな」
　相手に許可をとってから、もう一度彼の肩に触れようとした。しかし、右手は彼の体を通り過ぎていく。よくみれば、赤木さんの体は透けているせいで、向こう側がわずかに見通せた。自分のおかれた状況への理解が追いつかないせいで、顔が引きつったままだ。赤木さんにひと言断ってから、自動販売機で珈琲を二つ買ってきた。
「あの、これ飲みますか？」
「死んだやつが飲めるわけねぇだろ」
「で、ですよね……」
　俺だけが無糖の珈琲を呑みほして、気合をいれた。苦い味がして、無性に煙草が吸いたくなったが、いまだ一服の余裕がない。口元に拳を添えて二回ほど深呼吸をしてから、膝を叩く。
「あの、あなたは赤木しげるでよろしいんですよね？」
「ん、そうだな」
「一九九九年の九月二十六日に死んだ、あの赤木しげるさんで、よろしいんですよね？」
「だから、そうだって言ってるだろ」
「そしたら、単刀直入に聞きます」
「おう」
「なんで、俺に化けて出たんですか？」
「そんなことしらねぇよ。お前が呼んだんだろ？」
「俺は、赤木さんのこと呼んでません」
「そしたら分からん。気付いたらあそこにいたんだよ。見ものだったぜ、俺を見た瞬間にお前気絶したんだ。覚えてるか？」
　くくく、と口元を隠して笑う男が、自分にとっての「赤木しげる」のイメージを裏切っていく。たしかに、井川さんの見せてくれた「赤木しげる」と姿は瓜二つ。眼光の鋭さも、背後に漂う気迫も感じられるが、巷じゃ悪漢と呼ばれていた男だ。もっと、こちらを噛み殺すくらいの男かと思っていたのに、飄々としているせいで、ややガッカリしてしまう。
　しかし、まだ幽霊と決まったわけではない。俺の妄想の産物の「赤木しげる」かもしれない。が、結局のところ井川さんの悩み事に加えて、幻覚まで見える問題を抱えてしまったことになる。そこまで考えて、重要なことに気がついた。
「あ、骨……！」
「骨？」
「赤木さんのお墓に供えてたやつですよ、さっき取りに戻ろうとしてたんです！　いかねぇと！」
「そしたら、お前の右ポケットに入ってるぞ」
「え……」
　赤木さんに言われ確認してみると、指先に冷たい物がふれた。取り出してみれば、それは井川さんの持っていた骨だった。無くしていなかったことに安堵し、溜息をつく。
「良かったぁ～。井川さんを悲しませないですむ……」
「井川……お前、ひろの知り合いか？」
「え、はい」
「ほう。ひろは元気か？」
「あれ、井川さんがお参りしてるの、見てないんですか？」
「こちとら成仏してたんだ、こっちにいるわけねぇだろ」
「あ、そうですね」
「それは俺の骨だな。ひろが持ってたのか？」
「そうなんです。けど、俺が盗んじまって……。だから、井川さんにこれを返しに行くんです、今から」
「どうして返す必要がある？」
「だって、盗んじまったから……」
「どうして盗んだ？」
「そ、それより、赤木さんは成仏しなくていいんですか？」
「だから、俺は成仏してたんだよ。それをお前が呼んだんだろ？」
「俺は、別に呼んでませんって」
「そしたら、その骨と関連があるんじゃねぇか？　お前、ひろに謝ったところで、すっきり仲直りできるなんて顔してねぇよ」
「はは……」
「心のなかに未練がある。未練たらたらだ。案外、兄さんのその未練が俺を呼んだのかもな……」
　赤木さんがまたもくつくつ笑うので、俺はもう一つの缶珈琲も開けて呑んだ。朝から何も食べていない胃に珈琲だけは、結構辛いものがある。しかし、味を感じることで五感が冴えてきた。俺は「未練」という言葉に、気になっていたことを尋ねてみた。
「俺、井川さんから聞いた話で、そこまで知ってるってわけじゃないんですけど……赤木さんにも未練はありましたか？」
「あぁ、あったな」
「原田さんに、三パーセント生きたいって言ってたんですよね。あれって、赤木さんにも未練があったってことですよね？」
「はは、どんな潔い人間だって、死ぬ時には少しくらいは生きたいもんだ。だが、俺が原田にした話は、別に生きたい人間の話じゃない。ただの、俺の昔話をしただけだ」
「じゃ、赤木さんに未練はないんですか？」
「未練か……無念ではあったが、未練までは考えたことはなかったな……」
「はぁ……」
「兄さん、お前は生きてる。なら、どうせ暇だろう。俺が成仏する方法が見つかったかもしれねぇから、ちょいと付き合え」
「え……」
「なぁに、ちょっくら時間貸せっていってんだ。返せるかはわからねぇがな……」
「でも、俺仕事が……」
「俺に一生つきまとわれるのと、しばらくの付き合い。どっちを優先する？」
　彼とまだ出会って一時間も経っていないが、すでに主導権を握られていることは。ため息をついて、分かりましたよと頷く。携帯がないから、二件の仕事に断りをいれるため、いったん家に帰ることにした。携帯がないことを不便と思いながら、井川さんへ連絡を取る手段がなくなったことに、少しだけ救われている自分がいた。
　赤木さんは助手席に座って楽しそうに煙草を吸っている。彼の吸っている煙草もまた透明であり、煙も透明。しかし、匂いは漂い、車の中がヤニ臭くなった。
　「面白い話をしろ」と言ってくるので、自分が何者であるかの説明をした。井川さんとは知り合いで、彼の世話になっている者である。代打ちとしてまだ若輩であるが、その末端を担っている。俺が麻雀を打つと分かったとたんに、赤木さんは嬉しそうに紫煙を俺に吹きかけてきた。
「お前と打つのが楽しみだな」
「赤木さん幽霊だから、一緒に打つのは無理だと思いますけど……」
「はは、それもそうだ」
　彼がいまだに自分の作りだした幻ではないかと疑ってしまうが、ここまでおしゃべりな幻覚があっていいものか。しかし、幻と呼ぶには指先に感じた冷たさが、あまりに鮮明であった。隣に座る男は赤木しげるの幽霊。それなら、井川さんに逢わせたい。井川さんに逢わせて、彼が赤木さんに言いたかったあれやこれやを言ってほしい。
　しかし、残念ながら井川さんとは大変危険な状況となっているので、最後の最後、赤木さんの我儘が終わった最後に、彼に井川さんと会ってくれるよう頭を下げよう。井川さんにだって、きっと赤木さんが見えるはずだ。赤木さんをダシにして許してもらおうとは思わなかった、ただ、彼の悲しそうなあの眼差しに終わりがあるなら、終わらせたい。
　俺のマンションにやってきた赤木さんは物珍しそうに部屋を一周すると、すぐに飽きてしまった様子で、リビングにあるソファでまた煙草をふかしだした。あの煙草はどこから出てくるのか不思議に思いながら、こちらは用事を済ませてしまう。仕事先の電話番号は、用心して手帳にメモしてある。一件目はすんなりと断れたが、二件目はややご立腹で、代わりの者をよこせと言ってきた。仕方ないので、代打ち仲間のＡに電話をして仕事を回せるか頼んでみた。
「岸辺が仕事をまわすなんて、初めてだな」
「そうか？」
「お前が真面目だって褒めてんだ。わかった、その仕事受けさせてもらう」
　Ａに今度何かおごろうと言って、仕事先の怖いお兄さんに電話をかけ直し、代わりが見つかったことを報告する。「今度こんなことがあったら、ただじゃおかねぇぞ」と脅されてから電話は切れた。
「ケチな奴と付き合ってんな」
　電話をしている間に、赤木さんが背後に立っていた。聞かれて悪いこともないが、何故か後ろめたい気持ちになってごまかすように無意味にメモ帳をめくり、電話番号を探すふりをする。
「俺は赤木さんみたいに強くありませんから、こうやって仕事がまわってくるだけでもありがたいんですよ」
「お前、真面目だな」
　紙を繰っていた手が止まり、背後にいた幽霊をじろりと睨んだ。
「……麻雀できたら、それで幸せなんです」
　赤木さんは特に反応することなく、またもソファで煙草を吸い始めた。全ての連絡伝達を終えたころには、十四時を過ぎていた。時計を見ると同時に腹が鳴ったので、家にあったパスタを大量に茹でる。それにバターを溶かし混ぜ、醤油を自分好みにかけて鰹節と海苔をまぶせば完成。ソファは赤木さんに占領されているので、テーブルについてフォークに麺を巻きつけると、遅い昼食をとった。作るのに十分もかからないので、腹が減ったときによく作る。食べ始めてすぐに赤木さんが俺の対面にやってきた。そして、不服そうな顔で「もっと美味いもん食ったらどうだ」と、呆れたような溜息と共に小言を漏らした。
「意外と美味いですよ」
「今時のわけぇもんは、そんなのばっかり食ってんのか？」
「買いに行くのが面倒臭いんです」
「出前でも頼め」
　井川さんの話を事前に聞いていたせいか、それとも彼自身の人柄のせいなのか、彼の言葉に嫌味は含まれていないと感じた。しかし、安っちぃパスタを全部食べる俺と、夜中に河豚刺しが食べたいと言っていたくせに、いざ頼んだら一口でもういらないという赤木さんは、ある意味どっこいどっこいではないだろうか。思っていても本人には言えないことだが、本能のままというか我儘というか。
　我儘といえば、俺ばっかりが井川さんに我儘を言っていたような気がする。今から電話してもいいですか、今から逢えますか、今からキスしてもいいですか。付き合う以前、井川さんの印象は淡白でしっかりした人だった。しかし、それは井川さんのほんの一面でしかなく、彼の家に初めてお邪魔したときは、部屋の散らかり様に絶句したものだ。
彼を知れば知るほど、どこか抜けていることころを見つけたが、それに対して自分は一度も裏切られたとは思わなかった。むしろ、彼の知らない部分を知るたびに、さらに好きになっていった。麻雀をしている井川さんと、麻雀をしていない日常の井川さん。どちらも彼であるが、前者は追いついて触れようとすれば指先に火傷を負い、後者は触れることを自分からためらってしまう。
　付き合う前は俺が年下であり井川さんの性格も相まって、他人行儀にやきもきすることが多かった。だから、恋人同士になれた夜には、彼がもっと我儘を言ってくれると期待していたが、実際はどこか線引きされている距離に戸惑った。井川さんも俺を好きだと言ってくれた。しかし、それは俺の押しに負けたからではないだろうか。彼に自分の気持ちばかりを押しつけていた気がする。彼を慕い、彼を支えようと決め、彼を裏切り、彼に頭を下げ、また彼のそばにいる自分。井川さんの思いはここにあるが、時々が分からず恐ろしい。愛することは簡単だが、相手に愛してもらうことは難しくて臆病になる。
　パスタを全部食べきったはいいが、不味かった。
「兄さん、次はもっと美味いもん食えよ」
「俺のことはいいんです。それより、赤木さんの話をしましょう」
「俺の……？」
「赤木さんの未練とはなんですか？　天さんと麻雀対決ですか？　それとも、原田さんと打ちたいんですか？　いわずもがな、井川さんとはただいま大変な関係になっているので、井川さんと打つのはちょっと難しいところですから、しばらくお待ちください！」
「いや、あいつらとは確かに別れた。だからいい」
「そしたら、昔の女に会いたいってやつですか？」
「抱いた女はみんな、遠くに置いてきたよ。なに、明日でもいい。ひとつ、俺のいう居酒屋で酒を呑んでほしいだけだ……」
「え……それだけでいいんですか？」
「あぁ」
「そしたら、お言葉に甘えて、明日にさせて頂きます。さすがに色々あって、今日は疲れました」
「わけぇもんが、年よりみたいなこと言ってんな。まぁ、俺はいつでもいい。ゆっくり行こうぜ」
　時間にしてまだ昼間の十五時だが、何故か強い睡魔に襲われていた。一応、墓地で眠りこけていたはずなのに、あまりの眠気に耐えかね寝室に行きベッドで爆睡した。目をつぶり眠りに落ちる寸前、俺の枕もとに立っている赤木さんが、「つまらねぇ」とぼやいているのを最後に聞いた。

