もしストーリーテリングや物語に関するわたしの考え方を変えたゲームを一つ挙げるとすれば、それは「ファンタシースターⅡ 還らざる時の終わりに」(1989、セガ)だ。わたしがプレイしたJRPGの中でも間違いなく最高峰である、珠玉のSF作品だ。そしてまた作家としてのわたしにとって大きなインスピレーションの源であり、語りたいと思っていた物語を形にする助けとなっている。
「ファンタシースターⅡ 還らざる時の終わりに」
その最たる魅力の一つは、ディストピアのかわりに徹底したユートピアを提示してみせたことだ。マザーブレインと呼ばれる巨大AIがすべてを供給することで、あらゆる需要は満たされ、人々はもう働かなくてよくなった。気候は完璧に制御され、食料は配給され、動物は環境のバランスを保つためにバイオプラントで生成される。この世界観がゲームシステムに見事に統合され、プレイ経験となめらかにつながっていることにも感嘆する。もちろん楽園であっても、人間は災いの種を見つけてしまう。かくしてプレイヤーは政府のエージェントとしてその渦中に飛び込み、あらゆる異常の原因を追うことになる。
わたしはこのSF世界の力強さに魅了された。時に1989年の話だ。それまでプレイしたRPGはどれもNES(訳注:北米版ファミリーコンピュータ)のソフトで、ファンタジイばかりだった(ドラゴンクエスト、ファイナルファンタジー、ウルティマ)。メモリの制限のためにNESのカートリッジの容量には上限があり、そのためストーリーはよく二の次にされた。しかし「ファンタシースターⅡ」には圧倒的に豊かな物語があり、アニメ映画のように壮麗に続いていた。プレイヤーの行動しだいで、市民のセリフが実際に変化した。二つの惑星を行き来し、片方が破壊されるのを目の当たりにした。随所に盛り込まれた設定はゲームメカニクスに溶け込んでいた。セーブはたんにそういうものというだけでなく、実際に記憶をコンピュータに保存して、あとで再ダウンロードしているのだ。キャラクターを生き返らせることはできない。かわりに彼らのクローンを作るのだが、今にして思うとこれは相当不気味だ。その上、「ファンタシースターⅡ」でわたしは生まれてはじめてゲームの中でキャラクターがほんとうに死ぬのを経験した。わたしが深く惹かれたキャラクター、ネイだ。彼女の死には打ちのめされた。ゲームでこんなことが許されるなんて知らなかった。
氏がその死に打ちのめされた、ネイ
友人の兄がこのゲームのことをはじめて話してくれた晩のことを、わたしは作家人生の中での決定的な瞬間としてよく口にする。わたしと彼はその時家の外に出て、星を見上げていた。彼は「ファンタシースターⅡ」の世界観について語った。壮大なスペースオペラで、まるで一本の映画のように聞こえた。何度か聞き返しさえしたことを覚えている。待って、そのゲームほんとうにあるの? そんなゲームがありえるはずがなく、友人兄弟がわたしをだまそうとしているのではないかと思ったのだ。
さいわい、わたしは間違っていた。
当時、わが家の財政事情は厳しかったので、件(くだん)のゲームを買う余裕はなかった。かわりにわたしは週末がくるたびに友人の家に泊まり、一晩中プレイしていた。それは想像をはるかに超えてすばらしかった。わたしは畏敬の念をおぼえ、サイバー風のキャラクターデザインから耳に残る音楽まで「ファンタシースターⅡ」のすべてを愛した。武器ひとつとってもスライサー(ブーメラン型では史上最もクールな武器)からパルスカノンまで、凡百のRPGのありがちなファンタジイ風武器より洗練されていた。
「ファンタシースターⅡ」の話を耳にし、そしてプレイした少年の畏敬と感動が、作家としてのわたしの原動力だ。どんなものを書くときも、読者の心に同じ感情を追体験させたい。子供のころ辛い目に遭ったときにはよく「ファンタシースターⅡ」のキャラクターを思い起こし、彼らが苦難を一つまた一つと乗り越え続ける姿に励まされた。その後もファンタシースターシリーズの諸作をプレイしていったが、シリーズは四作目にしてほぼ完璧な頂点を迎える。
「ファンタシースターⅡ」を愛しているわたしだが、「ファンタシースター 千年紀の終りに」(ファンタシースターⅣ)の物語と登場人物はシリーズを別の高みへと引き上げた。ゲームシステムは完成され、バランスの取れたプレイ経験はひたすら楽しかった。マシン搭乗時のバトルという追加要素に加え、戦闘を自動化するマクロなどのアップデートでできるだけ操作の手間を省いた点にはセガの開発チームの配慮を感じた。小玉理恵子氏はゲーム業界における最も才能あるディレクターの一人であり(彼女がデザイナー・ディレクターとして携わった作品には「ファンタシースターⅡ」と「Ⅳ」、「エターナルアルカディア」、「DEEP FEAR」がある)、「ファンタシースターⅣ」の十六ビット時代屈指のスピーディな戦闘システムからはそれが見て取れる。
