清王朝の興起

ヌルハチによる後金(こうきん)の建国

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清王朝の皇統譜 − ●印 清皇帝 (*)
■ ツングース系の女真族は、12世紀には(きん)王朝を建国して中国北部をその領土とするまでになっていた(1115年〜1234年)。しかし、13世紀前半にモンゴルに滅ぼされて以後、17世紀初めにヌルハチが再統一するまで、女真族は個々の小勢力に別れていた。明王朝は女真族を撫順の東にいる建州(けんしゅう)、松花江方面にいる海西(かいせい)、および奥地や日本海近くにいる野人(やじん)の3つの大部に分けて間接統治していた。彼らは瀋陽付近に設けられた交易場に毛皮や朝鮮人参などを持ち込み、中国側の穀物や金属類と取り引きしていた。

■ 1559年、後に後金を建国し、清王朝の創始者となったヌルハチ(奴児哈赤、1559-1629)は、蘇子(そし)河中流域の興京(こうけい)付近に居住していた建州女真の一首領タクシの息子として生まれた。

■ 1583年、ヌルハチが25歳のとき、女真族のエボとハダの争いにハダを支援した明軍によって、ヌルハチの祖父と父が誤って殺されてしまった。こうした逆境の中で、ヌルハチは最初の兵を挙げた。当時の彼の兵力はわずか100名内外に過ぎなかったという。

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太祖ヌルハチ
■ しかし、ヌルハチは近隣の諸部を次々に屈服させて、5年間で建州を統一してしまった。建州は蘇子河の流域から、鴨縁江の支流の冬佳江流域にわたる地域を占めた。ヌルハチは占有した地域をマンジュ国と称した。

■ この頃、ヌルハチは遼東における明の軍司令官・李成梁(りせいりょう)の保護を受け、明に対してはつとめて恭順な態度をとっていた。そのため、明からの覚えもめでたく、龍虎将軍という称号が与えられていた。

■ 1593年、ヌルハチのマンジュ国が日増しに盛んになることで脅威に曝された周辺の諸部など九国は、連合してヌルハチの本拠めがけて襲撃してきた。ヌルハチにとっては興廃を決する最初の大試練だったが、巧みな戦略でこれを撃退し、その勢力をさらに発展させた。

■ 当時、ヌルハチは蘇子河の南側の丘に城を構えていた。この城は満州語で古い丘を意味するフェアラと呼ばれた。フェアラ城は、三重の構造で、外城、内城、それに内城の中心に木柵で囲んだヌルハチの邸宅から成っていた。その邸宅は真ん中で二分され、右半分がヌルハチとその家族が日常生活をしていた住居区域、左半分がオフィスなどの公的な区域だった。フェアラ城は16年間ヌルハチの根拠だった。

ホトアラ老城
ホトアラ老城
■ 1603年、ヌルハチは新たに蘇子河と二道河の合流点の左岸ホトアラに、フェアラと同じような城を築いて移った。ホトアラは満州語で「横の岡」を意味する。後に1634年になって、ホトアラは清が興起したときの首都として興京(こうけい)と改称された。ホトアラ城は内城と外城からなり、山にかこまれ、版築の城壁を築き、三面が川に臨み、一面が山を背負う天然の要害だった。内城の周囲は2.5kmで、ヌルハチと家族はそこに住んだ。外城の周囲は約4.5kmで、女真の精鋭部隊になる部族がそこに居住し。また、外城の北門の外には鍛冶屋や弓矢の工房など職人たちが居住した。

■ 九ケ国連合軍を撃破して以後、ヌルハチの勢力は不動のものとなり、彼は女真族の統一を着々と進めた。そして、1616年にはホトアラで即位式を挙行し、ゲンギエン・ハーン(英明なる君主の意)の尊号を受けた。そして、かって1115年に女真族のアクダ(阿骨打)が建国した栄光ある国の名を新たな国号として採用し、それを満州語でアイシン国と呼んだ。後世、アクダの金国と区別するため、ヌルハチの建てた金国を「後金」(こうきん)と呼んでいる。