五、

枕元にあるデジタル時計を見て一瞬首を傾げた。俺が寝たのは二十日の十五時のはずだが、起きると時間がまったく進んでいない。時計は十五時を指している。おかしい、もしかして、赤木さんの幽霊と出会ったなんて非現実的なことは、やはり夢だったのだろうか。
「よう、起きたか」
　だが、寝がえりをうった俺を、宙に浮いている赤木さんが覗きこんできたことで、昨夜のことは夢ではない現実を突きつけられる。試しに右手を伸ばして彼の左肩に触れてみると、氷のように冷たい。背筋が震え、ようやく頭が覚醒した。
「あぁ……夢じゃなかった」
「相当疲れてたな、二十四時間寝っぱなしだ」
　二十四時間も自分が寝ていたことも驚きだが、さらに惰眠をむさぼろうとする自分の身体にも驚いた。二度寝でも三度寝だって出来そうなほどだが、起きて赤木さんの用事を済ませなければ。布団にとどまろうとする身体を奮起させ、風呂で熱湯にも近いシャワーを浴びて頭をすっきりさせた。
　風呂から出ると腹ごしらえにトーストを焼き、賞味期限が切れているチーズをのせて食べた。すると、赤木さんが思った以上に不機嫌そうな顔でこちらを睨んでくる。
「不味いもん食いやがって……」
「すぐに出かけるんだから、これくらいの軽いもんでいいんですよ」
「俺がお前の年のころには、もっとましなもん食ってたぞ……」
「放っておいてください」
　飯を食い終えると、仕事着である黒いシャツと緑のスーツに袖を通す。それから、右ポケットに入っている赤木さんの骨を握り、硬さを確かめた。目の前の幽霊は俺が骨に触ったところで、嫌がるそぶりを見せない。死んだら肉体と魂は別物になるようだ。
　右ポケットにいつも収まっている携帯をしばらくのあいだ探し、歩道橋から落としてしまったことを思い出すと、溜息をついた。どうりで、静かなわけだ。
「赤木さん、準備できましたよ」
「あぁ、行こうか」
　幽霊とはもっと恐ろしいものだと思っていたが、赤木さんの場合は、恐ろしいよりも貫禄があるといったところか。先に立って浮く赤木さんのあとに続き、駐車場まで行く。だが、彼が目的としている居酒屋の場所を訊ねると、電車で行った方がはやいという結論に至った。一度乗った運転席から降り、駅への五分間を歩いて黄色い電車に乗りこむ。
　夕方のせいか、車内には学生の姿が多く見受けられた。それでも空席は多く、野球部らしき坊主頭の三人組の隣に腰かける。赤木さんは俺の隣に座り、見えない煙草を吸い始めた。
「岸辺、お前なんか面白い話でもしろ」
「いや、そういわれても……井川さんの話でもしますか？」
「面白いのか？」
「いや、どうでしょ」
「お前、俺が江戸時代の殿様だったらどうすんだ。今ごろ切腹もんだぞ」
「すいません」
「ひろの話はいい。ひと目見たほうが早いだろうよ」
「赤木さんは、……その、天さんとか井川さんに逢いたいとは思わないんですか？」
「逢ってどうする？　俺には赤木さんの幽霊が見えているので、なんでも言ってくださいっていうのか？」
「お二人なら、赤木さんのこと、見えると思いますけど……」
「これは仮定なんだが、俺のことを知らないお前に、俺が見えてるってことは、お前と俺の何かしらが重なった証拠だ。それが未練にしろ、後悔にしろ、何かしらで繋がってる。だから、奴らに俺は見えねぇよ……」
　それはないと思った。井川さんだって未練を持っている。あなたを助けなかったこと、助けられなかったことを、いつだって悔やんでいるんですと言いかけたが、俺から伝えるものではないと口を閉じる。自分が赤木しげるの本当の葬式に参加していた一人だとしたら、もっと彼に突っかかることもできる。しかし、悲しいかな俺は他人でしかない。随分遠いところにいる他人だからこそ、自分の立場にやきもきした。隣に座っていた高校生たちが、部活のマネージャーの話で盛り上がっていた。赤木さんが面白そうにそちらへ耳を傾けてしまったので、俺は黙るしかなかった。
　目的の駅には一時間ほどで到着した。途中から荷物棚で寝ていた赤木さんを起こし、電車を降りる。駅名を見ると、初めて降り立つ駅だ。歓楽街というわけではないが、ビルが多いために、サラリーマンたちとすれ違うことが多い。真面目人間たちが通勤している地域らしく、俺みたいなチンピラ風情は悪目立ちをした。いかにも仕事一筋といったサラリーマン数人がこちらを睨んできたが、気にせず赤木さんの後をついて行く。お前らが赤木さん見たら腰抜かすぞってんだ。
「ここらへんに本当にあるんですか、居酒屋？」
「駅からは離れてる。それにしてもここも変わったな。たしか、あそこに美味い豆腐屋があった。それからあっちには、戦後に大きめな賭場があってな。懐かしいもんだ……」
「あぁ～……その居酒屋は知り合いの方がやってるんですか？」
「昔の同僚だ」
「同僚、て……赤木さん、仕事してたんですか！　あの、神域が！」
「俺だって、汗水たらして勤労に励んだ時期だってあるさ」
「まぁ……その人に逢いたい理由はなんとなくわかりました。けど、意外だ。赤木さんが、元同僚っていう人に未練持つなんて」
「あんたの予想では、誰に逢いに行くつもりだった？」
「もっと、なんかこう、永遠のライバルとか？」
　とたんに赤木さんが吹きだし、腹を抱えて笑いだした。
「……もういいです」
「ククク……永遠のライバルか、傑作だな。だが、期待を裏切って悪いな、同僚だ」
「その人に、どうして赤木さんは逢いたいんですか？」
「なに、そいつが俺のせいで賭け事に巻きこまれてな。最後はその勝ち金を渡して別れたんだが、その金で奴っこさんは居酒屋開いたみてぇでよ。そのことを、生前、馬鹿丁寧に葉書送って知らせてきやがって、酒を一杯でもどうですかと、そういうわけだ……」
「行かれなかったんですか？」
「縁があればと思っていたが、こんな形で縁が繋がるとはな……兄さん、酒は強いか？」
「まかせてください」
「風の噂で所帯を持って子供が二人いると聞いた。面白いやつだったよ、根性はあった」
「その人の名前は？」
「名は、治」
　治。その名前を呟く赤木さんの表情が懐かしさを孕んだ。
　駅から離れていくと、しだいに人影も少なくなり、通りに面した家々が昭和の趣に包まれる。赤木さんが指さした通りを右に曲がり、雀荘を一件通り過ぎ、さらに交差点を左に曲がったところで、その店を発見した。腕時計を確認すると、すでに夕方の五時を過ぎている。店には紅い暖簾が掛けられ、軒にひとつだけ吊るされている提灯には灯りがともされていた。
「ここですか？」
「あぁ」
　赤木さんは幽霊らしく引き戸を通りぬけ、先に暖簾をくぐってしまった。後を追うように自分は戸を開け、見知らぬ居酒屋にお邪魔する。
　店内は狭かった。カウンター席が五つ、四人掛けのテーブル席が二つ。時間がはやいせいか、客は俺たちしかいない。割烹料理の調理人によくみられる白い制服に身を包んだ男性が、カウンターの向こうから「いらっしゃいませ」と挨拶をしてきた。赤木さんの同僚というからもっと年を食っていると思っていたが、店主は俺とほぼ同じ年に見える。好青年、顔にはわずかにそばかすが浮かんでおり、それが彼の愛嬌になっている。優しげな眼差しで、「こちらにどうぞ」と店の奥に面したカウンター席を促す。
　席についてからすぐに、俺の隣の席に腰掛けた赤木さんに、小声で話しかける。
「ずいぶん若いお友達ですね？」
「ばァか、あんな若い同僚がいてたまるか。顔がそっくりだ、おそらく息子だろう」
「あぁ～なるほど」
　渡された温かいおしぼりで手をふき、ビールを頼んだところで、店主に話をふってみる。
「すいません、ここに治って方はいらっしゃいますか？」
「治？　あぁ、俺の父親ですけど、お知り合いですか？」
「いや、俺は知らないんです。知り合いの知り合いっていうか……」
「父は今出かけているんです。たぶん、七時ごろには戻ってくると思いますが？」
「それまで待たせてもらっても良いですか？」
「はは、もちろんですよ」
「良かった」
　古風な居酒屋だ。メニュー表もあるが、壁に木札がかけられ、くすんだそれには居酒屋の定番メニューが刻まれている。比較的新しいものには変わったメニューがみられた。クリームチーズの酒盗和え、クジラのベーコンなど。もしかしたら、新しい方は目の前で華麗な包丁さばきを披露している、彼が作ったメニューかもしれない。身ひとつの自分としては、誰かの意思を受け継ぐという真摯な姿勢を、つかの間であるが羨ましく思ってしまった。
　刺身の盛り合わせと枝豆を頼み、ビールと共に時間を潰した。赤木さんとおおっぴらに話すわけにもいかず、では息子と話をしようと試みたが、そちらは上手い方ではないらしく、すぐに黙ってしまう。それではと一人で沈黙と話しあっていると、興味深げにこちらへ視線をよこしてくるも、やはり話しかけてはこない。堅気に見えない派手な格好で、父親の年の半分にも満たない、知り合いの知り合いなんていう男が訪ねてきたら、さすがに好奇心がわくところだ。
　店は五時から夜中の一時まで。俺が入ってから少し後に、顔なじみらしきサラリーマン三人がやってきた。俺と同じようにビールと枝豆を注文し、それから仕事の愚痴を飛ばしあう。一人でやってきた初老の男性客はカウンター席に座ると、息子に「親父さんは」と声をかけた。
「今日は妹と姪と一緒に買い物に行ってるんです」
「あれ、お孫さんいくつになったんだっけ？」
「まだ三ケ月ですよ。もう親父ったら、目にいれても痛くないみたいに、デレデレですよ」
「仕方ない、初孫が女の子なら、男親はデレデレになるもんだ」
　治という人には、最近孫が生まれたらしい。孤高に生きる赤木しげるとは、反対の人生を歩んでいる。赤木さんと治という男の出会いや関係が気になるところだが、聞くにしても無粋だろう。赤木しげるに友人は一人もいないと決めつけていたが、彼にも彼なりの人間関係があったようで、驚きだ。
　六時ごろ、店内は人であふれかえった。赤木さんは隣の席に座ることができなくなったので、天井近くを暇そうに浮かんでいる。繁盛している店を息子が一人で切り盛りするのは大変だと心配していたところへ、五十代ほどの女性が店に入って来て、手伝い始めた。おそらく、治という人の奥さんだろう。ふくよかな体つきであるが、目もとの優しさでこちらの緊張が解け、目があえば俺の方が愛想笑いを返してしまう。
　店内を注文が飛び交い、酒を酌み交わす音が響く。タバコの煙に天井が白くなり、いつのまにか流れていたラジオから、明日から連日で雨だという予報が聴こえた。灰皿に三本目の煙草を押しつけたとき、カウンターのむこうにあるドアから人の声がした。まさかと思って待っていると、ドアがあいて一人の男が顔を出した。息子と顔がそっくりだが、その顔には皺が刻まれている。この人が治だと、すぐにわかった。隣へ降りてきた赤木さんを見れば、懐かしそうな笑みを浮かべている。
「赤木さん、あの人ですか？」
「あぁ、あいつだ」
　小声で相手に確認をとっている間に、息子が父親に耳打ちをして俺へと視線をよこした。治さんは俺の隣へ来ると「初めまして」と挨拶をする。息子と声までそっくりだ。
「あ、こちらこそ初めまして。治さんですか？」
「はい、私が治です。お知り合いのお知り合いという話ですが……どなたの？」
「赤木しげるを、あなたは赤木しげるを覚えていらっしゃいますか？」
「アカギさんの、お知り合いの方ですか？」
　治さんは驚いたという顔をして、俺の顔をまじまじと見て来た。おそらく、息子ではないかと疑われているようなので、「息子ではないです」と断っておく。
「アカギさんの……いやぁ、ビックリしました」
「はは、俺も赤木さんに行きたい居酒屋があったなんて知って、驚いてます」
「アカギさんが亡くなって、そろそろ四年になりますが、よくここがわかりましたね？」
「あ、いえ。ほら、昔の荷物を整理してたら、治さんが送ったはがきを見つけまして。生前に行きたいなんて言ってたなと思いまして、はい」
　雀士なんて嘘吐きばかりだ。嘘が後から後から溢れてくる。俺の嘘に、治という人間は少しも疑わずに頷き、嬉しそうに目を細めた。本当に、この人は俺達と人種が違うと感じた。この人は、俺達と違って明るい所に立つ人間だ。
「アカギさんは、何も持たない人でしたから。葉書を残していてくれたことが、私にとっては、この上ない幸せです……」
「あぁっと……あなたは、赤木さんのご友人だったんですか？」
「いえ。ただの仕事の同僚でした。でも、憧れでしたよ。まるで、ヒーローみたいだった」
「憧れ……」
　なんだか、井川さんと同じことを言っている。治さんは少しだけ井川さんに似ていた。外見的な意味ではなく、憧れに向ける眼差しが似ていた。俺としては赤木さんにいわれたとおりに酒を飲みに来たにすぎず、すでに条件は満たしたはずだ。隣に立っている赤木さんもすでに満足といった様子だ。治さんに礼を述べて席を立ったとき、彼の方から「あのぉ、」と俺を引き止めてきた。
「アカギさんのお知り合いということは、あなたも麻雀を打たれますか？」
「はい、一応。それで飯を食ってます」
「そしたら、少しだけお間を頂けませんか？　一時間だけでいいんです」
「俺は大丈夫ですけど……」
「ひとつ、麻雀を私と打ってください。すぐ近くに、雀荘があるので」
「はぁ……」
　治さんに連れられ、俺たちは先ほど通り過ぎた雀荘にやってきた。ビルの二階にある場末の雀荘だ、卓は四つしかなかった。そのうちの一つに俺たち二人が座って、残りの席を店員が埋めた。電動卓ではないから、自分たちで洗牌をする。手積みなんて久しぶりにしたなと思っていると、背後にいる赤木さんが牌を指さした。
「どれ、俺が打ってやろう」
「言うと思ってました。好きに打ってください」
　タンッとリズムよくぶたれる牌が、心地良く響く。そして、指示されるままに牌を切る際、赤木さんの代理として打っている自分の役目を恨めしく思った。俺の座っている場所に赤木さんが座り、俺は彼の対面に座って牌を打ちたい。それが叶わぬことを心底悔しく思い、唇を噛んだ。
　その日、赤木しげるの麻雀に初めて触れた。迷いも淀みもなく、彼が牌を選ぶとき、静寂の水面に波紋が一つだけ広がる。全てが勘で打っているかのように、しかしその実は先の先にある、ほそい勝利の糸を手繰り寄せている。赤木さんの指先がしめす牌を一打ぶっただけで、彼の麻雀を見てきた者たちと同じ気持ちになった。恐ろしい、だがこの男と打ちたい、と。緊張と快感、彼の麻雀を打つたびに、この二つを感じていた。
　一時間だけといわれた勝負は、結局朝まで続いてしまった。治さんと雀荘をでたときに、「俺の店で朝ごはんでも食べて行きなさい」と人なつっこい笑顔をむけられた。腹の虫が鳴ったので、ありがたいと裏口から店内に入った。居酒屋の店主だけあって、手際が良い。朝からおでんと野菜炒めを頂いた。おでんのダシ汁が美味い、大根を食べたときに辛子のせいではない泪が出そうになった。昨日、格好つけずにもっと色んなものを頼めばよかった。美味しい。
「岸辺くん、麻雀を一緒に打ってくれてありがとう」
「いえ、俺も楽しかったです」
「俺はね、これでようやくアカギさんを見送れた気分だよ」
「見送る……？」
「あの人が死んだと新聞で知ったが、俺は葬式にも墓参りにも行けなかった。あの人は、俺にとっての憧れだったから、彼の死を受けいれられなかったんだ。この年にもなってと思うかもしれないが、この年になったからこそ、俺は受け入れたくなかった。いつか、アカギさんがふらりとやってきて、来てやったぞと言いながら、一緒に酒を呑むのを、俺は楽しみにしてたんだ……」
「はは、まるで二人して意地を張ってたみたいですね」
「供養麻雀っていうのがあるでしょ。あれって、どうして麻雀なのか知ってる？」
「いえ」
「麻雀の牌は全部で一三六枚。それって地獄の数と同じなんだって。だから、麻雀をすることで、死んだ人が巡る一三六の地獄を、代わりに巡ってあげるんだ。牌は昔、骨で出来てたくらいだからね」
「赤木さんのこと、供養できましたか？」
「供養なんていっちゃいけない。俺が供養しなくても、アカギさんは自分から地獄で楽しむ人だ。だが、ようやくお別れをいえた気分だよ……あぁ、清々しいな……」
　美味しい朝食を食べ終わってから、治さんに礼を言って店を後にした。連れてきたい人がいるので、また来ますと約束をして。
　麻雀を打てたことに満足しているのか、治という男との交わしていない約束を守れたことに満足しているのか。赤木さんは俺より数歩先を、口笛を吹きながら歩いていた。裸足で歩く彼の足を、今では羨ましい自由の象徴として見てしまう。
「それ、なんの歌ですか？」
「しらねぇのか？」
「聴いたことないです」
「いいも悪いもリモコンしだいってなぁ」
　昔のはやり歌だろうか、一度も聴いたことがなかった。朝から見える上機嫌な幽霊に呆れながら、俺はポケットの中にある骨を右手で握った。
「骨は釣れたか骨はェ……」
　一人の男のために巡る地獄旅。雀士は常に、死に触れている。

