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        モンタナ神経科クリニック

        人がパンになった話

        これは実はモンタナの話ではなく、私が昔南カリフォルニアで内科のインターンをしていたときの話であるが、印象に残った奇妙な経験であるので、ここにでも書き留めたいと思って述べる次第である。

        私が医学部の大学病院の内科インターンであったとき研修を受けたのは、大学のある隣町のリバーサイドという町にあるリバーサイド総合病院、Riverside General Hospitalという古い病院であった。リバーサイドは名前から判断すると大きな川の傍らの町という印象を受けるが、その川というのは夏場は全然水がない枯れ川であった。人口20万程度の都市であって、なんでも日本の仙台市と姉妹都市であると聞いたが、およそ杜の都の仙台とは似ても似つかぬ乾燥して潤いの無い町であった。リバーサイド総合病院の内科の研修はきつく、4日に一度病院の当直があり、その時はおよそ一晩で25人程のありとあらゆる種類の内科疾患の患者が入院し、私はその診察などをさせられた。アメリカの研修医制度は「アメリカ合衆国最後の奴隷制度」という陰口が叩かれるほど大変なものであり、インターンは当直になると48時間起きて働き続けていなければならなくなるようなことも稀ではない。まして医学生となるとその奴隷の子分で散々にいい様に使役されるものである。

        私がその患者を見たのは、自分の当直明けの次の日の昼下がりであった。私は自分の入院患者の仕事を終えて、一応一段落ついていた。翌日の入院を担当する別チームの同僚のインターンがこれから24時間の入院患者が来るのを落ち着かなそうに待っていた。その時、救急医療室から電話が入り、当直のインターンは直ちに下りて来いという指示があった。重態の急患が入ったので直ちに病院の内科集中治療室に入院させろという担当医師の「命令」であった。 まもなく私はその同僚が患者を担架に載せて3階の内科集中治療室に運んできたのを見たのだが、その状況は明らかに異常なものであった。患者は40歳くらいの男性であっ たが、意識不明の昏睡状態であり、体の皮膚が高温の湯でゆでられたように全身が真っ赤であった。しかもその皮膚はすべてに渡ってパンパンに腫れ上がっていて、外から採血のために血管を触知する事は出来なかった。同僚のベトナム人のインターンが私に 「動脈が触知することが出来ないから採血も出来ない。おまえ、ちょっと助けてくれないか」と言った。自分の昨夜からの20人以上の患者をようやく見終わって、疲労困敗しているのに何たる事だと思った。しかし友達だからというので血管を探すのを手伝ってやったが、指で腕や脚の皮膚を思い切り押しても皮膚が腫れていて最大限の張力(テンション)がかかっており、まるで固作りのボーンレスハムを指で押しているかのようだった。我々はもちろんこんな患者を今まで見たこともなかった。私とベトナム人のインターンは顔を見合わせて、「こりゃ一体何なんだ」と言い合った。

        この患者は実は大学病院と同じ系列のキリスト教団体の小学校の教師であり、彼の妻によると、その日の朝は何の悪いところがあるとも見られず、つい午前中までは普段通りの生活をしていたのが、お昼頃から突然体中がふくれだし、真っ赤になって倒れたというのであった。同僚のインターン医師は全く原因が見当もつかず、ただ当惑するばかりであった。私は、彼に、「しっかりやってくれよ。Good Luck!」 と言い残して家に帰った。 次の日また病院の朝の回診に行ってみると、その同僚の医師は昏睡を続ける真っ赤にはれ上がった小学校教師の傍らに立って未だに頭を抱えていた。何かの感染症であるような気がするが、採血が出来ないので血液培養も出来なかったという。全身の皮膚の怒張はそれほどひどかった。ついに最後の手段だというので、腰椎刺針に使う3インチの長針に注射筒をつけておよその目算で大腿静脈から採血をした。大腿静脈からの採血は簡単なのではじめからそうすればよかったのにと私は思った。