八旗の一部
八旗の一部
■ 後金は8つのグサという集団で構成された。各グサの軍隊がそれぞれ違った軍旗を標識としたので、グサを中国語で旗と訳し、八旗と総称した。軍旗の色は黄・白・紅・藍の4種で、それに縁のあるものとないものを合わせて8種とした。縁にないものを正(せい)、縁のあるものを”じょう”(金+襄))といい、正黄旗、じょう黄旗などと呼んだ。八旗は軍事制度であるとともに、行政制度でもあった。

■ 1608年、明の中央で政変がおこり、ヌルハチに保護を与えていた総兵官の李成梁が失脚した。その結果、形勢が一変し、明は逆にヌルハチに圧迫を加えるようになり、中国との貿易も停止された。ヌルハチは独立して明と対決していく意志を固め、1618年になって明に対して国交断絶の宣言を発すると、直ちに国境線を突破し撫順城を陥れ、国境沿いの諸地を略奪した。

■ 翌1619年、明は本格的なヌルハチ討伐を決意し、勇将楊鎬(ようこう)を総指揮官に任命した。楊鎬は10万の兵を4軍にわけて四方面からヌルハチの本拠地ホトアラに向かって進軍させた。しかし、サルフの戦いでヌルハチは一方的な勝利をおさめた。

■ 1621年になると、ヌルハチは総力をあげて遼河下流域の平野に進軍し、瀋陽を奪いさらに南下して遼陽を攻めてこれを陥落させた。そして、1625年には都を瀋陽に移した。瀋陽は盛京とよばれて、後金国の政治の中心となった。

■ 1626年、ヌルハチは明が渤海湾沿いの寧遠に築いた強固な城を攻めたが抜くことができなかった。25歳で兵を挙げて以来初めて涙を呑んで敗退したという。それから半年後、ヌルハチは温泉治療からの帰路、瀋陽城外で没し華々しい生涯に幕を下ろした。行年71歳だった。

清王朝を開いた太宗ホンタイジ

■ 1626年にヌルハチが没すると、誰がハンの位を継ぐか取りざたされた。満州族は、中国のように長子相続の制度がなく、モンゴルの場合と同じようにその都度後継者を定めていた。二代目のハンとして即位したのは、4人の有力者のうち最年少のホンタイジ(1592-1643)だった。ホンタイジはヌルハチの第八子だったが、4人の中でもっとも武勇をほこり実力を持っていたという。

ホンタイジ
太宗ホンタイジ
■ 後金は明との戦争状態におちいり久しく中国貿易が途絶したことで、経済的に困窮し、加えて飢饉で極度の食糧難に直面していた。即位した翌年の1627年、ホンタイジは大軍を朝鮮に派遣した。名目は、朝鮮の□(か)島に根拠を置いている明の将軍・毛文龍を討つことだったが、鴨縁江を越えた満州軍はまたたくまに南下してソウルに迫った。朝鮮王は江華島に脱出したが、結局圧力に屈して後金国のハンを兄、朝鮮王を弟とする関係を結び、米などの物資を朝鮮から補給させた。

■ ヌルハチの死後、明国との領土画定のために何回か和平交渉がもたれた。しかし、結局は実らず、ホンタイジは実力をもって明の本拠を突く挙にでた。1629年、自ら大軍を率いて熱河を渡り、長城を越えて華北に侵入し北京を包囲した。しかし北京を攻略できず、華北省の北東部の諸地を略奪して、翌年引き上げた。

■ 1632年、明は遼西の大凌河に築城しようとしたので、ホンタイジはただちに攻撃し、このとき完成したばかりの大砲を使用して大凌河城を陥落させた。この戦いで、多くの明の将兵が大小の火砲をもって後金に投降した。これによって、後金の火器力はいっそう増大した。