六、

麻雀で一夜を飛び越えたせいで、電車に乗って帰路についている間、何度も寝落ちてしまいそうになった。一晩打っただけで、ここまで眠くなるのも久しぶりだ。席に座るとそのまま眠って起きそうにないので、立ったまま吊り革を握り、ふらふらする体を支えた。誰かから連絡が来ているだろうかと携帯を探し、壊したままだったことを思い出す。携帯がないとこれほどまで静かなものか。誰とも繋がっていないことに一抹の不安がよぎるが、金網に寝そべって、乗客の顔を観察している赤木さんを見ると、この人がいる間は寂しいと感じる暇もないかと苦笑した。眠い目をこすりながら家に帰り、二十二日の朝十時に眠った。
　起きたときに、枕もとへ置いてあるはずの携帯を探したが、壊れたままだと、またも思い出して舌打ちする。時計を見れば夜の十九時だ。スーツのまま寝てしまったので、皺がついた、急いで私服に着替える。外からは雨の音がかすかに聴こえていた。
　ベッドから起き上がったと同時に腹が鳴ったので、今日こそは文句をいわれないように、店屋物でラーメンを頼んだ。しかし、赤木さんはまたも不服そうな顔で「寿司でも頼め」と、結局は文句を言ってくる。
「赤木さんって、井川さんたちと一緒に飯とかよく行ってたんですか？」
「いや、ひろとは行ったことねぇ。ハワイでなら、一緒にバナナ食ったぞ」
「ハワイ……あぁ、井川さんが追いかけて行ったていう、あれですか？」
「お前の井川って呼び方は慣れねぇな。ひろって呼べばいいだろ？」
「いえ、呼べませんよ」
「好き合ってんのにかい？」
「え……？」
　そのとき、玄関のチャイムが鳴ったので金を持って注文したチャーシュー麺と交換する。それをテーブルに置いてから、対面に座った赤木さんに「あの……」と話を切りだした。
「いつから？」
「いつからって？」
「俺と井川さんが、付き合ってるって、気付いたの……」
「お前、男同士の写真を部屋に堂々と飾ってる人間が、なぁ～に言ってんだ」
　ククク、と盛大に笑う赤木さんの言葉に思い出す。寝室には井川さんと初めてデートをしたときに撮った写真が、フォトフレームに入れて飾ってある。並んで撮ったその写真に写る井川さんのはにかんだ笑顔が好きだ。家にいるとき、彼を思い出して逢いたくなったら、その写真を見て気持ちを抑えこんでいる。自分としてはいつものことだったので、すっかり忘れていた。
　恋人の保護者に付き合っていることがバレた心境とはこれか、と顔が引きつった。
「す、すいません……」
「どうして謝る？」
「いえ、こんな不甲斐ない人間が井川さんと付き合っていて、すいません……」
「兄さん。あんたは不甲斐ない人間なのかい……？」
「不甲斐ないですよ。あの人を泣かせないって決めてたのに、それと反対のことをしてます……」
「ククク、ひろは女じゃない。そこまで丁寧に扱わなくていいさ。あいつだって、殴られたら殴り返すくらいの根性はあるし、粘り強い男だ」
「赤木さんは、井川さんが俺……ていうか、男と付き合ってて、嫌じゃないですか？」
「好きなものに理由をつけるようになったら、それは本当に好きなことなのか……どう思う？」
「へ……？」
「惹かれたものがそれだった。だからこそ、真っ正面からぶつかる。欲しいもんは、きちんと手に入れろ。でないとどっかに逃げてくぞ」
「はぁ……」
「俺がどうこう言っても仕方ねぇが、まぁ汗水たらして執着するこった。そうでもしないと、勝利の女神はそう簡単には微笑まない……」
「麻雀の話ですか、今の？」
「どっちにしろ同じだ。俺はお前でもないし、井川ひろゆきでもない。後は自分で考えろ」
「あ……はい」
　赤木さんの言葉は、静かに身体の芯まで染み込んでいった。これが違う人間の言葉であれば、ここまで浸透することはなかっただろう。彼の言葉を反芻しているうちに、赤木さんがいつもの透明の煙草を吸い始める。
「それよりわりぃが、あともう一人だけ逢いに行きたい奴がいる。それで俺の未練も終わりだ」
「その人とも、生前逢われなかったんですか？」
「治と同じだ。偶然逢えたらそれで良かった程度さ。礼が言いたいと、心ならずも思っていた」
　治という人間はただの一般人で、麻雀は打てるがその腕も一般的。赤木さんが逢いたいもう一人の人間は、今度こそ鬼か蛇か。赤木しげるに会いたいと言わせる人間が二人もいた。その事実は、きっと俺以外に知る者はいないだろう。
「赤木さんはその人に逢えたら、消えてしまうんですか？」
「たぶんな」
「それじゃ、一つだけお願いがあります。もし、その方に逢っても、しばらく消えずにいてほしいんです！」
「なんだ、俺に消えてほしくないのか？」
「井川さんに、ひと目で良いから逢っていってください。一瞬だけでいいんです、今の井川さんを見ていってください！」
「逢って会話もできやしないのにかい？」
「見るだけでいいんです。俺の自己満足でしかないんですけど、それだけでいいんです」
「……まぁ、見るだけならいいだろ」
「ありがとうございます！」
「兄さん、あんたは良い人間すぎて、損するタイプだな」
「はは、面目ないです……」
「褒めてんだよ」
　もう時間も遅いので、もう一人の相手には、明日逢いにいくことにした。
長い話しあいの後、伸びきったラーメンをすする。不味い。ふと、目の前に座る赤木さんが井川さんだったらと妄想し、すぐに止めた。彼は今頃カップラーメンでも食べているかもしれない。また、顔が青白くなっているだろうか。連絡したいが携帯がないからと自分に理由をつけて諦める。
　しかし、寝る前に留守電を調べたところ、井川さんからの一件を見つけてしまった。聞こうか聞くまいかで悩んだ結果、聞けなかった。「聞けばいいのによ」と楽しそうな赤木さんを無視して、「おやすみなさい」を言ってベッドにもぐりこんだ。赤木さんと出会ってから、睡魔の力に首根っこを掴まれている。もしかして、幽霊にとり憑かれると眠くなるのだろうか。テレビで幽霊にとり憑かれると衰弱する話は聞いたことはあるが、腹は減るし特にだるいということはない。ただ、眠いだけだ。
　目をつぶる前に、枕もとに飾っている井川さんとの写真を見た。彼はもう俺のことを嫌いになってしまっただろうか。俺は井川さんの笑った顔が好きです。だから、あなたの悲しそうな顔を見るのが嫌いでした。こんなことを、すでに嫌われている人間が言うのもなんだか、未練がましくて女々しい限りだ。
　虚しい気持ちを抱えたまま深い眠りにつく。井川さんの夢を見たいと思っていたが、そう世の中うまくいかない。起きた時に外は明るく、俺が起きたと知るや「よく寝てたな」と楽しそうに笑う幽霊。世界が俺に優しくないことに、少しだけ泣きたくなった。