「ファンタシースター 千年紀の終りに」
冒険のペース配分も絶妙で、場面ごとの臨場感はマンガ的なカットと耳に残る音楽で高められた。各キャラクターがそれぞれ自分を駆り立てる強い動機を持ち、魔道士ジオを倒す旅に出るという展開も大好きだ。ジオはダークファルス(訳注:シリーズにおける共通の敵)に帰依することで大いなる魔法の力と不死の能力を授かっていた。新たな力にのぼせあがったジオは、この絶対悪の体現を崇拝する教会を設立する。その信徒たちは不浄な世界を浄化すると信じ込み、学問を強く否定する狂信者の集団だ。信奉者がジオの名を口にし、畏れ多さから気絶する一幕がある。邪悪な魔道士への熱烈な信仰からひきつけを起こす市民もいた。
プレイ画面
みずからの破滅を招くためにこうも必死になる人間の姿は一見愚かしくバカバカしいように思えるが、最近目にしているニュースを奇妙なほど思い起こさせる。この反復の中で邪悪の極みとされている数々の言葉は我々にとってそれほど異質でも無縁でもないし、ジオの信奉者たちの自己欺瞞の能力は不気味なほど見覚えがあるものだ。偶然、読んだばかりのウィリアム・シャイラーの第三帝国に関する本に、共鳴する次の一節があった。「長年わたしはヒトラーの主要な演説をいくつも聴き、そのたびに心の中で立ち止まって叫んだ。『とんでもない屑だ! あからさまな嘘だ!』そして周囲の聴衆を見回した。聴き手はその一言一句をまぎれもない真実として受け取っていた」
悪にしてヘーゲル的矛盾の象徴との終わりなき戦いは極限まで突き詰められ、ダークファルスはアルゴル太陽系の全生命を否定しようとする。さいわい善もまたライラという人物となって再来し(この名前は「ファンタシースターⅠ」のヒロインの名前とほぼ同じだ(北米版では似た名前になっているが、国内版ではアリサとライラでだいぶ異なる)、シリーズの人気者ルツも真新しい姿で登場する。主人公はルディという名の若きハンターで、ベテランのライラに見守られている(ルディは「Ⅱ」のルドガーと似た胸当てを付けており、視覚的に結びついている)。「Ⅱ」のストーリーをなぞるように、二人は世界的なモンスター出現の調査に乗り出す。最近「Ⅳ」をもう一度最後までプレイしてみたが、生まれてこのかたバイオプラントの中で過ごしてきた人工生命体のファルがはじめて外の世界を見た時など、ゲームのいたるところに胸を打つシーンがあった。しかし何よりわたしが評価しているのは、それまでのシリーズとの関連性だ。
プレイ画面
ある時点で、ルディは聖剣エルシディオンを見つける。その時彼は過去の「ファンタシースター」に登場したあらゆる英雄たちを幻視する。エンディング後の運命が作中で語られなかった「Ⅱ」の英雄たちの中にネイを見つけたときには言葉にならなかった。けれどもわたしを感動させたのは、過去のシリーズ作品への言及があったことではなく、むしろJRPGの豊饒な世界を歩き回ったあの時間をなつかしさとともに思い起こさせてくれたことなのだ。少年時代の大事な思い出の多くはゲームが形作ったと思っているし、ルディの回想はその過去の想像力の世界に再び足を踏み入れるような心地がした。「Ⅳ」の物語は熱烈なフィナーレで締めくくられ、以来わたしの尽きることないインスピレーションの源となっている。
プレイ画面
昨年、わたしは『ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン』という本を出版し、日本では早川書房から10月に刊行された。その本の謝辞で自分に大きな影響を与えた一人として小玉理恵子氏を挙げた(彼女のゲーム開発者としての卓越した手腕は、その後も「魔法騎士レイアース」「セブンスドラゴン」といったゲームで発揮されている)。同書のファンの中に謝辞で影響を受けたと書いたことを小玉氏にツイートした方がいて、私はそれを彼女のツイッターで知り動転した。その上、彼女は実際に私の本を手に取り、ツイートしてくれたのだ!
わたしは自分でも知らなかった縁が生まれていたのを感じる。もし十歳の少年に、彼が「ファンタシースター」のようなゲームに触発されていつか作家になり、そのゲームのディレクターにツイートされる日が来るといっても信じはしないだろう。わたしは信じられないほど誇らしく、いまでもツイートの一件を思うと胸が熱くなる。
触発されるばかりでなく、大陸を越えて人々を結びつける、それがゲームの力だ。このゲームはもはや幻想(ファンタシー)ではなく、むしろわたしが感謝してやまない一個の現実なのだ。
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