8月15日は
終戦記念日ですね。

終戦史―なぜ決断できなかったのか

終戦の昭和天皇 ボナー・フェラーズが愛した日本
太平洋戦争・
第二次世界大戦と聞いて連想する事柄は人によって違うとは思いますが…。

太平洋戦争の歴史 (講談社学術文庫)

世紀の大戦 激動の記録 第二次世界大戦 I オーストラリア併合〜ブリテンの戦い [IVCF-2556]
私が一番に思い浮かぶのは、
東京大空襲と

東京がもえた夜―アニメ東京大空襲 (世界・平和の絵本シリーズ (10))

15歳の東京大空襲 (ちくまプリマー新書)
甲府空襲です。

山梨県史―通史編6 近現代2
私の祖父は、当時少なくとも15歳以上で、電車を使って都内の学校へ通っていました。
祖父の伯父が軍上層部の人間であったために、前線へ赴くことは無かったそうです。
祖父は私が1歳の頃に無くなっているので、父を通して聞いた話ではありますが、実際の戦争関連の実体験としては、馬に乗って都内(多分)を行進した程度だったようです。
1945(昭和二十)年1月27日。
アメリカ軍による「
エンキンドル3号作戦」が決行されました。
当初は
中島飛行機武蔵製作所を狙った作戦で、
76機のB29が出撃したそうです。
そのうちの56機が
銀座・有楽町へ目標を変更したとされていますが、100機ほど現れた、という記述も残っています。
午後2時。
銀座から有楽町にかけて爆弾が降り注ぎました。
使用されたのは
250キロ弾だそうです。
祖父がいた有楽町駅では、
中央口出札所で切符を購入するために並んでいた列に着弾し、約90人が亡くなりました。
何メートルも先へ転がる頭部、靴を履いた足首、上半身だけの遺体、壁に張り付いたまま亡くなっている女性…。
祖父は、今も残る
煉瓦造りの高架下へ逃げ込み、生き残りました。
多くの民間人が亡くなり、生き残った多くの人へ強い衝撃を与えた空襲だったようです。
「次は皇居じゃないか」
「そしたらおしまいだ」
などという話が囁かれていたそうです。
銀座では火災が鳩居堂へと広がり、商品の香が燃え、その香りが街を漂っていたという記録があります。
私の母方の祖父母は共に山梨の出身です。
祖父は大きな農家の息子でしたが、身体が悪く、徴兵されなかったようです。
祖母は甲府にあった問屋の娘でした。
女学校を出ていたので、一時期、教師をしていたそうです。
戦中は男手が出払っていたので配達を手伝っていたらしく、
「自転車に大きな荷物を乗せて、それを乗りこなすのが難しかったんだよ!」
と力説してくれたのを覚えています。
一度、空襲にあった時のことを話してくれました。
家財道具やらを持ち、みんなで防空壕へ逃げ込んだ。
気付いたら、隣を走って逃げていた人がどこにもいなかった。
その話を聞いた印象が強くて、この時期はよく思い出します。
祖母の家族は、この後、東京へ移り住んだそうです。
祖母は甲州弁が強く、「〜ずら」「〜け」とよく言っていましたね。

侵略か、解放か! ? 世界は「太平洋戦争」とどう向き合ったか
私は、アメリカの正義が理解できない。
大っ嫌い。