七、

二十三日、いつもの緑色のスーツに着替え、ポケットに骨をいれてから出かける。空は曇天、鳥の低空飛行に雨の予感を見る。昨夜のどしゃ降りで、コンクリートは黒く濡れていた。
　赤木さんの二人目の逢いたい人も、都内在住らしく、電車に揺られること一時間半。浅草駅の三駅前で降りる人間は俺を含めて六人ほどしかいなかった。名前は知りながら一度も降りたことのない閑散とした駅を出て、また赤木さんに言われるまま目的地へ向かう。
「赤木さんは、その方の家に行ったことがあるんですか？」
「いや、昔その住所へ手紙を送ったことがあるだけだ」
「え！　赤木さんが手紙……？」
「おいおい、馬鹿にするなよ。これでも自分の名前くらいは書ける」
「いえ、そこじゃなくて。赤木さんが手紙を書くほどの人って、やっぱりヤクザの元総長だったり？」
「ははは、ヤクザよりも誰よりも、俺にとっては恩人よ」
「恩人……？」
「俺に麻雀を教えてくれた人さ」
　その言葉に口が開きっぱなしになる。さすがに赤木しげるだって人の子だ。いきなり、木の根からおぎゃ～と産まれたわけではない。そして、産まれたからには麻雀を知らない期間があり、そして麻雀を教えた人間がいた。神域、悪漢と呼ばれているから、最初から麻雀を覚えていたような錯覚をおこしていた。この赤木しげるに麻雀を教えた人間。そりゃ、日本中のヤクザがそろったところで、その人にはかなうまい。
　赤木さんが連れてきてくれた一軒家は、植え込みで囲われたどこにでもある一軒家。表札に「南郷」と書かれている。
「その人、下の名前は？」
「あ～聞いたことがなかったな。ずっと名字で呼んでた」
「じゃ、本人がでてこなかったら、どうするんですか？」
「俺よりも年が上だったから、今頃は七十もいってる爺さんだろうよ」
「なんだか、怪しい目でみられそうだ……」
　電車をおりたころには十一時も近く、訪問に失礼な時間ではないと判断してチャイムを押した。しばらくして四十代ほどの女性が「どなた様ですか」とドアをあけた。
「あの、こちらに南郷とおっしゃる七十代の男性はいらっしゃいますか？」
「あら、うちの父かしら。どういった御用件で？」
　こんなことなら、黒いスーツで来るべきだった。俺の派手なスーツに対して、女性の視線に警戒の色がみられる。しかし、後悔先に立たず。俺は治さんの時と同じように嘘八丁で乗り切ることに決めた。
「わたくし、三年前に亡くなった父の遺言でここへやってまいりました。父は生前、南郷さんに大変お世話になったそうです。そのお礼をしたいと病床で何度も呟いていたのを聞いてきました。先日、父の遺品を整理していたら、ここの住所が出てまいりましたので、窺ったしだいです。南郷さんに一目だけでも、お会いできないでしょうか？」
「あら、それはそれは。それで、お父様のお名前は？」
「赤木しげるです」
「赤木しげる……どこかで聞いたことのある名前だわ。ちょっと待っていてくださいね」
　そういって女性は家の奥へと走っていった。俺はどうにか危機をのり超えたことにガッツポーズをしたが、隣にたつ幽霊は不服そうだった。
「俺はこんなデカい息子をこさえた覚えはないぞ……」
「言葉のあやですよ、あ、や。嘘でもつかないと、門前払いですって」
　しばらくすると、女性が電話の子機を耳に当てた状態で玄関に戻ってきた。誰かと電話しているらしく、「そうそう、赤木しげるさんの息子さん」と話している。しばらくしてから、「ちょっと待っててね」と電話口の相手にいって俺に向き直る。
「わざわざ来て頂いて悪いんだけど、父は今、母と一緒に旅行に出かけてるのよ」
「え！」
「三日後には帰ってくるの。今、父に電話してるんですけど、赤木さんの息子さんっていったら『ぜひ、逢いたい』て言ってるの。三日後以降にでも、また来て頂いてよろしいかしら？」
「そ、それは困ります！」
「あら？」
　三日後は二十六日の命日だ。それまでに赤木さんを成仏させて墓に押し込みたいし、井川さんとの仲をどうにかしたい。南郷さんと会う方法を作るため、脳みそを高速回転させたところ、良い嘘を思いついた。
「俺、じつは明後日に仕事の関係でしばらくハワイに行くんです。おそらく、三年は日本へ帰ってこられないと思います。父の心残りは、南郷さんにきちんとした礼を言えなかったことです。その恩を、息子である俺が返さないと……」
　そこで泪を拭うふりをして、右目に手を添えた。俺の演技を見た相手も同情してくれた様子だ。演技はこれで十分。
「お願いします。南郷さんがお泊まりになっている場所を教えてください。今日明日にでも、窺います。たった一言、お礼を言わせてください。五分でいいんです！」
「いいの？　遠いわよ？」
「かまいません！」
「そしたら、教えてあげるわ。ちょっと待って、父と話すから」
　女性は南郷さんと電話でしばらく話してから、メモ帳に宿の住所を書いて渡してくれた。宿の電話番号も書いてある。
「赤木しげるって方の名前、父に言われて思い出したわ。兄が産まれたときに電報をくれた人ね。幼いころ父に教えてもらったのよ」
「電報？」
「そう、電報。ニネキ　アカギシゲルて書いて寄こしてくれたって」
「ニネキ？」
「電報の略号で男子ご出産おめでとうございます、て意味よ」
　赤木さんが自分の名前ぐらい書けるといっていたが、電報ではそれが事実かは疑わしくなった。
　南郷さんの娘という方に、何度も礼を述べてから南郷宅を後にした。そして、歩きながらメモを見て顔をしかめる。
「南郷さんが旅行してる場所、京都ですね」
「おぉ、いいところに泊まってるな」
「遠すぎますよ。今から新幹線に乗れば、今日中に会えますかね？」
「さぁな。兄さんの好きにしろ」
「それじゃ、今から行きましょうか」
　東京駅へと向かい、そこで切符を買って新幹線に乗りこんだ。京都で何か井川さんにお土産でも買っていこうかと思いつつ、窓の景色に魅入る。居眠りするかと思っていたが、少しも眠くない。隣には誰も座ることなく、赤木さんがずっと腰掛けていた。車内販売の稲荷寿司と緑茶を買って腹を満たす。赤木さんは文句をいわないかわりに、「京都で河豚刺しを食え」と耳にタコが出来るほど、独り言のように呟いてきた。
「河豚好きでしたっけ？」
「普通だ」
「そういえば、井川さんから聞いた話で、河豚を一口で食べるの止めたとか？」
「そんな昔のこと忘れたよ」
「もったいない」
「気持ちが一番美味い。だから、一口だけでいい」
　京都駅に着いたのは、東京を離れて二時間後のことだった。駅でメモに書かれた宿を尋ねたところ、タクシーで一時間行ったところの山間だという。時計を見れば、夕方の十七時。今から行ってお礼をいって、それから東京に引き返せば、明日にでも井川さんに逢える。よし、これだと思って駅を出た瞬間に眩暈に襲われた。倒れそうになったので、近くのベンチに座り、眉間を指で揉んだ。眠い、かつてないほどの眠さに襲われていた。
「だったら……電車で寝ててもよかったのに……」
　自分の体を叱咤しながら、死に態でホテルを見つけて、そこに飛び込んだ。部屋に行ってべッドに体を横たえたとたんに、眠りが体中を犯していく。幸福だ。眠ることがこれほどまでに幸福であることを初めて知ったように、俺は眠った。泥のように眠るとはこれのことだ。
「おい、岸辺。お前、寝過ぎじゃねぇか？」
　赤木さんの声がして、その一言で目を覚ました。寝ている俺を赤木さんが見下ろしている。一瞬、自分がどこにいるのかわからずに当たりを見渡し、京都に来たことを思い出した。体を起こすと、体中が気だるい。備え付けの冷蔵庫からコーラをだして栓を抜くと、全部を一気に呑みほした。
「すいません、いきなり眠くなっちまって……」
「前からよく寝るやつだと思ってたが……」
「いえ、赤木さんと逢ってからです、こんなに眠いのは……」
「そしたら、お前は俺の分まで寝てるのかもしれないな」
「え…？」
「お前が寝てるから、俺が起きていられるのかもしれない」
「そんな話、聞いたことないんですけど……」
「当たり前だろ、俺が今自分で考えたことつじつま合わせだ」
「はは、適当……」
　俺が寝ているから、幽霊の赤木さんが起きていられる。不思議な話だが、今はそうつじつまをつけた方が納得する。人間は納得しないと前に進めないし、ぐじぐじと悩むことがある。
　赤木さんに言われて、今が二十四日の正午と知った。ホテルを出て近くの立ち喰い蕎麦屋に寄って行く。蕎麦を食べている俺に、赤木さんはすでにもう何も言わなくなったが、食事中は相変わらず険悪なムードになった。
　食後すぐにタクシーをつかまえ、宿の住所を告げた。一時間ほど車に揺られる。自分で運転することが多いせいか、誰かの運転する車に乗ることに慣れない。俺の隣に座る赤木さんが、退屈そうに欠伸をする。数日一緒にいたわけだが、あまりお互いのことで話をしていない。
　俺がこの人と逢った原因にもなる骨だが、これを盗まなければ彼に出会わなかったわけだ。嫉妬の相手が目の前にいるが、彼に対してこれっぽっちも心が騒がない。何故だろうか、俺はこの人を見つめている時の井川さんを見て、苦しいと思っていたのに。赤木さんを見ていると、振りまわされはするが、立派な柱の隣に立っているような気分になる。つまり、落ち着く。
「兄さん、あの人に逢えたらたった一言でいい、世話になったと伝えてくれ」
　赤木さんは車の窓から過ぎ去る景色を見ていた。
「はい……」
　運転手に聞こえないように小さく返事をした。
　山道を進んでいけば、観光地と知れる場所にでた。そこをしばらく走ったところでタクシーはブレーキをかけ、川を真下にみる宿の前で俺たちをおろしていった。
　目の前にはいかにも温泉宿といった宿屋が建っており、宿名はメモに書かれたそれと同じものだった。自動ドアを通って受付で「南郷という宿泊客に赤木しげるの息子が来たと知らせてください」と伝言する。フロント係は内線電話で南郷さんに連絡をとり、それから俺に広場で待つように言った。
　広間にはくつろげる椅子が用意されているので、そのひとつに腰掛けて、天井を見つめて、待ち人の来訪を待った。待ったといっても三分もしないで、南郷その人は杖をつきながら、しかし急いだ様子で俺の前に現れた。
「あなたが、赤木しげるの…？」
　そういって温和な笑顔を見せる男性は、七十も過ぎて頭髪は真っ白だ。赤木しげるに麻雀を教えた人間は鬼でも蛇でもない、ごくごくどこにでもいそうな、人の良さそうな老齢の男性だった。俺は彼に対して頭を下げ、「息子ではありません」と正直に打ち明けた。
「俺は岸辺忍と申します、彼の息子ではないんです」
「あぁ、やはり。あのアカギに息子がいると聞いて驚いたが、あなたをみればわかる、似ている様子がない」
「はは、ですが伝言を言付かっています」
「伝言？」
「『世話になった』、と。」
「……そうですか」
　俺の伝言を聞いた南郷さんが顔を伏せて、何か言おうと口を開いて、閉じた。彼は赤木さんが死んだことを知っているようだ。だからこそ、今さらになって赤木さんからの伝言に戸惑っているようにも見えた。この状態で「それでは」と帰れそうにないと思っていたら、相手が先に切りだした。
「岸辺さんは、昼はまだですか？」
「あぁ～……まだです」
「そしたら、美味しい店を知ってるんです。ここの宿の三件隣なんですが……」
「俺は赤木さんの最後を看取ったわけでも、彼と時間を長く共有したわけでもありません。ただ、伝言を頼まれただけなんです」
「かまいません。礼として、おごらせてください」
　断りきれない雰囲気に負けて、彼の後をついてホテルをでた。その三件隣に「のびる」という紺色の暖簾をさげた料亭があった。見た目は木造作りの古民家に見えるが、中にはいると洗練された雰囲気に包まれ、ここがお高い店であると知る。飯時を少し過ぎてはいるが、誰か客がいてもいいのに、誰もいない。南郷さんは俺を促し、窓近くの席に腰掛けた。着物姿の女性がこちらにやってきて「いつものですか？」と訊ねる。南郷は「彼にだけ菊のコースで頼むよ。それからビール二つ」と言った。
　よく冷えたビールが二つと、山菜で作られた付き出しが運ばれてくる。それを食べながら酒を呑む。誰かと飯を食うのが久しいせいか、いつもより美味しく感じられた。
「岸辺さん、すいませんね。老人の我儘に付き合ってもらって」
「この店には、よくこられるんですか？」
「年に二度ほど、先ほどの宿に泊まりに来るんです。そこで、妻と一緒にのんびり過ごして、そのときにここへ食べにくるんです。ここら周辺は余生を過ごすには、もってこいだ」
「はぁ……」
「秋になったら、あっという間に彼岸花が咲く。彼岸花にも白いやつがいると、知っていますか？」
「白い種類もあるんですか？」
「ほら、あそこ」
　南郷さんが窓の外を指さしたので、そちらに目を向けた。川の近くに燃えるような彼岸花をいくつか見つけることができた。そのなかに、時々白い花を見つける。それもまた彼岸花だと知って、「ほう」と声をもらす。
「白い彼岸花なんて初めて見ましたよ。自分は、花にはからっきしなもんで」
「岸辺さんも、麻雀を？」
「はい、それで飯を食っています」
「俺も昔は趣味の程度で打っていましたが、今はまったく打ちません」
「そのときに、赤木さんに出会ったんですか？」
「そうです。俺が命を賭けた麻雀をしているときに、まだ幼いアカギが偶然現れましてね。そのときに、あいつに麻雀を教えました。その時はまさか、伝説になるほどの男になるとは、思いませんでしたよ……」
　そこで料理が次から次へと運ばれてきた。豆腐がメインの店らしく、湯葉や湯豆腐が卓に並ぶ。ここ数日の食生活を反省するほどに、味付けは繊細、舌が洗いながされていくようだ。豆腐料理なので、ほどよく腹に溜まる。豆腐は醤油いらずで、そのままで充分に美味い。
　最後に締めとして運ばれてきた小さな土鍋は、黄色い菊の花びらが散らされた雑炊だった。それをさっそく椀に盛って食べようとしたが、熱くて口に含むまで時間を要した。しかし、味が気になり、ふぅと息を吹きかけ冷ましたひと口を、ようやく食べる。菊を天ぷらで食べることはあったが、雑炊は初めてだ。雑炊の味付けはさることながら、口に入れたときに優しい香りが鼻を抜けていく。俺が無言で食べ続けているのをみて、南郷さんが嬉しそうに言う。
「家内が好きなんですよ、その菊の雑炊」
「あ、すいません。俺ばっかり食べてしまって！」
「かまいませんよ。俺は今、アカギにしてやりたかったことを、あなたにしています」
「え……」
「俺はあいつに命を助けられた。だから、ずっとあいつに礼をしたかったんです。こうやって酒を酌み交わしながら、飯をおごりたかったが、機会に恵まれませんでした……」
「命の恩人が赤木しげるなんて、凄いもんですよ」
「はは、あいつは凄かった。今でも、時々夢に見るんです。あの目を……純粋なあの眼を。あれほど恐ろしいはずが、何故か惹かれてしまう。今になって思えば、海を見ているときと同じ気持ちでしたよ……」
「海？」
「アカギと初めて逢った時、あいつは海に落ちてあがってきた直後でした。まぁ、磯臭かったっていう理由もあるかもしれませんね」
「海に落ちた？」
「おや、知りませんか？」
　それが発端となり、南郷さんは彼が知る限りの赤木しげるの話をしてくれた。十三のときにチキンランをしていたことにも驚いたが、麻雀を覚えた次の瞬間にはイカサマをヤクザ相手に実行していた赤木さんの根性には白旗を振るしかない。ゆったりと話していた南郷さんだったが、話している姿は憧れのヒーローの話をする少年のようだった。俺は箸を動かしながらその話に聞き入っていた。
　同様に俺の隣に座している赤木さんもその話に耳を傾けている。その眼差しが、太陽の光に映えて、光っている。南郷さんの語る十三歳の赤木しげるの眼差しとは、きっとこんな感じだと、知るはずもないのに、ラムネの中にあるビー玉のような眼差しを、たびたび覗き見ていた。
　南郷さんの話が終わるころ、外は暗くなり街灯が夜の影を映し出していた。空が曇っているせいで、夜空を見上げても星は見えない。南郷さんが料理屋の前までタクシーを呼んでくれた。相手が礼を言ってくるなか、俺も相手に頭を下げる。
「しかし、アカギのことだから俺のことはすっかり忘れていると思ってましたよ。昔、長男が生まれた時に電報を貰いまして。ニネキ　アカギシゲルとね……」
「長男おめでとうございます、て意味ですよね」
「おぉ、若いのに博識ですね」
「いえ、南郷さん宅にお邪魔したときに、教えてもらっただけですよ」
「あのときの礼もできないままだったな。たくっ、誰かに伝言するくらいなら、死ぬ前に逢いにくればよかったのに。俺だって、言いたいことが沢山ありましたよ」
　そういって、南郷さんは盛大に笑った。俺にしか見えない赤木しげる。俺の隣に、あなたの逢いたい人はいます。しかし、説明したところでどうにもならない。その代わり、俺は赤木さんのいる方を手で示して、「もしかしたら」と言った。
「ここに赤木さんがいるかもしれませんよ」
「え？」
「ほら、幽霊とかになって、ここにいるかもしれませんよ。俺がちゃんと伝言を事付けるか心配で、見張ってるかもしれません」
「はは、岸辺さん。あなたは面白い人だな。そしたら、どれ」
　南郷さんとて、本気でそこに幽霊がいるとは思っていない。だが、そう信じることだって、そう悪いことではない。彼は俺ではなく、俺の隣にいる見えない男に優しく頬笑みかけながら言った。
「アカギ。お前のおかげで、良い人生だったよ……」
　そのとき、乾いた秋風が前髪を吹き散らかしていった。
　南郷さんの言葉の重みを知らぬ俺だが、その一言に含まれている南郷さんの人生に対して、少しだけ切なさを覚えた。赤木さんはただ黙って南郷さんを見つめていた。この二人の奇妙な繋がりを、どう例えたらいいのか分からないし、赤木さんにとってこの人は、どんな人間であったのか、本人しか知らない。一人の人生に、どれほどの人間が関わっているのか。自分の人生を、少しだけ振り返ってみたくなった。
　最後にもう一度だけ別れの挨拶をして、俺はタクシーに乗り込み、京都駅へ行ってくれるよう運転手へ告げた。隣の席には、すでに未練を終えたはずの赤木さんが座っている。
「やってくれたじゃねぇか、兄さん」
　赤木さんが口元に皮肉めいた笑みを浮かべていた。俺は頬杖をついて、得意げに鼻を鳴らした。
　行きも一時間なら、帰りも一時間。京都駅へ着いたころには体が疲れ切っており、今から新幹線に乗って帰るのは骨が折れるので、今日の朝まで泊まっていたホテルに行き、またも一泊することにした。あれほど御馳走になった飯だったが、十九時だとちょうど腹が減る。ホテルのカウンターでコンビニの在り処を聞いて、そこまで歩いて何か買うことにした。
　徒歩五分、行きがてらにぽつぽつと雨が降っていたが、弁当と煙草を買って帰るころには、どしゃぶりとなっていた。これはいけないと走ったが、ホテルへ帰り着くころには濡れ鼠となっていた。ともかく服を抜いで乾かし、それからシャワーを浴びよう。そう思って部屋に入ったと同時に、昨日と同じ眩暈に襲われ床に膝をつく。
「あ、あれ……？」
　手にもっていたコンビニの袋を落としてしまう。だが、拾いたくても、体に力が入らず、その場に倒れ込み、目をつぶっていた。赤木さんが「風邪をひくぞ」といっているのが聞こえたが、起きる気力がまったくわかない。ひたすらに眠い。濡れた服を着たまま、眠っていた。