■ 元朝の正統のチャハル部のリンダン・ハンは、後金の脅威を感じて西方に移動し、甘粛、青海方面に勢力を伸ばした。1632年、ホンタイジは自ら大軍を率いてチャハル部征討に出発した。しかし、リンダン・ハンは一戦も交えず西方の走り、翌年病死したため、チャハル部は瓦解してしまった。リンダン・ハンの長子のエジェイは甘粛の辺外を荒らしたので、ホンタイジの弟のドルゴン1635年に西征し、エジェイを捕らえて凱旋した。このとき、ドルゴンは「大元伝国の御璽」を持ち帰りホンタイジに献じた。

■ そこで、1636年ホンタイジは盛京の宮殿で、満州人・モンゴル人・漢人に推戴されて大清皇帝の位についた。このとき、金の国号をにあらため、ハンの称号を皇帝に替えた。

■ 清の成立後も、明との戦争は依然としてつづいた。1636年には清軍が長城を越えて華北に侵入し、人畜約十八万を捕獲する戦果をあげた。1638年には、華北ばかりか山東の各地も大運河にそって攻略し、その中心の済南を陥落させている。1641年には、錦州南方の松山で両軍の激戦が繰り返され、明の洪承疇(こうしょうちゅう)が清軍に捕らえられ投降した。洪承疇は文官出身の高級官僚で当時の明での第一級の人物だった。彼が清に投降したことで、今後の清の発展に非常に大きな力となった。

■その後、清と明の間で講和の交渉が行われたが実を結ばず、1643年、ホンタイジは52歳で急死した。

北京に遷都した第3代順治帝

■ ホンタイジの急死で、皇位を継いだのは第九子で、まだわずか6歳の幼児フリン(福臨)だった。フリンは第3代順治帝(在位1643 - 61)として登極したが、この新皇帝を擁立するのに主役をつとめたのは、ホンタイジの弟のドルゴンと従弟のジルガラン だった。二人は摂政になったが、実権は政治手腕と智力にすぐれたドルゴンが握った。

■ 1644年、明は李自成(りじせい)らの内乱によって自滅した。李自成の軍が北京に迫ってくると、山海関外で精鋭軍団を率いて対清防衛に当たっていた呉三桂(ごさんけい)を首都防衛のために呼び戻した。しかし、呉三桂が北京に到着する前に、北京が陥落し明の皇帝が自殺してしまった。この報に接した呉三桂はただちに引き返して、明の皇帝の仇を討つためと称して清に助けをもとめた。

■ この救援要請を受けて、ドルゴンはただちに行動を開始した。かれは八旗兵の大半と漢人軍閥の軍団を引き連れて遼西方面に押し出していった。参謀役は松山の戦いで投降した洪承疇だった。ドルゴンは、「天下第一の関」といわれた山海関を昨日までの敵将呉三桂の先導でなんなく通過し一路北京へと進んだ。

■ かなわぬとみた李自成は宮殿に火を放って西安に逃げた。その二日後、ドルゴンは威風堂々と北京に乗り込み、長年の夢を果たした。それから5ヶ月後、順治帝は盛京から移って、紫禁城の玉座についた。こうして、清は中国の王朝となった。

■ 清王朝は第4代康煕帝(在位1661-1722)、第6代乾隆帝(在位1735-1795)の時代に最盛期を迎えた。両帝の時代は清王朝の全盛期であったばかりでなく、数千年にわたって発達してきた中国の経済と伝統文化の絶頂に達した時期でもあった。だが、19世紀になり西洋で産業革命が進展するころ、清王朝の最盛期は過ぎ、政治は遅緩し、人口は過剰となり、社会的矛盾が増大し、経済は行き詰まっていた。そうした落日の清朝の前に新しく登場してきたのは西洋諸国の資本主義勢力である。



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