        そうこうしてバタバタしていると、またこの男性患者の家族とか同僚とか教会関係者などが駆け付けて来て安否を問い合わせたり、余分な情報を落として行った。その中からわかったことは実はこの教会小学校教師はホモセクシャルであって、実際にそういう性行為を行なっていたが、妻は実はそれを知っていたが、何を言っても仕方がないと思ってそのままに放置していたのだと言った。それを聞いた同僚インターン医師は、当時アメリカで爆発的に流行り始めていた究極の性病、AIDSの事が頭に閃いた。そして、「まさかこの患者はエイズではないだろうな」と考えると手が震え始めた。当時はまだエイズに関してまだ知識が多くなかった時代だったので、病院職員もエイズの感染に対しては極めて神経過敏になっていて、私もエイズ患者から採血する時には手袋や防菌ガウンを何重にも重ね着してマスクとヘルメットをかぶり化学消防士のようないでたちになってからさせられたものだ。今だったら笑われそうな話である。しかし、この時の彼は大真面目に恐怖だったのだ。それにしても、単に患者がエイズになったからといって、そんなに急に意識を失ったり、真っ赤にはれあがったりするものだろうか?そんなの聞いた事がないぞ、と彼は心の中で言い続けていた。

        再び患者の妻がやって来たとき、彼は、また付帯情報を集めるために、いくつかの臨床的質問をしたが、それは「食欲はあったか」とか「睡眠は普通だったか」というようなありきたりの質問ばかりであった。彼もこの時は一体どんな質問をしていいのかわからなかった。その時、彼はなにも考えずに 「彼は最後のランチに何を食べましたか」と尋ねた。男の妻は、しばらくボーッと考えているようにしていて、ふと思い出したようにして、こう答えた。

          「あー、そういえばですね。彼は生焼けのイーストパンを食べました」

        このベトナム人のインターンはその答えにはっとなり、思わず体中に電撃のような戦慄が走った。

          「まっ、まさか! 奴はパンになってしまったんだあああああっ」

        果たしてこの男はその翌日に最善のケアの甲斐もなく絶命した。それからすぐに病理解剖が執行された。そこでみんなが見たものは、なんと体中の筋肉、内臓、脳神経などのありとあらゆる所が炎症と一緒にプツプツと泡粒のような気泡が満ち溢れていた。それは本当にパンのように見えた。そして、事実組織の顕微鏡所見は「イースト菌の繁殖」 だった。ご存知のようにエイズの感染症になると体の免疫性が低下し、本来感染症にもならないような菌やカビの種類の微生物でも人体に感染するようになる。しかし、この経験は私の知る限り、パンのイースト菌が人体を文字通りパンに変えて死に至らせた世界最初のケースだったのではないかと思う。

        この小学校の教師は、実は、学校では父兄からの信任が厚く、立派なクリスチャンの模範のような先生で通っていたと聞いた。アメリカのクリスチャンの集まる組織の内部において「クリスチャンの模範のような」という形容詞ほど無意味なものはない。私はあるつまらない理由で、ある白人(だったか)の父兄の一人に会った。彼女は「こんな素晴らしい立派な人がどうして死んでしまったんでしょう。リバーサイドの病院は何をやっていたのかしらねえ。全然死因もわからないまま、手遅れになってお亡くなりになったそうではありませんか。よほどマヌケなインターンに当たったのかしらねえ。お気の毒に」などと私がインターンであることを知ってか知らぬかしゃあしゃあと言ってのけてくれた。その患者の死に水を執った同僚のベトナム人インターンの名誉のために「べらんめい。あの男はな、実はホモセクシャルであることで神の罰を受けてパンになってしまったんだわい」とでも言いたくなるのをぐっとこらえた私であった。それも今では12年以上も前の話になってしまったから、時効が来ただろうと思い、こうして物語の一部として記念に珍らかな話として書き残しておく次第である。


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