八、

体がやけに熱く、指先のどこにも力が入らない。ようやく目を覚ますと、外の雨音が五月蠅いのか、自分の耳鳴りが五月蠅いのかの判断がつきかねるほどに、耳の中がわんわんと唸っている。起き上がろうとするが、手を動かすことすら困難だ。赤木さんの「風邪を引いたな」という声がきこえた。寒いと思ったら、濡れた服を着たまま寝ていた。もたつく体で服を全部脱いで裸になると、ベッドにもぐりこみ布団にくるまる。だが寒い。寒くて仕方ない。
「人を呼んで来るにしても、俺じゃ無理だからな……」
　赤木さんに話しかけられても、重力が逆転したかのように世界がぐるぐる回って、気持ち悪さに口を開くことができないし、咳も出る。寒いはずなのに、熱い。風邪を引いたのが久しいせいで、こんなときにまず何をすればいいのかわからない。携帯がないから救急車も呼べない。孤独感にもさいなまれ、泪が溢れた。井川さんに逢いたい。井川さんに逢いたい。
「ククク……こりゃ、久々に人が死ぬところを拝めるかもしれねぇな」
　赤木さんが枕元にいる、頭の方がやけに涼しい。目をひらくことすら億劫で、体を丸めて風邪が治るのを待つが、熱はさらに上がる一方だ。俺はここで死ぬのか。ここで死ねば、誰かが泣いてくれるだろうか。むしろ、井川さんは泣いてくれるのだろうか。好きなんて錯覚から目覚めた井川さんが、俺の位牌の前で「ざまぁない」と言っている姿が浮かんだ。
俺は自分が死んだら井川さんに悲しんでほしかった。墓前の前で大泣きして、毎日なんて贅沢は言わないから、月に一回墓参りに来てほしかった。しかし、いまや悲しんでくれる相手はいない。なんだか虚しい。この手はまだ掴んだばかりなんだ。まだ、俺は手放したくない。俺は、あなたを手放したくない。井川さんが、誰かのものになるなんて、俺は嫌だ。
「兄さん、死ぬのかい……？」
　死。赤木さんにそう言われたとたん、俺は一瞬だけ目を開き、赤木さんを睨みつけた。
「死にません！　俺は、井川さんを一人にして死なない！」
　全部言いきった直後に咳き込み、ベッドに倒れた。死ぬもんか、誰が死ぬもんか。俺はまだ井川さんに謝ってない。しかも俺が先に死んでどうする。井川さんに悲しんでもらうなんて、ご都合主義もいいところだ。俺は嫌だ、俺は、井川さんに笑っていてほしい、あんな顔をしてほしくない。あなたが笑うと、俺も幸せなんです。それを今すぐ彼に伝えたくて泪が流れた。井川さんに我儘を言ってほしいといいながら、俺もまた言葉足らずだ。もっと、彼への気持ちを伝えていればよかった。俺は、あなたが好きです、だからあなたの尊敬する人にすら嫉妬する。醜く貪欲で汚い男だ。それでも、あなたが好きなんです。好きで好きで、死んでしまいそうだ。
「うぅ……井川さん……」
「おいおい、男が泣いて病気が治るか。死ぬ時は死ぬんだ、まぁ頑張りな」
「死にたくない……」
「みっともねぇなぁ………たくっ、人の看病なんて、あんたが初めてだよ、兄さん」
　毛布を握っていた右手に、硬い何かが触れた。触って確かめてみると、井川さんが大事にしていた骨だった。「握ってろ」と赤木さんに言われて、素直に握りしめる。冷たかった骨がしだいに熱くなり、手の平から体中に熱を与えてきた。布団だけでは震えてばかりの体から、力が抜ける。そして、額に何か冷たい者が触れた。赤木さんの手だと思い、それにまた安心して眠っていた。

体が冷たい海底の奥へ奥へと沈んでいる。深い闇の方に沈んでいく。南郷さんから聞いた話の、海から生還した赤木さんもこうして冷たい海に体を翻弄されて沈んだのだろうか。もがきたいがもがけない。泪を海で流したところで、解けて消えるだけだ。俺がどれほど井川さんを好きか言葉にしたところで、泡になるだけ。後悔ばかりだ、井川さんという名前も呼ぶことさえかなわない。
　だが、そんな俺の体中にぬるりと絡みつくものがあった。それは閉じている目蓋を撫で、こちらの身体をあますことなくぬるりぬるりと撫でていく。それは魚だった。手の甲に触れるそれには鱗があったからだ。耳元を泳いでいるときには、鱗がこすれ合うさらさらという音もする。俺は今、魚によって身体検査を受けていた。もしかして、俺のことを餌かどうか調べているのだろうか、俺は最期の最期に魚の餌になって死ぬのか、なんだかさらに悲しい。
　だが、俺が海のなかで泪を一筋流した直後、その魚の尻尾が俺の右手首に絡みつき、上へ上へとひっぱりあげてきた。何をするんだと思っている間もなく、息苦しい海中から、突如、海上に顔がでた。
「ぶはぁっ！」
　息を大きく吸って目を開くと、天上には青空、眩しい太陽が肌を焼いてきた。自分がどこにいるのか分からずに、茫然と空ばかり見つめていれば、遠くから「お～い」と聞きなれた声がする。そちらに目をやれば、海のなかにぽつんと小島が浮かんでいる。そして、そこに赤木さんが立っていた。見慣れたスーツ姿ではなく、派手な色合いのアロハシャツを着ていた。
「お～い、こっちだこっち」
　手を振っている赤木さんに答えるようにして、俺の身体を何かの力でひっぱられる。それは先ほどの魚であった。海上に顔を出していても、水中にいる魚の正体はわからない。だが、それにひっぱられる形で、俺は赤木さんの待っている小島に辿りつくことができた。浜に上がればスーツはびしょびしょで、革靴は両足とも海底でなくしてしまった。風邪で重い身体を、さらに重く感じる。全身から水滴を垂らしながら赤木さんの前にやってくれば、相手は死にぞこないを前に、呑気に煙草を吹かしていた。
「よう、濡れ鼠」
「あの、ここどこですか？」
「お前の夢の中だからどこかは知らねぇが、ハワイかどっかじゃねぇか？」
「ハワイって……」
　ハワイといえば、赤木さんの方が思い入れは強いはずだ。もしかして、赤木さんの脳味噌に、自分の意識が紛れこんでしまったのだろうか。そこでくしゃみがひとつもれた。
「おいおい、そんな格好じゃ夢の中でも風邪っぴきだろう？」
「だって、気付いたら海のなかにいたんですよ」
「ばっか、夢のなかだ。好きな格好してな」
赤木さんが指先を鳴らすと、濡れていたスーツが緑色のアロハシャツへと姿を変えた。足には歩きやすいサンダル、首にはピンク色の花輪。いかにもハワイといった風勢になってしまった。
「ははは、結構似合うな」
「その褒め言葉、あんまり嬉しくないです。というか、なんで赤木さんが俺の夢のなかにいるんですか？　ハワイって、絶対に赤木さんの思い出でしょ？」
「おいおい、命に恩人になるかもしれない男に、強気なもんだな」
「え？」
「兄さん、お前が助かるチャンスをやろう」
「え？」
　すると、先ほどまであたりを照らしていた太陽が消え、青空も消えた。代わりに天上には麻雀の柄が広がり、黒く変色した海の水平線ではサイコロが転がり、花札やトランプが風に吹かれて頭上を通り過ぎていく。浮かれた世界が、突然の賭場と化したことに驚いていれば、島の中央にテーブルがひとつ出現し、赤木さんがそこへ来るように促してくる。椅子も二つ。赤木さんの座った対面に椅子を持って来て、腰をおろした。
　卓を見れば、イ―ピン牌が二枚と、白が一枚。
「麻雀でも良かったが、その間にお前が死ぬ可能性もあるから、てっとりばやく行こう」
「な、なにするんですか？」
「賭けをしよう。お前が勝てば、お前は助かる。だが、負ければ死ぬ。簡単だろ」
「え、簡単って、かなりやばい賭けじゃないですか！」
「勝てば、まだお前の死ぬときではなく、負ければ、お前は今死ぬことが決まっていたってことだ。諦めろ」
「で、でも、」
「別にこのギャンブルにのる必要はない。強制力もない。だが、乗らなければお前は、死ぬ」
　枕元で気だるげに吐かれた「死ぬ」とは違い、今回の「死ぬ」には頭をぶち抜くような殺傷能力があった。夢の中のはずだが、指先が冷たくなっていき、足先も自分の意思ではうまく動かせない。もしかして、現実世界の身体が死にかけているのだろうか。対面の赤木さんはいつものふざけた態度など露とも見せずに、まっすぐに俺だけを見つめている。
　彼の気迫に押されたからではない、自分の意思で頷いたのだ。生きながらえ井川さんと再び逢いまみえるチャンスがあるのならば、身を焼かれる賭けだとしても、胸をはってベットする。俺が頷いたことに赤木さんが怪しく笑い、そして卓上のイ―ピンを一枚つまんだ。
「ここにイ―ピンが二枚、そして白が一枚。この三枚を混ぜる、イカサマはない。イ―ピンが一枚になることも、白が二枚になることもないし、他の牌が混ざることもない。この絵が描かれた方を伏せ、その状態で兄さんがイ―ピンを二枚ひく。そしたら、勝ちだ。だが、もし白を引いてしまったら、負け」
「つまり、二回牌をひっくり返して、二枚ともイ―ピンだったら良いんですね？」
「そういうことだ」
「……ギャンブルじゃない、これはただの運試しだ」
「運も実力のうちだろ。時間がない、これが一番てっとりばやい。さぁ、もう始まってる。あとは、お前が好きに引けばいいだけさ」
　赤木さんが三枚の牌の柄を伏せた状態で、どれがどの柄か分からないように、華麗な手つきでかき混ぜる。判断がつくように、じぃっと見つめていたが、彼の手がそれを許さない。一枚消え、二枚消え、三枚目が消えたと思った次の瞬間に、赤木さんが右手を横に降れば、そこに消えていた三枚の牌が並んでいた。マジックを観賞している気分だが、楽しい気分で見ていられるものではない。自分の命がかかっている。
「さぁ、どれにする？」
「赤木さんはどれだと思いますか？」
「ちなみに、俺と心理戦をしたところで無駄だ。いったろ、時間がないって」
　赤木さんが足元を指差した。先ほどまで穏やかに寄せては返すを繰り返していた海水が、俺の足首まで浸水していた。島が沈もうとしている。
「え、これ、あとどれくらいで沈みますか？」
「三分」
「えぇ～！」
「ほれ、さっさと引け。そして生きるか死ぬかしろ」
　こちらは命がけでどの牌を引こうか右手を右に左にとさまよわせているのに対し、彼方は煙草を吸って煙を卓上に吹きかけている。咳はでない、自分が吸っていないぶん、いくらか落ち付いた。しかし、落ち付いたところで、どれを引けばいいのか。思考回路はまさにショート寸前だった。
　先ほど、赤木さんが牌を混ぜる前に、牌にからくりがないか調べさせてもらえばよかった。そのときに、何か痕をつけるとかして、イカサマをすることもできたが、きっと赤木さんのことだから、さっさと見抜いてしまっただろう。彼がイカサマをしないと言ったからには、こちらもイカサマなどできやしない。これは麻雀ではない、まさにロシアンルーレットに近しい賭けだった。
「あと二分」
　海水が膝まで届いたとき、赤木さんにタイムリミットを告げられ、ままよと最初の一枚を引いた。真ん中、触った瞬間にこれだと思って牌をひっくり返すと、そこには望んでいたイ―ピンの柄。ほっと息をついたはいいが、まだ最後の一枚が残っている。右か、左か。どちらの牌の上に手をかざしても、これだという直感は降りてこない。赤木さんがいうように、彼に答えを求めたところで教えてはくれないだろうし、そもそも答えを知らない可能性もある。波がとうとう腰のあたりまで上昇してきて、波が寄せてくるたんびに、水滴が顔にかかった。もう下半身は動かせないし、動くは右腕だけ。海に浸かっているはずの身体が、熱を発している。眩暈がぶり返し、卓につっぷしそうになるのを、奥歯を噛んで必死に耐える。
「ほれ、時間がねぇぞ」
　赤木さんが急かすように紫煙を卓に吹きかけた。右手にかかった煙が、さらに薄く霞んで見える。意識が飛びそうだ。俺も煙草が吸いたい、そうだ井川さんの吸っている煙草の匂いを嗅ぎたい。彼の吸っている煙草、井川さん、そう、井川さん。彼の名が脳裏に浮かんだとき、あることも同時に思い出しだ。以前、井川さんに話してもらった思い出話。それが、今の自分の置かれている状況に近いので、少しだけおかしくて小さく笑ってしまった。
「あぁ……そうだ、思い出した」
「何を？」
「いや、井川さんから聞いた話。井川さんが、赤木さんから持ちかけられた、賭けの話……あなたの命を賭けた話を……思い出した……」
「そんなこともしたな」
「あれ……井川さん、ずっと背負ってるんですよ……」
「あんなくだらないお遊びをか？」
「赤木さんは、知ってたんでしょ？　あのときの井川ひろゆきが賭けにのらないと……」
「知ってさ。だから、持ちかけた」
「酷い人だ。本当に酷い……」
「お前は酷いと思うのか？」
「俺にとって、あなたは俺の一部じゃない。けど、井川さんにとってあなたは、……げふっ！」
　そこで海水が顎にまで上昇し、口のなかが塩辛くなる。口から海水を吐き出すも、水はとうとう鼻にまで到達してしまった。先ほどの続きを赤木さんにぶつけてしまいたかったが、声が出せないのでは仕方ない。こうなったら、息を止めてどちらをとるか、決める方が先だった。首を伸ばして口を出すと、大きく息を吸ってから海中に顔を付け卓を睨みつけた。水中で必死に右か左かを選んでいる俺とは反対に、赤木さんは微動だにせず椅子に座ったままだ。その視線は、俺と同じく卓の上にあった。
　右か、左か。本当にどちらか分からない。溜めていた息が口端から泡となって漏れていく。やけくそになって右にするかと決めた俺の耳に、水中であるにも関わらず、赤木さんの声がした。
「左だ」
　その言葉に、俺はある確信を持って右を選んだ。だが、そのとき大きな波が押し寄せて、卓も椅子に座っていた俺たちも海中でもみくちゃにされる。選んだ牌を必死に右手に握っていたが、それがイーピンであるかの確認ができない。だが、再び海へのみ込まれた。身体は、最初のときと同じように、海底深くに引きこまれて行く。もしかしてハズれだったのだろうか、最後に思い出す人を井川さんに決めて、俺は静かに目を閉じる。
「常に人生とは選択だ。賭けにのるかのらないかもまた、選択のひとつ。ひろは賭けにのることをしなかった。しかし、それが不正解だと誰がいえる。だが、正解でもない。ひろはただ、のらないことを選んだ……それだけだ……」
　俺に話しかけてくる人間なんて、赤木さんしかいない。薄眼を開けると、海上から射しこむ光と、そのなかで揺れている人影をみつけた。
「死神みてぇ……」
「世話がやける。どうして俺を信じなかった？」
「言ったでしょ、俺はあんたを酷い人間だと思ってる……あんたを尊敬こそすれ、信じることはしない……」
「ひろなら、左を選んだだろうな」
「そうですね……けど、それがあの人だ……」
　死神は俺に笑いかけながら、こちらの右手をとり、握られていた牌を取りだした。それを見て、俺は首を傾げる。握られていたものは牌ではなく、いつもポケットにしまっていた赤木さんの骨だった。
「お前さん、死ぬには早いが、生きるにもまだ遅い。なら、もっと走るように生きてみな……」
　今度は魚ではなく、赤木さんに右手を引かれて上へ上へと昇っていく。彼の言葉なんて信じないといったくせに、その手の平の温かさを自分は心から信じた。目を開く、自分からも彼の手を握り返した、明るい、光だ。握っている手を見れば、それを神の手であった。
「素直に、助けてやるって、いえばいいのに……」
　暗闇の中で触れた神の手は、麻雀牌のようにつややかな手の平をしていた。

体が大きく震えた直後、ベッドから落ちた。「いてっ」と叫んで起き上がろうとして、頭のうえに枕が落ちてくる。災難続きにあいながら頭を振って床から起き上がると、雨上がりの晴天が窓の外に広がっていた。鼻水が垂れてくるのですすり、首筋に触れてみる。熱は下がったようだが、鼻水が次から次へと流れてくる。
　備え付けのティッシュに手を伸ばした時、右手に赤木さんの骨を握ったままであることに気付いた。それは火葬場で焼いた後ではないかと思うほどに熱く、手の平で熱を発していた。そういえば赤木さん本人はどこだろうと探せば、部屋にある椅子に腰かけて、天井を見つめていた。
「あ、赤木さん」
「ん……？」
「あ、いえ、なんでもありません」
「体長は良くなったか？」
「はい」
「もう大丈夫なら、東京に帰るか」
「……はい」
　礼を述べようとしたが、無粋だと気付いて感謝の言葉を呑みこみ、心の中にとどめておく。言葉にすると、その気持ちが安っぽくなりそうで嫌だった。礼の代わりに、右手にあった骨を握って、感謝を唱えた。
　赤木さんの潔さに感心していると、彼がいつもの煙草を咥える。ライターもなく火がついた先端、そして煙がゆっくりと天井に昇っていく。その匂いは、夢のなかで嗅いだそれと、同じものだった。

九、

起きてまずしたことは、裸のまま浴室へ行きシャワーで身体を綺麗にすることだった。熱いシャワーで凍っていた足先や指先が溶けて行く。頭がさっぱりしたところで、スーツに着替えようとしだが、床に脱ぎすてたままの濡れたそれはしわくちゃで、クリーニングにでもださなければ着ることができないあり様だった。しかし、今この部屋で着ることのできるものはこれくらいしかないし、赤木さんに代わりの服を買ってきてくださいとも頼めない。仕方なくしわくちゃのスーツに袖を通し、駅近くの服飾店に寄って、黒いネックのセーターとＧパンを買った。店でそのまま着替えてしまい、スーツの方は店員に紙袋へもいれてもらった。
　私服姿で新幹線に乗ったのは十二時ちょうど。帰りの車内にも人影は少なく、隣の空席には赤木さんが座った。
「これから帰ってどうする気だ？」
「井川さんに会いに行って、赤木さんの骨を返して、謝ります。殴られる覚悟で……」
「どこで謝る？」
「え、それは、まぁ……井川さんの家まで行くとかして……」
「そしたらお前、海に行くぞ」
「俺の話聞いてました……？」
「久しぶりに海が見たくなった。そこにひろを呼べばいい。辛気臭い部屋で話すよりも、海が見える方が、まだいいだろう」
「我儘……」
「おいおい、年上は敬うもんだぜ……」
　海と言っても、あまりに遠くへ行っては井川さんと待ち合わせするのに不便となる。どこかいいところはないかと腕を組めば、赤木さんと出会う前に、自分が落ち込みに行った場所を思い出す。大海原が見えるわけではないが、あれもれっきとした海だろう。
「海、行きましょうか」
　海と口にしただけで、やむことのないさざ波が聴こえてくるようだった。
　新幹線を新宿駅で降り、乗り換えで新橋駅へ。そこからはバスで海浜公園を目指す。海に近づけば近づくほどに、海の匂いが鼻をついた。バスを降りてからまず向かったのは海ではなく、公園近くに設置されていた公衆電話。緑色のそれにテレフォンカードをいれ、深呼吸を一度してから井川さんの携帯電話の番号を押す。井川さんの番号はそらで言える。彼と番号を交換した日は嬉しくて、何度も口にだしては、目で左から右へと数字をなぞっていた。
　緊張の一瞬、井川さんが電話に出なければいいのにと願いながら、コールを数えていたときに「はい」と懐かしい声がした。たった一週間きいていなかっただけなのに、泣きそうになった。泣いて許してくださいと懇願したい。だが、俺にその資格はない。覚悟を決め、受話器の向こうで黙っている井川さんの名前を呼んだ。
「井川、さん……お、お久しぶりです」
　それだけをようやく絞りだした。第一声は罵声か怒声か。しかし、電話をかけてきた相手が俺だと気付いた井川さんは、悲鳴のような声をあげて、「岸辺さん！」と名前を呼んでくれた。
「岸辺さん、今までどこ行ってたんですか！」
「え～と……京都まで……」
「京都？　仕事じゃないですよね？」
「はぁ、まぁ……」
「携帯かけても通じないし、留守電残してもかかってこないし！　沢田さんに電話かけてもらっても通じないし、心配してたんですよ！」
「すいません、携帯壊れちゃいまして……」
「家には車がおきっぱなし、数日前から帰った形跡もなかったし……」
「え、井川さん、俺の家にきたんですか？」
「昨日、一昨日は通いづめでした。あなたが帰ってくると思って、待ってたんですよ。合鍵使わせてもらいました……」
「すいません……」
「ご飯食べてましたか？　怪我はしてませんか？　事故に巻き込まれたとかじゃ、ないんですよね？」
「大丈夫です、俺は大丈夫です」
「……今、どこにいるんですか？」
「今はお台場近くの海浜公園にいます」
「俺は今、新橋にいます。今からそっち向かいますから、絶対に動かないでくださいね！」
「え、いいですよ。俺がそっちに行きますから」
「いいから、公園の砂浜にでも座っててください！　少しでも動いたら、二度と自分で部屋の掃除しませんからね！」
　乱暴に切られた電話に「もしもし」と問いかけるが、ツゥーという単調な電子音しか聴こえてこなかった。もっと、拒絶されるかと思っていただけに、相手の反応にたいして、強張っていた身体から力がぬける。しかし、骨を盗んだ犯人が俺だと知れば、井川さんの態度だって一変するかもしれない。大きなため息をついて受話器を戻し、公園の方へと向かう。新橋からここまで、俺と同じようにバスに乗ってくるのかもしれない。おそらく三十分ほどで、井川さんがここへやってくる。海辺で別れ話とは面白いが、一生の思い出になりそうで、海を二度と見たいとは思わないだろう。
　少し歩けば公園で、そこを抜けると小さな砂浜が見える。その日の海風は穏やかで、生ぬるい風にのって、夕焼けで紅くなった水滴が、きらきらと光りながら顔にかかった。
　隣に浮かんでいる赤木さんを見ると、つまらなさそうに水平線を見つめていた。俺は彼に「失礼します」と言って、煙草を吸った。それから二人で何も言わずにしばらく海を見つめぼうっとした。煙草が短くなったところで、携帯灰皿にそれを押しつける。生ぬるい風、嵐の日に赤木しげるが同じ海を泳いだのかと思うと笑いがこみあげてきた。
「なに笑ってんだ……?」
「フられる前の男のやけっぱちですよ、はは……」
「男の惚気を聞く趣味はねぇぞ」
　赤木さんがこちらをからからかいながら、吸っていた煙草を海に捨てた。それはゴミになることなく、寄せてきた水面に着水するまえに消えてなくなった。
　そうして、赤木さんは一服後の気持ちよさそうな風体で、俺より数歩前にでると、裸足を波に浸した。赤木さんの白い足首が、砂にまみれ、海水に洗われていく。そんな彼を羨ましいなんて思ってしまい、自分も靴を脱ぎ砂浜におくと、波へ足を浸してみる。夢の中の海とは違い、若々しい小さな波と泡は、生温かく指の間をくすぐっていった。
「入水自殺か？」
「死にませんよ。そこまで悲観的じゃありません」
「悲観的になって崖から飛び降りるのもいい。あぁ、でもお前の場合は自殺になるか」
「だから、自殺しませんって。赤木さんは俺を殺したいんですか？」
「殺してどうする？　お前みたいな羨ましい人生、もうしばらく楽しんでから死にな」
「それ、本気で言ってます？」
「羨ましいさ、お前はこれからも天とひろと打つ。他の麻雀馬鹿共とも打つだろう、それが何より羨ましい……」
「あなただって、打ってきたじゃないですか。いろんな人たちと……」
「足りねぇよ……どれだけ打っても足りねぇ……。打ったときに感じるあの乾き、渇望する生。生きていると思う、牌を倒した瞬間。それこそが最もの快感だと、俺達は知っている。だから、またあの骨に触れる。触れてまた生を感じる。そうだろう、兄さん……？」
　初めて牌に触れたのはいつだったのか、そしていつからあれに魅了されていたのか、記憶は定かではない。しかし、赤木さんの言う言葉の全てが、自分の思考とあてはまり、それが分かるのは、乾いた勝利の世界に生きる馬鹿共だと、俺もその一人だと、赤木さんの問いかけに俺は頷いた。
「赤木さん。そういえば俺、あなたと一緒にいて分からないことがあったんですけど、その答えが今わかりました」
「なんだ？」
「大したことじゃないんです。俺はあなたの骨に嫉妬はしても、あなた本人を前にしては嫉妬するとか苛立つといったことがなかった。どうしてだろうと、思い出しては答えを探していました。でも、今ならわかる。赤木さんは海みたいな人なんだ」
　骨を彼の墓前に供え手を合わせたとき、風の轟音が耳を襲い、鼓膜を震わせた。今、海から吹く風が、そのときと同じように耳の中へ入ってきて、ごうごうと奇妙な音をたてる。開いた口の中が塩辛くなった。
「海？」
「そう、海。海には嫉妬しないでしょ。赤木さんのたった指先しか俺は知りませんが、それだけであなたの大きさはなんとなくだけど、わかったような気がします。あなたあってこその、井川ひろゆきなんだ。ようやく、自分のなかで整理がつきました……」
　どれほど頭をひねったところで完成しなかったジグソーパズルの、ようやく外枠を組むことができた気持ちだった。まだそれだけだが、これから中身を埋めていけばいい。ここまで来るのに、たくさんの心を擦り減らしてきた。だが、それは無駄ではなかったのだ。
　水平線に沈もうとしている夕日が眩しくて、目を細めていれば、それを遮るように赤木さんが俺の前に立ちふさがる。彼の白い髪が、燃えているように、赤くなった。
「兄さん、俺はもう未練はないといったが、もう一つだけ未練ができたみてぇだ」
「えぇ、まだあるんですか？」
「それに関しては、俺が自分でどうにかしよう。しかし、お前みたいな甘い野郎にひろを預けるのは、どうにも心もとない」
「え……！」
「俺を海だなんだと、詩人よろしく感傷にひたってるようなひ弱なやつに、ひろを預けるのは、どうにもなァ。これじゃ、心配で成仏してる場合じゃなくなった……」
「それは、困り、ます。すごく！」
「お前に一生とり憑いて、ひろに近づくたびに死んだ方がましだっていう苦痛を与えるのもいいし、ひろにもっとましな女を用意するのもいいだろう。兄さん、あんたはどっちがいい？」
「止めてください、俺はどちらも選ぶことはしません！　俺が井川さんを幸せにするんです！　赤木さんがどうしても邪魔をするなら、お祓いでもなんでもして、あなたを追っ払いますから！」
「その威勢がいつまでもつかな。お前、本当にひろが好きなのかい？」
　最後のその一言が頭にきて、「馬鹿いわないでください！」と目の前の赤木さんに向かって怒鳴っていた。周囲にいる観光客の目なんて気にしない。俺はこの数日で溜まりに溜まっていた気持ちを吐きだすために、叫んだ。

「好きに決まってるじゃないですか！　好きですよ、　大好きだから、あの人にフられる覚悟で告白したんです！　大好きなんですよ、好きなんだ、あんたには分からない！　俺は、あの人を誰にも渡したくない！　でも、俺は井川さんには少しも見あわないって知ってます……みっともないってのも知ってる……！　あんたみたいに、麻雀だって強くない……！　でも、この気持ちだけは、誰にも譲れない、これだけは、ほんもんだ！」

鼻がつまっているのに、ひと息に言いきったせいで呼吸が苦しくなった。それでも、俺は泪目で赤木さんを睨みつける。対照的に、赤木さんはどうだといわんばかりに口角を皮肉げにつり上げていた。これで彼が消えてくれるかは知らないが、これが俺の思いの全てだった。もし、これでとり憑かれるにしろ、井川さんに他の運命の相手が用意されるにしろ、もう止められない。井川さんにどれだけ嫌われたところで、決して離せない。すがりついて、俺が嫌われているぶんを補うように、井川さんを好きでいればいい。そう決心をして、鼻水をすすったときだった。

「俺のこと好きなら、死ぬなんて許しませんから！」

背後から井川さんの声を聞いたと同時に、耳元で赤木さんが囁いた。
「あぁ、楽しそうな人生を歩いてるみてぇだな……」
　俺がどういうことですかと赤木さんに訊ねる前に、後ろからタックルをくらい、海へと前のめりに倒れ込んだ。海水から急いで顔をあげ腰にしがみつく相手をみれば、それは見慣れた姿の見慣れた顔、井川さんだった。
「あれ、井川さん？」
「入水自殺なんて俺、許しませんよ！」
「いや、死にませんから！　大丈夫ですから！」
「本当ですか？」
「本当ですから！」
　浜辺で騒いでいる男二人を、周囲の人間が遠巻きに見つめている。俺の言葉を信じていないらしく、右腕につかまる井川さんの力は少しもゆるまない。彼を連れて海から上がれば、二人とも海水でびしょびしょになっていた。タオルもないしハンカチもない。水難の相が出ているのだろうか。井川さんにスーツの上着を脱いでもらい風邪を引かせないようにする。それから近くのベンチに彼を座らせたが、それでも井川さんの両手は、俺の右腕を掴んだままだ。
「井川さん、風邪ひきますよ。今からどっかの店で服買いましょう」
「それよりも、岸辺さんに話すことがあります」
「………別れ話ですか？」
「違います……あの日は、すいませんでした。まさかあれを、岸辺さんが見つけてしまうとは思わなかったんです……すいません……」
「それをいったら、俺の方が謝るべきなんですよ、井川さん」
　俺は右ポケットから礼の白い欠片を取り出し、それを井川さんに渡した。俺の右手を離し、彼はその欠片を驚いた様子で受取った。俺が盗んだという考えには至っていなかったようで、いまだ瞳に怒りはまざっていない。
「俺があなたの部屋から盗みました」
「ずっと、持っていたんですか……？」
「はい」
「無くしたと思ってました。岸辺さんにあんなことした俺への天罰だと、思ってました……」
「天罰なんかじゃありません、どうぞ殴ってください」
　相手へ顔を差し出せば、殴る代わりに頬をつねられた。力の限りのそれは、本当に肉がちぎれるのではないかという痛さで、ようやく離してもらったときには、奥歯の方が痺れていた。あまりの痛みに泪が一筋流れる、それを井川さんが指先で拭ってくれた。
「俺は盗んだことに怒ってるんじゃありません。俺を不安にさせたことで怒ってるんです。でも、これですっきりしました」
「殴ってください。そうじゃないと、俺のけじめがつきません」
「岸辺さん、これが何か分かりますか？」
「………骨ですか？」
「よくわかりましたね。これ、赤木さんの骨なんです。骨壷にしまう時に、ひと欠片をポケットにしまいました」
「どうして……？」
「岸辺さん、以前俺は赤木さんを助けられなかったことを、悔やんでいると言いましたね。きっと、その気持ちは影のようについてまわる。赤木さんが許すとか許さないの問題じゃないんです。自分で背負いたいと思った罪なんです。あの日、俺はその罪の証を見つけて、ポケットに忍ばせました」
「馬鹿な人だ」
「えぇ、大馬鹿ですよ。これを見るたびに勝手に悲しんだし、勝手に後悔してばかりでした。でも、あの日、岸辺さんがこれをみつけたときに、俺は怒りよりも恐れであなたからこれを奪い取りました」
　井川さんが骨を手の平で遊ばせる。自分が触りなれたそれが、他人の手の上で踊っていると、ずいぶん奇妙だった。井川さんの手にいるとき、それはいっそう白く輝いた。
「俺は、あの時に井川さんが怒っていると思ってました。人の秘密を勝手にみたわけだし……」
「いいえ、俺は自分の醜い部分や弱い部分を、岸辺さんにみられたくなかったんです……」
「……その一言、だいぶ傷つきますね」
「でも、だからこそあの日、俺はあなたが心底恐ろしいと思ったんです……」
「恐ろしい？」
　そのとき、井川さんがまた俺の右手を握った。彼の目から溢れた泪が、俺の手の平におちて、水面を作る。
「俺、凄く岸辺さんが好きなんだって、気付いて、恐ろしかった……」
　最後の部分は聞き取れずに、泣き声に消えた。どうしていいのか分からずに、井川さんの腕を握り返す。人を好きになるのは人それぞれで、自分は井川さんのことを考えて泣くことが幾度もあった。今、井川さんは俺のために泣いている。俺は井川さんに笑ってほしいのに、泣かせてばかりだと、鼻の奥が冷たくなる。
「俺は、井川さんを泣かせてばかりかもしれませんね」
「幸せで泣いてるんです。岸辺さんが好きで泣いてるんです。だから、謝る必要はありませんからね……」
「井川さん、俺はデカい男になります。井川さんが罪を背負っていくなら、俺も背負います。赤木さんのこともっと教えてください。そうやって少しずつでいいからあなたの半分を俺にください。俺の半分も、井川さんにあげますから」
　井川さんはおかしそうに「半分だけですよ」と泣きながら笑った。
　井川さんがくしゃみをしたので、浜辺を後にしようとベンチを立ったとき、彼が波打ち際へと走りだす。そして、靴を濡らしながら、右手にもっていた骨を海へと放り投げた。俺が悲鳴をあげてその骨を追おうとしたが、「いいんですよ」と引きとめられた。
「本当は、もう返そうと思ってたんです」
「え、誰に？」
「赤木さんにですよ」
「でも、ここ海、ですけど……」
「あの人は、風みたいで海みたいな人なんです」
「赤木さんですか？」
「そう、赤木さん。海みたいに荒々しく、風のように壮大で、そして自由な人だった……」
　赤木さんのあの囁きは、きっと消える間際のそれだったに違いない。すでにどこにも姿はなく、海へと帰っていった、赤木しげる。嵐の日に海から生まれなおし、神の名をほしいままにした男。墓に眠る赤木しげるとはまた別に、十三歳の姿をした白い髪の少年が、海底深くを泳いでいる姿が、目蓋に浮かぶ。彼に羨ましがられた人生であるが、俺はあなたと打てない人生を歩む、それが少しの悔しさとなって、胸を焦がした。
「そういえば、井川さん。面白い話があるんです。俺が一週間旅してきた話なんですけどね……」
「へぇ、どんな話ですか？」
「話せば長いんですけど……」
「いいですよ、話してください。夜はこれからなんですから…」
　神の手に触れた右手で、井川さんの左手に触れる。たとえ、世界が許さずとも、神がすでに許している。人間が勝手に罪を作り、罰を作る。きっと神がいたら、そんなことよりもっと楽しいことをしろというだろう。それでも背負うことを選択するならば、彼と一緒に背負える幸福を取ろう。
「偶然行った場所で、赤木さんを知ってる人たちと逢ったんです。治さんと、南郷さんっていうんですけど……」
　俺の話が終わるまで、井川さんは一切口を挟むことなく、耳を傾けてくれた。

十、

「お前ら、本当に仲良いよな」
　天さんに指摘され、二人でくしゃみをしながらマスクの下で苦笑いをする。昨日、海に濡れてすぐに着替えることをしなかったせいで、朝から二人して咳と鼻水が止まらない。それとも、俺の風邪が井川さんに移ったのかもしれない。具合は悪いが、だかといって今日の予定だけは外せない。
　井川さんと仲直りをした次の日の二十六日。日本中の雀士がどこか浮足立ち、近き者も遠き者も赤木しげるの墓参りにやってくる。昼間に井川さんと共に墓前で手を合わせた。昨日別れたばかりの相手に報告することは特にないが、「ありがとうございました」と深いお辞儀をした。墓の周囲に咲いていた彼岸花は、一週間ですっかり枯れていた。
「彼岸花、枯れちゃいましたね」
「岸辺さん、知ってますか？　その花って咲いて一週間で枯れちゃうんですよ」
「へぇ……一週間……」
　そういえば、赤木さんと出会って別れたのも一週間だった。白い彼岸花を移し身にして、この世に咲いていたのだろうか。いや、それはさすがにロマンチストの考えだな。あの人を花にたとえる趣味はない。
　墓参りが終わってから向かったのは雀荘さわだ。その日は貸し切り状態で、一番乗りは俺たちだった。
「沢田さん、今日は誰が来るんですか？」
　井川さんが訊ねたところ、「天、原田、健、金光」の四人と聞いた。三人で雑談をしていたところで、天さんがやってくる。線香の香りがするから、墓参りを終えたばかりだろう。沢田さんをいれて四人で打とうとしたが、沢田さんに「おめぇらと打ったらカモになる」といって断られてしまった。サンマでもするかと話していたところで、原田さんがやってきた。こちらも線香の匂いが漂っていた。みんなして線香臭い。
「どれ、それじゃ四人で打とうぜ」
「それよか、そこの二人は帰らせンで大丈夫かい？　ゴホゴホさっきからうるさくてしャ～ない」
「すいません、昨日岸辺さんと海を見に行ったら風邪引いちゃいまして。でも、打てないほど酷いってわけじゃありませんから」
「原田、こう見えてひろは頑丈だから、だ～いじょうぶ」
　四人で宅を囲んだところで、東西のかつての大将二人と井川さんの三人というメンバーだということに気付き、今さらながら武者ぶるいをする。なるほど、こういうことか。赤木さんの言った羨ましいという言葉を実感した。
　親を決め、牌が並ぶ。一三六の地獄が巡る、八本の手が牌をきる。死に触れる四人の雀士。一局二局と進んでいくうちに、流れが見えてくる。どれ、ここでリーチと言って、井川さんの切った牌でロンと倒す。井川さんが悔しそうにしながら点棒を渡してきた。それを受取り、また牌をツモる。
　ふと、沢田さんが「線香臭いな」といって窓を開けた。部屋に乾いた秋風が吹いて、鼻先に彼岸花の匂いを散らす。そのときに聴いたのはごうごうという風にしては激しい、岩礁に叩きつける波音のようなそれ。それが聞こえて思わず後ろを振り返ったが、そこには誰もいない。自分の勘違いを隠すように咳をしてから、前を向く。その左肩に、一度だけ握ったことのある、あの右手がおかれる。そして、首筋にタバコの煙が吹きかけられた。

「岸辺、お前とも打ってみたかったよ……」

驚いて椅子から転げ落ちそうになったのを、天さんや原田さんに笑われる。耳の裏をかきながら背後を見るが、すでに相手は風となって消えていた。最後の最後まで、掴みどころのない人だった。顔が赤けりゃ、耳も赤い。俺も、あなたと打ってみたかったですよ、赤木さん。すでに風の音は聞こえない。きっと、もう二度と聞くことはないだろう。
　タンッと牌を打つ、ポンと井川さんが鳴いた。
　呼吸ができる。その息の美味いこと。死人にゃこの気持ちは分かるまい。
「骨は釣れるか骨はェ……」
　〈白〉をひき、あの一節を思い出し口にした。一三六の地獄を巡る、いくらでも彼のために地獄を巡ろう。雀士は常に、死に触れているのだから。
　その神は、赤木しげると名乗っていた。

終

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